初めて腕の中に抱いた日。

  「…き!ゆ…!雪!」

  だんだんと声が近づくような感覚がして、雪はハッと目を覚ました。目が覚めても、視界はぼんやりとぼやけていて、よく見えない。しかし、目の前にフワフワとした黒い毛がある。

  「ネロ…様?」

  「雪!よかった!」

  そんな声がしたかと思うと、ぎゅっと抱きしめられた。そこで雪は思い出す。

  早朝、まだ日が昇りきらない頃。雪はノソノソとベッドから起きて、朝食を作り始めた。一階のキッチンでの物音はあまり二階の寝室まで届かない。しかし、あまり音が出ないように、外交官の仕事で疲れたネロが起きないように細心の注意を図った。

  しかし、腹の鈍い痛みが雪を襲った。一定の間隔で襲ってくる腹の痛みで、雪は呼吸が上手くできなくなり意識が遠のいていった。

  「あ…あの…」

  「もしかしてあの痛みは…」と雪は今になって気がついた。腹部に手をやると、妊娠前のぺったんこな薄い体に戻っている。腹を蹴るあの感覚はなくなっている。

  「こ、子供!僕の…大切な…!ネロ様と僕の…!」

  「落ち着いて雪。産まれたよ。君が大切に守ってくれていた子供たち。」

  「たち?」

  ネロが背後に視線を向けたことが、見えなくても感覚でわかった。ぼやける視界の中に、ネロの背後にあるカゴが映った。よく見えないけれど、その中で何かが動いている。

  「あ…」

  雪は慌ててベッドから降りた。

  「ゆ、雪!突然動いてはいけないよ!」

  雪は、ネロが慌てて雪を止める声を無視して動いていた。ネロの言葉に逆らったことは今まで一度もない。しかし、今の雪には我が子の安全のほうが最優先だった。

  「あうー」「うー」

  二種類の小さな可愛らしい声が聞こえた。雪は慣れない場所とぼやける視界で足がふらつきながらも、カゴに手をかけて中の何かを見た。

  黒と淡い茶色の毛の獣人の赤ん坊が二人いた。黒い毛はネロと同じくフワフワとして、茶色い毛は雪と同じで薄い色素を感じさせる。たしかにネロと雪の子だった。

  「あ…こ、この子たち…よかった…よかった…!」

  雪は安心して涙が溢れた。今になって、腹を切った傷が鋭い痛みをもたらす。しかし、それよりも弱い自分から産まれた子が健康なのか心配でたまらない。

  「け、健康ですよね?僕みたいに…視力や体が弱かったりは…」

  「ないよ。君が大事に守ってくれていたから。」

  ネロはおぼつかない足で転んでしまった雪を支えながら答えた。雪の体はボロボロで、本人は気がついていないが、呼吸も荒い。ネロは雪が心配でたまらなかった。

  出産を助けてくれた小林医師曰く、雪の体では出産は死の危険がある。産後は気をつけなければ、病にかかって死んでしまう可能性もある。

  「君のほうが危険なんだよ、雪。今は寝ていよう。」

  「で、でも…この子たち…僕のせいで体が弱かったら…」

  「そんな危険はないよ。君よりも健康さ。ほら、足が立っていられないだろう?寝ていよう。」

  喋りながら転んでしまう雪に、ネロは微笑んで話しかけた。雪はネロに言われてようやく、自分の体がガクガクと震えていることに気がつく。

  「あ…も、申し訳ありません…。」

  雪は謝るとその場に座り込んだ。ネロは雪の疲れきった様子に、心を痛めてしまう。正直見ていられないほどに、雪の体調は悪そうだった。

  「雪、謝ることないんだよ。我が子だが…正直可愛すぎて仕方ないよ。」

  ネロは雪を抱きかかえてそう言った。

  「え…」

  雪は驚いてネロを見ると、近づいて見えた顔は満面の笑顔だった。雪はその時になってようやく、心から嬉しくなった。

  「名前…どうしましょう…。まさか二人だとは想像してもいませんでした。」

  雪は眠くなりながら話した。ネロはその言葉に微笑んで答える。

  「雪のように、綺麗な名前にしたいね。」

  「綺麗な…名前…。」

  「うん。日本の名前にしてもいいね。」

  「名前は、親から子へ送る初めての贈り物ですからね。」

  雪はネロの腕の中で幸せを噛み締めながら言う。その嬉しそうな優しい微笑みに、ネロももう一度笑顔を向けた。

  「でも…雪という名前は馬鹿にされたこともありました。」

  「え?そんなことが?」

  雪はネロに抱きかかえられてベッドに運ばれながら、懐かしい記憶を夢に見始めていた。

  「体が弱く、いつも青白い顔をしているから…名前の通り雪のようだと。」

  「それは酷いな…。しかし、違うよ。雪のように白く、美しい純粋な心を持つことが名前に現れているんだよ。」

  「そんなこと…初めて言われました…。」

  雪はネロにベッドまで運ばれて、ベッドに仰向けになりながらも泣いていた。ぼやける視界の中で、ネロの顔が離れていく。雪は寂しく思えて腕を伸ばした。

  「ネロ様…こんなに幸せなことがあっていいんでしょうか。」

  「え?」

  「愛する人の子供が、僕に似ているんです。あの子たちは間違いなく僕とあなたの子供なんです…。」

  「そうだね。君が…私を愛してくれている。私もこんなに幸せなことはないよ。」

  雪の伸ばした腕に、ネロはキスをした。雪は顔を赤く染めて笑顔を見せた。

  「おやすみ、雪。愛しているよ。」

  「はい。僕もです…。」

  雪はネロの腕を愛おしそうに見つめてから、ゆっくりと目を瞑った。

  それから、雪はだんだんと体調が悪化してしまい、やがて熱を出して寝込んでしまった。ネロは仕事をしながらも毎日、病院へ通っては雪の手を握った。雪は熱を出している間はネロの手を握り返すことはなく、食べ物すら食べれずに痩せていった。[newpage]

  『報告が遅れて申し訳ありません。結婚の報告も突然で、お二人にはご迷惑をおかけしています。

  私の番は人間で男性のΩです。その番が妊娠し、先日出産いたしました。双子の獣人です。

  番の雪についてはお話したと思いますが、子供たちが彼と同じように弱視であったり、体が弱かったりという心配はありません。驚くほど健康で、毎日手足を動かして声を出しています。

  雪の体調は不調ですが、お二人には早くお伝えしなくてはと思い、手紙を送ります。』

  「砕けた文書になってしまったかな?」

  ネロは両親への手紙を書き終えて、首を傾げた。横のベッドでは雪が寝ている。最近は熱が下がってきており、喘息の発作も出ていない。心地よい寝息が聞こえる。

  ネロは外交官になってからは両親に会っていない。というのも、各国に渡って仕事をするからだ。雪と出会ってからは毎日があっという間に過ぎていて、結婚したことも何もかも連絡が遅れた。

  「怒られるだろうな…。」

  一人で苦笑いを浮かべて便箋をしまう。その時だった。

  「ネロ…様?」

  横から声が聞こえて、ネロは驚いて横に視線を向けた。ベッドに寝ていた雪がゆっくりと体を起こすところだった。ネロは慌てて雪の体を支えようと手を伸ばした。しかし、その手を雪が優しく掴んだ。

  「ご両親に…お手紙を書いていたんですか?」

  「よくわかったね。」

  「すごく考えて…書いていらっしゃったので。」

  雪は微笑んで答える。ネロはその白い顔と掴んだ手の細さに、雪が心配になった。

  「起きて平気かい?もう少し寝ていたほうが…。」

  「十分に寝ましたよ。お腹の傷も…もう小さくなりました。」

  「そうか…。」

  雪の細い声を聞いていると、どうしても不安だが仕方がない。寝てばかりで治るわけでもないのだ。

  雪はネロの両親に会ったことがない。結婚するときに、雪はそのことを心配していた。

  「ご両親に…挨拶…。僕からも…お手紙を…。あ、でも…やはり…Ωの僕からでは迷惑…でしょうか。」

  「そんなことないよ。いつか私の故郷に行こう。」

  しかし、ネロは会わせたくなかった。なぜなら、ネロの父は犬の獣人と言っても狼の獣人で、人を嫌っているからだ。

  狼の獣人は古くから、死体の毛皮は人間の間では高級品として、生きている場合は観賞用などの奴隷として売られていた。

  今でも闇市では狼の獣人の取引が行われていると言われているが、人間の国々はそれを認めておらず、表向きは無いこととなっている。

  ネロの父は昔から犬の獣人の国から出たことがないため、今まで無事だった。

  逆に、人間のほうが闇市で奴隷として売買されることもある。特にΩはその対象だ。しかし簡単に言えば、国としての強さによって人間の方が強いか、獣人の方が強いかが決まるのだ。

  雪の住む国は発展途上国。犬の獣人の国からしたら安全な方で闇市などはないものの、表立ってΩを蔑み、獣人に頭が上がらない。

  「はい。行ってみたいです…。」

  雪は微笑んだ。ネロはその瞳を見ていると、たまらない気持ちになる。どちらがいいのだろう?雪とともに犬の獣人の国に行くか、このままこの国にいるか。子供たちはどうだろう。どこでなら、受け入れられるのだろうか。

  「あの…子供たちの名前…。ご両親につけてもらうのは…」

  「それはいけないよ。私たちから最初にあげるプレゼントだろう?」

  「ですが…相談をしないのも…」

  「いいんだよ、気にしなくて。」

  ネロはそう言いながらも、無理を言っているなと思った。雪からしたら、夫の家族と関わるのは難しくて、色々と気を使ってしまうものだ。

  「なら…家族会議をしよう。」

  「え?」

  ネロは考えて、うなりながらそう言った。

  「この国に両親を呼ぶよ。」

  「そ、そんな!僕が行くならまだしも、来てもらうなんて…!」

  「いやいや。君は体が弱ってしまっている。そんな無茶はさせられないよ。」

  「でも…」

  続きを言おうとした雪の唇に、ネロはツンと指を当てた。

  「故郷に招待したいが…君の体ではきっと大変な旅路になる。けれど、両親も君に会いたがっていると思うからね。旅費は私が両親に送るから平気さ。」

  ネロはそう言って微笑んだ。

  「それに、私の自慢の子供と番だからね。両親に見せたいんだよ。君との生活を認めてもらいたいし。」

  「やはり…ご両親は反対されていらっしゃいますか…。」

  ネロの言葉を聞いて、雪は察した。ネロは雪の言葉にハッと息を呑んだ。

  「い、いや…」

  「わかっています。ネロ様がお手紙を読んで険しい顔をなさっていたとき…気づいていました。」

  弱視といえど、手紙の内容を見てしまうことや、それを読んだネロの顔を見てしまうことはあるのだ。

  「ですが…僕はあなたとの生活を手放したくはありません。」

  「雪…」

  「お話できるなら…いい機会かもしれませんね。」

  雪は微笑んでそう言ってから、カゴの中の子供に目を向けた。

  「まだ…子供を腕の中に抱けていないのが…寂しいです。」

  「仕方ないよ。今日まで辛い思いをしていたのだから。」

  ネロがそう言うと、雪はネロに再び目を向けた。

  「きっと、その手紙を読んだときには、ご両親もそう思うはずです。」

  「そう…かな…」

  ネロは驚くほど意志の強い顔立ちになった雪を見て、先程書いた手紙の内容を思い出した。

  「ご招待しましょう。失礼になるかもしれませんが。」

  「雪…ありがとう。君は本当に優しいね。」

  「いいえ。僕が国から出るよりも、来ていただくほうが現実的です。それに…ネロ様のご両親にお会いしたいです。子供たちを愛していただきたいです。」

  雪はそう言って、子供を愛おしそうに見つめた。ぼやけた視界にどんなふうに映っているのか、ネロは気になってしまう。

  「僕がどんなふうに思われても…この子たちだけは…愛されてほしいです。」

  雪は心から願うように呟いて、子供二人に手を伸ばした。ネロはそんな雪の腕の中に、子供二人を抱きかかえさせた。産まれてから初めて、子供たちは雪の腕の中に包まれた。

  「可愛い…ネロ様に似て、柔らかい毛をしています…。」

  雪が優しく子供の頬に触れると、子供たちは嬉しそうに声を上げて手を伸ばす。ネロはその様子を見て、心から幸せを感じた。[newpage]

  妻は黒く美しい毛並みの犬、夫は狼の獣人という夫婦がいた。夫婦にはネロという外交官の息子がいる。

  「イオ!手紙が届いたわ!今度は子供ができたって!」

  「なに?!」

  イオは夫の方で、妻はネオンという。あまり手紙を送ってくれない息子が最近よこした手紙は日本という国で人間のΩと結婚したという内容で、そのΩは男性だという。

  それだけでも驚いていたのに、今度は妊娠して出産したという。

  「なんてこと!まだ見た目も知らないのに!」

  「身体を売ったりしていたんだろう?ろくな相手じゃない!」

  手紙を見せた妻のネオンに、イオは吐き捨てるように言った。

  「あの子の送ってきた手紙いわく、大変な目に遭った方なんでしょう?そんな言い方は良くないわ。あまり元気もないって書いてあるし…。」

  「どうだか。人間のΩなんて誘惑するもんなんだろ?ネロから金を奪うつもりなんだ!俺は認めん!」

  イオは怒りに満ちた顔で手紙から視線を外すと、紅茶をすすった。その横で、子供を想像したネオンはジワジワと幸せに頬を緩ませた。

  「どれほど可愛いのかしら。あの子の手紙いわく、番の方は綺麗な顔立ちで…」

  「そもそも人間の国に外交官として行くこと自体が反対なんだ!」

  イオはネオンの様子を見て、大声を出した。ネオンが人間に心を許しているような姿に許せなかったのだ。ネオンは呆れ顔で見つめる。

  「そんなんだから、あなた宛には手紙が無いんですよ。」

  「うるさい!人間のΩは、βやαの人間に好きなだけ汚される…一番汚い人間だ!」

  イオはそう言って怒鳴った。ネオンはその言葉を聞いて、険しい顔をして息を呑んだ。

  「あなた!ネロは日本に招待してくれているんですよ?」

  「あぁ、行くさ!番になったというΩとは離婚させる!」

  イオはドンっと紅茶の入ったカップをテーブルに置いた。

  「なにを言うんですか!!子供はどうするんです!」

  「引き離してこの国に連れて帰り、私が育てる!お前には文句は言わせないぞ!」

  「なっ!あの子が幸せならいいじゃないですか!そりゃあ、勝手に結婚したのは驚いたし…伝えてくれなかったことには怒ったけど…!」

  ネオンが口早に言うと、イオはさらに怒鳴った。

  「人間に獣人が育てられるものか!ましてやΩの人間だぞ!私は認めん!」

  「あなたが認めようが認めまいが関係ないんです!本人同士が…」

  「人間のΩに!私の孫を触らせるのも、気味が悪い!」

  イオはネオンの話も聞かずに椅子から立ち上がると、ズカズカと自室に戻っていった。ネオンはため息をついてから、イオのティーカップをキッチンで洗い始めた。

  「可哀想に…出会ったらなんて言われてしまうんでしょう。」

  出会ったことのない雪を思い、ネオンは哀れに思った。

  ネオンはティーカップを洗い終わると、机に向かって手紙を書き始めた。日本に行くことをネロに伝えるために。