新たな家族。

  ネロは傷ついた雪を抱きかかえて屋敷に戻る。そして、いつも二人で寝ているベッドに雪を寝かせて、手当てを始めた。ネロも医師である。しかし、本当に宝のように大切にしている人の手当ては指が震えた。

  「良かった…そんなに深い傷ではないか…。」

  ホッと胸をなでおろした後で、ネロは部屋を出た。そして、屋敷の一階に下り、小林医師に電話をかけた。外交官の家だからか、もともと電話は備え付けであったのだ。

  「すいません、小林医師はいらっしゃいますか。」

  「はい。少々お待ちください。」

  先程の看護師の声がして、ネロだと名乗らずとも察したようですぐに話が通じた。電話の奥でトタトタと走る足音がする。その後でまた足音が聞こえたと思うと、小林医師の声がした。

  「ネロさんですね?どうしました。」

  「それが…雪が病院に向かう途中で男たちに襲われたんだ。」

  「えっ?!」

  「相手はみんなβの男だったんだが、顔を殴られて…」

  ネロからしたら、雪が妊娠しているとは確実にはわからない。しかし、もう聞かなくてもわかっているようなものだ。それは小林医師も察していた。

  「手当てはしましたか?患者さんの一大事ですので、後でお宅に伺います。」

  「はい。手当てはしました。心配ですのでお願いします。」

  ネロと小林医師はそんな会話をして電話を終えた。獣人の医師と言えど、人の治療は完璧にはできない。ネロはざわつく心を落ち着かせて、雪の様子を見守りながら小林医師の到着を待った。

  「ネロさん、遅れまして申し訳ありません。」

  数時間後にやっと小林医師はやって来た。ネロはホッと胸をなでおろして、小林医師を屋敷に招き入れた。

  「いえいえ。来てくださってありがとうございます。」

  「それで、雪さんはどちらに。」

  「二階の部屋で寝ています。」

  ネロはそう言いながら、小林医師を連れて二階へ行く階段を上がった。

  ガチャリとドアを開けて、雪が寝ている部屋に入った。雪の傷の手当てはネロがしており、小林医師はその様子を見て安堵のため息をもらしていた。

  「完璧な手当てですね。さすが、獣人の医師。」

  「いえいえ。そんなことより…雪は…」

  「もう気づいておいでですね。雪さんの妊娠…。」

  小林医師は雪を目の前にして、膨らんだ雪の腹を見てうつむいた。ネロもその言葉を聞いて、知らないふりなんてできなかった。

  「ええ。だいぶ前に。」

  「あなたは優しい。知らないふりをしてきたんですね。」

  小林医師は診察をしながら続けた。ネロはその様子を見ながら答える。

  「雪の…彼の気持ちも考えなくては。きっと初めてのことで怖いんだろう。」

  「そうですね。彼の体では妊娠と出産に耐えられるか…。医師である私でも、不安です。」

  ネロは小林医師の言葉に、唇を噛み締めた。雪を弱く脆い体にしたうえ、視力まで奪った誰かを怨んだ。

  「彼の生い立ちは知っていますが…あなたに妊娠を隠して、その後どうするつもりだったのか。」

  小林医師は呟いた。

  この国のΩの扱いはまるでペットのようだ。戸籍は生まれた娼館や家庭で作られるが、それ以外にΩは何も持っていない。

  例えば娼館で生まれる。すると戸籍が一応作られる。しかしそれらは雑な作りだ。なぜなら、親がΩの子供は誰の子なのかわからないことが多いからだ。

  雪もそうだった。母がどの客と作った子なのかハッキリしなかった。だから、確実な雪の家族は母だけだった。

  雪は母の残してくれた、雪という名前で作られた戸籍だけが、雪の唯一の宝物だった。

  「親も曖昧な戸籍だけが、自分がこの世に存在しているという証だ…。Ωの誰かがそうやって嘆いているのを耳にしたことがあります。」

  小林医師はそう言いながら、持ってきた道具をしまい始めた。

  「雑な作りの戸籍以外、お金も家も家族もない娼館生まれのΩはたくさんいる。彼の場合はそんな状況に加えて、弱視に病弱な体だ。それに、人口割合の少ない男のΩ。」

  「何が言いたいんです?」

  「いえいえ。別に悪口を言っているわけではありません。」

  少しだけムッとしたネロに、小林医師は苦笑いを浮かべて否定した。

  「しかし、冷静に考えて彼は一人では生きていけない。以前のように身体を売る以外には。」

  「…」

  ネロは彼が悪いわけではないのに、苛立っていた。その様子に、小林医師は眉を八の字にして困った顔をした。

  「怒らないでください。これが、人間のΩの現状です。」

  「ええ。犬や猫の獣人のΩが守られているのに比べて…人間の世は厳しい。」

  「そうです。だから、あなたには彼を守ってあげてほしい。」

  小林医師はそう言った。

  「私はあなた達夫婦に、この現状を変える可能性があると思っています。」

  ネロは彼の言葉に、瞳を大きくした。こんなに暖かく見守ってくれている人が居るだろうかと思った。

  その時、雪がモゾッと動いた。小さな声で「うーん」と唸っている。ネロは驚いてすぐに雪を見つめた。

  「雪!大丈夫かい?雪…!」

  「ん…ね、ネロ…様?」

  「雪!」

  眩しそうに瞳を細めた雪に、ネロは覆いかぶさる勢いで駆けつけた。

  「見えるかい?」

  「は…はい…近いから…。」

  「よかった。」

  しっかりと言葉を交わせていることを確認して、ネロは安堵の息を漏らす。そんな様子を見た雪は、ハッキリとしてきた頭で思い出した。そして、顔を青くする。

  「あ…あの…」

  「雪さん、お腹に痛みなどはありますか?」

  起き上がろうとした雪に、小林医師が話しかけた。話しかけられたことで、雪は状況を理解し始めた。妊娠していることはもう隠せない。

  「あ…ああ…」

  雪はポロポロと涙を落とし始めた。ネロは慌てて声をかけた。

  「雪、落ち着いてくれ。突然動いたら良くない。」

  「ぼ、僕…僕は…」

  「いいから。今は何も考えなくていい。」

  雪は顔を手で覆い隠して泣き始めた。その時涙が落ちる先は膨らんだ腹だ。

  「あなたに…迷惑をかけるつもりはありません。離縁も受け入れます。」

  「なっ、何を言っているんだい?」

  「子供は…あなたの重荷になってしまうのではありませんか?人と獣人の子は…あなたに迷惑をかけませんか?」

  雪の言葉に、その震える声に、ネロは頭がいっぱいになってしまった。雪はきっと、色々と考えたのだろう。

  人と獣人が交わって出来た子供が幸せになれるとは限らない。ただでさえ、Ωの子供は格下に見られる人間の世の中だ。ネロの故郷である犬の獣人の国に帰ったら、幾分かマシだろうか?

  「僕が親で…この子たちは幸せでしょうか。あなたの子供を僕が産んで良いんでしょうか。Ωの子供は…幸せになれるでしょうか。」

  ネロの顔を見れないでいる雪は、顔を隠す手の隙間から涙をこぼしながら震えていた。ネロはその手を退かして、雪の瞳を見つめた。

  「君は…Ωの母君を持つ君は、幸せではないのかい?私と一緒で居ることを…不幸せに思っているかい?」

  雪はその言葉にうつむいた。噛みしめるように、その言葉を受けて考えていた。ネロは微笑んで続けた。

  「私は、君と親になることに幸せを感じる。悩みよりも嬉しさが増す。君だって、喜びを感じてはいないかい?」

  「は…はい…。」

  「そうだろう。だから、男たちに襲われていた君は腹を必死に守っていたんだ。」

  ネロは雪の頭を撫でてそう言った。ネロがそういった瞬間に、雪は思い出したような顔をした。

  「ぼ、僕…誰よりもこの子に…幸せになってほしくて…守らないといけないって…」

  「そうだね。君の自分よりもお腹の子を守る姿に、私は逆に不安を感じたよ。綺麗な顔が傷だらけになる様子、見ていられなかった。」

  雪の頬の傷に、ネロは愛おしくなりながら触れていた。

  「君と私は番だ。何よりも先に、私にも共有させてほしかったよ。君の不安も、悩みも、喜びも。」

  「はい…。ごめんなさい…。」

  雪は再び大泣きをし始めた。ネロはクスクスと笑って何度も雪の頬を優しく撫でた。

  「もう謝らないでくれ。きっと、幸せになれるから。」

  ネロがそう言った後、雪はやっと微笑むことができた。

  おぼつかない瞳の動きでも、雪の瞳にはネロが映っていた。

  それから一週間後だった。

  「んん…」

  朝の太陽の日差しに、ネロは眩しく感じて起きた。いつもなら雪が起こしに来てくれるが、今日は誰も来ない。飼い猫のサクラですら、気配も感じさせてくれない。

  「雪…?」

  ネロはざわつく心を持ちながら寝室を出て、廊下も階段も雪とサクラの名前を呼びながら歩いた。しかし、誰も答えない。

  キッチンにたどり着いたとき、ネロは目を大きく見開いた。

  「雪!」

  雪が倒れていた。どうやら破水しているようで、袴が濡れていた。呼吸は浅く、意識は完全にない。そんな雪に、サクラが「ニャオーン」と大きな声で呼びかけている。

  「雪!雪!」

  名前を呼んでも、雪はダランとした体で、浅い呼吸を繰り返しているだけだ。

  ネロは慌てて小林医師に電話をかけた。

  「わかりました!すぐに向かいます!」

  「いいえ!私がそちらに運びます。おそらく、自然に出産することはできませんから。」

  小林医師に大きな声で素早く話した。その間にも、ネロは上着を着ていた。焦る心を必死に落ち着けて、雪を抱きかかえて屋敷を出る。

  料理中だったのか、包丁で指を切ってしまっていた雪は、指先から血を流していた。その赤い血が視界に入ると、ネロの心臓は脈打つスピードを早めた。

  「すみません!」

  病院についてすぐに、ネロは大声で小林医師に呼びかけた。

  「妻を!助けてください!」

  病院内のすべての人が驚いた顔をする。ここは人間の病院。獣人がいる事自体が珍しいからだ。

  しかし、小林医師はすぐに出てきてネロから雪を受け取った。

  「ネロさんはここで待っていてください。腹を切って子供を出します。このままでは母体共々死んでしまう。」

  「…っ!わ、わかりました。」

  ネロは大きな不安を感じた。しかし、頭を深く下げて頼んだ。

  「妻を…お願いします…。」

  ガチャリと扉がしまり、数時間は開かなかった。

  小さい命の声がしたのは三時間後だった。その声は二つ。

  雪は双子を出産したのだった。