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異国の妻と男の思惑 -創世暦308年 新越国 初夏-

  「アザミさまー。アザミさまー…」

  外から聞こえる甲高い少年の声に、アザミは手を止めた。不器用ながらにこしらえていた縫い物を置き、外へ顔を覗かせる。七つばかりの少年がきれいに削り出した棒を持って立っていた。

  「おぉ、ヨシか」

  声を掛けると、ヨシと呼ばれた少年は握った棒を高々と掲げて振る。アザミは産み月も迫った大きな腹に手を添え「よっ」と立ち、表へ出た。

  「一つお願いします!」

  軽やかな笑みを浮かべたヨシはアザミの返事も待たず、棒切れを投げて寄越す。苦笑混じりで「ちょっと待ってろ」と答え、姿勢を整えてヨシの前に立った。

  もとより大柄である。今のアザミからは胸と腹と少年の頭しか見えない。少し後ずさって、間合いをとる。棒を下段から脇に構え、ヨシを見据えた。

  「ええよ」

  アザミの声を合図にヨシが飛び付く。まっすぐ伸びてきた棒をアザミが跳ね上げた。体をのけぞらせたヨシは後ろ足で踏ん張る。手から離れかけた棒を持ち直し横へ薙ぐ。アザミは後ろへ引き一閃をかわすと、空いた脇を突く。ヨシはとっさに肘を下げた。棒がしたたかにヨシの肘を打つ。

  「っつ!」

  ヨシは悲鳴にならない悲鳴をあげその場に屈み込んだ。

  「よう、避けたの!」

  ヨシは涙ぐんだ眼をアザミに向ける。

  「当たってますけど…」

  アザミは手にした棒を軽く肩に担ぎ、笑みをこぼした。

  「脇を突かれりゃ死ぬる。ほしたら腕一本捨てたがええよ」

  「はぁ…」

  肩を落とすヨシはため息をつきうつむいた。

  「少し速ようなった。狙いは、甘ぇの」

  ヨシの握る棒を引き、己の額に向ける。そしてまっすぐ下に下ろした。

  「前に言うたじゃろ。眉間、鼻下、顎、喉、みぞおち…ヌシぁ男じゃから金玉か。何となく突くな。狙ったところを確実に打てるようにせぇ。ほしたら外しても、どこかしらにあたんじゃろ」

  ヨシはようやく立ち上がって頷いた。

  「まぁもっとも、しばらくワシは相手にしてやれんぞ」

  アザミは張り出した腹をとんと叩く。

  「ワシは良くても皆が気をもむでの…」

  アザミにとって幼子の相手など腕一本で事足りる。しかし腹の子は国主の孫である。何かあればただでは済まない。周りから見れば気が気でないだろう。今も遠くから女が身を寄せてこちらを見ていた。

  「では…アザミさまが身軽になるまで、一人で鍛練します」

  「おぅ、そうせぇ」

  固く結んだ口元にヨシの決意が見てとれる。鷹揚に頷き棒を返した。

  不意に華やかな笑い声が脇をすり抜けた。[[rb:女子 > めのこ]]らがそれぞれに篭を提げて連れ立っている。後ろの一人が振り向いた。

  「アザミさま。桑の実が熟れていますよ。ヨシなんて放っておいて行きましょう?」

  「うっせぇっ!」

  ヨシは間髪いれずに応酬し、[[rb:女子 > めのこ]]らはわっと笑い声をたて駆けていった。

  「桑じゃとよ。どうする、ヨシ?」

  「俺は男ですから、女子とは遊びません」

  少しばかり腹をさすりながらヨシはつまらなそうに横を向いた。ついこの間まであの姉さどもに手をひかれていたのに。そう思えばおかしくもあるが、あえて笑いもしなかった。そういう年頃なのだ。

  「ほしたらよ、ヨシ。ワシの供をせえ。ワシはもう何時なんどき生まれるとも知れん。何かあったら助けがいる」

  「それならば…」

  ヨシはキラリと眼を輝かせ、スッと背筋を伸ばした。

  ヨシを供にアザミは郷の外周を囲む冊を抜け、南の山肌へ出た。里から少し降りたところに小規模であるが義父が桑を植えさせていた。初夏はたわわになった実が郷人の小腹を満たし、冬に枝を刈り入れる枝は、紙や編み布の材料となった。着物は織布が中心だが、丈夫な編み布は、小物をいれる袋によく使う。

  桑畑を見ながらアザミはふと夫を思い出す。

  昨年の夏、夫は桑を食べる蛾を探していた。何でも繭から高価な布が作れるらしい。いつかの時のための桑なのかもしれない。

  「しかしちと混みすぎじゃの…」

  桑はひこばえが伸びやすい。幹を太らせるために、必要ない枝もありそうだった。アザミは懐から小さな布を出し、細く裂いた。

  「何しとられるんです?」

  裂いた布を枝に巻くアザミを、ヨシは不思議そうに眺めた。

  「要らんようなもんに印つけとるんじゃ。伐った方がええと思うてよ?」

  「俺。俺もします」

  興味深そうに眼を開いたヨシの手に、布切れを載せてやった。

  この頃の子供は何でもやりたがる。やらせればできる。アザミは幼子が育つ様子を目にするのが好きだった。

  大方の目印をつけ終えると、二人は畑の脇に腰を下ろした。女子らが集まってきて座る。皆で篭から桑をつまんだ。

  [[rb:新越国 > ニコシノクニ]]は深い[[rb:山間 > やまあい]]にある。[[rb:畑 > はた]]の向こうは林があり、その先は森が広がり、山々が幾重にも重なっている。ここからは姿、形も見えぬ、はるか向こうに宗主国「[[rb:千原国 > チハラノクニ]]」があった。

  「若さまはまだ帰られんのですか?」

  南に眼をやるアザミにヨシは問う。

  若。アザミの夫、ウマラは千原国の都にいる。秋、南西の属国「[[rb:萱野国 > カヤノノクニ]]」が攻められると、新越国は千原の要請を受け、軍を旅し山を降った。戦の後、千原の都を目にしたウマラは遊学を希望して都にとどまり、未だに帰る気配はない。

  「若さま、何しとられるんです?」

  「ほうじゃの…。宝をこしらえとる」

  「宝ですか!?」

  驚くような声をヨシがあげる。

  「ほうじゃ。ヌシらが大きくなった頃、国が豊かになっとるように、色んな国の技を盗んでくるとよ」

  「はぁ…そりゃぁ気の長い話ですね」

  わかったようなわからないような顔をするヨシをアザミは笑った。

  「万丈の山も一歩踏み出さねば登れん。若木も植えてすぐに大樹にはならんじゃろ。何事も時っちゅうのはかかるもんじゃし、まずは始めてみねぇとよ?」

  アザミが[[rb:嫁 > か]]した時、ウマラはアザミにひとつ約束をした。

  「私の家が貴女方の国を侵した事は無かったことにはできないが、その時失った以上の恵みをもたらすつもりだ」と。一見風変わりな夫が、何をもたらすつもりなのか。アザミにはまだ片鱗も見えていない。だが、アザミとは違った慣習を持つ夫のする事が少し楽しみでもあった。

  篭を空にしたアザミはゆっくり立ち上がる。

  「さて、ヨシよ。ヌシ、使いを頼まれてくれんか?」

  「はぁ…」

  「尾鷲の爺さまに間引きの話をしてくれ。どうしても伐らねばならん訳じゃねぇ。よう相談してくれと、うまく伝えてくれ」

  「はいっ」

  使いを喜んだヨシは跳ぶように集落へ駆けていった。

  噂をすれば…と言うのだろうか。アザミが集落へ戻るとウマラから文が届いていた。アザミの出自である[[rb:柔 > ニコシ]]族は文字を持たない。従って文が届いても読むことができない。文いつも決まった女が読み上げていてくれた。

  女はウマラの臣であるトクサという男の妻らしい。都で育ったという女は、立ち居振舞いが繊細で、奥ゆかしい。この山国ではあまり見ない女だった。そしてなかなかの才女なのだという。文を読み上げる声は歌の音のようで、アザミは穏やかに聞き入った。

  文はこちらを気遣うものと、近況。いつもとさほど変わりない。ふと、女の声が途中で途切れた。

  「どうした。終わりか?」

  終わるには不自然な切れ方だ。

  「いえ…。若君がお戻りになるそうです」

  白い頬にわずかに赤みが指していた。彼女の夫であるトクサはウマラと共に都にある。当然一緒に戻ってくることになるだろう。彼女も嬉しいのだとアザミは目を細めた。

  「ほうか。夏になるかの」

  「いえ。お発ちになったそうです」

  「…あぁ?」

  「文を出して、すぐに。ただ国内に入ってから立ち寄るところもあるそうで、文より十日ほど遅くなると…」

  「十日…ちゅうてもすぐじゃろが。急じゃのー…」

  アザミは文をしまい、表に出る。目の前によく肥えた女が通った。

  「[[rb:母 > かか]]さま」

  「あぁ、アザミ。聞いたかい?あの子帰ってくるんだって」

  ウマラの母。つまり国母であり、アザミにとっては義母でもあった。どういう謂れかは聞いていないが、出自は低いらしい。その為かよく働く。態度も平民のそれで、アザミにとっては馴染みやすかった。

  「そうらしいですの」

  「もっと前もって言えばいいのにねぇ」

  文句を垂れているが、表情は喜びに満ちていた。離れたまま年が明け、十四歳。取り分けて小柄な息子は、彼女にとってまだまだ子供で、遠くに遣るのは不安だったのだろうと思った。

  「ワシ[[rb:父 > とと]]さまに用事があんのじゃが、空いとるじゃろか?」

  「あぁ、今は誰もいなかったよ」

  せわしなさそうな義母を見送り、アザミは義父のいる一の城へ向かった。

  ウマラは食が細い。いい肉でも食わせてやろうと思い、アザミは義父を通じて従弟のハリに使いを出した。ハリは[[rb:斐磨 > ヒマ]]族という狩猟民族である。アザミの出自である柔族も山の民ではあるが、斐磨族は耕作を行わないので、より山に近い存在であった。

  アザミは女だてらに弓を得意とする。以前であれば自ら弓を持ち森へ入ったが、今はそれもままならない。少し動けば腹が張った。

  「子を抱えるゆうのは難儀なもんじゃ…」

  腹をさすると、返事をするようにぽこっと反応があった。

  「ヌシぁええ子じゃ。もう少しまっとってくれよ…」

  腹に声をかける。またぽこり、ぽこりと中から蹴った。お産に男はいらないが、それでも生まれてくる子は夫に見せてやりたい気がした。

  数日するとハリから仔鹿の肉が届く。肉はとりたてより置いた方が旨くなる。ハリは優れた[[rb:猟男 > さつお]]だ。日数を逆算して獲ってきたのだろうと思った。

  「さすがじゃの…」

  一人ごちると肉を塩と香草で揉みこみ、甕にしまった。

  ある日突然[[rb:妻合 > めあ]]わされただけの夫。思えば共に過ごした時よりも、離れている時の方が長くなってしまっている。それでも心の隅に想ってしまうのは、子がいるからかもしれない。いなければ、どうだっただろうか…。

  記憶に少し朧気始めたウマラの姿を、アザミは何となく思い出していた。

  ∗

  日が登り朝露がすっかり乾いた頃、[[rb:新越郷 > ニコシノサト]]に懐かしい顔が見えた。

  「オギ!」

  人々に取り囲まれた若者に声をかけた。ウマラの従者として都に付き従っていた男であり、ハリと同じく斐磨の者だ。

  「アザミさま、久しゅう」

  人垣を抜けてオギが近寄った。

  「一人か?」

  見れば他に影はない。

  「ワシ、皆に知らせろ言われて先に走ってきてんのですわ。ほんでまた戻らなあかんのです。ホンマ、トクサさまは人使い荒いねんで…」

  少し日に焼けたオギは少年らしさがぬけ、前より少し男らしくなっていた。

  「昼前には着きますよって…楽しみに…しとってください…」

  オギは急に小さく眉値を寄せ、か細く言った。

  「ほうか? それよかヌシ、疲れとんじゃねぇの?別の者遣らせたらどうじゃ?アレの知己の者なら他にもおるじゃろ」

  オギの顔色を見たアザミは代役をたてるよう言ったが、オギは己の務めだと固辞して南門を出ていった。

  オギの姿が見えなくなるとアザミは女衆に事を伝え、自らも火を[[rb:熾 > お]]こす。知らせを受けた郷はにわかに活気付いているように感じた。

  ええ郷じゃ…。

  かつてこの地の長だったニコシ族。アザミも幼い頃はこの郷に住んでいた。戦で郷をおわれてから、ずいぶんと暗い時も過ごした。ニコシを追いやったミヤマの家に嫁ぐことになって再びこの郷に帰ると知って、手放しでは喜べなかった。その時は「敵地」という思いだった。一年ほど経った今。その気持ちは薄らいでいる。アザミを取り巻く空気は平和そのものだ。

  しばらくして遠くに歓声が聞こえた。

  帰ったの…

  火の番を任せ南門に向かう。馬上の者が遠目に見えた。馬の陰から淡黄色の髪が揺れている。

  「…ウマラ」

  控えめに、声を掛けた。馬の陰から顔が覗く。国から出た時と変わらない、幼さが垣間見える表情。[[rb:鈍色 > にびいろ]]の目が笑った。

  「あぁ…アザミ殿。いま戻ったよ」

  青年に近いやや低い声。アザミの知っている彼の声ではなかった。もっと少年らしい高い声だったはずだ。

  「ヌシ…声、どうした?」

  尋ねると、ウマラは顎を上げ首元を差す。

  「ほら、これ」

  指先に喉ぼとけが顔を出していた。

  「都にいる間にね、声変わりしたんだ」

  少しうれしそうに喉を撫でる。

  「はは…姿は変わらんのに、声だけ低くておかしいの」

  「変わらなくはない」

  馬を降りたウマラが頭に手を添える。

  「背も伸びてる」

  「あー…ちぃとばかじゃがの」

  言われてみればアザミの顎下にあった頭のてっぺんが、今は口元くらいにはなっていた。

  「少しではない。二寸は伸びてる」

  得意気に言うも、アザミには些細な違いでしかない。それでもウマラにとっては嬉しいらしい。珍しく子供らしい姿に、頭を撫でそうになる。

  威厳っちゅうもんもあるか…。

  衆目もある。幼い次期当主を[[rb:慮 > おもんぱか]]って、アザミは手を引っ込めた。

  「しかし、大きい腹だね。私も入れそうじゃないか」

  ウマラの指先が腹に触れた。「案外固いんだね…」小さく呟いた。

  「ここで話しても皆困るじゃろ。そろそろ城へ入ろうかの」

  「あぁ…ちょっと待って」

  ウマラは馬の背に手を伸ばし荷を下ろす。いや、馬の背からおろしたのは女子だった。背は五尺に足りないほど小さく、肌は胡桃色に光っている。小さな顔にくるりとした大きな目。黒髪。[[rb:柔人 > ニコシビト]]ともミヤマの出自である[[rb:早瀬人 > ハヤセビト]]とも全く違う造形だった。

  「なんじゃ、その娘」

  「文に書いておいたでしょう。布染めの技師ですよ」

  「その子供が?」

  「[[rb:萱野人 > カヤノビト]]だ。萱野人は小さい。大人でもこれくらい。すでに親がいないので詳しくはわからないけど、おそらく歳は貴女と変わらないくらいだと思うよ」

  「ほうか…」

  嘘じゃろと言いたいところだったが、彼女の身体には余るほどの大きな乳房が子供でない事を証明しているようだった。

  「外仕事が多いのか?随分焼けとるの。ヌシ…名は?」

  「スズメと申します…」

  女は細々と答えた。都にいたというだけあって、言葉のなまりが無い。

  「スズメって…あの雀か?」

  「萱野人は鳥の名を付けることが多いんだ。あと肌が黒いのも萱野人の特徴。日焼けじゃない」

  隣でウマラが補足する。

  「へぇ…。知り合いもねぇとこへわざわざすまんの…」

  覗き込むように言うと、スズメはうつむいて手を固く結ぶ。スズメは新越国では見かけない、裾へ大きく広がる腰巻を巻いていた。その腰巻の腹がわずかに膨らんでいる。

  「…ヌシ身籠っとんのじゃねぇか?」

  「…」

  何を気にしてか、スズメは黙っている。

  「おい、ウマラよ。なんぞ女だけ連れてきた。ヌシぁ情なしか?父さも連れてこねば、可哀そじゃろがよ?」

  ウマラも黙ってアザミを見ている。

  「は…思いつかんかったか、アホたれ。誰ぞ都に遣れ。今すぐじゃ」

  周りを見回す。都の事がわかるのは、傍に仕えていたオギだろうか。具合が悪そうだが、アレに頼むべきか…。アザミは頭を巡らせる。しかしそれはウマラの声によって遮られた。

  「必要ない」

  「あぁ?必要ねぇってなんじゃ。ねぇわけなかろうよ」

  胸ぐらを掴む。触れんばかりに顔を近づけた。「だから…こういうのはやめないか…」ウマラは不機嫌そうにアザミの手を振り落とした。

  「相変わらず貴女は品がない」

  ぶつぶつと言いながら襟を直す。そして真っすぐアザミの目を見つめた。

  「父親は私だ。だから誰も遣る必要はない。スズメは…二の妻にする」

  「……あ?」

  顔から血の気が引く。指先が震えた。

  「ヌシぁ何のために都におったんじゃ…。遊学するゆうとったじゃろ…」

  国の為に…。夫はそう言っていたはずだ。

  「していたよ。彼女の技術は必ず国益になる。彼女の衣の色の鮮やかさ。今の新越国では出せぬでしょう。まだ、千原の全土に広まっていない今だから意味がある。布の選定、原料、採取場所、染め場の建築…。国の中だけで収められるように熟考を重ねて…」

  「ワシはそんな事聞いとらんじゃろが」

  声が暗く沈んだ。

  「何が言いたい?」

  しゃぁしゃぁと…。

  女に子ができるということは、そういうことだ。二人の間に主従や師弟という以上のものがあったということ。

  青筋がたつ。

  「その娘を孕ます必要があったか?」

  「……」

  「それも学びか…えぇ学びじゃの?萱野の女は良かったか?」

  一瞬目を見開いたウマラは、ふと含み笑いをもらした。

  「言い方が卑しいね…」

  「卑しいのはどっちじゃ!!」

  声を荒らげたアザミに、ウマラは冷笑を浮かべる。

  「何がおかしいんじゃ」

  アザミが問う。ウマラの目が横へ流れた。

  「…意外だと、思ってね。あなたはこういうことに淡白な[[rb:女 > ひと]]だと思ってたからさ」

  張るを通り越して、腹がきりきりと痛んだ。

  「どうせワシは情も、愛想もねぇ女じゃろうよ…」

  [[rb:踵 > きびす]]を返す。

  「スズメをあなたに預けたいんだが…」

  「知るか、ボケ!!」

  ぬけぬけと言いよって…何が…二の妻じゃ。何が…淡白じゃ。

  振り向かぬままアザミは女衆の居住にある二の城へ戻った。

  辺りに芳ばしい香りが漂っている。ツリフネという女が顔を上げた。

  「ちょうど焼けたさかい、これから切るよって…」

  ツリフネは短剣を振る。

  「食ってええぞ。要らんくなった」

  短く言い捨て、室の戸を閉めた。

  真っ暗な室で横になる。

  「ワシは何を待っとったんじゃろか…」

  誰に聞かせるとでもなく呟く。固く張った腹の奥で何かが[[rb:蠢 > うごめ]]いた。

  「気持ち悪ぃの…」

  腹に向かって言う。

  それの気配が腹の奥へゆっくり消えていった。

  「アザミ、アザミ。日暮れてしもうたで」

  いつの間にか寝てしまったようだ。ツリフネが灯した明かりで部屋がぽんやりと明るい。

  「肉取っといたさかい食べえや」

  「いらん...」

  「まぁわからんでもないけどな...。せやけど話くらい聞いてやっても良かったんちゃう。女を娶らなあかん理由...」

  既にウマラが女を連れ帰った話を聞いたのだろうか。ツリフネは思い出すように言う。

  「女を作る理由なんぞあるか...。どうせ男はああいう守ってやりとうなる小せぇ女が好きじゃ」

  独り言のように呟く。ツリフネが笑った。

  「アンタでもヤキモチ妬くんやねぇ」

  「妬いとらん」

  身を起こしたアザミはキッとツリフネを睨む。

  「筋が通らん。それだけじゃ...」

  ひとこと言って横になる。それからアザミは何を言っても答えなかった。

  *

  「染物は水を多く使いますので、水量の多い河川の近くに建設したい。できれば南北に風通しのよい長屋で…。汚水の事を鑑みるに、下流の集落とは離れていた方がいいと思います。原料の調達も併せると、植生が豊かな山地がいい…」

  ウマラは父を前に、絵地図を指し示した。

  「数人というわけにはいかんな」

  「まずは少量でも千原に税として納められるような上質なものを作れればと…。規模は段階に応じてで」

  「十戸程度の集落か」

  提示したおおよその案が認められ、安堵したウマラは父の顔を仰ぎ見る。しかし、父は物憂げな表情を浮かべていた。

  「宗家の大伯父にも援助を願い出てきました。前向きなご様子でしたが…?」

  小規模とはいえ開墾には手間がかかる。二の手として、都の宗家にも既に話を通していた。都での地位を確固たるものにしたい伯父は、傍系の興隆にも余念がない。それを見越したウマラの申し出は、難なく通った。前に懸かる憂いはない、はずだった。

  「私の憂いがわからぬか。目下の難事は、お前の連れてきた娘の事よ」

  深い息をついた父は、ウマラの絵地図を丁寧にたたんで寄越した。

  「勝手に子など作りおって…」

  苦々しい父の顔とは裏腹に、絵地図を懐にしまったウマラは意地の悪い笑みを浮かべている。

  「では次からは今宵女を抱きに行くと逐一伝えればよろしいか。父上の許しが必要ですか?」

  「減らず口を申すな、呆けが。お前は…女にうつつを抜かすような者ではないと思っていたのだがな…」

  指先が忙しなく膝頭を叩いている。

  「この国は一枚岩ではない。古くからあった柔族ですら、小さな種族の集まりだ。それぞれのしきたり、考え、習慣の違いで爭いも起きる。我らが出征した後、アザミは留守居の尾鷲とよく[[rb:諮 > はか]]り、守ってくれたようだ。今やアレを蛮族の女と蔑むものはおらんよ」

  しみじみと口にした。

  「私はあの[[rb:女 > ひと]]の才気を知っていますよ。むしろ…今さらにそれを言うのかと思いますがね」

  以前、被征服民である柔族の娘を迎えることに難色を示した臣は何人もいた。主の子が迎える妻に、賤民の娘では釣り合いがとれぬと言うのだ。妻問いの為アザミの元を訪れたウマラは彼女に将器を感じ、慶んでもらい受けた。それ故に調子がいいと群臣を嗤ったのである。

  「そう思っているなら、なぜ別の女を迎えた」

  「…話す事でもありません」

  さらりとかわす。

  「ともかく此度の件、早々に何とかしろ。なにぶん…」

  話す父の目が揺れた。

  「悪い話っちゅうのは、風より速う伝わる申しますからのー…」

  後ろから声が掛かった。声色には不機嫌さが滲んでいる。

  戸口に男が立っていた。吊り上がった太い眉。琥珀色の瞳。癖の強い[[rb:木蘭色 > もくらんじき]]の髪。見たような顔だ。

  「あぁ…舅殿。急なお越しですね」

  顔色ひとつ変えないウマラと動揺を隠せない父の間に、アザミの父で柔族の長であるシナキがどっと胡座をかいた。

  どちらかと言えば、シナキは小心である。誰に対しても腰が低い。ミヤマの家にも、その臣にも、そして旧領の柔族に対しても。細心の気を配って過ごしている。そのシナキが珍しく目を怒らせていた。

  「若は我が一族をないがしろにされるおつもりのようじゃぁ…」

  身に纏う険を隠さないシナキがウマラを責める。

  「そのような事、毛ほども思っておりませんよ、[[rb:義父上 > おちちうえ]]?」

  ウマラは慇懃に答えた。

  「確かに若からすれば幾分とうの立った娘かもしらんが…」

  「それも思っておりません」

  「アレは[[rb:柔 > ニコシ]]族の頭目になるはずだった娘じゃ。ミヤマの家に[[rb:嫁 > か]]しても不足はねぇはずじゃ」

  「えぇ、私も十二分に思います」

  シナキの言葉に即答する。シナキの鋭い視線がウマラを射た。

  「ほんじゃぁ何ぞ[[rb:一年 > ひととせ]]も経たずと女をいれたんじゃ。それが千原の高位の者っちゅうなら、まだ納得もできる。聞けば[[rb:婢 > はしため]]じゃと。何ぞそんな者をアレと同列にすんのじゃ…。柔族はミヤマの奴婢じゃねぇんじゃ!」

  「重々承知しておりますが…」

  「どこがじゃぁボケぇ!」

  いよいよ立ち上がったシナキを父が抑えた。

  「いくら舅殿でもその物言いは如何と思いますが…」

  舅殿も同じような怒り方をするんだな。よく似てる…。

  シナキの怒りを脇におき、ウマラはアザミの姿と重ねて、シナキを仰ぎ見る。

  終始冷ややかな顔でいるウマラを前に、シナキはさらに声を荒らげる。興奮冷めやらぬシナキはそれから[[rb:一時 > いっとき]]もウマラをなじって、日も傾き始めた頃、ようやく従者に引かれ帰っていった。

  「何とかしろと言われてもな…」

  舅から解放されたウマラは飄々とアザミのもとへ向かった。

  あれから何度となく訪れているが、アザミは固く戸を閉ざして一向に開ける気配はない。返事はおろか物音ひとつしない室は、誰もいないのではないかと思うほどだった。

  「アザミ殿。そろそろ顔ぐらい見せてはくれないか…」

  いつものように戸を叩く。ついでに引いてみるが、びくともしない。

  「アザミどのー…」

  何度かの問いに、ようやく裏側でガタガタと音が聞こえた。

  「やかましのー。アザミさまは具合悪いねん」

  「若様の顔も見たくねぇし、声も聞きとうねぇゆうとるで」

  上から声が降り掛かる。アザミに仕えている双子が室を仕切る板から顔だけを覗かせた。

  「…とにかくここを開けろ」

  双子は顔を見合わせる。

  「ウチらの主はアザミさまやってん」

  「若様やないねん」

  二人は声を揃えて言うと、壁の向こう側へ消えた。

  あの口の利き方は直らないものかな…。

  アザミの侍女も[[rb:斐磨 > ヒマ]]族だった。[[rb:柔人 > ニコシビト]]と違う習慣を持つ者達だ。明確な身分差がない斐磨族は敬うということを知らない。誰が相手でも先程のような態度だ。

  それでも一年近く経つのだから、少しくらい覚えても良さそうなものだと思う。同じ斐磨族でもオギはその辺を心得ている。

  気の問題なんじゃないか…。

  物憂い気持ちで双子が覗いていた壁に目を向け、そして気づいた。

  …そうか。上は空いているんだな…

  ウマラは梁と草葺き屋根に空いた間を眺める。一生懸命戸を開けてもらおうとしなくとも、人の行き来は出来るのだ。ウマラに妙案が浮かんだ。

  「トクサ、壁に手をついて屈んでくれ」

  後ろに控えていた従者に声をかけた。

  「は?」

  トクサは怪訝な顔を向けたが、言う通りに壁に手をつけ屈んだ。長身であるため、屈んでもそこそこの高さはある。

  「背中、借りるぞ」

  言うなり地を蹴る。トクサの背の上を跳んだ。

  「よし…」

  壁の縁に手をかけよじ登る。板壁から室の中へ顔を出した。

  「いや、やらしぃ」

  「上からきよった!」

  「何がやらしいだ…。先程お前たちもやっていただろうが」

  双子を一瞥し室を見回す。

  ドッ。

  低い、地を鳴らす音がした。

  音の方を向いたウマラはとっさに、身を引く。空気を切る音が耳元を掠めた。

  「あ…」

  アザミの手にした[[rb:戈 > か]]がウマラの頬を裂いた。憤怒の表情を浮かべたアザミの口は、真一文字に固く結ばれている。

  手元に戻した戈をアザミは後ろに大きく引く。前足を大きく踏み出した。

  まずっ…

  ウマラは板から身を弾いた。

  眼前を刃が通る。

  「若っ…」

  「っ…」

  トクサの上に重なり落ちる。傷から血が滲んで頬を伝った。

  「アザミ。私を殺す気…」

  ドッ。

  刃が壁を突き破り、眼前に現れる。貫かれた間仕切りの板壁はゆらゆらと揺れていた。

  腹を立てるときは何だかんだとがなりたてるのが彼女の常であったが、此度は物一つ口にしない。沈黙がアザミの怒りの深さを表しているようだった。

  「あれではどうにもならん…」

  表に出たウマラは深々と息を吐く。

  「いっそ郷へお返しになったらどうです。シナキ様の娘はもう一人いたはずです」

  「アサツキか?八つだぞ。私に[[rb:女子 > めのこ]]のお守りをしろと?そもそも[[rb:罪 > とが]]のないアザミを郷へ返せばそれこそ事だ。それに…」

  私はアザミがいい…。

  [[rb:律 > のり]]に従い、目を伏せ、ただ掛けられる言葉を待つだけの女達。そのような者しか知らなかったウマラは、己の意思を示し事を運ぶ、アザミという女は真新しく、そこに惹かれた。二人の婚姻は政の上に行われたものだ。しかしそれを置いてもウマラはアザミを気に入っている。他に同じような女を知らなかった。

  アザミのいる二の城を仰ぎ見た。下の者に[[rb:隔 > へだ]]てのないアザミの居所は人の往来が盛んであったが、ここのところはひっそりと静まり返っている。ひっそりとしているのは城だけではない。郷そのものに活気がなくなっていた。

  以前は道を通れば女たちが揃って頭を下げたが、今は遠くからウマラの姿を見とめると、その身を隠してしまう。女衆全体がウマラを拒んでいるようであった。

  「若様はとんだ薄情者だ…」

  居づらさを感じていたウマラの耳に声が届いた。

  「誰だ」

  ウマラが反応する前にトクサが声をあげる。返事をするものはいない。

  離れた穴屋の陰にこちらをじっと見て立つ子供がいた。

  「…あれか」

  横でトクサが腰の剣を抜く。

  「トクサ、待て。なんのつもりだ」

  「民が公然と若を批判することなど許されません。斬ります」

  「辞めろ、私の民だ」

  「ここで示しをつけなければ、続く者が現れます」

  「早計だろ。少し待て…」

  子供は濁りのないまっすぐな目をウマラを向けていた。本来ならば目を見ることも[[rb:憚 > はばか]]られる。まだそれを知らぬのだろうか。

  ウマラは黙って子供の前に立った。

  「俺、ヨシと言います。アザミさまには杖術を習っとりました…」

  そう言うと子供は平伏し、頭を地につける。

  「アザミさまは男衆が国を発つと、無事を祈って毎日[[rb:山神 > やまつみ]]様へお祈りに行っとりました。皆が帰ってからは死んだ者を[[rb:祀 > まつ]]ってくださり、体の動けなくなった者に手仕事与えてくださりました。年寄りにも幼い者にもよう声かけてくださります。アザミさまはいつも都の方を向いとられました。口には出さんですけど、若様のこと待っとられたと思います…」

  一気に話すと、顔をあげた。

  「母ちゃんに王さまは[[rb:父 > とう]]さまだと思えと教わりました。そしたら若様に[[rb:嫁 > か]]されたアザミさまは[[rb:姉 > あね]]さまでしょう?姉さまが悲しんどったら俺らも悲しい。俺らは若様が外から女を連れてきたのが…なんでかわからんのです…」

  「それで全てか…」

  するりと[[rb:鉄 > かね]]の刷れる音。トクサが再び剣を抜く。子供は身じろぎした。

  「ヨシ!!」

  少女がヨシに飛び付き、守るように抱え込んだ。

  「お前はこいつの縁者か」

  切っ先を少女へ向ける。少女は縮こまり視線を落とした。

  「トクサ、待て。この者は何も言ってないし、私は何も聞いてない」

  「若っ!」

  ウマラはトクサを制すると、敢えて視線を天に向けた。

  「民が[[rb:貴人 > あてびと]]に声をかけることは禁じている。ましてや誹謗するなどもってのほかだ。私の内は民の知るところではなく、明かすものでもない。知らぬなら覚えておけ。あたら命を散らすこともないだろう…」

  トクサに剣を納めさせ、女衆の居住から出た。背中には重苦しい空気がまとわりついていた。

  「しかし参ったな…」

  自室に戻ったウマラは幼子のように足を投げ出した。

  「あの[[rb:人気 > じんき]]では私の方が追い出されかねない」

  「冗談ではありません」

  床に拳を落としたトクサの額に青筋が浮いている。

  「我々が都にいる間に、この郷の[[rb:律 > のり]]は失われてしまった。[[rb:老臣 > おとな]]たちは何をしていたのかと罵りたくなりますよ」

  苦々しく吐きながら、何度も床を打つ。

  「全てはあの女が」

  「トクサ、誰の事だ」

  トクサの言葉を遮る。

  無論、ウマラには「あの女」が誰かはわかっている。トクサの出自である尾鷲の家は宗家とも関わりが深く、どちらかと言えば[[rb:千原人 > チハラビト]]の感覚に近い。トクサにとって千原に組み込まれたばかりの[[rb:柔人 > ニコシビト]]は賤民であった。

  「…上に立つあの方が、律を軽んじておられる為です」

  軽んじていると言うよりは、知らないのだ。

  ウマラは思った。

  柔人の身分差は千原人のように大きくない。人を守るのが柔人だ。その守り方は、目に見える力よりも、心に添うもののようだと感じていた。しかしウマラにはこの目に見えぬ力がどうにもよくわからない。

  人は罰を恐れ法に従う。利があれば喜び、損するとわかっていれば、それを避ける。そういった当たり前の行動を越えた何かが不思議であり、興味深くもあった。

  「私はアザミが来てから初めて民があのように物を考えたり、話したりすることを知った。私の前で民は木偶のような顔しかしない。アザミの前で民はよく笑う…。郷に[[rb:彩 > いろどり]]があっていいよ。私は好きだ…」

  「…」

  「それはともかく。早急に何とかせねばなぁ…」

  不満を浮かべるトクサを前に、苦笑を浮かべた。

  「土人に出来た子など捨て置けばよかったのです」

  [[rb:婢 > はしため]]に対する[[rb:蔑 > さげす]]みは、柔族に対するそれよりさらに激しい。ウマラは答えなかった。

  二人が黙ると、急に室が物音で騒がしくなる。

  木々の擦れる音。沢のせせらぎ。小鳥のさえずり、蛙の鳴く声…。

  「任せると一言お命じ下さい。私が良いように計らいます」

  音に紛れてしまうようなトクサの小さな声が、なぜかウマラの耳にははっきりと届いた。

  「…お前の良いようにって言うのは、アレを始末するって事なんだろう?」

  ウマラは外に目を遣り、呟いた。視界の端でトクサがわずかに顎を引いて黙礼するのが見える。横から差し込む夕日が二人に暗い影を落とした。

  「少し、一人で考えさせてくれ…」

  トクサが下がるとウマラはごろりと横になり仰向けになった。

  梁がぬっと動く。

  「若ー。お困りだね?ガマちゃんに話してみ?」

  梁が軽口を叩く。ウマラは小さく笑みを漏らした。

  「久しいな。お前も出征していたのだろ?息災そうで何よりだよ」

  寝たまま声をかける。梁から少年がポトリと落ちてきた。

  「気にかけてくださるなんて、ありがてぇや」

  ガマはひひっと笑う。少し離れた目に大きな口。蛙のような男だった。

  「お前が来たのだから、よい話なんだろうな?」

  ウマラは誰も知らぬ密かな悪友を側へ招いた。

  

  ∗

  「アザミ、アンタまた食べてへんの?ええ加減にせんと、ややこもアンタも死んでまうで」

  横になるアザミの後ろから女の遠慮会釈もない声が響いた。

  ツリフネだった。

  「気ぃが進まんのじゃ…」

  少し動くとすぐに腹が張る。体が重くてしょうがなかった。

  「せやんなぁ…。だいぶ下がってきとるさかいなぁ」

  腹をさすりながら、ツリフネはアザミの体を起こした。

  「帯、巻き直したるわ」

  手際よく帯をほどき、下から支えるように巻き直す。とんと腹を叩いた。

  「ほら、ちぃとでもええから食べえや。あーんしたろか?」

  「ええよ。自分でできる…」

  仕方なしにアザミは匙を口に運んだ。

  味しねぇの…。

  体を動かすのも、人と話すことも。このところ何もかもが億劫だった。

  起きていると、頭に女と夫の影がちらついた。腹立たしいし、虚しさもある。気晴らししようにも、大きな腹が邪魔をする。腹の中で蠢くそれが、己を地に打ち付け、離さんとする楔のようだった。

  「なぁ、気落ちしとるとこ悪いんやけどな。ウチ、アンタに頼みがあんねん」

  こちらの心中などお構いなしに言うツリフネは、己の豊満な胸元をまさぐる。そして懐から布にくるんだ包みを出した。

  「それ…」

  戦から男衆が帰ってきた時によく見た物。アザミは眉根をよせた。

  ツリフネが包みをほどく。一房の髪が覗いた。

  「アンタ…弔ってくれへん?」

  「ヌシに弔ってもろうた方が男は喜ぶんじゃねぇか?」

  ツリフネはまじないさんと呼ばれる呪術師だ。弔いの法もあるだろうと思った。

  「そうしてやりたいんはやまやまやねんけどな、ウチら斐磨者は肉体がないと弔えへんねん。鳥は髪食わんさかいなぁ」

  さも困ったようにツリフネは言い、一房の髪をいとおしそうに撫でた。

  そうじゃったの…。

  斐磨族は、死者を鳥によって弔う。死者の肉体を鳥がついばんでいくことによって、死者は天に昇り、神になるのだそうだ。斐磨族は遺体がなくなるまで地上の獣から守るため、番をする。一度だけ目にしたその弔いは凄絶なものであり、アザミが唯一、斐磨者を受け入れられない点であった。

  「ほんじゃぁ、行くか…」

  気はのらなくても友の頼みとあっては動かぬわけには行かぬかと、アザミは重い腰をあげた。

  柔族の祖霊、神は土地に宿る。多くは郷を見渡せる高台に陵墓を築き、まとめて納めていた。昨年も戦死者を弔ったばかりである。

  アザミはその陵墓にツリフネと向かった。

  「しかしいつの間に男なんぞ作った」

  「夏ぐらいやね。出征するんが決まって、帰ってきたらアンタにも話しよ思ってんけどな…。なかなかこんさかい、気が変わったんかと思って諦めとったんや。ほら、うち[[rb:石女 > うまずめ]]やさかい…」

  「…」

  「ホンマは死んどったんよ…。仲間に、手に刺青のある女に渡せ言うとったらしい」

  右手をヒラヒラとかざす。斐磨族は皆顔に刺青を入れているが、手に刺青があるのはまじないさんのツリフネだけだ。

  「ほうか…」

  ツリフネは楽天的でいい加減にも見えるが、面倒見のいい女だ。その女に連れ合いができたというなら、喜んで手元から手放しただろう。ツリフネが己の辛さを表に出さない[[rb:性 > タチ]]であるのはアザミもよく知っている。それ故に、無念はいかばかりかと暗鬱になった。

  アザミは体に溜まる陰気を払う為、川へ体を浸した。清流がからだをすすぎ、雑念を払う。衣を新しいものに替え、陵墓の前に立った。祭壇を設け、男の髪を中心に据える。郷の神として大地へ宿るよう[[rb:祭詞 > さいし]]をあげた。

  弔いを終えた陵墓に谷風が吹き上げる。

  あぁ…いい風じゃの…。

  アザミは郷を見下ろす。青々とした木々が盛んに繁っていた。

  [[rb:御祓 > みそぎ]]の為か、祭祀という務めを果たした為か、それとも山地の息吹を感じたからだろうか。近頃の気鬱が晴れていく。体に風を受け、目を閉じた。

  「えぇ、気分じゃ…」

  「それは何よりです」

  男の声にアザミは目を剥く。いつの間にかウマラが後ろに立っていた。

  「なんぞヌシがおんのじゃ…」

  「無論、弔いの為だよ。初めに来なければならなかったのに、すっかり失念していた」

  噛みつかんばかりのアザミをおいて、ウマラが陵墓の前に胡座をかいた。前に小振りの弓を立てる。勝手を弦にかけ弾いた。

  弦音が響く。

  三度繰返し、頭を地につけた。

  「それがミヤマの葬送か?」

  「ミヤマというか[[rb:早瀬人 > ハヤセビト]]のね。弦音が災いを避けるそうだ」

  立ち上がったウマラが小首を傾げる。

  「やぁ。やっと拝顔叶いましたよ。ニコシノアザミヒメ?」

  うっすらとした笑みが、せっかく晴れた気鬱を引き戻す。アザミは黙って顔を背けた。

  「私が国を離れている間に随分と大人しくなったものだ。何も言わないなんて貴女らしくないじゃないか?」

  「ヌシにワシの何がわかんのじゃ…」

  顔を見れば腹が立つ。言葉を聞けばなおさら苛立ちがつのる。足を麓に向けた。

  「まぁ…何がわかるかと言われたら。何もわからないね」

  軽口がとんだ。

  「あぁ? なんなんじゃヌシは!!知ったような口ぶりしたら、今度は知らんじゃと!?そのちっせぇ頭でよう考えぇよ!」

  胸ぐらを掴み引き寄せた。「あぁ…また…」目を曇らせたウマラはアザミの手をとる。

  「胸ぐらをつかむのはやめてくれないか」

  そう言ってアザミの手に唇を押しつけた。生温い感覚にゾッとする。アザミは勢いよく手を引っ込めた。

  「私が頭の中で貴女を考えたところで、それは私の推測にすぎないだろう。まやかしというものだ。私は、貴女自身と話がしたい。貴女の口から貴女の声で、貴女の考えが聞きたいんだよ」

  小さく笑みをこぼし、軽い足取りでウマラは前へ進み出た。

  「アザミどの。あの辺りにある川を知っているか」

  東南を指した。

  「ニコシの事でワシを計るか?」

  ふんと鼻をならし、指先の指す方を見た。

  「トオミ川じゃ」

  「他には。どんな川?」

  「源は[[rb:産加美国 > ウカミノクニ]]にある。他国じゃけぇ、詳しいことはわからんが、一度北に流れ、回りめぐって[[rb:新越国 > ニコシノクニ]]に入るらしい。この辺の川に比べりゃ、いくらか緩やかじゃ。産加美は海からの雲がよく雨を落とすらしい。じゃからトオミ川も水が多い。他の川が渇くような[[rb:旱 > ひでり]]でも、あの川だけは涸れたことねぇらしいぞ」

  ウマラは満足そうに頷いた。

  「人を遣るより貴女に聞いた方が早かったな。あの辺りと、あの辺りに集落があるだろう。その間に[[rb:工場 > こうば]]を作るつもりだ」

  [[rb:工場 > こうば]]…?

  機嫌よく、ウマラが絵地図を出した。河川と周辺の地形。加えて主な草木が記されていた。絵地図を見たアザミは眉をひそめる。

  「ヌシよぉ…。そこらの者がトオミ川をなんちゅうてるか知っとうか?」

  「いや?」

  「ハフリガワ」

  「[[rb:祝 > はふり]]…。いや、その顔は違うね」

  次はウマラが眉をひそめた。

  「[[rb:葬 > はふ]]り?[[rb:溢 > はふ]]るか…?」

  アザミが絵地図を指す。

  「古くはこの辺りを流れとったらしい。ここで大きくたわんどるじゃろ?大水があると、こっち側に切れるんじゃ。昔から何度も切れとるから結局この辺に人は住めんのじゃ…」

  んん…。

  ウマラが低く唸って絵地図をにらんだ。

  「どうしてもトオミ川に作りてぇなら、上流の集落を拡げた方がええじゃろな」

  「遠いんだよ…」

  「流されるとわかって作るか?」

  「堤を…いやダメだ。割りに合わんな」

  溜め息をついてウマラは懐にしまいこんだ。

  「さて。改定案を作らねば…。しかし、やはり貴女に話して良かったよ。私たちだけでは見えぬものが貴女には見えるからね…」

  満面の笑みを浮かべ、頭をアザミの腕に押し付ける。

  「ん…あぁ…」

  その頭を抱えようとして手を止めた。

  しもうた。ワシぁ怒っとんのじゃった…。

  「おぃ、こんな話。ワシが喜ぶと思うか?」

  「…以前面白いと言っていたから、喜んでいてくれると思ってたんだが」

  キョトンと目で見上げる。その顔はあどけない幼子のようにも見えた。

  調子狂う…。

  ウマラから目を離した。

  「時と場合によるんじゃ、ボケ…。ワシがなんぞ怒っとるのかわかるか?」

  「…」

  まさか…わからねぇとかじねえじゃろな。

  横目で見る。特にこれといった顔もしていない。小さく息をついた。

  「ヌシよぉ…初めて国元離れてよ、寂しかったか?」

  ウマラは乾いた笑い声をたてた。

  「まさか。私は幼子ではない。もっとも私は寂しいなんて思ったこともないけどね」

  「ほしたらよ…。女が知りたかったか?」

  そういう年頃ではあろう。

  「私は好色ではないと思うが?」

  そう言うが、実際は女を孕ませのだ…。

  アザミは一呼吸置いた。

  「…女が、ヌシを誘ったか?」

  笑みが消える。一瞬、[[rb:翳 > かげ]]りが見えた。その顔は男のようだった。

  「いや…そうではない」

  答えるまでの間がアザミに悟らせた。

  「ヌシぁ、女を庇っとんのか…」

  ウマラは答えず南を向いた。

  「[[rb:千原国 > チハラノクニ]]の染織は千原の大王の近臣で、外戚でもある[[rb:中原 > ナカハラ]]氏の元で行われている…」

  「あぁ?」

  またそこへ戻るのか?

  もしかしたら、女も子供も、この男の前では些細なことなのかもしれない。

  コトリと腹の中で子供が動いた。

  ∗

  千原の国の染織は中原氏が管理する公の[[rb:工場 > こうば]]で行われていた。

  東の大陸から伝わったという中原氏の染色の技術は、今までの技術とは違い、確実に染色液の色を定着させることができるのだという。

  噂を聞いたウマラは中原氏の元で軍務を担っていた大伯父のつてを頼り、工場に立ち入ることを許された。しかし技術の流出を防ぐため、近くで見ることはできなかった。

  「私は工人を雇おうかと思いました。条件が悪くなければ、望む者もあるかと思ってね」

  しかしその考えはすぐに頓挫する。

  工人はすべて染織官の奴婢であった。彼らの中に望む者がいたとしても、それを叶える自由を彼らは持たない。ウマラはただただ工場を覗くだけの日々を過ごした。

  「あの[[rb:娘 > こ]]も彼らと同じ奴婢だった。ただ、彼女は特別だったんだ」

  「特別?技術が優れとんのか?」

  話に女が出てきて、アザミはようやく意識をそちらへ向ける。ウマラは大きく首を横に振った。

  「いいえ。染織の官吏長はね、[[rb:萱野人 > カヤノビト]]がお好みだったらしい」

  「…あ? そりゃぁ…」

  「慰み者。あの娘は官吏長のお気に入りだった」

  なぜその娘がウマラの子を孕めたのか…。アザミは遠退きそうになる意識を堪えた。

  「ヌシぁわざと子を孕ましたんか…?」

  ウマラの目が笑う。

  「貴女、私をなんだと思ってるんだ?そんな事はしてない」

  からからと笑い声をたてた。

  ほしたら、なんなんじゃ…。

  「たまたま…そう。アレは偶然だったんだ…」

  ウマラの目が遠くを向いた。

  「屋敷の前であの娘が倒れていた。聞けば捨てられたのだと…」

  官吏長とスズメの姦通を妻に告げた者がいたらしい。官吏長は身の保身の為に、スズメを散々に[[rb:打擲 > ちょうちゃく]]して放り出したそうだ。

  「屋敷の前でぼろ切れのようになって死にかけたあの娘を見た時、私は思った」

  ウマラは愉悦の表情を浮かべた。

  「あぁ、これはなんとも運がいい。ってね」

  「ヌシぁ…」

  ゾッとした。

  やっぱり、こいつは[[rb:征服者 > ミヤマ]]の目ぇしよる…。

  アザミの中に吐き気と憎悪が込み上がる。

  ウマラのひんやりと冷えた指先が、アザミの唇に触れた。

  「だってねぇ、アザミヒメ…。私はこの構想のためなら借財をしてでも工人を手に入れようと思ってた。それが何の元手もなく手中に転がり込んできたんだ。運がいいと言わず何と言う?」

  小さく肩を揺らす。

  「私はすぐさま医聖と名高い山瀬氏を呼んだ。手ずから膿を拭いて、何日も手当てをしたよ。なんとしても国に連れて帰りたかったからね」

  両の手がアザミの頬を包む。

  「すべてニコシの為。貴女の…そして私の国の為だ。その一念のみ」

  頬を包む手が離れた。

  「けれど、あの娘にとってはそうではなかったらしい…。恩を感じたようだ」

  傷もすっかり癒えた頃、スズメはウマラの寝所を訪れた。

  「萱野と隣の[[rb:白津原 > シラツハラ]]はその土地の性質上から、干魃と大水の度に戦が起こる。古から何度と繰り返された戦の、ある時に、あの娘の母は萱野から中原に連れてこられた。千原人との間にあの娘と男を儲けたが、そのうち捨てられた。母は[[rb:乞児 > ほいと]]となり、時に男に飼われて暮らしていたが、あの娘が年頃になった頃には死んでしまったそうだ…」

  スズメは礼だと言った。技も財もない自分の、唯一の持ち物だと。

  「母親と一緒さ。男に飼われることでしか生きていく術を知らない…。憐れだと、思った。あの娘と関係をもったのはその一度きりだよ」

  「ヌシが…憐れ?」

  「意外だろう。私自身そう思うよ…。」

  姉が一人。聾唖の弟が一人。唯一の跡取りとして臣に育てられた夫。理を形にしたような男は、アザミには時に中空の土人形のようにも思えた。その夫の口から「憐れ」などという言葉が発せられたことに驚きを覚えた。

  「都は煌びやかだ。人も多く、物も集まる。そしてその影で朽ちて死んでいく者が、多くいた。私は…ミヤマの家は[[rb:千原人 > チハラビト]]の影。[[rb:萱野人 > カヤノビト]]も[[rb:早瀬人 > ハヤセビト]]も[[rb:柔人 > ニコシビト]]も…千原人でない者はみな千原の影。だからかな。少し親近感も感じた」

  「ヌシぁちぃと変わったか?」

  「さぁ?」

  ウマラはかしわ手を打った。

  「あの娘の話はこれで全てだ」

  「ほうか…」

  アザミは大きくせり出した己の腹を見た。まだ目立たぬが、あの小さな娘の腹にも同じように子がいる。宿った子を無くしてしまうことは出来ない。それならば…。

  「ウマラ…」

  「見通しが甘かった。女一人持つことがこれほど騒ぎになると思ってなかったよ。特に貴女が…」

  アザミの言葉にウマラの声が被る。アザミは口を歪めた。

  「どうせワシは…情がねぇからの」

  「情はあるでしょう。私などよりずっと厚い」

  ウマラは己の胸に手を当てる。

  「私は[[rb:貴女の仇 > ミヤマの男]]ですから、私に女が増えようが何とも思わないと思ってた。だから、これほどあなたが私に情を傾けてくれていると思うと、嬉しいよ?」

  「は…そんなもんはねぇわ」

  舌打ちをする。ウマラは楽しそうに笑った。

  「そうか。残念だ」

  少し背伸びをしてウマラは息を調える。

  「随分と心労をかけてしまってすまなかった。方々から物言いもついたし…。全て無かったことにするよ」

  美しい笑みを浮かべた。

  真意をとったアザミは言葉を失う。反対にウマラは言葉を続けた。

  「[[rb:婢 > はしため]]に指図されても皆は動かぬだろうと思ったのも、妻にする理由の一つだったが…まぁいいよ。何かしらの役を作ろう。妻にせねばならぬ一番の理由も、なんとかするよ」

  「なんとか…てなんじゃ…」

  悪寒がした。

  「時に応じて取捨選択をしなければ…ね。貴女なら私が何を捨てて、何を拾うか、わかるだろう。が、明言が欲しいなら口にしようか」

  触れんばかりに近づいたウマラの襟首を取る。

  「ヌシの蒔いた種じゃろが!」

  「えぇ、だから。摘んでしまわねば…」

  悪びれもなく小首を傾げる。

  「憐れじゃ言うたろ?」

  「その時はね。でもこうなってしまっては捨てざるを得ない」

  「捨てるな…捨てなくてええ!!」

  ウマラはアザミの手をほどく。

  「もう、私とあなただけの問題ではない」

  「ヌシが捨てるならワシが拾う」

  「困った[[rb:女 > ひと]]だな…」

  「困るのはヌシの方じゃボケぇ!!」

  拳がウマラの頭部を激しく打った。

  「いっ…」

  「ワシが[[rb:祝 > いお]]うてやる」

  屈み込むウマラの頭上に言葉を放つ。

  「は?」

  「ヌシの[[rb:妻儲 > めもう]]け、ワシが祝うてやる。ほしたら誰も文句は言わん。言わせん…」

  確かに正室が自ら迎えるなら、苦言は少ないだろう。

  「貴女がそう言うのであれば、そうしよう」

  ウマラは唇を横に大きく引く。そして耳元で囁いた。

  「けれど、私が想うのは貴女だけだ」

  「…」

  報われん…。それではあの娘が報われんじゃろが。

  アザミはスズメの内を想った。

  恩は感じただろう。礼というのも、全くの嘘ではないだろう。しかし望まれてもいない男に身体を開いたのは、男に対する情だろう。

  夫は気づかない。他人の心の揺れに気づけない男なのだ。

  アザミの苛立ちはいつの間にか消えていた。

  「ヌシよぉ…女を妻にすると決めたんならよ?ちゃんと妻にしてやれ…」

  「…どういう意味?」

  「そのまんまじゃ、アホたれが…」

  アザミはやはりまだ幼い夫の頭を抱いた。

  スズメの輿入れは[[rb:柔 > ニコシ]]族の作法に従い、次の朔月を待って行われた。祭司をアザミが務めたことによって、周りの批判はいくらか抑えられた。

  その後数日してアザミは男児を生み、冬を迎える頃スズメは女児を生んだ。跡取りが生まれたこと、スズメの生んだ子が女児だったことで、臣民はようやく安堵した。

  

  余談

  「なんとか収まるとこに収まったらしいぜ」

  「これで女衆の所へ行きやすくなったぞ!最近女衆んとこピリピリしてたからよー」

  郷の外れで男二人が肴をつまみながら囁いた。

  「は、お前と遊ぶ女なんているのかよ」

  「あー、そういうこと言うか?いんるんだぞ!!ガマちゃんかわいーってな!」

  「はぁ、嘘だろ?」

  ガマはムキになって反論する。仲間の男は鼻で嗤いながらガマを小突いた。

  「お前こそどうなんだよ。アレから来たか?刺青の女」

  「いや…」

  男は子供のように短い髪をガサガサと掻いた。

  ガマの仲間であるこの男には、少し前から通ってくる女がいる。頬や手に刺青をしたその女が、数日前、いつものようにふらりと現れた。そしてまじないに使う髪が欲しいと切っていった。

  「上手くいったら礼してくれるって言ってただろ?」

  「言ってたけどよ…そもそも俺の髪なんて何に使うんだろな。俺呪われたりしてねぇよな…」

  髪を切られてから、そこら中で笑われた。

  これで何もないのは割りにあわん…。

  男は豊満な女の肢体を思い浮かべる。何度か関係を持った女は、郷の女とは違う艶かしさがあった。

  「あいつお前と連れ合いになるのか?」

  「どうだろな…」

  女はいつも次の約束はしない。男が女に会えるのは、女の気まぐれ次第なのだ。軽くため息をついてうなだれた。

  「なんや陰気臭い顔しとって。ほら、ウチ来てやったで」

  「んぁ?」

  顔をあげると刺青女が立っていた。

  「あ、お前っ…」

  「あんたの髪、役に立ったさかいな。よーさんお礼したるで」

  抱きついた女の柔らかさが男に伝わった。

  「…あ。ガマ、お前帰れよ」

  唐突に男が言う。

  「はぁ?今一緒に仲良く飯食ってたじゃんよ。いきなりつれねぇなぁ、もう…。なぁ姉ちゃん、俺にもお礼してよ。ちゃんと若に言伝てしたぞ」

  女は頭を振る。

  「あんた髪切るの嫌がったやんか。髪が肝やさかい、アンタはあかんで。ウチ安い女とちゃうねんで?なぁ?」

  「そうだ、帰れ帰れ」

  男は女に同調して、無情にもガマを穴屋から追い出した。

  「なんだよ、もう。俺いいことなしじゃんかよー」

  ガマは外から声を張り上げた。

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