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◇◇◇
目の前にブリーフが置かれていた。
それは俺のものではない。――つまりは、他人のものだ。
なぜ、そんな物が俺の部屋の座卓の上に置かれているのかといえば、話は暫く前の雨の日に遡る。二つ隣の虎獣人が自室の鍵を落としたということで、一先ず俺の部屋に招き入れたのが原因だった。結局、部屋の鍵はアパートの階段に落ちていたという事で鍵屋の厄介にならずに済んだのではあるが、問題は……そこではない。
「……やらかしたよなあ」
社会人になり誠実さを取り繕ってきたのだが、あの時ばかりは目の前に吊り下げられたエサに飛びついてしまった。あまりに理想的な虎おっさんに俺はセクハラをしてしまったのだ。
いや、セクハラという一言で済ませていいものか。俺はおっさんの恥ずかしい所まで触って、淫らに乱れた声まで出させてしまった。いよいよ最高潮に達する直前で入った邪魔――もとい、鍵を親切にも届けようとして俺に預けに来た管理人によってコトは中断されてしまったのだが、あの日の記憶は今も鮮明に思い出される。
その時、正気に戻って逃げるように去っていったおっさんの忘れ物が、目の前のブリーフだ。何度お世話になったか。とはいえ、ちゃんと今は洗濯している。
俺がキレイにした虎おっさんのブリーフ。洗濯したばかりで綺麗な状態ではあるそれを、いい加減に返さないといけないだろうと、改めて考えていた。
蓄積していく罪悪感にそろそろ耐えられなくなってきた。
でも今更、なんて言って返せばいいんだ。
「あ、どうも~。この前忘れてたパンツお返しに来ました」
「……捨てといてくれ。二度と面見せるなよ」
となる未来しか見えない。
あれから数週間。たまに顔を合わせるが、目が合えばどちらともなく視線を外して、以前はあった挨拶すら無くなっていた。
関係性でいえば悪化の一方を辿っている。なら勝手に捨てればいいだろう、とも思うが、一応他人の持ち物なわけで、捨てろと言われる前にゴミ箱に突っ込むのは気が引ける。
ポストにでも突っ込むか。
いや、帰宅してポストに下着が入っているのを想像すれば流石に怖さを覚える。経緯を覚えていたとしても、ただただ薄気味悪い。
「……あー、そうだよなあ」
分かっている。
とっとと謝りに行って、下着は捨てておきますねと告げるのが一番だ。だが、気は進まない。極力それはしたくない。
なぜなら。
単純に、拒絶されるのが怖い。それが本心だ。
「……、仕事行かないと」
暫く机に突っ伏してベッド脇の時計を見ると、思いの外長い間うだうだと悩んでいたらしい。そろそろ出発しなければ電車に間に合わなくなってしまう。通勤用のバッグを背負い、靴を履く。
鉢合わせしませんように。
少し前なら考えもしなかっただろう願いを込めて、俺はドアノブを捻った。
◇◇◇
「くっそ、最悪……ッ」
俺は土砂降りの雨の中を駆け抜けていた。濡れたアスファルトが靴底に噛み付いてくれて滑る心配がない事が救いか、全力ダッシュで駅からアパートへと向かう。
「夜から降るとか、そんな事……」
言ってなかっただろ。と悪態を突きかけて、ふと今朝の事を思い出す。そういえば、今日は天気予報の確認はしていなかったように思う。昨日の時点でただ曇るだけだと言う予報だったのだが、一日経って雨雲の動きが早まったということか。
「……っ、くう」
文句のつけようの無いほどに、自分のミスだ。
こんなことなら残業などせずに、仕事は来週に回して帰ればよかった。どうせ納期は来週だった。週末を挟んだ月曜の負担を減らそうなどと画策したのが裏目に出た。
既に全身ずぶ濡れで、バッグの中で濡れて困るものはビニール袋に詰め込んでいる。もう諦めて途中から歩いても良かったんじゃないか、と気づいたのは、アパートの軒下に辿り着いてからだった。
「はあ、はあ……全力疾走とか……いつ依頼だろ」
脇腹が痛いこの感じも久しく体感してこなかった感覚だ。ぜいぜいと全身で肺を動かすように息を整えてから、階段を上がり始める。
「……え」
明日クリーニングに持っていって予備のスーツを出さないと、と予定立てながら二階廊下へと辿り着いた俺は、その最後の一段を上がる前にフリーズしてしまっていた。
薄暗いアパートの廊下。もう遅い時間だ。他の部屋の住民は寝ているのだろうか。いや、どこかからかテレビの音が微かに漏れ聞こえている。ドア横の小窓に光が灯っているのも見える。
だが、この夜雨にわざわざ廊下へ出てくることはないだろう。外出をするわけでもないのなら尚の事。であるのなら、そこに留まっているのは何かしら明確な理由があってのことに違いない。
そんな事を瞬時に考えながら、俺は途端に震える脚で最後の一段を上がりきる。
「遅えな」
そこには、二つ隣の部屋に住む虎おっさんが座り込んでいた。
◇◇◇
スウェット姿の虎おっさんは片膝を立てて脚を伸ばし、缶ビール片手に黒縁メガネの奥から俺を睨みつけていた。すう、と細められる肉食獣の目。そこに現れた人物が俺だと気付いたからか、険しい表情が更に厳しく顰められた。
その牙の覗く口から、深く轟くような低音が俺を氷漬けにする。胴体の中で反響して喉を震わせる、太い声。
「よお、兄ちゃん」
不機嫌を感じる声色に、俺は思わず息を呑む。睨みつけられる心当たりが無い、なんて言えない。ある。明確に、確定的に――俺は彼に憎悪すら向けられても文句の言えない行いをしたのだ。
そんな彼が俺を待っていた。
「ずぶ濡れのトコ悪いけどよ。入れてくれねえか」
殴り飛ばされでもするのだろうか。と背筋に冷や汗を伝わせる俺に、彼は顎で俺の部屋の扉を指し示しながらそう言った。
また鍵を無くしたのか。いや、明らかに部屋着のスウェットを着ているのなら違うだろう。それなら、やはり、俺に用があるのだ。
おっさんは依然睨みつけたまま、返事が出来ずにいる俺に苛立ちを膨らませていくように、指でトントンと床を叩き始める。視線が「断れるとは思ってねえよな」と鋭く脅しをかけてきているように思えて仕方がない。
実際、俺には断れない。
「……はい」
意を決して、俺は座ったままのおっさんの前を通り、鍵を取り出した。
背後で、重い体を持ち上げる気配がする。空の缶が柵に当たって乾いた音を響かせていた。近くを通った匂いで分かったが、結構お酒を呑んでいるらしい。少なくとも、手にしている一缶だけでは無い。被毛の奥も赤らんでいるのがハッキリと分かる。
どんな酔い方をするのかは分からないが、この状況で大人しい酒癖を期待するのは難しいだろう。扉を開けた瞬間、背中から蹴り飛ばされるのではないかと、内心恐怖しながら自室の扉を開ける。
だが、幸いにしていきなり暴行を受ける、なんて事は無かった。
「どう――」
俺は雨にずぶ濡れの状態であることも殆ど忘れて、おっさんを部屋に招き入れようと振り返るよりも早く、おっさんは俺を押しのけるようにして部屋に入っていった。どうぞ、と言う間も待たれず、履いていたつっかけが雑にひっくり返る。
部屋は同じ造りのはずだ。迷いなく台所を抜けて部屋に入ったおっさんは、一直線に中央に置いている机へと向かい――。
「あ……っ」
体の冷えと唐突な展開で鈍っていた思考は、手遅れになってから記憶を呼び覚ます。そこには今朝置きっぱなしにしたままの、おっさんのブリーフが広げられたままになっていた。
おっさんが振り向いた時にはそれは既に彼の手の中にあり、胡乱げな目で見られた俺は濡れた靴も脱がずに立ち竦んでいた。
「俺の、だよな」
断定してみせるような問いかけに俺はコクリと一つ頷いた。
「兄ちゃん、あの時は好き勝手してくれたなあ?」
汚いものを扱うように端を摘んで持ち上げたブリーフを、おっさんはまじまじと見つめる。汚れきっていると確信している目つきだ。本来、おっさんが所有しているはずの下着に対しての行動ではない。
俺がその布切れにした事を見透かされている事は疑いようもない。
針の筵に座らされる、というのはこういう時に言うものなのだろう。何もしていないというのに、全身が熱いのか冷たいのか分からなくなる。ぐるぐると頭の中が回転し続けて、胸の奥に吐き気が蟠ってきているようだった。
そんな時、おっさんが俺に「なあ」と言葉を寄越す。
「兄ちゃんの部屋だろ。入ってきな」
「っ、……、はい」
このまま逃げ出したい。だが、部屋を飛び出したとて、ここが俺の住まいだ。逃げ場所もない。
金でも強請られるかもしれない。できれば暴力は止めて欲しい。嫌だ、と思いながらも、俺はおっさんの言うとおりに動くしか選択肢は無い。
ただ、おっさんの機嫌をこれ以上損ねないように、床が濡れるのも構わず部屋に入る。台所と居間の境に立てば、おっさんは座りながら口を開いた。座卓の上にビール缶を立てる。
何かを言おうとしている気配がある。何を言われるのか……、――何を命令されるのか。
「それだけ濡れてたら風邪引くだろ」
恐怖に拳を握りしめる俺にかけられたのは、まるで俺の身を案じるような言葉だった。
「……服、脱いだらどうだ」
だが、次に出てきたのはやや迂遠ながらに命令に他ならなかった。写真でも撮られるのかもしれない。それを、脅しに使うのか。
それを言う時、少し迷いのようなものがおっさんの表情に見えた気がして、それに少し引っ掛かりを覚えるも、その正体は判然とはしない。具体的に今頭に浮かんでくるのは、この状況を悪用されるという恐ればかりだ。
言外に裸になれというセリフを反芻し、流石にと僅かに
な抵抗心が芽生える。
「え、……と」
「あ?」
「っ、……はい」
だが、短い言葉の応酬に拒否は許されないと悟った。俺は体温を吸い取って生暖かくなっているスーツをおっさんの前で脱いでいった。
上着を脱いで、ワイシャツのボタンを外していく。ハンガーに掛けることもなく脱ぎ捨てる。スラックスと、下着代わりに来ていた半袖のTシャツも床に落として、パンツに指をかけておっさんに問いかけるようにして視線を送った。
相変わらず俺を憎むような目で睨みつけるおっさんは、何も言わず退屈そうに座卓に肘ついたままに動かない。
まだ、命令が完遂されていないのだから何も言わないのだと、俺はその意図を直観的に読み取っていた。
「……」
体に張り付く下着のゴムに親指を潜らせ、体を屈めながら脚を抜いていく。日常的な仕草、なんの意識もなく何千何万と繰り返してきた行動が酷くぎこちなく感じる。全身の関節が錆びついたような違和感。そして、裸になった俺におっさんは更に命令を重ねてくる。
俺の体に細かい文字が書き込まれているのかと思ってしまうように俺の体を凝視するおっさんは、その視線を俺の股座を見据えて言う。
「シコってみろ」
「……あ」
正直、予想はしていた。
裸にされて終わり、とは思っていなかった。ただ分からないのは、それでもおっさんはスマホを取り出そうともせず、俺を脱がせることを一片たりとも楽しんでいる様子がないことだった。
不機嫌さはますます増して、不快感情しか伝わってこない。優越感すら、欠片も見えない。
いよいよもって困惑を隠せなくなってきた俺に、おっさんは徐に手にしていたものを俺に投げて寄越した。
「コレ使ってんだろ」
宙を舞う白い下着。おっさんのブリーフ。
咄嗟に手を伸ばすも、取り損ねたブリーフが俺の腕の上で跳ねて床にパサリと落ちる。不可解ではあれど、それでも、今強制されていることは変わらないのだと、それを拾い上げながら思い出す。
なんでこんな事になっているのか。あの時調子に乗っておっさんに手を出さなければよかった。そう思いながら、どうしようもないという冷徹な自分がいた。
今は、おっさんの言う通りに。自慰を見せろというのなら、その通りに。
ただ、この緊張の中で俺の性欲は勃起を果たしてくれるのか。
それでもやるだけやらないと、とそう決めた時。
「いや、やっぱいい……すまんな」
俺の耳に届いたのは想像していなかった、謝罪の交じる言葉だった。
◇◇◇
「え……?」
「はあ」
苛立ちを隠そうともしない溜息。舌の根も乾かぬうちに前言を撤回したおっさんは、ずっと俺に向けていた視線を初めて外し、額に掌を押し付けた。
「やっぱ、勃たねえな。はぁーあ、んだよ。ったく」
と、おっさんは胡座をかいて頭を抱えたままに座卓に肘を付く。奇しくも、朝の俺と同じポーズだが、意図するところは何も無いだろう。
深く溜息をついて、おっさんはその格好のまま独り言を呟くようにして事態が飲み込めていない俺に話しかけてきた。
「抜く時も、デリ呼んだ時も、あの時のこと思い出してよ」
前置きもなく唐突に始まった話を落差に呆ける頭でどうにか理解しようとして、俺は口を閉ざして耳を傾ける。
「もしや俺もホモになったか、つって思ったんだけどな」
「……」
「やっぱ、おっぱいもねえし可愛くもねえ雄、見た所でなんも面白くねえな。ぴくりともしねえ」
スウェット越し、足の付根を握ってその存在を確かめるおっさんは何となく寂しそうに見えた。さっきまで、一秒とも俺から目を離していなかったようなおっさんが、今は一秒とも俺を見ようとはしない。
それでも、俺としてはただ聞き流せるような話ではなかった。おっさんの言うあの時のこと、というのはやはり、あの時のことなのだろうから。
それをやったのは、他ならない俺だ。
「それは、心の傷にって……こと、……ですか?」
「萎えるんならそうなんだろうけど、……ぁ」
と、おっさんはしまったという風に眉を顰めてから言い加える。
「いや。今のは忘れてくれ」
「……」
「……」
「んぐ……」
「えっと……じゃあ、えっと……思い出して、興奮すると……?」
ずばり、と尋ねてみれば、おっさんは数秒押し黙った。
俺は即座に否定が飛んでくると身構えていたのに肩透かしを食らった気分で、その真意を確かめようとおっさんの反応を待つ。
十秒ほど、だろうか。感覚的にはもう少し長く続いた気がする沈黙は、唐突に座卓に叩きつけられた拳の音で掻き消されていた。
置かれていたビール缶が跳ねて倒れ、残っていた数滴分の泡が卓上を汚す。と同時に、おっさんはがばっ! と勢い良く立ち上がる。
その顔は、怒りからか羞恥からか赤く染まっていた。
「ッ――そうだよ! だから、てっきり俺ぁホモになっちまったのか、なんて悩んでたんだろうが!」
「ちょ、声……っ、声大きいですって……!」
今まで感情を抑えていたのだろう。酔いもあって、振り切れてしまったらしい破れかぶれな吐露は、アパートの中であれば端から端にまで聞こえていそうな大声だった。
慌てて俺が小声で諌めるが、その前におっさん自身もその事に思い当たったのか、顔を赤から一転、青ざめさせて口を噤む。そして、崩れ落ちるようにしてもう一度座卓に肘を突いて、あぁー、と低く呻き声を上げていた。
「ああ、くそ。また、俺はこういう……」
今度こそ、俺に向けてではない完全な独り言が漏れる。前も思ったが、少しうっかり屋な所があるというか……鍵が手元に無い状態で「会社で出した記憶があるから、雨の中走ってでも会社に戻らないと」と考えが突き進んでしまうきらいのある人らしい。ゲーム的に言えば、混乱のバッドステータスが効きやすいとでも言うべきか。
そんな事を考えていると、おっさんは明らかに俺を見る事を避けるように立ち上がって、玄関へと向かった。どこか気落ちしたように背中を丸めて俺の傍を通り過ぎる途中、言いにくそうにこう言った。
「脅すような真似して、悪かった。邪魔したな」
「あ、ちょ……と、待ってください……っ」
手にしていたおっさんのブリーフ。それを返しておかないと、と呼び止めた俺に、おっさんは不機嫌さに疲労を滲ませる表情で振り返る。
やけに不機嫌だったり、悪酔いしていたり、おっさんの悩みは昨日今日だけの問題ではなかったのだろう。おっさん自身「脅すような」というような強硬的な行動に出たのは、きっとそのせいだ。
あの一件で、おっさんが男に目覚めてしまったんじゃないかという悩みを解決させたいがために。
「ぁ……」
そう思えば、今ここでこれを返して、それで終わりにしてしまっていいのだろうか。もし、裸になる俺に興奮していたとして、それでおっさんの悩みは解決されたのだろうか。
少し考え、俺は差し出そうとした手の中の白い布切れを握りしめたまま、こう問いかけていた。
「あの日の続き、……してみませんか?」
「――あ゛ぁ?」
返ってきた返事は「あ、食い殺される」と本能が危険信号を送ってしまうようなドスの効いた声だった。
◇◇◇
「ぅ……ぁっ……は、ぁッ」
ベッドに仰向けに転がったおっさんは、誰でもない俺の手で喘ぎ声を漏らしている。
酩酊状態で感じにくいかもしれないと思ってはいたが、おっさんの体はあの時のように敏感に俺からの刺激を受け取ってくれている。
おっさんの隣に座って手を伸ばしている俺は、なんとなくマッサージの施術士の様な心地だ。
それ以外に違う所といえば、俺は今全裸で、おっさんは上下ともに服を着ていると云うところだろうか。その服も、上半身は裾を首に掛けて、その丸々とした胸と腹を露わにさせているので殆ど無いような物だけれど。
「どう、ですか?」
「ぅ、んなトコで、喋んな……っ」
顔をに腕を上げ表情を隠すおっさんは、その男らしい低い声に蜜のように甘く粘る快感を乗せる。自ら強調する胸の弱点へと舌の切っ先で突けば、大柄な虎が身を捩らせて悩まし気に鳴き声を上げた。ついさっきまで纏っていた威圧的な怒気は息を潜め、反転したような受動的な態度が征服感を俺に与えてくる。
「はぁ、……あっ、うあ」
「女の子相手でも、そんなエロい声出してるんですか、おっさん」
「うるせ……ッ、んな、こた……ぁッ、く……」
俺は胸の突起に吸い付きながら、もう片方を指で摘むように押し潰している。柔らかな脂肪と反発する筋肉を同時に感じる胸肉に口先を埋めながらの言葉。それが物理的にくすぐったかったのか、やや乱暴に俺の顔は引き剥がされた。
短く断続的な息を繰り返しながら、おっさんは呆れたという顔をした。
「ブルブル怯えてたくせに……、調子づいたら途端に、っ、……元気になりやがって」
情欲に滲んだ眼が俺を睨む。いや、俺、というよりは俺の体の一部だ。
脂肪と筋肉。柔らかくふっくらと張りのある、豊満な体。中年らしい燻ぶったような汗の香りに、微かに蒸れた雄の匂い。少し硬く、それでも柔らかい毛並みに、暖色の黄色。俺にとってはただただ獣欲を掻き立てる淫猥な要素を抱え込んだ虎獣人に、俺は堪らなく勃起していた。
ベッドの上に崩した胡坐のようにして座る俺は、興奮した雄物を隠すこともできない。皮を被った仮性包茎の先から覗く割れ目と視線を合わせるおっさんに、俺はその根元を指で挟んで揺らして見せた。
「触ってみます?」
「ヤメロ、気持ち悪ぃ……」
「はは、それじゃあ」
顔を顰めるおっさんに少し笑い、そして、代案を提示する。
胸の角を撫でているのとは別の、役割を無くしていた手をゆっくりとおっさんの太ももを撫でた。それを少しずつ上にずらしていく。その先には小高い丘。やわらかい素材のスウェットにはっきりと浮かぶ雄欲。おっさんは、俺の手を止めはしなかった。
「俺が触るのは、いいですよね」
「……ああ」
俺はそのまま険しい丘陵を作り出すおっさんのスウェットに手を伸ばした。スウェット越しにこの前目に焼き付けたおっさんの雄茎が脳裏に明々と浮かび上がる。
半ばまで皮を被った太い幹。胴体を伝う筋に先端の熱。ゆっくりと触れればスウェット越しにもそこに滾る熱が伝わってくる。
「ぁ……ッ、くう……」
強く触っているわけじゃないのに、おっさんは心地良さげに淫らな声を上げる。漏れる声を抑えようとしているのか、篭る息が却って生々しい響きになっているのは気付いているのだろうか。屹立した愛欲を撫でられる悦び。それに否が応なく反応して震える横隔膜を必死に御そうとするおっさんに、俺は胸が中心に歪んでいくようなもどかしさを覚え、空いている雄胸の肉芯へとむしゃぶりついた。
「ふ、んッ……、ぁく……ッ」
舌で硬い感触を転がす。その度におっさんの喉からギュウと快楽を制御下に置こうとする音と、それでも抗えない声が漏れ出る。
思い出すのは、あの時の事だ。あの時も、今と同じようにおっさんは俺の手で可愛らしい声を上げては、もっともっととねだるような目で見つめてくる。
口を無味の乳房から離して、その目を見つめ返す。
この前の続きをしてみましょうと、俺はおっさんを説得した。半端に邪魔が入って終わったせいで、燻ってるだけかもしれないと。
最初は渋っていた。ただ、途中本気で嫌悪感が出たなら、ただの気の迷いでしか無かったと確信して、その場で帰ればいい。そんな感じの説得を経ての状況だ。ならばおっさんの悩みの解決のためには、前と同じことだけをしていては意味がない。
だから。
俺はゆっくりとおっさんに顔を近づけていく。猛獣の目が驚いたように俺を見つめる。俺のしようとしている事に気付いて、そして、その喉が大きく上下に蠢いた。
ゴキュル、と喉が鳴る。
唾を飲み、視線が惑い、そしてそれから、おっさんは太い首ごと頭を横に揺らすように振った。
「ダメなんですか?」
「んなの、……っ、許しちまったら、それこそ……ホモになる、だろ」
発情した息を吐き、ゆるゆると首を振るおっさん。途切れ途切れのセリフなのは当人である俺を目の前にしているからか。
失笑を滲ませ、彼の心配を否定した。
「ならないですよ。ノンケだって、フザケて盛り上がったらチューくらいするじゃないですか」
「それは……酒の余興……、っぅ、あ……みてえなもんで」
一瞬口籠るも、納得はしてくれない。それでもおっさんの反応を見るに、雄とキスした経験が無いわけではなさそうだ。
「ならいいじゃないですか。俺は雄とキスするのは普通で、おっさんはお酒で酔ってるわけですから」
「……、ダメだ」
期待に反し、逡巡の後に齎された返事はそれを拒むものだった。
それは仕方ないか。ここで強引に押しても嫌われて終わるだけなら、しない方がいい。少なくとも、俺の都合で言えば、だが。
しかし、そう思いながらも、その一瞬俺は何故か怒りを覚えていた。
おっさんはノンケだ、触れている中でそれは何となく分かっていた。おっさんは俺からのアクションを受けるばかりで俺の体に触れようとはしない。腕を掴んだり、頭に触れたりはあれど、そこに性欲はない。
だからこそ、キスを拒まれること自体は何とも思わないはずだった。むしろ、まあ、そうだよな。と思って然るべきだ。
(けど、なんでだ?)
どうして、拒絶されて腹を立てたのか。考えながらおっさんを見て、少し考えて……そして俺は得心した。
首を振って駄目だと言いながら、おっさんの濡れた目はまっすぐに俺の目を見ていた。何かを訴えかけるように。
「やっぱ、ダメだ……キス、は」
例えば、そう。自分の嘘を見抜いて欲しがっているように。
それを心で言語化して。その胸に手を這わせながら、俺は覆い被さるようにおっさんの胸の両脇に手を突いた。正面から何かを期待するような、熱に潤んだ獰猛な獣の目を見つめた。
「おっさん」
「……ぁぅッ、ダ、メだ……っ」
「おっさん、キスしよう」
「だから、っだ、ぁアッァ――!?」
おっさんのパンパンに張った熱欲の滾り。それを太ももで押しつぶすように擦り付ければ、おっさんは腰を浮かせて快感に声を荒げる。下着とスウェットに擦り上げられる刺激は強烈らしい、体が震える。
酔いと快感に蕩けた顔。赤らんだ頬に半開きの口。少しだけ覗いている舌の色が鮮やかに俺を誘っている。
この虎はズルい虎だ。俺に察しろと丸投げして、俺からキスしたと自分を納得させる逃げ道を残しておきたいのだ。
「俺はキスしたい――おっさんは、したい?」
「ぃ、は……っ」
丸く膨らんだ腹を撫でる。そんな微細な刺激にも喉を震わせるおっさんの身体は敏感に快楽を求めている。その先でより強い快楽の射精を果たしたいという雄の欲求がそうさせている。
「ん……ぅ!」
強く乳首を摘めば、立派な雄虎は涙すら浮かべて悦びに喘ぐ。色欲に熟れて俺を誘うような解けた表情。その熱い瞳は劣情に揺らいでいる。
だというのに、視線だけはお菓子をねだる少年のようなあどけなさが確かにあった。
「ぁ、あっ……だけど、俺……俺は……」
「大丈夫ですよ、おっさんはホモじゃないです」
す、と俺はおっさんの首に鼻先を埋めた。汗ばんだ匂いの中に南国花のような刺激的なエッセンスが混ざっている。癖になりそうな匂い。
もう一度息を吸えばおっさんの喉がひくりと跳ねる。少しずつ、首から頬に。頬から鼻先へ。そして、もう一度俺はおっさんと目を合わせた。
「兄ちゃん……」
「はい」
細く、眩く、瞳が瞬く。ちろりと舌が牙を抜けて、怖気付いたようにひっこんで行く。
「キス……してくれ」
そうおっさんの口が動く時には、もう殆ど触れ合うような距離にいた。言葉の途中で既に触れ合っていたのかもしれない。
俺の舌は毛の感触を割り、その奥のおっさんの舌と絡み合う。酒の匂い、麦の苦味。おっさんの口から溢れる慚愧の吐息。それを俺が差し置いて互いの快楽を求めていく。
「ああ、……ん、ん……」
くち、くちゅ、と互いの肉を絡め合う音が響く。呼気が混ざり合い、熱い唾液を交わし合っていく。
虎の大きな体が揺れる。俺が口付けを交わしながら胸を弄れば、おっさんは俺の脚に固い杭を擦り付けてくる。
その途中、おっさんがなにかに気づいたように俺の肩を叩いた。
「あ、ぅ……ふ、ッ、……んっ、ンンッ!」
だが、俺はこの時間を、舌を絡ませ、確かに互いに燃える熱を交換し合うこの瞬間の幸福を手放したくなかった。
息が荒くなる。おっさんの手が俺の肩を掴む。マズルの奥へ逃げる舌を追いかける。
グイと掴まれた肩を引き寄せられる。どうしていいのか分からなず、ただ肉体が動きやすい方向へ動いただけ、というような動き。マズルが噛み合い、深く俺とおっさんが繋がったその瞬間。
「んンっ……んんッんンンッ、っ!!」
おっさんの体が仰け反るように動いた。
同時に太ももに当たるおっさんの漲りがドクンドクンと跳ねる。何度か訪れた震えは、脱力していくおっさんの体と同期するように小さく萎んでいく。
「……っ、ぁ」
俺は、その振動の意味をよく知っていた。重なっていた口を離し、俺は唾液が溢れ伝う頬を拭い、おっさんに問いかけた。
「キスでイっちゃいました?」
荒く息を吐くおっさんは、心臓の鼓動を整えるように深呼吸をして。
「……っくそ、最悪だ……」
口許を腕で隠しながら、小さく弱弱しい悪態を一つついた。
◇◇◇
「最悪……」
もう一度そう言ったおっさんは体を起こして、スウェットを引っ張り自分の股を覗き込む。横にいる俺も自然な風を装い覗き込んでみると、スウェットの中でおっさんのブリーフと萎えはじめて若干とぐろを巻くような格好になっている肉茎が、吐き出された白濁の中でドロドロになっている。
相当な量が出たのだろう。ブリーフの前部分を殆ど湿らせ、スウェットの裏地にもシミを作り出している。おっさんの下腹部の毛並みに染みて、毛束をいくつも作っている上でだ。精液に塗れた匂いが一気に溢れ、思わずつばを呑む。
「……めっちゃ出たな」
「いつもより出たんですか?」
「ああ、……っ、て、見てんじゃねえよ!」
おっさんは、一瞬素直に頷いたかと思えば、ズボンの中を覗き込んでいる俺にようやく気づいたように、伸ばしていたスウェットを離して、白い粘液に彩られた雄臭い楽園の扉を閉ざしてしまう。
そして、どこか赤ん坊のような座り方のまま、視線を落として固まったかと思うと、ぼそりと俺に問いかけてきた。
「……兄ちゃん、俺、ホモ……なのか?」
「違うと思います」
「でも俺ぁ、兄ちゃんと……キスして、……」
消え入るようにして最後は殆ど聞こえなかったが、その口の運びは「よかったし……」と呟いているように見えた。
とはいえ、別に俺のチンコを触りたいという欲求は見えない。まあ、チンコに興奮するだけが同性愛っていう訳ではないけれども。
「……じゃあ、アレか……マゾとか、か?」
「え?」
何かに気付いたような面構えでそんな突飛な事を言い出すおっさんに、俺は思わず問い返していた。
「それは、SMのMって事で合ってる?」
「……おう」
それ以外にあるのか。とおっさんの視線が告げてくる。
つまり、おっさんは、嫌がっている事をされる事が快感で、ついつい、嫌な事をされようとしてしまう的な事だろうか。俺に触られたくないから触ってみるかと言い、思い出したくないのに続きをしよう、だなんて提案にも乗ってしまう。ということか。
納得したようなしないような。俺はなんとも言えない心地になりながら、それならば、と少し試してみたい事を思いついた。
以前本気で嫌がっている所を俺が暴走し、そして今回俺がやっていないことがある。思えば、あの時のおっさんの陥落スピードは中々だったように思う。
なら。
「じゃあ――次はお尻も触りましょうね」
そう聞けば、どう反応するだろうか。俺はその反応を見てみたくなった。
「は……? ぁ……っ!?」
「何を言っているのか」という反応から一秒も経たないうちに変化は如実に現れた。目が見開かれる、と同時におっさんの全身の毛がぶわわ、と膨れ上がり、一気にその顔が上気する。背筋が伸び上がる。お尻に力を入れたように姿勢がよくなり、息を詰めたままにおっさんの目が俺を見つめてきた。
何を想像したのか。それはおっさんのみぞ知る事。だが、俺には確信があった。十中八九、おっさんは俺にその分厚い尻の奥を弄られる様を想像し、胸の内に溢れそうになる情動を感じたのだと。
「……っ、帰る……!」
おっさんは、不意にベッドから下りてこの場から逃げるようにそう告げた。全裸の俺は何も言わず、首の後ろにかけていたスウェットを下ろして腹を隠していくおっさんを見送る。いや、何も言わず。というか、今何か言葉を発せば全てにやけ声になってしまいそうだったからだ。
おっさんの顔は赤く染まり、そして、先程精を吐き出した雄を収納しているスウェットがまた膨らみを見せかけているのをたしかに見たのだ。ずんずんと玄関へと向かうおっさん。その手には俺が返そうと思っていたブリーフも握られている。
それを惜しいとは思わなかった。
おっさんの自らの性癖予想が正しいのかは分からない。それでも、今、おっさんは俺にお尻を触って欲しくなっただろうか。それとも、触られたくないと嫌がっているのだろうか。
玄関のドアノブに手を掛けてからおっさんは、ぴたっとその動きを止めて振り返った。そして。
「風邪引かねえうちに風呂入れよッ、クソガキ!」
言い捨てて、ドアを開けて出ていった。
数秒遅れて、近くの部屋のドアが開けられる音がする。一人になった部屋。俺は少しの寂しさを覚えてゆっくりと見慣れた部屋を見回した。
そして、座卓の上に転がるビール缶に目が留まる。
缶ゴミの収集日は明日だったか。お酒もジュースもあまり飲まない俺にとってはあまりゴミを出す習慣のない曜日だが、捨てる必要ができたらしい。流石に空のビール缶を大事に持っておく気はない。
「……風呂入るか」
汚れた机の掃除を後回しにして、俺は雨に冷え切った体を温める為に行動を起こすことにした。昂ぶっていた息子も今は成りを潜めてしまっている。
「へ、くしゅ」
くしゃみを一つした。
どうにも、誰かが俺の悪口を言っているようだった。
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