春霞のような朝靄の中、祓い屋「夕月庵」の門がきぃと音を立てて開いた。
「おはようございます、夕陽様。依頼書、今朝届いておりました」
そう声をかけたのは、銀色の長髪を後ろで結いた青年――銀郎。白い着物に赤い羽織。動きの無駄ひとつない所作に、静かな誇りと矜持がにじんでいた。
その身に宿す銀の毛並み。狐のような獣耳と長い尾は、銀妖《ぎんよう》の証。長命で、美しくも妖しさを含んだその容貌に、人々は畏れと敬意を込めてそう呼んだ。
人里に姿を現すことは稀で、本来は人と交わらず、森深くに身を潜めて生きる種である。
だが銀郎は、かつてのある出来事をキッカケに今は人間である夕陽の庇護を受け、この屋敷で共に暮らしていた。
「ふぁあ……朝から仕事か? せめて茶くらい飲んでからにしようぜ」
赤髪を揺らしながら欠伸をかみ殺すのは朱雀。
彼もまた銀妖だが、毛並みも髪も異質な赤を帯びており、仲間内では“禍の子”と忌避されていたという。
幼き日、まだ臍の緒がついたまま、ひとり捨てられていた彼を拾い上げたのが、他ならぬ夕陽だった。
以来、朱雀は主を呼吸のように慕い、その傍を決して離れようとはしない。
背伸びをしながらも、気怠げな様子に似合わぬ機敏さがある。朱雀の身のこなしには、鍛えられた感覚と獣の勘がにじんでいた。
「……騒がしい朝だね。依頼内容は?」
二人を見やるのは、この庵の主――四條夕陽。今年で齢二十九歳となる。
静かな物腰に、鋭さと優しさを同居させた声が響いた。
「“連理の枝”が咲いた神社で、怪異が出たとのことです。枝が結ばれた夜から、不気味な声が境内に響くとか」
銀郎は文を差し出しながら、眉間にわずかに皺を寄せる。
「報せによれば、枝を結んだ者の“想い”が残っているのではないかと。巫女の一人が昏倒したまま、目覚めなくなっているようです」
「ふうん、“連理の枝”ってのは、両想いになると咲くってやつだっけ?」
朱雀が鼻先で笑うように言うと、銀郎が少しだけ目を細めた。
「厳密には、“結ばれぬ想い”が枝を縒る、とも言います。昔話では、祈りが強すぎると、それが異形を呼ぶこともあるとか」
「怖えな。祈るだけで怪異になるなんて」
朱雀の言葉に、夕陽は静かに頷いた。
「……想いは時として、願いではなく、呪いとなる。特に縁を結ぶ神社には、そういう因縁が寄りやすい」
夕陽のまなざしが書状の一文をなぞる。
“枝が結ばれた夜より、誰かの声がやまぬ”
“巫女は眠ったまま目覚めぬ”
“そして、咲くはずのない枝が、再び花を咲かせた”
「──行こう。“祓う”だけが私たちの仕事じゃない。放ってはおけない」
その一言に、二人の銀妖が息を合わせるように立ち上がる。
「夕陽様の言うとおりだ。私たちの務めは、“祈り”と“怨み”を見極めることでもある」
「よっしゃ、出陣だな。どうせなら花見がてらに頼むぜ?」
朱雀が冗談めかして言うと、夕陽がふっと微笑んだ。
「……ああ、怪異を祓ったら茶を淹れよう。桜の下で」
その日の午後。
三人は、“連理の枝”で名高い山の神社へと向かっていた。参道には淡い花が舞い、山肌に春の匂いが満ちている。
「なあ、夕陽様」
前を歩く朱雀が振り返る。
「連理の枝って、本当に縁を結ぶのか? 俺にも……結べるのかな」
その声には、いつになく素直な響きがあった。 夕陽は小さく首を傾げた。
「結びたい相手がいるのかい?」
朱雀は言葉に詰まり、視線を逸らす。
「……そんなんじゃねーけど。ただ……ちょっと思っただけだよ」
そんな朱雀をちらりと横目で見ながら、銀郎は静かに歩調を合わせる。
春の光は穏やかだが、その先に待つ“想いの残骸”が、彼らをじっと待っていた。
***
石段を登りきると、そこには古びた神社が静かに佇んでいた。
参道の両脇には苔むした灯籠が並び、風に揺れる木々のざわめきが、どこか遠い昔の記憶を呼び起こすようだった。
社殿の屋根はところどころ苔に覆われており、境内には人の気配がない。だが、それがかえって神域としての空気を濃くしていた。
「ここが……今回の依頼の現場か」
夕陽が立ち止まり、鳥居を見上げて静かに言う。
手を合わせ一礼し、鳥居の先へ足を進めた瞬間、朱雀の耳がピクリと動いた。
「……誰か、歌ってる?」
かすかに聞こえるのは、子守唄のような、けれど不気味に揺れる旋律。
「気を抜くな。声は、境内の奥からだ」
銀郎が静かに足を踏み出す。赤い袖が揺れ、その瞳には張りつめた光が宿る。
「……分かってる。けど、変だな。この気配――あれが、連理の枝……?」
朱雀の言葉に、夕陽はふと立ち止まり、枝先に咲いた“連理の花”を見上げた。
絡まりあうように咲いたふたつの花。愛の象徴とされるその姿が、今はなぜか、別れの兆しのようにも見える。
「“想い”とは、時に人を縛る。……ならば、それを解くのも我らの務めだ」
そう言って歩き出す夕陽の背に、ふたりの銀妖がそっと続いた。
その影は、春霞の中で静かに揺れながら、怪異のもとへと歩を進めていく――。
神社の奥へ進むごとに、空気が冷たくなる。
風はないはずなのに、葉擦れの音がどこからともなく聞こえ、ひとりでに揺れる絵馬が視線を誘う。
「なあ、夕陽様。これ……全部“願掛け”のやつだろ?」
朱雀が指差したのは、境内の一角にずらりと並ぶ絵馬。
そこには不自然なほど、同じような言葉が繰り返されていた。
《どうか、あの人と結ばれますように》
《一緒にいられますように》
《忘れないでいてくれますように》
「想いが、重なり過ぎている。……ひとつやふたつでは、ないな」
夕陽が指先で絵馬をなぞる。その声は静かでも、どこか哀しみを含んでいた。
「こんなにたくさん、想いだけが残ったってことか」
朱雀の目が細められる。赤い瞳に映るのは、すでにこの世にいない者たちの思念。
「でも、そうまでして誰かを想ったのに、声しか残らなかったんだな……」
ふと呟く彼の声に、夕陽が立ち止まる。
「朱雀」
名を呼ばれ、顔を上げる。
「“声だけ”ではない。――想いは、時に形を持つ」
そう言って、夕陽の手が懐へと差し入れられた。指先が探るように衣の内側をなぞり、やがて一枚の護符を静かに取り出す。
薄紙の表に描かれた墨の文様が、微かに風に揺れた。
「……祓おう。今ここにいる“想い”が、誰かを縛る前に」
「はい」「了解」
銀妖の耳が揺れ、二人が同時に構えを取る。
朱と銀の尾が風を切り、静かな神域に音が生まれる――。
――そして、時を超えて囁かれる声が、再び響いた。
『……どうか……あの人と………結ばれますように…………』
風が吹いた。
枝に咲いた“連理”の花が、ひとひら、音もなく落ちた。
夜の帳が降り、静けさが辺りを包み込んだ瞬間だった。
ぎしり、と木が軋む音。連理の枝の絡み合う幹が、不気味に蠢く。
「……出るぞ」
朱雀が低く呟いたその刹那、枝の影からぬらりと現れたのは――人の形をした、ねじれた塊。
白く長い髪を持ち、腕は枝のように細長く、その先端には絵馬がいくつもぶら下がっている。
声にならぬ呻きと共に、それは彼らを見下ろした。
「怪異か、それとも……想いの化身か」
夕陽が冷静に呟く。
「構わねえ、どっちにしても斬る!」
朱雀が風を蹴り、跳ぶ。尾がうねるように後を引く。
腰に差していた脇差を抜き放つと、一直線に怪異の枝へと踏み込んだ。
鋭い刃が枝を裂く――が、すぐさま別の枝が背後から迫る。
「朱雀、右から来るぞ!」
銀郎の声が響く。
美しい反りを描く刀身が月光を反射し、銀郎の太刀が怪異の腕に向けて一閃。
「ありがと、銀郎! 助かった」
「口で礼を言う暇があるなら動け」
夕陽の左手が術式を描く。空間に淡い光が灯り、怪異の動きを封じる結界が張られる。
「逃げ場はありません。静かに――還っていただきます」
朱雀が舞うように踏み込み、夕陽の結界内で怪異の本体を見据える。
細身の脇差が、鋭く的確に中心を貫く――その瞬間、
『やめて……! わたしは、待っていただけなの……』
かすれた女の声が、夜風に紛れて響いた。
枝のように絡み合った身体がゆっくりと解けていく。
露わになったのは、哀しみに縛られたままの若い女性の霊だった。
「私……ずっと……ずっと、待ってたの……。寒い夜も、怖い夜も……毎日、来るって信じて……でも、あの人は……来てくれなくて……」
怨みよりも、深い喪失と諦めきれない恋情が、滲む声に宿っていた。
その声に、朱雀も銀郎も動けずにいた。
夕陽はゆっくりと彼女に歩み寄り、そっと膝をつく。
そして、まるでひとりの人間に話しかけるように、静かに語りかけた。
「……辛かったね。ずっと、寂しかったんだろう」
彼女の顔に戸惑いと涙がにじむ。
「でも――もう、誰も憎まなくていい。呪わなくていい。おまえの想いは、確かにここにあった。……私は、それを覚えている」
そう言って差し出された手には、小さな白梅の花。
それはこの世に未練がある者に対しての餞だった。
「白梅は、寒い冬の中でも、凛として咲くんだ。どんなに過去がつらくても、今を生きる力をくれる。おまえも、もうその痛みを手放して、今を生きることを許していいんだよ……」
それを見つめた霊の目から、何かを思い出したかのように、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
『わたし……お腹の子をあの人に見せたかったの。あの人の“特別”でいたかったの……』
女の中心に柔らかな光があった。
穢れを知らぬそれは産まれる前に死んでしまった赤子の魂かーー。
「……あなたの子はあなたをずっと愛していたよ。誰かを愛した気持ちまで呪いにかえなくていい。こんなところに縛られてる必要なんて無い。きっとあなたの子も、それを望んでいるはずだ」
夕陽の声は、あたたかく、どこまでも静かだった。その言葉に女性の霊は堰を切ったように嗚咽を漏らした。
『……っ、ああ、ああ、まだそこにいたのね……。ごめんね……ごめんなさい、坊や…………。私、悲しみに囚われて忘れてた……、ずっとずっと傍にいてくれたのに……気付いてあげられなくてごめんなさい……』
彼女の言葉は震え、痛みに満ちていた。
視線は虚空を見つめ、過ぎ去った日々の後悔が胸を締めつけるようだった。涙が頬を伝い、そのたびに彼女の表情がわずかに歪んだ。
心に深く刻まれたのは、まだあどけない顔のままで冷たくなった我が子の姿。あの時のことが、今も心の中で生々しく蘇ってくる。
『あなたと生きていけたら、どんなに幸せだったろうか……』
涙が溢れ、彼女は無意識にその手を腹に押し当て撫でた。もう一度抱きしめたかった。あの小さな体を、あの顔を、温もりを、二度と触れることができないことが、彼女にとってはどうしようもない痛みとなって残っていた。けれどもうその瞳には迷いなどなかった。
『ありがとう……こんなに弱いお母さんだから、ずっと守ってくれてたんだね……。こんな頼りないお母さんで、ごめんね……。さあ、一緒に行こうね……今度こそ、怖くないところへ——』
そう言い残すと、女性の霊は頬に涙を伝わせながら、ふわりと微笑んだ。
やがてその身体は光の粒となって空へと昇っていく。
まるで、赤子の魂に手を引かれるように、優しく、静かに還っていった。
——風が、連理の枝を揺らす。
長く絡まり合っていたふたつの幹が、そっとほどけ、夜の闇に溶けていく。
残された空気には、悲しみではなく、穏やかな静けさだけが満ちていた。
その光景を、銀郎と朱雀は黙って見上げていた。
2つの魂を見送ったあと、銀郎は静かに刀を鞘へと納めた。
朱雀は風に揺れる枝の音を聞きながら、どこか遠くを見るような目で言った。
「……行けたんだな。やっと、さ。」
光の粒はゆっくりと天へと消え、夜空はただ静かに、その全てを受け止めていた。
***
夜が明け、神社の境内に差し込んだ朝日が、まだ冷たい空気をやさしく照らしていた。
「……ん……」
かすかな寝息が変わり、巫女がゆっくりと瞼を持ち上げる。
「美緒……! 美緒!」
駆け寄ったのは、彼女の父であり、依頼人でもあるこの神社を守る神主だった。
「……父さま……?」
「よかった……本当に……! ありがとうございます、夕陽殿、皆さま……!」
涙ぐむ神主は、深く頭を下げた。
「娘が昏い夢に囚われたあの日から、ずっと……この神社が“何か”に縛られているようで……どうか、ご加護をと願うばかりでした」
「神様が罰を与えたんじゃない。あの枝に宿った想いが、強すぎただけだ」
朱雀が、どこか物憂げに呟いた。
銀郎も隣でそっと目を細める。
「……想いは、時に祟りになる。だが、その根はいつだって――愛しいという気持ちなんだ」
夕陽の静かな言葉に、神主はそっと胸に手を当て、目を閉じてうなずいた。
帰り道、朝靄がまだ残る山道を、三人は並んで歩いていた。
「連理の枝か……。あんな化けもんになってまで、誰かを待ってたんだな」
朱雀が、空を見上げながらぽつりと呟いた。
「連理の枝は、切っても別れても、また結ばれるという。“縁”の象徴だ」
夕陽が歩を緩め、細く微笑む。
「……でも、それって苦しいよな。ずっと好きだった相手に届かなくても、想いはずっと残るんだろ?」
朱雀の声には、どこか自分を重ねた響きがあった。
「それでも、想い続けることは罪じゃない。忘れずにいることも、誰かの救いになる」
夕陽の視線が朱雀へと向けられる。その優しさに、朱雀は一瞬、目を逸らした。
「……じゃあ、俺が何百年でも忘れずにいたら、夕陽様の救いになるのか?」
「さあ、どうだろうね。でも、そういう子がいてくれたら、私も……少しは、楽になるかもしれない」
朱雀と夕陽が並んで歩く背中。
肩が少し触れそうで、触れない。
何でもない会話に笑い合うその様子が、あまりに自然で、眩しかった。
(――まるで、連理の枝のようだな)
そう思った瞬間、胸の奥がきゅうと締めつけられた。
互いに手を伸ばし、支え合って、ひとつに結ばれる。
あの枝のように、時が経っても、どこにも行かず、絡み続けるような絆。
(……羨ましいと思うのは、間違ってるのか)
けれど、自分はただの枝だ。
伸ばした指先が、どれほど近づいても、あの人には届かない。
ほんの少し、風が吹いた。
朱雀の赤い髪が揺れ、夕陽がそれに目を細めた。
――その穏やかな光の中に、自分の居場所は、ないのかもしれない。そんな事を考えいると
「銀郎」
夕陽がふと振り返り、微笑んだ。
何でもないような、その仕草に。けれど銀郎の心臓は、一瞬だけ大きく脈打つ。
まっすぐ自分を呼んでくれる声。
ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて。
「……すぐ、行きます」
一拍の間を置いて、銀郎は静かに歩を進めた。
二人の後ろを歩くことには慣れている――けれど、今日はほんの少し、歩幅を速めてみる。
届かないと思っていた光が、
ほんのひとときでも、自分を照らしてくれるのなら。
それだけで、進む理由にはなると思えた。
春の風に、三つの影が重なり、道をひとつに伸びていく。
まるで、連理の枝のように――。
第一話:連理の枝 完