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「準備が整っちょるて、アザミさま」
老女の声に、アザミは目を開けた。手元の銅鏡に、髪を飾り立てた己の姿が見える。
「しっかし、似合わんのぉ……」
見慣れぬ姿に思わず呟く。癖の強い髪を、老女が何とか[[rb:梳 > くしけず]]り整えた跡が所々に見え隠れしていた。
「そんなことはねぇと思いますけどのぉ」
そう言う老婆も、はきとしない表情である。
「世辞なんぞいらんぞ、婆さ」
アザミは大口を開けて笑ってみせる。そして普段は着ない、[[rb:外国 > とつくに]]の[[rb:帛 > きぬ]]で出来たハレ着に袖を通した。滑らかな帛は、己の逞しい肢体を誇張するかのようにまとわりついており、まるで男と見まごう姿だ。
やはり似合わん……。
小さな溜息をつき、アザミは広間へ向かった。
既に主だった者は席に着いているようで、ガヤガヤと騒がしい。アザミは皆の前を堂々と横切る。そして、上座の前にどっと腰を下ろし、両の拳を床についた。
「改めてご挨拶致します。[[rb:柔首 > ニコシノオビト]]、[[rb:柔科木 > ニコシノシナキ]]が[[rb:女 > むすめ]]、[[rb:柔薊 > ニコシノアザミ]]と申します」
慣れぬ言葉遣いを勢いで吐き出し、頭を僅かに下げる。隙間から上座の主を窺った。
少年である。歳は十を幾つか過ぎた頃であろうか。黄昏に輝く荻の様な色の髪を、左右の耳の脇に結って下げている。まだ成人を迎えぬ幼子の髪結だ。華奢な体つきはともすれば郷の[[rb:女子 > おなご]]よりも細い。[[rb:手弱女 > たおやめ]]と言っても疑わぬようなこの男は、ニコシの[[rb:女 > ヒメ]]であるアザミを妻にと訪ねてきていた。
「[[rb:新越国国造 > ニコシノクニクニノミヤツコ]]、[[rb:深山阿良々木 > ミヤマノアララギ]]が子、[[rb:深山荆 > ミヤマノウマラ]]です」
ウマラはどことなく険のある三白眼を柔和な笑みに変え、平手をすいと横へ動かす。
「ニコシヒメ、どうぞ隣へ」
アザミを己の脇へと[[rb:誘 > いざな]]った。
隣へ移ると、父が前へ進み出て祝辞をあげる。アザミの輿入れを祝う予祝の宴が開かれた。まだ早春で、貯えも底をつく頃であったが、食膳は精一杯のもてなしを尽くしている。
箸を伸ばしかけたアザミは、食膳の主菜を見て眉根を寄せた。鹿肉である。それも、蓄えの干し肉では無い。生の肉を焼いたものであった。
「……」
ウマラの来訪を知らされていなかったアザミは、ほんの今朝、狩りに出かけていた。狩場というのはある程度重なってくるものだが、今日は狩場に自身と共にいた[[rb:斐磨 > ヒマ]]族の従弟、ハリしか見ていない。つまりこの肉は……。
「若君、いかがでしょう。今日獲れたばかりの鹿肉は」
下座からこの郷の長であるカヤマが声を掛けた。
「えぇ、美味しいですよ。日頃口にするものより、臭みが少ない気がします」
ウマラは幼いながらも、[[rb:主 > あるじ]]然とした態度で応える。カヤマは大きく頷き、喜色を浮かべた。
「この郷には優れた[[rb:猟男 > さつお]]がおりまして……。他とは一味違いましょう?」
カヤマは得意げに鼻を膨らませている。
その猟男を殺そうとしたんはヌシじゃろが…。
アザミはキッとカヤマを睨みつける。視線に気づいたカヤマは目を背けた。
「婿殿。その肉、美味かろ?」
苦々しい思いを伏せ、ウマラを覗き込む。
「秘密があんのじゃ」
言うと、ウマラは大きな目を見開いた。好奇心に動かされたその表情は、先程までと変わって幾分あどけなく見える。可愛らしさすら感じた。
「続きを……」
興味をそそられたらしく、先を促す。
「普通はの、獲物を捕らえたらトドメを刺す。じゃが、その猟男は、腱を絶って生きたまんま血抜きすんのじゃ」
アザミはウマラの手を取って胸に当てた。
「胸が脈打つのが聞こえるか?」
「……ぇえ……」
柔らかな乳房に触れ、戸惑ったように目を泳がせる。アザミは気づかず続けた。
「ここが動いとるとの、よう血が抜けんのじゃと。その方が旨いらしい」
手を離す。
「……しかし旨いと言うのであれば、皆すれば良いのでは?」
ウマラは昂った気を抑えるよう、細く息を吐いた。
「ヌシは狩りした事ねぇの?鹿ぐらいならまだえぇが、猪なんぞ危のうて近づけん。そんな事出来んのは、アレぐらいなもんじゃ」
「[[rb:益荒男 > ますらお]]……といったところですか。是非会ってみたいものです」
雄々しい男を夢想したか、ウマラは素直に感嘆している。場に居並ぶニコシ族に目を遣った。貴賎の差がさほど厳しくないニコシ族では、ほとんどの者が何かしら従事している。骨太で体格の良い者が多い。が……
「この中にはおらんぞ」
アザミは言った。
「男は……ヌシが先刻助けたヒマの男じゃ。ワシがヌシの元へ[[rb:見 > まみ]]える、その前に、男が捕らえとった鹿がそれじゃ」
アザミは食膳の鹿肉を指す。ウマラの顔からあどけなさが消えた。
昼間初めてウマラがアザミと顔を合わせたその時、外で騒ぎが起こった。
カヤマの子息が、アザミの庇護している少数民族ヒマの娘を[[rb:拐 > かどわ]]かし、手篭めにしたという。蛮行に腹を立てたヒマの長、ハリはカヤマの男らを捕らえて嬲り、瀕死の重症を負わせた。どちらに非があるか明確であるにも関わらず、ハリを擁護するものは無かった。
ハリを助けようとするアザミをみたウマラは事を仲裁し、ハリを救ったのである。
「あの時、カヤマは男を殺そうとしていたではありませんか。なぜ我が物顔で、今誇っているのです?……」
「カヤマの山で捕れるもんはカヤマのもん。誰がどういう風に[[rb:捕> と]]ろうがの……。そういう男じゃ」
アザミはカヤマの長を上座から蔑むように見た。
「気分が……」
「あ?」
カタン。
膳が揺れる。
立ち上がったウマラに衆目が集まった。
「気分が悪い」
静まった室に、ウマラの声だけが通った。
すぅと息を吸う。
「お疲れなんでしょう」
言葉を継いだのは、ミヤマの次席に座っていた男だった。小柄で狐のような目をした壮年の男だ。一見穏やかな笑みを浮かべているようにも見えるが、目は鋭く辺りを注視している。
「オブカイ殿、私は疲れてなどおりません」
「人は案外、己の疲れに気付かぬものですよ」
声を上げるウマラに、オブカイと呼ばれた男はゆるりと首を振った。
「若は日頃郷を出られませぬからな。半日とまではいかなくとも、慣れぬ馬に乗り、聞き慣れぬものを聞き、見なくて良いものまで見てしまったではありませんか……」
含みのある言い振りで、ぐるりとニコシ側の席を見回す。そして軽く隣の青年を肘で突いた。
「若にはまだ務めがございます」
青年が目配せするようにこちらを向く。開きかけた口を噤み、ウマラは周りを一顧だにせず室を後にした。
ミヤマ側の臣が後を追うように退出し、オブカイだけが残った。
「若の妻問いは変わりなく行う。滞りなく頼みますよ、シナキ殿。そちらの[[rb:媛 > ヒメ]]君も……」
オブカイはそう言い捨て出ていった。
オブカイの足音が聞こえなくなると、蒼白となった父、シナキが力無くよろよろアザミの肩にもたれた。
「ヌシは何をやっとんじゃぁ……」
「何もしとらん」
「何もせんで、ああなるかよ。相手はミヤマの子じゃ。家の大事じゃ。クニの大事じゃぞ」
「何が大事じゃ……その大事に……なんぞヒマの子を入れてやらんのじゃ!!」
父の脛を蹴り上げ、床を踏んだ。
「っ……アザ……アザミっ!!」
床にへたりこんだ父を置いて、アザミも室を出た。
何が大事じゃ……。
四方から縄を掛けられ、引き摺られ、礫を浴びせられた従弟は、目をあてられぬほどの傷であった。手篭めにされた娘は、まだ女になったかもわからぬ程の歳である。気弱で、いつも姉さ達の後ろをくっついて離れぬような子だった。
戦で土地を追われ、親兄弟を失い、生きる為の糧すら奪われる。あのヒマ族を哀れとは思わんのか……。
「何が大事じゃ……。ワシにはあの者らが、ずっと大事じゃ……」
ウマラの室に向かうアザミはポツリと呟いていた。
*
「軽率でした。貴女の為の宴を潰してしまった」
アザミが訪れるなり、ウマラはそう詫びた。
「えぇよ。あんなもん……」
どうでもいい。
その言葉は飲み込んだ。かりそめにも夫となる男の前だ。それを祝う為のものだったのだから。
ウマラは甕からひとすくいして盃を満たした。盃に白濁した液体がゆらゆらと揺れている。
「貴女は酒を嗜むのでしょう」
言って、ウマラは盃を差し出す。目の前に差し出された盃をアザミは一息に飲んだ。
「ん……なんじゃこれ」
まず甘みが。そして酸味。とろりとした食感。どれもアザミの知る酒とは違っていた。
「[[rb:千原 > チハラ]]や[[rb:萱野 > カヤノ]]など、南の方で作られる米という穀類の酒です。こちらで作られる果実酒とは趣が違うと聞きました。貴女が酒を嗜むと聞いて用意したものです」
「ヌシはやらんのか」
空いた盃に二杯目を汲むウマラに聞いた。
「私は酩酊しますから……その、[[rb:後 > のち]]に……障りが……あります…ので」
歯切れ悪く言い、盃を差し出した。
後、か……。
[[rb:夫婦 > めおと]]となる男女が行うことは一つである。まだ男かも疑うような年頃だが、ウマラはそれを心得ているようだった。
アザミはニコシの長の家に生まれた。同じ年頃の娘が次々と男と連れ合いになる頃には、己の相手は一族の、皆の益になる家の者だろうと。言われずも感じていた。
だから今日、父が、今連れてきたこの男の家に入れと言っても、別段、異を唱えるつもりも無かった。たとえそれが、かつてこのクニを掠め取った、ミヤマの家の男だとしても。
ただ一つ、アザミの心には憂いがあった。
ニコシの者に賎しい獣だと蔑まれ虐げられる、ヒマ族の子らの事だ。己が守らねば、いずれは……。
ただそれだけが、気掛かりであった。
アザミは改めて目の前のウマラを見つめた。 目を伏せた顔も、髭のはえぬ[[rb:肌膚 > きふ]]もまるで少女のようである。
思えばコイツも哀れなもんじゃ。初めてあてがわれる女が、いきおくれの大女じゃ。ほんでも……欲してもらわなあかんの……。
空の盃を放る。盃は弧を描いてウマラの膝元へ転がった。
「……なんです?」
わずかに眉根を寄せたウマラの声は固い。
「やはりワシはこの郷を出れん。ヌシの元にも[[rb:嫁 > い]]かん」
灯明皿に灯した灯りが揺れる。二人の間に影が差した。
「[[rb:理由 > わけ]]を聞かせてもらえますか」
ウマラは白鷺のような細い首をすうっと伸ばして、そして小さく傾げた。
「ヒマの子らを見たじゃろ。アレらはワシら[[rb:柔 > ニコシ]]の民とは馴れ合えん」
この郷にはアザミら、従来から住み着いているニコシの民と、戦から逃れてきたヒマの民がいる。
元来、ヒマ族とニコシ族は狩場を巡って争う敵対種族であった。拡大するニコシ族、僻地に追いやられるヒマ族。その先を憂えたそれぞれの長によって、和議が成されたのはアザミが生まれる少し前の頃。しかし両者が完全に打ち解ける前に、[[rb:外国 > とつくに]]である[[rb:千原国 > チハラノクニ]]の侵攻を受け、その繋がりは分断してしまった。
ニコシ族の中にはヒマ族に対する怨みを持つ者も少なくない。戦で孤児となったヒマ族の子に、ニコシの風当たりは強かった。
「誰ぞが守ってやらねば生きてゆけん」
出会ったばかりのウマラが、[[rb:真 > まこと]]にどのような者かアザミにはわからない。だが、先程カヤマに見せた怒りは義では無かっただろうか。
ハリを救ったように、ヒマ族も救えるのではないか。アザミは淡い期待を抱いたのである。
しかし返答は期待とは違ったものだった。
「弱い…」
「あ?」
「破談の口実とするには弱いのです。我が父が[[rb:千原 > チハラ]]の命を受け、[[rb:国造 > クニノミヤツコ]]としてこの地に来て九年。未だ千原 の[[rb:憲 > のり]]が行き渡ったとは言えない。必要なのです、この地を治めてきたニコシの血が。ニコシの者がチハラの臣である我々の元に[[rb:与 > くみ]]したという事実が必要なのです」
ミヤマの家が、アザミを迎える[[rb:所以 > ゆえん]]だ。アザミとて、己の立場を弁えている。だからこそ、今突っぱねたのだ。
「どうあっても嫁かんとは言ってねぇんじゃ」
必要だというなら、道を拓け。アザミは思った。
「代わりにアレらをどうにかしろと?貴女は私が何も知らずここに来ている、とでも思っているのですか?」
熱が上がるアザミに対し、ウマラは淡々と冷えた目を向けた。
「ニコシの家には[[rb:女 > むすめ]]が七人。うち五人は既に他家へ嫁いでおり、残るは嗣子と目されていた貴女と、末の女。七つだと聞いています。こちらとしてはニコシの女であればどれでも良い。貴女の存在は交渉する為の完全な璧とは成りえない」
「まだ女になっとらん子を迎えるか?」
妹のアサツキは少女というより、幼女に近い。妻とするには不足であろう。
「なまじ知恵のついた女より、 幼子の方が御しやすいと言う者も家中に少なくない」
淀みなく答えるウマラに狼狽する様子は無い。今までアザミが見てきたどんな大人より、示威的な目だった。
「賢しい真似など辞めて、素直に助けて欲しいと。請えば良いのではありませんか?」
事も無げに言う。それがアザミを激昂させた。咄嗟に胸ぐらを掴む。驚くべき軽さで、ウマラを胸元に引きよせた。
「ヌシぁっ!!」
「待て!! 待ってください」
目を見開いたウマラが、アザミの口を覆う。耳元に口を寄せ小さく囁いた。
「隣に兵を込めています。騒ぐと踏み込んできますよ」
呆気にとられ板壁を見る。物音一つしないそこに、兵がいるというのか。
そもそもこの室は妻問いのために用意したものだ。[[rb:一夜 > ひとよ]]の逢瀬に他者が控えていると思うと、さしものアザミも恥じらいに顔が火照った。
「ヌシらは女を抱くのに、兵を置くか?」
緩めかけた首を再び締め上げる。
「万が一の為と侍従が配しました」
「万が一じゃと……?」
怒りに血管が浮き出たアザミの腕を、ウマラはついと指先で突いた。
「まさに……こういう事です」
胸元を締めあげられたウマラは、喘がんばかりに息をしている。アザミは襟首をさっと離した。
「ヌシは……あの子らが哀れだとは思わんか」
「それですよ。ニコシヒメ」
アザミの目の前に両手を突き出し、左右に開いた。
「貴女の輿入れとヒマの者。二つは全く別の話です。同列に語らないで頂きたい」
「ヌシも[[rb:父 > とと]]さと同じか!!大勢のもんが大事で、弱ぇもんは黙って従えゆうか!!」
怒声。
隣でガチャリと音が響く。
「動くな!!」
ウマラは声を上げた。
鎧の擦れる音。
兵っちゅうたが、甲兵か。人をなんだと思っとんじゃ……。
こちらは身一つでいるのだ。 アザミは思わず舌打ちした。
「大事無い。控えていろ…」
ウマラが壁に言う。細く息を吐いて、アザミを一瞥した。
「貴女もいちいち大声を上げるのはやめて下さい。命に、関わりますよ」
空の盃に酒を汲む。ウマラはそのまま盃を煽った。
「これは……父の言葉ですが。国は一羽の鷹だと思え、と」
「鷹?」
聞き返すと、静かに頷いた。
「大空を羽ばたく強い翼。獲物を見つける目。捕らえる爪。引き裂く嘴。人はとかく強い所を見がちです。それは失うと生死に関わる場所だから……」
再び盃を煽った。
「貴女を鷹の目と喩えるなら、ヒマの者は綿羽のようなもの。失っても死ぬ事はありません。しかし、どのような小さいものにも、役割があり、失って良いものなど一つもない」
ウマラの小さな手がアザミの手を取った。日に焼けた事が無いのかと思うほど、白い手が、細い指が。アザミの指にそっと絡まる。
「あの者らの窮状を知った今、そのまま置くことは無い。貴女の……輿入れがどう転んでも……それは変わりません」
だったら[[rb:最初 > ハナ]]から言え、アホが……。
アザミは手を振り解き、酒甕を傍に寄せた。甕ごと酒を煽り、喉を潤す。
「ほんならよ。考えがあんじゃろ。あれらをどうする?」
今度はウマラが盃を甕に突っ込んで汲み、飲み干した。
「……戦の折、我が軍では度々山狩りを行いました。ヒマの者は野山に潜む技を持っています。我が将は自軍にその力を取り込みたかったのです。しかし再三の投降の呼び掛けにも応じず、ヒマ族は滅んでしまった。シナキ殿(アザミの父)はそれを見て、ヒマの子らを隠そうとしたのでしょう。カヤマの戸籍にヒマ族の名はありません」
だからなんだと言うのだ。
アザミはじっとウマラを見つめた。
「ヒマの者を我々の治めるニコシ府の戸籍に記載します。その身もカヤマの郷からニコシ府へ移す。我々はどの一族の出自かで扱いを変えることはありません」
「ヒマ族にとっちゃ、ヌシらは親の仇じゃ。そう易々と下へ降ることはねぇじゃろうよ。[[rb:斐磨谷 > ヒマノタニ]]はどうじゃ。生まれた所へ、戻してやれんか?」
ヒマ族にとってはそれが一番であろう。
しかしウマラの表情は芳しくない。再び盃を甕に突っ込んだ。
「出来るかと言えば出来ます。ただ……」
[[rb:千原国 > チハラノクニ]]は[[rb:深山 > ミヤマ]]に[[rb:柔国 > ニコシノクニ]]を制圧させた後、東隣の[[rb:産加美国 > ウカミノクニ]]との国交を断絶させた。更に三年後、東大陸との交易で栄えていた[[rb:入潮国 > イリシオノクニ]]を手中に収め、やはりこちらも産加美との行き来を断絶している。[[rb:新越国 > ニコシノクニ]](旧柔国)と入潮国に挟まれた産加美国は今や孤立状態にある。千原国はいずれ産加美国も手中に収めるつもりだろう。
「斐磨谷は産加美に近い。この国では最も早く戦端となる可能性が高いのです。そこへ、送りますか?」
戦…戦か。
アザミの脳裏にありしの光景が蘇った。アザミの住んでいた[[rb:柔郷 > ニコシノサト]]は国の北方にあり、南から侵攻したミヤマ軍が届く前に降伏している。それでも戦後各郷を父と共に歩き、その惨状はありありと目に焼き付いていた。
「そう、睨まないでください。我々は千原の臣。[[rb:大王 > おおきみ]]が命を下せば、従うほかないのですから」
「…」
「我々はヒマ族が生きている事を知ってしまった。どちらにせよ、そのままにしておく訳にはいきません。ヒマ族がこちらへ来る事を拒むのであれば、このままカヤマに隷属する事になるでしょう。そうしたら…貴女は」
盃を煽り、アザミに放る。盃を難無く受けたアザミは、顔をしかめた。
コイツ……酔っとるの。
気づけば、ウマラの顔は真っ赤に染まっていた。いや、顔だけでは無い。耳から首筋、胸、腹、腕、脚。露出している肌という肌が赤い。
「大体……貴女もあの男も場当たり的なんだ。守る、守ると、どう守るつもりだ。付かず離れずいる訳にもいかないだろうに。いつまで?死ぬまでか?馬鹿らしい」
もはや独り言のように呟き、アザミの抱えた甕を引く。
「そろそろやめとけ」
アザミは手を払った。
「私はね……ニコシヒメ。女など誰でも良いと思っていたんです。どのような女であれ、私にとっては皆同じようにしか見えませんでしたから」
ずるずると甕にとりつき、頭を突っ込む。
「やめろアホ……」
襟首を掴んで引き剥がす。
酩酊っちゅうか、相当悪酔いじゃのぉ…。
思ってる間に今度はアザミの腕にすがった。
「貴女は……違う。己で物を考え、己の口で物を言う。誰にも[[rb:憚 > はばか]]る事無く、正しいと思う事を、そのままに……惹かれたんです。私は、貴女の姿に」
充血した目が、涙に濡れている。
こりゃいかんの。
水の入った吸口を含ませた。
「んっ……」
勢いよく滑り込んだ水を吹く。酔いの回った身体は、激しく息をつき、大きく肩を揺らしていた。
「……貴女も」
「ちと黙っとれ、アホたれ」
「私はアホでは無い……」
んな事どうでもええんじゃい。
焦点を失った目が空を見つめたかと思うと、ぐらりと倒れて下を向く。
「おい、気持ち悪いか?吐くか?」
「吐く……?もう十分に吐露しているでしょう。伝わりませんか?」
「ヌシぁ、何言うとんのじゃ。もうえぇから黙っとれ!!」
「……気持ち悪い……し、寒い」
腕にすがるウマラが小さく震えだす。
「呑めんなら、呑むな。アホたれが」
しょうのねぇガキじゃの。
胡座の中に座らせ、身体をすっぽりと抱き抱えた。体の芯は熱があるのに、四肢の先はすっかり冷えている。ウマラの足先をふくらはぎで挟み、手指は握ってやる。アザミは半時もそうしていた。
「先程……」
身体が収まり始めた頃、ウマラが口を開いた。
「ニコシの血が必要だと言いました。これは正しくない」
「……」
うわ言めいた言葉が平静を取り戻している。覗き込むと、目はまだとろりと宙を見ていた。
「純粋に体へと流れる血では無い。脈々と受け継がれる知恵です。この地に根ざしてきた者の、考え方や生き方。それが流れ込んでいない幼子など、迎えたところで意味は無い。家中にも様々な考えはありますが、私はそう思っています。いや……」
アザミの腕の中で身をよじり、ウマラが振り向いた。
「それとは関係無しにも……やはり私は貴女を、迎えたい」
大人びたと言うには成熟しすぎた言葉と裏腹に、未熟な顔立ちで羨望の眼差しを向けている。
こいつは…存外まともじゃの。
言動が癇に障る所も多々あるが、根の部分は純粋に人を想っているように感じた。
「ワシはヒマの者も、ニコシの者も平穏に暮らせりゃぁ、それでえぇよ」
「それでは……」
ぱっと愁眉を開く。
「ワシぁ…皆に言わせりゃ手に負えん女じゃとよ。それでもえぇか?」
「手に負えない?それは貴女の才気が器に収まらぬと言うことでしょう。構いません。貴女は、貴女のままで……私を輔けて下さい。ね、ニコシヒメ」
口元に笑みをほころばせた。
「アザミ。ワシの名はアザミじゃ。ニコシ[[rb:女 > おんな]]と呼ばれんのは気に食わん。名で呼べ」
「…アザミ」
一言呟き、また微笑む。
「夏、森に咲く[[rb:薊 > アザミ]]を見た事があります。深緑の中、ただ一つ、紅紫の花を咲かせていました。気高く、美しい。良い名です……。ニコシに咲くアザミ。今宵手折ってもよろしいか?」
随分遠回しな妻問いじゃの。
アザミは鼻で笑う。
「ヌシぁ知らんのか。薊は頭から根元まで棘だらけ。怪我しても知らんぞ?」
「貴女こそご存知ないのだね。[[rb:荊 > ウマラ]](ノイバラの事)の棘は薊ほど[[rb:柔 > やわ]]ではないよ」
ウマラも軽やかに笑い声をあげた。
ウマラはアザミの腕から這い出ると、正対して身を正す。そして妻の大きな手を小さな両手で包んだ。
「私の家が貴女方の国を侵した事を無かったことにはできません。ですが、その時失った以上の恵みをもたらすつもりです。これから先、生まれてくる者の為に……貴女も共に」
「ほうか……。そりゃぁ楽しみじゃの」
アザミは夫の身体を引き寄せ、小さな頭を優しく抱いた。
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