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「……っ……は…」
耳元で夫の小さな息が漏れる。
「ぁ……アザ……ど」
かすれた言葉と共に、指先が伸びた。アザミは夫の頭を引き寄せる。ひんやりとした手がアザミの背を強く抱いた。
「……っ」
夫がびくりと身体を揺らす。アザミは[[rb:陰 > ほと]]から夫の子種が零れ落ちていくのを感じた。
しかし、冷てぇ手じゃの……
これだけ動いても、夫の手は具合でも悪いのかと思うほど冷たい。いつもの事ながら不思議だった。
頬に夫の手を当て、さらに己の手で包む。
少しは温まるだろうか。
潤んだ夫の目を見つめながら、息が落ち着くまでそうしていた。
「……もう大丈夫です」
しばらくして夫が呟いた。
アザミは手を離すと、軽く搾った布で体を拭った。秋が近づいたこの頃は、夜風が冷たい。濡れた肌がすっと冷えた。
「……アザミどの。そちらへ行っても?」
遠慮がちな声が尋ねる。
「……ええよ」
薄衣を羽織ながら答えると、夫はアザミのあぐらの中へ収まり、腕に手を添えた。身体を抱くように促している。
「ヌシは腕に抱かれるのが好きじゃの」
己より八寸ほども小柄な夫の身体を抱え込む。
「[[rb:母 > かか]]さの腕が懐かしいか?」
ほんの軽い気持ちだった。
からかうように言うと、夫は何かを考えるようにしばらく首を傾げていた。
夫が振り向いた時、その顔には感情らしきものは感じられなかった。
「さて…母上とは離れて育ちましたし、父上から抱かれた事も無い。貴女の腕から懐かしさを感じる事はありませんよ」
淡々と、夫はそう言った。
*
果たして、本当にそうだろうか。
ウマラは思った。
己が忘れているだけで、父母は妻のように抱いてくれていたのではないか。
厚みのある妻の胸に寄りかかりながら、ウマラは目を閉じる。脳裏に声が響いた。随分前に聞いたような声。誰の声だったか……。
声の主を探るように、ウマラは記憶の奥底へ潜り込んだ。
「…立派におなりください。殿の世継ぎは若しかおりませぬ。立派になって、父君をお輔け下さい」
ウマラの襟を整えながら、声は言った。
りっぱになって、たすける……。
ウマラは頭の中で何回か唱え、そして口を開いた。
「しょうじんいたします」
ウマラが答えると、男の口元が優しく微笑んだ。
ウマラの目の前に、また別の場面が浮かんだ。
ひとつ、木簡をひろげる。
これはもう覚えたかな……。
するすると木簡を巻き戻し、ウマラは目を閉じた。
「明主の其の臣を導き制する所のものは、二柄のみ。二柄は刑徳なり……」
暗唱してみる。
「おや、二柄ですね。もう[[rb:諳 > そら]]んじられますか」
男が横で驚きの声をあげた。
「学びて思わざれば即ち[[rb:罔 > くら]]し…。わたしは学ぶどころか、まだ言葉を覚えただけにすぎません」
諳んじるだけでは、褒められるに値しないだろう。
ウマラは首を振る。
「もっともです。しかし若はもう子ども扱いできませんな」
男は微笑みを湛えたまま、大きく頷いた。
もっと。もっと学ばなければ。私は[[rb:嗣子 > しし]]なのだから……。
ウマラは再び木簡を開き、続きに目を通した。
陽の光が柔らかな、春の日だったように思う。
外から子どもらの声が聞こえた。普段は気にも留ないが、その日は何か感じるものがあったのだろうか。ウマラは日差しの下へ出た。
郷の[[rb:男子 > おのこ]]らが数人広場にいる。大きな子が指をさし、他の子らが縦に並んだ。何らかの声をかけると、並んだ子らが一斉に頭を下げる。大きな子はその背を順々に押して跳び越える。最後一番小さな子は耐えきれずに、地面に伏した。
今まで感じたことの無い熱が、ウマラの胸を突き上げる。子どもらの元へ駆けた。
「お前は何をしていた!!」
普段声を張ることのないウマラの喉は、上ずった声色をあげる。思わず胸を抑えた。
子どもらはウマラの姿を見とめると、揃ってその場にうずくまり頭を下げた。もとより顔も知らないが、体の大きな子だけはすぐに区別がついた。
ウマラがその者の前に立つと、子どもは微かに身動ぎする。
「力のあるものは、弱いものを助けるものだろう。この者らが、お前に何をしたというのだ」
歳頃も、身体も己より大きい子だ。ウマラは声を張り上げ問う。しかし、子どもは黙ったまま頭を垂れて返事をしない。
ウマラは半歩前へ出た。どれだけ下を向いていても、目に入るだろう。
「何か言ったらどうだ」
「……」
子どもは、膝頭に固く拳を握りしめたまま答えなかった。
「何をしておいでですか?」
声を聞き付けたのか、男が立っていた。
ウマラは男に一部始終を話す。男は頷いてウマラの前に屈んだ。
「弱いものを助けようと思う御心、ご立派です」
男は言う。しかしその顔に、笑みはなかった。
「この者らが若の御前に跪く理由がおわかりですか?」
「……私が[[rb:国造 > くにのみやつこ]]、ミヤマノアララギの子であるから」
生まれ落ちたそこが、貴賎の差異だ。己が立派であるからなどと言うほど愚かでは無い。
男は静かに頷く。
「若は力をお持ちです。若が罰すると言えば、すぐにも官吏が首を刎ねましょう」
「私はそのような事……」
開きかけた口を閉じた。男の言葉はまだ終わっていない。
「私情を重ねてはいけません。偏ってはいけません。若がこうだと決めてしまったら、下の者は異を唱える事すら難しいのです」
男は子どもの肩を抱いた。
「もう一度この者の声を聞いてやって下さい」
促され、ウマラは子どもに尋ねる。子どもは肩を落としたままポツリと呟いた。
「馬跳びを……しておりました」
「馬……?」
ウマラは辺りを見回す。馬など何処にも見当たらない。
見当のつかないウマラは男の顔を覗く。
「子どもの遊びです。馬に見立てて、互いに跳び合う。小さい者が大きな者を。大きな者が小さい者を跳ぶ時もありましょう」
男が言うと、子どもは握りしめた拳に涙を落とした。
「……」
困惑するウマラに男は言う。
「かような子どもでも誇りはあります」
そこでウマラは初めて気づいた。己がその子を咎人にするところであった事を。
「……名を教えてくれ」
頭に声を掛けた。
「スオウです」
くぐもった声で子どもは答える。
「スオウ。すまない、私の早計であった」
スオウは声を上げることなく、深く地に頭をつけた。
*
その日の夕餉にタラの芽が並んでいた。この春では初めて採れた初物だ。いつもであれば、ほろ苦い味わいに顔をしかめながら春の訪れを喜ぶところだが、ウマラの気は沈んだままであった。
箸を膳に置く。
「食が進まないか?」
父が言った。
父の声は決して大きくは無い。だが、兄弟のいないウマラの食事は、いつも父と二人きりである。静かな室で、父の声はハッキリ届いた。
「私は今日、過ちを犯しました」
ウマラが言うと、父も箸を置いた。
スオウの話をする。父は一言も挟まず聞いていた。怒る事もなければ、慰める訳でも無い。
「私はあの者の誇りを傷つけました……」
父が何も言わないのは、己で答えを出させる為だ。しかし、その時のウマラはそれ以上のものを導き出せないでいた。
「過ちだとわかったら、改めればよい。お前もその者も若いのだ。いずれ返す時が来るだろう」
「ですが……」
「忘れぬ事だ。その過ちをずっと胸に置いておくといい」
そう言うと、父は再び箸を持ち食事を始めた。
ため息混じりに、ウマラは目を閉じた。
*
目を開けると、妻の逞しい腕が目に入る。
やはり抱かれた事は無かったな……。
感傷混じりにウマラは妻の腕を抱いた。
「貴女の腕から感じるのは真新しさだけですよ」
「新しい?」
妻が不可思議な顔で首を傾げる。
「ええ。[[rb:他人 > ひと]]の腕がこんなにも温かく、心地の良いものだとは知りませんでしたから」
振り向いた夫の口元には微かな笑みが浮かんでいた。
腕に抱く事がそれほど珍しい事か。
アザミは思う。
いや、こいつはこんな事も知らんのじゃ……。
数え十三の夫はアザミから見れば子供のようである。だがその子供は人の温もりを知らない。
哀れなものだと、アザミは夫を抱く手を更に固く締めた。
*
夫と初めて目合ったのは、まだ深い尾根に雪が残る早春だった。見た目の幼さとは対象的に、大人びた話し方をする子だった。「大人の口真似をする好かん奴」アザミの目にはそう映った。
しかしすぐにその見方は変わる。
夫が訪れたその日、郷で揉め事が起こった。ニコシの家で庇護していた少数民族であるヒマ族の娘を、郷の長であるカヤマの家の子が複数人で手篭めにしたという。アザミの[[rb:従弟 > おとうと]]でヒマの長でもあるハリは、その子らを次々と打ちのめし、カヤマの者に捕まった。
アザミは石打ちにされるハリを救おうとするが、カヤマの郷の民はヒマ族との軋轢から動こうとしなかった。
状況を見ていた夫は「従弟を助けたいか」とアザミに問う。当然だと応じると、夫はカヤマの民を煽動した。今こそヒマ族を亡きものにしようとするカヤマの熱を、言葉巧みにすり替え、カヤマの子を処刑するよう仕向ける。
結果的にハリは夫に助けられたが、やり口が受け入れ難かった。「大人の真似」などという易しいものでは無い。卑劣とも老獪ともとれた。それはニコシの地を征服したミヤマの姿そのもののような気がした。
ミヤマの家に嫁してしばらくすると、夫のまた違う姿が見えてくる。
アザミは夫が器だと思った。[[rb:家臣 > おとな]]が「君主とはこうあるべき」と精緻に作り上げた器なのだと。ミヤマの誰もが美しいと思う器が、アザミには中身のない空の器に見えた。
見せかけの器など意味が無い。中身があって、役に立ってこその器であろう。
アザミは中身を注いでやりたいと思った。本当は赤子ほど人を知らぬ器に、情を注いでやろうと思った。
ようやく中身が見えてきた器を、ミヤマの[[rb:家臣 > おとな]]は戦に持っていくのだという。家臣は何を注ぐつもりなのだろうか。冷徹か、非情か。無愧であろうか。
いずれにしても、戦が良いものをもたらすわけが無い。
アザミは己が腕を触れる夫の手を握った。
「こんな小せぇ手に剣を持たせるゆう[[rb:家臣 > おとな]]の気ぃが、ワシにはしれんの……」
夫の顔に浮かんでいた微笑みが、深く奥に沈んで消えた。
「私は家の[[rb:嗣子 > しし]]です。いずれは陣頭に立つ身。早いか遅いかの違いでしかありませんよ」
呪いが、夫の口に言わせている。表情のない夫を見て、アザミは思った。
「戦が怖くはねぇか?」
「……正直なところ、想像もつかないのですよ。ただそこに居合わせた、名も知らず、縁もなければ、恨みもない者を殺めるというのが…」
そもそも恨み自体を感じたことが無いだろう。夫は人の情から縁遠いのだから。
思うと同時にアザミの頭に、昔の事が頭をかすめた。
「ほうじゃの。[[rb:恨みのねぇ > ・・・・・]]相手は、どうじゃろな」
腕の中の夫が身動ぎして、離れた。
「貴女は、人を殺めたことが?」
「昔、一度きりの……」
そう言うと、朧気だった記憶が鮮明に蘇ってくる。夫の目が、続きを求めていた。
小さく息をつくと、アザミは口を開いた。
「ニコシの家がミヤマに降ってしばらく経った頃じゃ……」
*
「郷の外に出ても良いそうだ」
疲れの見える顔で父は言った。
ニコシの首長であった伯父は弟である父にミヤマへの降伏を勧め、自身は妹を嫁がせたヒマ族の義弟と共に戦うと郷を出て行った。元々末弟であった父は、人の上に立つ器ではなかったのだろう。すっかり疲弊していた。
そんな父をアザミは冷淡に見ている。クニを侵した家を相手に、民を守っていかねばならぬというのにと、不甲斐なさすら感じていた。
「己の山へ行くに、なんぞ許しがいるんじゃ!!」
がなりたてる。父は強くアザミを抱き寄せ、囁いた。
「もう今までと違うんじゃ。この、ニコシはミヤマの……いや、南のチハラノクニに降った。勝手な事は出来んのじゃ」
「は。知るかよ」
父を払いのけ、南門へ走る。門には外へ出ようとしている民が列をつくっていた。
「名を。用事はなんだ」
列になった民を一人一人呼び止める兵。名と用を聞き、時には持ち物もあらためているようだ。ミヤマ[[rb:人 > びと]]は抑揚のない淡々とした話し方をする。情を感じられないそれも、アザミは気に食わなかった。
兵を前にしたアザミは黙って、手にした弓をずいと突き出す。兵は首を傾げてまじまじと見た。
「弓で……何をする」
「決まっとるじゃろ。狩りじゃ、狩り」
「お前、一人でか」
「ほうじゃ。おかしいか?」
戸惑いを浮かべた兵は後ろへ目をやった。誰かが走っていくのが見え、一人がこちらへやってきた。
「その弓は、お前のものか」
「……ほうじゃ」
ニコシ族は概ね男が狩りに出る。アザミは少し変わっていた。兵士が訝しがるのも無理は無い。が、アザミにはどうでも良い事だった。
「はよ、せえよ。ヌシらが山へ出るのを許したんは、冬に備える為じゃろよ?」
晩夏、突如と攻め入ったミヤマの兵は瞬く間に、ニコシの国を制圧した。兵糧に余裕があるのか、略奪という話は聞かない。しかしニコシの民をこのまま郷へ留め置けば、冬の備えは底をつき、一度は鎮圧したニコシの民が再び立つとも限らない。警戒を緩めたのは、矛先を己らに向けぬ為であろうとアザミは冷ややかに兵士を見上げた。
「面白いところに気を回すガキだな」
一瞬鼻白んだ兵士の後ろから、笑い声がたった。目を向けると小兵が立っていた。上官なのだろうか、前の兵が会釈して下がる。
奇妙な男だった。五尺五寸程の華奢な体。ニコシでも、ミヤマの兵でも見かけない、暗い色の髪。黒い目。これがチハラ[[rb:人 > びと]]なのだろうか。柔和そうな笑みを浮かべているように見えるが、目は鋭くこちらを凝視している。
「さっきから揃って、そんな[[rb:女子 > めのこ]]の弓が怖ぇか」
「弓が怖い訳じゃぁ、ねぇな」
威勢よく声を上げたアザミを男は笑いながら流し、空穂から矢を引き抜いた。アザミの腕に矢を添わせると、得心したように頷く。
「確かに、お前の矢のようだな。大人が引くには短い」
空穂に矢を戻した男が短く言った。
「娘。名を聞こう」
「アザミ」
「親は」
「シナキじゃ」
男はまた肩を揺らした。
「親父よりいい面してるな」
[[rb:父 > とと]]さ、舐められとるじゃ……。
アザミはいよいよ苦々しく父の顔を思い浮かべた。
「さて、ニコシヒメ。ヒマ族を知っていますか」
言葉遣いが少し丁寧になった男は、恭しく屈んだ。
「ようは知らん。東の外れの集落に住んどる事ぐれぇじゃ」
「そう、あの集落。我々が踏み込んだ時にはもぬけの殻だった。取るもの取らずに逃げたかと思えば、そうでも無い。戸数から大人数とも思えんが、あちらの尾根、こちらの沢。至る所に出没し、時に川へ毒まで流しやがる。お陰でこちらはニコシの郷から水まで運ばねばならなくなった。戦はとかく数や用兵が重要だと思われがちだが、実際は兵站が肝でね。あいつらは何処から武器や食料を調達してるんだか…」
ヒマ族が魚を捕る為に毒を流す事があるというのは聞いた事がある。実際は一時的に麻痺させる程度のもので、害は無いそうだ。しかしそれを知らねば、その水は飲もうとしないだろう。
アザミの敬愛する伯父は、そうやって今も戦っているのだと思うと、やるせない気持ちが込み上げた。
「シナキ殿は長では無いらしいですな」
ドキリと胸が鳴った。男は何が言いたいのか。
「本来の長はヒマ族と共にいる。そうでしょう」
「そう言って出てったが、どこにおるかは分からんぞ」
「シナキの投降は我々を欺く囮で、裏で内応している?」
男の言う通りの戦い方が出来るなら、もっと戦を長引かせることが出来るだろう。冬に至れば海から来る雪雲が、[[rb:国境 > くにざかい]]を閉ざす。退路を立たれる前に、ミヤマの軍は撤退するかもしれない。ミヤマが警戒を緩めたのは内応者の炙り出しの為だったようだが、そんな事を考える者はもう一人としていないのが、アザミには悲しかった。
虚勢にも近い様子でアザミは笑った。
「ヌシはしゃべりじゃの。ワシが内応しとれば感ずかれとると伝えに行くぞ」
男は意外でも無い顔で目を細める。
「ご丁寧にどうも。正直で助かりますよ」
あぁ、しもうた。
しゃべりは己の方だったと、気落ちする。
アザミの言は内応していない事への裏打ちだった。
「足止めして申し訳ありませんでしたね、ニコシヒメ」
男は手を広げて、道を開けた。
通り過ぎようとするアザミを、男が再び呼び止めた。
「あなたの弓の腕。見せてもらえませんか。的は……」
的なんぞ山ほどあるわ。
男が言葉を続ける前に、アザミは立ち並んだミヤマの旗印に矢を放った。赤い布にダンダラの黒い染め抜き。真ん中から上方に位置する、蛇ノ目の中心を矢は貫いた。
ざわめきたつ兵士を抑え、男は手を打ち言った。
「良い、腕ですよ」
*
「何がえぇ腕じゃ!!」
[[rb:末弭 > うらはず]]で草を薙いだ。
仇の一つも取れん腕じゃ……。
父が降伏の意を伝えるまで、チハラノクニに接していた南側は激しい攻勢に晒され、皆殺しにされた郷もある。先日もアザミは男達と骸を葬りに行ったばかりである。ただ黙って目の前の事を飲み込むしか出来ない己が恨めしかった。
項垂れるアザミの脳裏に伯父が浮かぶ。
「同じく射るなら、人よりゃ生きもんがえぇの。腹もくちくなるし、皆も喜ぶ。ヌシの手ぇで、ようけ獲ったらえぇよ」
弓を持ち始めたアザミに、伯父はそう言っていた。戦う為ではない、皆のため、生きる為の弓。
「ほうじゃ。なんぞ獲ってやらねば……」
郷の若い母親に「乳が出ん」と嘆く者がいた。腹を空かせる者も多い。
アザミは細く息を吹く。そして辺りを探索し始めた。見るのは生き物の痕跡だ。足跡、糞、ヌタ場、木を齧った跡など。生き物が通れば必ず残る小さな痕跡を、アザミは丹念に探していった。
「駄目じゃ……」
頭上で鳥はけたたましく鳴いているが、地上にはなんの痕跡もない。
「ウマとかいうやつのせいじゃろか…」
ミヤマの者は、見たこともない獣に乗ってやってきた。[[rb:馬 > それ]]は鹿よりやや大ぶりで、人を乗せることが出来るらしい。森の獣達も、馬を恐れて逃げてしまったのだろう。
「ミヤマ[[rb:者 > もん]]は人だけじゃのうて、山まで殺しよった……」
舌打ちした。わずかな木の実だけで冬を越すのは難しいだろう。戦が終われば獣も戻ってくるかもしれないが、未だに東側で交戦が続いている。物資の運搬に、こちら側からも人が多数行き来している。人が大勢動いているうちは、獣も姿を表さないだろう。目の前が暗くなるようであった。
それでももう少し……。
郷から離れ南西へ降る。始めの方に攻略された地なら、少しは落ち着いているかもしれない。足を伸ばした。
草が刈られとる……。
アザミは足を止めた。
山中にぽっかりと、整えたと思われるような場所が出来ている。広さから、軍の野営地ではなさそうだ。もちろん、獣の類でも無い。
[[rb:洞 > うろ]]……。
先の斜面に熊の巣穴のようなものが見えた。
「さすがに熊は無理じゃ…」
あとじさった時、穴から顔が覗いた。
「人?」
顔もあっと目を見開く。
「お……おい、娘っこ。食いもん持ってねぇか……」
男は弱々しくアザミを呼んだ。
近づくと、ガリガリに痩せて髭も伸び放題の顔が見えた。もう大分そこにいたのだろう。穴の近くの排泄物に蝿がたかっており、男からはすえた臭いがした。
話し方からニコシの者でないのはわかるが、郷に駐在している兵士とは違って物腰は柔らかかった。
「尾根で滑って、足がよ。折れちまったみたいで…」
言いながら、足を引きずった。
「やー。有難い。ずっと草だけで食いつないでたからよぉ」
男は何度もアザミに頭を下げ拝み、干し肉を齧ってはにかんだ。
「ヌシぁミヤマ[[rb:人 > びと]]っぽくねぇの…」
「なんだミヤマ人って。ミヤマは家の名だよ。俺らはハヤセ人だ。ここらからずうっと西の先、[[rb:火神岳 > ほかみだけ]]の中腹に住んでんのさ」
西を指した。目の前に折り重なるニコシの山々を遥かに凌ぐ高山が、天気の良い日に顔を出す。その辺りにいるのだそうだ。
「あの山、年中白いじゃろ。雪の中で暮らしてんのか」
「そりゃ、上の方だけさ。住んでんのは、もっと下の方。けど、何もねぇとこさ。木だってこんなに生えてない。草ばっかりで……。馬と羊を追って暮らしてる」
男は項垂れた。
「娘がいるんだ。お前さんより少し小さくてさ。いつも父ちゃん、父ちゃんてついてくるんだ」
男は久々に人と会えたのが嬉しかったのだろうか。それから請われずと、己の身の上を話し始めた。
あぁ、こいつも人なんじゃ……。
男を見てアザミは思った。ミヤマの兵はアザミにとって敵兵でしか無かったが、初めてその兵を人なのだと感じた。
「……仲間、呼んでやる」
担ぐ義理はない。だが、仲間に知らせてやるくらいならしてもいい。
善意が芽生えた。しかし男は物悲しい顔で首を振った。
「や、いいよ。戦終わってないんだろう?俺はさ、もう人を殺すのも、仲間が死ぬのを見るのもたくさんなんだ。このまま故郷を……てよ、娘の所へ戻……」
「たくさん……?」
アザミの口から言葉が漏れる。
ぽつりと[[rb:熾 > おき]]から火が起こった。火はゆっくり、アザミの胸を焦がす。男は何か言い続けていたが、その言葉はもうアザミの耳には入らなかった。
*
[uploadedimage:16951031]
「気づいた時に、男は骸になっとったよ」
アザミの口が紡いだ。
「貴女は……後悔を?」
夫が言う。
胸が拍動した。久しく大人しくなっていた[[rb:熾 > おき]]が、また燃え上がるような気がした。
「……たくさんじゃと男は言うた。殺すのも、死ぬのを見るのも。娘に会いてぇとも。ヌシらが攻めてこんかったら、ワシらは何も失くさんかった。親も、子も仲間もの……」
暗い影が、頭にちらついた。
「ワシはあの秋、ずうっと穴を掘っとったよ」
「穴?」
「骸を弔う為の穴じゃ。ミヤマの軍が通った郷をひとつひとつ回っての。あまりに多くて1人ずつ塚も作ってやれん。逃げる間も無かったんじゃろな。女も子供も多くあった。[[rb:母 > かか]]さに添わしてやりとうても、誰の子かもわからん……。まとめてひとつの穴じゃ……。後悔なんぞ、ある訳もねぇよ。ミヤマは…ワシらの仇じゃ」
言うと、夫の目が哀しげに揺れた。
「私は……いえ、私こそが……」
ミヤマの嗣子だと言うのだろう。
アザミは再び夫を胸に抱いた。
ワシぁいけずじゃ…。こいつが国を負う嗣子であろうとする事を分かってて。こいつが何も知らん子じゃと知ってて。それでもワシは怨みを忘れられんのじゃ。
山と積まれた骸がアザミを呼ぶ。アザミは遺恨に呑まれた。
「ヌシが心地えぇと言うた腕が、この首を絞めるかもしれんゆう事を覚えとけ……」
アザミの口から呪いが零れ落ちていた。
*
この温もりの中で死ねるならそれも悪くない……。
胸の柔らかさに抱かれたまま、ウマラは思わないでもなかった。
───立派におなりください。そして父君の輔けに───
男の声が聞こえた。
私は、まだ私の死際を選ぶべきでは無い。
「心を留めておきます。貴女の、私のクニの為に……」
妻の腕に頭を預け、目を閉じた。
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