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白蛇の早苗 第6話【森の新人ミシャグジ様】

  

  

  

  

  

  もし、何もしないでいる事が仕事と言われたら、どうだろう。仕事もレポートも宿題も部活も一切なし。ただ、そこに居れば良いのだ。じっとして。

  ちょっと聞いただけなら素敵なことに聞こえるかもしれない。めんどくさいことは一切する必要はなし。ただただ寝てりゃいいのだから。

  ただし、皆様おなじみのインターネットやら、テレビやら、漫画やら、小説雑誌やら、ゲーム携帯のたぐいは一切禁止だとしたらどうだろうか。あるのは、最低限の話し相手だけ。

  およそ人間にとって娯楽と呼べるようなものは会話以外になく、日長一日じっとするか、寝るか、ゴロゴロするかして、話し相手が欲しい時は「ヒマ」と言って、おなかがすいたら「ご飯」とつぶやくのだ。

  そのうち、まるで生き仏か何かのようにじっとしているか、ひたすら眠っているかのどちらかしかすることはなくなるだろう。

  悟りを開いたり、修行の果てに宝貝から巨大な龍を発射できるようになったり、精神に関する思索の果てに光り輝くレンズを作り出したり、思考のみの生命体になってナメクジ文明を見守ったりする者もいるが、それは別のお話の出来事。

  ちょっと大げさだったけれども、まあ、とにかくそういう生活はとてつもなくヒマなのであろうということなのだ。

  

  さて、ここに一匹の蛇少女が居る。

  蛇少女という言葉が示すとおり、上半身は少女、下半身は蛇。その身体は神々しく真っ白な鱗に覆われ、背中まで伸びるまっすぐな髪も同じく白。縦に裂けた瞳は金色に輝き、人間らしい柔らかな肌は顔と、両の手のひらのみ。

  服は青い腰巻と袖のない白い上着。つまらなそ~な顔をして、とぐろを巻いてデンと座っているのがヤケにサマになっている。

  蛇少女が今居るところは、薄暗い洞穴。仏頂面の先にはポッカリと空いた洞穴の出口。

  そこから彼女が覗き見る外の光景は、じっとりと湿ってぴしゃぴしゃと音を立てていた。

  外は、雨。時折ゴロゴロと雷鳴が轟くが、随分遠いところで鳴っているようで稲光は見えない。

  「‥‥」

  しゅう、と彼女は息を吐く。

  彼女は数日前、この洞穴に連れてこられた。神様として。

  彼女を連れてきたのは洞穴の外に広がる森に住む動物たち。得体のしれない蛇の神様に喰われることを恐れたか、半ば生贄に近い形でたった一匹の狐をお使いに出して。

  ――――お礼がしたいので。

  最初、使いの狐はキャピキャピした少女の声で、そうのたまった。

  彼女が、狐たちが住む森で暴れていた黒い妖獣をあっという間に蹴散らしたから。森のみんなが、彼女にお礼をしたがっているから、と。

  彼女は神様として実に丁重に扱われた。綺麗な寝床や、イワナや木の実、果物、‥‥たまに赤いものが交じるお供え物。主にあの狐が文字通り神使として森と彼女のあいだを取り持ち、お世話に奔走した。なだめすかして、ご機嫌をとり、まるで腫れ物に触るように、丁重に。足りないことと言ったら、それは。

  (外に出たいなぁ‥‥)

  そう。彼女は、洞穴に封じられていた。今、入り口に貼られている結界は、彼女をどうしても洞穴につなぎとめて離してくれなかった。

  思えば、彼女がこの洞穴に入る際に感じたピリとした違和感も、結界のたぐいだったのかもしれない。石の祠も、そういう性質の、封印などにつかわれた謂れのある物なのだろう。神様が昔住んでた、と狐は言ったが、そうではなく「封じられていた」というのが真相かもしれない。

  視線の先、洞窟の入口には、榊の葉っぱが揺れ、この原生林には全く不似合いな、真新しい白い紙垂がゆらゆらと風になびいている。彼女の居るところからは見えないがしめ縄も掛けられていた。『長老たち』が人間の里まで出向いて持ってきたのだろう。人間に化けるなりして。

  見かけは、おままごとのような結界である。

  しかし、そこに込められた彼らの願いは強力だった。

  [newpage]

  

  [chapter:第6話 森の新人ミシャグジ様]

  

  

  彼女が洞穴に入って最初の夜。何か外が騒がしいと感じた彼女は様子を見ようと外に出た。そんな蛇少女を待ち構えていたのは、洞穴の外を埋め尽くすありとあらゆる種類の動物達の姿だった。

  ツキノワグマに狸、カモシカにキジ、ムササビ、イタチ、テン、クマタカにルリビタキ、エトセトラエトセトラ。

  襲うものの隣に襲われるものが。昼間出歩くものが、夜の住人たちの隣に。ひしめくように寄り添う彼らの姿はそれはそれは奇妙な光景で。

  目の前に広がる光景に気圧される蛇少女の姿を認めると、動物たちはざわざわとささやき合い、突然ソレは始まった。

  うり坊を連れたイノシシの夫婦がガフゴフと頭を垂れ、若い雄熊が手を合わせ、狼たちは祝詞をうなる。

  真夜中だというのに鳥の娘たちは賑やかに歌を歌い、彼女らの姦しい歌に合わせてバサリバサリとトンビが舞を披露する。

  彼らの最前列にはシマヘビやヤマカガシ、マムシ達蛇共がとぐろを巻いて尻尾で地面を打ち鳴らし、森の虫たちは羽を震わせて鈴の音を響かせた。

  満月にもう少し足りない、栗の実のような月が照らす中、彼女のために奏される、昼も夜も襲う襲われるも関係ない、森を挙げての神楽。

  

  ――――お願いいたします、お願いいたします。

  ずっとここにいてください。この森を守ってください。

  月に照らされた白樺のような、綺麗な綺麗な白蛇様。

  あの黒い獣達をやっつけてくれた白蛇様。

  あの獣達に、私たちはいじめられました。たくさんひどい目に会いました。

  もう二度と、あんなことがないように、ずっとこの森に居てください。私たちを守ってください。

  お願いします。お願いいたします。

  畏み畏み申します――――

  

  そんな大合唱を受けて困惑する彼女の前に、一頭の鹿が歩み出てきた。巨大で、まるで木の枝のように入り組んだ角を持ち、顎の下には人間のヒゲのように長くのびた毛を蓄えた、老いた牡鹿だった。おそらく、彼が狐娘の言う、「長老たち」の内の一頭なのだろう。

  牡鹿は、頭を垂れると、蛇少女に向かい改めて先のお願いを繰り返した。

  ――――どうか、この森にとどまって、私たちを守ってください。私たちに加護をお与えください。

  蛇少女はどう返事をしたら良いものか、頭を振って混乱していた。

  自分たちの森を守ってくれたおっかない蛇神様に、なんとかしてどうにかしてこの森にいてもらおう。守ってもらおう。でも、もしかしたら神様は自分たちを食べちゃうかも。だから、お供え物と綺麗な寝床をあげて祠におとなしくしていてもらおう。あまり外に出てこないようにお願いしよう。

  彼らの願いは、身も蓋もない言い方をすればこうだった。

  まるで人間がするような、畏れとしたたかさの混じったお願い。

  彼女には、彼らの神楽の歌の裏にあるそんな意思が透けて見えた。だからといって別に腹がたつわけでもなかったが。彼らの願いを受けて、蛇少女は正直まんざらでもなかったのだ。しかし彼女はこの森に神様として何時までも居る気はなかった。彼女は金色の蛙を探さなくてはいけないのだ。あいつを捕まえて喰ってやらなきゃいけないのだ。どうしても。

  困る。そう言おうとした時だった。

  洞穴の入り口から、さらに外に進もうとした彼女を、電気のような衝撃が襲った。

  まるで見えない壁にぶつかったように、彼女は額を抑えて後ずさる。

  しゅっ、と怒りの声を出すと、彼女はもう一度外に出ようとした。しかし、不思議なことに、外に出ようとすると今度は電撃が襲う前に、入口の手前で外に出ようとする気がへなへなと失せてしまうのだ。何度試しても、同じだった。

  どうしても外に出られず困惑する彼女だったが、森の動物達はその光景を見て歓声をあげた。

  蛇の少女を、白蛇と化した東風谷早苗を、彼らの言霊が結界となって、願いどおり神様として封じた瞬間だったのだから。

  

  

  

  「‥‥」

  何度目になるだろう。またあの夜の神楽を思い出し、早苗は眠たそうに目を細めた。

  あれから、彼女は「ただそこにいるだけの簡単なお仕事」をずっとしていたのだ。

  昼間はとぐろを巻いてぼんやりしているか、眠るか。夜は夜でまたとぐろを巻いてぼんやりとし、暇になったらお供え物をかじったり、洞穴の入り口で狸の親子がお参りしていく様子を眺めたり。

  雨の中、「子宝に恵まれますように」というお参りを済ませ、ぴょこぴょこと走り去っていく野うさぎの尻尾を見つめ、今日も昨日と同じか、と早苗は変化のない一日に、うんざりした気持ちで揺れる紙垂を眺めていた。そこへぴちゃぴちゃと小さな足音が近づいてくる。

  あの狐の娘っ子だった。

  「あっれー。暇そうですねえ。まるで雨降りの時に外に遊びに出られない時のわたしの妹たちみたいな顔しちゃって。まったく。だらしないですよー?カミサマなのにー。ってあいたたたたたすいませんごめんなさいもっともですごもっともです」

  「ヒ・マ・に・決・ま・っ・て・る・で・し・ょ・う」

  ブルブルと雨に濡れた毛皮を震わせて入ってきた狐娘が発した、神経を逆なでするような呑気な台詞に、早苗は腕を伸ばして狐を吊り上げ、牙をきらめかせて文句を言った。

  しゅうしゅうとイラついた息を吐く蛇少女の眼前に吊るされて、狐は身を震わせながら言う。

  「で、でも。ミシャグジ様はここに居ても良いと言ったではないですか。みんなのお願いを聞いてくれたでしょう。その証拠に、今までこうしてこの"ほこら"に居てくださっているじゃないですか」

  「アンタたちが無理やりわたしを閉じ込めただけじゃないの」

  「そんな滅相もない!」

  けんけん、と狐は必死に反論する。早苗にはココにいてもいいと言った覚えも願いを聞いた覚えもない。この狐は馬鹿なのか、それとも周りの話を聴く気もない、すべて自分の都合の良いように解釈する狂信家なのか、早苗にはわからなかった。

  潤んだ狐の目がこちらをおどおどと見つめてくる。そのこそばゆい感覚に耐えられず、早苗は狐を地面に降ろした。

  狐はふう、と溜息をつくと、そのままおすわりをして早苗を見上げる。

  早苗は狐と目を合わせず、洞窟の外をぼんやりと眺めていた。

  しばし洞窟の中に雨音だけが響く。先に耐えられなくなったのは狐の方だった。

  「‥‥お話し相手ならいつでもこの私が」

  「そうじゃないの」

  「おなかが空いたんですか?」

  「まあね」

  「じゃあ何かとってきますね」

  「イワナもあけびも食べ飽きた」

  「・・・・お肉ですか」

  「そう」

  「ネズミですか?」

  「あれはお腹にたまんない」

  「ヤマドリ」

  「羽が多くて毟るのめんどくさい」

  「鹿」

  「あなたに狩れるの?」

  「正直無理ですねー」

  「じゃあ言わないで‥‥」

  早苗はつまらなさそうにつぶやいて視線をそらす。

  「‥‥ご用意はできます」

  狐の声のトーンが変わった。

  「私ども、覚悟はできております。もし、ミシャグジ様が、食べたいと言うならば‥‥」

  「言うならば?」

  「呼びます」

  「‥‥」

  「ここに」

  「で?」

  「‥‥あとは、ミシャグジ様のお好きなように」

  早苗はちょっと意外そうに眉をあげた。

  生贄を差し出すというのである。

  この森の動物達、神様を封じるためにそれなりの代償を支払う覚悟は出来ているらしい。

  早苗はざわりと興味をそそられた。

  今は、鹿なんて食いたくはなかったが。

  「鹿はいい。呼ばなくて良い」

  「じゃあ何が食べたいので?」

  「あんたたちには絶対とってこれないお肉」

  「ええ!?」

  「あんたより大きな金色の蛙」

  「‥‥」

  口の端を早苗は拭う。あの蛙のことを想うたびにこうなるのだ。

  聞いたこともないような獲物のリクエストに、ぽかんと口を開けて戸惑う狐。早苗はとぐろをまいた胴体の上に肘をついて、彼女を見下ろす。

  「まあ、無理だろうね」

  「それは‥‥わたしも見たことないです‥‥」

  「でもわたしはお腹が空いた」

  「うう‥‥」

  「何か食べたい」

  「で、では飽きているかもしれないですがイワナを‥‥」

  「おやつにアンタでもいい」

  蛇がニヤリと笑うと白い尻尾がするりと伸び、狐の尻尾に目にも留まらぬ速さで巻きつく。狐はとっさに逃げ出そうとしたが早苗の方が早かった。

  「ひ、ひ、ひええええええ!」

  「おそーい」

  逃げようとする狐と、彼女の尻尾で綱引きをするような格好になった。狐は四足に力を込め、恐怖の悲鳴を上げて必死に引き寄せられまいと抵抗する。さっきの“覚悟”とやらはどこへ行ったのか。

  「いやあ、いやあああああ!ご勘弁を!わたしにはミシャグジ様の神使という役目が!」

  「へー」

  「それに、ねっ、ねぐらに帰れば幼い妹達と年老いた母と父が!」

  「だから?」

  「だからわたしがいなくなれば皆んな寂しがります!」

  「そう」

  「そうです!」

  「じゃあ、みんな『呼ぶ』」

  「へ!?」

  「残らず全員たべてあげる。胃袋の中でもみんな一緒なら寂しくないでしょ」

  「ひいい!ま、待ってください!せめて妹、妹達だけはお赦しを!」

  「いやだ」

  「そ、そんな」

  蛇は目を大きく見開き、ニタリと口の端を上げる。

  「子狐は軟らかくて美味しいだろうなぁ‥‥ああ、でも一番最初は貴方ね。小さな妹たちなんでしょう?真っ暗な胃袋の中に小さい子が一人で入っていくのは勇気がいるわ。だから、貴方最初に行って待ってればいい。そしたら妹たちも怖くないでしょ」

  「ひい‥‥!」

  「お前の細い首から残らず血を啜ってあげる。お前の甘そうな頭の髄をきれいに穿って舐めつくしてあげる。腹ワタはゆっくり噛んで飲み干すの。お前の生きてきた証を、時間を、存分に味わってあげる。

  ああ、そうか。頭の髄と血を飲み干すのは後にしないと。だから最初はお前の細い足からだね。最初に頭の血を啜ってしまったら、あなた死んじゃうもの。お前に美味しいと言ってあげないとだめだから。ね。すごく痛いだろうけど、我慢して。自分がどんな味だったか、聞いてから死にたいでしょ」

  べろりと舌なめずりをする湿った音が洞窟に響く。狐は目を剥いて叫んだ。

  「いやああああ!そんなのいやあああ!」

  「獲物を供えてくれるんでしょう?私が欲しいといえば。じゃああなた、最初の獲物になってよ」

  「いやだああ!いやだよう!お願いします!お赦しください!お赦しください!」

  早苗の尻尾の力が強くなり、狐は為す術も無くズルズルと引き寄せられていく。

  きゃんきゃんと必死に命乞いをする狐の様子にゾクゾクしたものを感じて、早苗は舌を出してしゅう、と楽しそうに息を吐いた。

  そしてついに狐が震えだしたのを見ると、早苗は急に尻尾を放す。

  「‥‥冗談よ」

  「あひっ」

  狐は前に踏ん張っていたので急に後ろに引かれる力がなくなり、前方にすっ飛んで岩にしたたかに頭をぶつけた。

  贄を差し出すと言う割には覚悟の足りていない台詞を吐く奴である。まあ、我が身が大事なのは当たり前だ。こちらの方がまともな反応なのだろう。野生動物として。

  ぷるぷると痛そうに頭を振っている狐を見下ろし、早苗は久しぶりに楽しかった、と狐に声を掛けた。返されたのは恨みがましいつぶらな瞳。

  対する金色の瞳はすうと細く形を変えると、黒い瞳を迎撃する。

  「なに?なにか言いたいことあるの?」

  「ほ、ほんとに、ほんとにミシャグジ様はお戯れがお好きで‥‥!」

  「あなたわたしの神使なんでしょ。こういうの付き合ってくれてもいいじゃない。勝手に閉じ込めておいてるんだから」

  「ですからそれは‥‥!」

  反論すべく狐が口を開こうとした時だった。

  ばしゃばしゃと近づいてくる足音が洞窟の入口から響く。

  「――――ああ、ミ、ミシャグジ様!」

  二匹が振り返った先には狸が居た。

  若いオスの狸。来るたびに「嫁が欲しい」とお願いをしてくる、どこか頼りない奴だ。

  「おお、お願いします!どうか、どうかお力をお貸しください!」

  「無礼よ!ミシャグジ様に馴れ馴れしく喋りかけるな!」

  早苗に必死に懇願する狸を、狐はいきなり叱りつけた。

  この狐娘、他の動物の前では厳格な神使として振舞っているらしい。ガラリと態度の変わった彼女を、早苗は片眉を上げて見下ろす。

  「も、もも申し訳ありません!ですが!一大事なんです!」

  「下がりなさい!軽々しく物を頼めるような立場と思っているの?」

  「‥‥いい。話してよ」

  許しを出した早苗を、狐は目を見開いて見つめる。狸は震えながら、ありがとうございますと繰り返した。

  「あの、あの黒い獣が出たのです!一匹、一匹!」

  「へえ?」

  「なんですって!」

  早苗の脳裏に、薄ぼんやりとあの沼の光景が浮かぶ。――――そうだそうだ。水に喰わせた、あのうざったいケモノ達だ。

  無表情で見下ろす早苗に、狸は必死に懇願した。

  「お願いします!助けてください!いままでのアイツらと違って、とても大きい!たった一匹ですが、妖怪の術を使い、片端から近づくものを――――!今、狼たちが奴と戦っていますが、とても歯が立ちそうにありません!すでに、半分が斃されました!どうか、お力をお貸しください!このままでは、森の皆が、あいつに殺されます!」

  一気に言い切った狸の台詞を追いかけるように、狼の遠吠えが聞こえてきた。

  早苗はなぜか聞き覚えのある声のような気がした。

  「お願いです!助けてください!」

  「別にいいじゃない」

  早苗の返事に、狐と狸は驚愕した。

  「皆んな死ねば、この結界は消える。私はここから出られる」

  「そんな!」

  狐が吠えた。向けてくるのは非難の目。

  狸は、伏せをして、懇願を続けていた。

  しばらく、黙っていた早苗だったが、ふと、何か思いついたように口の端をあげると、するりととぐろを解いて洞穴の入り口に近づく。そして手を伸ばしなおも這い蹲る狸の首根っこをつかんで持ち上げた。

  「ひ‥‥!な、何を!?」

  「おまえはマズそう」

  ガクガクと震えながら早苗を見つめてくる狸を吊り下げながら、低い声でしゅうと早苗は唸る。

  すう、と金色の目が細められた。

  ――――“覚悟”とやら、見せてもらおうじゃない。

  「おまえ、兄弟はいる?」

  「い、妹、と、弟が」

  「上等ね」

  「はい!?」

  「そうだ。妹をちょうだい」

  「ひ?」

  「わたしはお腹が空いてる‥‥あの黒いケモノはマズそう。おまえより。アイツらを斃してもわたしのお腹はふくれない」

  「‥‥!?」

  「‥‥ミシャグジ様」

  早苗の神使が、神妙な顔で見上げてくる。さすがに早苗が言わんとしていることが分かったらしい。

  「引き換え。私をこき使いたいなら、差し出すものがあるはず」

  狸は口から泡を吹かんばかりに恐怖に震えていた。

  彼は必死に考えていた。あの獣を放っておけば、森は全滅だ。今、彼が「返事」をしなければ、たぶん、間違いなく。

  しかし、そのときには、彼の大事な家族が、引き換えに居なくなる。

  恐ろしい蛇神を森の守護にする。それを決めたとき、森の皆で覚悟したことではないか?

  そうだ、決めたことなのだ!

  しかし――――しかししかししかし!

  まさか、その贄が、自分の兄妹だなんて!

  狸は、目を白黒させてうろたえることしかできない。

  おどおど逡巡する彼の態度に業を煮やし、ついに早苗の怒りが爆発した。

  「早く言え!出すのか?出さんのか!?おのれら、都合の良いことばかりいっておいて、わたしを奴隷か何かと思っているんだろう!」

  「ひいい!」

  「そんな!そんなこと!わたしたちは、ミシャグジ様を本当に‥‥!」

  「やかましいわ女狐!こいつが贄を出せないならお前が贄になれ!」

  「――――!」

  「さもなければ、あのケモノの代わりにわたしがこの森、皆殺しにしてくれる!」

  ズドン、と早苗が尾を洞窟の壁に叩きつける。

  この洞穴に閉じ込められて数日、一歩も外にだしてもらえず、腫れ物に触るように扱われる日々。退屈で退屈で、憎い蛙を探しに行くこともできない。そして今の動物たちの煮え切らない態度。とうとう我慢の限界に達した早苗は、まるで祟り神のように暴れた。それは、早苗に憑いたミシャグジの意思そのものでもあり。

  「ひ‥‥」

  バラバラと崩れた岩のカケラが狸の頬をかすめる。早苗は萎縮して何も喋れなくなった狸を無造作に放り投げた。萎れた笹の葉の上に落ちた彼はコロコロと転がっていく。その脇を、早苗は無言でズルリと通り過ぎた。

  出口まで進み出た彼女は、風に揺れる湿気た紙垂を睨みつける。

  「"あんた"‥‥まさか出さないなんて言うつもりじゃないでしょうね?これから私はこいつらに願われたとおり、守り神としてこの森の奴らを助けに行くのよ」

  誰に言うでもなく、呟く。進み出る早苗に、衝撃は襲ってこなかった。

  久しぶりに嗅ぐ外の空気。早苗は得も言われぬ快感を覚え、牙をきらめかせて高らかに笑い出した。

  「あははははは!出れた出れた!」

  後ろで狐が息を飲む。

  このまま、こいつらを放っておいてあの蛙を捕まえに行きたい所だったが、早苗にはその前にやることがある。

  本当に、こいつらが自分を崇めているのか、只の口先だけの腰抜けなのか。あいつを喰らうのはそれを確かめてからでもいい。

  「ミ、ミシャグジ様!」

  「ケモノはわたしがやっつけてあげるよ。それが望みなんでしょう」

  稲光が空を駆ける。

  風が強くなり、空を木葉が舞う。

  上空では雲が渦を巻き、空が雲の切れ目から覗いている。

  「だから、帰ってくるまでに用意しておきなさい」

  「――――!」

  まばらな雨に髪を湿らせながら、蛇神は振り返らずに、命令する。

  「私に皆殺しにされたくないならね」

  神様は結界から出てしまった。恐ろしい蛇神様を縛ってくれるものは、なくなってしまった。

  狸が身体を震わせる。

  遠くから悲痛な狼の遠吠えが響いた。

  早苗はニヤリと笑うと、声のした方に向かい、身をくねらせて音もなく森の中を滑っていった。

  あとに残ったのはざわざわと風に揺れる森のざわめき。遠くでまた雷が鳴る。

  狐と狸は、無言でうつむき、震えていた。

  

  「‥‥逃げてください」

  「え?」

  「逃げるんです」

  静かに言うと、狐は狸にそっと鼻を寄せた。

  「決めました。私が、贄になります。貴方は今のうちに、妹さんにこの事を伝えて」

  「あんた‥‥」

  狐の優しく見下ろす目の中に、狸の青年は暗い暗い洞穴を見た。

  彼女は、穏やかな声色で話を続ける。

  「私は神使ですから。荒ぶる神様を鎮めるのも、神使や眷属の仕事だって、葛花の姉様が言ってた。それに、わたし、いままでだって何回あの方に殺されそうになったかわからないもん。きっと私はもう何度も死んでるんだ。だから、怖くない」

  「でも、あの蛇神様は‥‥オレの、妹を」

  「代わりに私でもいいって言ってた。だから」

  「そんな、こと、頼めるわけ、ない‥‥」

  「じゃあ、あなた、妹さんに贄になってって、言える?」

  「そ、れは」

  「いえる?」

  「う、うう、うあああ!」

  「でしょ?」

  あの、黒いケモノに皆殺しにされそうな森を助ける。そのために、自らの可愛い妹が贄になる。もし出せなければ、妹も含め森の生き物は神様によって皆殺しにされる。

  どちらに転んでも、どう運命が変わろうと妹は殺される。自分が身代わりになることは、すでに拒否されている。

  どうしようもない。それを、この狐の娘は自分が身代わりになると申し出た。

  それならば、妹は助かる。

  それならば、森の皆も助かる。

  それしかない?

  それしかない。

  それしか‥‥

  「聞いたぞ」

  突然の声に、二匹ははっと顔を上げる。

  洞窟の入口には、一匹の老いた狸がいた。

  身体のあちこちの毛は白く長く伸び、特に顔はどこから物を見ているのやら、毛が覆いかぶさり彼の瞳は全く見えない。

  「長老様‥‥!」

  狸の青年が、はっと息をのむ。

  この狸が、彼の一族の長老のようだ。

  老狸はブルリと身を震わせ、身体に付いた水を払うと、ゆっくり洞窟に入ってくる。そして、また最初の言葉を繰り返した。

  「聞いたぞ」

  「ちょ、長老様‥‥!まって、待ってください!」

  「あいつには、わしが伝える」

  「待ってください!あいつは、あいつは!」

  「決めたことだ」

  狸の青年が、その言葉に目を剥く。

  「あの、神様を喚んだときに、な」

  「そんな‥‥」

  分かっていたつもりだった。でも、『そんなこと』、そうそうあるとも思っていなかった。少なくとも、自分や妹が子を育て、死ぬまでは。しかし、『そんなこと』は起こってしまった。あっさり来てしまった。‥‥神様に、救いを求める日が。

  「それに、神使殿をおいそれと贄に出すわけにはいかん」

  「長老様、わたしは」

  「狐、もう、決めたことだ。素直に、求められたら差し出すと」

  「‥‥」

  風が洞窟の入口で渦を巻く。びょう、と恐ろしげな音が穴の中に響いた。

  「よいな」

  冷たく言うと、返事も聞かないまま老狸はくるりと背を向け、洞窟の出口へと戻っていく。狸の青年は、頭をうなだれて、ヒイヒイと泣いていた。

  「神使殿」

  「なんでしょうか」

  「宴を開く。申し訳ないがミシャグジ様の寝所を、整えておいてくれないか」

  「宴‥‥まだ戦いは終わっておりませんが」

  「負けると思うてか」

  「‥‥」

  「勝つ。蛇神様は間違いなく。『勝ってしまう』」

  「‥‥」

  「だからこそ、この森にお呼びした」

  「はい」

  「宴は、必ず開かれる」

  「‥‥はい」

  宴。それは、贄を神様に捧げる儀式のこと。

  無感情に答えた狐の目の前で、老狸はいきなり煙に包まれる。

  煙が晴れたとき、そこには蓑をまとい、編笠を被った腰の曲がった老人が立っていた。右手には杖。左手には通い徳利。

  「わしは、酒を買ってくるでな」

  そういうと、老人はひょこひょこと外へ向かって歩いていった。

  狸の泣き声が、吹き込んだ風に巻かれて、渦を巻く。

  狐は、ぼんやりと藪に消えていく狸の背中を見ていた。

  

  [newpage]

  

  ****************

  

  

  

  ――――無茶苦茶だ。

  牙を剥き、必死に威嚇を続けながら、若い狼は絶望していた。

  場面は、早苗が洞窟からでる少し前まで逆上る。

  霧雨の舞う、腐った血の匂いが立ち込める沼のほとりには、すでに何頭もの森の戦士たちが倒れ伏し、ピクリともせずにその身体を沼地の水に浸していた。

  あの蛇神が黒い獣達を屠った沼。森の奥へ逃げていった僅かな黒い獣達を掃討すべく、森の奥へと向かっていた動物達の目の前に現れたのは、巨大な彼らの頭領だった。

  今までも、黒い獣との小競り合いは何度かあった。彼らはそのたびに、何とか奴らを森の奥へ追い返していた。奴らは数が多いとはいえ身体も小さく、一匹一匹の力は弱い。正直余裕の戦いだった。

  しかし今回は違った。奴らの頭領は、今までの奴らからはあまりにかけ離れていた。

  頭領の姿は、巨大な熊。四足で立ち、見上げた頭の高さは彼ら狼より遥かに高く、木々の梢に届かんばかり。その腕は巨木のように太く、狼ならば片手で持ち上げてしまう。

  奴はその圧倒的な腕力と、妖怪じみた不思議な力で、立ち向かった者を次々と物言わぬ肉塊に変えた。

  接近すれば、巨体に見合わぬ素早さで太い腕を振るい、近づくものを殴り飛ばす。

  遠くから取り囲み、様子を伺えば体の毛を針にして飛ばしてくる。大きな声で吠えると、暴風が吹き荒れてまるで木葉のように取り囲んだものを空に巻き上げる。

  そうして態勢の崩れた彼らに取り巻きの獣達が群がり、少しずつ倒していくのだ。

  動物達はあまりの光景に我先にと逃げ惑い、あっという間にこの沼まで押し戻された。

  熊、イノシシ、狼、鷹。森に住むものでも指折りの戦士たちが、次々と挑みかかっては殺された。

  周りを見渡す。残ったのは狼だけが10頭ほど。

  「あの狸は!伝令はちゃんとミシャグジ様のとこまで行ったんだろうな!」

  「知らないわよ!途中で逃げ出したんじゃないの!」

  「ああ、遅い!あいつ、次に見っけたら絶対食ってやる!」

  「次があればね!」

  「竹林の、竹林の影狼姐を呼ぼう!」

  「もう遅いわ。あの竹林は遠い。呼びに行ってる間に、森のみんなが殺される。鳥に頼もうにも、鷹はみんな殺されたもの!」

  叫ぶ雄狼達に、片目を潰されて血の涙を流す白狼の雌が応えた。

  化け熊は、生臭い息を吐きながら彼らの方に少しずつ近づいてくる。

  追い詰められ、弱った彼らはジリジリと後退するしか無い。下がる彼らの足元、湿地の水が少しずつ深さを増す。正真正銘の、背水の陣だった。

  化け熊が、吠える。

  「――――!」

  大きく振り下ろされた腕は目にも留まらぬ速さで彼らを襲う。さらに湖の方へ後退する彼らだったが、足場の悪さが仇となり、一匹の狼が捕まった。

  そのまま、化け熊は見せびらかすかのようにその狼を高く掲げ、両手で絞め殺しにかかる。

  化け熊の両手がふさがったこの状況は、反撃を仕掛けるには絶好のタイミングだ。――普通の地面の上ならば。

  すでに腹が水に浸かるくらいの場所まで来てしまっていた彼らは、思うように動けない。血の泡を吹いて痙攣する仲間を、彼らは黙ってみているしかなかった。

  「‥‥‥」

  無言で、化け熊はひしゃげた狼の身体を放り投げる。仲間は9頭になった。

  「呪ってやる」

  先頭の、狼が唸る。

  化け熊は答えない。獣のなりをしているくせに、獣の言葉もしゃべれない奴だ。

  「呪ってやる。絶対に呪ってやる。ここで俺らが殺されて腐った身体になれば、蝿となってお前にまとわりついて、その身体に蛆を産みつけてやる。骨になって醜く風にさらされれば、悪臭になってお前の鼻を奪ってやる。

  殺してみろ。殺してみろ。この体物言わぬ姿になっても、絶対にお前を赦したりしない、絶対に!」

  狼が吠え終えるのを待っていたように、化け熊はぐるる、と唸ると、また腕を振り回す。その手の中には、あの片目を潰された雌狼が捕まっていた。一匹づつ嬲り殺すつもりのようだ。

  「かぁ‥‥っ!」

  化け熊の巨大な手に力が込められ、雌狼の身体が細かく震えだす。

  狼たちは必死に耳をふせないように、心を折られそうになりながら、仲間の最期を見ていた。

  その時だった。

  「ォォォォォォォォォォオオオオオオオオ!」

  「!?」

  突然、彼らとは別の狼の遠吠えが響いた。――――天空から。

  化け熊も、狼たちも、一斉に空を見上げる。

  鉛色の雲が一面に広がる空に、一筋、銀色のきらめき。

  「ガアッ!」

  「!」

  銀のきらめきは一直線に化け熊に向かって落下し、盛大な水しぶきを上げる。

  水煙に隠れる寸前、化け熊が雌狼を放り出して後ろへ飛びずさるのが見えた。

  何が起こったか分からず、先頭に立つ狼は水しぶきを振り払いながら、必死にあたりの様子を探る。視界の端、仲間が水に墜落し溺れそうになる雌狼の首をくわえ、顔を水から引っ張り上げていた。

  水からあげられた彼女は、苦しそうに何度か咳き込んだ。

  ――――よかった、まだ生きていた。

  「酷い事を‥‥」

  安堵した彼の耳に、怒りを孕んだ声が聞こえてきた。――――人間の言葉?いや、狼の声だ。

  水煙の収まった湿地に、二本の足で立つ影が浮かぶ。

  ――――影狼姐?

  竹林に住むという、人狼。会ったことはなかったが、ヒトと狼の間に居る、優しい妖獣のその話は、彼や森の動物達の間にも“変な狼”の噂として広まっていた。彼女はあんまりケンカをしないという話だったが、この状況ではどんな助けだって期待せずにはいられない。

  一瞬彼は、その影が彼女であると思い、尻尾の毛を膨らませた。しかし彼の目に入ってきたのは、予想していたのとは別の姿。

  白と、黒と、朱。影と声は人間なれど、その体には銀の耳と尻尾。

  巨大な、牙のような銀色の塊――――人間の使う道具。"カタナ"だ――――を前腕に持ち、唸り声を上げている。

  「この戦い、私が預かる!」

  突然、そいつは狼の言葉で喋り始めた。

  「傷の軽い者は重いものをかばって後退しろ!あの化け熊は私が相手をする!」

  ――――あれは、白狼天狗だ!

  狼たちは困惑していた。

  彼らは狼でありながら、長い時を生き、人の姿と妖術を手に入れた存在だ。

  普段、奴らは山に住み、そして人間のように振る舞い、滅多にこんなところまで降りては来ない。それに、動物達のいざこざに口をはさむこともほとんどない。狼でありながら、ある意味人間である、遠い存在。そんな奴が、なぜ、こんなところに――――

  「うおおおおおおお!」

  狼たちに有無も言わせず、突然現れた白い人狼は巨大なカタナを振りかぶると、化け熊に向かって突撃を掛ける。

  毛むくじゃらの腕が振るわれる。爪とカタナがぶつかり、甲高い金属音を立てた。

  

  

  [newpage]

  

  *****************

  

  

  

  ――――早苗を探していた椛が見つけたのは、巨大な熊だった。

  

  今日は朝から、妖怪の山の裾に広がる樹海の上で、まばらな雨をかいくぐりながら、椛は早苗を探していた。

  彼女があの白蛇の早苗の戦いを見てから、すでに5日。彼女の消息は、河城にとりがあの淵で遭遇したという情報以降、ぱったりと途絶えた。

  自分の目と鼻で、すぐに見つけられると思っていたが、実際はそうそう簡単なことではなかった。姿はおろか、匂いや気配さえ掴めない。八坂様の力を持ってさえ無理だった。早苗は本当に姿を消した。

  捜索範囲を広げ、人里近くまで行った。地下に潜ってしまったかと、入り口に網を張る土蜘蛛に聞き込みもした。不本意ながらも、烏天狗の情報網を使おうと、滅多に足を運ばない烏天狗の新聞スタンドに出向き、新聞を買い込んだ。しかし、手がかりは見つからなかった。次も買っていって!契約して!と両腕にまとわりつく烏天狗の娘たちを振り払うのにえらい苦労をしたものだ。

  あの射命丸と姫海棠の2名も、あれから全く行方をくらましてしまい、尋問をすることもできない。

  ここまでして早苗を気にかけるのは、単にお山の顔見知りであるというだけではない。自分が早苗の異変を射命丸と姫海棠に漏らし、事態を混乱させたという自責の念があるためだ。諏訪子に散々に責められた事は、神奈子から慰められ、お前は別に悪くない、大丈夫、と許しの言葉をもらった。しかし、許しをもらったことと責任を感じることは別だった。彼女は彼女なりの責任を感じて、早苗探しを黙々と続けていた。

  そうして、守矢神社に寝泊まりしながら早苗の捜索を続けて5日目。どんよりと立ち込める雨雲をくぐり、彼女を探していた椛は、異様な妖気を感じた。

  方角は、早苗が戦っていた沼の方角。もしや!と椛はそちらへ進路を変え、千里眼で目的地の様子を伺った。

  ‥‥そこに見えたのは地獄絵図。赤い目を光らせた、巨大な黒い化け熊が、次々と挑みかかる森の動物を潰している光景。

  彼の姿形は、5日前に早苗が戦っていた妖獣共と同じ雰囲気だった。違うのは大きさとその妖気。

  その体は木々の梢の間から背中が見えるほど大きく、その身にまとう妖気はすでに妖怪のレベル。

  呆然と彼女が見つめる先で、熊が、鷹が、狼が、次々と斃されていく。これはもう動物達の喧嘩というレベルではない。只の動物の喧嘩なら天狗が手出しをすることもない。しかし、目の前の光景はそれを逸していた。これは妖怪による只の虐殺だ!しかも、虐げられている動物達の中には、椛の同族もいる。見て見ぬ振りなど、できない!

  ――――早苗さん、ごめん!

  心のなかで早苗に頭をさげると、椛はさらにスピードを上げて沼へと飛んだ。まだ距離は離れている。今の椛のスピードなら、すぐに辿りつけるだろう。しかしその僅かな時間が、とても長く感じる。早く、早く!だが、化け熊は椛の焦りをあざ笑うかのように、その僅かな時間のうちに次から次へと動物達を潰していった。

  そして、必死に速度を上げる椛の視界の中で、若い狼が化け熊に潰されたとき、彼女の理性は飛んだのだった。

  [newpage]

  

  **************

  

  

  

  八坂神奈子は憂鬱だった。

  何もかもがもどかしい。

  早苗はあれから、とんと行方がつかめない。

  秋姉妹の家で早苗の戦いを見守った日から、早苗は神奈子の力を一度も喚んでいない。彼女に向かう霊力の流れが読めず、彼女を見つけることができないのだ。彼女の気配も、現人神のものから変質でもしたのか、掴むことができなかった。これは早苗が結界に封じられていて、気配が隠されていたせいもあるが、さすがにこれは神奈子が知るところではなかった。

  諏訪子も地に潜ったかどこへ行ったのか、こちらも全く行方がつかめない。

  湖にそびえる御柱の林の上。あぐらをかきながら見渡す視界は一面灰色だ。ねずみ色の雨雲は下界を覆い尽くし、この場所からはその下の様子を伺うことはできない。

  自ら動こうにも、諏訪子の罵倒と静葉の叱咤が耳から離れない。

  椛はこの雲で千里眼が使えないので、雲を衝いて直接早苗の捜索に向かっている。

  静かな境内。寂しい風が風神様の背中を撫でる。

  「‥‥ごめんねえ‥‥ほんとにダメな母ちゃんでごめんねえ‥‥早苗‥‥」

  自分らしくもない。こんなに弱気になってるなんて。神奈子の口から、はは、と乾いた笑いがでる。

  そんな彼女の隣に、一人の少女が舞い降りた。カコラ、と下駄の音が響く。

  「ああ、もう!また一人で黄昏てる!もう意地張ってないで探しに行きましょうよ!八坂様は早苗の母さん役なんでしょ!」

  「簡単に言うけどさ‥‥」

  「簡単に言いますよ!?」

  赤と青の目が神奈子を責める。畏れ多くも神様に向かってぞんざいな口調で話しかけたのは唐傘付喪神少女、多々良小傘だ。

  彼女も昨日より、守矢神社に椛同様、「早苗捜索隊」として寝泊りをしている。

  早苗に吹っ飛ばされた後、小傘は小傘で早苗の行方を探していたのだが、その時点で早苗は洞穴にこもっていたため、やはり見つけられなかった。そこで何か手がかりはないかと、小傘は一度守矢神社を尋ねたのだ。そこで、神奈子と椛から早苗の状況を聞かされ、身を持ってミシャグジ化した早苗の恐ろしさを知っていた彼女も、守矢神社に合流して彼女を探すことに決めたのだった。

  ‥‥ちなみに、諏訪子が早苗に掛けた呪いによって、人間、いや、「現人神」にもどれる期限が一週間だということは、神社の者は誰も知らない。

  小傘は今早苗の普段着ているのと同じ意匠の巫女服を着ている。巫女役である風祝が居らず、参拝客の応対やおみくじづくりなどの社務所の仕事や境内の掃除が滞っていたため、今日は午前中、小傘はバイトとして守矢神社の巫女をしていたのだ。午後から彼女はまた早苗の捜索に戻る予定である。代わりにシフトに入るのはにとりだ。

  「妖怪は退治するもの」と神奈子は早苗に諭したそうだが、もともと妖怪から信仰を得ようと幻想郷に引越し、天狗の住処のど真ん中に居を構えた神社が、そんなことをしていたら集まる信仰も集まらぬ。どこかで「悪い」とか「人に害為す」とか、重要な単語が抜け落ちたのではないだろうか、早苗の頭から。

  随分とフランクに妖怪に向かって神職の手伝いをお願いする神奈子に、小傘は、そんなことをぼんやりと考えたものだった。

  即席巫女の小傘は傘を畳むと、神奈子の前に回って、顔を覗き込む。

  オッドアイに映ったのは、切なそうな八の字眉毛だった。

  「あたしはココの神様だよ。おいそれと神社を空けるわけにもいかないだろう」

  「しょっちゅう秋の神様達とお茶してる癖に」

  「う」

  「言っときますけど、山の妖怪はみぃんな知ってますからね。『お茶会』。天狗の新聞にも載ったし」

  「毎日じゃないよ」

  「うん、知ってます」

  「‥‥」

  「そのくらいで誰もとがめたりしませんて」

  小傘は神奈子の隣にしゃがみ込む。

  「早苗が神様になるための試練とか、親離れとか神様離れとか、聞かせてもらいましたけど。いろいろあるんでしょうけど、わたしは別にそんなこと気にしなくていいとおもいますよ」

  「そう?」

  「ええ。なんていうか、‥‥そうですね。わたしがまだ傘だった頃、とあるおウチの傘立てに転がってたことがありました」

  「?」

  「そこのお母さんが八坂様そっくりで」

  「姿が?」

  「なんもかもです。めちゃくちゃおっかないお母さんで。腕っ節強くって」

  「へえ」

  「でも影でこっそり子供にベッタベタで。怒るときはとことん怖くて子供木に吊るしちゃうような人なのに、子供寝かしつけて、寝静まったあとにわざわざもう一回隣まで行って、頭撫でてたり、夜なべで手袋、みたいなことはしょっちゅう。天狗に子どもが攫われそうになった時なんか鍬でメッタ打ちに」

  「‥‥なんと」

  「なんか、いいなぁ、っておもいました」

  腰の後ろで手を結んで、小傘は神奈子の顔を覗き込む。

  神奈子は何か考えているかのように、遠くを見ていた。

  「だから、八坂様もそんな風にしていいんじゃないかなぁ、と」

  「‥‥おまえは小悪魔か」

  「はいぃ?」

  目を真ん丸に開いて聞き返す小傘に、神奈子は苦笑しながら返す。

  「諏訪子と静葉に説教されたってのに。そんな話し聞かされたら自重したく無くなっちゃうでしょ」

  「‥‥ふっふっふ」

  「わたしはその鍬が天変地異レベルになっちゃうからね」

  「しょうがない神様ですね」

  「力を見せて畏れられなきゃならんからな」

  「‥‥じゃあ、その大げさな心配性は演技なんですか?」

  「いんや」

  あぐらを書いていた足をくずし、片膝を立てる。

  すう、と遠くを見つめる神奈子の目が細められた。

  「素さ」

  神奈子の気迫が一瞬のうちに膨れ上がる。

  身構える小傘を視界の端に置き、神奈子は人差し指を伸ばし、腕を振りかぶって視界を一閃。

  次の瞬間、下界に厚くたれこめていた雨雲が、渦を巻いてばらけ始めた。

  森の木々が、風に揺らされるのが見える。

  「神様はいつだって大げさなんだよ」

  「すごい‥‥」

  息を飲む小傘。神奈子はひらけた視界の先に広がる森を睨みつける。

  意識を集中し、視界のなかをくまなく走査するように、範囲を決めながらすこしずつ遠くの気配を探る。

  ここ数日、神奈子はずっとこうやって早苗を探していた。動けないなりに彼女も何とかして早苗を探そうとしていたのだ。心配そうに見つめる小傘を横目に、神奈子は意識を集中し続ける。

  そしていくらも経っていない次の瞬間、神奈子はおどろいた顔をして、ほう、と呟いた。

  「大げさで‥‥そんでもって奇跡を喚ぶもんさ」

  「え!?」

  「いた!見えるか?雲の切れ目、私の指のまっすぐ先、‥‥そう、沼が見えるだろう。あの近くからミシャグジの気配がする!」

  「沼、沼‥‥あれ、あれですか?あの里に近い」

  人間ならば双眼鏡が欲しい距離だが、神と妖怪は人間よりはちょっと視力が良かった。ケシ粒のように小さく見える沼を、二人は凝視する。

  「そう!その近くから気配がする。諏訪子の使役してるのとはちょっと雰囲気が違うからきっと早苗だ!だけどなんてこった、ちょっと違うってもまるきりミシャグジの匂いじゃないか。うひゃあ、強そ。諏訪子が欲しがるわけだわ。‥‥あれ、あの向こうのは‥‥あの妖獣か?」

  二人の視界の先、沼近くの森の中では早苗が丁度、あの化け熊と戦うべく、洞穴から出てきた所だった。そのせいで気配が一気に大きくなったのだ。その瞬間を、神奈子はつかめたのである。

  神奈子はその早苗の気配と同時に、あの化け熊の気配も感じ取った。

  先日、早苗と戦ったあの妖獣達と似た気配だが、妖気の強さがぜんぜん違う。

  神奈子の胸に、嫌な予感が広がる。

  「早苗、お前、もしかしてまた‥‥ああもう!」

  「早苗さん見つかったなら、すぐ、すぐ、椛さんに知らせなきゃ‥‥あ、けどどうやって」

  きっと早苗はまたアイツらと戦う気なのだ。

  ‥‥勝敗に関しては心配していない。さっき感じた早苗の今の霊力ならば、負けないだろう。

  心配しているのは、その戦いでさらにミシャグジ化が進まないかということ。

  小傘にはあの禍々しい妖気は感じ取れていない。神奈子とは別の心配をして、パタパタと焦っている。

  「‥‥小傘は飛ぶのは速いか?」

  「え?いいえ?‥‥落ちるのと飛ばされるのは得意ですけど。不本意ながら」

  「よし」

  神奈子は背中に御柱を喚ぶ。いつも弾幕勝負の時に背中に生やしている、小さめのもの。

  それを使わずに背中から外す。

  「ちょっと動くなよ」

  「はい?」

  言うが早いか、神奈子は外したソレを巫女服姿の小傘の背中に二本、背負うように縦に二本そろえて据え付けると、細いしめ縄でしっかりとたすき掛けをして固定した。

  小傘は傘を握り締め、おどおどとされるがままだ。

  「あ、あの、神奈子様、何を?」

  『打ち上げ一分前』

  「!?」

  突然背中に巻き付けられた御柱から女性の声が響いた。それを聞き、よしと頷くと神奈子は音もなく姿を消す。ちょっと!?と慌てた小傘だったが、声を上げる前に再び目の前に神奈子が現れたので彼女は後ろにひっくり返りそうになった。

  お前もこうやって連れていけりゃいいんだが、と呟くと、神奈子は風呂敷包みと、小さな棒をを小傘に手渡した。

  「早苗捜索隊、小傘隊員に任務を伝える」

  「は、はい!」

  「今から椛と合流し、早苗の現況と現在地を伝えよ。この御柱は自動で椛を追尾してくれるから、お前はただこいつに運んでもらえば良い。私も用事を済ましたら、あとから追いかける」

  「わ、わかりましたけど、この御柱は何ですかぁ?打ち上げって、運ぶって何です?私、ここここれから何されるんですかぁ?」

  『打ち上げ30秒前』

  「ねえ!ちょっとぉ!?」

  「その風呂敷包みは落とさないでね。私の加護がかかってるから、ちょっとやそっとじゃ潰れない風呂敷包みにしてあるけど、落としたら意味ないからね」

  「だから、あのっ」

  「そのミニ御柱に話しかけりゃ、わたしと話しできるから。連絡はソレでね」

  『20秒前』

  淡々と進むカウントダウン。道具の妖怪である小傘は、なんとなくこの二本の御柱が何をするものなのか分かった。

  外の世界の道具の中でも、最高に派手で、最高に疾くて、最高にチヤホヤされて、でも最高に短命な、彼らだ。

  「あ、あはは、なんか、もう、予想が付いちゃった気がするけど、八坂様ー?これがなにかだけでも教えてくださるとわちきとっても嬉しいかなぁ、なんて思ったりして」

  『7、6、5‥‥』

  淡々とカウントダウンが進む中、乾いた笑いをしながら、小傘は離れていく神奈子に問いかける。

  「あ、それ、ロケットブースター。追尾機能付き。目標椛。傘を風よけにお使いな、速いよ」

  ‥‥それは『みさいる』と言うんじゃないですか?

  ビシッ!と敬礼する神奈子へ突っ込む猶予は小傘に与えられなかった。

  「それ『ゼロ』うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぁぁぁぁぁ‥‥」

  ――――多目的付喪神「こがさ」を搭載したオンバシラ拾伍号機は、午後1時03分、諏訪湖宇宙センターより打ち上げられました。

  なにか、理知的なお姉さんの声が聞こえてきそうな、見事な打ち上げ。

  「ぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁっぁっぁぁぁ‥‥‥」

  「‥‥よし」

  白い煙を一筋引きながら、化け傘をノーズコーンがわりに必死に構え、小傘は一直線に青い空へ消えていった。

  それを見送ると、神奈子は御柱の上にまたあぐらをかいて座る。

  「さあて、ミシャグジの専門家は、どこでゲロゲロ鳴いてんのかなぁ‥‥」

  神奈子の言う用事とは、諏訪子の捜索だった。早苗の気配を感じる限り、早々に元に戻してあげないとマズそうだ。探さなければいけないのは早苗だけではない。彼女を元の姿に戻すためにはあの祟り神が必要なのだから。

  神奈子はまた、御柱の上で捜索を始める。早苗の気配を気にしながら。

  根拠はないが、今日は上手く諏訪子を見つけられる気がした。

  

  [newpage]

  

  *****************

  

  

  

  「うあああああああああ!」

  狼達が木々の影から見守る中、椛と頭領の化け熊との戦いは続いていた。

  思いの外長引いている戦いに、椛は心の中で舌打ちをする。

  相手の巨大な身体は予想以上の速さで動き、硬い毛皮と筋肉は弾幕を跳ね返し、鉄のような爪は椛の大剣と互角に渡り合う。妖気を操り風を喚び、体の毛を針にして飛ばしてくる。

  ――――どこの大怪獣だ!お前は!

  化け熊の攻撃を必死に掻い潜る椛の脳裏に、生まれは蝦夷だという同僚が教えてくれたアイヌの昔話がよぎる。

  その体は大きく重く、硬い泥の鎧を纏って弓矢を跳ね返し、吐く息は木々を枯らし、怪力を振るって大地を割る、恐ろしい怪物熊の話。

  勇敢なアイヌの青年は、白樺の樹の精の助けを受けながら、魔を払うヨモギの矢で立ち向かうのだ――――

  「うおおおお!」

  ヨモギの矢の代わりに椛は剣に天狗の神通力を込め、思い切り振り下ろす。

  揺らめく銀の筋は風を切り裂き、傷を付け、不可視の牙となって相手を襲う。

  相手はその巨体をまるで兎のように軽々と、気色の悪い速さで揺り動かし、その風の牙を躱す。

  ――――避けられた。しかし一度だけでは済まさない。二度、三度、四度、椛は跳び、踏み込み、風に傷を付ける。

  相手もさる者、二度、三度、牙を避ける。しかし四度目、牙は相手に喰らいつく。真っ黒な毛が飛び散り、化け熊は苛々と唸った。それだけだった。

  椛は攻撃の手を緩めず、さらに踏み込み、剣を打ち付ける。

  視界の端に、物言わぬひしゃげた狼の死体が映り込む。

  彼女の頭に、血が上る。

  「酷い事を!酷い事を!お前はそれで楽しいか!こんなことをして楽しいのか!」

  「ガアッ!」

  牙を剥き、怒りをこめて、椛は目にも留まらぬ速さで剣を振るう。化け熊はその硬い爪で、尽く椛の剣を受け止める。

  舌を撃つ椛の目の前で、化け熊は口を半開きにすると、生臭い息を吐いた。

  ――――こいつ!笑ってる!

  次の瞬間、化け熊は顔面の毛を逆立たせると、その毛を針にして撃ち出してきた!

  「!?」

  椛は強風を喚び、針の軌道を曲げ、残りを左腕の盾で防ぐ。小石が無数に打ち付けられるような、硬い音が盾から響く。

  空中で静止してしまった椛を化け熊は見逃さなかった。その巨大な腕を後ろに引くと、自分の体重も合わせて一直線に椛に向かって打ち込んだ!

  どかん!

  大音響が沼に響き渡る。

  「!!!!」

  何とかその掌を盾で受け止めた椛。しかし、体躯も重量も大きく勝る化け熊の強烈なストレートパンチを受け、椛は沼に石ころのように撃ち込まれる。

  背中から浅い角度で沼に撃ち込まれた彼女は二度、三度と水面で跳ねたが、水没する前に何とか態勢を立て直し、上空へと上がる。

  距離を離していく彼女に、化け熊はさらに毛針を放つ。椛は必死にそれを切り払い、躱し、ひしゃげてしまった盾で防ぐ。

  「ぐ!」

  水に叩きつけられた衝撃は思いの外彼女にダメージを与えていた。回避動作が鈍った椛の足首に、毛針が突き刺さる。

  ――――当たった。化け熊は椛の被弾を確認すると、またもあの不気味な笑みを浮かべる。

  椛は呪詛の言葉を吐き、すぐに毛針を抜き捨てると、なおも放たれ続ける毛針を避けながら水面まで降下。

  「う、お、お、お、おお、おおお!」

  腰だめに剣を構え、左の二の腕に盾を固定し、水の上を滑るように高速移動。化け熊の側面に回り込み、直角にコースを変えると一気に突っ込む。

  脇腹を狙われていることに感づいた化け熊はすぐに椛に向き直り、カウンターとばかりに大量の毛針を飛ばしてくる。椛は左肩の盾で毛針を跳ね飛ばしながら、急速に距離を縮める。

  熊の間合いが近づいてくる。巨大な腕が、正面から椛に向かう。

  「狗符『レイビーズ・バイト』!」

  「!」

  熊の眼前で、椛は弾幕の牙を開く。自らの数倍もある、巨大な、狂った狼の牙を。

  怯み、思わず立ち上がった化け熊の隙を、椛は見逃さない。

  「うらああああ!」

  風を纏わせた剣を突き出す。大剣は銀色の牙となり、まっすぐに熊の腹へと突き進み――――

  ぎぃん!

  「!?」

  椛は目の前の光景が信じられなかった。

  風を纏った大剣は、熊の柔らかな腹に突き刺さり、その身の中で風の牙を撒き散らして臓物を切り裂く、はずだった。

  ‥‥今、椛の目の前で、大剣は熊の腹に突き刺さることもなく、半ばから折れていた。

  「‥‥あ」

  ――――泥の鎧は弓矢を跳ね返し――――

  「あ、あああ、あああ」

  上を見ることができない。相手を見ることができない。すぐに離れなくてはいけないのに、足が動かない。

  ――――吐く息は木々を枯らし――――

  「ぐる」

  「‥‥!」

  静かな唸り声に、思わず椛は上を見上げる。

  ――――怪力を振るって大地を割る――――

  見つめ合った化け熊の赤い目が、細く歪む。

  椛は無言のまま、熊の巨大な掌で押しつぶされた。

  「う‥‥」

  地面に半ば埋められた椛を、化け熊は土ごと握り、摘まみ上げる。

  椛はさっき見た狼のように、両手で握り絞められ、空に向かって掲げられた。

  少しずつ、椛を握る手に力が籠る。彼女の脳裏に、ひしゃげた狼達の死体が浮かぶ。私も、同じに――――!

  「ぐ、あああ、ああ!」

  赤い目が、細く歪んだ。

  椛の肋骨が、小さな悲鳴をあげる。

  ‥‥ヨモギの矢は、無い。

  

  

  

  

  

  

  

  

  「あはははははははははははははは!」

  「!?」

  「え‥‥」

  突如天空から高笑いが響く。

  化け熊に掴まれたまま、うつろな目で椛は空を見上げる。

  厚く立ち込めていた雲が、渦を巻いている。

  その中央、切れた雲から差す、太陽の光に照らされて、真珠色にきらめく、銀の髪に、真っ白な尻尾――――

  「あなた?森を皆殺しにしようとか言ってるの」

  しゅう、と獣の声が響く。蛇の楽しげな声が。

  椛の耳が、小さく動く。言葉さえ蛇の物だが、あの声色は!

  「ダメよ」

  風が渦を巻く。

  「さ、さなえさ――――」

  「わたしがヤレなくなるから」

  

  

  ぼごむ。

  

  

  

  「――――――!」

  「ふふん」

  楽しげな声と共に沼が爆発した。

  あろうことか、乱暴な蛇神は、沼に居るものを纏めて爆風で吹き飛ばしたのだ。

  狼達が散り散りになって森の中を転がっていく。あの化け熊でさえ、強烈な風圧で後ろにひっくり返された。

  椛も同じように吹き飛ばされたが、そのお陰で化け熊の手から逃れられた。

  ――――無茶苦茶だよぅ、早苗さーん‥‥

  やっと見つけた。木葉のように宙を舞いながら、椛はヤケクソ気味に笑う。

  久しぶりに会う早苗の姿は、にとりの話通り人間だったとは思えないほどおぞましく変わり果てていた。

  しかし、牙と白銀の鱗をきらめかせ、銀色の尻尾と白い髪を風になびかせながら高らかに笑う「早苗様」の姿はなんだかとても頼もしくて。絶体絶命のあの瞬間、雲の切れ目から差し込む太陽に照らされて真っ白に輝く早苗の姿は、間違いなく神様に見えた。もしくは、昔話の、白樺の樹の精かも‥‥

  

  「はん、何時までもひっくり返って汚い股座見せてないで、さっさと掛かって来たら?何?見せびらかして。もがれたいの?潰されたいの?んな粗末なもん、触りたくもないんだけど、ワタシ」

  「‥‥‥」

  今の聞いたら神奈子様泣いちゃうよ‥‥

  

  椛の幻想をぶち壊したのは他でもない早苗自身で。

  シャー、と化け熊を挑発する、とっても「さでずむ」な台詞。早く連れ帰って元に戻してあげなきゃと決意を新たにしつつ、椛は頭から沼に落ちたのだった。

  

  

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