灰色のむこうがわ 08 その一

  ヒトを初めて手にかけた。

  奇人で鈍臭くて、そのくせ優柔不断な男だ。どうして助けようなどと思ったのだろうか。初めて会ったあの日の自分に、今でも説明ができずにいる。

  『お前が無事でよかった、──』

  悪人かと言われればそうでもない。真っ当な世の中で生きていたなら、害のない善人だっただろう。いつの間にか生えてきて、[[rb:鬱陶 > うっとう]]しい雑草レベルが評価として[[rb:妥当 > だとう]]なところか。

  『……んだよ』

  だからというべきか、[[rb:戸惑 > とまど]]うことはなかった。邪魔な草を抜くように、ただ引き金を引く。それだけでよかった。

  迷う必要なんてない。長く苦しませることよりも、それを終わらせてしまうのが優しさだ。そう、本気で思っていた。

  『バカじゃねえの!? ふざけんな! お前に心配なんかされる俺じゃねぇんだよ!!!』

  今でもそれは間違っていない。そう自信を持って言える。これが俺たちにとって最善の選択だったと、本気でそう思っている。

  でも。この行為が許されることだとは、思っちゃいない。誰が知らなくとも、たとえ憶えてすらいなくとも。

  俺はアイツを、きっとヒトとして見ていなかった。

  どうかそれだけは、許されないでほしい。

  :::

  クリーチャーとの[[rb:遭遇 > そうぐう]]から数か月後。狼は食糧確保という名目で復興都市へと[[rb:赴 > おもむ]]いていた。

  そう、ただの名目だ。虎男、フリッドと顔を合わせなければなんだっていい。どこか気まずい空気になってしまうくらいならば、どんな口実を作ってでも向き合いたくない。そんな後ろ向きな逃避行だった。

  あの日──フリッドが蘇りを果たしてからというもの、狼はまともに言葉を交わせていない。それは罪の意識からか、それとも彼自身がきれいさっぱり忘れ去ってしまっているからだろうか。

  もともと互いに話し合うことが少ない間柄だ。故に問題がないだろうと高を括っていた。だが、虎がいつ聞き出してくるか、もしくはあの出来事を思い出すか。顔を見合わせるたび、想像してしまう。

  ようは恐れをなしている。尻尾を巻いて逃げ出したのだ。自分でも情けないとほとほと嫌気がさしてくる。

  (覚悟、決めてたはずなのに。俺ってば何やってんだ。ほんとダセェ)

  復興都市に来たついでと、狼は駐屯所に立ち寄ってみた。

  しかし自営軍は謎の[[rb:厳戒 > げんかい]]態勢、忍び込むことすら厳しい状況だった。あたりの警戒も同様、兵士たちの巡回が強化されている。

  ここまで厳重に軍が働いていることなどめったにあることではない。近くにクリーチャーでも出没したのだろうか。原因不明の監視の厳しさに狼は[[rb:不審 > ふしん]]に思いながらも、何とか都市内部へと潜り込もうとする。

  (正面入り口はさすがに無理か。今日に限って閉鎖されてやがる)

  普段ならば正面入り口の大きな扉は開かれている。あくまでこの都市は幸福を求める者たちの都。簡単なボディーチェックさえ通れば簡単に通過できる。それが閉じられているとなると、やはり特殊な事情ができたのだろうか。

  (見張りは二人。どっちも顔を知らないやつか。じゃあ詰め所は……ラッキ、知ってる奴)

  よかった、これならば詰所から直接内部に入り込める。狼は見張りに見つからないようこっそり詰所まで忍び寄ると、ドアを回数ノックした。

  「……ん、ああキミか。この時期によくやってきたもんだ」

  「どーもオッサン。中、入っても?」

  「かまわないとも。……まあ、一人いるが大した問題じゃない」

  「問題だろうが、アバウト野郎」

  なんともおおらかなサイの守衛とやり取りすると、狼は中へと通される。

  狼の知り合いはなにも[[rb:鰐 > ワニ]]男、ガレッツォだけではない。恩人ナターシャ絡みの顔なじみが数人いる。この守衛もその一人。彼女のことだ、当然肉体絡みの関係。

  男とは外見と態度では測れないもの。彼と対面すると、狼はいやでもそれを痛感する。

  『ツテは沢山作っておきな。後々役に立つから』生前彼女はそう語ったが、仕事柄とはいえ選ばなすぎだと狼はいつも思う。彼女絡みの関係者と会話していると、特に。

  たとえ性格がどう良かろうと、『でもこいつあの人とヤってんだよなあ』という評価が後に必ずついてくる。そのたび気まずくなるのは今に始まったことではないが、もう少しまともな関係性を示してほしかった。相手は子供、教育に悪いと考えなかったのか。

  「あー、あのさ。今日どうしたんだよ。こんな厳重なの、あまり見ないけど」狼は気まずさを振り払うようサイに話しかけた。ダメだ、どうも黙ったままだと変な邪推をしてしまう。

  「ああ。今日に限ったことではないが、ホラ、キミも知ってるだろ? 栄誉都民受賞式」

  「……あれか」

  民の中から一番幸福であることに努めたものが選ばれる祭典。それが栄誉都民授賞式だ。

  幸せであることを全員に認められる。それは彼らにとって大変誉れなこと。なんせ幸せであることは個人では認識できないものだ。他者にそうだといわれ、初めて幸せなのだと実感できる。これはそのためのお祭りだと言える。

  「今年はだれが選ばれるのかな。もしかしたら僕かも、なーんて」

  「だとしたらこんな悠長に談話してられない、だろ?」

  「そうか。選ばれたら登壇してスピーチしなければか。そ、そんな大役つとまるかな……」

  「気がはえーっての」

  気持ちのほうまで猪突猛進、小心者のわりに大柄な彼は話していても気が楽だ。都市の獣人たちではまだ話せるほう。これでナターシャと関係があるのだから本当にそこが知れない。あるからこそ気が楽なのかもしれないが。

  (? アイツは)

  「おや、あの子と知り合いかい?」

  木製の椅子に座り、両手を固く握って体を震わせるモモンガ。どこかで見覚えがあるような。はて、いったいどこだったろう。

  「あの新兵君も散々だね。事情は詳しく知らないけれど、隊長さんにかなり振り回されているらしいよ?」

  「得心いった。アイツの部下か」

  

  いつだったか、ガレッツォが使えないと見限っていた獣人だ。名前は確かラッシィ……だったろうか。顔見知りというわけではない。けれどアレに振り回されていると思うと、多少は同情を禁じ得ない。

  彼は俯き、ただひたすら「これはみんなのため……都市のすべての幸福のため」と呟いている。狼のことなど気にも留めていないようだった。なるほど、入ってきていいとはこの状態だからか。

  「思いつめすぎているせいか、見張りもろくにできないみたいでさ。ここで休ませているんだ」

  「……」

  「どうする? 声、かけていくかい?」

  「やめておく。顔見知りではないし、そこまでする義理がない」

  

  いずれにしろ狼が抱えるべき問題ではない。使えないからと放置したままでいるガレッツォの監督に難がある。それに、隊長がガレッツォでなくとも、このモモンガはこうなっていたはず。全部が全部鰐のせいというわけでもない。

  あくまでこれは彼の、そして都市の問題だろう。

  「じゃあ悪いけど俺失礼するわ。あんがとオッサン」

  「淡泊だなあ。そういうとこ、面影あるよ」

  「悪かったな、女じゃなくて」

  「あはは。そういうどこか強気なとこ、好きだったな」

  昔の思い出話に花を咲かせる気などなかった。守衛であるサイも、そしてモモンガも、都市の獣人だ。ヒト知れず何かを犠牲にし、それをいとわない者たちだ。肩入れする必要も、思い入れる必要もない。

  狼は都市へと続く扉の前に立つと、ドアノブを回す。

  「ちょっと待った」

  「んだよ」

  「Have a nice day! 楽しんできな、狼君」

  ぱたんとドアが閉まる。返事もしなかった狼に猪は肩をすくめると、椅子に腰を下ろし職務に戻る。

  あの子もだいぶん参った表情をしているな。そんな感情を胸に秘めながら。

  [newpage]

  復興都市はサイが話していた通り、式典でにぎわっていた。普段ならば人通りの多くない中央広場ですら、所狭しにヒトが集まってきているほどだ。

  本来ならば書き入れ時なのだろうが、狼は偶然やってきた身。すでに場所取りは済まされており、商いをするとなると客引きに苦労することだろう。

  (まっ、いいんだけど。[[rb:物見遊山 > ものみゆさん]]としゃれこめばいいし。そんな切羽詰めて働いてもな)

  もののついで、というやつだ。今日が駄目でも明日以降に巻き返せばいい。自分を[[rb:誤魔化 > ごまか]]してまでやってきたのだ、成果もなしに帰るにも都合が悪い。

  『我が都市に住まう皆様、健やかにお過ごしでしょうか』

  広場に設営されたステージでは、切れ目でスラリと背の高い獣人が演説をしていた。この都市の市長、ドライアスと呼ばれている[[rb:鷹 > たか]]の男だ。

  『この都市が出来上がってから数十年。先代はいつも我々の幸福と[[rb:安寧 > あんねい]]を願い、我々を導いておられました。

  ああ、今でも目に浮かびます。あの御方が最後まで務めを果たし、私めに後を任せた日のことを。我々に必要なのは希望だと、その灯火を絶やすことなく求め続けなさいと、そうおっしゃってくださった、あの日を』

  ドライアスの目尻から涙がこぼれ落ちる。突然の事態に周囲の獣人たちはどよめいた。

  「市長、顔を上げて下さい」集まっていた獣人の一人が声を上げる。それに続いて周囲の獣人たちも彼へ向け声援を送った。その声にドライアスはマイクから[[rb:嘴 > くちばし]]を放し、「皆様、ありがとうございます」と涙ながらに応える。

  民に慕われた、良い市長なのだろう。遠巻きから見ている狼ですら、尊敬の念を抱きそうになる。いわゆるカリスマというものか。

  『あの御方はその功績を称えられ、一足先に招かれていきました。きっと安寧の地にて、我々の身を案じていることでしょう。

  そして本日は栄誉都民授賞式。我々の中で最も幸福になろうと努力したものに与えられる、栄えある式典でございます。

  式の前に皆さま。まずはこの日を迎えられたことに拍手を送りましょう。こんなに幸せな日はないのですから』

  ステージに集まった獣人から拍手が起こる。その[[rb:喝采 > かっさい]]を浴びながら、ドライアスは一礼すると、静かに[[rb:降壇 > こうだん]]した。

  見事な演説だったと、そういう声があたりで[[rb:囁 > ささや]]かれる。確かにそうなのだろう。非の打ちどころのない、素晴らしいものだった。疑う余地などどこもない。

  (ほんと、見事なプロパガンダだこと)

  疑いさえなければ、暗い背景さえ知らなければ、本当にいい演説だ。

  希望を持つべきだ、幸せになろうと人々を奮起させ、こうして一つの都市を作りあげたのは見事な手腕だ。されどその過程で犠牲となったものも少なくないはず。だからこそ、集まった民衆の思想を染める必要が出たのだろう。

  プロパガンダを唱えるのはそう難しいことでもない。聞く者にとって耳あたりが良い言葉だけで構成されていればそれでいい。疑うことなく付き慕う民たちは、言い換えるなら[[rb:敬虔 > けいけん]]たる信徒だ。

  彼らからすればここは限りなく理想の都なのだろう。市長、ドライアスを親鳥にした、小鳥たちの楽園。与えられた餌でしか生きられず、それだけが一生のすべて。

  親の理想から外れたら見捨てられる。そんな残酷な理想郷だ。

  (子は親を選べない。生まれた環境こそがそいつの人生を左右する。……なんでここは、こんな息苦しいトコになっちまったんだか)

  ただ幸せであるようにと願っただけなのに、なぜこんなカタチになってしまったのか。先代と呼ばれた元市長はこうなることを望んだのだろうか。それはもう、誰に尋ねようとわからない。

  気分が変わればと眺めていたが、余計悪化したかもしれない。

  あたりの雰囲気にでも飲まれ、狼は立ち眩みを起こす。少し離れて休もう。そう思い人込みを避けるように移動し始めた。

  すると。くいと、誰かが狼の袖を引く。

  「……ん」

  「あ、やっぱり。こんにちは、靴屋さん」

  狼が振り返る。袖を引いた主、狐の少女はその人相を見るや、嬉しそうに彼へと向けはにかんだ。

  :::

  「ほんと凄い偶然! まさか靴屋さんに会えちゃうなんて」

  「そうだな。俺も会えてうれしいよ、ウェンディ」

  「もう、口が上手いんだから」

  カラカラと少女、ウェンディが笑う。いつもながら快活な子だ。これで孤児だとは到底思えない。

  そんなことを思いつつ、狼は彼女に手を引かれ、人通りの少ない路地へと足を運ぶ。

  「口が上手なわけじゃない。君を見ていると本当にそう思うから、つい口に出てしまうというだけだよ」

  「そういう調子のいいこと言っちゃって。……具合は大丈夫なの?」

  「幾分かは。ありがとう、親切心に染み入るよ」

  「でしょう? ふふん、もっと頼っちゃっていいんだからね、靴屋さん」

  胸を張り、誇らしげにする彼女の姿はなんとも微笑ましい。狼もつい、つられて笑みを浮かべるくらいに。

  「ねね、今日は靴屋さんここでお仕事?」

  「生憎と場所取りに遅れてしまってね。だからせめて雰囲気だけでも、なんて眺めていたんだ」

  「なんだ、よかった。お邪魔したんじゃないかと不安だったの、私」

  「まさか。女性を無下にする男なんてこの世にいないさ」

  「そうなのかな……えへへ」

  仕事をしていないと正直に話せば、変に[[rb:勘繰 > かんぐ]]られてしまう。ならばそう悟られないようはぐらかすほかない。

  狼は商いで培ってきた殺し文句でウェンディを口説き伏せる。頬に手を当てて照れる少女に、客もこれくらい単純ならどれだけ楽かと内心[[rb:愚痴 > ぐち]]をこぼした。

  「そういえば。君のほうこそどうしたんだい? 孤児院で悪ガキ相手に奮闘するの、疲れたのかな」

  手ごろな場所に腰を下ろすと、狼はウェンディに尋ねる。

  彼女は孤児院の経営者、ジャービスに保護されている身だ。身元が保証されているとはいえ、好き勝手に出歩くことを彼は許すだろうか。身寄りのない子供が都市を往来しているとなれば、誰かに難癖付けられてもおかしくはない。なのに彼女は一人、連れ添いもいないみたいだった。

  「違いまーす。……ううん、確かに嫌になっちゃうけど、今日はそういうのじゃありません」

  「? じゃあ」

  「ヒント。今日の私、いつもとちょっとだけ違わない? ね、どうかな」

  そういうと彼女はくるりと一回転。服の裾をつまむと、上品にお辞儀をしてみせる。

  「うーん……いつもより可憐、かな?」

  「全然ちがーう! 靴屋さん、もしかして女の子を見る目ないって言われたことない?」

  「……昔、一度だけ」

  あははとから笑いをしながら狼は答える。

  『アンタ顔はいいんだから』と女性のイロハを叩き込まれはした。けれどそれが活用できているかといえば、まったくだ。

  靴磨きをそれなりにこなしてきたにも関わらず、女性相手にはほとんど成果が振るわない。生きるためとはいえ、正直口説き伏せるのは向いていないのだろう。

  かといってこのまま答えられないというのも、男としての[[rb:沽券 > こけん]]に関わる。相手は子供でも一人前の女性。さすがにこのままでは失礼ではないか。

  「も~! わからない? ホラ、今日はエプロンなの、ね?」

  「よくお手伝いで着ているね……新調したのかな」

  「もう、これは外行き用。つまりね? 今日の私、ハウスキーパーさんなの!」

  ハウスキーパーとは使用人の中でも位の高い存在だ。家事全般から買い出しまで何でもこなす、その家を取り仕切る使用人。孤児である少女がそうやすやすと名乗れるものではない。言い間違えか、もしくは響きがいいからそう言いたいだけか。

  「ジャービスさんに頼んでほかのお家でお手伝いをしてて」

  「よく許してくれたね。反対されたんじゃないかい?」

  「勤労は幸福のために必要なこと、でしょう? そう言ったら喜んで勤め先を紹介してくれたわ」

  孤児院を営む彼が直々に斡旋した。となれば本人も文句はないのだろう。孤児がどう思われているのか、彼がよく知っているはず。おおかたウェンディに押し切られ、やむを得ず働きかけたのだろう。

  子供が働くのはこの都市では当たり前だ。幸せのためだったなら、小さかろうが大きかろうがさして関係がない。

  誰だってそうなりたい。それがどういうものなのか分からないけれど、みんなが求めるものならばそれは素晴らしいものだ。その素晴らしさを、みんなが知っている。そのためならばどんな努力も惜しんではいけない。

  「いいなあ、栄誉都民。この都市でいっちばん幸せなヒトだって認められるの。きっとすごく幸せなことなんだろうな」

  「……そうだね」

  「靴屋さん知ってる? 栄誉都民に選ばれると永劫の園に招かれるんだって。えいごう、ってなんだろうね」

  「さあ」

  この式典はただ幸せだと認められるだけの式ではない。永劫の園と呼ばれる場所へ招かれるための式でもあるのだ。

  初代市長は辞任後、その楽園へと導かれた。『ヒトであることを忘れず、そしてそうあろうとした者たちの安らぎの園』それが、永劫の園といわれる場所らしい。

  初代市長が招かれて以降、獣人たちはこぞって選ばれようとした。

  そして彼らは幸せに暮らしましたとさ──そんなおとぎ話みたいな終わりを求めて。

  「……」

  「ね、靴屋さん。ちょっと踊らない?」

  「うん? これまた急なお誘いだね」

  「だって式典だよ? すっっごくおめでたい!そんな日には、踊ってお祝いするのが当たり前じゃない! ね、踊ろおどろ!」

  「ちょ、ちょっと」

  狼はウェンディに手を引かれ立ち上がると、彼女と共にくるくると回りだす。

  からからと鈴音を鳴らすように少女が笑う。人気のない路地だ、迷惑がるものはだれもいない。黄金色の毛並みをなびかせ、時折何かを口ずさみながら軽やかに踊る。とても、たのしそうに。

  「楽しいね」少女が言う。

  「……ああ、そうだね」狼は少し遅れてそう返した。

  そうして何分が過ぎたろうか。最後のほうはフラフラになりながらも、二人は息を切らせそっと離れた。

  「あー、楽しかった!」

  「ま、満足いただけたなら、何より……」

  いまだ気分が[[rb:高揚 > こうよう]]しているのか、少女はステップを刻んでいる。対して狼はへとへとだ。人酔いからの容赦ない運動に彼の身体は悲鳴を上げている。

  若いとはいえ幼子相手に引けを取るとは。老体と言うにははまだ早いだろうが、だいぶん体力がなさすぎやしないだろうか。

  自身の体力のなさに今後が心配になる。精力的につけていかなければ、後々響くのではないか。

  「ねえったら!」

  「ん、悪い。少し疲れてしまって」

  呼ばれて振り返れば、ウェンディがご立腹。どうも何度も呼んでいるのにも関わらず、狼がそれに気が付かなかったらしい。狼は頭を掻きながら、何とか許してもらうべく少女に謝る。

  子供の扱いは大変だ──ジャービスに同意するのは[[rb:癪 > しゃく]]だが、確かにそうだと思う。いくら頑張ったところで身体が追いつくわけがない。許しを貰う中で狼は心の中そっと愚痴った。

  「靴屋さんってヒールとか作れる?」

  「ええと……俺は磨くのが専門だから作るとなると、ちょっと」

  「じゃあ無理?」

  「材料があれば、無理というわけでもないけど……」

  「ほんと!? じゃあ作って、赤いヒール!」

  ウェンディは狼の両腕を握ると、嬉しそうにぶんぶんと振った。

  靴を作れるなど半分出まかせだ。これまで作った経験など全くない。精々補修ができる程度である。

  けれども。少女の勢いに乗せられ、狼はつい、できると[[rb:嘯 > うそぶ]]いてしまった。そのうえ[[rb:撤回 > てっかい]]もできなさそうな雰囲気だ、できないと知ったら非常に悲しむことだろう。

  「私ね、いつかものすっごくおしゃれして栄誉都民に選ばれるのが夢なの」

  「栄誉都民にかい? でも」

  「孤児じゃ無理? ううん、そんなことない。

  いつか絶対選ばれて、一番幸せなんだってみんなに認めてもらうんだから! 誰だって幸せになれる。なら私にだって選ばれるチャンスがある!」

  「だから作って? 靴屋さん。きれいなお洋服に負けないくらい、素敵なヒールを。その靴で私、誇らしげに歩いてみせるの。

  ──私、こんなにも幸せなんだよって」

  少女は腕を広げ、高らかに夢を語る。

  狼は不安げに、けれども何も言わず少女の願いを受け止めるのだった。

  [newpage]

  その後、使いの途中だったと判明したウェンディと別れ、狼は一人路地に取り残されていた。

  別れ際、今日は孤児院に泊まらないかと誘われたが、そこは丁重にお断りした。ただでさえ気分が悪い。その上であのとぼけた老害を相手取るなど、今の狼には拷問に近い。

  『じゃあまた今度、ね? ジャービスさんは私が相手するから』去り際にウェンデイはそう食い下がってきたが、願うならあまり厄介になりたくない。それだけの嫌悪感があのジャービスにはある。先程の市長とは違う、泥沼に[[rb:浸 > ひた]]らせるような、そんないやらしさが。

  とはいえ宿泊先は考えなくてはならない。普段ならば[[rb:贔屓 > ひいき]]にしてくれるお宅に厄介になるのだか、今日は祭日。家族だけで過ごしたいと門前払いされる可能性が高かった。

  (祝いの日に親子水入らず、わかりやすいもんだ。仮面夫婦だったとしても幸せそうにみえるんだから)

  当てがないのなら素直に甘えてしまえばよかったのだろう。ただ、今日ばかりは野宿したほうが狼にとってましだった。

  この場から一刻も早く立ち去りたい。何も知らないまま、乳母にミルクを飲まされているような気分になる。幸せのためにと、思考を放棄した愚か者を、これ以上拝みたくない。

  狼はふらりと外壁へと足を向ける。とにかく離れてしまいたい。遠くから響く喧騒から、人知れず消えてしまえるのなら、なんだっていい。

  (……ん、アイツ)

  路地を抜け、広場を通り過ぎようとすると、丁度見覚えのある鰐顔が。

  ニタリと悪だくみをするような、あまり関わりあいたくない笑みを浮かべている。なぜここにいる。警備はどうした。部下を放って何をやっているのだ、あの男は。

  「……お?」

  (ヤバ、こっち気づきやがった)

  とっさに視線をそらし、狼はいそいそとその場を去ろうとする。が、反応が遅かった。鰐は狼を見つけるや否や、大股歩きでヒトをかき分け向かっていく。

  「よう、偶然じゃねーの」肩に腕を回し捕らえると、機嫌よく狼に話しかけた。

  「どちら様でしょうか」

  「また白々しいこといっちゃってよう。俺に熱―い視線浴びせてきたのお前だろ、ピーター」

  「ヒト違いです」

  さりげなく腰に手を回してくる鰐男、もといガレッツォ。やり口が新手のチンピラ風である。都市を守る軍人ではなかったのか、こいつは。

  知人だと思われたくない狼は、顔を背けなるべく他人行儀に言葉を交わす。

  「ほんっとつれないなあダニエルは」

  「離してください」

  「俺相手に余所余所しくしちまってよお。アイコンタクトできるくらい特別な仲だってのに」

  「気のせいじゃないでしょうか」

  「でもそういうトコ……嫌いじゃないぜ?」

  「うぜえ。つか死ね」

  なぜ他人のふりを狼は貫きたいか。強面なガレッツォに街中で絡まれるとどうなるか。答えは明白、ヒトが離れていくのである。

  「なんだアイツら」「あの狼さん可哀想に」そう言いながらも、関わり合いになりたくないと次々に[[rb:蜘蛛 > くも]]の子を散らすように去っていくのだ。可哀想だと思うのならばなぜ助けようとしない。

  「つかなんでいんだよ。部下ほっぽてんじゃねーよ」

  「ぶぅかぁ? んなのいたか?」

  「お前こそ白々しいじゃねーか! なに外の警備放り出してんだ」

  「押し付けた。俺の出る幕じゃねーなって」

  「は?」

  なにを言っているのか、この鰐は。

  「せっかくの祭りだ、一発景気よくかましてやんねえと男が[[rb:廃 > すた]]るだろ」

  まさかの理由である。ここまでにこやかに職務放棄を宣言されてしまっては、開いた口も[[rb:塞 > ふさ]]がらない。握りこぶしを作り、親指をピコピコと動かす鰐のなんと腹立たしいものか。下品なオッサン丸出しである。

  「しっかしまあ、なんだ。こんなにいいオトコが一人佇んでるってるのに声の一つもかけられない。[[rb:高嶺 > たかね]]の花じゃねーぞこちとら」

  「そんな眼光鋭い奴に近寄りたい物好きいてたまるか。高嶺の花? はっ、似合わないことぬかしてんなよ」

  「でも、そんな俺が好きなんだろ?」

  「うっざ」

  ヒトが散っていったなら好都合。猫かぶりをせずに済む。

  このろくでもない男相手に丁寧語で話し続けるなど、狼にとって屈辱である。まずヒトの往来で仲良くおしゃべり、ということ自体が嫌なのだが。

  「あーあ、可哀想な狼さん。みんなとはぐれて一人ぼっちでちゅね~」

  「そのむかつくツラやめろ」

  「でもまあ喜べ。そのささくれだったハート、俺の懐で温めてやんよ」

  「余計なお世話だ! 第一、女引っかけに来たんじゃねーのか! なら俺のことほっといてどっか行けよ!!」

  何とかして鰐から離れようと先程から肘鉄をかましている狼だが、なぜか一向に効果がない。どころか体を寄せ絶対に逃れないようホールドしてくる。

  「まあ……上物釣れたし」

  「はあ???」

  何を言っている。いや、ナニを言っているんだ、この男は。

  「さーて、どっから喰らっていくか」

  耳元でガレッツォが囁く。舌なめずりする音が、生々しく狼の鼓膜を叩いた。

  完全に捕食者のそれだ。喰らったら最後、絶対に逃れることのできない鰐の口内に狼は囚われてしまった。こうなってはいくら足を踏みつけたところでガレッツォは離さないだろう。

  「まてまて、俺にそんな趣味ねえから」

  「いいじゃねえか。よし、今日は俺という男を骨の[[rb:髄 > ずい]]まで[[rb:堪能 > たんのう]]させてやる」

  「いらねっての! まずそういうのは[[rb:慰安婦 > いあんふ]]にでもぶつけてろよ!」

  「馬が合わないんだよなあのオンナども。腕おっぴろげると寄ってくる奴ってなんか気色悪いっつーか」

  「だからって俺じゃなくてもいいだろうが!!」

  騒ぎわめく狼のことなどガレッツォにはそよ風に過ぎない。涼しい顔をしながらも鰐は歩き出す。

  人さらいだ。自営軍が一般人を誑し込み連れ去ろうとしている。仮にも都市を守る立場、そんなことをして許されるのか。

  「っくそ、離せっての! こっちは気分わりーんだよ、無駄に怒らせんな!」

  「だから俺に身を委ねろって。だーいじょうぶ、俺、デキる男だから」

  「知るかそんなの! 毎度思うが話聞けっての!!」

  「……聞いてるから離さねえんだよ」

  「……は?」

  ガレッツォから放たれた文句に、狼は頭が回らない。

  聞いているから? だったら普通は離すべきだろうが。なぜ機嫌を損ねる真似をする。

  内容に面食らう狼をよそに、ガレッツォは鼻歌交じりに連れ添い歩く。そのまま二人は式典の騒乱へとまぎれ飲まれていくのだった。