妊娠がわかってから、雪は腹部の違和感とつわりに耐えた。ネロには隠したままだが、それでも子供を愛おしく思ってはいた。だから、必死に隠しながらもお腹の子供を大事に守っていた。
「栄養のあるものを食べないと…。」
頭ではそう考えていても、元々少食なので食べれない。だから、ネロにバレないように少しずつ体に良いものを食事にしていった。
「今夜も美味しそうな香りだ。」
ネロは仕事から帰って来て、嬉しそうに尻尾を振りながら話す。漆黒のフワフワとした毛はつややかだ。
雪は隠していることが、まるで騙しているようで、ぼんやりとした視界の中にネロを見つけると罪悪感に苛まれる。
「きょ…今日は煮込みうどんです。」
「和食だね。素敵だ。」
ネロは嬉しそうに弾ませた声でそう言った。その後で、雪に顔を近づけ犬の獣人らしくクンクンと匂いを嗅いだ。
「雪、また病院に行ったのかい?」
「えっ…!あ…」
怪しまれている。そう感じて怖くなった雪は震えた。思わずネロから受け取ったジャケットを落とすほどに。ネロは驚いた顔をして雪を見つめた。
「ど、どうしたんだい…?ごめんね、持たせてしまって。」
ネロは落ちたジャケットを拾い上げて、雪を不安そうに見つめた。雪は明らかに震えている。その異常な様子に、違和感を持った。
「雪…私は今、君を怖がらせるようなこと言ったかい?それなら…本当にすまない。」
「い、いえ…。」
「雪、なにか…あったのかい?」
「い、いえ!そんな…」
ネロの言葉に、雪は首を横に振って逃げた。ネロは雪の様子に大きな不安を感じたが、雪を追い詰めたくないと思い、それ以上は何も言わなかった。
雪はネロのジャケットをクローゼットにしまい、ネロの夕飯を準備し始める。自分で作った料理の匂いに、気持ち悪くなりながらも、必死に普段の健康を装った。
「雪さん、あなたは妊婦にしては痩せすぎです。少しだけでいいですから、無理しない程度に食べてください。」
病院の医師がそう言った。いつも通っている人の病院だが、ネロも知り合いの医師が開いている病院だ。獣人たちは治療できないものの、人の医師としては優秀な医師で、地域の者たちに重宝されている。
「で、でも…食べれなくて…匂いもダメで…」
「それなら、誰かに作ってもらうとかは…」
「そんなっ…僕は妻です…!夫の食事を用意しなければ…」
「ネロさんは料理は下手ですが、食事の用意を強制したりはしないでしょう。」
妊娠を隠したい雪の「あれはダメ」「これはダメ」に医師も耐えられなくなってきていた。病院の院長で小林という姓の医師はネロと昔から知り合いらしく、雪の意思は尊重するものの、隠すことに否定的だった。
ネロは妊娠している人に家事を強要したりはしない。むしろ何かしらの手伝いをしたりするだろう。小林医師はそう思っていた。
「あなたが何故隠したいのか、私にはわかりません。どうか教えていただけませんか。」
小林医師はため息まじりにそう言った。雪は真剣な表情で見つめられる。心臓に冷や汗をかいているのではないかと思うほど、寒気を感じた。
雪自身、ネロに隠し事をしていることがどれほど失礼なことかわかっているのだ。だからこそ、その罪悪感に心臓を冷やしていた。
「ぼ…僕は…」
「あなたの気持ちを教えてください。」
続けざまに尋ねられて、雪は思わず泣いてしまった。小林医師はぎょっとして慌てる。
「な、泣かなくても…安心してください。あなたの意思は尊重します。ネロさんには話しませんから。」
「ぼっ…僕…」
「落ち着いてください。」
「子供は嬉しくて…っ…」
そのまま雪は声を殺しながらも泣き崩れてしまった。小林医師は慌てて医療用のガーゼを手に取って、雪にハンカチ代わりに渡した。
「わ、わかりました。落ち着いて。」
「ごっ…ごめんなさっい…」
小林医師が涙を拭いてくれることに、雪は頭を下げて謝った。
「大丈夫ですよ。不安は誰にでもあります。今の雪さんはΩのホルモンバランスが不安定になっています。不安があっても、何もおかしいことじゃない。」
小林医師は微笑んでそう言った。
「けれど、あなたは今までの薬の影響で特に不安定になりがちでしょう。」
次にそう言うと、小林医師は真剣に暗い顔をして話した。
「あなたの出産はリスクがあることをしっかりと理解していてください。」
「は…はい…。でも…子供はきっと…何があっても産んでみせます。」
雪は小林医師から受け取ったガーゼで、グッと涙を拭ってそう言った。小林医師は雪の強い言葉に驚いた。
「その言葉が聞けて嬉しいです。」
そう言いながら、すでに心は親となっている雪に感心していた。
家に帰った雪はすやすやとソファで居眠りしてしまった。それを帰ってきたネロは見つける。
「なんて可愛いんだ…!」
愛しい番の寝顔に悶てしまう。ネロは雪の頬を撫でながら、視線を動かした。雪の手元には病院の診察カードがある。
ネロは気づいて驚いた。病院に行く回数が明らかに増えていると思ったのだ。
「雪…雪!」
「ううん…」
「君、また病院に行ったのかい?」
ネロが尋ねると、雪はビクリと飛び起きて怯えた顔をする。
「ゆ、雪?」
「あ…」
雪は弱視ながらも、ネロの視線が診察カードを捉えていると気づいた。慌てて隠して立ち上がる。しかし、ぼやける瞳ではうまく立てなくて、足下がふらついてしまう。
「あぶない。」
ネロがすかさず雪をとらえて支える。
「大丈夫かい?」
「は、はい。」
「体調は?」
ネロは犬の獣人の国の外交官だ。しかし、獣人専用の医師でもある。雪は妊娠がいつバレてしまうかと震えた。
「だ、大丈夫です。」
「本当に?病院に行く回数が多くないかい?」
「平気なんです!本当に…!」
必死な姿に、ネロは圧倒されてしまい、震える声で頷きながら返事をする。
「そ、そうかい。でも…心配だよ。」
「抑制剤…そう、抑制剤を…もらいに…」
「Ωの?でも、君には良くない…」
「僕にも…合うもの…ないかと…」
雪には抑制剤は危険なものだ。幼い頃から薬漬けの毎日だったので、体に毒なものばかりとなってしまっている。
そればかりか、雪たちの生きる時代では抑制剤は高価なものだった。抑制剤にも種類があるが、常時持ち歩けるような者たちは富裕層ばかりだった。
「でも…で、でも…僕に合うようなものは、高くて…」
「そ、そうかい…」
「い、要らないと…わかりました…」
雪は隠したいという気持ちばかりで、おかしな言葉を必死に紡いでいた。
喋り終わるとすぐにどこかへ行ってしまった雪に、ネロは不安を感じたまま見守っていた。しかし、雪が居なくなった部屋でカレンダーを見て気づいた。
「あれ…雪…ヒートがまだ来ていない?」