11話 イチ、歯医者へ行く (2) よせあつめ外伝29

  「麻酔? かけたほうがそりゃ、痛くないが。高いぞ」

  どこか薄暗い歯科診療所の中、寝ぐせのついた白髪を掻く老歯科医の言葉を聞いてイチは顔色を変えた。

  「た、高いって、どのくらい…………」

  「そうさなあ。今は8万エンギルはかかるな」

  「は、8万!?」

  8万エンギルとは当時のイチの生活を鑑みると半月分の生活費が消し飛ぶ値段である。

  そもそもの治療費が5万エンギルかかる。

  冒険者稼業は何かと不測の出費が発生するので13万エンギルも払うわけにはいかない。

  「なんでもケカインの運輸会社で大規模なストライキが起きているらしくてな、まるで麻酔の材料が入ってこないのよ」

  「だからって……………」

  だからも魚もない。と老歯科医、メイヤーブは言った。

  そもそも彼の診療所では麻酔治療を推奨していない。

  というのも当時まだ麻酔治療の治療法は十分に確立しておらず、麻酔を使ったが為に心臓まで止まってしまうという医療事故も稀に起きていた。

  メイヤーブは平均的な医者ではあるが職業倫理は確かなようで、麻酔の安全性を確かなものにできるまで患者をむやみに危険に晒す事はしたくなかったのだろう。

  「気を遣わず言うなら、こっちも商売なんでな。使わないで済むものなら金のある連中に使ってもらったほうがいい」

  「そ、そんなあ……………………」

  イチは急にグニャリと足腰の力が抜けるような錯覚を覚えた。

  「イチさん! 麻酔の価格が落ち着くまで延期はできないんですか?」

  付き添いのミュルガルデが聞くが、メイヤーブは被りを振った。

  「流通が滞りなくなれば半額以下にはなるが、さっき見たところお嬢ちゃんの歯はすぐに治療して神経を殺さにゃいかん。延期するのは構わんが、次来た時に手遅れになっていても知らんぞ」

  神経を殺す、という不穏な言葉にイチは凍り付いた。

  「先生、神経を殺すとは、どうするんです?」

  ミュルガルデの質問にメイヤーブは医者らしいぶっきらぼうな表現で答える。

  「歯に穴をあけて虫歯を取り除くまでは一緒だが、そこから更に神経を熱した針で焼潰す。そうせにゃ腐った神経が残って治療した傍から新しい虫歯が生まれるし、下手すりゃ顎が腐り落ちる」

  「針で………焼き……………顎が…………腐る……………」

  イチは消えるような声でメイヤーブの言葉を反芻した。

  殆ど涙目になり気を失いそうになっていた。

  「イチさん。お辛いでしょうが、今日治療すべきです。メイヤーブ先生は信頼できるお医者様と、治癒魔法仲間から聞いています。がんばりましょう。イチさん」

  ミュルガルデは自分を失っているイチの手を自分の大きな手で優しく握ってやった。

  しかしイチの心は既にそこにはなかったようである。

  ◆

  しばらく待たされた後、イチは治療の為の椅子に案内される。

  その椅子を見た時にもイチは怯えを隠しきれなかった。

  _____拷問椅子じゃないか!

  そうイチが思うのも無理はない。

  蓄積した臭いを消す為にどこか薬品くさい革張りの椅子はイチに拷問をイメージさせるのに十分な威圧感を放っていた。

  まず、椅子のすぐそばで足踏み式の歯科ドリルが存在感を放っている。

  現代と違い電気動力のない19世紀。

  ドリルを回転させるためには足の力を利用した。

  そのため装置は大きくなり、どうしても拷問器具めいた見た目になる。

  椅子の頭にはヘッドレストがあるが、レストなどという優しいものではない。

  現代で言えばヘッドホンに似た形の器具は患者の頭が動かないように固定するためのもので、拘束具と表現したほうが遥かに伝わりやすい。

  「さ、掛けなさい」

  メイヤーブ医師はマスクとゴム手をつけながらイチに促すが、イチは真っ白な顔をして動けないでいる。

  怯え切っていた。

  「イチさん。勇気を出して。わたしがいますから」

  顔と言葉を失ったイチに付き添いのミュルガルデが人形遊びのようにして治療椅子に腰かけさせる。

  メイヤーブ医師がギッコンギッコンと椅子の装置を動かすと椅子が形を変え、イチは茫然自失としたまま天井を向かされる。

  怯え切ったイチの目にメイヤーブ医師が椅子の傍に寄せたドリルの装置が映り、「ひぃ!」とイチは小さく悲鳴をげた。

  「や、やっぱり今日はやめよう! 心の準備ができていない! 今日は、延期しよう!」

  「冒険者なんじゃろ? 覚悟を決めんかい」

  「もががっ!?」

  すっかり心が尻尾を巻いているイチの口の中にメイヤーブ医師は脱脂綿を詰め込み始めた。

  ひとつふたつの話ではなく、それこそ唇から歯茎、頬から舌の裏までパンパンに。

  「ほがが! むががががが!!」

  イチは抗議、というより哀願の声を出そうにも脱脂綿のせいでまともに喋れない。

  「ミノタウロスのお嬢さん、あんたは治癒魔法使いじゃったな? 手伝ってみないか? あんたにも勉強になるだろう」

  「ええ! お手伝いさせてください!」

  ミュルガルデは提案を受けるなり、イチが無理矢理椅子から逃げ出そうとしたのを見逃さず彼女の肩を抑え込んだ。

  「オウアラエ! アウエエウエ!!」

  ミュルガルデ、助けてくれ! と言いたかったのだろう。

  その気持ちは痛いほど伝わっていたが、ミュルガルデはつぶらな瞳でイチをみて申し訳なさそうに言う。

  「イチさん。あなたは軍の拷問にも耐えた不屈の冒険者でしょう? 大丈夫。あなたなら我慢できます。わたしも手伝いますから。今は頑張ってください」

  しかしミュルガルデの優しい声もイチの心を慰める事はできず、イチはこれから始まるであろう悪夢の時間に目に涙を溜めながらガタガタ震えるしかできなかったのである。