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生熟(なまな)れ (五) ー創世歴 302年 新越国 秋分ー

  「薄暗ぇの……」

  うっすらと目を開けた。

  高くない梁。草葺き屋根。ひんやりと冷えた空気。薪のはぜる音。

  次第に感覚がハッキリとしていく。

  ほうじゃ。ワシ熊と……

  「アザミさま!!」

  起こした身体に、幼女の声が飛びつく。応える前に、甕が差し出された。中身は空である。

  「おい、こりゃなんじゃ。アサ」

  「なんじゃて……。アザミさま戻られてからずっと、寝とるか、起きたら吐くか繰り返しとるけん」

  「ワシが?」

  「ほうじゃ?」

  アサはじっと見上げながら、甕を捧げている。

  はて……いつからそうなのか。

  アザミはさっぱりと思い出せなかった。

  「ずっとっちゃぁ、どれくらいじゃ」

  言うと、アサはぶつぶつと呟きながら指を折る。一度手を握りしめたあと、ぱっと開いて見せた。

  「五日じゃ」

  「五日!? そりゃ、迷惑かけたの」

  「ええよぅ」

  アサはようやく甕をさげ、はにかんだ。

  「熊に頭やられたんじゃ。よう生きとると皆驚いとったよ」

  アサに顔を拭かれ、額から頬がしくりと痛んだ。アサの持つ布には血が滲んでいる。

  「顔にも傷がついてもうたの」

  「ほうか……」

  アサが丹念に顔を拭いている間、アザミはぼんやりとそれを眺めていた。タカハヤに背負われた所まではわかる。ただそれ以降はどうにも思い出せない。

  ダメじゃ、わからん。

  アザミは諦めて、息をついた。

  「ほいじゃぁの。そこに粥盛ってあるし、食べられそうだったら食べての。気持悪けりゃこっちじゃ」

  先程の甕を差し出す。そうしてアサは、また来ると言って出ていった。穴屋から見える木々はすっかりと赤くなっている。時が過ぎたのだけはわかった。

  アザミはのそりと外へ出る。体が少しぐらついた。

  「力、入らんの……」

  こころなし、己の手が細く見えた。

  肉が落ちとる。

  思ったが、不思議と食欲は無い。身体をゆっくり空へ伸ばした。岩棚の穴屋が映る。

  「イサ、どうしたじゃろか……」

  アザミはイサの穴屋へと足を向けた。

  岩棚へ続く道から、アザミは郷を見下ろす。

  子らが熊の毛皮を囲んでいた。アザミがおらずとも、子らは手仕事に勤しんでいる。失敗しても良いのだ。それがいつか実を結ぶのだから。

  己の施しが成熟していく様を、アザミは悦んだ。

  女達は果実を吊るしたり、莚に並べて干している。山間に見える一筋の煙は炭焼きの煙だろう。郷に姿の見えぬ年寄りらは、交代で火の番をしているのかもしれない。

  日が高くあっても、もう温かさは感じない。上衣の襟を手繰り寄せた。

  イサの穴屋は変わらず閑静としている。

  タカハヤは無事だと言ったが、身体を壊してはいないだろうか。存外元気で、郷の者と外に出ているかもしれない。

  アザミは入口の莚をそっと上げた。

  熾が赤々と燃える炉の横に、人ほどの塊が見える。横たわるイサの背だ。アザミは穴屋に入り、炉に薪を足した。

  カラン……

  「っ!!」

  薪の乾いた音が響いた瞬間、イサが飛び起きる。アザミは顔を上げ息を飲んだ。

  「イサ……その顔どうした」

  暗がりに浮かぶイサの顔は、所々に黒ずんでいる。顔だけでは無い。手にも、足にも痣が浮かんでいた。

  あちらこちらについた痣は自然のものとは思えない。

  「誰に……やられた」

  手を差し出す。

  「っ……関係ねぇじゃろ!!」

  イサは勢いよく弾いた。

  「ねぇ訳ねぇじゃろが!!タカハヤか、郷の者か!? ワシが……」

  「えぇんじゃ!! 」

  イサの声が遮る。

  「そんなん、ええんじゃ。……ワシはよ。此度の事でほとほと己の身を思い知った」

  イサは項垂れ、肩を小さく震わせた。アザミは横に腰を下ろし、イサの横顔を見つめる。

  「[[rb:アンタ > ・・・]]は、ワシが郷でどう呼ばれとるか知っとるか?」

  瞳に光を映しながら、イサはポツリと呟いた。

  「花……。見とるだけで気ぃがようなると……」

  「そりゃ表向きじゃの」

  暗い目がアザミを捉えた。

  「木は、道具になる。木の実は食える。草は編んで莚にしてもええし、叩いて織れば布にもなる。花は?……みてくれだけの役立たずじゃ」

  「誰もそがなこと……」

  「アンタが知らんだけじゃ」

  イサが嗤った。

  「ワシぁの、見えてもうたんじゃ。アンタと添うた先がよ」

  「添うた、先?」

  鎮まっていた火が再び熾ったように、アザミの身体は熱を帯びる。

  「[[rb:英雄 > サイカチ]]の血を引く[[rb:女 > むすめ]]。情が厚く、豪胆。皆がニコシの長と認めるじゃろよ。それで、夫は……? 花。花じゃ。ただの役立たずのよ」

  「ヌシぁ皆を、郷を思っとったじゃろ」

  「口だけなら誰でも言えんのじゃ。じゃが口ばかり達者では……」

  「そがな事、ワシが言わせん」

  アザミの声が響く。

  「それじゃ、それ」

  イサが乾いた笑い声をあげた。

  「女に庇われ、守られて……こんな惨めなこんねぇの」

  イサの目は出会った時のそれであった。息が詰まった。水の中にいるかのように、息が詰まった。

  「言わねばわからんか?」

  イサの顔が迫る。垂氷のような目が、アザミを刺した。

  「アンタの横じゃ、ワシの男は立たんのじゃ」

  「イサ……」

  抗うように、首を振る。

  「アンタはワシにとって女じゃねぇ。……アンタはニコシの」

  「もうえぇ」

  アザミは立った。

  「も……ええよ」

  父には何度も言われた。「女らしく」ただの一度も、響いた事は無かった。皆の助けになれば、どのような形でもいいと思っていた。それが男を苛むなど思ってもみなかった。

  イサの言葉が、胸を抉るように刺さる。

  アザミは穴屋を出た。

  額のキズがピリと引きつり、頬を伝って血が落ちる。つい今しがた輝いていた郷の姿が、急に掠れて見えた。

  「ワシは……助けてやっただけじゃろが。ワシが逃げりゃ良かったか?ヌシが死ねば良かったか?……誇りも意地も、生きてなんぼじゃろうがよ……」

  歯を食い縛った。折れるほど食い縛っても、涙は止まらなかった。

  「ほんに世話になった」

  コモタチの長がアザミの手を取る。深く刻まれたシワの奥に、涙が滲んでいた。

  「ワシらは[[rb:同 > おんな]]しニコシの者じゃ。助け合うのは当たり前じゃろ」

  長の手を握ると、あちこちからすすり泣くような声が上がる。

  「アザミさまぁ……」

  アサが大粒の涙を零した。

  「また。また来るか?」

  小さく震える手が、アザミの膝にすがる。

  「……」

  イサとの話は立ち消えた。これからもコモタチに助けはいるかもしれぬが、アザミが出向く必要はない。そもそも、気が乗らないのだ。イサを思うと、胸が掴まれるように痛む。

  このいじらしい娘に何か声をと思いながら、アザミの口に言葉はあがってこない。震える口を結ぶ。

  「アサよ、今際の際のような顔するな。それではアザミが離れられんわ」

  タカハヤの軽口が、突と皆の笑いを誘った。

  「ほいじゃが…」

  まだ何か言いたげなアサを、タカハヤは軽々と抱き上げる。

  「なぁに、コモタチとカヤマは目と鼻の先。その気になればあっちゅう間じゃぞ。のぉ、アザミ」

  そう言い、母の横へアサを降ろす。アザミはなんとか小さく「ほぅじゃね」と呟いた。

  「ほいじゃぁの」

  アザミとタカハヤらは皆に見守られコモタチを立った。

  ヤマケの男達は担ぎ棒に大甕を二つ下げ、揚々と前を行く。ひと仕事終えた彼らの表情は朗々として、足取りも軽い。甕の中は空かと思うほどであった。

  男の中にはコモタチの女と縁づいた者もあると言うから、それもあるのだろう。アザミは彼らの浮き立つ様子を見ながら、ひっそりと後を歩いた。

  「しかし、ありゃとんだ肩透かしじゃの」

  「はぁ、イサか?」

  「いくら熊相手でも、女置いて逃げるかよ。なぁ、アザミさま」

  「イサは……」

  イサはワシが逃した。アザミは言葉を飲み込んだ。頭の中でイサが呟く。「女に庇われ、惨めなこんねぇ……」と。アザミは笑みを浮かべて見せる。

  「ほうじゃな。やはり男は、伯父さみてぇな雄々しい者がええじゃ」

  言うと、皆に笑いが起こった。

  「さすがにサイカチさまみてぇな男は中々おらんわ」

  「クニ中探し尽くさねばならんの」

  話題が他に移ると、アザミはまた後ろを行った。

  しばらくすると目の前が開け、煤けたような色をした原に出た。

  「そのうち収穫じゃな」

  タカハヤが原を見渡して言う。

  出掛けに赤紫の花で見送ったソバが、実りを迎えていた。見れば遠くに人の姿もある。これから収穫を行うのだろう。

  「これほど早ぇなら、種籾でもわけてもらうか」

  「ほうじゃなぁ」

  男たちが話している間に、辻に出ていた。

  「さて、アザミよ。ヌシぁ怪我もしとる。気が乗らねば、ミヤマへの挨拶は次でも構わんが」

  タカハヤは傷心のアザミを気遣うように尋ねる。熊との怪我を言い訳にも使えると、暗に言うようであった。

  その傷が、ズキと痛む。

  郷の姿が浮かんだ。年寄り、女、子。捕れぬ獲物、荒れた山、熊。

  ーミヤマは男手のねぇ郷を奪い取るつもりと違うかー

  イサが呟いた。

  「タカハヤ、ワシはミヤマの長に会わねばならん」

  アザミははっきりと言い、タカハヤは「ほうか」と答えただけだった。

  「変わったの……」

  木を伐り山肌が露出した斜面。周りを取り囲むよう築かれた土塁。中には幾つも高楼が配置されている。かつて住んでいたニコシノサトは、森の中に佇む静閑さを失い、威勢を放つ堅固な砦へと変化していた。

  「海の向こうにある大陸の知恵じゃ言うたな」

  「……ほうか」

  ニコシも砦は築いていた。柵、堀、櫓。しかし、どれを比べても劣る。これだけの物を築くのにどれだけの人と時間がかかるだろうか……。

  コモタチで徴収された若者がこのような労役につく裏で、郷が疲弊していく。そう思うと、怒りさえ沸いた。

  すぐにも乗り込もうと思ったが、一行は宮の一室に通されささやかなもてなしを受けた。豪奢ではないが、彩りよく並べられた膳に、男たちは歓声をあげる。

  これも餌かよ……。

  アザミだけはむすりとして膳を平らげた。

  ミヤマの長に会うのは結局翌日となった。アザミはカヤマノサトを経つとき持って出た羽織を掛け、首飾りを提げ、腕輪も巻いた。

  ワシは今、ニコシの長じゃ。

  技では劣っても、土地を守ってきたという気概がある。よそ者に踏みにじられてたまるかと固く口を結んだ。

  ー あやにかしこき にこしのおおみかみ

  あしきこと とがたたりあらぬよう はらいたまへ

  祝詞を胸で唱え、「ニコシ府」と呼ばれる大宮の室へ入った。

  主のおらぬ室には円座が置かれていた。上座に二つ、下座に二つ。数を見れば、この挨拶は私的なもの、と言うことだろう。

  「‎えぇ言うまで顔は上げるなよ」

  下座に座ったタカハヤが言う。アザミは頷きはしたものの内心不満ではあった。

  ニコシ族はミヤマの奴婢じゃねえんぞ……。

  外から聞こえる足音。アザミは渋々と頭を垂れた。脇を足が二つ通り過ぎる。一つは前へ。もう一つは脇に座った。

  「足労であった」

  脇の者が厳かに声を上げ、タカハヤはうやうやしく応える。それから脇の者は、コモタチの朝貢品を読み上げた。

  「今年も滞りなくチハラへ納めることが出来、コモタチの者にも、ニコシ殿にも感謝する」

  頭上に声が響いた。

  感謝ー

  アザミはピクリと眉を上げた。

  「礼など言われたところで……」

  呟く。

  ガタッー

  視界に、男の足が見えた。

  「娘、なんぞ言うたか」

  低い男の声。壮年を過ぎたかと思う声は、しわがれはすれど威圧的である。アザミはくっと歯を食いしばる。

  「礼なんぞ、クソの足しにもならんっちゅうとんじゃ!!」

  「なっ……殿が直々に申され」

  「じゃけん!! それが何になるっちゅうんじゃ。なんも知らんとこでのうのうと胡座かいて、ようやった?こんな易い礼はねぇの!!」

  「アザミやめろ!!」

  タカハヤの声。同時に、頭を抑えられた。アザミは反発し抗う。

  「辞められるか!! ワシは父さの代わりじゃ。ニコシの長じゃぞ!!」

  遂に顔を上げる。目が合った。[[rb:鈍色 > にびいろ]]の穏やかな目が、アザミを見つめていた。

  「シナキ殿の娘と言ったね。名は」

  脇の男とは違い、険のない声色。柔和な表情。そして痩身。優男と言って差し支えない。

  これが……あのミヤマの長か?

  一瞬にして言葉を失った。軍を率い、クニを攻め落としたミヤマの頭領にしては、随分と心もとない。

  「ニコシヒメ?」

  長は無言のアザミに重ねて尋ねる。

  「……ぁ、アザミじゃ」

  そうか、アザミ……。

  呟くと、アザミの前で膝を折る。生成りの糸のような髪が肩へさらりと零れた。

  「アザミヒメ。このキズはどうした事だ」

  「熊……に」

  想像していた姿との差があまりに大きく、アザミは拳を下ろせずうろたえた。

  「それは恐ろしかったであろうね」

  「や、必死で……恐ろしいとかは……」

  実の父にすら、これほど心配された事はない。アザミはあうあうとうわずる

  「アザミはニコシでも剛の者。一人打ち倒しよりました」

  言葉を紡げないアザミの代わりに、タカハヤが答えた。

  「剛毅であるな」

  誰ぞを思い出す。呟きながら、長はアザミの元を離れると、円座に座り直した。

  「そなたが怒っているのは、その傷と関わりがあるか」

  「ほ、ほうじゃ」

  知らずと身を正したアザミは、両の拳を床につけた。

  「コモタチは若衆を労役に取られ、郷を守る者がおらん。今すぐこれらを戻してもらいてぇんじゃ」

  コモタチの困窮を救いたい。アザミは頭を垂れる。

  「……それは、出来かねる」

  長の答えが無情に響いた。

  「あ?」

  同情して見せただけか。民を想う心は無いのか。

  アザミはキッと顔を上げる。脇の男が咳払いをした。

  「こちらは人数を指定しているだけ。若衆のみを外へ出し、郷に残さなかったのはコモタチの落ち度ではないか。それを今更になって手が足りんと言うてもな」

  「ほいじゃぁ年寄りを出せばええか?」

  「約立たずなど出されても困る」

  男は苦虫を噛み潰したような顔で、髭をさする。一度は落ち着いたアザミの怒りが、ふつふつと沸き立った

  「だいたいがよ、郷に年寄りと若衆しかおらんのはっ……」

  「待て、アザミ。それは……」

  心中を察したか、タカハヤが強く肘を引いた。

  「いや、言わしてもらう。言わねばならん」

  手を振り払い、長と正眼した。長は真っ直ぐとアザミを見つめ、男は眉根を寄せた。

  「郷に壮年の者がおらんのは」

  アザミは一度息を飲む。長は目を閉じ、おもむろに口を開いた。

  「我々が殺したから……と」

  「……」

  先の戦によって、コモタチの男は失われていた。コモタチもまた、犠牲を払った郷の一つだ。しかし、厳かに、長は告げた。

  「だとしても、それを呑む訳にはいかないのだ」

  「ヌシぁ話聞くだけか? ヌシらの都合で郷の者は死ね言うか!!」

  アザミの罵声が飛ぶ。男の怒声が遮った。

  「娘、聞き捨てならんぞ!!」

  「ならん言うならどうする。脅されようがワシぁ黙らんぞ!!間違うとる思う事は、間違うとる言わねばならん!!」

  「何が間違いだ。殿が成さんとされとる事を、お前はどれだけ知ってると言うのだ。小娘が知った口ききおるわ」

  「知らされとらんのに、知るわけがなかろうが!!」

  男が怒鳴れば、アザミは負けじと応酬する。傍から見れば、親子喧嘩のようにつばきを飛ばす二人に、一つ水が差された。

  「やめよ、ヒラセ。お前の声は通り過ぎる。聞こえるものも聞こえぬわ」

  首を傾げた長が、コバエを払うように手を振った。

  「殿、しかし……」

  邪険にされた[[rb:男 > ヒラセ]]は、肩を落とし主を仰ぎ見る。不意に長が拳を口に当て笑みを零した。

  「間違いは間違いと言わねばならぬ……か」

  「ほうじゃろよ。何がおかしいんじゃ!!」

  制止するタカハヤを振り払いながら、アザミはいまだに声を荒らげている。

  「なに。同じ事を言うものが、私の近くにもあってね」

  「そら、見どころあるぞ。ようしてやれ、大器になるわ」

  はっと声を上げると、長はまた楽しげに笑った。

  「そうなるよう、私も願っている。いや、私の子でね。八つになる」

  「やっ……つ……」

  なんじゃ、子どもと[[rb:同 > おんな]]しじゃ言うとんのか……。

  今度はアザミが肩を落とし、顔を赤らめた。

  「さて。理由もなしで呑み込め、と言うのも無理からぬ話だ」

  長は笑いを収めた。

  「アザミヒメはイノセの川を知っているか」

  「南の方の……」

  ニコシには二つの大きな河川がある。一つはウカミノクニを源流にもち、西に抜けるアメノタマミズ川。もう一つは東のヤマセノクニから南へ抜けるイノセ川である。イノセ川の方が急流で、大きくたわむ地域で氾濫が起きやすい暴れ川だ。

  「今イノセの川に、分水路を造っている。冬に掛かれば過酷であるし、春まで持ち越せば雪解けで増水し、困難だ。コモタチの若衆は良くやってくれている。今その手を止めたくない。それに他の郷の手前、一つを特別扱いも出来ぬ」

  「……」

  口を開きかけたアザミを、長の手がそっと制した。

  「とは言え、郷の困窮もわかる。そこで、派兵する。というのはどうであろうか。家中にオブカイという軍務を担う家がある。時々に徴発される兵ではなく、私兵を有している。これを当ててみてはどうであろうか。ニコシの益荒男と並べても決して引けはとらぬ」

  長が提案すると、ヒラセはやや首を傾けた。オブカイの兵とは手が厚過ぎではありませんか。と小さな声で呟く。

  アザミはかつて見たミヤマの兵を思い描いた。

  不気味にいななく異国の[[rb:馬 > ケモノ]]。[[rb:鉄 > かね]]の甲冑を鳴らし居並ぶ兵。郷に横たわる族人の遺体……。

  背筋がぞくりと震えた。

  「ダメじゃ。兵では皆が恐れる」

  「狼藉なきよう厳命する」

  重ねて言う長に、アザミは首を振った。

  何もせぬと言われても、どれほど信じられようか。ミヤマがどれだけクニに尽くそうと、ニコシの仇である事に変わりは無い。

  アザミはコモタチで見ていた。誰かあったであろう空席に盛られる膳を。ひもじくとも、離れて暮らす家族を想う姿がそこにはあった。

  「せめて他人とはいえ、郷の者と同じく暮らす者が必要と、ワシは思う」

  アザミの言葉に長は唸る。

  「コモタチと縁づいた者はどうじゃろか。その者らと、近くの郷から幾らか集ってみては……」

  タカハヤが言い、ヒラセが険しく眉を寄せた。

  「コモタチに近くの郷など無いだろう」

  「は。二山ほど離れますが、オオサコの辺りから……」

  「オオサコはならん」

  ヒラセが急に床を打ち付けた。

  オオサコ近くの街道で賊が出没し、度々官吏が襲われる。ニコシ族の郷に被害が無い事が訝しいとヒラセは言った

  「オオサコには背反が窺える。そのような者を別の郷へなど、叛乱の種を撒くようなものでは無いか」

  タカハヤの顔に陰が差す。

  「お言葉じゃが、ヒラセさま。ワシらはこの五年、諾々とミヤマさまにお仕えしてきた。言葉にせんが、身を切るような事もある」

  すっと見据えた目に、力が宿る。

  「ミヤマがワシらに疑いありと目を向けりゃぁ、これまでの想いは報われん。熾きぬはずの火ぃが、熾こるとも限らん」

  タカハヤの訴えにヒラセは冷徹な眼差しを向けた。

  「若造が脅しのつもりか」

  為政者たる貫禄が、タカハヤを抑える。空気が凍てつき、ともすれば刃のように斬り裂くかと思われた。

  「ヒラセ、お前は何でも喧嘩腰でいけないね」

  破ったのは静穏な長の声だった。

  「喧嘩腰など、そんな暢気なものでは……」

  ヒラセが眉根を寄せると、長は軽く手を挙げた。柔和に見えるが、眼差しは凛としている。

  「人を信じようとせぬ者が、人から信じられようか。タカハヤの言は道理であろう」

  人を信じぬものが……

  アザミは長の言葉を内で繰り返す。外見からは全く強さを感じさせない男から紡がれる言葉が、妙に体に染み渡る。

  「タカハヤと二人で話がしたい。引いてくれるか?よもや私を質に、タカハヤが事に出るなどあるまいよ」

  長はタカハヤとヒラセを交互に見る。ヒラセは小さく息をつくと、円座を立った。

  「殿は、人が良い」

  「おぉ、褒めてくれるか」

  「呆れているのです。あとから奔走させられる我等の身になって欲しいものですよ」

  おどけてみせる長に、ヒラセはわざとらしくため息をつくと、アザミの横で「おい」とだけ呟き室を後にした。

  お呼びじゃねぇ、か。

  長は「タカハヤと二人」と言った。見れば、タカハヤがすまなそうに目配せしている。アザミも静かに円座を立った。

  「時に、アザミヒメ」

  踵を返そうとした時、長が声をかけた。アザミは立ったまま、長を見下ろす。

  「熊は、なぜ郷に降りてくるのであろうな」

  はて、とアザミは思った。生国はハヤセノクニと聞くが、ハヤセには熊がいないのだろうか。

  「腹減っとんのじゃろうよ。やつらは[[rb:臆病者 > おんびんたれ]]じゃ。いつもは女子が歌歌うだけでも逃げていくようなよ。冬ごもりの前はようけ飯食わねばならん。今年は木の実のなりが悪かったんじゃろよ」

  アザミは答えた。

  「では、そなたはなぜ熊を[[rb:伐 > う]]ったのか」

  「あ?」

  今度は眉根を寄せた。

  「なぜもクソもあるかよ。黙って[[rb:殺 > や]]られろ言うか?襲われりゃ伐つしかなかろうよ」

  答えたが、飄々とした長の顔は変わらない。

  「熊の行動は道理があり、そなたにも道理がある。どちらもそれぞれにとっては正しいが、現実としてそれはぶつかり合う。もし、相手が熊ではなく、人であったら。そなたはどうしたであろうか」

  熊と人など比べられん。

  そう思いながら浮かんだのは、ハリの姿だった。

  ヒマ族。古よりニコシに住まう山の民。定住する地を持たず、狩猟を行いながら山を移動する。彼らの神は天にあり、彼らは贄を天に捧ぐ。人も死ねば天に弔う。[[rb:肉 > しし]]を剥ぎ、骨を砕き、鳥によって天に奉ずる。

  それはニコシ族にとっては獣のように惨たらしく、恐ろしいものであった。ニコシ族はヒマ族を嫌った。「けだもん」それがヒマ族に対してニコシ族が持っている認識である。

  ヒマ族は悪では無い。アザミはハリを、そしてハリが慈しむ仲間を知っている。しかし、そういうものだと知っていても、彼らの全てを真には受け入れ難かった。

  アザミは口を噤んで、長を見た。長は人差し指を立てた。

  「手っ取り早いのは力による解決。大きな力を持つ者、数の多いものは特にこれを用いる」

  知っている。そうやって、ニコシ族は遂にヒマ族を東の端に追いやったのだ。そして……ニコシ族もまた力によって征服された。

  「チハラがミヤマを遣わし、ニコシを乗っ取ったようにの」

  ヒマ族に対する仕打ちを打ち消すように、アザミはミヤマを取り立てる。長は否定せず、深く頷いた。

  「この期に及んでと、そなたらは思うだろうが。私はチハラのやり方が正しいとは思っていない」

  長の目がどこか哀愁を感じさせた。

  「正しく生きるとは難しい。己の立場、慣習、環境。複雑に絡むほど、その姿は曖昧になる。私もかつては正しくありたいと思っていた。今は確たる形もない。皆が思うように生きていける方法に気づいたら伝えて欲しい」

  私はいつでも待っているよ、ニコシの若き長。

  長はそう言って、手を外へ向けた。

  入口から涼風が吹き込み、外では赤く色付いた木々が揺れている。

  コモタチも、ニコシ府も。そして今住んでいるカヤマノサトも。木々は同じように季節を巡っている。なぜ人だけは、心の姿を別にするのだろうか。

  アザミは思わないでもなかった。

  長に軽く会釈をし、アザミは室を後にした。

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