隣人はオカズを作り過ぎる!

  ドアを開けた途端、毛むくじゃらの俺の顔をむわっとした熱気が襲った。朝にエアコンを切ってから締め切ったままの部屋に、一日分の暑さが篭っていたようだった。

  

  俺はネクタイを緩めながら、思わず顔を顰める。

  

  夏場の外回りでただでさえワイシャツが汗臭いというのに、今浴びた熱でまた背中が汗ばんだような気がした。

  全身が真っ黒な被毛で覆われている月ノ輪熊の獣人の俺にとって、夏はあまり好きな季節ではなかった。

  はあーあ、とため息をつきながら俺は玄関で靴を脱ぎ、自分の部屋に踏み入る。

  8畳程度のほぼ正方形の部屋に、小さなキッチンとバストイレがついただけの簡素な1Kのアパートである。

  俺の住処はズボラな独身男の部屋らしく雑然としており、流しには昨日の夕食の皿が水を張っただけで置かれ、部屋の隅には干して取り込んだままの服が山の様に積まれている。どうせ箪笥にしまったところですぐに着るのだと思うとあまり畳む気が起きず、気付いたらこうなってしまっていた。

  明かりのスイッチを入れて壁時計を見上げると、既に時刻は22時を回っている。まあ今日は早く帰れた方か、と思いつつ俺は冷房のスイッチを入れる。

  俺が学生と言う身分を卒業し、社会に出てからすでに10年弱。職場ではそろそろ中堅とも呼ばれる立ち位置なのであろうが、ちっとも仕事は楽にならない。むしろ最近の業界の不景気の煽りでますます業務量が増えている気がした。

  その割に給料は大して上がらないのだが。

  田舎の両親からは「早く嫁を見つけて戻って来い」と急かされるが、そんな相手を見つけるような余裕のある生活は送っていなかった。

  時間的にも、経済的にも。

  

  ――まあ俺が結婚しないのはそれだけが理由ではないのだが。

  

  アパートにはほとんど寝に帰るだけだし、夕食を作るような暇すらない。そんな時間があったらさっさと眠りたいのである。帰宅して数時間後もすればもう次の日の仕事が待っていると思うと、色々とやる気もそがれるというものだ。

  「何か食うもんあったっけか……」

  俺はそう小さくぼやくと、駅前のコンビニで弁当を買ってくれば良かったと後悔しつつ、台所へと足を向ける。

  ――確か、買い溜めした冷凍食品がまだいくつか残っていたよな――

  

  ぴん ぽーん

  

  俺が冷凍庫の取っ手に手を伸ばしかけた時、室内にインターホンが鳴り響いた。俺は思わず眉をひそめる。

  最近ネットで買い物をした記憶は無く、中元にも歳暮にも中途半端な時期である。届け物ということは無いはずだ。宅配業者でないとすると、こんな時間に訪ねてくるのは新聞屋か、はてまた何かの宗教勧誘か。どちらも会って対応するのも面倒くさい。大体こんな時間に来るなど非常識である。

  居留守を決め込んでもよかったのだが、それでも一応俺は気配を殺してドアに近づき、覗き穴に顔を寄せてみた。

  (……お?)

  右目に入ってきた光景に俺は首を捻る。

  レンズの向こうに立っていたのは、灰色のフレームの眼鏡を掛けた白熊獣人の若者だった。

  見覚えがある。今年の春に俺の右隣の部屋に引っ越してきた隣人だ。

  確か大学進学のために上京してきたのだと言っていたような気がするが、よく覚えていなかった。

  俺が彼と出会ったのはたったの数回、それもほとんどがすれ違う際に挨拶程度の会話を交わしたことしか無い。だが彼は、今どきの若者にしては感心なことに引っ越してきた最初の日にわざわざ菓子折りを持って挨拶に来たから、俺としてはどちらかというと好印象を持っていた。

  白熊くんが何か困ったことがあって俺のところを訪ねて来たのなら、まあ話を聞いてやるくらいはしたっていいだろう、と思った。

  俺はがちゃり、と鍵を外して扉を開くと隙間から顔だけ出した。

  白熊の青年と視線が合う。純白の被毛の若熊も、俺に負けず劣らず大柄で丸っこい体型をしていた。彼の着ているモスグリーンのポロシャツがはち切れそうである。

  「……何の用だ、こんな時間に」

  俺は低い声でそう言ってから、しまった、と思った。俺の発した声で、目の前の白熊が少しビクリとしたのが分かったからだ。どうも俺の顔つきと物言いは少々喧嘩腰らしく、相手を怖がらせてしまうことが多いのだ。

  ふと俺は、白熊くんが身体の前に大きな鍋を持っていることに気付く。両手で持つタイプの金属製の鍋である。

  俺の頭に大きなクエスチョンマークが浮かんだ。

  深夜に独身の熊を訪ねてくる、大学生。と、鍋。これは一体どういう取り合わせだ。

  自分に向けられている訝しげな視線に気付いたのか、白熊は恐る恐る口を開いた。

  「……あ、あのー……夜分遅くにすいません。……そ、その……、もしよければ、なんですが、あの、ですね……」

  何か知らないが凄まじく言いにくそうに口ごもる白熊。俺は疲れていたこともあって、白熊の態度に少しだけイラつく。

  「なんだ、さっさと言えや」

  俺のつっけんどんな言葉に白熊は目に見えて怯んだ。

  またやってしまった。俺はちっと小さく舌打ちして頭を掻く。しかしその野卑な行動も白熊を怖がらせてしまったらしい。彼はどもり始めた。

  「す、す、すいません……!そ、その、お、俺、一人暮らしって、初めてで……。か、カレー作りすぎちまったんですけど、あの、嫌じゃなかったら、た、食べませんか……?」

  「……はあ?」

  予想外の言葉に俺は呆気にとられる。だがしかし、そんな俺の態度をどう勘違いしたのか、白熊は慌てたように鍋の蓋に手を掛けた。

  「あ、す、すいません、実物も見せず!……こ、こんなんなんですけど……いかがです……?」

  ぱかり、と蓋が開かれる。その中に見えたのは深い茶色をしたカレー。やや切り方が雑に見えるが、ごろごろと食べ応えがありそうなじゃがいもに人参、玉ねぎ、そして大きな肉。

  ……肉!

  ふわり、と刺激的な香辛料の香りが俺の鼻を満たす。ぐうぅ、と俺の空きっ腹が悲鳴を上げる。俺はごくりと音を立てて口の中に湧き出てきた生唾を飲み込む。

  

  ――はあーあ、と俺は再びため息をつく。

  

  そんな俺を見て、気分を害してしまったと思ったのだろう、白熊は取り繕うように謝り始めた。

  「ご、ごめんなさい、こんな夜遅くに……!も、もうお夕飯食べちゃいましたよね……。お、俺の食いかけですし……。た、大変失礼しまし」

  そう言って踵を返そうとする白熊の言葉を俺は遮る。

  「なあ。シロクマくんよ」

  その言葉に、白熊はゆっくりとこちらに顔を向け直した。

  「な、なんですか……?」

  

  

  恥を忍んで、俺はこう言うしかなかった。

  

  

  

  

  

  「……そのカレーさ、白いご飯も付けてくれんのけ?」

  

  

  

  

  

  

  

  [chapter:隣人はオカズを作り過ぎる!]

  

  

  

  

  

  

  

  久間城将太(くましろしょうた)。

  

  隣人の白熊はそう名乗った。俺の記憶していた通り、今年の春に大学に入学するため実家を離れ、独り暮らしを始めたのだそうだ。

  「――俺、去年受験失敗しちゃって一年浪人したんで、一応もう成人なんですけどね」

  白熊はそう言って、面目なさそうに頭を掻いた。

  「ほう、さよか。まあお前、図体はでけえもんな」

  図々しくも久間城の部屋に上がり込んだ俺は、カレーをぱくつきながら彼の話に適当な相槌を打った。

  久間城が作ったのはごく普通のカレーライスである。市販のカレールゥを使って作ったらしく、取り立てた目新しさも無い。だが、空腹の俺には大変なご馳走であった。

  頬張るのを止められない。俺は遠慮もせずにガツガツと食っていた。

  しかし、久間城の部屋には冷房が効いておらず扇風機を回しているだけだった。どうやら学生らしく電気代をケチっているらしい。室温がじりじりと上がっているようだったが、狭い部屋に身体の大きな熊獣人が二人も入っているのだから無理もないだろう。ワイシャツ姿の俺の被毛がじんわりと湿り出していたが、俺は客人の立場なので文句も言わず黙々とカレーを口に運んだ。

  しかし、暑いのは久間城の方も同じだったようだ。彼の着ているポロシャツの脇の色が濃くなっているのに俺は気付いていた。

  そんな白熊が、おもむろに口を開く。

  「そ、そういえば、おじさんの……」

  その言葉に、俺はスプーンを咥えたままギロリと久間城を睨んだ。

  「おじさんじゃねえ。お兄さんと呼べや」

  俺は今年ギリギリ30代に入ったばかりの若者である。結婚もしていないのだし当然子供もいない。オジサンと呼ばれる筋合いは無い。……と、思う。

  俺に凄まれた白熊はわたわたと取り乱す。

  「す、すいません!……じゃ、じゃあ、熊のお兄さんの、名前って」

  おっと、そういや俺は自分の名前を言っていなかった。こんな美味い食事を頂いておきながら大変に失礼である。

  俺は皿をテーブルに置き、口の中のものを飲み干した。

  「……俺は月山勇作(つきやまゆうさく)ってんだ。まあ、隣人のよしみだ。今更だがよろしくな」

  言いながら白熊に右手を付き出す。白熊の視線は何度か俺の顔と掌を行き来したが、ようやくその意味を察したのか、

  「よ、よろしくお願いします、ツキヤマさん」

  そう言って俺の手を優しく握った。手つきは柔らかだったが、思ったよりがっしりとした手だった。

  互いに自己紹介を終えた俺らは、取り止めのないことをぽつぽつと話した。基本的には俺が久間城に質問して、彼がそれに答えるという形だった。別に久間城の話が特別に面白かったわけではないが、俺は仕事関係のこと以外に別に話題も無かったし、プライベートでまでそんな話をしたくなかったのだ。

  「――へえ。クマシロくんも理系の学部だったのか」

  久間城の専攻を聞いた俺の言葉に、彼は少々大げさに小首を傾げる。

  「あれ?じゃあツキヤマさんも理系の方なんですか?」

  「まあな。今の仕事にはあんまり関係ない学部だけどよ。お前、理系科目が好きだったのか?」

  久間城はコクリと頷いた。その勢いでマズルの上に乗った眼鏡が少しずれる。

  「好きです!物理も化学も生物も地学も!楽しいですよねっ」

  「ほう。そうけ」

  自分は口下手な父親みたいなつまらないことしか聞けてねえな、と思ったが久間城はそう退屈そうでもなかった。

  そして俺もそれは同じだった。

  久々に他人と過ごす夕食は非常に美味しく感じられた。大した内容も無い会話だったが、こちらの言うことにいちいち反応してくれる相手のいる食事は、とても楽しかったのだ。

  

  

  「――クマシロくんよ」

  

  なんとなく会話が途切れた頃、俺は空になった皿の上にスプーンを静かに置いた。

  急に真剣な声を出した俺に虚を突かれたのか、久間城はきょとんとした顔でこちらを見つめる。

  「は、はい、何ですか?」

  こちらの神妙な顔にビビったのか、白熊はまたどもりだした。

  俺は無造作に皿を掴むと、それをそろりと彼の鼻先に突き出す。

  

  

  

  

  「……すまん。これ、お代わりしてもいいかや?」

  

  

  *

  

  

  その日の俺は久間城の部屋で結局三杯もカレーをご馳走になり、最後には鍋を空にしてしまった。さすがにタダ飯は悪いと思って俺は財布からいくらか出そうとしたが、

  (そ、そんなの貰えませんよ!)

  と久間城の奴が固辞するので、結局何もお返しをすることなく自室に帰ってしまった。

  

  ――ま、どこか出張へ行った時に土産でも買ってくりゃいいかな……

  

  などと俺は考えてその日は眠りについた。

  しかし、翌日からもまた仕事に次ぐ仕事である。朝の出勤時間は早いし夜の帰宅時間は遅い。隣人の白熊とも会うことの無い通常通りの毎日が続いた。元々彼とはほとんど顔を合わせることが無かったのだ。

  そしてあっという間に二週間が経ってしまい、俺は彼にお礼をすることなどとんと忘れてしまった。

  

  

  ――そんなある夜。

  

  

  少し早めに仕事から帰ることが出来たので、さて今日は珍しく夕食でも作ろうかというときに、インターホンが鳴り響いた。

  (こんな時間に……。今度こそ、新聞か宗教の勧誘でも来たか?)

  俺はなんだか既視感を感じながら、それでもその正体を思い出せずにドアに付いたレンズに目を当てた。

  (……あ)

  そこで見えたのは、眼鏡を掛けた白熊の顔。

  瞬間、俺の脳裏に二週間前に彼に食べさせてもらったカレーライスの記憶が蘇る。少々不格好な野菜たちと肉の塊が放り込まれた、しかし大変旨かったあの味。

  そして同時に、彼にまだ何のお礼もしていないことも思い出した。

  残り物のカレーだけならまだしも、久間城の家の炊飯器で炊かれた白米まで食い尽くしてしまったのだから、我ながら始末に負えない。

  俺は少々バツの悪い思いをしながら、それでもうちを訪ねてきた恩人を無視するわけにもいかず仕方なく扉を開いた。

  「……よう。どうした」

  俺の低い声に、はっとしたように白熊は顔を上げた。眼鏡の奥のその目がほんの少しだけ嬉しそうに見えて、俺の方が少々たじろぐ。

  「こ、こんばんはっ。……あ、あのですね、ツキヤマさん……もうお夕飯って、食べましたか……?」

  久間城はもじもじとそう言った。彼の両手はその大きな背に隠されており、俺からは見えない。

  それだけで俺は、何故彼がまたうちを訪ねてきたのかその理由を察した。

  「……おい、お前。まさかまた」

  俺が言いかけると同時に、大柄な白熊は後ろに回していた手をそろそろと俺の方に向ける。

  そこにあったのは、サランラップをかけられた大きなボウル。

  そして中に見えるのは。

  

  

  「す、すいません……今日はポテトサラダを作り過ぎちゃったんですけど、よかったら食べませんか……?」

  

  

  ボウルの中を覗き込んだ俺は中身を確認すると、廊下の床に視線を落として大きくため息をつく。

  

  

  

  「……俺の大好物だで」

  

  

  *

  

  

  それからというもの、久間城の奴は一週間に一回くらいのペースで作り過ぎた料理を俺の家に持ってくるようになった。

  ハヤシライスに牛丼、時にはロールキャベツなんていう調理がめんどくさそうなものを作って持ってくることもあった。

  

  「クマシロ、お前さ。いい加減に自分の食える分量ってもんを覚えろよな……」

  

  そういうことが結構な回数になって来たので、俺はアイツにそう言ってやったこともある。

  「えっ……す、すいません!お、俺、どうしてもまだ、料理に慣れなくて……」

  しかし、言われた久間城のヤツが両耳を倒してあんまり面目なさそうにしょげるから、俺はつい付け足して言ってしまった。

  「……まあ、正直ありがたいんだけどよ…。お前の料理、別にまずくはねえし……」

  それだけで、久間城はぱっと顔を輝かせた。

  「本当ですか!俺、最近ちょっと料理上手くなったなあって、自分でも思ってたんですよ!」

  彼はそう言って、へへっ、と照れくさそうに笑いながら鼻の下を指で擦った。

  能天気な白熊のややズレた反応に、俺は目を剥いた。

  「アホか!褒めてねえよ!」

  

  

  *

  

  

  こんなこともあった。

  ある晩、毎度の如くインターホンが鳴ったので玄関に出てみると、久間城のヤツが肩を落としてしょんぼりとした様子で立っていた。

  珍しく手ぶらである。

  「……ん?なんだ、どうしただお前」

  この頃は彼がオカズを持ってくるのは当然のようになっていたので、俺は訝しげな声を出す。

  久間城は俺の顔を見ずに、こう言った。

  「あのー……、今日は肉じゃがを作ったんですけど…」

  「へえ。そうかい」

  俺は何気ない返事をしながら、自分の胸が高鳴るのを感じた。

  肉じゃがは俺の大好きな料理の一つであり、久間城にも会話の中でそう言ったことがあった。一応言っておくが、別にこいつに作りすぎてもらうことを期待していたわけではない。断じて違う。全然違う。

  久間城は言いにくそうに言葉を続ける。

  「……それでですね、そのー……俺、完食…しちゃいました」

  その声を聞いて、ぴくりと俺は固まった。

  「あ?」

  俺の返事に、言葉が上手く伝わっていないと思ったのか、久間城はチラリと俺の顔を見上げて言い直す。

  「つまり、その……、今晩は肉じゃがを作り過ぎちゃったんですけど、その、すっごく美味しく出来て、結局自分で全部食べちゃって――」

  そこまで言って白熊は下品にも、げふう、と息を吐き出して慌てたように両手で口を抑える。

  久間城の身体をよく眺めて、彼の腹がいつも以上に前に突き出していることに俺は気付く。どうやら彼はそんな風になるまで肉じゃがを腹一杯に食べてしまったらしい。何とも羨ましいことである。

  そんな白熊の様子を見て、未だ夕食にありつけていない空腹もあって俺は腹を立ててしまった。

  「アホかお前は!そんな報告要らんわ!」

  「あ、あわわ、す、すいま」

  慌てた久間城の謝罪の言葉も聞かず、俺はバタンと音を立ててドアを閉めた。そうやっておいてから、なんだか悪いことをしたかと思って覗き穴を見ると、うな垂れた白熊がレンズの視界から消えていくところだった。

  ちっ、と舌打ちをした俺は後味の悪さを胸に抱えたまま、その日はカップ麺という味気ない夕食を啜って床に就いた。

  

  そして、その翌日の深夜。

  

  俺の帰宅を待っていたかのようにインターホンが鳴った。

  ドアスコープを覗き込んで訪問者の姿を確かめた俺は、ため息をつきながら扉を開けた。

  「……今日はなんだ」

  予想通り、というべきか。やはり、というべきか。アパートの廊下に、眼鏡を掛けた白熊の青年が立っていた。

  しかしこの時の彼は何故か興奮した様に頬を上気させていた。

  「お、遅いですよツキヤマさんっ!俺、待ってたんですよっ!」

  そう声を上げた久間城は、いつものように手にした鍋の中身をこちらに向けて見せつけるようにしてきた。

  「うおっ」

  目にしたものに驚いてしまって、俺の口から思わずそんな声が漏れる。

  鍋の中にあったのは、半端ない量の肉じゃがである。よく味の滲みているであろう褐色のジャガイモたちが、鍋からはみ出そうな程に敷き詰められていた。俺一人ではとても食い切れそうにない程に。

  「きょ、今日は俺でも食べきれないくらいに作りましたからね!これと、鍋もう一個分ありますよっ!」

  そう言った久間城の奴は何故か得意満面だった。

  ……ドヤァ、という擬態語が俺の頭に浮かぶ。

  こんな大量の肉じゃが、一体どうする気なのだ。食い切れるわけがない。

  反射的に俺は声を荒げた。

  

  「――アホかお前は!こんなに食えるかっ!」

  

  そうして二晩続けて俺に怒られた久間城は、涙目になってしまったのであった。

  

  

  ……勿論その後で肉じゃがは美味しく戴いたのだが。

  

  

  *

  

  

  そういえば、うだるような熱帯夜にシチューを作りすぎたと言ってきたこともあった。

  

  訪ねてきた久間城の奴が、珍しく露出度の高いタンクトップなんか着ているからどうしたのかと思ったが、彼の部屋に入って俺は納得した。彼の部屋の玄関に踏み入った瞬間に俺の額から玉のような汗が噴き出したからだ。どうも具材をひたすら煮込むうちに、部屋の中に熱気が籠って暑くなってしまったらしい。

  

  「……はあーあ。こんな真夏にシチュー作るとか、お前の頭どうなっとんの?部屋はくそあちいしよ」

  

  そう悪態をつきながら、俺は彼の振る舞ってくれた料理を口に運ぶ。この頃の俺は、久間城の奴に対して全く遠慮をしなくなっていた。まあ文句も一種の愛情表現である。

  よく言えば仲良くなった、悪く言えば慣れてしまった、ということだ。

  さすがに毎回俺ばかり食っていては悪いので、出張に出る度にその土地の少々お高い名産品を彼に買って来るようにはしていたが。牛タンとかイクラとか。

  「す、すいません……。でも、クーラーって結構電気代がかかりますし……」

  久間城は額を腕で拭いながら面目なさそうに返事をする。タンクトップから突き出た彼の太い肩を包む白い被毛が、汗でだいぶ濡れているのが見て取れた。白熊という種族柄、彼だって暑さにはそう強くないはずである。

  だが、彼の部屋には相変わらず扇風機しか回っていなかったのだ。

  「学生さんは金無えもんな。……まあ、料理の味がそれなりにうめーからいいけど」

  何気なくそう言ってからちらりと久間城の方を盗み見ると、彼は頭の上の両耳をピンと立てて、嬉しそうに頬を綻ばせていた。

  コイツのそんな顔を見ていると、俺もなんだかむず痒いような気持になった。

  なんとなく口に出して喋ることも無くて、俺は黙々とシチューを口に運ぶ。

  

  

  「……あぢい」

  

  少し経って、俺はぼそりと呟いた。

  ただでさえ部屋の中が暑いというのに、煮込まれた熱々のシチューなんか食った俺は汗だくだった。顎の先からぽたぽたと雫が伝っては、胡坐を掻いた脚に落ちて吸い込まれていく。

  俺たちのアパートは一部屋につき窓が一つしかなく、風通しが非常に悪いのである。そのため夏場は冷房をつけるのが常識なのに。どうして扇風機しかない部屋で俺はシチューなんぞ食ってるのだ。

  

  ――なんだこれは。猛暑我慢大会か何かか?

  

  「くっそ……。あちい……」

  汗びっしょりとなっている俺の唸り声を聞いて、久間城が慌てる。

  「す、すいません!これでどうですか!?」

  久間城は扇風機の首振りを止めて俺だけに風が当たるようしてくれたが、扇風機なんかでは部屋の生暖かい空気をかき回しているだけで、ちっとも涼しくならなかった。

  これでは温風機である。却って不快なくらいだ。

  「……わりい。俺脱ぐわ」

  俺はワイシャツを脱ぎ捨てて上半身裸になる。脂肪のついた丸い腹がみっともなかろうが背に腹は代えられない。これで多少はマシである。

  「ちょ、ちょ、ちょっと!ツキヤマさん、こんなところで裸になんないで下さいよ!」

  何を恥ずかしがっているのか、久間城は両手で目を隠しながら俺に向かって声を上げる。

  「うるせえわい。おまえんちが暑いのが悪い!」

  俺は久間城の奴には構わずにそう言ってシチューを食い続けた。

  

  

  *

  

  

  はてまたある夜。

  

  例によって久間城家で夕食をご馳走になって満腹になった俺は、何気なく彼のテレビの方に目を向けた。生意気にも、俺の部屋に置いてあるそれと同じくらいの大きさである。

  しかし、気になったのはそれではない。

  テレビ台の下にある、真っ白な箱のような物体。

  ゲーム機である。……多分、だが。

  「クマシロ、あれって何だ」

  俺はそれに向けて顎をしゃくる。

  「知らないんですかツキヤマさん。あれはですね、Wii Uですよ、Wii U!」

  久間城は嬉しそうに声を上げた。

  「へえ。あれが、うぃーゆー、ね」

  俺だって話には聞いたことがくらいあったが、間近で実物を見るのは初めてである。学生時代ならゲームくらい結構やっていたのだが、社会人になってからは全くと言っていいほど触れる機会が無くなっていたのだ。

  ……本当のところを白状すると、俺が知っているのはWiiまでである。

  なんだ、その、ゆーってのは。どう違うんだ。

  現役ゲーマーを退いた俺には、次世代機との差はよく分からなかった。

  「そうだツキヤマさん、せっかくだから俺と対戦しませんか?マリオカートしましょうよ!」

  名案を思いついた!……というような久間城の嬉しそうな声に、俺はぴくりと反応した。

  彼が口にした単語は、俺が小学生時代に慣れ親しんだ懐かしのレースゲームのタイトルである。俺の胸の内に旧友た ちと遊んだ思い出が巡る。

  蘇る郷愁の念。嗚呼懐かしのロケットスタートに赤甲羅。

  

  ――まさか、今ここであれが出来るというのか…!

  

  俺はごきり、と首を鳴らした。さらにぽきぽきと音を立てて両手の指をほぐしていく。

  「……悪いが、俺は強ぇぞ」

  そう言って俺は不敵に笑う。久方ぶりの真剣勝負の予感に、全身の被毛が逆立つような気がした。

  「わー!強いんですねツキヤマさん!それは楽しみですっ!」

  久間城も、そう言って屈託なく笑った。

  

  

  ――そして30分後。

  

  俺は非常に不機嫌になっていた。

  理由は簡単。

  ちっとも久間城に勝てないからである。

  当たり前だが、昔とはゲームの勝手が全く違っていた。操作性もだいぶ異なる。そのせいで、俺は自分のキャラクターをちっとも上手く動かせなかった。……ドリフトってどうやるんだっけ?

  大体コントローラーがおかしい。なんでハンドルを持ってプレイしなければいけないのだ。もっと普通のコントローラーがいい。

  久間城の操るキャラクターにいいように弄ばれ、圧倒的に差を付けられて敗北するたびに、次第に無口になっていく俺。昔から負けず嫌いな性分なのである。俺は勝てない状況が続くと不機嫌になってしまうのだ。

  そしてそんなアラサーの月ノ輪熊を、両耳を倒してチラチラと顔色を窺うように見てくる白熊。

  年下の久間城に気を遣われているようで、それもまた腹が立った。そしてそんなことで腹を立てている自分にも。いつもは俺の方が久間城をからかって遊ぶことが多いだけに、感じる屈辱は倍以上だった。

  もう負の感情の連鎖である。

  

  「……帰る」

  

  13連敗が確定した時点で、俺は低い声でそう告げると久間城の顔を見もせずに立ち上がった。テレビの中では、俺が操作していた緑の恐竜を模したキャラクターが悲鳴を上げながらくるくると回っていた。

  「あ、はい……」

  いつもなら、すいません、が口癖のような久間城も、この時ばかりは謝ることをせずに小さく返事をするだけだった。さすがのヤツも、この状況で謝っても俺のプライドをズタズタにするだけだということは分かったらしい。

  久間城は申し訳なさそうに耳を寝かせて背中を丸め、小さくなって俺の後に付き従う。

  俺はそんな白熊を無視して何も言わずに出口に向かった。

  後ろから何か言いたげな気配を感じるが、結局久間城は何も言ってこない。

  

  ――このまま帰るのも癪である。

  

  俺は玄関に立つと、背後を振り向いて久間城の顔にびしりと指を突き付けた。突然の俺の行動に、白熊がぎょっと目を丸くする。

  「また来るでな。……次は負けねえで」

  俺は頭を掻きながら、久間城を睨みつけてそうぼそりと言い添える。

  その途端、白熊は折り畳まれていた耳をピン!と立てると心底嬉しそうな顔をした。子供のようなあけっぴろげな笑顔に、俺は何故かどきりとした。

  「――はいっ!じゃあ、また何か作り過ぎますね!」

  久間城の奴はそう言ってニコニコと笑った。

  虚を突かれた俺はその顔を見つめて一瞬固まってしまったが、すぐに我に返って怒鳴った。

  

  「何でお前はわざと作り過ぎんだよ!少しは分量を学習しやがれって!」

  

  

  

  [newpage]

  

  2

  

  そんな風に、隣人の白熊と妙な付き合いを続けていたある日の夜のことだった。

  

  時刻は午前一時を回った頃。

  車も人通りもほとんど無く、町は静まりかえっている。遠くから微かに救急車のサイレンが響いてくる程度だ。

  職場の飲み会を終えて帰ってきた俺は、ワイシャツ姿のままネクタイを緩めてベランダで煙草をふかしていた。

  火照った身体と被毛を、晩夏の夜風が吹き抜けていく。肺腑に染みわたる紫煙が旨かった。

  昨日大きなプロジェクトが片付いたことに加えて少々アルコールが回っていることもあり、俺はいい気分だった。

  手すりにもたれ掛かったまま咥え煙草で星を見上げる。夜空に向かって立ち昇って行く白い煙を眺めながら、俺はぼんやりとしていた。

  そこへ、

  

  「……ツ、ツキヤマさん……?こ、こんばんは」

  

  おずおずとした声が横から聞こえてきて俺は首を巡らす。

  「なんだ、お前か」

  ベランダの防火壁の端から、見慣れた白熊の顔が覗いていた。久間城も自分の部屋のベランダに出てきたらしい。

  白熊はどことなくおっかなびっくり俺に話しかけたという様子だった。気の弱そうなコイツのことだから、いつもと違うシチュエーションで俺に話しかけて良かったのかとか、どうでもいいことを考えていそうだ。

  「お前、まだ寝なくていいのか?この前講義に遅刻したとか言ってたじゃねえか、ん?」

  そう言って俺は、久間城に向かってニヤリと笑いかけてやる。

  気安い雰囲気を作って久間城のヤツを安心させてやるつもりだった。酔っぱらっている俺は大層機嫌が良かったのだ。

  「あ、明日は2コマ目からなんで、のんびりでいいんですよ」

  俺の笑顔(小さな子供には泣かれそうな人相ではあるが)を見て安心したのか、久間城はほっと息を吐き出してそう言った。「ツキヤマさんも、いつも遅くまで大変ですね。今日はどこかでご飯食べてきたんですか?」

  「まあな。今日は飲み会だったんだよ、職場のな」

  俺は煙草を口から離すと、軽く指で叩いて携帯灰皿に灰を落とした。

  「へえ、飲み会ですか。いいですね!楽しかったですか?そういえばツキヤマさんて、何の仕事されてるんでしたっけ?」

  久間城の質問に、俺はさも不愉快そうに口の端を歪める。

  「……別にくそ面白くもねえ飲み会だったわ。うぜえ上司に酌して回るのと空気読めねえ部下の話に付き合わされるだけだっつの。……お前さ、俺の機嫌がいい時に仕事の話はすんじゃねえってば」

  俺はそうぼやいてから、静まり返った空気にはっとして久間城に視線を戻す。

  案の定、眼鏡の白熊は硬直していた。

  今の言い方は完全に俺が悪かった。珍しく久間城が話題を振ってくれていたというのに、俺の愚痴が場の空気を悪くしてしまった。

  「す、す、すいません!俺、言わなくていいことを」

  必死に頭を下げる久間城に、俺は空いた手を振って否定の意を表した。

  「わりい、今のはただの愚痴だ。お前はちっとも悪くねえよ。俺の態度がいかんかったわ」

  俺はそう詫びると短くなった煙草の火を消した。

  だが、久間城の顔は晴れなかった。

  「いえ、その……。す、すいませんでした」

  謝りながらもしょんぼりとした白熊の顔が、さっと仕切りの向こうに引っ込む。

  「いやだからお前よ、悪いのは俺だって――」

  俺は急いで声を掛けたが久間城には届かなかったらしく、からからと網戸を開いてヤツが室内に入っていく気配がした。

  きまり悪くなった俺は、独り頭を掻いて顔を歪める。

  「……ちっ」

  一人残された俺は舌打ちをして、仕方なく二本目の煙草に火を点けた。

  ニコチンと共に、胃の中に残ったアルコールがさらに吸収されていくようだった。酔いが回って俺の頭は熱に浮かされたようにぼーっとしていた。

  

  

  ――そのまま俺がベランダで煙草をふかしていると、再び隣室の方から網戸が開く音がした。

  のそのそと向こうの部屋の主が外に出てくる気配がする。

  かと思うと、仕切りの向こうからは豪快なため息が聞こえてきた。

  

  久間城である。

  

  図体のデカいアイツらしく、機関車の蒸気が噴き出したような音がした。またぞろ白熊が落ち込んでいるんだと思って、俺は小さく声をかける。

  「……何やってんだ、お前」

  どうやらこちらにもう俺がいないと思っていたのか、素っ頓狂な声が聞こえてきた。

  「あ、あわっ?つ、ツキヤマさんっ?まだいたんですかっ?……き、聞こえてました?」

  「たりめーだろが。大袈裟な溜め息つきやがって」

  そう返しながら俺は、白い煙を黒い空に向けてぷかぷかと吐いた。

  「……すいません」

  「謝んなよ。別に怒ってねえって」

  俺の口から出た紫煙が夜空へと消えていく間、俺と久間城の間には沈黙が落ちたが、

  「……最近、ちょっと、悩んでるんです」

  少しすると、白熊のたどたどしい声が聞こえてきた。

  「ほう」

  俺は相槌を打ってその先を促す。

  「何て言うか……俺、田舎からこっちに出てきたんですけど、大学の皆に、上手く馴染めなくって」

  久間城の声に耳を傾けながら、俺は煙草に口を着ける。静かに息を吸い込むと、先端に灯った火が一瞬赤さを増した。

  「……俺、都会ってのに、漠然と憧れてたんですよね……。でも、最近の俺、なんでこっちに来たかったのか、よく、分からなくなっちゃって……。大学にも、行く気がしなくて遅刻なんかしちゃうし……。さっきも、ツキヤマさんに言わなくていいこと言っちゃうし……。ホント自分はダメな奴だなーって、思えて……。そしたら、なんだか故郷に帰りたくなっちゃって……」

  久間城の語尾はかすかに震えていた。

  白熊のヤツは、今度は俺の方へ顔を見せなかった。しょげている顔を見られたくなかったのかもしれなかった。

  

  べそをかいている顔を。

  

  すん、と久間城が小さく鼻を鳴らしたような音が聞こえてきて、俺は苦虫を噛み潰したような顔になる。

  湿っぽい雰囲気は俺の苦手とするところである。どんな顔をしていいか、何を言えばいいかわからなくなってしまうのだ。

  しかも俺がその原因の一端であると言われた日にゃ!

  俺は他人に気を遣うのが得意ではないし、優しい言葉をかけるなんてのは柄じゃない。

  

  ――泣いてんじゃねえよ、いい年した男の癖に。

  

  そんなことを思って、妙に胃の辺りがムカムカとした。

  俺はベランダにもたれかかっていた身体を起こすと、防火壁に齧りつくようにして隣室のベランダを覗き込んだ。

  「ばーっかじゃねえだか、お前!」

  と声を上げながら。

  顔を突き出した俺の視界に、驚いた顔をした白熊の姿が飛び込んできた。唐突な俺の行動が予想外だったらしい。

  「ツ、ツキヤマさん……!?……も、もしかして、酔っぱらってます……?」

  そう言う久間城の目も真っ赤である。やはりコイツはホームシックになってしまってメソメソとしていたようだった。

  「……酔ってねえだ」

  俺はそうぼそりと呟いたが大嘘である。

  既に俺の視界はフワフワと揺れ出していた。飲み会の終盤に上司に飲まされた焼酎がいけなかったらしく、今更になって酔いが深くなり始めていた。だが酔っ払い特有の意地みたいなもので、俺はぶんぶんと首を横に振ってそれを否定した。「つーかクマシロ。てめえ、ちいともダメなんかじゃねえだら」

  少々故郷の訛りが出ているのはご愛嬌。泥酔している時の俺の癖である。

  酔っ払い熊の根拠の無い言葉に、白熊はきょとんとする。

  「え」

  俺はその顔にびしりと指を突き付けた。

  「お前の料理、段々旨くなっとるじゃねえか。大したもんだでな」

  「い、いや……そんなこと……ないですよ……」

  そう言って白熊は目を伏せる。

  せっかく俺が褒めてやってるというのに、もじもじと口応えする久間城に腹が立った。

  「ウジウジすんじゃねえだ!」

  苛立った俺が声を荒げると、白熊は目に見えてビクリと身を竦ませた。俺はそんな久間城に構わずに続ける。「てめえの料理は旨いって言ってるだろうがよ。大学なんか行かなくたって死にゃあしねえだ。――お前が行くとこねえなら、最悪俺んちで料理作って暮らしてりゃいいもんでな」

  俺の言葉に、白熊は目を見開いた。

  「え、えぇ?ツ、ツキヤマさん、何を変なこと言ってんですか……。よ、酔いすぎですって……」

  俺に手放しで褒められて照れたのか、白熊の頬が朱に染まる。

  ふん、可愛い奴め。

  「冗談だ、バカ」

  俺はへっと鼻を鳴らす。「クマシロ、つまんねえことで悩んでんじゃねえだよ。お前、いい奴だで友達なんかすぐ出来るに」

  そこまで言ってから、何を本気で久間城のヤツなんかを褒めているのかと、俺は急に照れくさくなった。

  なんとなく昔の俺を見ているようで腹が立ったのかもしれなかった。自分も田舎から都会へと出てきて悩んでいた時期があったから。

  目の前の白熊は耳をピンと立てて、そんな俺の方を真っ直ぐに見つめている。純真そうな瞳で。

  

  ――けっ。なんで俺がわざわざコイツを慰めにゃいかんのだ。

  

  俺はがりがりと頭を掻いて、憮然とした表情を作り直した。

  「……早く寝ろよ。お前、明日も早いんだろが」

  自分としては精一杯に不機嫌そうな声を出したつもりだったが、しかし久間城は嬉しそうに頷いた。

  「はいっ!ありがとうございました!……ツキヤマさんもおやすみなさい」

  「おう」

  そう返事をして俺は室内に引っ込んだ。

  ふう、と何とはなしに小さく息をつく。

  夜風に当てられたが、アルコールのせいで俺の身体はまだぽかぽかと火照っていた。

  どっかりとソファに身体を預け、テレビを観ながら少々時間を潰してみたが、なかなか眠気がやって来ずどうにも落ち着かない。

  酔っているせいか段々と小腹も空いてきた。久間城にはああ言ったものの、自分の方はまだ眠れそうもない。

  

  (アイツ、なんか簡単なツマミでも作ってくれねえかなあ……)

  

  早く寝ろと言った癖に、五分後には既にそんなことを考えている辺り、やはり俺は相当酔っていたのだろうと思う。

  一応それでもまだ深夜に呼び鈴を鳴らすことを躊躇うくらいの理性は残っていた。俺は白熊に声を掛けようと再度ベランダに足を向ける。

  久間城がまだそこにいれば何か作ってもらえればいいや、くらいの考えだった。別にもうアイツが寝ているならそれはそれで構わない。シャワーを浴びて無理矢理寝ちまえばいい、と思っていた。

  しかし。

  

  (…?)

  

  網戸に手を掛けた俺の耳が、そこで妙な物音を捉えた。

  乱れた息遣いと、何かを擦るような音。

  思わず俺は息を潜めて、音を立てないようにしずしずと網戸を開けた。サンダルをつっかけてそっと外に出る。

  やはり、聞こえる。

  右隣。久間城の部屋の方向だ。

  俺は抜き足差し足でベランダの仕切りに近づくと、またまたひょいと向こう側を覗き込んだ。

  (……あ)

  俺は心の中で声を漏らす。

  隣の明るい部屋の中に、こちらに背を向けた久間城の姿が見えた。座布団に座り、卓の上のパソコンに向かっているようだ。モニターに何が映っているかはよく見えなかったが。

  そこまでは別にいい。胡坐を掻いてパソコンを見るくらい普通の行動だ。

  問題はヤツの右腕。

  彼の下腹部の辺りへと伸びたそれが、上下に規則的に動いていた。

  まるで、何か棒状のモノの繰り返し擦り上げるかのように。

  更には、はっ…、はっ…、という荒い息遣いに時折呻くような吐息が混じって、断続的に聞こえてくる。白熊がひどく興奮していることが手に取る様に分かる。

  加えて、白熊がすぐ手を伸ばせば取れる位置にはティッシュの箱が置かれていた。

  俺は唖然とする。

  どう見たって。どう考えても。

  それは。

  

  思春期以降の男子なら、おそらくほとんどの者が人知れずやっているであろう行為。

  持て余した性欲を発散させるために、右手で自分自身を慰める行為。

  

  おそらく、アイツの目の前にあるPCのモニターにはそのためのオカズでも映っているのだろう。

  今度は俺が目を見開く番だった。

  久間城とは猥談なんてしたこともなかったし、普段のアイツは純朴な青年そのものだったのでそんな話題とはかけ離れた存在だと勝手に思っていたから、俺は余計に驚いた。

  アイツだって健康な若い雄なのだから、そういうことをやることも当然と言えば当然なのだが、それでもやはり意外だったのだ。

  他人の自慰を見るなど俺には初めてのことで、頭に血が昇ったような気がした。

  久間城だって俺にそんな姿を見られるのは不本意だろう。俺がしているのはただの覗き行為に等しい。

  だが俺は、一心不乱に右手を動かす白熊から目が離せなかった。アルコールで火照った身体が熱い。

  俺の下着の中で、萎えた逸物がむくりと頭をもたげるのを感じた。

  

  「――はあ…っ、んぁ…」

  

  堪らず、と言った様子で白熊の口から甘い声が漏れる。窓を開け放しているからか声を抑えようとしているにも感じられたが、直接ベランダを覗き込んでいる俺には丸聞こえだった。

  見ていると、次第に久間城の腕の動きが早くなっていく。それに合せて彼の背中がびくびくと震え出す。

  「ん……くぅう……っ」

  白熊の唸るような声に艶が混じり始める。彼の右手が上下するたびに、湿った音が聞こえるようになってきた。

  俺からはヤツの逸物は全く見えなかったが、白熊の屹立した先端から透明な液体が出ているのかと思うと、俺の鼻息も荒くなるような気がした。

  ヤツも限界が近づいているようだ。次第に手の動きが激しさを増していく。

  俺は久間城から目が離せずに、その姿を凝視していた。

  

  「う……んっ……。あぅ……っ!あっ……っ!」

  

  上り詰めていく久間城が小さく声を上げた瞬間、その丸い背中がびくんとわなないた。と同時に、びゅっ、と一筋の何かがヤツの頭を超えた高さまで飛んだのが見えた。

  どうやら久間城は達してしまったようだった。

  タイミングを図り間違えたのか、白熊の左手が慌てたように卓の上のティッシュ箱を掴んだ。しかしその間にも、彼の大きな身体はびくびくと痙攣を繰り返す。ティッシュを数枚持った久間城の左手が、彼の下腹部へと伸びる。白熊の鼻から、心地よさそうな吐息が漏れた。

  

  アイツに何が起きているのか、初めて見る俺にだってわかる。

  

  白熊は、アイツは今、射精しているのだ。

  丸めたちり紙の中に、自分の子種を存分に吐き出しているのだ。

  

  

  「――ヤ……ん……っ」

  

  

  身体を震わせる白熊の口から、小さく漏れ出た声が俺の耳に届く。

  一瞬喘ぎ声の様にも思えたが、よく聞くと彼の言っていることがわかった。

  

  わかってしまった。

  

  (……え)

  

  その意味に気付いて俺は愕然とする。思わず口をあんぐりと開く。

  

  アイツが快感に身を任せながら呟くその言葉。

  切なげに呼ぶ、それは。

  

  名前だったのだ。

  

  

  

  

  

  

  

  「――ツキヤマさん……っ」

  

  

  

  

  

  

  

  しかも、俺の。