【第十三話:朱と銀の約束 前編】

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  小さな背が、懸命に走っていた。

  草履が脱げそうになるのも構わず、茜色に染まる庭を駆けていく。

  頬に残る涙の跡が、夕焼けにきらめいていた。

  朱雀は、まだ子供だった。

  夕陽に拾われて数年。赤い髪と尻尾のせいで、町では「禍の子」と陰口を叩かれることもあった。

  けれど今日のそれは――あまりにも、ひどすぎた。

  夕陽の使いで薬種屋に向かった帰り道。

  朱雀はいつも通る裏通りで、町の子供たちに出くわした。

  「ねえ見て、あれ……あの赤いやつ」

  「ほんとだ。あれ、あの銀妖の……捨てられっ子だよね」

  「……四條のとこの若旦那、なんであんなの匿ってるんだろうね?」

  「さあてなぁ……家族を亡くして、気がふれたんじゃねぇのか。それとも、若ぇ男のほうがお好みって話かもなぁ」

  「嫁も取らずに、小僧なんぞにご執心じゃあ……人のいい面してても、裏じゃ何してるかわかったもんじゃねえな」

  笑いながら口々に言う声が、どれも針のように刺さった。

  胸がぎゅっと詰まって、喉が痛くなる。叫びたくても、言い返せなかった。

  家に着いた朱雀は、玄関へ向かわず庭の井戸に足を向けた。

  桶で水を汲み、顔をばしゃりと洗う。冷たい水が目に染みて、さらに涙が零れそうになるのを、必死でこらえる。

  そこへ、縁側から声がした。

  「朱雀?」

  夕陽が、ゆるやかな微笑みを浮かべて立っていた。

  「……おかえり」

  その笑顔を見た瞬間、こらえていた涙が、とめどなく溢れた。

  必死に顔を洗って、泣いたことを隠そうとしたのに。

  誰にも見せたくなかったのに。

  夕陽の、あの人の優しさだけが、心の壁を一瞬で崩してしまった。

  朱雀は言葉にならない嗚咽を飲み込み、ぎゅっと目を伏せた。

  夕陽は何も問わなかった。

  朱雀が時々、町の子供たちに何か言われていることを、薄々知っていたからだ。

  けれど今日の涙の理由は、きっとそれだけじゃない。

  自分の出自を嘲る声よりも、自分のせいで夕陽という人を、知らない誰かが侮辱したこと――

  それが何よりも悔しかった。

  「……家にお入り」

  夕陽は、いつもと同じ穏やかな声でそう言って、部屋の中へと戻っていった。

  少しして、箪笥の引き出しを探っていた夕陽が、何かを手にして戻ってきた。

  縁側の近くで、しょんぼりと立ち尽くす朱雀の前に、それをそっと差し出す。

  「ちょうど、お前に渡したいものがあったんだ」

  それは、細やかな刺繍が施された、手作りの御守りだった。

  小さな布袋には、花のような模様と、夕陽の丁寧な針目が揃っている。

  「強くなれる、おまじないだよ」

  朱雀は、涙で濡れた手のひらで、その御守りをそっと受け取った。

  けれど、手が震えて、涙があとからあとからこぼれて止まらない。

  「……あれ?」

  自分でも驚いたように目を瞬かせる朱雀を、夕陽は少し困ったように見つめた。

  優しく微笑んだまま、けれど、どうしたものかと小さく息をつく。

  「……そんなに泣かれると、私が困るよ」

  そう言いながらも、夕陽の手が、そっと朱雀の頭に触れる。

  その手の温もりが、朱雀の心にじんわりと沁みていった。

  ***

  夜半。虫の音も遠のき、しんと静まり返った屋敷。

  朱雀は、ふと目を覚ました。

  すごく懐かしい夢を見ていた気がする。けれど、目が覚めた途端に、輪郭が曖昧になって思い出せない。

  けれど、あたたかくて、優しくて――胸の奥がじんわりと疼いた。

  寝返りを打った拍子に、隣の布団が空っぽなのに気づく。

  (……銀郎、[[rb:厠 > かわや]]か?)

  特に気にすることもなく、自分も身体を起こす。

  ひと息ついたあと、朱雀も厠へ向かう。

  そして、帰り道。

  ふと、視線の端に見えた。廊下の向こう――

  夕陽様の部屋の、少し開いた障子のすき間。

  (……いねぇ)

  一瞬、何かが胸の奥をかすめた。

  それは風でもなく、虫の気配でもなく――

  言葉にならない、冷たい予感。

  思わず足が止まる。

  無意識に拳を握っていた。

  どこか、奥の方で、目を逸らしていた感情が目を覚ましかけていた。

  何気なく目を向けた縁側の先――

  暗がりの中、屋敷の端にある離れの障子越しに、うっすらと灯りが滲んでいた。

  その瞬間、朱雀の胸がドクンと大きく脈打った。

  いやな鼓動だった。

  奥底でずっと鳴っていた警鐘が、今さらになって本気を出している。

  (まさか……)

  理性が引き留める。

  行くな。見るな。

  だけど――気持ちが止められなかった。

  吸い寄せられるように、朱雀は音も立てず、慎重に中庭を渡る。

  冷たい風が襟元を抜けても、足は止まらなかった。

  離れの外壁にそっと背を寄せる。

  そして、耳を澄ませた。

  ……夕陽様の声。

  ……銀郎の声。

  やさしくて、哀しくて、触れてはいけない音色が、夜気の向こうに揺れていた。

  「……やっと、お前に触れられた……」

  その言葉に、朱雀は拳をぎゅっと握りしめた。

  爪が掌に食い込むのも気づかずに。

  ひとことも声を発さず、そのまま踵を返す。

  音もなく、気配もなく、朱雀は自室へ戻った。

  布団に身体を沈めても、眠れるはずがなかった。

  閉じたまぶたの奥に焼き付いていたのは――

  あの人の声と、笑みと、触れていた誰かの影だった。

  ――しばらくして。

  廊下の向こうから、そっと足音が近づいてくる。

  軽やかに、慎重に、気配を殺した気遣いが、逆に鋭く胸を刺した。

  銀郎だった。

  戻ってきたのだ、あの離れから。

  朱雀は、目を閉じたまま動かなかった。

  寝息さえ整えて、まるで深く眠っているかのように。

  けれど、内心は荒れ狂う嵐だった。

  (……夕陽様と、同じ匂いがする)

  銀郎の纏う香の気配が、はっきりと鼻腔をくすぐった。

  ――それは、あの離れで焚かれていた香。

  かつて夕陽が好んでいた、あの香りだった。

  何も言えなかった。

  何も聞きたくなかった。

  銀郎が布団に潜り込む気配を感じても、背を向けたまま、朱雀はただひたすら寝たふりを続けた。

  目を開ければ、心が壊れそうだった。

  だから、朱雀はそのまま、朝が来るのを待ち続けた。

  眠れぬ夜が、静かに、酷く長く――過ぎていった。

  ***

  朝、縁側に座る夕陽と銀郎。その姿はいつものように穏やかで、昨夜の事が嘘のようだった。

  夕陽が銀郎に湯呑を渡すと、銀郎がほんの少し、指先でその手に触れた。

  その光景を、朱雀は遠巻きに見ていた。

  胸の奥がじくじくと痛む。笑っている場合じゃないのに、あの人は、もう――。

  食事の席でも、朱雀の箸は進まなかった。

  そしてその不機嫌さに銀郎が気づきながらも、何も言わないまま時間が過ぎていく。

  我慢の限界が来たのは、夕陽が席を外したあとだった。

  「……なあ、昨日のこと。何もなかったって顔してんの、どういうつもりだよ」

  静かに、だが怒気を含んだ声で朱雀が切り出す。

  「……何を言ってる」

  「とぼけんな。昨晩、夕陽様と離れにいただろ」

  銀郎の目が見開かれる。

  「黙ってたら知らん顔して通り過ぎられると思ったのかよ? ……舐めんな!」

  朱雀の激しい言葉に、銀郎はしばし目を伏せ、そしてゆっくりと口を開く。

  「……勝手なことを言うな」

  声は低く、静かで、けれど確かな棘があった。

  「は? 勝手なことしてんのはそっちだろ! ふざけんじゃねぇ」

  語気を強め、荒々しく立ち上がった朱雀が銀郎の胸ぐらを掴む。抑えきれない怒りと焦りが、その指先に滲んでいた。

  だが銀郎は動じず、静かに朱雀を睨みつけるように見据える。

  「……私は――夕陽様の苦しみに気づいた。気づいてしまったから、手を伸ばした。それだけだ。  お前は……誰よりも近くにいたはずなのに、見ようとしなかったんだろう?」

  その言葉に、朱雀は一瞬、息を呑む。まるで、心の奥底を抉られたような感覚だった。

  「……は? なんだよ、それ……」

  「八咫の里で使った式神は、夕陽様の――命を削って召喚されたものだった。

  儀式のあと倒れたのも、ただの病み上がりじゃない。……私が知ったのは、それだけだった」

  銀郎の胸ぐらを掴む手が微かに震えた。

  胸の奥に鋭い杭を打ち込まれたような痛みが、朱雀を襲う。

  銀郎は、知っていた。自分の知らない夕陽様のことを。  ずっと傍にいたのに。誰よりも見ていたと思っていたのに。

  気づけなかった。見逃していた。気づこうとすら、しなかった。

  あの式神は、ただの術じゃなかった。

  ――夕陽様が、自分を削ってまで人を救おうとした、自己犠牲の結晶だった。

  命を、削ってまで。誰にも気づかれないまま。

  それを笑って、「いつものことだ」とでも言うように、あの人は――。

  ――なのに、自分は何を誇っていた?

  「だから私は、夕陽様に命の欠片を渡した。それが、私にできることだったから」

  「……命の……欠片?」

  朱雀は思わず聞き返した。けれど銀郎は、ただ静かに頷いた。

  「私の魂の一部だ。夕陽様がこれ以上、己の命を削らずにすむように……」

  その言葉の重みが、朱雀の胸にのしかかる。

  「鬼灯を通して、夕陽様に繋いだ。お前は、知らなかったようだが――あの方の中には、式神がいる。名を、鬼灯という」

  初めて聞くその名に、朱雀の胸がざわつく。

  式神。鬼灯。

  夕陽様の身体に宿るそれは、銀郎の魂と結びついた、守りの術――。

  知らなかった。

  そんな大事なことすら、自分は何ひとつ知らなかった。

  掴んでいた拳が震え、抵抗するようにしがみついていたのに、ふいに力が抜けた。

  銀郎の胸ぐらから手を離すと、そのまま掌を下ろし、唇を噛みしめた。

  朱雀の視界がにじむ。見下ろした銀郎の姿が、にわかに滲んだ。

  ずっと守ってきたと思っていた夕陽を、少しも守れていなかった事実に、朱雀の中の何かが音を立てて崩れた。

  自分は、ただ傍にいただけだった。笑ってくれることに甘えて、傷つく姿から目を背けて――守ったつもりになっていただけだったのだ。

  噛みしめた唇から滲んだ血の味がしても、それを拭う余裕なんてなかった。

  「……ッ……!」

  掠れた吐息と共に、朱雀は席を蹴って一気に縁側を飛び越え、屋敷の外へと駆け出した。

  「……朱雀!」

  背後から銀郎の呼ぶ声が追ってきたが、もう振り返ることはできなかった。

  風が木の葉を揺らし、遠くで雷鳴が低く鳴っていた。

  森の奥、古い大木の枝に腰かけて、朱雀は項垂れていた。空は雲に覆われ、今にも雨が落ちてきそうだった。

  指先が、首元の紐をそっと探る。そこには、子供の頃――泣きながら家に帰った日に、夕陽からもらった小さな御守りがぶら下がっていた。

  ずっと肌身離さず持っていた。守られている気がして、大切にしていた。

  それなのに――

  (……俺じゃ、駄目だったんだな)

  唇を噛みしめる。

  銀郎の言葉が、頭の奥にこびりついて離れない。

  ――夕陽様は、命を削って式神を使っていた。

  ――それに気づいたのは、自分ではなく銀郎だった。

  ――命の欠片を渡したのも、自分ではなく銀郎だった。

  誰よりも長く一緒にいたはずなのに。

  一番そばで見ていたはずなのに。

  何も気づけなかったのは、自分だった。

  (だったら、俺は……なんのために、ここにいたんだ)

  小さく嗤う。胸が、じくじくと痛む。

  自分はただ甘えていただけだった。夕陽様の隣にいることが当然で、何も疑いもしなかった。

  夕陽様が、銀郎を選んだんだ。

  苦しみに気づき、命を繋ぎとめたのは――俺じゃなかった。

  掌に収めた御守りを見つめる。

  朱雀は、強くそれを握りしめて、首の紐を引きちぎった。

  そして振りかぶる。思いきり、遠くへ投げ捨てようと。

  ……けれど、できなかった。

  手が震えた。腕が止まった。

  どうしても、できなかった。

  (夕陽様……)

  目を閉じた。御守りに刻まれたあたたかい記憶が、胸の奥に浮かんでくる。

  雪の日に、ぎゅっと手を握ってくれたこと。

  夜中に泣いた自分を抱きしめてくれたこと。

  ただ「大丈夫だよ」と笑ってくれた、あの声――。

  「……う、あ……っ……夕陽様……っ」

  ぐしゃ、と御守りを胸に抱きしめて、肩を震わせる。

  遠くで、またひとつ雷が鳴った。

  ***

  日が暮れ、夜遅くになっても朱雀は戻らなかった。

  外は、いつのまにか土砂降りになっていた。

  屋敷の軒を叩く雨音が強まり、空気は冷え、空には雷鳴もちらつき始めている。

  「……遅いな」

  夕陽は静かに呟いた。

  その声音に、銀郎はふと顔を上げる。

  廊下の灯りが揺れる中、夕陽は窓の外を見つめていた。

  「銀郎。朝から朱雀を見てないんだが、なにか知らないか?」

  問いかけられた銀郎は、わずかに眉を曇らせる。

  そして、ほんの短い沈黙のあと――観念したように口を開いた。

  「……今朝、口論になりました。朱雀が……昨晩のことを知っていて。私も……感情的に言葉を返してしまって……」

  「……そうか」

  短く応じた夕陽は、そのまま踵を返す。

  「迎えに行ってくる」

  その背に、銀郎の手が咄嗟に伸びた。

  濡れた木戸を開ける前、思わずその手首を掴んでいた。

  「……!」

  銀郎の表情は、苦しげだった。

  言いたい言葉が喉元まで上がっているのに、それを呑み込んでしまう顔だった。

  「朱雀の……居場所、わかるんですか……?」

  「――ああ。心当たりがある」

  銀郎は、わずかに目を伏せ、名残を惜しむように手を離した。

  「……行ってあげてください。きっと朱雀も、貴方を待っています」

  夕陽はふっと微笑み、何も言わずに雨の中へと歩き出す。

  朱の番傘が、静かに雨に滲みながら遠ざかっていった。

  止めたかった。行かせたくなかった。

  けれど――朱雀もまた、あの人を待っている。

  胸の奥にわだかまる葛藤を抱えたまま、銀郎はただ、雨の中に消えていった背を見送った。

  今はまだ、願うことしかできない。

  その再会が、どうか傷ではなく、灯火となりますように。

  続く