「危機」
夕食が終わりしばらくした頃、外でにわかに雨が降り始めた。
窓を閉め切っているにもかかわらず、水が地面を打つ音がはっきりと聞こえるほどの豪雨だった。
「ずいぶんと激しく降るね」
ブラムは、雨に濡れた窓を見ながらつぶやいた。絶えず流れる雨水のせいで外の景色は判然としない。
「恐らく通り雨でしょう。明日になれば止みますよ」
スヴェートは、そう言いながら膝の上で眠る少女の頭を撫でた。
妖精の特製のスープで心がほぐれたのか、少女の寝顔はどこか先程よりも穏やかに見えた。
ブラムとスヴェートは、それぞれ愛おしげな目で少女の寝顔を眺めていた。
そんな中、マリだけが、眉にシワを寄せながら独り不機嫌そうに唸っていた。
二人が振り返ると、人狼は左手でしきりに首をさすっていた。
シルバガンドでの一件以来チョーカーを着けなくなった首には、彼女が人間だった頃に魔物から受けた傷の跡が未だにはっきりと残っていた。
「傷、痛むの?」
ブラムが尋ねると、マリは静かに首を振った。
「いや。少し疼く感じがするんだ」
人狼は、そう答えると再び左手を首にあてた。
「ただこうしていると、いくらか落ち着くんだ。アイツの皮だから、かな?」
マリは目を細めながらつぶやいた。
「アゾットさん、でしたっけ? いい使い魔だったのですね」
スヴェートの言葉にマリは力強くうなずいた。
「ああ。アイツは、私が辛い時いつもそばで私を支えてくれた。あの時も今も…」
そう言いながら人狼は赤黒い鱗に覆われた自分の手を眺めた。
翌朝、空は昨日の豪雨が嘘のような澄んだ青空だった。
「これなら、外に出ても大丈夫そうだね?」
ブラムは、窓越しに外の景色を眺めながら言った。
「そうだな…」
マリは、そう言うと難儀そうに立ち上がり近くに置いていた大剣を手に取った。
「行こうか?」
彼女のその言葉とともにブラムとスヴェートは立ち上がった。
その時だった。
「ああ。お前は、ここに残っていてくれ」
マリは、スヴェートに向かってそう言うと制止するように手を前に出した。
「もしものための保険だ」
人狼は、どうして?と妖精が聞くよりも早く答えた。
「正午までには、戻る。もし戻らなかったら、ロキたちの所へ行け。
分かったな?」
マリの言葉に、スヴェートは渋々うなずいた。
「どうか気をつけて」
妖精は、そう言うと手で何やら印を描き聴きなれない言語で何かささやいた。
彼女の母国のまじないだろうか?
だが、マリとブラムは深く詮索はせず、そのまま「行ってくる」とだけ言って宿場を出た。
「貴方たちに精霊の祝福があらんことを…」
二人がいなくなってしばらくすると、スヴェートは先程つぶやいたまじないの言葉をこの地の言語に訳してささやき、膝の上に座る少女を見つめた。
少女は、不安そうな目で妖精を見返した。
彼女は、何か言おうと口を動かしたが、上手く言葉が出ないのかなかなか要領を得ない。
「大丈夫。何も心配することはありませんよ」
スヴェートは、そう言うと少女の頭を撫でようと手を伸ばした。
一瞬、少女はビクッと身を震わせたが、そのまま抵抗することなくスヴェートのふくよかな胸に顔を沈めた。
妖精は、鋭い爪で傷つけないよう掌でそっと少女の身体をなぞった。
内心スヴェートも少女と同じくらい不安だった。
もしも今魔物が襲ってきたら、もしもマリとブラムが戻って来なかったら。
兄を失った時でさえ抱かなかったありとあらゆる不安が彼女の胸の中で渦巻いていた。
「少しお話をしましょうか?」
スヴェートは、気を紛らわすために少女に語りかけた。
少女は、妖精を見上げるとバツの悪そうな表情で口をパクパクと動かした。
「貴方は無理に話す必要はありませんよ」
妖精は、少女に向かって優しく微笑みかけながら言った。
「お話はお話しでも昔のお伽噺です。この国のお話は詳しくありませんが、外の世界のお話しならいっぱい知っていますよ」
彼女のこの言葉に少女は、初めて目を輝かせた。
「お話し、好きですか?」
少女は何度も頷いた。
「それでは、何の話をしましょうか…」
スヴェートは、しばらく考え故郷の話をすることにした。
とある国の王子と姫の恋の話。彼女自身も幼少の頃兄に何度も話してくれとせがんだお気に入りの物語だった。
〈不思議ねえ。兄以外の人間がこんなにも愛おしいと思えるなんて…〉
妖精は、熱心に話に耳を傾ける少女を見つめながらそう胸の内でつぶやいた。
※
一方その頃、マリとブラムは、村の背後に広がる森の中にいた。
村での探索からは、昨日の探索以上の結果は得られなかった。
村にあるのは、相変わらず毒された大地と死体と破壊されたかつての生活の名残だけだった。
「常に警戒していろ。いつ魔物か狂った生き残りが歓迎してくれるか分からないからな」
村に入る直前、マリは背中の大剣を抜き放ちながらブラムに向かって言った。
ブラムは、無言で頷くと長剣の柄に手を置き森へ向かうマリの跡に続いた。
森の中は、村ほど破壊の跡は激しくなかった。
だが、乾いた血がこびり付き所々が抉れた木や足の踏み場もないほどに散乱した動物の骨は、この地が尋常な状態でないことを物語っていた。
「酷いね…」
ブラムは、辺りを見回しながらつぶやいた。
マリは、前を見たまま首を縦に振った。
「ああ。これは、いくらなんでも度が過ぎる。どうやら、ヤツら遊び感覚で殺戮を繰り返しているようだな」
人狼は、そう言うと嫌悪感をむき出しにした表情で唸った。
「ヤツら? 魔物は複数なの?」
ブラムは、尋ねた。
「匂いだよ、ここにには色んな獣の匂いが混じっている。恐らくこのあたりの殺戮は眷属の仕業だろう。
かすかだが、もっと力の強い魔物の匂いがある。たぶんそいつが眷属を使って狩りをしているんだろうな」
マリは、そう答えたかと思うと、突然足を止め左腕でブラムに止まるよう合図した。
「どうしたの?」
ブラムの問いに、人狼は「静かに」と小さくつぶやいた。
「ヒトの声がする。こっちだ」
そう言うと、マリは突然走り出した。
ブラムは、慌ててその後に続いて駈け出した。
「いた」
マリは、短くつぶやいた。
しばらく進むと、血の海の中でうずくまる人間の女性の姿が視界のなかに入った。
「うっ…!」
女性のもとに近づいたブラムは、思わず声を漏らした。
顔には痛々しいひっかき傷。左腕がもぎ取られ、大きく切り裂かれた腹部からは中の組織がはっきりと見えた。
「酷いな、とにかく止血をしないと…。
ブラム、救急箱の場所は分かるな?」
マリは女性の前に屈みこみながら、二言三言つぶやくと、ブラムに向かって自分のカバンを投げつけた。
ブラムは答える時間も惜しいと言ったように素早くマリのカバンの中をまさぐった。
救急箱は、すぐに見つかった。
ブラムが、それを地面に置くと、マリはすぐに治療に取りかかった。
暗い森の中にいるにも関わらず、人狼の左腕が淡く光っているのは治癒の魔法も併用しながら治療をしている証拠だ。
ブラムは、経験上マリはめったに治癒魔法を使わないことを知っていた。
彼女が魔法に頼る時は、大抵緊急を要する患者の前だけだ。
「出血が酷い…。中が飛び出していないのは幸いだったな」
マリは、光り輝く血まみれの手で器具を操りながら独り言をつぶやいた。
危険な状況だが、まったく手遅れというわけではない。
実際、マリは止血と縫合を数分で終えた。
しばらくすると、女性の呼吸も落ち着いてきた。
「これで、一先ずは大丈夫だ」
人狼が、そう言って息をついた時だった。
「危ない!」
突然、ブラムが叫び声を上げマリの身体を突き飛ばした。
「何をする?」
人狼は、彼の思わぬ行動に抗議をしようと顔を上げた。
だが次の瞬間、マリは目の前の光景に戦慄し言葉を失った。
目の前でブラムがうつ伏せに倒れていた。
彼の背には四本の矢が生えていた。