第8話  「しょ、少年。もう少し違うところにつかまってくれないか?」 触手なんて怖くない! 6

  イチはアニスが乗ってきた馬を借りると後ろにアニスを乗せて洞窟へ向かった。途中、宿に寄りダンジョンスクイに対策するための装備を急いで整えてある。

  馬は若くないが脚力と持久力のある飛脚馬で、この種は持久力と脚力に優れ普通の馬の倍以上走れるよう品種改良されている。

  イチは荷物が増えたので背中のアニスにバックパックを背負わせている。

  アニスは背の方からイチの腰にしがみつく形になった。

  ところでアニスは幼い頃に母親を亡くしている。

  物心ついた時から父親に連れられて各地を旅していたので、女性と触れ合った経験は数えるほどしかない。

  このような時とは言え、イチの柔らかな身体の感触や微かに匂う女の臭いに心をときめかせたとしても生理的な現象として責められないだろうとは思う。

  「しょ、少年。もう少し違うところにつかまってくれないか?」

  アニスはどうやら殆ど無意識のうちにイチの胸に手を伸ばしてたようだ。

  指摘されてはじめて手の中に今まで触った事のないやわらかな感触があることに気が付いた。

  「わぁっ!? ご、ごめんなさい!」

  悪意がなかっただけにアニスは驚き馬から危うく落ちそうになった。

  「まぁ、減るもんじゃないんだが、すこし痛いんでな」

  イチも特別にアニスを男として意識はしていなかったので特別咎めはしなかった。

  ただ単に敏感な部分に痛みを感じたのだろう。

  そんな一幕がありつつふたりは洞窟の前にたどりついた。

  ◆

  ドラゴンズテイル丘陵地帯は臥竜山脈の北西部を竜の尾に見立てた緩やかな丘が並んでいる。

  一帯はまだ人の手があまり入っておらず、モルカルまで伸びる交易路の周囲を除いて人工物はあまり見られない。

  そのためまだ未調査の洞窟や遺跡が多いのも特徴だった。

  目的の洞窟は交易路から少し外れた見晴らしのいい丘の斜面にぽっかりと開いており、アニスの妹であるシスタが不安そうな顔で待っていた。

  入口には人工物は見当たらない。

  しかし、馬から降りてイチが中を覗き込むと下に降りる為の縄梯子と壁面に先人が釘で貼り付けた緑の布が見えた。

  アニスの言うとおり、今ままでは比較的安全な洞窟だったのかもしれない。

  イチは懐から懐中時計を出して時間を確認した。

  それはところどころ傷ついた真鍮製の懐中時計で、イチが留め金を外すと時計版は15時21分を指していた。

  アニスの父と妹が生きていたとして、見つけて連れ戻す事を考えると夜明けあまで十分な時間があるとは言えない。

  「じゃあ、行ってくる」

  イチはアニスからバックパックを受け取る洞窟の竪穴の幅を確認しつつ降りようとした。

  「待ってください!」

  しかし、そのイチをアニスが引き留める。

  「どうした?」

  「僕も行きます! 冒険の経験はありますから、何かの役には立てるはずです!」

  この時、アニスは単純に自分も役に立ちたいと思ったのもあるだろうが、イチの前で良い格好をしたかったというのもあるのだろう。

  実際、アニスは将来一端の冒険者になるのだが酒に酔うとこの時の事を「あの時は若く、分別がついていなかった。あの時、軽率な行動が取り返しのつかない結果に繋がる事を学んだ」とハーフエルフの仲間によく語っていたらしい。

  「ダメだ」

  しかしイチはにべもなく申し出を断った。

  「どうしてです! ひとりより、ふたりのほうが良いじゃないですか!」

  「すまんが、戦力として数えられん。君が来ると、君を守りながら戦わなければならなくなる」

  「そんな……」

  イチの言い分は正しい。

  そもそも洞窟に潜ること自体がある程度の危険を伴う。

  現実の洞窟は物語のように明るくもないし、平坦でないものが大半である。

  たといアニスに多少の冒険の経験があろうと、状況的には足手まといと言わざるを得ない。

  しかしながらイチも冒険者である。

  アニスの気持ちがわからない訳もない。

  「少年。こいつを預かっててくれ」

  帽子から銅色に輝く山猫の階級章を取り外すとアニスに手渡した。

  「洞窟の中で無くしたくない。無くすと面倒なんでな」

  「イチさん……」

  アニスは複雑な顔をして階級章を受け取った。

  イチが皮手袋をつけているせいもあるが、比較してアニスの手は小さく見えた。少年の手だった。

  「過去に、ダンジョンスクイなら対処した事がある。必ず君のお父さんと妹を見つけてくる。きっと、日の出までには戻る」

  そう言い残して不安そうな顔を見せる兄妹を後に残し、イチは洞窟に降り、二人の視界から消えた。

  スウィートバウムにおけるイチの最初の冒険が今始まるのである。