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蜩(ヒグラシ) -創世歴 308年 新越国 晩夏-
夏も暮れに近づいた夜。虫の音が響く[[rb:臥所 > ふしど]]に乾いた音が鳴った。
「…っと、どうかしましたか?」
差し出した手を叩き落とされた夫が、[[rb:訝 > いぶか]]しげな目でこちらを見ている。
「いや…」
口ごもりながらアザミははだけた[[rb:上衣 > うわぎぬ]]の胸元を直した。
骨ばった細い指を撫でる夫は、どこか不満げに見えなくもない。「見えなくもない」というのは、夫の感情起伏が低いためだ。故にこの男の考えは読みにくい。
「今さら恥ずかしいと言うわけでもないでしょう?思うところがあるなら、言ってもらえた方が私としてもわかりやすくていいのですがねぇ…」
加えてこの夫は他人の心情を読むのが不得手だ。幼い頃から臣下に囲まれて育った為か、窺うということを知らない。 読み取れないから、今もこうしてアザミが口を開くのを待っている。
アザミがこの夫に[[rb:嫁 > か]]してきたのが、おおよそ一年ほど前。夫は十三。男と呼ぶのも[[rb:躊躇 > ためら]]うほど幼い少年であった。夫はそれから程なくして戦の為に国を発つ。相性が良いのか、若かったからか、アザミの腹に子を置いていった。
夫は戦の後、遊学と言って都に留まり、この春になって戻ってきた。それもアザミとは正反対の少女の如き娘を連れて。夫は娘を側室にすると言い出し、一悶着の末アザミも了承して女を家に加えた。そして腹の子を産み、三月ほど経った。
もっとも夫が臥所を訪れるのは、身軽になってから初めてでは無いのだが。
「アザミ殿…。人の思惑というのは見てわかるものでは無いんだよ。言葉にした方がいいと。私は思うけどね」
少し砕けた口調になった夫は己の察しの悪さを棚にあげ、しゃあしゃぁと口にした。本人に悪気は無いが、鼻につく。
「ヌシぁよ、国を出てから女を抱いたろ…。スズメだけじゃのうてよ」
スズメは側室の名だ。
夫は少しでも後ろめたさを感じたのだろうか。目を泳がせ、体を少し揺らした。
このとこ背の伸び始めた夫は少し大人びてきたが、それでもアザミにはまだ幼く感じたりする。目の前で体を揺らしている夫は、さながら母に叱られる子供のように見えた。
「その…たしなみ。と言いますか。覚えておいた方が良いと、伯父が勧めるものだから…」
言い訳がましい夫の言。しかし上目遣いに見てくる夫の目は、よどみなく、あどけない。
アザミはつんと顔を背けた。
「…ほしたら、ワシは」
己の腕を撫でた。指先に隆々とした筋骨を感じた。
アザミは女にしては大柄である。そして並の男では敵わぬような丈夫であった。
「抱きたくもなかろ?」
「…なぜ」
「や…」
答える代わりに、力こぶを作ってみせた。
「あぁ、また。それ?いいじゃないか。羨ましいよ、私はこんなだからね」
骨と皮ばかりかと思う細腕を、夫が突き出す。
「それに不法者が現れても易々と打ち倒せそうだしね」
夫は楽しそうに声を上げる。アザミは小さく息をついた。
己の肉体を褒められ、衛士ならば泣いて喜ぶかもしれないが、あいにくアザミは妻である。
「気になるんだ…?」
夫はアザミの目を覗き込んだ。
以前はさほど気にならなかった。気になり始めたのは、夫が少女の如き娘(実年齢はアザミと変わらないらしい)を連れ帰ってからだ。やはり男はこういう「か弱い娘」が好きなのだと、柄にもなく気になった。未だに少し引きずっているのである。
夫の軽い身体が、アザミの背を覆った。
「私が、貴女をどう思っているか。見るなり触れるなりしてみたらいいんじゃないかな…」
耳元で囁く声がくすぐったい。
「…ん…」
夫の舌先が、返事の邪魔をした。
ほにゃ…ほぎゃぁ…
「あ…」
二人は声を上げる。
パッと背中から離れた夫が飛びつくように、我が子に駆け寄った。
「クマガシ…」
首の座った、生まれ月にしては大きな子の脇を抱えあげる。
「お前は余程父と母が仲良くするのが気に入らないらしいな」
恨み節に呟くと、文句を言うように子は声を大にして泣いた。
「腹減ったんじゃろ。貸せ」
アザミは夫の手から子をもぎ取り、乳を含ませた。
「寝かせる前に乳をやってただろう…」
「赤子はすぐ腹減らすもんなんじゃ。文句を言うても仕方なかろ?」
いつもこうなのだった。子は日頃夜泣きをしない。夜も大体は眠っているのだが、夫が来ると決まって泣くのだ。
「クマガシは[[rb:男子 > おのこ]]じゃ。[[rb:妬心 > としん]]もあるかもしれんの?」
「ほぅ…生意気な事だな。赤子のくせに…」
大して面白くもなさそうに夫が答える。父に返事をするように、子は糞を漏らした。
「……上から、下から忙しい事だね」
顔を背けて夫が言う。
「ほうじゃの…」
アザミは子を寝かせ、おしめを替えた。汚れた布を手早く丸める。アザミは夫の胸に子を放る。夫が子を抱き直した時、コポッという音を鳴らしながら、嘔吐した。
「貴女は扱いが少し雑なんじゃないか」
夫が珍しく[[rb:慍然 > うんぜん]]とした表情を浮かべている。
「そう思ったらヌシがやりゃええよ。さて、洗うか?寝かすか?」
汚物を差し上げて言う。
「寝かす…」
体にかかった吐瀉物を拭いながら、夫が頬を膨らませた。アザミは子を預け外に出た。
「望月が近いの…」
丸々と太った月が辺りを優しく照らしている。夜風はほんのりと冷えて心地がいい。
呼べば侍女は起きてくるであろうが、アザミはものぐさではない。我が子の汚物など、人を起こすまでもなく、大甕にザブザブと浸して濯いだ。
麻縄に通して吊るし、室に戻ると二人は寝息を立てて寝ていた。
一つの子に十四の夫。年の離れた兄弟ほどの差しかない。やはりアザミには夫が子供のように見えた。
子を間に挟んで、アザミも横になった。
「アザミ…アザミ殿…」
夫に揺らされて起きた時、空は白らみはじめ、郷には[[rb:朝靄 > あさもや]]が立ち込めていた。
「何故、起こさなかったのです?」
夫がいきなり恨み言を吐く。
「よう寝てたからの。ワシは優しかろ?」
目は覚めていたが、さも眠そうに目を細めアザミは答えた。
「私が何の為にここへ来てると…」
「何の為じゃ」
夫に先んじて意地悪く聞く。一瞬夫は眉をしかめた。
「言うより行うが易いか…」
肩に手がかかった時、横からまたしても子が泣いた。
「クマガシ…なぜお前はそう泣くんだ」
あんぐりと口を開けた夫が急に立ち上がった。
「昨夜の二の舞はごめんだからね。私はもう行くよ」
嘔吐された事を言っているのか、肩をパタパタと払った。[[rb:上衣 > うわぎぬ]]を整えた夫は去り際に一度振り向く。
「また、来るから……」
板を踏む音がいつもより、ほんの少し荒々しく感じた。
林の中から時期外れにヒグラシの鳴く音が一つ聞こえる。
「ありゃぁ連れ合いも見つけらねぇの…」
ただ一夏限りの命だ。その中で出会い、睦み、死んでいく。出る時期を外れた蝉は、仲間にも女にも出会えず、独り死んでいくのだろう。
「人は幸せじゃ」
何度と年を越えてゆく。別れもあれば、出会いもある。季節問わずだ。人の営みはゆっくりと長い。
「今か、この時と鳴かずともよかろうよ?」
眼下に小さく見えた夫の背に、アザミは小さく笑みを漏らした。
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