違和感。

  「ヒートが来ていない?」

  ネロの友人で同じ外交官であるレオが首をかしげた。

  「そりゃあ…お前、体に異常が起きたか…妊娠だろう?」

  「にっ、妊娠…?!」

  ネロはレオの言葉に驚いた。考えてもいない可能性だった。

  雪は薬漬けの日々が長かったせいか、「子供は出来づらいだろう。」と医者に言われていた。だから、ネロも子供は難しいだろうと考えていた。しかし、愛し合っているからこそ、二人だけの生活も良いと思って、雪との結婚を決めたのだ。

  「いや、それは…。雪は子供が出来づらい子で…。」

  「でも可能性はゼロではないだろう?雪くんだって人の子で、しかもΩだ。」

  「そ、そんな…。もしそれが起きていたら、雪は危険な妊娠になる…。」

  「そうかもな。でも、していることはしているのだから、仕方ないだろう。」

  レオは冷静に話した。レオの言うとおり、することはしているのだ。ネロは予想しなかったレオの言葉に、驚きを隠せなかった。

  「そ、そうか…考えてなかったよ。」

  「考えてなかったってお前…責任とらないといけないぞ。」

  レオにそう言われながら、ネロは雪との子供を想像して嬉しくなっていた。尻尾を振っていると、レオはその様子に目を丸くしてから微笑んだ。

  「けど、お前。」

  「ん?」

  「本当に妊娠かはわからないぞ。雪くんに聞いてみないと。」

  レオは落ち着いた様子で話す。ネロは「うーん」とうなりながら考えた。

  「それがね。最近…雪が頻繁に病院へ行ってるんだ…。」

  「え、それなら…もう妊娠してるんじゃ…。」

  「けど、なぜか隠されているような気がして…。なにも話してくれないし…。」

  「隠してる?妊娠していることを?」

  レオの驚いた顔に、ネロはグサリと刺されたような感覚を覚える。

  仕事場に向かっている二人は、顔を見合わせながらその場に立ち止まった。

  「どうして隠すんだ?」

  「それは…わからないよ。」

  ネロはうつむきながら、再び歩き始める。

  「雪はきっと…ホルモンバランスが崩れて不安定な精神状態だろう。」

  「そうだな。」

  レオはネロの横を歩きながらうなづく。ネロは悲しい思いになりながら、話し続けた。

  「きっと…それでなにか不安に思って…。」

  「まぁ、そうだろうな。通っている病院の医師に聞いてみたらどうだ。」

  「うーん…。知り合いだから、教えてくれるかな。」

  個人の治療の状況や病状は個人情報だから、医師には守秘義務がある。ネロも獣人の医師なのでわかっている。しかし、心配だった。

  仕事の終わったネロは歩いて病院まで向かった。最近、雪が毎週通っている病院だ。病院の院長である小林医師とは古い付き合いがあり、結婚の報告も雪の体調の相談もした。

  病院の木製の戸を開けて、中にはいるとすぐに声をかける。

  「すみません。」

  「はーい!…あの…?ここは人間の方専用の病院ですが…?」

  出てきた看護師は困惑した顔で首を傾げる。ネロは苦笑いを浮かべて会釈した。

  「ああ、いや。私は患者ではなく、小林院長の知り合いでして。先生はいますか?」

  「そうですか!はい、いらっしゃいますよ。」

  看護師は朗らかな笑顔に変わって、奥の診察室を指す。

  「あ、もしかして…ネロ様ですか?犬の獣人の外交官の…」

  「はい。ネロと申します。最近は嫁の雪がお世話になっているようで。」

  ネロがそう返すと、看護師は途端に不安げな顔に変わった。ネロはそれを見逃さなかった。何か雪に不安があるのかと背筋が冷える。しかし、それを尋ねていいのかとも思った。雪が隠しているからだ。

  「あの?」

  恐る恐る話を続けようとした時、奥の診察室の戸がガチャリと開いた。

  「どうかしたのかい?」

  小林医師が奥から出てきた。看護師とネロはハッと驚いて小林医師を見る。小林医師は驚いた顔をしたあとで、ネロに気づいてさらに顔を歪めた。

  「ネロさん。どうしたのですか?」

  「お久しぶりです、小林先生。」

  「ここは獣人用の病院ではありませんがねぇ。」

  「そんなことをおっしゃらないで。最近、雪がお世話になっているようで。」

  ネロは苦笑いを浮かべて手を差し出す。小林医師は微笑んで握手をした。優しい年寄りの、しかし匠の手をしていた。

  「外交官の仕事でも、獣人の医師としての仕事でもなく、お嫁さんのことですか。」

  「ええ。仕事の話ではありません。雪のことで…」

  本題に入ろうとした瞬間、小林医師は困った顔をした。

  「すみませんがネロさん。患者さんの情報は話せない。」

  「夫でも…ですか。」

  「配偶者だろうと、患者さん本人が明かしたくないと言うなら無理ですね。」

  落ち着いた声の小林医師はそう言った。ネロはそう言われるだろうとわかっていた。しかし、面と向かって答えを聞くと落ち込んでしまった。[newpage]

  明らかに落ち込んだネロの尾を見て、小林医師は頭を抱えた。そして、困った顔でため息まじりに言った。

  「安心してください。重たい病気ではない。」

  「本当ですか!」

  「心配になりますよね。しかし、彼も不安なんです。許してあげてください。」

  「ええ。あなたの見解が聞けて、少しだけ安心できました。」

  そうやって返事をしながらも、小林医師の言葉に気づく。やはり、雪は妊娠している可能性が高い。

  「夫として、信用されていないんでしょうか。」

  雪が何も話してくれないことに、悲しい気持ちがあふれる。呟いたネロに、小林医師もうつむいた。

  「どうなんでしょうか。私にもわからない。けれど、信用していないわけではないと思う。」

  「え…」

  「愛しているからこそ、離れたくないからこそ…色々と考えてしまうんじゃないだろうか。」

  小林医師はそう言ってから微笑んだ。

  「不安に思わなくてもいいですよ。きっと、あなたに話してくれる。素直になってくれますよ。信じていれば、待っていれば。」

  「そうでしょうか…。」

  ネロは小林医師の言葉に、心に落ち着きを取り戻していた。

  「突然押しかけてしまいまして、申し訳ありませんでした。」

  「いえいえ。」

  頭を下げるネロに、小林医師は微笑んで答えた。ネロは頭を上げて入り口の戸に手をかける。

  「では、帰ります。」

  「雪さんのことはおまかせ下さい。きっと、元気にしてみせますから。」

  「ええ。まかせます。」

  ネロが微笑んで答えると、小林医師も優しく微笑む。ネロは安心して病院を出た。

  しかし、もう普通の大きさではないほどに雪の腹は膨れている。隠せていないのに、いつになったら話してくれるのだろうか。ネロがそう思っていたとき、路地裏から大きな声が聞こえた。

  「待てよ!」「何逃げようとしてんだ?!」

  荒々しい男たちの声だ。その声に混じって、か細い弱々しい声も聞こえる。

  「や、やめてください。」

  ネロはその声を聞いてハッとした。雪の声だった。ネロは気づくと走っていた。

  「逃げんなよ!」

  路地裏では、βの男たちが雪の腕を掴んでいた。雪は涙を下まぶたに溜めて、ガクガクと震えていた。すでに立ち上がる力もない。

  「ご、ごめんなさい。」

  「ははは。可愛いなこのΩ。」

  「やめて…。」

  「妊娠してんじゃん。」

  雪は病院に行こうとしていたところを男たちに捕まってしまった。男たちは金も家もないようなβだ。だからこそ結婚しており、妊娠しているようなΩが許せないらしい。

  αはβより上、βはΩより上。そんな世間の風潮を信じているような奴らだった。

  「Ωのくせに、玉の輿ってかぁ?」

  「や、やめて…」

  「Ωはいいよなぁ!何の才能も、権力もない。頭も悪いくせに!金持ちのαに嫁いだらいい暮らしできてよ!」

  男たちはそう言って、雪を地面に倒した。雪は抵抗するが、複数人に襲われると力が足りずに負けてしまう。

  「ちょっと可愛い顔してたら玉の輿!βのこと、下に見てんだろ?」

  「そんなこと…!」

  「けどなぁ!Ωなんてβにも襲われるような雑魚なんだよ!」

  一人の男がそう叫ぶと、雪の服を破り始めた。

  「やめて!」

  雪が抵抗すると複数人で何度も殴った。雪は顔がすぐに血だらけになり、抵抗する力を失った。

  ネロは走って路地裏にたどり着くと、その一部始終を目撃してしまった。長い路地裏の奥まで走り、ネロが助けようとした時には雪の意識はなくなっていた。

  「お前たち!何をしている!」

  「なっ!?獣人!?」

  ネロは男たちが驚いた瞬間に、男たちを殴り飛ばした。

  「何するっ!」

  「この子は私の妻だ!」

  「なっ!」

  男たちはネロを見て目を丸くした。ネロが獣人だからだ。

  「じゅ、獣人…?!」

  「おい!この人…αだよな?!犬で黒毛の外交官がここらに住んでるだろ…?!」

  「ま、まさか…そんな…っ!」

  「ひいっ?!」

  男たちは逃げ出した。

  ネロの住む屋敷は外交官が住むために作られた屋敷だ。つまり外交官専用の住まいである。当然有名になってしまっていた。

  「黒毛の犬の獣人で、獣人専用の医師である外交官が住んでいる。」これは人間にも噂として知られていた。

  「雪!雪!」

  ネロは男たちがいなくなった路地裏で、倒れている雪に駆け寄った。雪の顔は血まみれで、頬は腫れていた。

  「なんてことだ…。」

  ネロは雪を抱きかかえて屋敷に向かった。