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――どうせなら、透明人間にでもなれたら。
心地良かったはずの陽気も少し鬱陶しく感じるまでになった晩春の時節、木漏れ日のベンチで図書館から適当に見繕って借りた本を読む。特に引き込まれることもない小説だったが、そんなストーリーに似つかわしいありきたりなフレーズに、ぼくは文字を追う視線を止めた。
透明人間。確かにそこにいるのに誰からも見向きされない、透き通った存在。有りもしない幻想にさえ縋りたくなる気持ちはぼくにも分かる。奇しくもそんな幻想が、ぼくには現実として降りかかってきた訳だけど。
顔を上げ、右手に佇む校舎を見る。
きっかけは中学校三年生に上がった頃、ぼく宛に届いた一つの封筒だった。中身は、今まさにぼくの眼前に本校舎が聳える全寮制の高校――[[rb:世朱 > よあけ]]高校への推薦状。
理由の不明瞭な推薦に、当然戸惑いはあった。しかし同封されていた案内パンフレットを見れば、寮生活にかかる諸々の費用も合わせた上で、学費は一般的な公立高校とさして変わらない程度とのこと。
――ここに行けば、ぼくにかかるお金が少なくなる。
当時児童養護施設で暮らしていたぼくにとって、進学の決め手はその程度だった。今でもその判断は後悔していない。入学してみれば体罰や強制労働が蔓延っていた、なんてこともなく、ぼくは現にこうして平穏な高校生活を送れている。
再び本に目を落とす。この一瞬でどこまで読んだか忘れてしまった。順に文を追って、あの文字列が目に入る――透明人間。ああ、そうだ。この一節から意識が考えごとに向かったんだった。
今度は文字に目を滑らせながら、ぼくがこの世朱高校に来て最初の日に見た奇妙な夢を思い出す。誰の目にも映らない透明な存在、というぼくの願いを現実へと変えた、あの夢を。
その夢は、見知らぬ書斎に立っていることに気がつくところから始まった。たくさんの本棚がぐるりと外周を覆う、厭に静かで気味の悪い部屋だった。
「君が[[rb:文目 > あやめ]][[rb:結一 > ゆういち]]くんだね」
「…………」
その部屋でぼうっと立ち尽くすぼくに、何者かが話しかける。声が後ろからしているのは分かっているのに、金縛りに遭ったかのように身体が動かせない。教えた覚えもない名前を不躾に呼んできたその声に、ぼくは応えなかった。
「つれないなあ、君とは仲良くしたいんだけど」
「じゃあ顔ぐらい見せたらどうなの」
「おっと、それはできないんだ。ごめんね」
こっちがわざと悪態をついてみても、相手はおどけた様子で言い返してくる。こちらをどこか小馬鹿にするような口調に腹が立った。こんな態度を取られるくらいなら、悪態で返される方がまだマシだ。
ぼくは相手がまともにとりあうべき奴じゃないことを悟り、ため息交じりに問う。
「それで、要件は。こんなとこ長くいたくないんだけど」
「飲み込みが早いのは助かるけどさ。ちょっとくらいお話しさせてよ、結一く――」
「その名前で呼ばないで。アヤメでいい」
ぼくは相手が言い終わるのを待たず、言い慣れた言葉を口早に吐き捨てた。相手に悪気がないことは分かっている。だとしても、これは譲れなかった。
「そっか。悪かったね、アヤメくん」
「…………」
案外しおらしく素直に告げられた謝罪に、ちくりと胸が痛んだ。こんな小さな罪悪感にすらぼくの心は過剰に反応する。やはり人と話すのは嫌いだ。
「ま、君がどういう子かなんとなく分かったし。本題に入らせてもらうけど」
ぼくの背中にポンと手を当てながら、後ろの何者かは言う。さっきのおちゃらけた雰囲気からは一転した、真剣な口調だった。ぼくは息を呑む。急にこの空間の空気までもが張り詰めたような心地だった。
「君には、僕の言葉を聞いてほしいんだ。そして、それを忘れないで」
言われ、ぼくは小さく頷く。その動きは頷くというにはあまりに頼りなく、もはや俯いたと言った方が正確なくらいだった。それでもそれを了承と捉えた相手は、何某かの言葉を紡ぎ始めた。
「――言の葉は そのかげさへもかき消つやうに 隠れなばやと願はば歌へ 色を知れるは終のそのとき 誰がために散るうたかたの花」
「……なに、古文? どういう意味?」
「そのうち分かるよ。……そうだね。これが君にとっての……だから」
「は、ちょ――」
相手が言っている途中、急激に意識が混濁していくような感覚を覚える。そのせいで、何やら意味ありげな言葉を聞き逃してしまった。今の詩がぼくにとっての……なんだってんだ。
言いたいことも聞きたいことも山ほどあるのに、次第に立っていることすらままならなくなる。結局、どこで、誰に、何をされたのかも分からないまま――。
ぼくの夢は、そこで終わった。
「…………」
なんて、昔見た夢の追想に耽っているうちに、いつの間にか物語は終盤に差し掛かっていた。もはや読書というより字に視線を沿わせるだけの作業と化していたせいで、内容はほとんど頭に入っていない。
どうやら物語は、主人公がままならない現実にひどく憔悴する場面のようだ。きっと、それは左手の指に挟まれた残り数十頁で乗り越えられるものなんだろうと思い、ぼくは閉ざした本を脇に置いてふうと息を吐く。
本を閉じれば、思考はほんの少し前へと遡る。今思い出してみてもあれは妙な夢だった。そもそも、あの夢からもう一年以上経ってるのに内容を鮮明に覚えてるというのもおかしな話だ。普通、どんな夢を見たかなんてその日中にでも忘れてしまう。
特に、あの古い言葉の詩。あの夢を見た日、当時の担任からその正体を聞かされた。曰く、「内なる願いを叶える詩」――ここでは〝言の葉〟と呼ばれる――であり、潜在的にそれを扱う才能を持った人が集められるのが、この高校だと。
――言の葉は そのかげさへもかき消つやうに 隠れなばやと願はば歌へ 色を知れるは終のそのとき 誰がために散るうたかたの花
夢の中では「忘れないで」の言葉とともに伝えられたが、この〝言の葉〟とやらはぼくの脳にこびりついてしまったみたいに、忘れられそうにない。もっとも、忘れようとも思わないけれど。
内なる願いを叶える詩、の言葉通り、〝言の葉〟はぼくの願いを叶えた。詩の前半は、どうやら「その姿までもを消し去るように、世間から隠れてしまいたいと願うのならこの詩を歌え」というような意味らしい。だから、先の本の「透明人間」という言葉にいくらかシンパシーのようなものを感じたって訳だ。後半の内容はよく分かってない。なんとなく、分からなくていいとも思ってる。
別に、文字通り身体が透明になるなんてことはない。確かにぼくはここにいる。だけど、誰の目にも留まらない。そんな存在になれたのは、ぼくには心地よかった。
現に、昼休みには生徒が集まるこの中庭に並んだベンチも、ぼくが座ったところだけはぽっかりと空いていて誰も座ろうとしない。そもそもこのベンチごと、誰の目にも留まらない存在と化してるんだろう。こんな場所でも人目を気にせず読書ができるのはありがたかった。
「……もうこんな時間か」
そうこうしてる間にも昼休みの時間は残り少なくなっていた。昼休みのうちに本を返してしまおうと思い、本を手に取ったその時だった。木々の隙間から覗いていた木漏れ日が、すっと影に飲み込まれる。
何かと思い、正面に向き直る。見れば、その影を作った主が日差しを背に構えていた。その視線は心なしかこちらをじっと見据えている気がする。
「…………」
ぼくの目の前に立ったままの何者か――今時珍しく学生帽を目深に被った犬獣人――は、言葉を発することなくじっと立ち尽くしていた。帽子の陰に佇む色素の薄い目がぼくの視線と交わる。久方ぶりに味わった目が合うという感覚に身体がゾクリと震えた。
多分、目が合ったというのも気のせいだ。ぼくの姿なんて誰も気に留めない。きっとこいつは他の何かを見つめていて、たまたまその視線の上にぼくがいただけ。
ぼくは正面に陣取る厄介者から逃げるためにも、早いところベンチから立ち去ろうと、身体を横にずらした。
「あ、待って」
「な……っ」
それなのに、そいつの視線は確かにぼくを追い、あろうことかその手をぼくの肩に置いてきた。あまりの衝撃に身が固まってしまうぼくに対し、目の前の相手は容赦なく追撃を加える。
「やっぱり。本当にいる」
「は、おまえなんで……ッ!」
ぼくの肩に置かれた手は首筋を経て、流れるように頭頂部を撫でる。しばらく為されるままになっていたぼくは、ようやく手を振り払って抵抗した。
いったい何だってんだ。こいつ、なんでぼくのことが見えている。挙句、頭なんか撫でてきやがって。
「君、なんで透明なの?」
「はあ?」
「おれ、世界に色が付いて見えてんだ。なのに君のとこだけ、ぽっかり透明だったからさ」
目の前の相手は、自分の目元に人差し指を当てがいながらそう言った。
……本格的に訳が分からない。透明だってのは、ぼくの〝言の葉〟の影響だろう。だからこそ、ぼくの存在になんか気づかないはずだ。現に今まで、この学校で誰かから話しかけられることなんてなかった。
「ぼくの影が薄いってだけだろ。それでこの話は終わり。ぼく、もう行くから」
「ちょっと、待ってよ」
こんな変人、相手にするだけ無駄だ。ぼくは脇に置いていた本を手に取りながら適当な言葉で変質者をいなし、ベンチから足早に立ち去る。
「ねえ、絶対それだけじゃないって。影が薄い濃いとか、そういうレベルじゃないもん」
「…………」
「今までもこの学校にいたの? もしかして新入生? 名前はなんていうの?」
「…………」
「もー、無視しないでよ」
ぼくの前に現れた変質者は想像以上にしぶとく、いくら無視し続けてもぼくに付き纏ってきた。敵意や悪意の類は一切感じられないのがかえって不気味だった。
校舎に入って階段を上り、目的の図書室に近づいてもなおこいつのストーキングは続いている。
――図書室の中でもこの調子で話しかけられちゃ、たまったもんじゃない。
ぼくは廊下で足を止め、最低限の言葉だけを投げかける。
「……なんでぼくに付き纏うんだよ」
「綺麗だから」
「はあ……?」
返ってきたのは本当に突拍子もない答えだった。そのくせこいつの表情は厭に清々しく、おかしなことを言っている自覚が微塵もなさそうだ。
ぼくが綺麗、だって。ぼくのことを知らないからそんなことが言えるんだ。生憎、知ってもらう気もない。
「言っとくけど、ぼくはおまえが思うような奴じゃない。分かったらどっか行って」
「おれには綺麗に見えたんだもん。てゆーか、次は君の番でしょ」
「は?」
「おれが君の質問に答えたんだから、次は君が答える番」
「そんな約束した覚えない」
「細かいことはいーの。世の中ってそういうもんでしょ。交換条件、ってやつ」
変質者は、自ら持ち出した条件をさも常識かのように語る。こいつの言い分に文句は山ほどあるが、文句を言ったところでこいつは聞きやしないんだろうという予感もあった。
「……それが終わったら、もうぼくに構うなよ」
「ん、今日のところは」
最後に余計な言葉が付け足された気がするが、この際しょうがない。ひとまず今は、一刻も早くこの変質者から解放されたい。ぼくはため息混じりに口を開いた。
「それで、質問ってのは」
「さっき聞いたやつ。名前と、あと学年」
「……一つじゃないの」
「いいじゃん、軽い質問なんだから」
相手が口を動かす度に湧いてくる文句を、ぐっと喉の下に押し込める。なんだかんだ言うよりも、この場はさっさと答えてしまった方が早そうだ。
「……アヤメ。二年生」
「え、同学年⁉ なんで今まで見たことなかったんだろ」
「さあね。じゃ、さよなら」
「待って、アヤメ……って、アヤメ?」
もうおまえとの話は終わりだ、と伝えるためぼくはわざとらしく背を向ける。そんなぼくを呼び止めたかと思えば、変質者は何やらぼくの名前を反芻しだした。なんとなく、何を言われるかは分かってる。
「女の子みたいな名前……」
「名字だよ、名字。名前は違う」
「じゃ、名前は?」
「……教えない」
不意に、今しがた発した言葉と、さっき思い出したいつかの夢の記憶が重なる。ぼくは、自分の名前が好きじゃない。……嫌なことを、思い出させるから。
「そっか。またね、アヤメ」
「ああ。またはないけど」
ぼくは相手に背を向けたまま、がらりと図書室の扉を開く。部屋に足を踏み入れ、後ろ手で扉を閉めようとしたその時だった。
「トシキ!」
「…………」
「おれの名前。トシキっていうんだ」
「……そ」
聞いてもないのに、変質者はそう自分の名を伝えてくる。やけに爽やかな声色に、憎らしい笑顔が目に浮かんでくるようだった。
人と関わるなんて、御免だ。相手がぼくに興味を抱こうと、ぼくには関係ない。こいつと話すことだってもうないだろう。……だけど。
だけど、名前くらい、心の隅に留めておいてやってもいいか。
ぼくはこの学校で初めてぼくに声をかけてきた奇妙な存在――トシキを背に、ばたりと図書室の扉を閉めた。
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