見捨てない強さ

  その日は起きた時から、少し気分が悪かった。

  何がという訳でもないんだけど、モヤモヤして気分が優れない…。

  でも今日は学校だから、嫌でも起きなきゃいけない。

  その強制感に溜め息を吐いて、俺は布団から起き上がった。

  リビングにはもう千秋さんが起きていた。

  新聞を片手にコーヒーを飲みながら、俺を目にとめて「おはよう」と微笑みかける。

  いつもなら何とも思わない、むしろ心地いいはずのその視線が、酷く煩わしく感じた。

  「…っ……」

  おはようと普通に返そうとしたのに、喉の奥に言葉がつっかえて出てこない。

  「貴和?」

  面倒くさくなってそのまま押し黙っていると、千秋さんは新聞をたたんでテーブルに置いた。

  「…貴和、声が出なかったりする?」

  そのまま静かに立ち上がると、俺の前に膝をつく。

  顔色を見ようとするから顔を背けると、千秋さんは眉を寄せた。

  「……体調が悪かったりしないなら、きちんと挨拶はしなさい。」

  そのお説教じみた言い方に、俺は更に苛立ち、モヤモヤする。

  そっぽを向いて完全無視を貫くことにすると、千秋さんは少し溜め息を吐いた。

  その溜め息に、何で俺がそんな面倒くさいって態度取られなきゃいけないんだろうと思ってしまう。

  千秋さんは俺の顎を軽く掴み、視線を合わせる。

  「挨拶は人の基本だよ。

  出来ない訳じゃないでしょう。」

  「っぅるさいな」

  その手を振り払えば、明らかに千秋さんの纏う空気が変わった。

  「……貴和、おいで」

  千秋さんが怖い顔をして呼ぶ時は、いつもお仕置きされる。

  だけど今日の俺は、素直じゃないみたい…。

  「嫌だ」

  「来なさい。」

  「嫌だ」

  「貴和」

  「嫌だって言ってるだろ、!」

  カッとなって、椅子の上に乗せてあった千秋さんの仕事の書類を投げれば、千秋さんの顔から表情が消えた。

  その冷たい目に、心は震えているのに、どうしても今日だけは反抗してしまう。

  「…今日の貴和は随分と悪い子なんだね。」

  「ぅ、るさい!ほっといてよ!」

  噛み付くように答えると、千秋さんは静かに瞬きを繰り返した後、小さく頷いた。

  「…分かった。貴和がそう言うなら、もう構わない。」

  そう言って、千秋さんは床に落ちた書類を集め、書斎に入ってしまう。

  どうすればよかったんだ……

  胸の苦しさを抱え、俺は唇を噛み締めた。

  俺だって嫌なものは嫌だし、そういう気分の日だってあるんだ。

  挨拶から一日が始まるから、それが大事なのも分かる。

  分かるけど…!

  1人ぐるぐると考えるうち、学校に行く時間になった為、朝食を取らずに登校した。

  一日学校を終えて、塾に行ってから帰ると、千秋さんが夜ご飯を食べていた。

  いつもは2人で食べるのに。

  千秋さんは、待っててくれるのに。

  ほっとくって、構わないって、そういう事かよ。

  じゃあもういいよ。

  俺は拗ねた気持ちになって、ただいまも言わないまま自室に入り、ドアを強く閉めた。

  そんなギクシャクと言うか、無視されるような、お互い気まず過ぎる日々がすぎ、そろそろゴールデンウィークに入る、という時になって、俺が耐えられなくなった。

  Playどころか会話さえ出来ないストレスに、食事を吐いた。

  毎晩毎晩、真夜中に目が覚めた。

  突然喉を突き破るような叫び声を上げたい衝動に駆られた。

  その苦しさの向こうに、千秋さんとのいざこざがあると気付かないほど馬鹿ではない。

  仕事中の千秋さんの書斎の前に座って、千秋さんが出てくるのを待つ事にした。

  何分経ったんだろうか。

  感覚さえも分からなくなった時、書斎のドアが静かに開いた。

  「っ、、千秋さん」

  呼び掛けても返事をされないことに、じわりと涙が滲む。

  「ま、、ってよ……」

  苦しいなんて恥ずかしくて言えないから。

  俺はいつも意地を張ってしまうけれど、あの時おはようと言えていたら、今日は少しイライラするんだと伝えられていたら、今、こんなにも辛い思いは、しないで済んだのだろうか……。

  「っ、、ちあ、きさ……ご、、ごめ、なさぃっ」

  過呼吸になりかけるように、ひっひっとしゃくり上げながら後ろから千秋さんに抱き着くと、硬い声がリビングに響いた。

  「……貴和、離して。」

  「も、やだぁっ」

  「…貴和。」

  「ごめんなさいぃ……」

  「離しなさい。」

  「ちゃんと挨拶する、からぁっ

  も、ほっといてって、言わないからっ

  おねが、、無視、しないでぇっ」

  わんわん泣き出した俺に、千秋さんは困ったように小さく溜め息をつく。

  呆れられたんだろうな、と思って、俺は更に悲しくなった。

  それでも、千秋さんからの愛情が無くなることの方が、千秋さんに無視されることの方が、呆れられるよりもよっぽど響く。

  「ふぅ、、ええぇっ」

  ひっくひっくとしゃくり上げて、必死に涙を拭う俺の目の前に、千秋さんは静かにしゃがみ、俺の両手をそっと掴んだ。

  お説教の時の体制に、おれはボロボロと涙を零しながらも千秋さんの目を見つめる。

  ……数日ぶりに、目が合った。

  その瞳には苦しげな光が浮かんでいて、あぁ、俺のことが大好きな千秋さんが、俺を無視することが当たり前な訳がない。

  それで平気な訳がないと、1人勝手に考える。

  「ふっ、ひっく……ごめ、なさぃっ」

  「…貴和、何がごめんなさい?」

  久々の会話に感動してしまいそうになるけど、叱られている雰囲気に身体が強ばる。

  「っ……あさ、おはよう、しなくて……あと、ほっといてって、、言って……」

  「……うん。それから?」

  「ぇと……す、なおに、、ごめんなさい、しなくて……」

  「そうだね。…後は?」

  「ぇ。……っ……ふぇ……ごめんなさ……分かんないぃ」

  また涙を流しながらそう言うと、千秋さんは真剣な瞳で俺を見た。

  「……貴和さ、私の書類、どうしたの?」

  「………ぁ、。」

  「……言いなさい」

  「っ、、ふぇぇ……なげ、た……ごめんなさ…」

  「うん。物投げていいの?」

  「ふぇぇ……ダメ……ひっく…」

  「……今回は、凄く悪い子だったね。

  厳しくするよ。

  ……おいで。」

  千秋さんの声に、俺は千秋さんの後に続いて寝室に入った。

  ベッドに座って膝を叩いた千秋さんに、俺は膝に乗る。

  お尻に当てられたのは、平手じゃない何かだった。

  「一つひとつ叱っていくけど、貴和。」

  名前を呼ばれて、恐怖で震えながらも耳を傾ける。

  聞こうと努力する。

  「はぃ……ふ……」

  「……愛してるよ。」

  びっくりして固まっていると、優しく頭を撫でられた。

  「…愛してる。それだけは誤解しないで。

  厳しくするけど、嫌いには絶対ならないから。

  分かった?」

  「ふ、うぅっ」

  優しい手つきから愛情が伝わってくるようで、俺は必死に頷いた。

  「……じゃあ、後はしっかり泣いて反省しなさい。」

  その言葉と共に、お尻に痛みが走る。

  パン!パシン!パチン!パァン!

  「ぅ"、ぁ……ひっぃ、……あぁ"……!」

  お尻が燃えるように痛い…。

  自然と足が跳ね上がる。

  べチン!パァン!

  「足で庇わない!」

  「ああ"っひ……ごえ、なざいぃっ」

  暫く叩かれた後、手が止まる。

  お尻にブラシ?を当てられたまま、千秋さんの言葉を聞く。

  「挨拶は人の基本だし、一日のスタートなんだからきちんとしなさい。」

  「は、ぃ……ぅ、ひっ……」

  「人の言葉は無視しない。嫌でもきちんと聞きなさい。

  大事なこと言ってる時もあるんだから。」

  「はぃ……うえぇぇ……」

  「じゃ、次。」

  バチン!パァン!パシン!パン!

  「ぅ、っぁあ"!や、あぁっ」

  「嫌じゃないでしょ、!」

  パァン!バチン!べチン!パン!

  「わぁああぁっごぇ、なさいぃっっ」

  また連打が止まり、千秋さんが口を開く。

  「本当は思ってないのに、ほっといてなんて言わないの。

  で、状況悪化したのに、いつまでも意地張らない。

  苦しかったんじゃないの?」

  ……苦しかった…ずっと、、顔色ばかり窺っていた。

  このままずっと話せなかったらどうしようと、不安が募るばかりだった。

  それでも言い出した手前、なんだか謝るのは悔しくて…苦しい、寂しいと言う心に、静かに蓋をした。

  「ぐる、じかだ……さみ、しかったぁあ」

  しゃくりあげ、上手く回らない舌でそう言うと、お尻に一際強いブラシが4回くらい落とされた。

  バチン!パァン!べチン!パシーン!

  「うわああぁん!!」

  堪らず足がじたばたと布団を叩く。

  「足!」

  バチン!と太ももを叩かれれば、さらに泣き声が増す。

  「自分の心を大事にしなさい!」

  「ごめ、なさいぃっごぇ、、っふ、ひっ」

  「次。」

  そう言って千秋さんは、道具を変える。

  俺の目の前に見せられたのは、小さめなサイズの乗馬鞭。

  それが視界から消えていき、お尻に当てられた感覚に肩が跳ね上がった。

  「うええぇん……」

  ビシ!パシ!ピシィ!

  「ぁああぁっっ!いだいぃっいだぁぁい!」

  叩かれた箇所が切れるように痛む。

  「痛いのはお仕置きなんだから当たり前でしょう!」

  ビシ!パシ!ペシン!

  「あああぁん!やだぁっも、やだぁぁっっ」

  堪らず手で庇うと、千秋さんの低い声が響いた。

  「貴和、手を退かしなさい。」

  「ごえんなざいぃっ」

  「退かしなさい。」

  「も、しないぃっ」

  「貴和、」

  「うええぇ……っ」

  千秋さんは無理に押え付けることはせず、俺が手を退かすまで待つつもりらしかった。

  「ふ、ひっ……ごめ、なさ……ちあぎさ……」

  ゆっくり、手を前に戻すと、少しだけ頭を撫でられる。

  「反省してるのは伝わってる。

  だけど、反省してるなら体勢を保ちなさい。

  手で庇うなら、縛ってもいいんだよ?」

  その脅しに、俺は必死に首を振った。

  「やら、!縛るのやだぁっ……」

  「なら、大人しく受けなさい。

  次は縛るからね。」

  「ふえぇ、はぃっ」

  ピシ!パシン!ビシ!

  「ぁぁぁっっうぇぇ……」

  暫くして鞭が止まった時、俺はお尻が切れているんじゃないかと不安になった。

  それ程には痛かった。

  「…物投げるのはこれで2回目だよ。」

  「ふぇぇ…」

  「何で物投げちゃダメなんだった?」

  「ぇぅっ……ふ、うぅ……」

  「答えなさい。」

  「っひ……ぁっふ、うぅ……おれ、が……」

  「うん」

  「けが、とかす、るかも、しれない、からぁっ」

  「そう。

  それが怪我をしそうなものに変わった時に危ないから。

  たとえ投げたのがクッションだったとしてもお仕置きするの。書類だからいいとか、柔らかいからいいとかじゃないんだよ。

  ダメなことにはきちんと理由があるの。

  分からないなら、そのままにしないで聞きなさい。

  後ででもいいから。

  それでお仕置きすることは絶対ないから。

  分からないならきちんと聞きなさい。

  いい?」

  「は、いぃ……」

  「……じゃあ仕上げ。

  痛いの10回ね。

  数えなくていいから、ちゃんと反省しなさい。」

  そう言って千秋さんは足を組んだ。

  がくんと下がった頭に、涙が止まらない。

  「…仕上げは手ね。」

  その一言に、酷く安心した自分がいた。

  パン!パァン!パシン!バチン!

  「ぅええぇっあぁっ」

  バチン!パン!パァン!パシン!

  「ひっあぁ"…!

  いだ、ぁっごぇ、なざいぃっ」

  バチィン!パシィン!

  「うああぁんっっ!」

  最後に太ももを強く叩かれると、すぐに抱き起こされた。

  「あああぁん!」

  「よく頑張った。

  もうおしまい。

  もう叩かない。

  大丈夫、いい子になれたね。

  よしよし、偉い偉い。」

  抱き締められて、背中をさすられる。抱き上げられて膝の上に乗せられ、また強く抱き締められた。

  「うえ"え"ぇんっ」

  「よく頑張った。

  痛かったね、怖かったね。

  ちゃんといっぱいごめんなさい出来て偉かったよ。

  いい子、いい子。」

  全然泣き止めない俺を責める事もなく、ずっと抱き締めて、あやしてくれる。

  耳元で大声で泣こうが叱らない。

  「ふ、ええぇっごぇ、」

  「うん、」

  「ごえ、なさっひゅ、ふ」

  「貴和、落ち着いて息してごらん。」

  「ひゅ、は……ひっ」

  「貴和、大丈夫。

  だーいじょうぶ。

  良い子だからね。

  もう怒ってないから。

  大丈夫」

  泣きすぎて過呼吸を起こした俺に、千秋さんは冷静に対処する。

  「ひ、うぅっ」

  「貴和、いいこ。」

  「ぃ、こ」

  「うん。いいこ。

  ちゃんと反省出来て、ごめんなさいいっぱい出来て、本当にいいこ。」

  「ぅ、ふ……ちあ、きさ……」

  「うんうん。」

  「ごめ、なさ……っひっく」

  「いいよ。もう怒ってないよ。

  いい子になれた。

  貴和いい子だよ。」

  どんなに不安になっても、きちんと伝え続けてくれるのが嬉しい。

  いっぱいいい子って言ってくれて、向き合ってくれて、優しく頭や背中を撫でてくれて、その手つきが優しくて。

  涙が溢れて止まらない。

  「貴和、愛してる」

  千秋さんはそう言ってキスをした。

  「っん、ひっひ……んぅ」

  しゃくり上げながら身を任せていると、千秋さんはふわりと微笑んだ。

  「しょっぱいね笑」

  「……千秋さん、、」

  「んー?」

  「……寝る、?」

  「そうしようか。笑

  もう夜中だね💦」

  「ぅん……」

  「寝よっか。

  トイレ行っておいで」

  少し寂しいけど、さすがに着いてきてという訳に行かず…さっさと済ませて帰ってきたら、早いねなんて笑って、千秋さんが布団をめくってくれた。

  「貴和、おいで。」

  そのまま添い寝してもらって、俺はうとうとと微睡む。

  「……貴和、」

  「……ん」

  「…偉かったね。」

  「……ん」

  「…おやすみ。」

  「……お、や……すみ……」

  「……フフフ(笑)」

  千秋さんの温もりを感じながら、俺はゆっくりと眠りについた。

  「おはよう貴和」

  昨日冷やさずに寝たから、起きたら泣くほどお尻が痛くて、朝からバタバタしていた。

  お尻に薬を塗って、湿布を貼った後、千秋さんは俺の髪を梳くように撫でてそう言った。

  俺は喉を頑張って開き、声を出す。

  「ぉ。おは……ぁ"……おは"よ……」

  「クスクス笑

  可愛い♡」

  チュッと鼻先にキスをされ、照れ隠しに毛布で顔を隠す。

  「フフ」

  千秋に手を伸ばすと、そっと握ってくれた。

  俺は日の温かさを感じながら、願わずにいられない。

  どうか、この幸せが。

  これからもずっと、続きますように。

  END