「楽、最近さ…なんで朝まで洞窟にいないんだ?」
季節が秋から冬に向かうにつれて、大和は寒さしのぎを理由に楽に狼の姿になることをせがみ、その絹糸のようになめらかでふわふわした腹に抱きついて、埋もれるような体勢で眠っていた。しかし、近ごろは大和が朝方目を覚ますとそこに楽の姿はなく、身体には違う獣の毛皮をあてがわれていた。
「夜、なんかしてんのか?」
大和がじーっと楽の顔を見つめ弁明を待つ。
「いや…まぁ。あの体勢は俺は動きづらいって言ってただろ。お前が眠りにつくまではそばにいるんだから、眠ってしまえば他の獣の皮だろうと似たようなもんじゃねーか。」
「でも…さ…。」
「ほら、大和。今日は森で食糧調達するんだろ。そろそろ行くぞ。」
「……おう。」
大和は明らかにはぐらかされたことを不服そうな顔で身支度を整えた。
枯葉が積もる森に入ると、肌をかすめる風が一層冷たく感じた。ガサガサと葉を踏みしめながら、柿などの果物や栗やきのこなど、冬に向けての備蓄用にもといつも以上に念入りに食糧を探し歩く。
「…痛っ…!」
楽から離れて少し後ろを歩いていた大和が、突然しゃがみ込んだ。
「大和っ⁉どうした?」
慌てた様子で枯葉を舞わせながら楽が駆け寄ってくる。
「ちょっと……脚…切っちまったみたいだ…痛った…。」
大和のふくらはぎには、おそらく木の枝で切ってしまったのだろう10センチ近い切り傷が出来ていた。
「あぁ…これか。今治してやる。」
楽がそっと手を当てると、じわじわと傷口が熱くなりあっという間に傷がふさがっていく。
「うわぁ……こういうの見ると…神様だなって思うわ…。」
「ハハッなんだそれは。」
楽が少し照れたように笑うと、まじまじと傷痕を見ていた大和もふっと顔を上げ、二人の視線が重なった。
「あ……っと…ありがと、楽。…助かった。」
「いや…これくらい、大したことじゃない。」
楽が顔を逸らすと、耳の後ろあたりに小さな枯葉がその綺麗な銀色の髪へ引っかかっていた。
「楽、髪に葉っぱが…。」
大和がそっと手を伸ばすと楽はバッと身体を引く。
「……え?」
「あっ…あぁ、枯れ葉か。」
「…うん。」
「すまない。そうだ、その服もそろそろ冬用にしなければならないな!布が丈夫になれば、怪我することもないだろ?」
楽はそう言うと人差し指をスッと大和の方へと向け、その装いを白緑の[[rb:直垂 >ひたたれ]]に深緑の[[rb:小袴 >こばかま]]、鈍色の[[rb:脛巾 > はばき]]へと変化させた。それまでのものも、大和が要望を伝えて楽に作ってもらったものだったが、一層本格的で一切の風も通さないようなしっかりと織られた生地へと変えられている。
「よし。これで問題ないな。」
「おう…あんがとさん。」
その日の夜。
「楽!今日も一緒に…!」
就寝の頃になって、大和は楽にいつものお伺いを立てようとする。
「大和、もう暖かい服に変えてやっただろ。俺と寝る理由なんてないはずだ。」
これまで嫌々という雰囲気を出されたことはあったが、ここまで明確に突き放されたことはなかった。
「……えっと…でも…。」
想定外の楽の態度に戸惑い、上手く言葉が出てこない。
「毛皮も増やしてやる。この洞窟にだって結界をはってあるんだ。そう寒くなどないだろう?」
「……あぁ…そう…だな。」
大和は大人しく聞き入れたようで、その顔は明らかに曇っている。楽もその表情の翳りに気づきながら目を逸らした。
「…そうだ、大和。今晩からしばらくは外ですることがある。俺はこの洞窟には戻ってこないと思え。」
二人の間の空気が回復するのも待たずして、楽が話を切り出し、背を向けて洞窟を出ていこうと足を踏み出す。
「え…っ⁉ちょっと待てよ楽!それどういうこと…っ!」
大和が楽を引き留めようと楽の袖を掴んだ。ふっと振り返った楽は、今まで大和が見たこともない冷たい目をしていた。
「大和、離せ。お前はなるべくここから出るな。中ででも十分生活出来るだろ?…わかったな?」
大和は楽の向けたその鋭い目と、別人のように暗く高圧的な声に、袖を掴んでいた手をだらんと下ろした。
「……あぁ。」
大和の手が離れると、楽は振り返ることもなく洞窟から出ていった。
翌朝、大和が目を覚ますとやはり楽の姿はなかった。極力出歩かないようにと言われていたので、大和は川で顔を洗うとその日に必要な水を汲み洞窟へと戻った。楽の神力で洞窟内でも比較的明るいとはいえ、時折滴り落ちる雫の音が洞窟内の静けさを物語る。
「……はぁ。楽がいないと何したらいいのかわかんねぇな。」
大和は寂しさをごまかすかのように膝を抱えて座り込み、祠を見上げ揺れる蝋燭の火を眺めていた。
その翌朝になっても、楽の姿はない。
「ホントに…帰って来ねぇんだな…。」
一体どこで何をしているのか、しばらくとはどれくらいの期間なのか。大和は楽の行き先に心当たりなど無かったが、それでも居ても立っても居られなくなり、一度だけ楽に連れられて訪れた森の奥深くにある御神木へと向かった。
「…あった。よかったぁ…道合ってて。緊張したー。」
大和が曖昧な記憶を頼りに、あちらだったかこちらだったかと逡巡しながらも、日が高い内にとなんとか御神木までたどり着いた。楽の姿を探して近づいていくと、御神木の地上にはり出した大きな根と根の間にいくつかの窪みが出来ていて、その1つに楽が埋もれるように身体を預けていた。大和が久しぶりに見た楽は狼の姿で、苦しそうに荒い呼吸を繰り返していた。
「楽…っ!大丈夫かっ身体辛いのか…っ⁉」
大和が声を上げて駆け寄る。
「……っ来るな!大和……洞窟にいろと言ったはずだ!すぐに…帰るんだ!」
楽はガバっと身体を上げると、大和を睨みつけた。
「…でも……っ!」
「帰れ。」
「楽…俺……。」
大和は楽の元へ近づくことも出来ずその場に立ち尽くす。
「大和…!俺の言うことが聞けないのか?」
これまで、楽にこんな物言いをされたことなど無かった。しかし、狼姿の楽のその鋭くギラギラとした獣の瞳で睨まれると、自分では敵わないと屈服させられたようで、それ以上言葉が出なかった。
大和は楽の方を何度も振り返り振り返りしながら、重々しく歩みを進め、もと来た道を戻っていく。
「ふふっ、貴方のこんな姿が見られるなら、長く生きているのも悪くないですね。」
突然、楽の傍に薄暗い煙がぐるぐるととぐろを巻き舞い上がったかと思うと、綺羅びやかな装束に身を包んだ男が現れた。
「……巳波か。今朝からどこかしら嫌な気配がしてるとは思っていたが…お前が何故ここにいる?自分の社をあけて…どういうつもりだ。」
巳波と呼ばれるその男は、生成り色の艷やかな髪に白い肌、楽より少し華奢な体格で垂れ目気味の瞳は一見穏やかそうだが、その瞳の奥はどこか薄気味悪い光をはらんでいる。
巳波は楽が身を預けているくぼみの直ぐ側の根に腰を下ろすと、含みのある笑みを浮かべ楽を見つめた。
「あら。私の社を心配して下さるんです?少しくらい留守にしたって問題ありません。それより、真神が人間を飼っていると、風の噂に聞いたんです。…まさかとは思ったんですが…ふふっ本当だったんですね。」
細い指を口元に置きじっとりとした話し方をする。
「飼っているわけじゃない。…一緒に…暮らしているんだ。」
巳波を警戒するような瞳で一瞥し、楽がその言葉を訂正した。
「貴方は…一体何故そんな無駄なことをするのです?あんな人間に軽々しく名まで呼ばせて……あれは生贄としてやってきたのでしょう?さっさと精気を吸って糧にしてしまえばいいものを、生かす理由がありますか?…生贄も、歳を取れば味が落ちますよ?」
「…っ!あいつを…食うつもりはない。」
「何故です?貴方のそれ、発情の兆しでしょう?あんな人間なんか近くに置いているから、そんなに身体が反応してしまうんですよ。」
巳波の言う通り、楽はここ数日、日に日にこみ上げてくる欲望を受け流す為に大和と距離をとり、少しでも体力を温存し大和に自らが危害を加えることのないよう、独りこの神木に身を委ねていた。
「貴方だって…本当は、あれを抱き潰してしまいたいのでしょう?相手はたかが人間、容易いことじゃないですか。その欲望のままに右も左もわからなくしてしまって、一思いに殺してやったらどうです?あっちも欲情すれば精気の味も上がるというものです。…男でしたが見た目も悪くないですし…貴方がしないというなら私が頂いても…。」
巳波は先程大和が帰っていった道の方を、目を青く光らせて眺め見る。
「あいつに近づくな!…貴様…っ少しでも触れようものなら!その頭から…っ粉々に噛み砕くぞっ!」
楽はいうことをきかない身体をぐっと起こすと、今にも噛みつきそうな形相で牙を剥き出しにして巳波を睨みつける。
「まぁ恐ろしいことを。…もしかして、貴方…あの話を信じているんです?」
巳波はバッと着物の袖で顔を隠し、その端から少しだけ瞳をのぞかせた。
「…なんの…ことだ。」
「貴方だって耳にしたことくらいはあるでしょう?私たち神々の間でも俄に伝えられてきた夢物語。…たとえ相手が人間のようなものであっても互いに真に想い合い番えば、こちらの者に出来るという。ふふっ…誰も実現したものはいないと聞きますがね。」
「……黙れ。」
楽が再び睨みつけると、巳波は薄暗い煙をまとい、ぐるぐると空に舞い上がった。
「間違えば愛するものが目の前でみるみる内に精気を失って死に絶えるんですよ。あぁ…なんて滑稽なんでしょう。」
巳波は楽を見下ろし、着物の袖で顔を覆いながら、いかにも馬鹿にするような態度でクスクスと笑っていた。
「そんな賭事に…あいつを…巻き込むつもりはないっ!発情期など…満月をこえれば…っ次第におさまる…!」
楽は荒くなる呼吸を整えながら、宙に浮かぶ巳波を睨み続けた。
「ふぅ…。それはどうでしょうね。満月は明後日ですか…それまで耐えられます?いくらあれを洞窟に閉じ込めているとはいえ…貴方の理性がもつんでしょうか?本当は、疼いて仕方がないでしょう?んー…私のこともいやらしい目で見てるんでしょうか?」
巳波は頬に指を当て、これ見よがしに皮肉めいた態度をみせる。
「お前と番うくらいなら…っ…この森ごと死んでしまう方がマシだ…!狼は…お前たち蛇のように…執拗な行為はしない。その浅ましい欲求と…一緒にするな…っ!」
「私たちの行為を侮辱しないで頂けます?長くも美しいまぐわいなのですよ。まぁ…まだ少し日がありますし。また様子を見にきます。ふふっ本当に。こんな面白いこと、あと何百年生きてもないでしょうから見逃せません。」
ぶわっと煙が渦巻いたかと思うと、巳波は姿を消していた。
「クソッ…あの蛇野郎おもしろがりやがって…っ!……絶対…っ…あいつは死なせねぇ…。」