春が近づいて暖かくなってきた頃からだった。早朝に起きて、朝食を用意する。そして食べ物の匂いを嗅いでいると、吐き気を感じた。
「うっ…うえっ」
もともと少食だから胃から出るものなんてないが、雪は何度も吐いた。けれどその様子はけしてバレないようにした。ネロに心配をしてほしくなかったからだ。
「なんで…」
異常な眠気と吐き気、体のだるさ。体調不良はいつものことだが、いつもが100だとしたら、今は150といったところか。思うように動かない身体に、泣きそうになった。
「雪?」
「え、あ…」
振り返ろうとして体がふらつき、床に尻もちをついた。
「雪!」
ネロはすぐに駆けつけて、雪を抱きしめた。
「平気かい?転ばなくて良かった。」
「ネロ…す、すいません。」
おどおどとし、思わず敬語で話している雪に、ネロは複雑な思いを感じながら、微笑んだ。雪は弱視で、視線はおぼつかない。少しずれたところを見つめている雪の瞳を、ネロは見つめた。
「顔色が良くないよ?」
「そ、そうですか?」
ぼやける視界の中にネロを見つけて、雪はホッとしながら答えた。獣人の医者であるネロは、雪の額に手を差し伸べる。
「熱は…無さそうだね。」
「大丈夫ですよ。」
雪は微笑んで答えた。ネロはその表情に不安を感じる。雪はいつも体調不良を隠す。心配をかけたくないと笑顔でごまかす。それを夫婦になってからも見ていたから、余計に心配だ。
「雪…」
「さあ、朝ごはんにしましょう。」
ネロが心配することは、雪にも想像がつく。雪はすぐに誤魔化して背を向けた。ネロは心配そうに顔を歪めていたが、雪は逃げるように朝食の準備を進めた。朝食の匂いを嗅ぐことは地獄のようだった。
「妊娠していますね。」
ネロが仕事に出かけてから、一時間ほど経っている。雪は密かに病院に行き、検査を受けた。結果は妊娠だった。
「え…」
「今までの薬の副作用があるので、つわりは酷くなるでしょう。ご家族の協力が必要です。旦那さんには今日、病院に行くことは伝えていますか?」
医者の声が遠くに聞こえた。雪の頭の中は真っ白だ。それと同時に、どうやって隠そうと思った。
ネロは雪との子供を喜んでくれるだろうか。殺されたりしないだろうか。いらないと言われたらどうしよう。
雪は様々な考えに頭を働かせた。ネロがそんな酷い獣人だとは思っていないのに、頭は勝手に働いてしまう。
「雪さん?」
「ネロ様には…!言わないでください!」
「え?」
「今話したら…安定期にも入っていないのに…」
雪は必死に口実を探した。医者は安定期という言葉に、微笑んで頷いた。
「そうですね。安定期に入ってから伝える方は多いですね。」
雪はホッとして肩の力を抜いた。
「雪、病院行ったのかい?」
「え…」
病院の診察券を見たネロが尋ねた。夕方、ネロは仕事から帰ってきてネクタイを解いていた。雪は心底驚き、少しだけ怯えた。ネロはその様子を不思議そうに見つめている。
「あ、はい。いつもの…目の検診です。」
「そうかい?」
ネロは首を傾げてなんとか納得する。目の診察なら眼科だろうと思っていたのは黙った。
雪は診察代を気にして、病院に行くことを嫌う。ネロはそれを知っていたから、結婚してからは余計に病院に行かせるようにしていた。
雪も最近は自分から通院するようになっていたが、今日は通院の日ではなかったはずだと思う。ネロは特に追求はしなかったが、疑問に思った。
「問題はなかったかい?」
「え、は、はい。」
「そうか…雪、無理しないでね。」
「は、はい。」
おぼつかない答えをしながら、雪は自分の作っている夕飯の香りに吐き気を我慢した。