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夫婦(めおと)の形、親子の形ー創世暦308年 新越国 中秋ー

  「ゔぁ…あ!!」

  横で我が子が声を上げた。視線を移すと、目が合う。どうだろう、凄いだろうと言わんばかりに目が輝いている。ここのところ、つかまり立ち出来るようになった子は、こうして立ったり座ったりしては声を上げるのだ。

  「上手いものだな、クマガシ」

  「だ!!」

  言葉は話せぬが、不思議な事にこちらの言うことは解るらしい。声をかければ、返事をする。褒めれば喜ぶ。

  「あ!!」

  ガタンと音を立てながら、立ち上がった。そしてまたしても得意気な顔でこちらを見る。

  「上手いよ、クマガシ」

  「だ」

  うん、そうだろう。ふんと満ちりた顔をしてしゃがむ。

  「あ」

  声が呼ぶ。

  「お前は疲れぬのか?」

  「んむ」

  立ったまま体を揺さぶる。そうじゃないだろうと。

  「あぁ、上手いな。上手いよ」

  「だ!!」

  褒めてやらぬと抗議する。何とも生意気なものである。

  そして先程からこうして机を揺らされるものだから、私の作業は一向に進まない。

  「今日は諦めることにしよう」

  あちこちの郷から報告された穀物の取れ高を確認するつもりだったが、こう[[rb:暇無 > いとまな]]く呼ばれていては、見る事さえ叶わない。

  そろそろアレが来そうだが、まぁ…言い訳もあるのだから良いだろう…。

  筆を小さな甕に入れ、筆先を濯ぐ。甕の中は雲が広がるように黒くなった。

  微かな足音がして、室の前で止まる。アレだ。

  「若、失礼致します」

  通常入って良いかを聞くものだが、この男は違う。最初から「入りますよ」と入ってくるのだ。

  「と、とっ!!」

  入ってきた男に手を伸ばして、クマガシが言った。

  「トクサです、クマガシさま。しかし、このような所にお一人とは珍しい。母君は如何なされましたか」

  我が腹心の一人である、トクサだ。赤子相手に大真面目でこのように話す。さすがに分かりはしないだろうと呆れてしまう。そしてトクサにとって、幼子と母親は対であるらしい。

  「狩りに行くからおいてく。と言って朝出かけていったよ」

  返事のできぬクマガシの代わりに言うと、トクサはわざとらしいため息をついた。

  「あの方はご自分の立場を心得ておられないようです」

  「たまにだ。構わんよ。じっとしていられない質なんだよ」

  妻をかばう私に、トクサは冷ややかな視線を向けてくる。ただでさえ愛想のない顔だと言うのに…。

  「若がそのように寛容に接するから、勘違いされるのですよ。あの方には……」

  「あ゛っ!!」

  タラタラと流れる文句を遮るように、クマガシが声を上げた。

  「子の前であまり文句を言うてくれるな…」

  「だっ!!」

  クマガシが同調するように声を上げ、トクサはムッと閉口した。

  賢い子だ…。心の中で褒めてやる。

  何においても率直である所がトクサの長所だ。諫言は金に勝る価値がある。とは言え、トクサの場合は時にしつこいし、長いのだ。

  クマガシの頭を撫でると、クマガシは満足気に微笑んだ。さて、この子は言葉だけでなく、心も読むのだろうか。

  たわいもない妄想を拡げていると、クマガシはヨタヨタとトクサの後ろに回り込んだ。

  「如何なされましたか」

  「んっ」

  小さく返事をすると、トクサの上衣をぎゅうと握りしめる。

  「私は怒ってはおりませんよ」

  トクサは困惑した様子で、クマガシを見ている。

  気を遣わせたとでも思っているのだろうか。そうでは無いのだがな…。私は少しおかしくトクサの姿を見た。

  「オギ。水甕を用意してくれ。飲む訳では無いから汲み置きで構わない」

  オギという下男に申し付ける。短く返事をすると、すぐに階下へ消えた。

  トクサは相変わらず、不可思議な顔で私とクマガシを見比べている。

  「お持ち致したましたで」

  独特な訛り言葉でオギが戻ってきた時、湿り気のある音と共に芳しい香りが漂った。

  「っ……クマガシさま」

  トクサだけが眉をしかめる。

  「赤子もな、用を足す時は人に見られたく無いらしいよ」

  「私は岩ですか」

  [[rb:慍然 > うんぜん]]とした表情を浮かべる。

  「そんな所だ。クマガシ。シッコはいいか?」

  「なんですか、その言葉遣…」

  「だっ!!」

  またしてもトクサの言葉を遮った。

  本当に賢い。

  私は笑みを浮かべて、クマガシを呼んだ。尻の辺りから、変わらず芳しい香りが漂っているが、当の本人は気にならないらしい。機嫌良さそうに近づいて、私の胸元へ収まった。

  「お前は気にならぬかもしれんが、臭うのでな。綺麗にしておこう」

  「んむ」

  私の肩に手を置いたまま、クマガシは足を踏み鳴らした。じっとしていて欲しいものだ。

  傍らに置かれた、なみなみと水が張られた甕。他にも深めの器と、布切れ数枚、たすき。

  オギという男はそつがない。

  私はたすきを回して袖を絞った。

  「若、まさか若がおやりになるのですか?そのような事、下男にお任せ下さい」

  トクサの眉間にシワがよっている。

  「なに、わざわざ人に任せることでもない。コレは私が寝所に行くといつも漏らすのでな、慣れてしまった」

  「慣れるとか、慣れないとかではありません。人には役割というものがございます」

  チラリとオギに目を遣った。トクサの顔は私からは見えないが、大方の予想は着く。

  オギはあからさまにすまなそうな表情を浮かべ、肩をすくめて見せた。

  「ワシもやる言うとるんですが、若が良いと仰るんで……」

  「推してするのが、お前の役であろうが」

  声に苛立ちが混じる。涼やかで沈着に見えるが、案外に短気な男だ。いたたまれなくなったオギが、助けを求める様にこちらを向いた。

  「トクサもしてみるか? 女に子が宿ったと言っていただろう。生まれる前に慣れておくというのも手かもしんぞ?」

  トクサは私より五つ年上ではあるが、主に先んじて妻取りをする事を憚って婚期を遅らせたらしい。真に生真面目な男だ。

  「子は女が育てるものだと思っています。少なくとも幼いうちは」

  そういうものであろうか。

  「私は母と共にいた記憶は無い」

  物心着いた頃、私の傍らにいたのは父と臣であった。母は大王の臣たる子を養育する素養がない、とみなされたから。進言したのはトクサの父であったという。

  トクサも聞き及んでいるのだろうか。僅かに目を伏せた。

  「お前を責めている訳じゃない。オワセ殿とトクサの言い分に優劣をつける気もない。因習などは、その時々によって容易く変わってしまうものだ。ならば、思いのままに従っても大きな差など出ないのでは無いかと思ってね…」

  汚物にまみれた尻を拭く。トクサが眉をしかめた。

  「そう嫌うな。幼子も老人も生きている限り、食いもすれば、用も足す。お前も、私もな」

  「それは…そうですが」

  空の器におしめを入れると、オギがまとめて下げていった。

  残りの水で清拭する。オギが置いていった目草(薄荷)を手に揉み込むと、爽やかに香った。

  尻が軽やかになったクマガシは再び机にとりつき、むっと立ち上がって振り向く。にひっと笑みを浮かべた。

  「上手だな、クマガシ」

  「だ」

  それからクマガシは飽きることなく、立ったりしゃがんだりを繰り返していた。

  「なぁ、トクサ。お前は初めて立った時の事、歩いた時の事を覚えているか?」

  私はトクサに投げかけた。トクサは小さく眉根を寄せる。

  「まさか。そのような時の事を覚えている者などおりませんよ」

  呆れたような顔で私を見下ろす。覚えている者などいやしないだろうと。

  「そうだろう」

  私は肯定した。怪訝な顔を向けるトクサへ続ける。

  「だから、私達が見ていてやるのだ。立つ事も、歩く事も。いつしかそれが当たり前になって、その感動を忘れてしまっても。お前はこうだったのだと教えてやる為にな」

  子を持つというのは不思議なものだと思う。全て己の思うように生きてきたのに、そこに子がいると同じようには済まない。

  腹が減った、尻が気持ち悪い、遊べ。事ある毎に呼ぶ。こちらが放っておけないほど、やかましく声を上げて泣く。しかし泣く事しか出来ず、そのままに捨ておけば死んでしまうほど弱い。

  時に腹立たしく、時にどうしようもないほど愛おしいと感じるのだ。

  「父上が仰っていた。子というのは案外あっという間に育ってしまう。もっと見ておけば良かったと。なぁ、トクサ。今しか無い、この時を。私に与えてはくれないか?」

  小さく懇願する。

  トクサの表情に、これといった変化はない。まだ明確に捉えられないのだろう。子が生まれれば、少しはわかるだろうか…。

  淡々としたトクサの顔を眺めていると、遠くからドスドスと床を踏む音が響いた。

  「か。か!!」

  クマガシが音の方を向いて、嬉しそうに声を上げる。

  ああ、帰ってきたな……。

  入口に掛けていた簾が勢いよく放たれた。

  「帰ったぞ。ほれ、大物じゃ!!」

  両肩に跨って背負った鹿を平手で大きく打ち、白い歯を剥き出して笑い声をこぼす。妻のアザミは大物を射止めた様で、殊の外機嫌が良さそうだった。

  「だ……」

  這いずって母の元までたどり着いたクマガシは、ヨタヨタと足元にまとわりつく。アザミは己の足に取り付いたクマガシを器用に足で持ち上げた。

  「えぇ子にしとったか?」

  片手でクマガシを吊り上げると、鹿の上にぽいと載せる。なんとも乱暴な様だが、クマガシは恐れもせずにアザミの頭をがっちりと掴んだ。

  「アザミさま。まずは若に礼を申し上げるべきではありませんか」

  そのまま立ち去りそうなアザミを、トクサが呼び止める。険のある声が、アザミをしっかと咎めていた。

  「礼?」

  アザミは胡乱げにトクサを見返した。

  「貴女さまがおられぬ間、クマガシさまのお世話は誰がしていたと思っておられるのです。若はクマガシさまの守役ではありません」

  「守役のぉ…」

  断固とした態度を崩さないトクサを、アザミは嗤った。そして、その顔のままこちらを向いた。

  「おい、ウマラ!! ワシはクマガシが生まれてこのかた、常々傍におるが、ヌシぁワシに礼なぞ言うたことあるか?」

  歯牙にもかけない様子が、トクサを煽り立てる。

  「貴女と若が同列だとでもお思いか」

  声を荒らげたトクサの言葉が乱れた。

  故あってチハラの都で育ったトクサは、この国の誰よりも序列にうるさい。地方豪族であるニコシ氏のアザミは、己らより下位であると心の内にある。一方のアザミは、古よりこの地を治めてきた家の者としての矜恃がある。二人は険悪であった。

  「ワシはウマラの妻で、ウマラはワシの夫じゃ。ヌシなんぞに意見される謂れはねぇんぞ」

  「私はミヤマの臣。家に乱れがあれば[[rb:糺 > ただ]]すが務め。それと人前で軽々しく若の名を口にするべきでは無い。改めなされよ」

  ともすれば取っ組み合いそうな二人の間に、私は立った。

  「アザミ。いつもありがとう。おかげでクマガシは健やかに育っているようだ」

  「若……」

  「ほうじゃろよ? ヌシはようわかっとるわ」

  トクサは咎めるような目をし、アザミは高らからに笑い声をあげる。

  「ほいじゃぁの。ワシはスグにコレ捌くけぇ、夕餉楽しみにしとれよ!!」

  満足気な笑みを浮かべて、アザミは去っていく。ブツブツと文句をこぼすトクサを労い、共に座った。

  再び机に広げた木冊に目を通していく。

  クマガシがいなくなった室は驚くほど静かで、虫の音がはっきりと響いた。しばらくすると虫の音に混じって、トクサの小さな声が聞こえた。

  「なにか誤りでもあったか?」

  声をかけると、トクサは苦笑混じりに首を振った。

  「いえ…若はクマガシさまに押印を任されましたね」

  指し示した先に、可愛らしい指跡が点々とついていた。

  「はて、いつの間に……」

  「どうか執務をしながらの子守りはお辞め下さい」

  「ああ。そうしよう」

  落ち着きを取り戻し始めたトクサに私は頷いた。

  *

  その日の夕餉、私は一の城へ呼ばれた。この国では女の居住は郷の内に囲った一角にあり、男とは生活圏が異なる。思えば妻と食事など、随分久方振りな気がした。

  下女に案内されたのはアザミの居室ではなく、広間であった。彼女は城に仕える下の者と共に食事をするらしい。女であふれた広間は、さながら都の雑踏のような騒がしさだ。

  「声を張らねば、聞こえないな」

  「ヌシは声が細ぇけぇの」

  いつも通りの彼女の声は、賑やかさの中でもよく通る。 [[rb:呵々 > かか]]と笑い声をあげながら、這い出しそうになるクマガシを抑え込んだ。

  「さて、初めての鹿はどうかの」

  「もう[[rb:肉 > しし]]が食えるのか?」

  「出汁じゃ、出汁」

  驚きの声をあげる私に、アザミは呆れたような声で返した。手元の椀はよそったばかりと見えて、白い湯気が立ち昇っている。

  「まっ」

  膝の上で嬉しそうにクマガシは声を上げた。小さな口に匙を差し入れると、一瞬ぶるりと震えた。

  「ほうか、美味いか」

  動きを止めたクマガシを見て、アザミは満悦そうに微笑んでいる。

  美味い……のか。

  ようやく口を動かし始めたクマガシの表情は、喜んでいるようには見えない。変わらずホカホカと湯気が立ちのぼる椀を見て、私も小さく身震いがした。

  「アザミ……その粥は熱くないか?」

  「ちょうどええよ」

  アザミは一匙すくい、口に入放り込む。

  「旨い」

  続けてもう一口食べ、アザミは目を細めた。

  「……私は熱いものが苦手なんだ」

  「あ? 知るかよ」

  にわかに顔を曇らせ、ちらりとこちらを睨む。

  「だから…クマガシも熱いのではないか?」

  投げかけた疑問を、アザミは笑って返した。

  「クマガシはヌシにひとっつも似とらんじゃろよ」

  「く、口の中だけ。似てるかもしれないではないか」

  言ってはみたものの、考えれば己でも馬鹿馬鹿しい気がする。アザミも思ったのだろう。ニヤニヤとした薄笑いでこちらを見ている。

  「ほしたら、ヌシがやってみたらええよ」

  クマガシをスッと差し出した。

  私が手を差し出したものの、クマガシは不思議そうに目を丸くするだけでこちらへ来ない。アザミから先に椀を受け取ると、釣られたようにこちらへ収まった。

  粥をすくった匙から湯気がたたなくなるまで冷まし、口に差し入れる。今度は震えることもなく、粥を咀嚼した。

  「んま!!」

  声を上げ、私の腕を叩く。催促されるまま、私はゆっくりと粥を運んだ。まだ歯の生え揃わない口だが、クマガシは器用にモゴモゴと咀嚼している。私は微笑ましく、その様子を眺めた。

  「ほら、やはり熱かったようだよ」

  はぁ……ん

  アザミは気の無い返事をした後、ふっと笑いだした。

  「ほしたらよ、飯時はいつも呼んでやる。ワシはあっつい飯が食える。ヌシがクマガシに飯やりゃぁ、ちょうどええ頃合で飯も冷めとるじゃろよ」

  「それは合理的だ」

  あぁ、しかし。どうだろう。毎度、子に飯を与えに行っている。しかも、妻が先に食べているなどと聞けば、あれこれとやかましく言ってくる者もあるだろう。

  脳裏にトクサの顔が浮かんだ。

  「ただの戯言じゃ」

  アザミの声にトクサの顔が掻き消される。粥を腹に収めたアザミが両手を差し出していた。

  「か!!」

  見るなり、クマガシは身を乗り出すように、這い出して行った。母の方が良いらしかった。

  *

  夕餉を終えてアザミの居室にクマガシを連れて行くと、クマガシは思いの外早くに眠りについた。

  アザミは湯を沸かした器から立ち昇る蒸気に、矢柄をあてている。使用している間に癖がつくので、たまにこうして直すのだそうだ。私は真剣な面持ちで作業するその横顔に声を掛けた。

  「いつもは中々寝付かないのに、今日は早かったな」

  アザミはフンと鼻を鳴らす。

  「赤子も慣れん者とおると、気疲れすんのじゃ」

  「私といる事が?」

  己が若いということは自覚している。しかしまがりなりにも、父親ではないか。気疲れなど…心外だな。

  少なくとも日中、クマガシの様子からはそのように感じているとは思えない。

  「あまりそばにいてやらんと、そのうち顔も忘れられるぞ」

  追い討ちをかけるような言葉。どう言い返そうか、私は口をつぐんだ。

  「クマガシは[[rb:男子 > おのこ]]じゃ。そのうち[[rb:男衆 > そっち]]へ行くんじゃ。もう少し連れてやっても良かろうよ」

  アザミは変わらず、目を矢へ落としたままだ。矢柄を腿に押し当てながら、手慣れた様子で矯正している。

  武具に対する扱いは私より余程板についていた。

  「貴女と、私。どちらが育てた方が雄々しく育つだろうね?」

  私が言うと、アザミは初めてこちらを見た。

  「そりゃぁ、ワシに対する嫌味か?」

  女だてらに弓を扱い、男も凌ぐ勇ましさを見せる妻。己の正しさを貫き、行動するこの妻が、私は嫌いでは無い。

  「いや、人には得意不得意があるだろう。私が手解きするより、貴女に任せた方がより相応しいと思ってね」

  私が言うと、アザミは視線を矢へ落とす。そして再び鼻を鳴らした。

  「ほうじゃの」

  自ら言った言葉ではあるが、こうもすんなり肯定されては立つ瀬がない。

  「ま、ワシが育てりゃ駆け引きは出来んぞ」

  「駆け引き?」

  「ほうじゃ。ワシぁ正直じゃからの。腹にもねぇ事を言うたり出来んし、あるもんをねぇとも言えん。互いの腹を探って、己が有利になるような嘘もつけん。ヌシは利に敏い」

  嫌な言い方をする。方便というものだ。

  「必要なんだよ?外へ出れば味方ばかりでは無いのだから」

  一応抗議すると、アザミは小さく笑みを零して頷いた。

  「そう……。ならばやはり子は二人で育てようか」

  「ヌシの目は狭いの。二人ではなかろうよ」

  「?」

  「年寄りも、兄さや、姉さも。空をゆく鳥も、時には地を這う虫も。周りの全てのもんが人を育てんのじゃ」

  なるほど。そうなのかもしれない。

  夏鳥が去ったニコシノクニは、今燃えるように木々が赤く染まっている。大陸から伝わる錦のような美しい森は、その背後に厳しい冬が近づいている事を私達に教えていた。

  クマガシの寝顔を眺める。ほんのりと頬を染めて、寝息を立てていた。まだとても大人になった姿など想像もつかない。だが、いずれは己を越していくのだろう。

  そう思うと、今この時がたまらなく愛おしく感じた。

  指先で頬に触れる。指先が埋もれてしまいそうなほど柔らかい。クマガシはむずかるように、ピクりと動き、手に握っていた何かが零れ落ちた。

  「アザミ。クマガシに何を持たせているんだ?」

  手のひらに収まるほどの大きさで、やや弧を描いた本体に吹き口のようなものがついていた。

  「あぁ、鹿笛じゃ。今の時分は牡鹿が雌を囲うけぇ、よう釣れんのじゃ」

  なるほど。秋に鹿が鳴くのはそういう事か。しかし、多くのものが暖かい時期に繁殖する事を思えば、不思議な気もした。

  ぼんやりと鹿を思い描く。

  耳元を生暖かな風が掠めた。

  「ところでよ。鹿は子作りの時期じゃが、ワシらはどうする?」

  吐息が呟いた。

  「あ……えっ?」

  振り向くとニヤリと片笑みを浮かべたアザミ。

  「ヌシを釣るに、笛はいらんの」

  肩を揺らし、また一層目を細めた。

  なんと意地の悪いことか。彼女はこうしてたまに私をからかって遊ぶのだ。

  私はアザミの襟を開き、胸元へ鹿笛を押し込めた。

  「私は、ヒトだからね。笛など要らないだろうよ」

  「やらしい男じゃの」

  [[rb:氈瓜 > かもうり]]のような大きな乳房の間から、アザミは恥じる様子もなく笛を取り出す。子供のイタズラでもあしらうような態度が気に触った。

  「貴女が、呼んだのでしょう?私を」

  すごんだ私に、アザミは丸くした目を向けた。

  「ワシが…呼んだか?」

  白々しいにも程がある!!

  もう一言文句でも言おうかと思った瞬間、私は彼女の腕に抱え込まれた。

  「戯言じゃ、戯言。ヌシゃぁいつもむつかしい顔しよるけぇ、たまには笑かしてやらんとよ?」

  何が笑かしてか。笑っているのは貴女の方だろう。

  身体に押し付けられた彼女の乳房が、細かく揺れている。[[rb:何時 > なんどき]]でも温かい彼女の身体は、冷えを感じさせる秋夜のこの頃も、変わらず温かかった。

  まぁ、いいか。

  ぬるま湯に浸かるような心地良さを感じながら、私は目を閉じた。

  「矢は片付けないのか?」

  まだ作業していたはずだ。そのままにして怪我でもしてはいけないと思った。

  「ヌシが寝たら片付けるわ」

  頭上から声が聞こえた。

  「寝ないよ」

  私は答えた。

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