【第二話:夢喰い②】

  ***

  三人がたどり着いたのは、山間にひっそりと佇む小さな村だった。

  季節はずれの霧が立ち込め、朝靄のように村全体をぼんやりと包んでいる。木々の葉は湿り、家々の屋根には露が光っていた。どの家も戸を閉ざし、軒先に吊るされた風鈴だけが風もないのにかすかに揺れていた。

  「……静かだな」

  朱雀が呟いたとき、遠くで犬が一声、短く鳴いた。けれど、それに応えるような人の声はない。

  人の気配が希薄で、まるで時が止まったかのような村の空気。畑に目を向ければ、手入れもされないまま草が伸び、枯れた野菜が放置されていた。

  茂みの隙間から覗く小道はしんと静まりかえり、風すら息を潜めているかのようだった。

  「依頼人の話では、ここ数日、村の子供が原因不明の昏睡状態に陥っているそうです。昨夜、里の者に聞いた話とほぼ同じかと」

  銀郎が淡々と報告する。その横顔は凛として落ち着いていたが、夕陽には微かに張りつめた空気が伝わっていた。

  「……夢喰いの仕業だとすれば、早めに動いたほうがいいな」

  そう呟いた夕陽の視線の先で、ふいに風が吹いた。  舞い上がる土埃に目を細めると、古い祠の前に立つ小さな影が見えた。

  「……っ、夕陽様、あれ……」

  銀郎の声が震えていた。  その先にいたのは、幼い銀郎だった。    ――否。

  それは夢喰いの瘴気が見せた幻。 銀郎の目には確かに見えた。  小さな体を折り曲げ、檻の中に膝を抱える己の姿。  乾いた土の匂い。檻をたたく音。遠ざかる母の声。

  『待って……いやだ、母様、置いていかないで……っ』

  張り裂けそうな声が、夢と現の境を揺らがせる。

  「銀郎、しっかりしろ!」

  夕陽の声が飛んだ。  はっとして、銀郎の意識が現在に戻る。

  「……すみません……少し、気が緩みました」

  それは取り繕った言葉だった。  胸の奥で疼き始めた記憶――切り裂かれた日々、決して癒えない傷跡。

  朱雀が険しい目で銀郎を見ていた。けれど何も言わず、その場に立っていた。

  夢喰い。それは人の心の隙間に入り込み、絶望を見せ魂を喰らう妖。銀郎にとって、それは忘れたくても忘れられない過去を抉る存在だった。

  夕陽が静かに、けれど確かな声で言った。

  「――終わらせよう、銀郎」

  その言葉に、銀郎は目を閉じ、ひとつ息を吐いた。

  「……はい、夕陽様」

  それから間もなく、三人は村の外れにぽっかりと口を開けた、古い採掘場へと足を踏み入れた。

  冷気がじっとりと肌を這い、足音が岩壁にぶつかっては、まるで誰かが奥から応えるように返ってくる。

  空気は重く澱み、進むたびに、見えない何かがこちらを窺っているような気配が背後にまとわりついて離れなかった。

  洞窟の奥には古びた祠があり、何かを封印したような形跡が残されていた。

  「……おかしい」

  朱雀が振り向く。

  「どうした?」

  夕陽の指先が、岩の壁に刻まれた文様をなぞっていた。異様な文様は、おそらく封印を意味するもの。しかしそれは、まるで中から何かが這い出したかのように、割れ、崩れ、禍々しく変形していた。

  「これは……誰かが無理に解いた痕跡だ。どこかの祓い師の仕業か、あるいは人ならざるものか……」

  その言葉と同時に、洞窟の入口から冷たい風が吹き抜けた。

  「銀郎!」

  銀郎がその声にハッと気づいた頃にはもう手遅れだった。夕陽の声が響いた刹那、銀郎の身体が崩れ落ちる。

  「……夕陽……さ……ま」

  弱々しく名前を呼びかけた銀郎の瞳が、虚ろに揺れていた。まるで焦点が合っていない。すぐに駆け寄った夕陽がその身を抱きとめると、銀郎の体は驚くほど冷たく、まるで眠っているかのように、深く息をついていた。

  「くそっ……!」

  朱雀が歯を噛みしめる。

  「夢喰いか……銀郎の心の中に入りやがった!」

  「心の闇につけ入り魂を喰らうのが、あやつの習性か。ならば……」

  朱雀の喉が、ごくりと鳴った。

  「……俺が行く!」

  その目はまっすぐで、まるで獣のような力強さを宿していた。

  だが――

  「ダメだ」

  夕陽の返答は、即断だった。

  静かで、けれど一分の揺らぎもない声。

  「な、なんでだよ……! 銀郎のことなら、俺が……!」

  朱雀の声はわずかに震え、言葉の端に焦燥が滲む。

  「お前の想いは強すぎる。それは、夢喰いにとって格好の餌だ」

  夕陽は朱雀の肩に手を置き、じっと目を見て言った。

  「お前の“好き”も“怒り”も“後悔”も、全部が火のように熱い。そんなものを抱えて夢の中に入れば……夢喰いに飲み込まれるのは、お前の方だ」

  朱雀は唇を噛み、拳を握りしめた。

  けれど、それでも――引き下がることはできなかった。

  「でも、放ってなんかおけない……!」

  「放っておくつもりはないよ」

  夕陽は優しく言った。

  「だから、私が行く。ここは夢喰いの瘴気が濃い。他の怪異がそれに呼び寄せられるかもしれない。お前は落ち着いて、ここで私たちを守っていてほしい」

  「……っ、夕陽様……」

  朱雀が言葉を飲み込んだ、その隙に――

  夕陽はそっと膝をつくと、自らの腕をまくり上げ、ためらいなく歯を立てた。

  朱に染まった血が一滴、二滴と流れ落ちる。

  その血を懐から取り出した“夢結びの符”へと滲ませ、静かに銀郎の額へ貼りつける。

  符が淡く光を放ち始めたのと同時に、夕陽の表情がすっと緩み、力が抜けるようにそのまま銀郎の隣へ倒れ込む。

  「ゆ、夕陽様……!?」

  朱雀が慌てて駆け寄る。

  けれど、夕陽の顔は穏やかだった。眠るように静かで、痛みも苦しみもない。

  夢結びの符が淡い光を脈打ちながら、二人の額の間にまるで糸のような気の流れをつないでいた。

  「意識ごと、繋がった……」

  朱雀は息を呑む。

  夕陽の体温がまだそこにある。

  けれど、魂は――銀郎の心の中へ。

  「……絶対、無事に戻ってこいよ……」

  そう囁いた朱雀の手が、ぎゅっと拳を握った。

  夢の世界では、すでに夕陽の足元に、闇がゆらりと揺れていた――。

  ***

  氷のような土の上に、母が倒れていた。

  あの日と同じ、白銀の尻尾が血に染まり、地面に投げ出された体が震えていた。

  遠くで人間たちの声がする。銀妖狩りだ。追っ手はもう、そこまで迫っていた。

  けれど、幼い自分は動けず、ただ声を振り絞った。

  「……母様……!」

  ――声は届かない。何度呼んでも、母は振り返らなかった。

  いや、振り返らなかったのではない。

  彼女は最後に、自分の方を向いて、微笑んでこう言ったのだ。

  『銀郎、……逃げ……て』

  弓矢が放たれた音が、何度も何度も耳に響く。

  母の身体を貫くたびに、銀郎の胸を締めつける冷たい手が増えていく。

  (どうして……どうして、私はあのとき……)

  「動けなかったのか?」

  囁くような声が、どこかから聞こえた。

  視界の端に、人影が立っている。

  白い着物。涼しげな顔。けれど、目は――ひどく冷たい。

  「守れなかったね、銀郎」

  「また、守れなかった」

  (……夕陽様……?)

  「私も、朱雀も……」

  目の前で、夕陽が倒れる。

  朱雀を庇って、胸に刃を受けて。血に染まった白い装束が、過去の母の姿と重なった。

  「お前のせいで、私は死ぬんだよ」

  「君の弱さが、また誰かを殺した」

  (ちが……っ、違う――!)

  「お前は、もういらない」

  「こんなことになるなら、あの時、助けなければ良かった……」

  ――それが、何よりも銀郎を傷つけた。

  叫びたいのに声が出ない。

  否定したいのに、身体が動かない。

  自分の手が血で濡れている。

  朱雀も夕陽様も、自分のせいで。

  「私が……いなければ……よかった?」

  視界が暗く沈み、海の底へ引きずり込まれるような感覚。

  絶望が、喉まで満ちてくる。

  ずぶずぶと、何かに呑み込まれる。

  黒く、冷たく、果てしなく深い――まるで底のない泥水のような闇。

  気づけば、そこは小さな檻の中だった。

  薄く錆びた鉄格子、すべての音を吸い込む静寂。

  床は冷たく、空気はよどんでいて、ただひとつ――

  虚ろな目をした幼き頃の姿の銀郎が、膝を抱えて座っていた。

  瞳に光はなく、呼吸は浅い。

  その姿は、まるで生きることを放棄した亡者のようだった。

  そこへ――足音がした。

  闇の中、草鞋の擦れる音が、そっと近づいてきた。

  銀郎は顔を上げない。

  誰が来ようと、もう意味はないと思っていた。

  だが、その声を耳にした瞬間、失われていた鼓動が、一瞬、かすかに脈打った。

  「――銀郎」

  静かに、けれど確かに呼ばれる名。

  それは、銀郎が何よりも愛しく、恐れていた声だった。

  檻の中の銀郎は、ゆっくりと顔を上げる。

  夕陽が、格子の向こうに立っていた。

  闇の底で、唯一、色を持つ存在のように。

  「……来ないでください」

  銀郎は、かすれた声で言った。

  「なんだか……ここは、居心地がいいんです。

  誰も傷つけなくていいし、夕陽様も、いなくならない」

  その目には、安堵に似た諦めが宿っていた。

  本当は怖くて仕方がない。失うのが、拒まれるのが――

  だから最初から、閉じこもってしまえばいいと。

  夕陽は目を伏せ、檻の格子に手を添えた。

  指先が微かに震えている。

  「……そんなふうに言わないでくれ」

  夕陽の声が、ひとしずく熱を帯びる。

  「お前が、ここでひとりでいいと思ってしまったら、私は……お前を守る意味を見失う」

  銀郎は目をそらす。

  涙が滲む。けれど、それ以上は動けなかった。

  すると――

  「帰ろう……銀郎。お前ができないなら、私がやる」

  その呟きと同時に、夕陽の掌に淡い光が宿る。

  その気配が、夢喰いの作り出した幻想をじわじわと焼いていくようだった。

  「銀郎、……お前の居場所は、そんなに冷たい檻じゃない」

  「……無理です、私には……」

  言いかけた瞬間、

  **“バンッ”**と、大きな音を立てて、鉄格子が弾けた。

  夕陽の力が、容赦なく檻を破壊していた。

  「――っ!」

  銀郎が咄嗟に身を縮めると、粉々になった格子が光に変わって霧散していく。

  驚きに目を見開いた銀郎に、夕陽が手を差し出す。

  その手は、ただの救いではない。

  拒絶すらも受け止めて、銀郎という存在そのものを引き戻す強さを持っていた。

  「……逃げてもいい、弱くてもいい。けれど、私から隠れるのだけは、やめなさい」

  その言葉に、銀郎の胸の奥がぐしゃりと潰れたような音を立てた。

  「…………夕陽様っ」

  涙が頬を伝い落ちる。

  銀郎は、赤子のように泣きじゃくりながら、その手を取った。

  その瞬間、世界が軋んだ。

  ひび割れるような音が響き、崩れかけた夢の檻が黒く濁ってうねり始める。

  「……来るな」

  夕陽が銀郎を背に庇った。

  静かに手をかざすと、光の結界が彼らを包む。

  黒い霧が渦を巻くように集まり、そこから“それ”は姿を現した。

  蜘蛛のように長く歪んだ四肢。笑っているようで泣いているような、ひび割れた仮面の顔。

  無数の目が、空中に浮かぶようにぎらぎらと開いていく。

  夢喰い――

  それは、絶望に囚われた魂の残滓を餌に、形を成した怪異。

  夜毎に人の夢に入り込み、最も深い恐れと後悔を抉り出して喰らう。

  「……銀郎の心を、喰い荒らしたのは貴様か」

  夕陽の声は静かだった。

  だが、その眼差しは燃えている。

  夢喰いは、空気を震わせるような嗤いを漏らす。

  〈怖いのは、あの人に拒まれることだろう?〉

  〈死んでしまえば楽だ。自分を殺せば、もう何も失わずに済むぞ……〉

  その言葉に、銀郎が再び震えかける。

  だが、夕陽の手がぎゅっと銀郎の小さな肩を支えた。

  「もう、この子の心は渡さない」

  夕陽の袖口から、小さな護符がふわりと舞い上がる。

  それが次の瞬間、弾けるように光を放ち、夢喰いの仮面に突き刺さる。

  「祓い給え――偽りを裂き、真を射抜け」

  夕陽の声とともに、足元の結界が複雑な紋を描き、空気を揺らす。

  夢喰いが怒りに吠える。だが、その身体はすでにひび割れ始めていた。

  〈あああアアアァア……ッ、小賢しい祓い師め……、この怨み、忘れぬぞ……〉

  「――貴様が喰らっていい夢は、ここにはもうない」

  夕陽の指先から光が奔る。

  それは夜を裂くようにまっすぐ夢喰いの核へ届き――

  光と共に、それは弾け、消えた。

  静寂が戻る。

  夢の空間はゆっくりと崩れ、霧のように溶けていく。

  残されたのは、仄かに温かい光と、互いのぬくもりだけだった。

  微かな風の音が耳元をくすぐる。

  まぶたの裏が、ゆっくりと明るくなっていく。

  「……様……夕陽様っ……」

  「……頼むよっ、目を……開けてくれよ……」

  どこか掠れた声が、左右から聞こえた。

  その声に導かれるように、夕陽が目を開けると――

  視界に飛び込んできたのは、心底ほっとしたような、けれど今にも泣き出しそうな顔をした銀郎と朱雀だった。

  ふたりとも、目元は赤く、肩は微かに震えていた。

  「……夕陽様!ああ、よかった、夕陽様………」

  「……もう、ったく、心配させんじゃねーよ……」

  朱雀が、ぐしぐしと目元をこすりながら、震える声で笑う。

  銀郎もまた、安堵と恥じらいを押し殺すように目を伏せた。

  夕陽は、まどろみの中で微笑んだ。

  その手がふたりの頭に伸び、優しく、撫でる。

  「……ただいま、ふたりとも」

  銀郎の肩がふるりと震え、朱雀も、涙でくしゃくしゃな顔を埋めた。

  けれど次の瞬間、涙を拭って、顔を上げる。

  「……帰ろうぜ、夕陽様、銀郎。俺たちの家に」

  その一言に、銀郎が静かに笑う。

  夕陽は何も言わず、ふたりの肩を抱くように寄せた。

  洞窟の祠には、まだ仄暗い空気が残っている。

  けれど、もう夢は終わった。

  三人は無言のまま歩き出す。

  ぬかるんだ足元を確かめながら、長く続く闇を抜けて、静かに出口を目指す。

  そして──

  山の隙間から差し込む藍色の光が、まるで夜明けの予兆のように、三人の背を優しく照らしていた。

  第二話:夢喰い 完