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生熟(なまな)れ (四) ー創世歴 302年 新越国 秋分ー

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  「こりゃぁ確かにキツイの」

  肩で息をし、アザミは急斜面に生える若木に背を預けた。目の前には今しがた己が滑り落ちた跡が、枯葉の中にまざまざと見える。

  上方に見える尾根。細く入り組んだ[[rb:分岐 > わけ]]。山そのものが己を拒んでいるようにすら感じる。

  アザミは若木の上で暫し目を閉じた。

  昨日郷に戻ったタカハヤたちには相当な疲労がみえた。コモタチの山は急峻で、分岐が多い。獣を追うどころか、歩くだけで精一杯だと。珍しくタカハヤは弱音を見せた。それでも郷の為にと、今日も皆で山へ出ていった。

  女達はサルナシを漬け込むと言うので、アザミはタカハヤに遅れ一人山へ入ったのである。

  「イサは勘がえぇ言うとったな。アレならこの山をいくのも容易いじゃろか……」

  イサの姿が頭に浮かぶ。キリとした氷の双眸。峻険なコモタチの山々。二つが重なる。

  「コモタチノ、イサ……」

  「なんじゃ」

  「んおっ!?」

  思いがけない返事に、飛び起きる。

  「っイサ!? ヌシぁなんぞココに……っと、わっ」

  若木から滑り落ち、咄嗟にしがみつく。頭上のイサはむすりと眉をしかめ、こちらを見下ろしていた。

  「今日は調子がええと表に出たら、ヌシが一人で山行きよったちゅうてアサが呼びに来た」

  鼻面をイサが覗き込む。

  「ニコシのヒメさんはアホらしいの」

  「あぁ? んじゃと!!」

  カッと声を荒らげ木によじのぼると、威圧するようにどっと座り直す。イサはアザミの落ちた跡へこれみよがしに顎をしゃくった。

  「コモタチの山は甘くねぇ。ろくに知らんもんが、歩けるかよ。みろ、ええ様じゃ」

  はっと乾いた笑い声をあげる。

  「……じゃから言うて、皆がやつれてゆくのをただ見とる訳にゆかんじゃろうが!!」

  アザミは咆哮すると、イサの細々とした身体に目を遣った。

  「ヌシこそ、えぇ身の上と[[rb:違 > ちゃ]]うか。いらん世話を女が焼く、言うとったの。ヌシぁ、何もせんで寝とっても暮らしてゆける。郷の事なぞおかまいなしじゃろが」

  「アンタが何知っとるっちゅうんじゃ!!」

  怒気を孕んだ声。突きつけられた顔に、激しい憤りが浮かんだ。

  「……望んでも叶わん」

  「あ?」

  声を静めて、イサは顔を離した。

  「兄さのように丈夫な身体であったら。せめて病なぞなければ……なんぼ望んでも、ワシにゃ叶わんのじゃ」

  岩棚の穴屋のように、イサの顔はどこか寂しげだ。

  「ヌシに今、丈夫な体があったら、ヌシは何をする?」

  アザミは尋ねた。

  イサは己の手に目を落とす。細い指が固く握られた。

  「獣の一つでも捕って、郷の者に食わしてやりたい」

  再びこちらを向いた目は、静かな光を放っている。それは決して上辺だけの気持ちでないのだと、アザミは感じた。

  「なら、ワシをヌシの腕にせぇ」

  弓を掲げた。

  「ヌシはワシの目ぇに、足になれ。ワシをコモタチの山神の元へ連れていけ」

  イサに郷を救う気があるなら…。

  アザミは訴えるように、イサを見る。イサはまじまじと弓を眺めた。

  「ヌシは女じゃろ。その弓使えんのか?」

  「は。飾りと思たか。ワシの腕は大したもんじゃぞ」

  「己で言うかよ」

  肩をすくめイサは言う。

  「大口と思うな。ホンマじゃ」

  アザミが片笑みを浮かべてみせると、ようやくイサは頬を緩めた。

  「こっちじゃ……アザミヒメ」

  イサは踵を返し、尾根道を歩き出す。

  「ヒメは……いらんぞ」

  アザミは前を行く小柄な背に、声を掛けた

  イサは一つの分岐を過ぎると、尾根道から外れた。既にアザミは郷の方向が定かでない。イサだけが頼りだ。

  狩猟民であるヒマ族のハリは、獲物の姿が目に映る、とよく言った。彼らには既にそこに無いものの影をも追えるのだと言う。アザミに、その影が見えたことはない。今ももちろん見えない。だが、ヌタ、樹皮をはいだ跡。イサの往く道に、鹿の痕跡がある。イサは確かに追っていると感じた。

  足取りも軽かった。イサの往く跡は、わずかな起伏が足を包むように感じた。閉ざされたコモタチの胸襟が開かれ、懐深くへ招かれるようにアザミはその後を進んだ。

  やがて、イサは足を止めた。目の前に現れた足跡。まだぬかるんで、わずかに水が溜まっている。

  「まだ新しいの…」

  「あぁ」

  アザミは胸元に手をやった。そこには鹿笛が揺れている。

  「イサ、コモタチの鹿も鳴くか?」

  「あぁ、鳴くぞ。ここはワシの地ぃじゃと、鳴く」

  それなら、[[rb:同 > おんな]]しじゃ。

  アザミは鹿笛を咥える。高く三回、アザミは鳴らした。

  ヒィィィーヨー……

  ヒィィーヨー…

  ヒィーヨー

  時を置かず、鹿の鳴き声が返った。

  「近ぇ…」

  アザミは顔をあげる。

  先の尾根一つ。すぐそこで聞こえた気がした。

  空穂から矢を引き抜き番える。息を吐き、引き絞った。

  肩にイサの手が触れた。

  あまつちの にこしのくにの くもきりたつ こもたちに

  あまそそりたかくそびえたる ひとやまに とおつかみよのむかしより

  とことはに しづまりいます かけくもあやにかしこき あまおやまのおおかみの

  うづのおほみひろまへに つつしみ うやまひ かしこみかしこみもまうさく……

  あぁ…祝詞か…

  イサの唱える祝詞がアザミの耳を撫で、温もりと共に身体にじわりと広がる。それは周りの音をかき消し、見えるものを打ち消し、アザミを虚空へと誘った。

  イサの声だけが、アザミの中に響いている。

  あしきこと とがたたり あらぬよう はらひたまひ

  きよめたまふよしを やをよろづのかみたち もろともに きこしめせと まをす ―

  イサの声が消え、手が離れる。アザミの手から矢が放たれた。

  ピィーィィ…

  一声、先から響いた。

  「入った…」

  疑いもなく、アザミは呟いた。

  アザミとイサは尾根を伝い、道を進んだ。音も気配もない。だが、理由もなく。しかし確かに、そこに在ると感じていた。

  白い腹毛が茂みから覗いた。胸に矢を受けた、一頭の大きな牡鹿が横たわっていた。

  「立派じゃな…」

  「あぁ、アマオヤマの。この辺りの主じゃ」

  顔をあげたイサがふっと頬を緩める。

  「確かに。大した腕じゃの、アザミ」

  イサが初めて見せた微笑みだった。

  「ほうじゃろ」

  アザミは笑って答えた。

  「皆はミヤマを頼りにしてぇようじゃが、ワシはちと[[rb:違 > ちご]]うて見えんのじゃ」

  河原で牡鹿を洗いながら、イサは呟くように言った。アザミも似た思いがある。小さく頷き、イサの横顔を見つめた。

  「兄さらは、ワシが外へ出てねぇから知らんのじゃと言う。ミヤマの技は郷を豊かにする。皆が楽に暮らせるようにするんじゃと。じゃが、兄さらが出て行った郷はどうじゃ。山は荒れ、獣が寄り付き、皆は先を憂えながら細々と暮らしとる。何の見返りもねぇ…」

  洗い終えた牡鹿を木に吊るす。アザミは腹に刃を差し込み、腹をゆっくりと裂いた。

  「ミヤマはワシらの鼻先に餌を吊るして、若者を誘いよる。ほんで男手が無うなった郷を、奪い取るつもりと[[rb:違 > ちゃ]]うか…。そう思っとったら、婿の話じゃ。ニコシの家はミヤマの手先じゃ。いよいよ郷を盗りに来たと…」

  「そげんじゃねぇ‼ ワシはそげな事…」

  アザミはイサの目を見据えた。幾分か和らいだイサの目が、アザミの言葉を待っている。

  「ワシも、思う。ミヤマはニコシの形を変えよる。あいつらにゃ[[rb:神 > カミ]]がおらん。樹も水も土も、そこで生きとるもんも、ただ在るだけじゃ思うとる。じゃけん樹を伐り、地を焼く。ワシらが[[rb:遠祖 > とおつおや]]から護り繋いだもんを切ってしまいよる。…父さは[[rb:臆病者 > おんびんたれ]]じゃ。声を上げられん…。ワシぁ[[rb:腹 > は]]が[[rb:立つ > ええ]]ばかりじゃ」

  「ほうか…」

  イサがアザミの開いた牡鹿の腹に、手を差しれた。丁寧に取り出した臓物から湯気が上がる。アザミは横で受け取った。牡鹿の温もりが、イサの温もりと重なった。

  「ヌシの祝詞…」

  言いかけたとき、茂みが大きく揺れた。アザミはとっさに腰に手をやる。山刀が鞘から抜け、鈍く光った。茂みの揺れがぴたりと止まる。

  「おーい、アザミ。手ぇ放せ。勢いで刺されたらたまらんぞ」

  声が響いた。

  「タカハヤか」

  聞き覚えのある声に、ほっと力を緩める。

  ぞろぞろと影が連なって出てきた。ヤマケの者達の顔は朗々としている。アザミはその理由にすぐ気づいた。タカハヤともう一人は、背に雌鹿の姿があったからだ。

  「こりゃ、大猟じゃの」

  アザミは思わずヤマケの男たちの中へ飛び込んだ。

  「おぉ。なんぞ知らんが、急に雌鹿の群れが飛び出して来よってよ」

  「おかげで二つも捕れたわ」

  男たちは鹿を下ろし、喜びに声をあげる。

  「主の連れ合いかもしれんの」

  主を失った雌鹿が恐れて谷を下ったのかもしれない。イサは屈んで、雌鹿の背を撫でた。

  「お…?」

  見慣れぬ男に、タカハヤたちは首を傾げた。

  「タカハヤ、これはイサじゃ」

  面識が無いと見たアザミは、イサを立たせる。イサも小さく頷いた。

  「コモタチノワセの子、イサじゃ」

  「おぉ。兄さは見たことあるが、弟は初めてじゃの。ワシぁヤマケノタカハヤじゃ。長シナキの甥で、アザミの従兄になる」

  タカハヤはイサの肩を固く抱き、ヤマケの男たちに入れた。

  「しっかし、さすがアザミさまじゃの。立派な牡鹿じゃ」

  吊るされた牡鹿を見ながら、男たちはアザミの腕を讃えた。

  「いや、こりゃぁの…」

  コモタチの山神が授けたものだと、アザミは感じていた。

  あの時、イサの祝詞が身体を巡り、アザミに矢を放たせた。姿の見えぬ牡鹿に矢が立ったのは、イサの、コモタチのアマオヤマノオオカミのおかげだろうと。

  「アザミさまの腕は大したもんじゃ。兄さでも仕留められたかわからん」

  「じゃ、そりゃ違うと…ヌシの祝詞が山神さまに届いたけん…」

  「ふたりして褒めおうて、仲のえぇこんじゃ」

  「ほんまじゃの」

  イサが褒め、アザミが謙遜する。皆が笑った。

  「はて、いつからえぇ仲じゃった?」

  「じゃけん、そがな…訳じゃなか…」

  タカハヤの耳打ちにアザミは頬から耳まで赤く染めた。

  鹿を持ち帰ると、コモタチの郷は喜びに沸いた。三頭の鹿は冬の備えにと切り分けられた。

  翌日からイサはタカハヤらと山へ立ち、アザミは女や子らと共に冬支度を始めた。女は切り分けられた肉を深く掘った穴に干し、下から煙で燻る。小さな子らは火の番や、肉を返す手伝いを。少し大きな子らには、アザミが皮のなめし方を教えた。

  数日掛け、よく皮を揉み、板に延ばして張る。風通しの良い日陰に置いて乾かせば、冬が訪れる前には使えるようになるだろう。

  「手ぇごわごわじゃぁ」

  「しばらく毛皮は見たくねぇのぉ」

  交代とは言え、一日に何度も皮を揉み続けた子らは、やっと作業から解放されへとへとと地に転がった。子らを労いながら、アザミも一息ついた。

  空を覆う木々が黄金色から赤く変わり始めている。それは冬の訪れと、コモタチとの別れを囁くようで、アザミは知らずとため息をついていた。

  「アザミ…。ちと、えぇか」

  「んぁっ…あっ、おぉ‼ ええぞ…」

  気配もなく掛かった声に、アザミはびくりと体を震わせた。後ろには小さく肩を震わせ、イサが立っていた。「おぉ、あいびきじゃ」と騒ぐ子らをあしらい、イサはアザミを郷の裏山へ誘った。一つ尾根を登ると、そこには天を突くようにそびえる一つの峰があった。

  「アマオヤマ言うたな」

  アザミは頭上から差す日差しを手で遮り、峰を仰ぎ見た。

  郷を見守るようにそびえるその峰は、上の方はすでに葉が落ち始めているようで、幹が露出し、くすんだ色をしていた。こちらの山の葉が落ちるころには、その峰は白く覆われるのだろう。

  冬が、もう来とるわ…。

  胸がしくりと痛んだ。

  「雪化粧するとまた、美しいもんじゃ」

  心を読んだように、イサが言う。

  「……」

  イサが何かを伝えようとしている。アザミは感じながらも、耳を塞いで立ち去りたい衝動にかられていた。

  「上納用の酒ができたとよ」

  「…ほうか」

  アザミは峰を向いたまま答えた。

  「ヌシの務めも終わりじゃけん…」

  イサの言葉が胸を刺す。

  「…ほうじゃね」

  「礼を、言わんとと思うてよ。郷を盗るなどと言うてすまんの。ワシの、思い違いじゃ。ニコシの家はコモタチを救うてくれた…」

  「礼なぞ…。コモタチは[[rb:同 > おんな]]し[[rb:遠祖 > とおつおや]]からなる[[rb:兄弟 > このかみおとと]]じゃろ」

  アザミの胸に婿の話がよみがえる。胸が鳴った。アザミはイサを振り返る。

  アザミの目に映るイサに、初めて会った時の氷のような険しさはない。空色の目は秋空のように澄んでいる。アザミもまた、イサという男を受け入れようとしていた。

  「イサ…ワシと」

  [[rb:夫婦 > めおと]]に…。

  口にするのは憚られた。

  [[rb:形 > なり]]は大人でも、男勝りと言われても、アザミはまだ[[rb:生娘 > おとめ]]であった。はしたなしと口をつぐんで、イサを待った。

  イサの影がアザミに落ちる。

  「…っ」

  イサの唇がアザミの頬に柔らかく触れた。狩りの時に感じた温もりとは違う。芯に熱を含んでいた。

  「イサ…」

  体を離したイサの瞳が揺れた。

  「やめよう…」

  「ぁ?」

  イサの目がアマオヤマに向く。

  「この先は、止められんけん。やめとく」

  「何が…あかんのじゃ」

  本意が知りたい。イサの袖を引いた。

  「ワシはコモタチの男じゃ。この地で生まれ、この地で死ぬ。兄さらはコモタチに帰るかわからん。じゃけんワシが、年寄りも、女も、幼い子らも守りたい。この力の無ぇ身でと笑うかも知らんが、ワシは思っちょんじゃ」

  身が震えた。同じだと、感じた。

  「ワシが…コモタチに。ワシは妹がようけおる。ワシと[[rb:違 > ちご]]うてみなかわいらしい[[rb:女子 > めのこ]]じゃ。婿を探すに困らん。ニコシの長は弟のツキのもんじゃ…じゃけん、ワシがここにおっても…」

  帯に手を掛けた。

  ニコシの、同じ想いを抱く男を迎えたいと、アザミは思った。

  帯が落ち、胸元がはだける。

  [uploadedimage:20289727]

  「ぁ…アザミ。そりゃ[[rb:ニコシの長 > シナキさま]]がなんと言われるか…」

  「なんとでもなる」

  いざとなればこの身一つ。アザミはイサに触れた。

  「…アザミ」

  イサの唇が、アザミと重なった。

  あの時の祝詞のように、熱がアザミの身体を駆けた。

  コツン…

  「ん…っ?」

  頭に小さな粒が当たった。唇を離したアザミの目元を何かが転がり、手に落ちる。緑色の小さな果実、サルナシであった。

  「あぁ、サルナシか」

  「ここにも蔓があった…」

  上を向いたイサの身体がギシリと固まった。

  「イサ?……っ」

  上を向いて、アザミも顔を強張らせる。

  手を伸ばして蔓を手繰り寄せ、実をむしり取る。大きな黒い影が、頭上で揺れた。

  「っ熊かよ…」

  アザミは静かに体を低く身構える。

  「っ、くっ熊じゃ。熊がっ」

  「イサ落ち着け。まだこっち見とらん」

  「はっ…あっ…アザミ」

  短くなる息。アザミはイサの背をさすった。

  「落ち着け、イサ…落ち着け」

  「あぁ…熊じゃぞ、アザミ。…っ落ち着けるか‼」

  イサが声をあげる。

  ガサッ…ガサガサッ…

  こっ…こっこっ…

  枝をゆする音。熊の喉をうならせる音。

  いかん…気づかれた…。

  アザミは腰に手を伸ばす。その手が虚しく空を握った。

  「っ…無ぇ……」

  手を握り締める。

  ワシはなんぞ丸腰で山に入ったんじゃ…。

  いつもならあるはずの、弓も、山刀も無かった。

  こっ、こっ、こっ…

  熊は樹上で声を上げ続けている。

  「イサ、歩けるか?」

  「あっ…あぁ…」

  足をがくがくと揺らしながらイサは立った。傍らにイサの手槍が落ちる。

  「イサ、ワシに槍貸せ」

  「ヌシは…」

  イサはわずかに首を振った。

  「先に行け。タカハヤ呼んで来い」

  「でっ、できるわけなかろうじゃ」

  上擦ったイサの声が、熊を唸らせる。

  「えぇから行け」

  「っ、ヌシを置いて行けるか‼」

  ザザザッ―

  熊が樹を滑り降りる。

  「ひ…ぃっ‼」

  「行け、イサ‼ ワシは慣れとるけん」

  半ば突き飛ばすようにイサを押しやり、手槍を取った。

  「っアザミ…」

  立ち上がったイサが郷へ踵を返す。地が震えた。熊がイサを向く。

  「あぁぁぁぁあぁぁ‼」

  アザミは咆哮をあげた。

  何が慣れとるじゃ。ワシぁ、熊なんぞ初めてじゃろうがよ……。

  「こっちじゃ、こっちじゃぞクソっ」

  手槍を向ける。一度イサを向いた熊が、アザミに向かって駆けた。

  「おぉぉぉっ‼」

  足元の枝を蹴り上げる。熊が怯み立ち上がった。むき出しになった腹を目掛け、槍を突き入れる。

  「がっ…ぁ…⁉」

  瞬間、衝撃が頭を打ち付け、視界が赤く染まる。上も下も分からず、熊の姿だけが目に入った。

  背中に土を感じる。逃げ場は無かった。

  「くそっ…」

  槍を脇に抱えて締める。視界を覆った影に、アザミは穂先を向けた。

  「……ァ…ザミ……アザミ‼」

  遠くから声が聞こえた。

  うっすら目を開けると、人影が目に入る。

  イ…サ…違……。

  隆々とした筋骨、大きな影。亜麻色のうねる髪……。

  [[rb:先代の長 > おじさ]]…。あぁ、迎えに来たか……。

  「すま…伯父さ。ワシ、ニコシの……守れな…」

  「アザミ‼ ワシじゃ、タカハヤじゃ」

  影が苦笑を浮かべた。影は見慣れた顔だった。

  「タカハヤ……いっ…つぅ」

  頭に激痛がはしった。

  「ヌシはホンマたいした[[rb:女子 > めのこ]]じゃ…。」

  「ほうじゃ…熊…熊が」

  まだくらくらと定まらぬ視線を泳がせ、アザミは周りを見回した。

  「ヌシの上で死んどったわ。まさか熊一人で殺るもんがおるとはよ」

  「…ほうか」

  タカハヤが背を支えゆっくりと体を起こすと、そのままタカハヤに背負われた。

  「ようやった、アザミ。もう休んどけ。心配いらんぞ」

  アザミはタカハヤの大きな背に身を預けた。

  「ほうじゃ、イサ…イサは無事か?」

  「は…こんな時まで人の心配とはの。無事じゃぞ」

  呆れるような声をタカハヤがあげた。

  「ほうか。良かった…」

  アザミは一言呟き、目を閉じる。

  「傷、ひとつねぇわ……」

  低く呟いたタカハヤの声は、アザミには聞こえなかった。

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