それは武士が世を治めた時代のいつ頃か。
そんな中にも市井を生きる人達はいる。
そして人は集い町を作る。
楠葉もまたいつの頃からかその町の外れで医者として暮らしていた。
その仕事は決して楽ではなくそもそもこの頃女性の医者と言う存在は稀であった。
それでも彼女は少なからずの心ある人達の信頼を集め、人々にも支えられながら穏やかな日々を送っていた。
しかし、人々は知らない。
この優しき町医者のもう一つの顔。
医療用具よりも重いものはそうそう持て無さそうなたおやかな姿に宿る荒ぶる「存在」を。
その夜も楠葉は診療を終え、一人町外れの家に戻ろうとしていた。
世話役の一人も置かず一人で医者の仕事と自身の暮らしを立てていると言うのは余りにも不自然とも言えるが、この多くの人達から慕われる医者はあえてその身を一人この町外れに置いている。
他に灯り一つない夜闇の中、手にした提灯を手に楠葉が草履越しに土を踏む音だけが響く。
あとはただカタカタと道具入れの鳴る音が聞こえるのみ。
明るい橙色の着物を白衣に隠し、青がかった黒髪と瞳をかすかな灯りに浮かび上がらせながら楠葉は歩いていた。
そんな時、楠葉の足が不意に止まる。
カサカサと草むらが揺れ、何者かの気配が近づく。
「誰なの……?」
楠葉は息をのみ、静かにその音の先に提灯を伸ばす。
そこから現れたのはー。
[newpage]
「……よし、これで大丈夫。けがも大した事なくてよかった」
近くに立つ小さなお堂のある木の根元。
暗がりの中、提灯の明かりだけを頼りに軽い手当てを終えて楠葉は安堵の笑みを浮かべた。
その目に映っていたのは小動物。この辺りにごく普通に暮らしている獣ーに見える。
多少の傷を受け怯えていた感じはあったが、楠葉の手当てもあり多少は落ち着きを取り戻したらしい。
一見基本は無害そうに見えるがそれは人の世界とはまた異なる世界に生きる獣。
人と妖の世界があいまいなこの時代においてこうして妖の世界の獣が迷い込むのはあながち異例ではない。
しかし、楠葉はそんな事自体にはほとんど意識する事なくそっと獣の身体をなでている。
彼女にとっては例え相手が妖の獣でも対して恐れは感じていないようだ。
それ自体は人の世界のものも妖の世界のものも「命あるもの」として接しているかのように。
それは彼女の持つー。
「誰ですか?」
さっきまでの優しげなものとは比べられない程厳しい声と共に楠葉は不意に現れた気配に言葉を向ける。
ざわざわと辺りの気がよどめき、邪気、妖気と言えるものが満ちてくる。
妖のもの―楠葉が手当てした獣と同じ、いや、比べられない程禍々しい気を感じる。
人も妖もそれ自体が悪意のものではない事は彼女も良くわかっている。
だからこそ妖のもの―この場合邪妖か―の持つ気配が強く感じられる。
今そばにいる妖の獣は邪妖共に追い立てられて傷ついたものらしい。
怯える獣、そしてそれを視界に収めにやけた姿を見せる邪妖達の姿があまりにもわかりやすく感じられる。
少なくともこの獣が邪妖共とつるんでいると言う事はない。楠葉はそう感じ取っていた。
だから。
「ちょっとだけここにいてね」
と提灯の灯を吹き消し、白衣を脱いで獣を軽く包むと道具箱と共にお堂の中にそっとしまう。
そして邪妖の群れと向き合う。
いかなる手練や戦慣れした一軍であってもおいそれとは勝てそうにない力と邪気を秘めた者達。
気丈だがたおやかな医師一人が向き合うにはあまりにも大きく理不尽過ぎる。
しかし―。
「理由はあえて聞きません。でもわたしの目の前であんな事をした以上―」
いつの間に手にしていたのか。
その「力」―目の前の者どもにとっての「理不尽」―の証を強く握り締めながら静かに、そして力強く唱える。
「―転身」
[newpage]
瞬間、楠葉が爆ぜた。
楠葉を中心に荒ぶる程の熱く激しい奔流が走ると邪妖共を押し流し楠葉の姿をその視界からかき消す。
その激しい渦の中心にうっすらと見えるのは一体の青い獣の影であった。
巌を思わせる様な体格をした獣の影。
そう見せるのはこの渦を生み出す荒ぶる力が見せる幻か、それともその力を示してもなおあり続ける心のせいか。
「ううぅ……ぐぅぅ……うるるぅぅぅぅ……」
渦からわずかに見える顔ー渦の中に浮かぶ異様な影とは不似合いな顔にも変化が伸びていく。
顔全体が鱗か毛皮のようなものに覆われながらかわいらしい口元から鋭い牙が伸び、獣の顎の様に伸びる。
小さめで形のいい耳が鋭い程に細長く伸びていく。
短めに整えられた青みがかった黒髪がまるでたてがみの様に伸びる。
「ぐあぁぁっ!」
荒ぶる雄たけびが放たれると同時にその頭から一対の角が伸びる。
尾こそ伸びてはいないがそれはまるで青き龍の様。
あるいは獣の様。
それが今の楠葉の顔だった。少なくとも見た目にはそう見える。
ただその瞳、龍の様な、獣の様な形となったその顔に浮かぶ瞳だけはあの穏やかな医師の心をそのまま伝えている。
「ぐぉぉぉ……ぐぅぅぅ……ううう……ふぅぅぅ……」
それを示す様に楠葉の声も少しずつ獣のうなり声からもとの澄んだ声をはらんだものへと変わりつつある。
そしてー。
「はぁっ!」
とびきり高い声とともに渦が弾ける。
その中に浮かぶ楠葉ーだった者の姿。
上半身を覆う青い胸鎧と腰を守る白い腰当。
腰の辺りには尾のような長い帯が伸びている。
両手足は龍を思わせる小手と脛あて・甲掛に守られている。
その間から見えていた鱗か毛皮の様な表皮も覆っていた丸太の様な手足が細くしなやかに整えられていく中で、鎖帷子の様に細かく編み込まれながら薄布の様にしなやかに整えられていく。
一対の角をたたえた長いたてがみを軽く振りながらむき出しになっていた龍の様な顔が縮んでいく。
細く、小さく、低く。平坦な形に整えられていくその顔はさながら面頬。
龍の顔をそのまま人の形に当てはめたような形をしている。
ツンと立った鼻の下で牙を向く口元。
荒々しい中にも知性と理性を保つ顔立ち。
そして―変異の間変わる事なく本来の彼女を留め続けた証である瞳。
人の形を借りて降りた龍かはたまた龍の具足をまとった人か。
いや―どちらでもない。
さまざまな因業を背負いつつも人と妖の間に立ち理を守る存在―隠忍。
その力と姿を宿した姿となった楠葉がそこにいた。
いや、今の彼女の名は―。
「碧流玖子(へきりゅうきゅうし)・参ります!」
手にした棍を櫓にして、その名のごとく碧き流れに乗った一人の隠忍が邪妖の群れに向かっていく。
[newpage]
「やあっ!」
一撃。
渾身の棍が邪妖に突き刺さる。
急所に受けたらしく邪妖はそのままかき消えていく。
それを確かめる間もなく碧流玖子は身をかがめながら棍を背中から薙ぎ払う様に回し、背後に迫っていた邪妖の足を絡めとる。
絡めとられて倒れこんだ邪妖を軸に棍を突き立てると碧流玖子はそのまま飛び上がり、手にした棍を軸にその身をひるがえす。
そこから着地するまでの間に腰から延びる帯が鞭のようにしなりながら邪妖を打ちのめしていく。
それにひるむ事無く別の邪妖が着地の隙を狙うように襲い掛かるが……。
「はぁっ!やあっ!たあっ!」
あえて棍を手にせずその細腕から繰り出す突き、細めの足からの蹴り。
そこからさらに突きを打ち込みその勢いで宙に舞うや腰の帯が今度は刃の様に叩き込まれる。
体格こそ元の楠葉に近いがそこから繰り出されるものははるかに重く鋭い。
激しき連打を受けた邪妖はそれに耐えきれず崩れ落ちながら消えていく。
それと入れ替わるようにさらなる邪妖がその体からトゲか針か、何かを飛ばしてくる。
「!」
それを辛くもかわす碧流玖子だが射出の勢いは早く、そうそうかわし切れるものではない。
邪妖のもとに飛び込むには速さと距離があと一歩足りない。
だからー。
「はぁっ!」
腰の帯を伸ばして棍をつかむとそのまま身をひねり勢いのまま引き抜く。
棍は勢いよく邪妖に伸び……その身を貫いた。
その直前に邪妖も何かを放っていたが碧流玖子は辛くもかわしていた。
「危なかった……」
無表情にも見える龍を模した面頬のごとき隠忍の顔、その中で楠葉は少し冷や汗をかいていた。
人間をはるかに上回る隠忍の姿と力で仕掛ければほぼ一撃で倒せる手合いではあるが油断などできない。
その爪や牙、トゲや針の一撃はうかつにかすめただけでも今の楠葉の医者としての腕に余る可能性は全く否定できないのだから。
だからこそ楠葉ー碧流玖子は返す刀ならぬ棍で別の邪妖を貫く。
そこから帯を戻し棍を手に取るとそのままの勢いで目の前に現れた邪妖目がけて逆手から振り上げるように体ごと叩き込みながら飛び上がる。勢いのまま宙に舞う姿、まさに飛龍の如し。
だが、そこに甲高い声が響く。
邪妖どもにくらべればはかなくも澄んだ、そして強い声。
「この声!?」
体が勝手に動いた。
その身を軽く翻し半ば無理やり高度を落とす。
直後ーついさっきまでいた彼女が宙にいたその場所を邪気に満ちた炎が吹き抜けていく。
それに貫かれ、巻き込まれていればいかに隠忍の肉体と言えど貫かれ、焼き尽くされていたかもしれないのだ。
危機を回避すればあとは反撃あるのみ。
「えいっ!」
とっさに棍を炎が吹いていた方向に投げつける。
棍が飛んでいった先で一瞬炎の塊のようなものが浮かび、そして消える。
そして声が聞こえた方にはその体をもうひと翻して帯を伸ばす。
声の主ーあの小さな妖の獣が匿われていたほんの手前に突き刺さったその帯は妖の獣に伸びていた邪妖の無情な一撃をすんでで防ぎきる。
そこに帯に引っ張られるような勢いで碧き龍の姿を模した隠忍が飛び込みー最後の邪妖を討った。
「無事で……よかった……」
全身で邪気が周辺から消えた事を感じ取りようやく一息ついた碧流玖子は獣が無事だった事に重ねて安堵の声を漏らす。
そして、辺りを見回しながら軽く瞳を閉じ、再び手にした力の証に力を込めー解き放つ。
[newpage]
一瞬、碧流玖子の周りの空気が再び爆ぜる。
周りの視界を遮る程の気の流れが彼女の周りを包んでいく。
「うっ、うぐっ、ぐううう……」
激しい渦の中からのぞく碧流玖子の顔、龍の顔を模した平坦な面の様な顔が少しずつ伸びていく。
それこそ本物の龍の様に。
気流の中でおぼろげに見えるその姿も再び龍の様な、獣の様な形へと変わっていく。
「ぐううぅ……ぐうぅ……ううう……」
その姿を荒々しく変えながらも碧流玖子は瞳を閉じ、顎を食いしばる様にこらえている。
時折開くその瞳に碧流玖子の―楠葉の強く確かな意思を灯しながら。
それに応える様にその顔立ちも変わっていく。
「ううぅ、うあぁ、あああ……」
伸びていた口元と牙がそこから漏れる声と共に静かに口元に収まっていく。
長く風になびいていたたてがみが短く整えられてゆき、一対の角も頭の中に収められていく。
顔を覆っていた鱗の様な、毛皮の様な物も消え、優しげな女性ー葛葉の素顔があらわになる。
「ふうぅっ……はぁぁぁっ……」
大きな呼吸に合わせる様に荒ぶる空気は吸い込まれる様に消える。
その中心にはー明るい橙色の着物を着た楠葉が何事もないかのように立っていた。
「ふうっ」
楠葉は改めて安堵の息をつき、周りを見回す。
周りには自分とあの小さな獣以外気配はない。
自分に寄り添う小さな生命をそっと抱き上げながら楠葉は改めて安堵に浸っていた。
「今夜はゆっくり休みましょう」
その声に獣は軽くうなずいた―ような気がした。
そして白衣と道具箱を手にし、獣を抱きかかえたまま楠葉は家路を急ぐ。
人と妖の間にありてその境を守る存在とも言える隠忍の一人・碧流玖子として。
そして微力なりとも生命を預かる医師として。
楠葉の日々はこれからも続くのである……。
了