26.離別、記憶、祈り

  タクシーの中で流れる景色を見ていたら、俺のスマホが震えた。

  予想通り掛けてきたのは愛斗先生で、タイミングばっちりだよと心の中で呟く。

  少しでも早かったら、俺はきっと落ち着いて返答できなかったから。

  「……もしもし」

  『…黒木くん、』

  愛斗先生の硬い声。

  メモを読み、その意味を理解したのだろう。

  『…本当に、離れるつもり?

  黒木くんはそれでいいの?』

  「……」

  黙り込む俺に、恐らく愛斗先生は戸惑い、混乱し、考えているのだろうと思う。

  『……黒木くんは、もう…神代さんのこと、愛してないの、?』

  愛斗先生の言葉に、あの日を思い出す。

  愛斗先生が、もう少し頑張ってみないかと、俺を支えてくれた日。

  愛はどんな困難も乗り越えられると言ってくれた。

  先生はそれを信じてるし、俺にも信じて欲しいんだ。

  それが痛いほど伝わってきて、俺は眉を下げて微笑んだ。

  「…愛斗先生…」

  『黒木くん……』

  祈るようなその声に、神代千秋という恋人を思い浮かべる。

  俺だけに特別甘く、優しくて、怒ると鬼より怖くて、かっこよくて大切な、誰より愛しい人。

  「……愛してますよ、世界で一番。」

  そう言った俺はきっと、愛おしさだけの笑みを浮かべているのだろう。

  『だったら…っ』

  愛斗先生の焦った声に、俺は目の前を見つめる。

  そこに先生がいるかのように。

  「…愛してるから、離れるんです。

  今のあの人が、笑って生きていけるように」

  『……くろ、き…くん……』

  愛斗先生が苦しんでいるのは安易に想像できた。

  俺の気持ちが分かるからこそ、簡単に離れちゃダメだとは言えないだろう。

  俺はそこを利用したんだ。

  意地が悪いけど、そうしなければ俺は、千秋さんを壊す自信さえあった。

  だから、これで良かったんだ。

  「…俺もあの人も、お互いを忘れて生きていくんです

  まるで出会ったことが無かったかのように」

  そうして、別々の道を歩むんだ。

  それが正解で、それが幸せなんだ。

  『そんなの……』

  「…それが、俺達の運命だったんですよ

  ……これが、一番いい、結末なんです…」

  『そんなわけっ』

  愛斗先生の気持ちの揺らぎが俺にまで強く伝わった。

  それほどまでに、どうにかして引き止めたいのだろう。

  俺だって、そんなことないって知っているし、分かっている。

  それでも、あの人が未来で笑っているなら、これでいいと思った。

  思いたかったし、もう、こうするしかないんだ。

  「…俺はもう、あの人の隣で笑えません。」

  俺の言葉に、愛斗先生が息を呑む。

  今までずっと、心では認めてこなかった。

  口では何度も言ったけど、それでもそばにいなくてはと思っていた。

  でも。俺を忘れた千秋さんを見て、もう無理なんだと素直に思った。

  だってあの人の瞳に、俺は映らない。

  あの人が俺に愛を伝えることもない。

  そのままあの人の景色にだけは、なりたくなかった。

  「……先生」

  俺の言葉に、愛斗先生は身構えることもできていないようだった。

  愛斗先生に残酷な言葉をぶつけていることに申し訳なさを感じるが、先生が適任だった…。

  震える息を整えて、決意を固めて。

  これ以降、生涯口にすることはなくなるであろう、この世界の誰よりも愛しい名前を声に乗せた。

  「……千秋さんを、どうか…よろしくお願いします。」

  『く、ろきく……』

  分かったと、言えないのも分かっていた。

  だから、俺はただ静かに電話を切った。

  そのまま、電源を落とす。

  そうして手を組み合わせ、祈った。

  あの人の幸せを。最後に強く。

  [newpage]

  貴和が家を出た少し後、涼介は外出許可をもらって、千秋を家に連れて来ていた。

  少しでも記憶が戻る手がかりになればいいと。

  「ここが、お前の家だ。」

  「…へぇ…」

  「反応薄っ」

  「…覚えてないからなぁ笑」

  「まぁ…いい

  上がれよ」

  「ハハ、お前の家みたいじゃん」

  そうして家に上がり、中を見て回る。

  リビング、千秋の部屋、空っぽの部屋、キッチン…

  テーブルに置いてある手紙を見た千秋は、自分宛てのその手紙を、そっと開いた。

  「綺麗な字…なんか……見たことあるな…

  …千秋さんへ…」

  『千秋さんへ

  言いたいことはたくさんあるけど、伝えたいことはひとつだけです。

  ありがとう。

  俺と出会ってくれて、俺を救ってくれて、俺と生きてくれて。

  俺にたくさんの幸せをくれて、俺を愛してくれて。

  本当に、本当にありがとう。

  あなたのお陰で俺は今日まで生きてこれた。

  あなたがいたから、生きたいと思えた。

  ありがとう、千秋さん。

  そして、ごめんなさい。

  あなたを信じ続けられなくて。

  待つことが、できなくて。

  俺の弱さを、許してください。

  ずっとずっと 愛しています

  貴和より』

  涙に濡れたのか、滲んでいた、最後の一文。

  頭が強く痛む。

  この、“ 愛しています ”は……

  『俺、千秋さんの文字好きです。美しいから。

  凄い綺麗だから好き』

  『私は貴和の文字の方が好きだな

  貴和も、とても綺麗な書体をしているよ』

  『ありがとうございます…』

  『フフ』

  そうだ…あの子の…

  一気に溢れ出した涙と共に、記憶が洪水のように押し寄せる。

  『なんであんた、傘ささないんですか

  濡れますよ…』

  『…馬鹿ですね…』

  『…俺…愛とかそういうの…よく分からなくて…』

  『やめてくれって言われたって…っ

  俺は身体売って生きるしかなかった、!』

  『千秋さんは……俺なんかのどこが好きなんですか』

  『千秋さん、好きです』

  『愛してます、この世界の誰よりも』

  『千秋さん、俺は…』

  『千秋さん!』

  『ちあきさ〜ん』

  『ちぁ、きさ……』

  『千秋さん、!よかった…よかったぁぁ……』

  あぁ……そうだ……。

  ずっと前から、一緒だったじゃないか。

  運命の出会いだと笑ったことが、あったじゃないか。

  世界で一番愛していると、そう抱き締めたじゃないか。

  何があっても離れないと、言ってあげたはずなのに。

  ……私は、最愛の人を…どこまで苦しめただろうか。

  手紙のそばに置かれた合鍵とCollar、クリスマスにお揃いで買ったネックレス。

  パートナー解消の文字が頭に浮かぶ。

  そして、何も無い部屋。

  あそこは、貴和の部屋だ。

  今、貴和はここにいない。

  ここを、去ったのだろう。

  一体どこへ?

  そして思い出す、リビングの机に置きっぱなしになっていた、フランスの旅行雑誌を。

  「千秋」

  「…行かなきゃ」

  「……戻ったんだな。」

  「コク

  早く行かなきゃ、貴和が」

  「任せろ」

  涼介が呼んだタクシーに乗り込む。

  空港に向かう道中ずっと電話を掛け続けるが、無機質なアナウンスが繰り返される。

  『おかけになった電話番号は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため、……』

  「くそっ…」

  どうしてこんな時に…。

  苛立つ千秋に運転手を急かす涼介。

  記憶を失ってから、貴和はどんな顔をしてたんだろう。

  私はちゃんと貴和の顔を見れていたか?

  ちゃんと向き合えていたか?

  あの子が涙を流さないように、あの子の……1番近くで……

  「っ……ぅ……」

  ごめんね、貴和。

  辛かったよね…それでも、私のそばにいてくれてありがとう。

  私と関わろうとしてくれてありがとう。

  今思い返せばすぐに気付く、無理矢理に作られた、歪んだ笑みの貴和が浮かぶ。

  私は、貴和を壊してしまったのだろうか。

  その姿を見るまで分からない。

  今はどうか、せめて、飛行機に間に合ってくれ…。

  手を組み合わせ、貴和の無事を祈る。

  そんな千秋を乗せたタクシーが、猛スピードで空港に向かっていた。

  続く