【第二話:夢喰い①】

  「……母様……母様……」

  声が聞こえた。小さく、かすれた、泣き声。

  薄暗い景色の中、声のする方へ歩みを進める。

  そこにいたのは、小さな影――震える肩を抱え、地面に膝をついた、銀の髪の子供。

  月明かりのようにかすかに光るその髪と耳は、今の銀郎にそっくりで――

  けれど、今よりもずっと、幼く、酷くやせ細っていた……。

  「……会いたいよ、母様……」

  声が震え、ぽとぽとと涙が地に落ちる。

  その小さな肩に手を伸ばそうとした瞬間。

  

  ――風の音がした。頬にあたる冷たい空気。

  意識がふっと浮き上がり――

  「……夢か」

  夕陽はゆっくりと目を開けた。

  障子の隙間から差し込む朝の光が、枕元をやわらかく照らしている。

  ゆるく髪をまとめ、寝巻のまま縁側へと出る。

  ふと庭の方に目をやれば、井戸のそばで水を汲んでいる銀郎の姿が見えた。

  背筋は伸び、長い髪が風に揺れている。

  ――夢で見た幼い銀郎とはまるで別人だ。

  「おはようございます、夕陽様」

  銀郎が気づき、手桶を持ったまま頭を下げた。

  「……ああ、おはよう。朝から働き者だな」

  「いえ、これくらいしかお手伝いできることがありませんから」

  穏やかに微笑む銀郎に、夕陽はふっと目を細める。朝の準備に勤しむ銀郎の後ろ姿に、ふとあの夢の中で泣いていた幼い子の面影が重なり、小さな棘が刺さるように胸が痛んだ。

  「銀郎」

  「……はい?」

  「こっちへ、おいで」

  それは、いつもより少し低くて、やさしい声だった。

  銀郎は一瞬きょとんとし、手に持っていた手桶をそっと置く。

  警戒というより、戸惑いに近い色が、彼の目に浮かんでいた。

  「……どうかされましたか、夕陽様? ……っ…!」

  驚いた声をあげる間もなく、夕陽は銀郎の頭を胸に引き寄せ、包み込むように、ゆっくり撫でた。

  「なっ、なにを……っ」

  銀郎の肩がびくりと揺れる。

  それでも、抗うことはできずに、その場に立ち尽くす。

  「いや、お前も大きくなったなと思ってな」

  静かに、夕陽が呟く。

  その声に、銀郎の全身が固まる。

  「……そう、ですね……。人と違い、私たちの種族は、十ほどで成人とかわらぬ姿になりますから……」

  夕陽の指が優しく髪を梳くたび、胸の奥で何かが軋んだ。

  「あの、夕陽様っ、そろそろ……」

  「……すまない。夢で幼いお前が泣いていたのを見てしまって、……つい、な……」

  夕陽の声が、まるで胸の奥に直接触れてくるようで――

  銀郎の喉が、ごくりと小さく鳴った。

  夕陽は、そっと銀郎の額に指先を滑らせる。

  それはまるで、夢の中の子供をなでてやるような、優しい仕草だった。

  「……夕陽様」

  銀郎は俯き、唇を噛みしめる。

  必死に平静を装う横顔に、かすかに影が差していた。

  「そんな姿……お見せしたくありませんでした」

  「見せたわけじゃないさ。夢に出てきただけだ」

  「それでも……」

  言葉を飲み込み、銀郎は肩を震わせる。

  夕陽はそっと抱く腕に力をこめ、頭を支えるようにもう一度撫でた。

  「お前がどれほどのものを抱えて生きてきたか、全部はわからない。けれど、今は……」

  一度、言葉を区切り、

  「今は頼ってくれなんて、たいそれた事は言えないが、私はいつでもお前の力になりたいと思っているよ」

  と、夕陽は静かに告げた。

  その言葉に、銀郎の背筋がぴんと伸びる。

  けれどすぐに、ふっと力が抜けたように、身体が夕陽に預けられた。

  「……はい」

  その声は、かすかに震えていたが、確かに安らぎを帯びていた。

  やがて、朝の光がゆっくりと庭を照らし始める。長い髪が風に揺れ、鳥の声がどこかで響く。

  しばらくそうしてから、夕陽はようやく腕をほどいた。

  「少し、冷えたな。中へ入ろう。朝餉の準備をするので朱雀を呼んできてくれないか」

  「……はい。わかりました、夕陽様」

  ほんのわずかに赤らんだ銀郎の頬に、朝日がそっと触れた。

  胸の奥の傷は癒えてはいないけれど、それでも――温もりは確かにそこにあった。

  銀郎は赤い顔を隠すように、足早に自室へと戻った。

  襖を閉め、背を預けて息を整える――が、整わない。

  夕陽の手の温もりが、まだ頭に残っていた。

  やわらかな香に混じって、ほんの少し汗ばんだ肌の匂い――それは、どこか懐かしくて、くせになるような、やさしい匂いだった。

  思い出すたび、胸の奥がじわりと熱くなる。

  理性で押さえ込もうとすればするほど、心がざわついて、収拾がつかなくなっていく。

  (……いや、落ち着け、落ち着け私……!)

  頬の熱がまったく引かず、胸の奥にまだぽわりと残る温もりに、銀郎はただ頭を抱えるしかなかった。

  だが、そんな彼の耳に、ぴたりと空気の気配が止まる。

  「……なに、してんだよ」

  低く、じっとりとした声。

  ギクッとして顔を上げると、いつの間にか部屋の縁側に面した入口に朱雀が立っていた。

  腕を組み、目は据わり、明らかに機嫌が悪い。いや、悪すぎる。

  「す、朱雀……?」

  「へぇー、ずいぶん仲良くしてたじゃん。朝っぱらから、なでなでされて」

  その口調にはっきりとした棘があった。

  「なっ……!」

  「……見てた。夕陽様を起こそうと思って部屋を覗いたらたまたま見えちまったんだよ。あーあ、朝から胸糞悪ぃもん見ちまったなー」

  「べ、別に……あれは、その……」

  銀郎がしどろもどろになっていると、朱雀はさらにジト目を強める。

  「よかったな。撫でられて、かわいがられて。でも勘違いするなよ? 夕陽様は誰にでも優しいんだからな!」

  吐き出すようにそう言って、ふいっと顔をそむける。

  「……ほんと、ずるい」

  ぽつりとこぼした言葉は、風より小さく、でも銀郎にははっきり届いた。

  「朱雀……」

  銀郎が何かを言いかけた時、朱雀は一歩下がって、背を向けた。

  「言い訳いらない。俺に言ってどうにかなることでもないし。……じゃあな」

  そして、朱雀は音も立てずに部屋を出ていった。銀郎はただ、その背中を追うように視線を落とした。

  胸に残る温もりが、今は少しだけ、重たく感じられた。

  朝の光が差し込む台所から、味噌と焼き魚の香りが漂っていた。

  支度を整えた夕陽は、鍋の蓋をそっと開け、火を落とす。

  「さあ、できたぞ。早く席につきなさい」

  配膳を終え、三人分の朝食が並んだ卓につく。

  「……いただきます」

  銀郎が小さく手を合わせる。朱雀もそれに続いたが、その声にはほんの少しの刺が混じっていた。

  「……いただきます」

  箸を取りながら、朱雀は横目で銀郎を睨みつける。

  銀郎はその視線を感じながらも、ただ静かに味噌汁に口をつけた。

  「味噌の加減、どうだ?」

  夕陽が穏やかに問いかける。

  「はい。とても……おいしいです」

  「ふーん、良かったな」

  朱雀がぼそりとつぶやく。

  「どうした? 今朝はやけに機嫌が悪いのだな」

  夕陽が朱雀に向けてそう問いかけると、朱雀は箸を止めてむすっとした顔で顔を背けた。

  「別に。いつも通りだし」

  「……そうか?」

  夕陽は首を傾げ、銀郎と朱雀の間に流れる空気に薄々気づきながらも、それをそのまま口にはしなかった。

  銀郎はといえば、箸を持ったまま黙って俯いている。普段よりずいぶん食が進まない。

  「銀郎、口に合わなかったか?」

  「い、いえっ……とても美味しいです……」

  ぼそぼそと答えながら、顔がじわじわと赤く染まっていく。

  朱雀はその様子を横目で睨みつつも、無言で米を頬張っていた。

  ぎこちない沈黙の中、箸の音だけが淡々と響く。

  「……そういえば」

  空気を変えるように、夕陽が口を開いた。

  「昨晩、里の者がひとり相談に来た。最近、山間の村で子供たちが悪夢にうなされ、体調を崩していると」

  銀郎がぴくりと顔を上げ、朱雀も動きを止めて夕陽を見る。

  「夢の中に現れる、白くて大きな影……目が合うと、心を喰われるそうだ」

  「……夢喰い、か」

  朱雀が眉をひそめた。

  「可能性は高いな。霊的な痕跡も残っていた。今朝、正式に依頼が届いている。今日の午後、調査に向かうぞ」

  「了解です」

  銀郎が真剣な表情で頷き、すっと背筋を正した。

  朱雀も茶碗を置いて、口元を拭う。

  「ま、ちょうどいい気晴らしにはなるな」

  「……不機嫌だったのは気のせいか?」

  夕陽がからかうように言うと、朱雀は「うるさい」と小さく呟いて立ち上がった。

  朝の余韻はまだ残っている。けれど、仕事となれば、彼らの顔には自然と緊張感が戻っていた。

  三人の姿に、縁側から差す日差しが静かに重なっていた。