大して眠れないまま、シャワーを浴びて、目の下で激しく主張する隈を化粧品で隠して、ひとつ、息を吐いて。
「…行こう」
あなたとさよならをしに。
踏み出した先の空はやはり、恨めしいほどの晴天で。
何で今日に限ってと思ったけど、雨の日の別れは俺達には似合わない。
雨は、出会いの合図だから。
初めて出会った時も、家出して再会した時も、雨が降っていた。
あぁでもここ最近は、俺の心情を表すように降る雨が多かったかな。
天も気まぐれ、?
なんて、くだらないことを考えつつ、ゆっくりと病院に向かって歩いていく。
正直、あなたにさよならを言える自信はない。
でも、千秋さんの幸せを願うなら。
きっとそれが最善で、最良だ。
あなたのためなら、できるよ。
病院に着くと、千秋さんに会う前に愛斗先生のオフィスに向かった。
本当は勝手に入ってはいけないんだけれど…
愛斗先生の机の見えずらい場所に、メモを置く。
気付くのが遅いといいなと思いつつ、そのままの足で千秋さんを探した。
病室にも、東棟にもいない。
どこだ?
探しつつふと中庭を見ると、ベンチに座っている千秋さんが見えた。
3階から、背中だけ。
少ない情報でも分かるのは、俺が千秋さんをよく目で追ってたからだ。
そんな自分の癖に、思わず目の前が滲む。
……頑張れ自分。
瞬きをして涙を散らし、深く深呼吸をして、千秋さんの元へ歩き出した。
晴れている日は散歩をする人も多く、人とぶつからないように、なるべく急がないように、そうして千秋さんの前に、そっと立った。
千秋さんは驚く訳ではなく、ゆっくりと視線を上げると、なんだ君かと、余所行きの笑顔を俺に向けた。
今は、覚えているらしい。
「…隣、座ってもいいですか?」
「どうぞ」
「……」
「……」
沈黙の中、自然の音と人の話し声が耳に入る。
「…いい天気ですね」
俺にしか向けない笑顔も、独占欲も、嫉妬も、夜の熱も。
その全てを知っている人に、今更テンプレみたいな言葉しか向けられない、自分に腹が立つ。
でも……
「そうですね」
それ以上に、にこにこと俺が見たことない顔で笑うこの人に、とても腹が立つ。
とても腹が立って、とても悲しくなって、俺はそっぽを向いた。
水が落ちた地面が色を変える。
あぁ、このままこの胸の内をぶつけてしまおうか。
嫌いだと、さよならと、愛してると、なんだかもうごちゃごちゃのこの気持ちを全部、ぶちまけてしまおうか。
そうしたら、凄く、間抜けな顔が見れるんだろうな。
そんな考えに気持ちを揺らした時、晴れた日に似合わない冷たい風が吹いた。
頬に当たったその冷たさに、ハッとした。
全てをぶちまけてしまってもきっと何も変わらないけれど。
でも、台無しになってしまうかもしれない。
だから、激情に駆られずよかったなと思った。
「……」
「……」
そのまま、ぼんやりしていると、なぜだか一瞬、昔に戻った気がした。
夏の日だったか。
こうして2人ベンチに並んで、溶けかけのアイスを頬張っていた記憶があった。
あの時と同じ、言葉のない優しい空気が、俺と、千秋さんを、包み込んでいた。
俺は、神様が俺にくれた贈り物なんだろうと解釈して、その温もりに身を委ねていた。
零れた雫が乾く頃、隣の気配が動く。
「そろそろ、検査なので」
もう俺を覚えていない瞳。
その姿を目の前にしても、俺はもう揺られなかった。
「…丁度、俺も帰ろうかと」
「…では……」
ゆっくりと歩いていく背中を、じっと見つめる。
きっと、もう会うことはないのだろう。
今日か、明日か、もっと先か…
分からないけれど、いつかはあの人の記憶から、俺が消えるのだろう。
それでも、いいと思った。
そうして俺を忘れたあなたが歩む人生は、きっと、俺と過ごした日々とは違った輝きを放っているのだろう。
その輝きに包まれたあなたはとても、綺麗なのだろう。
そしてとても、幸せなのだろう…。
「……さよなら、千秋さん」
家に帰ると、飛行機に乗るまでに時間があったので、最後に家の中を見て回ることにした。
玄関。
いつも疲れた千秋さんを出迎えていた。
会社で嫌なことがあった日、千秋さんは玄関で俺に抱き着き、頭を撫でて欲しがった。
千秋さんが甘えてくるのは帰ってきた時か寝起きだけだから、貴重な一面だったよな。
キッチン。
ここで沢山の料理を作って、2人で食べた。
年末年始も、節分も、子どもの日も、ハロウィンも…
楽しかったな。
リビング。
ここのソファーで仕事をする千秋さんの膝の上を占領するのが好きだった。
リモートってよりは書類作成が多かったから、膝の上に乗ってても特に支障はなくて。
他愛もない話をしてて案件が出てきた時は恐怖の場所だけど、お仕置きがあってもなくても、千秋さんの膝の上は大好きだった。
俺の部屋。
俺はあまりここにいることがなかったかもしれない。
1人で寝れないから千秋さんの部屋で寝てたし。
いつの間にか勉強もリビングでしてたし。
ただの荷物置き場になってたかもな…
千秋さんの部屋。
ここは割とお仕置きされた回数が多かったかもしれない。
1番はリビングだけど、千秋さんの部屋はベッドの高さが丁度いいし色んな道具が手の届く所にあるから…
リビングよりも千秋さんの部屋の方がお仕置きは厳しいな。
でも、千秋さんのベッドは千秋さんの匂いがして好きだし、寝る時ずっとそばにいてくれるのが嬉しかった。
眠れない時はホットミルクを作ってくれたり、お腹をトントンしてくれたり、手を握っていてくれたりしたな。
この部屋ではPlayもたくさんした。
厳しくされて、ドロドロに甘やかされて、グズグズに溶けて……幸せだったな。
全ての部屋を見て回って、まだ時間があったから、俺は千秋さんに手紙を書くことにした。
本当は、何も言わずに消えるべきだ。
それでも、寂しがり屋な俺は、俺がここにいたことを、残しておきたかった。
あなたと過ごしていたことを。
あなたと、生きていたことを。
『千秋さんへ
言いたいことはたくさんあるけれど、〜……
……愛してます。』
そう書いた時、涙が落ちて、文字を滲ませた。
「…っぅ………」
いまさっき見てきた、たくさんの思い出。
手紙に綴った言葉の裏の、もう叶わない想い。
千秋さんと離れる事実が、その辛さが、俺を押し潰そうとする。
でも、もう戻れない。
時間は止まってはくれない。
時計を見た俺は、飛行機に乗るために手紙をキッチンのテーブルの上に置いた。
そのそばに、合鍵と、Collarと、ネックレスを置いて。
玄関でキャリーケースを手に、家の中を振り返る。
ここには、たくさんの思い出がある。
たくさんの、愛があった。
あなたがくれたもの。
だから……あなたの元を離れる俺には、ここは苦しすぎたんだ。
何処を見ても思い出ばかりだから。
だけどそれも、今日でさよならだ。
「……ばいばい」
静かな家に、俺の濡れた声がふわりと浮く。
家の前に呼んでいたタクシーに乗り込み、空港へ向かった。
続く