犬の獣人で、外交官のネロと結婚して数ヶ月が経った。犬の獣人の国へ行ったことはないが、人の国で二人幸せで穏やかな日々を送っていた。
「ネロ…ネロ様…おはようございます。」
相変わらず多忙な日々を送り、疲れて帰ってくるネロ。朝には弱く、いつも雪が起こしている。
使用人として暮らしていた時と変わらず、雪は家のことを一人で行っている。変わったことと言えば、
「では、行ってきます。」
チュッと優しいキスをしてネロが出かけていくことだろうか。
「はい。行ってらっしゃい。」
穏やかな微笑みを浮かべて見つめるネロに、雪は微笑み返して答えた。
ネロは仕事のために家を出てすぐに、番の可愛らしさにもだえた。
(なんて可愛いんだ。それに、朝食も相変わらず美味しい。)
今日の朝食は日本食で、優しい味の味噌汁がたまらなく美味かった。雪はいつも違う料理を作って、家の中はピカピカに掃除している。
(ああ~…私の番はとても優しくて…可愛くて。)
頭の中はいつも雪でいっぱいだ。最近は獣人用のブラシでブラッシングまでしてもらっている。新婚生活は幸せで溢れており、ツヤツヤでピカピカの漆黒の毛はそれを物語っていた。
「おいおい、ニヤけるな。」
親友で同じ外交官であるレオが不満げな顔で言った。今日は同じ仕事の会議に出る予定だ。
「そう言うレオも、恋人にブラッシングしてもらってフカフカだぞ。良かったなぁ。」
レオはそう言われると黙って恥ずかしそうに顔をそらした。茶色い毛をしたレオは、ツヤツヤとした毛づやをしている。爽という名前の恋人ができてからは幸せそうだ。
「それで、そろそろ子供とかは考えているのか?」
レオは気を取り直して話を切り替える。ネロは驚いて思わず立ち止まった。
「こっ、子供?!」
「何を驚いてるんだ。雪くんもそういう歳だろう。」
レオはやり返してやったと言わんばかりの満足げな顔で笑った。ネロはそんな表情を見ながら、子供について想像する。
子供が産まれるには、どんな行為をしたらいいのかなんて、大人であれば誰もがわかる。それを想像すると恥ずかしかった。別にしたことがないわけではないのに。
「そ、それはそうだが…。」
雪は身体を売っていた母の元に産まれ、自身も身体を売ることになった。その頃に薬漬けの生活を送った影響で、体が弱く弱視になり、色素の薄い見た目をしている。ヒートは不定期にやって来るし、他のΩに比べて酷いヒートとなる。
結婚してからは薬を飲まないようにしており、発情期の期間になると二人で過ごすようにしている。けれど、子供のできる様子はなかった。そのことをレオにも話す。
「そうか…。薬の影響かもな。子供ができづらくなってるんだ。」
「そうかもしれない。けれど、私は彼と一緒に居られたらそれでいい。」
「お前らが幸せならそれでいいよ。」
レオは微笑んでそう言った。羨ましそうに微笑むレオは、恋人が十八歳になるまで待っているらしい。
一方その頃、雪は家の中を掃除していた。弱視の彼には外交官の広い屋敷を掃除するのは大仕事だ。しかし、それが苦に思えないのは愛しい旦那が帰ってくるからだ。
バケツに水を入れて雑巾で床を磨く。しかし、ぼやける視界では距離感が掴めない。ガタンっと棚にぶつかり棚の上の物が、バケツの水にボチャンと音を立てて落ちてしまった。
「あっ…」
慌ててバケツに手を入れようとしたとき、「ニャーン」と鳴き声がして猫のサクラが擦り寄ってきた。驚いていた振り向くと、足元には棚から落ちたハサミがあった。こうして時折、サクラは雪へ危険を教えてくれる。
「ありがとう。」
微笑んで頭を撫でると、サクラはゴロゴロと喉を鳴らした。しかし、サクラが喜ぶのに反して雪は落ち込んでしまった。
(うまくいかない…。)
最近は失敗してばかりいるような気がしている。なんだか体が熱っぽいのだ。地面に手をついてガックリとしていると、頭がズキズキと痛んで重たくなっていく。その痛みはだんだんと激しくなっていき、立てなくなってしまった。
「い…痛い…」
痛みに耐えていると息が上手くできなくなっていく。過呼吸に変わっていく呼吸を自覚して、初めて発情期のヒートだと理解した。頭痛は熱によるもので、体の疼きはαを求めているものだとわかる。
このヒートはαに触れてもらわなければ治まらない。しかも、番にしか効果はない。
「ね…ネロ…様…」
「助けて」と心の中で必死に叫んだ。けれどネロは仕事中で帰ってくるわけがない。雪はその場にあったネロの使っているタオルを掴んだ。そしてそのタオルに顔を埋めて泣きながら深呼吸をした。そのときに香る柔らかな優しい香りに雪はだんだんと心を落ち着かせた。
「ゼーゼー」と呼吸は落ち着かないものの、なんとか動けるようになる。しかし、雪はなぜか必死に同じ香りのするものを探した。
たどり着いたのはネロの寝室だった。ベッドからはαの獣人特有の香りがする。そしてクローゼットからはネロの服の香りがする。
「ネロ…」
名前を呼びながら、クローゼットの中から服を引っ張り出した。そして服を抱きしめてベッドに倒れ込んだ。ベッドの中は番の香りでいっぱいだ。それを嗅いでいると尻が疼いて仕方がなかった。けれど不思議と安心する。
一時間経った頃には「ヒューヒュー」という音を立てて息を乱しながらも眠れた。
「ただいま。雪…?」
ネロは屋敷に帰ってくると、雪の姿がないことに心配した。いつもだったら雪はネロの帰ってくる音に気づいて、玄関までやって来るはずだった。そして、優しく微笑んでネロに「おかえりなさい」と言うのだ。
「雪…?」
暗い屋敷の中を見渡して、片付けられていない掃除道具を見つける。
「雪…?!」
様子がおかしいことに気づいてネロは慌てた。焦り始めたその時、ふわりと甘い香りが漂ってきた。すぐにΩ特有の香り、そして番の発情期のヒートの香りだと気づく。
「寝室…?雪…?」
ヒートの香りを嗅いでいると、心臓がドキドキとうるさくなる。ネロ自身のαの香りも強くなるのが自覚できる。喉を鳴らしてゆっくりとドアに近づく。
ドアを開けると、ベッドの上には服が散らばっており、熱で頬を赤く染めた雪がいた。
「雪…」
名前を呼びながら近づくと、雪の袴がじんわりと濡れているのが見えた。
「あ…ね、ネロ…様…」
「様はつけないでって言っているだろう?」
雪はネロの強い香りで、弱視でもネロがいるとわかった。ネロは起き上がれないのに必死に手を伸ばす雪に、欲情してしまいそうになるのを我慢した。
過去に雪がここまで発情した様子は見たことがなかった。雪の袴はさらに濡れてぐっしょりとし始めた。甘い香りも強さを増し、ネロは欲情して毛を立てた。
「雪…」
「ね、ネロ…」
雪はネロに手を差し出した。ネロはその手を受け取った。欲情していたネロは雪の着物と袴を脱がした。ぐっしょりと濡れた袴を脱がすと、雪はぎゅっとネロの首に抱きついた。
「すき…好きです…。」
「私もだよ。」
「愛しています…」
「うん。私もだ。」
ネロは愛しく思いながら、雪の言葉に返事をした。雪の体の隅々に触れていくと、雪は息を乱していく。ネロは今までよりも強く雪を抱いた。
翌日から、雪は高熱を出して寝込んでしまった。今までもそのようなことはあったが、数日で治まる熱が今回は二週間以上つづいた。
「す…すみません…。」
「えっ…起きて平気かい、雪。」
二週間と三日が経った頃、雪はベッドから起きてリビングにやって来た。ネロは驚いて、慌てて朝食を食べることをやめた。
ヨロヨロとおぼつかない足どりで歩いてきた雪は、ネロの目の前で足をよろめかせて転んでしまう。
「あぶない!」
テーブルに頭をぶつけそうになったとき、ネロが雪の体を支えた。熱がある時は弱視の瞳が一切の光を受け付けなくなってしまう。全く見えなくなるのだ。
「雪…見えていないんだろう。動かなくていいよ。何かしてほしいことはあるかい?」
「でっ…でも…」
雪は慌ててネロの声がするところを見上げた。ネロはその時、雪の瞳の焦点が合っていないことに気づいた。無理をさせてしまったと後悔が心を握りしめていく。
「君は使用人じゃない。私の番で妻だ。」
「あ…」
優しい言葉が、発情期後の不安定な心が染み渡るように響く。
「トーストなら焼けるし、私は大丈夫だから。」
「でも…毎日おかゆを作って下さって…」
「私は君の夫だよ。あたりまえじゃないか。」
「着物も…毎日着せて下さって…」
「敬語はやめないか。君は私の大事な伴侶だから。」
ネロはそう言って雪の額にキスをした。雪はやっと安心して深呼吸ができた。そして見えてきたのはネロの喜びの感情が現れている尻尾だった。
「ネロ…?」
「ああ、ごめん。君の体調が良くなってきて…嬉しくて。」
「ふふ。」
思わず笑みが溢れた。雪の笑みを見たネロは嬉しさにさらに尾を振った。
「もう平気です。家のことは僕に任せてください。」
「敬語はやめてって言っているだろう?でもありがとう。」
ネロはそう言ってからもう一度、雪の額にキスをした。雪はそのキスを受け入れながら、まだじんわりと残る体の熱っぽさを隠していた。