灰色のむこうがわ 07 その二

  「うっわ本降りじゃん。これ明日にはやむかぁ?」

  「よかったな。暫くは休めそうで」

  「あ、いやそういう意味では」

  休みたかったのは本心だが、まさか足止めを食らうほど降ってこようとは。

  外はフリッドが言うとおり、本格的な雨模様。明日どころか数日は続くかもしれない。風も出てきたのか、ガラス張りのカーテンウォールからは雨が容赦なく吹きこんできていた。

  流石にこの中を突っ切って進むのは困難を極めるだろう。止むまではここで[[rb:凌 > しの]]ぐほかない。

  背負っていたバックパックを床に放り投げ、フリッドはその場で座り込む。既に脚はへとへと、肉球が擦れてめくれそうだ。もしかしたら血でも出ているかもしれない。

  ブーツを脱ぎ足の裏を確認しようとすると、狼が怪訝[[rb:怪訝 > けげん]]な顔でフリッドを非難した。

  「……ここで休む気かよ」

  「え? ダメなのか?」

  「この間も言ったろうが。それともあれか、ニワトリと脳みその小ささ比べでもしてんのか」

  「小さかねぇわ。磨けば光るタイプなの、俺はぁ」

  「シワもないつるつるぴっかんね、ハイハイ通りで」

  「くっ、どう転んでも馬鹿にしやがって……!」

  すっかりくつろいでしまっている虎とは対照的に、狼は気が張り詰めていた。足止めされて気が急いているからではない。まだここが安全だと決まっていないからだ。

  慌てて駆け込んだ廃ビル。雨を凌げるのは確かに安心できる。しかし此処に危害を加えてくるものがいないとは限らないのだ。確認が取れていない以上、安心して落ち着くことなど狼にはできなかった。

  「ん、どっか行くのか? もしかしてトイレ?」

  「ちっとクリアリング……あたりを散策してくる」

  「じゃあ俺も。正直出そうになってきた」

  「……勝手にしろ」

  まるで金魚の糞のようだ。もしくは鳥の雛か。興味本位でひょっこりとついてくる虎をよそに、狼は建物内の散策へと移る。

  まずは一階エントランスホール。現在狼たちがいる所だ。吹き抜けになっており大分広い印象を与える。くるりと見渡すが、目立った危険は見当たりそうにない。

  「随分とでかいな……。小部屋は二階以降か? なら一旦そっちに荷物を」

  「いやまずトイレ。流すもん流したい」

  「垂れ流せ」

  「流石にこんなだだっ広いとこでションベン流せねぇよ!?」

  「見せつけること前提かよ」

  「ちちち、違わい!個室で一息つきたいんじゃい!」

  そんな下らないやり取りをしながら、二人は通路を進む。ぐるりと一周するが、特に不審な人物は見当たらない。室内も確認するが、当然のように無人だ。比較的崩壊の痕がなく、初めから使われていなかったと錯覚しそうなほど、静まり返っている。

  しかし人が全く立ち入っていなかったか、と言われればそうでもなく。注意深く調べると、人為的に荒らされた形跡が散見された。それもつい最近のものだ。

  (靴跡バッチリ。乾いてだいぶ経ってる。居るかってなると微妙なラインだが……)

  「なあトイレ」

  「さっきあっただろ。いけ」

  「あんな扉全破壊されたトイレじゃ致せねーよボケ! 誰だよあんな風にしたの、全方向から丸見えじゃねーか!」

  「お前のヌードショーとか興味ないから。大丈夫、いってこい」

  「待てそこは興味もて。俺、脱いだらすごいんだぞ?」

  「正直ショボい」

  「はぁあ??!!」

  特筆すべき、というには非常に悩ましい話だが、異常な点としてトイレだけは破壊されていた。それもここだけは[[rb:執拗 > しつよう]]に、だ。

  数か所はそもそもココが用を足す場所だったのかもわからない。便座も小便器も区別がつかないほどだ。ヒトがやったとは到底考えられない。おそらくはここで襲われたのだろう。何にといえば、想像に難くない。

  そんな中唯一ぽつんと、無事なトイレがあった。使いたいか、と言われれば答えはNOだ。どんなキチガイだったとしても、まずお断りだろう。

  それでもそこで用をたせと、狼は言っている。何かしらの気配は感じ取れないとはいえ、こんなあられもない恰好を見せつける様式は世間知らずのフリッドだって勘弁願うところだ。しかし狼にとっては完全に他人事、尊厳破壊されようがお構いなしである。

  「なあ」

  「んだよ」

  「ちゃんと見ててくれるか……?」

  「バカじゃねえの?」

  「あ、いや、見張っててくれって意味であって用を足してるとこ見てほしいって訳じゃ」

  「ああハイハイそゆこと。さっさと済ませろ騒々しい」

  手をひらひらとさせ、狼が適当に相槌を打つ。たかが[[rb:排泄 > はいせつ]]にこれ以上付き合っていられないのだろう、非常に面倒くさいという面持ちだ。

  気まずいのならば他を探せばいい。それはごもっともだ。他の階にだってトイレはあるはずだ、何もココにこだわらなくたっていい。

  けれどフリッドの[[rb:膀胱 > ぼうこう]]は今にも排出したいと暴れまわっている。このままではいずれズボンを尿まみれにしてしまうだろう。せっかく雨を凌げたというのに、それだけは避けたい。背に腹は代えられないのだ。

  しぶしぶとフリッドは一人トイレへと向かう。渋い顔をしながらも自らのベルトに手をかけ、パンツごと降ろす。解放できる喜びに体が反応し、今にも出てしまいそうだ。それを寸でのところで堪えると、便座へと腰を掛けた。

  (……やっぱ落ち着かヌェー! なんでこんなビックリするくらい拓けちゃってんの? 目立ちたがり御用達かよ。ようたし、なだけにさぁ?)

  排泄音がやけに響く。これまでに気まずい雰囲気になったことは多々あるが、事これに至っては恥ずかしさが勝ってしまう。先ほど自身の身体を自慢していた時とは大違い、今にも小さくなって消えてしまいたいくらいだ。

  (ああくそ、トイレに解放感なんて必要ないんだよ。解放するのは糞だけで十分だから。こんなの出るもんも引っ込むって)

  頼むから早く出終わってくれ──そんな一心でフリッドは便座の上で踏ん張る。たかがトイレで罰ゲームみたいなことをしなければならないだなんて、あまりにも酷すぎる。一度こうした実行犯に苦言を並べ立てなければ気が済みそうもない。

  どう落とし前をつけさせようか。会えるかもわからない実行犯にフリッドがお冠になっていると、

  ……ズッ……ズッ

  スープをすするような、排水溝が詰まって流れにくくなったような、そんな音がどこからともなく聞こえてきた。

  (……? なんだ、今の)

  断続的に響く、奇妙な音。流石に聞き間違いではなさそうだ。耳を澄まし出どころを探ろうとするが、何処から聞こえてくるのか皆目見当がつかない。

  背中にゾクリと寒気が襲う。破壊されたトイレ、最近訪れた形跡があるにもかかわらず一向にその気配すらないヒト。よりにもよって一人でいるときに聞こえてくる異音。

  さっさと合流しよう。狼もきっとこの異変に気が付いているに違いない。

  嫌な予感が漂ってきたフリッドは用を済ませると、いそいそとズボンをあげた。

  「…あ。」

  チャックが上手く閉まらない。慌てて閉めようとしたせいだろうか、思いっきり噛んでしまったようだ。

  異音の正体がつかめない中、ガチャガチャとフリッドはチャックと格闘する。そんな緊急事態に不穏な影がそろりと近づく。そのことに彼が気づくのは、もう少し後のこと。

  :::

  少し時間をさかのぼり、狼がフリッドと別れた直後。

  無造作に投げ捨てられたデスクチェアに腰を掛け、彼は束の間の休息を取っていた。

  (あんま気が休まらないとはいえ、ずっと張り詰めても仕方ない。休めるときに休んどかねえとな)

  いくら気を急いていても天候ばかりはどうしようもない。廃墟暮らしで大事なのは無理をしないことだ。ヒトの手を借りられない以上、体調管理は万全にしなければならない。

  元々急ぐ旅路でもないのだ。この雨も天災ではなく、頑張っているから休息を取ってくれという神様の訴えだと思おう。恵みの雨というならば、甘んじて受け入れるのも悪くない。湿りだした蒼い毛を手持ち無沙汰に撫で、狼ははやる気持ちを落ち着かせた。

  目を瞑り、雨音に耳を傾ける。空の頭に雨音が反響し、身体の隅々まで行き渡っていく。

  置かれた状況も、これから先のこともすべて不安定だ。心配事で胸がいっぱいでは何事も上手く立ち行かない。

  けれどこうしている間は、雨音を聞いている間だけは、此処に確固たる自分がいると思える。誰にも振り回されない、たった一人のちっぽけな存在が今日もこうして生き延びている。それは確かな誇りだ。

  (確かに俺はここにいる。他人に左右されない、ありのままの自分ってやつが、此処にいる。

  一人でいることは寂しいことだって、あの都市は否定する。けど……こんな時間が俺は好きだ。静かに流れるこの時間が……愛おしいくらいに)

  

  復興都市では、この感情を孤独だという。幸福からは程遠い、寂しい人生だと教わるのだ。おかしいのは狼か、それとも都市の方か。その答えはきっと誰も出しやしない。

  こんな自分を[[rb:晒 > さら]]せば、誰か受け止めてくれるだろうか。スカしたようでいて、内心堅物ぶった己が身を。悲観的なロマンチストだとは重々自負している。気取っているばかりの自分に、つける薬などありはしない。

  (いいんだ、俺は。これでいい。馴染めないってだけで一匹狼を気取る俺にはお似合いなんだろうさ。

  だから、俺が不幸だったとしても。それでいい)

  膝を寄せ、椅子の上で強く抱きしめる。きっと狼の生き様は誰もが[[rb:滑稽 > こっけい]]だとなじるのだろう。もっといい生き方があると、楽な方法があると諭される。もしくは不要だと吐き捨てられるか。

  ならば気づかれないようにしなければ。漬け込まれないよう、こうして身を隠して平然と暮らしていよう。そうすれば、少なくともこれが不幸だと言われずに済むのだから。

  雨の打ち付ける音が心地いい。こんな自分を優しく慰めてくれているようだ。

  そうして暫く狼が浸っていると、雨音にかすかに異音が混じりだした。フリッドが聴いた、あの音だ。

  (……近づいている。このカンジは……中にいやがる)

  最悪中の最悪に当たってしまった。狼の脳裏ははっきりとその存在を描き出し、警笛を鳴らしている。

  “アレ”が。クリーチャーが、やってきた。

  物音を立てないようゆっくりと立ち上がり、自身の荷物を確認する。身体を休めている場合ではなくなった。相手はまだこちらの気配を察知していないだろう。こっそりと移動すれば出くわすことはない、はず。

  狼が壁に沿いながら通路を確認する。両側からは姿を目視できない。けれど確実に音は近づいてきていた。ずるり、ずるりと何かを[[rb:啜 > すす]]るように。

  音の出所が分からない以上、[[rb:迂闊 > うかつ]]に動くのはリスクが伴う。なんとしてでも[[rb:遭遇 > そうぐう]]を避け、速やかに退去したい。が、いまだあの虎はトイレ中だ。いまだ出てこない。もうすでに終わっていてもいい頃合いだというのに。

  (遅えな……[[rb:下痢 > ゲリ]]か? いやさっきまでピンピンしてたしソレはねえか。ったく、ヤベェ事態だってのにもたつきやがって)

  下手に騒がれでもしたら気づかれる。痺れを切らした狼はフリッドを連れ出すべくトイレへと向かう。……はずだった。

  「ぅわああああ!!!」

  突如フリッドの悲鳴が[[rb:静寂 > せいじゃく]]を打ち破る。直後、巨大な物体が落ちてきたかのような音。

  間違いない。アレに、遭遇してしまった。

  最悪の事態に陥ってしまった。こうなってしまっては逃げることは困難だ。バックパックから小型の拳銃を取り出すも、恐らくは焼け石に水だろう。

  ここで狼には二つ、選択肢が提示される。

  一つはこのままフリッドの元へと駆けこむこと。己の正義感に応じ、アレと対峙する道だ。

  もう一つはフリッドを置いて今すぐこの場を立ち去ること。事故を尊重し、生存のために安全をとる道だ。

  (あいつは死なない。死にたくても、そういうカラダじゃない。

  ……静かに逃げちまえばどっちも生き残れる。勇敢であることと無謀であることは、どっちも一緒だ)

  この場において言うのなら、見捨てることが最善だろう。わざわざ危険に向かって飛び込むのは蛮勇だ。そんなことには何の意味もない。

  ……だか。

  (置いていくのか……? 俺の勝手で連れてきた癖に、見捨てなきゃ……なんねえのか?)

  決断を迫られ、狼はたじろぐ。選ぶべきものは分かっているはずなのに、身体はどうしてもそうするべきではないと叫んでいる。

  この場で虎を見捨てるということは、あの都市の思想に染まるという事ではないか。幸せのために不幸を排除する、あの都市と。

  かつて恩人だったナターシャがそうなったように、虎を切り捨てる。生存するためなら仕方のないこと。それが、臆病者が生き抜くための術なのだ。

  (俺は……おれはっ!)

  狼が選択に悩んでいると、フリッドが通路へと転げ出てきた。ズボンのベルト部分を握りしめ、周囲を見渡すと、狼がいる所とは逆の方へと駆けて行ってしまう。

  直後、あたりが熱と蒸気で包まれた。ズルズルと音を鳴らし、異臭をまき散らしながら、その正体が露わになっていく。

  [[rb:蝙蝠 > こうもり]]の羽が、壁に張り付いていた。首から上はない。全身は[[rb:爛 > ただ]]れていて、羽とは別に太い腕があった。その腕と羽を使い、ソレは器用にも前へ、前へと這っていく。下半身は見事な馬獣人のものだ。血管の浮き出た太腿が、そのおぞましさを助長させている。

  アレこそが廃墟群を[[rb:徘徊 > はいかい]]するもの──クリーチャーだ。

  どこからともなく現れ、その爛れた腕でヒトを[[rb:蹂躙 > じゅうりん]]する。正体不明の化け物だ。

  ソレが放つ体臭に、狼は思わず鼻をふさぐ。腐り焦げた肉のニオイだ。鼻のいい種族にとって、たまったものではない。あまりの酷さに吐きそうになる。

  クリーチャーは頭部が付いていないにも関わらず、フリッドの方へと壁沿いに追いかけていく。姿が見えなくなったことを確認すると、狼もまた通路へと歩み出た。

  (……行っちまった。何も、できなかった)

  [[rb:呆然 > ぼうぜん]]と、狼は立ち尽くす。なにも出来なくて当然だ。アレは、普通に太刀打ちできる存在ではない。都市が自衛のために組織した部隊ですら、半壊してようやく討伐できる。そんな存在なのだ。

  そんなものを相手に、たった一人で立ち向かうなど無謀極まりない。過去にその過ちを犯し、[[rb:犠牲 > ぎせい]]になったものがどれだけいるだろう。大人しく逃げるのが利口なのだ。

  (でも。このままで、本当にいいのか……?)

  一人の恩人を失い、そして今度は自ら連れ出してきたものを失おうとしている。死に目に合ってでも、本当に抗う必要があるのだろうか。感情と理性で頭がぐちゃぐちゃになりながら、狼は決断を迫られるのだった。

  [newpage]

  (な、なん……!)

  ずり落ちるズボンを片手で押さえながら、フリッドは通路を駆けていく。

  「何なんだよアレぇ!!」

  背後からは首のないクリーチャーが迫ってきている。今のところは追いつかれそうにないが、こちらの体力がいつまで持つか分からない。狼とも合流したいし、何とか撒きたいところだ。

  

  (つってもどう撒けばいいんだよぉ! というかどうやって追いかけてきてんの!? 目とかついてないよねえ??!!)

  トイレで遭遇した時点では、あのクリーチャーに知覚する器官は備わっていなさそうだった。にもかかわらず、アレは一寸の狂いもなくフリッドを追いかけ続けている。こちらの常識から外れている。おおよそ普通の生き物ではない。

  前に遭遇した時はどう逃げ延びただろうか。死に物狂いでフリッドは思い出そうとする。

  しかし、哀しいかな。その時の出来事を彼はよく思い出せない。よくてヒトによく似たものに襲われ、気が付いたら狼に看病されていた、ということくらいだ。死ぬ前後の記憶は[[rb:曖昧 > あいまい]]になるため、恐らくは一回死亡したのだろうが。

  (……あれ。じゃあ俺、死ぬしかないのか?)

  それはこまる。大いに、こまる。

  ここで死んでしまえば、追われることはなくなるだろう。最悪肉体は復活する。無理に逃げ延びようなど、本当はしなくていい。

  けれど、死体を狼に見られてしまう。生き返る瞬間を、見られてしまう。

  死体は生き返らない。それは当たり前のことだ。この世の摂理だ。失うということは永遠に戻ってこないということ。それが覆るなど本来はありえない。

  生を失うこと、文化を失うこと、そして──ヒトであるという認識を、失うこと。失くしてしまったらそれはおしまいだ。取り戻すことなど絶対にできない。たとえ蘇ったとしてもそれは変わらない。亡くなったという事実が残り、[[rb:不死者 > それ]]は異物として認知される。

  (いやだ。いやだ、イヤだ嫌だいやだ!! なんで? なんで俺はこうならなきゃいけねーんだ?)

  クリーチャーの腕がフリッドを目掛け振るわれる。爪が肩を[[rb:掠 > かす]]め、痛みに思わず足を止めそうになった。けれどここで死ぬわけにはいかない。そんな必死の思いでフリッドは逃げ続ける。

  なぜここで死ななければいけないのだろうか。狼に出会って、一緒にいていいと望んで良くなったのに。せっかく、まだ隣にいられると思っていたのに。こんな形で終わってしまうのだろうか。こんな夢半ばで諦めなければいかないのか。

  これが運命だというならば、なぜそれを背負わなければいけないのだろう。たった一人を爪弾きにして、何が楽しいというのか。それが正しいセカイの在り方だというのならば、それはきっと残酷なことだ。

  幾度もなく振るわれる[[rb:猛攻 > もうこう]]を寸でのところで掻い潜り、フリッドはエントランスまで戻って来た。

  このまま外へと逃げるべきか。それとも他の階へと駆けこむべきだろうか。狼との合流など今のフリッドには考える暇がない。何とかしてアレを撒かなければ、まだ始まったばかりの旅を続けられない。

  (どうする……どうすればいい! こんなところで終わりたくない! まだ、まだ俺は……!)

  そうこうしているとクリーチャーもエントランスへと侵入。フリッドを捉えると、そのまま勢いよく飛び掛かる。

  考え事で周りが見えていないフリッドには、まさに死角からの一撃だった。もろにタックルを食らったフリッドは柱に激突。意識こそ失わなかったが、ぶつかった衝撃で身体のあちこちが悲鳴を上げた。

  「ぐ、ぅ……」

  (いっ、てぇ。いてぇ、けど……この程度なら、まだオチない。この程度、何度も、なんども喰らって来たんだ……!)

  クリーチャーはようやく動かなくなったフリッドにご満悦のようだ。羽に付いた[[rb:鉤爪 > かぎつめ]]を鳴らし、いかにも楽しそうにしている。

  逃げ出すのなら今が好機だろう。麻痺した身体を何とか動かそうとするが、なかなかいうことを聞いてくれない。早く逃げなければ、このまま蹂躙される一方だというのに。

  しかしこのまま逃げ出すにしろ、またすぐに追いつかれてしまうだろう。何とかして気をそらせればいいが、生憎とそんな手段フリッドは持ち合わせてなどいない。

  荒れる息を整え、何とかこの状況を打破しようとフリッドは脳をこねくり回す。じっとしてなどいられない。このままバケモノの玩具にされるなどまっぴらごめんだ。

  なにか、手はないものか。なんだっていい。アレから逃げ延びられるならなんでも──

  「……え?」

  パンッ、軽い発砲音が空を裂く。どこからかクリーチャーに向けて撃たれたようだ。突如襲った痛みにクリーチャーは怯み、どこから発砲されたのかしきりに探している。

  思いがけない展開だ。まさに天の助け、アレはこちらのことなど気にも留めていない。けれどいったい誰が銃など撃ったのだろう。身体の痺れから漸く解放されたフリッドはゆっくりと立ち上がり、あたりを見回す。すると、

  「フリッド!!!」

  はるか頭上から声がする。見上げれば、狼が手すりから身を乗り出し叫んでいた。

  「上だ! 上ってこい!!」

  そういうや否や、彼はもう一発撃ち込むと走り去っていく。

  (なに、やって)

  事態は好転などしていない。むしろ悪化してしまった。見れば狼を追いかけまいとクリーチャーが壁を登り始めている。このままでは、狼が殺されてしまう。

  すぐさまフリッドは行動に移る。痛みの残る身体に無理をきかせながら。

  階段までたどり着くと、わき目も振らずに駆け上がった。一段づつなんて行儀のいいことなどしていられない。ずっこけて落ちそうになった? そんな理由でビビってなんかいられない。怖がってなどいられないのだ。

  早くしなければ。アイツは不死身じゃない。アイツは普通のヒトだ、二度目があるとかそんな悠長なことを言っていられない。たった一回こっきりだ。殺されてしまえば、そこでおしまい。自分とは違う。本当に、おしまいなのだ。

  「そん、なの……!」

  駄目に決まっている。こんな愚か者のせいで、誰かが命を落とすなど、そんなことあってはいけない。

  遠くから銃声が聞こえる。今は何階だろうか。手すりにしがみつき、息を切らしながら見上げると“6F”という文字が書かれていた。

  それなりに上りはしたのだろう。けれどいったい何階まで上ればいいのだろうか。そも狼は今何階にいるのか。そうこうしている間にも、また銃声がひとつ鳴る。

  すぐさまフリッドは吹き抜けへと向かう。そこでは狼が二つ上の階でクリーチャーを挑発せんと銃を構えていた。

  逃げるはずなのにこのまま追いかけさせていては意味がないのではないか。自ら危機に迫ってもらおうなんて、まるでここで死にたいとでも言っているかのような……

  (駄目だ、アイツだけは死なせられない! 側にいていいって言ってくれたアイツだけは、俺のピンチを救ってくれたアイツだけは!!)

  フリッドはこの[[rb:土壇場 > どたんば]]で、初めて狼と出会った瞬間を思い出す。今と同じように彼に呼び掛けられ、そうして命からがら救われたのではないか。

  あの時と一緒だ。アイツは、あの狼は見捨てたりなんかしない。たとえ見ず知らずの他人だろうと、アイツは手を差し伸べる。諦めることを、自ら身を投げ出すような無駄なことを、決してしない。

  何かできることはないか。ただ助けられるだけではいけない。こんな役立たずでもやれることがきっとあるはずだ。ならば、こうしてなんかいられない。

  フリッドは近くの部屋に足を踏み入れると、おもむろに物品を漁った。

  虎には対抗する手段など思いつかない。狼のように頭などよくないからだ。だからこそ[[rb:咄嗟 > とっさ]]に彼が閃いたのは“もう一度あのバケモノの気を引く”ことだった。

  目的のブツをいくつか見繕うと、フリッドはクリーチャーのいる場所へと戻る。ヤツは未だ狼を狙い壁を這い上がっている。まだ、接触してはいない。けれどそれだって時間の問題で、いつかは襲われてしまうだろう。

  大丈夫だ、腕力にはある程度の自信がある。フリッドはクリーチャーをキッと睨むと、狙いを定めて手にあるものを投擲した。

  :::

  「バーカクソのろま! 俺はこっちだってーの、間違えてんじゃねーって!!」

  階下で虎が叫んでいる。クリーチャーを引きつけつつ逃走を繰り広げていた狼の耳にそれが飛び込んできたのは、丁度彼が会議室を見つけたときだった。

  (は? いやアイツなにやって……!)

  すぐさま部屋を飛び出し様子を窺う。下の階では虎が手当たり次第に物を投げつけ、必死にクリーチャーの気を引こうとしていた。素直に逃げ出してしまえばいいのに、どうしてこうもいらんことをしているのか。

  狼も人のことを言えた義理ではない。けれど彼はあくまで勝算ありきでアレを引きつけていたのだ。考えなしに行動する虎とは訳が違う。

  (どうする……? あそこからだと確実にアイツらは接触する。作戦上もう少し高さが欲しいが……あそこでもいけるか? 失敗してからじゃ取り返し気かねぇ。くそ、どうなんだ……?)

  あまり長考している余裕もない。既にクリーチャーは虎を補足し、そちらへと這って行っている。次に虎が捕まってしまえば、無事でなどいないだろう。ここで奴が死んでしまえば、この行為も無駄なものになってしまう。

  何とかして自身が今いる階へと彼らを誘導、ないし虎のいる階で作戦を実行するしかない。狼は暫し迷った末、虎を迎えに階段を下る。

  一方件の虎ことフリッド。クリーチャーがこちらへと鉤爪を向けるや否や一目散で階段へと逃げ込んだ。

  「うっわヤバいヤバいこっちくんなって!!」

  気を引いておいてこの言い草だ。

  度胸と奇行を組み合わせて産み出されるのは何か。それは愚行である。いつだってそれは場をかき乱し、ときに狙わずとも波乱を産む。いらん迷惑ともいう。

  「ゴェェエ! ヤバのヤバイババラライカぁ!!」

  よくわからない言語を吐き散らしながらフリッドは階段を上る。とりあえずは上だ、狼が述べたことに間違っていたことはあまりない。俺よりも頭のまわるアイツなら、きっとこの危機を脱する機会を作ってくれるはずだ。それを信じ、今は逃げるしかない。

  そしてちょうど七階に差し掛かったところで、

  「うわっ!」

  「っと、」

  降りてきた狼と合流を果たす。急な衝突に狼は倒れそうになるが、虎が彼を抱きとめることで難を逃れる。

  (あれコイツ意外とちっさ……)

  「おい」

  「は、ハイ!」

  「もう一つ上だ、急ぐぞ!」

  殴り飛ばされてしまう。一瞬そう感じたフリッドは反射的に身構える。しかしその直感とは裏腹に狼は虎の腕をつかみ、そのまま上の階へと引かれていった。

  「この階の広い部屋まで誘い込め。いいか? 広い部屋、だ。分かったな!」

  それだけ言うと狼はまたしても去って行ってしまう。フリッドは呼び止めようと手を伸ばす。が、それは虚しく空をかく。

  やはり名前を知らないのは不便だ。こういう時、咄嗟に呼び止める手段として使えない。

  無事でよかった。ただそれだけでも言いたかったのに。伸ばされた掌が何とももどかしい。

  けれどそんな[[rb:余韻 > よいん]]になど浸っていられない。ガシャリ、手すりをひしゃげさせ、アレが這い上がって来たからだ。

  もうここまで追いついてきてしまった。フリッドはその姿を見るとすぐさま走り出す。

  目標はこの階にあるという広い部屋。──狼が先ほど訪れた会議室だ。虎にはこういえば確実に訪れる。そう狼は判断した。

  難しいことは考えなくていい。そこへたどり着きさえすれば、あとは狼が何とかしてくれる。頼もしい限りだ。

  そうして再び始まったフリッドの逃走劇。紙一重でかわす虎のなんと危ういことか。普段のドジっぺぶりはどこへいったのだろう。火事場の馬鹿力、または虫の知らせとでもいうべきか。ここぞとばかりに運がいい。

  「ここ……じゃねえ! ここ! ……でもない!」

  通り過ぎる部屋を一瞥しつつ、フリッドは走りっていく。逃げながら総当たりで目的の部屋を探し当てるというのは楽じゃない。面倒くさいにもほどがある。咄嗟だったとはいえ、もっと具体的な場所を提示してほしかった。せめて方角くらいは言えたのではないだろうか。

  「ああもう! どこだってのぉぉ!!」

  愚痴を吐いたところで返事は返ってこない。同じ階にいるはずだから聞こえてはいるだろう。気づいているならこっちだと指示してほしい──

  「ガッ…………ハ、」

  .[[rb:蹄 > ひづめ]]がフリッドの背中を蹴り飛ばした。扉ごと勢いよくぶち破り、そのまま部屋の中へと突っ込んで行く。

  すでに背後へと迫ってきていたらしい。いきなりの不意打ちに息が止まる。背中が焼けるように熱い。

  「死にたく……ない」

  ここで歩みを止められない。痛みに耐えながら、なおもフリッドは立ち上がろうとする。

  震える腕がまるで恐怖を訴えているようだ。散々死にたいとのたまって来たくせに、こんな土壇場で、こんな旅路の始まったばかりで、こんなことを想う日がやって来るなんて。

  碌でもないことばかりの人生だった。生きていくことがずっと辛くて、やめたくて仕方がなかった。

  けれど。こんなふうな終わり方を望んでいたわけじゃない。自分を許してくれる存在を前に、それを踏み躙られるなんて。そんなこと、望んでいたことじゃない。

  背後からのしりとクリーチャーが近づいてくる。まだ、フリッドは立ち上がることができない。ズリズリと[[rb:匍匐 > ほふく]]前進するので精いっぱいだ。

  背後のソレは啜る音をあげながらカラダを揺らしている。気でもいいのだろうか、まるで笑っているようだ。今までの抵抗を、蔑むかのように。

  クリーチャーの手が虎のふくらはぎを掴んだ。焼き[[rb:鏝 > ごて]]でもあてられたかのような感覚に、虎は悲鳴すら上げられない。あまりの激痛に目を白黒させ、口を金魚のようにぱくぱくとさせる。

  そのまま上へと持ち上げられた。顔のない胴体が、虎の前に露わになる。

  (……え?)

  その姿に驚くのも束の間、虎は勢いよく地べたへと叩きつけられる。ソレはぴょんぴょんと飛び跳ねながらフリッドを振り回した。床に、壁に、天井に。何度も何度も、叩きつける。玩具を手に入れ喜ぶ子供のように。

  先ほど目視した衝撃など吹き飛んでしまいそうだった。視界はめまぐるしく変わり、上下の感覚すら分からない。空を飛んでいるのではないか、そんな錯覚すら覚えてしまう。

  そんな休む間もない暴力も、ソレは飽きてしまったのか、宙へポイと投げ捨てた。身体をくるりとひるがえすし、ゴールネットにねじ込むかのようにガラス窓へと蹴り飛ばした。

  ガラスに大きくひびが入る。そのままずるずると滑り落ち、フリッドは床にひれ伏した。

  頭が揺れる。気持ちが悪い。胃の中が逆流して押し出てきそうだ。逃げなければいけないのに、恐怖と痛みで指先すら碌に動かない。

  (なんだ……なんだ、アレは)

  彼は見てしまった。あの異形の胴体を。至近距離で、まじまじと。

  傍目からではそうだとは解らなかった。羽の生えた首のない生物のようなナニかとばかり思っていた。

  だからこそ不思議だった。なぜ、アレはこちらを知覚しているのか。

  フリッドが持ち上げられた時、ふと彼は視線を感じた。それも一人のものではない、複数の、まだ生きている誰かのものだ。

  顔があった。牛の、熊の、烏の、鼠の。様々な種類の顔が、一つの肉体として同化していた。

  ズルズルと音を立て、顔が[[rb:蠢 > うごめ]]く。だらしなく開いた口から下を出して、[[rb:涎 > よだれ]]を垂らしている。飾り物じゃない、元々生きていたであろうヒト。

  それ以上のことは分からない。フリッドの脳が、知ってはいけないものだと拒んでいる。想像してはいけないものだと、告げている。

  

  「あ、ああ、あああああ……っ」

  フリッドの腕が持ち上げられる。ソレは肩のあたりをつまむと、ドアノブでも捻るかのようにねじった。

  「嗚゛呼゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」

  ちぎり取られたあとを押さえ、フリッドは地べたをもがく。ぼたぼたと血が滝のように流れる。あたり一面が彼の血でどす黒く染まっていく。

  ひとしきりもがいたあと、歯をギリギリと噛み締め、遠のく意識をなんとかこらえながらフリッドはクリーチャーを睨んだ。

  だらりと力なく垂れ下がった腕を、ソレは弄んでいた。触れた部分から焼けごげていき、悪臭をまき散らす。それが元々自分の腕だったと思うと、頭がイカれそうになる。ニオイですら、気持ち悪くてかなわない。

  ソレは一通り弄ると、腕を自身の胴体へと押し付けた。ジュルリ、音を立て、肉が蠢き飲み込んでいく。蠢くたびに周りの顔は涎をまき散らし、煙を立ち込めさせた。

  まるで喜んでいるようだ。仲間が出来たと、いつまでも一緒にいられると。その目を輝かせ、希望に満ち[[rb:溢 > あふ]]れさせた──そんな表情を、彼らはしていた。

  ホンモノはあんなにもおぞましいものなのか。アレと同一視され、そして今、同じものになろうとしている。

  フリッドの息が自然と荒くなっていく。胸の奥底から生まれた感情が、彼のカラダを震えあがらせた。

  あれだけは嫌だ。死にたいと何度も願い、そうなればいいと本気で思っていた。

  同時に、離れたくないとも願ってはいた。たとえ薄気味がられ、化け物だとなじられようも、ヒトのぬくもりが恋しくてたまらなかった。外面が同じであるだけに、そうなれない自分がもどかしくて仕方がなかった。

  けれどもアレは。アレはそういうものではない。

  「──い、あ、あああ……!」

  また腕をもぎ取らんと、大きな双腕がフリッドを襲う。もう彼には逃げる気力など残されていない。大人しくつかまって、流れのままに奪われるほかなかった。

  あらぬ向きに腕がねじられる。ミチミチと聞こえないはずの筋肉の避ける悲鳴のようなものが、フリッドの[[rb:鼓膜 > こまく]]を鳴らす。

  いくら叫ぼうと相手は止めない。激痛に顔をゆがめ、止めてくれと懇願しても、ソレにとってはそよ風が吹いたのと同じこと。付け根からぷつりとむしりとると、ソレは歓喜をあげた。

  「……っ、うっ……く、……ふっ、く」

  ああ、このまま俺はアレと一体になってしまうのだろう。絶望的な状況で、フリッドは涙を流す。関節をもがれ、芋虫のようになりながら、最後にはあれらのお仲間になるのだ。

  「や、だ。……おれ……やだ、よ……」

  何かを願うことは無駄なことだと、そう思っていた。絶対に叶いっこない。誰も聞き届けちゃくれない。そんな価値のないいのちなのだと、フリッドは思っていた。

  「だれか」

  身体が冷えていく。騒ぎ過ぎたせいか、声もガラガラだ。熱に浮かされたように頭は回らないし、視界もなんだかボヤけている。

  神様なこの世にいない。こんなろくでなしには誰も手を差し伸べてくれない。

  ……でも。

  「助けて……くれよ……ッ」

  届かなくても、せめて聞いてほしい。この苦しみを、認めてほしい。

  :::

  「ぉぉぉおおオオ!!」

  誰かが雄叫びを上げている。自身を奮い立たせるように、確固たる覚悟を示すように。

  無謀な試みだ。わかっている。

  勇敢さは自分を死に追いつめるだけだ。わかっている。

  優しくしたいから、義理があるから、誓約を結んだから。……そんなもの。

  「全部全部! わがっでんだっつの!!」

  ホワイトボードを引きずり、狼が廊下を駆けていく。

  理屈では分かっている。いくらこね回そうとこの行為に正当な理由をつけられない。わざわざ死ににいくようなものだ、犠牲をイタズラに増やして何になるというのか。

  それでも狼は止まらない。たとえどんなに無意味だろうと、一度決めてしまった。後戻りなどできるはずがない。

  『ソラのむこうに、いきたい』

  かつて狼はフリッドの最期を看取った。その時彼が放った言葉が、どうしても離れない。

  アイツは、本当は何を望んでいるんだろう。生きていたい、幸せになりたい、いろんな欲求があって当たり前だ。なのに死ぬ間際にはなった言葉は、ソラのむこうときた。

  きっとアイツは理想を見ているのだろう。ソラの向こう、あの鈍色の果てに救いがあるのだと、虎は思い描いているのかもしれない。

  だとしたら。いや、だからこそ。此処で終わっていいはずがない。

  フリッドの絶叫がフロアをかき乱す。まだだ、まだ終わっちゃいない。何時だって遅いなんてことはない。声が聞こえる間はまだ生きている証拠だ。

  狼は会議室をその目にとらえると、死にものぐるいで突っ込んだ。指定をちゃんと守っているなら、きっとそこにアイツはいる。

  彼らは確かにそこにいた。図らずとも、フリッドは狼の指定をしっかり守れていた。

  中の状況は散々だ。両腕をもがれ、地べたに力なく伏せている虎と、腕を宝物のように掲げる一体のバケモノ。

  血の気がすぅと引いていく。音のない映像を見せられているような気分だ。現実味というものが一切湧いてこない。

  狼の震える手が、拳銃に伸びる。銃口を、奪い去ったロクデナシに向け、狙いを定めた。

  「……たれ、が」

  狼が呟くのと同時に、発砲音が鳴る。ボトリと、持ち主のいなくなった腕が放り出された。

  「クソったれがあああ!!!」

  ホワイトボードを前に向け、狼は走り出す。

  中は[[rb:遮蔽 > しゃへい]]物の無い広い空間だ。狼の突貫をさえぎるものなど、当然ない。

  そのはずだ。だからこそ、この場に誘導するよう狼は仕向けた。唯一、キャスター付きの机などがなかったのが欠点だったが。

  クリーチャーにぶつかってもなお、狼は前進を止めない。抵抗するそれに、狼は即座に鉛玉をねじ込んでいく。

  続けざまに数発。狙いはガラス窓だ。ひびが入っているのは好都合、いまからコイツ突き落すのにちょうどいい。

  ヒビの広がった窓に狼はホワイトボードごと突っ込む。衝撃でガラスが割れ、必死になって抵抗していた出来損ないが宙に放り出された。

  「一生這い上がってくんな、ゴミクズ」

  重力に従い、どんどんソレは落下していく。真っ白な蒸気を巻き上げ、気持ちの悪い騒音を立てながら、ソレは風雨に飲まれていった。

  *

  終わった。何もかも、全部。

  割れた窓から雨が容赦なく吹き込んでくる。すべてをやり切った狼は、そのまま膝からガクリと崩れ落ちた。

  雨音に静かに、[[rb:嗚咽 > おえつ]]が混ざる。

  涙が止まらない。胸の中がぐしゃぐしゃに混ぜこねられて、考えすらもうまく纏まらない。普段から自分はこうだったろうか。もっと落ち着いていて、何事もそつなく対応できる奴だったはずだ。それなのに、この醜態ときたらどうだ。みっともないにもほどがある。

  変だ。色々と、おかしくなってしまった。あいつが、虎を助けてからというもの、何もかも変になっていった。何よりこんなに必死になって助けようとした癖に、愚かにも助けられなかった自分が、一番おかしくて仕方ない。

  「…………な、ぁ」

  背後からフリッドが語りかけてくる。ヒクリと肩を震わせ、狼はおずおずと振りむく。

  「やっぱ……ぉ前、か……」

  へらへらと力なくフリッドは笑う。今にも目蓋は閉じそうで、意識を保っているのもつらいのだろう。呼吸もむせ返り、血の混ざった[[rb:痰 > たん]]を吐き出していた。

  「ワリぃかよ、いて」

  「は、は……そうっ、じゃ……ねーって」

  あまりにも痛ましいフリッドの姿を、狼は長く見ていられない。けど、これが結果だ。コレが最善だと信じ突っ走った、その末路だ。

  認められない。こんな結末があっていいものか。確かにアレを追い払うことに成功はした。ふたりともかろうじて生きてはいる。けれど、求めていた結末はこんなものではなかった。

  「なんで」

  始めから無事に事が済むと予感していたはずだ。無知を装っているでもなし、随分とワザとらしい。

  けれど。心の奥底では無事であって欲しかった。ただの雨宿りで済んでほしかった。

  フラリと狼は立ち上がる。そうだ、これはただの雨宿り。ただ雨が上がるまで待つ、そんな変哲もない休息だ。ここで何かが終わることなどない。そんな必要など、全くないのだ。

  「……あの、さ? ォ願い、あんだ……けど」

  「んだよ」

  残段数を確認する。打ち切るつもりでいたが、まだ一発装填されていた。

  ……ありがたい。これならばまだ続けられる。この旅を、この生活を、続けられる。

  「名前……教えて、くれよ」

  「必要ない」

  「いい、だろ……? さいご、……なんだ、しさ」

  銃口をフリッドへと向け、狼は引き金に指をかけた。此処で最後にする気など、狼には毛頭ない。このまま引き金を引けば、撃鉄が雷管をたたき弾が発射される。それで続けられるなら簡単なものだ。罪悪など、覚悟と共にすでに抱いている。

  「なあ……たのむよ」

  「……」

  だからこれは、狼にとってほんの些細な気まぐれだ。何も叶わなかった、叶えてやれすらできなかった、せめてもの償い。これから先、一生呼ばれることの無い名に価値などないが、こんなもので気が済むというのなら、狼にとってはそれでよかった。

  「──」

  「……へぇ。そっか」

  「お前が無事でよかった、──」

  [newpage]

  頭が重い。岩にぶつけでもしただろうか。それにどうしてか身体もだるい。連日歩き同士だったとはいえ、指先すら動かないのは流石におかしくはないだろうか。

  重度のけだるさに苛まれながらも、フリッドは何とか首を動かす。目に映るのはいつもとは違う、家具が散見される部屋だった。天井はほんのりと低いし、収納棚には本やら装飾品が置かれている。何より床だ。固くない。無機質なコンクリではなく、温かみのあるカーペットが敷かれている。

  ここはどこだろうか。いつもだったら狼に脇腹を蹴られ、ぶつくさ文句を垂れながら起床していたはず。それから屋上に赴き、何ら変わらない曇り空を[[rb:辟易 > へきえき]]としながら眺める。そんな変哲もない日常を、過ごしていたはずだ。

  「……いや、ちがうっけ」

  そんな毎日は終わってしまったのではなかったか。拠点を移動しなければいけないと、確かそんな会話をアイツとした。だから見覚えのない部屋で寝転んでいたのか。それならば少しは納得できる。

  「……? そう、だっけ……?」

  なぜか疑問が残る。明確に、もっとはっきりと終わってしまった。そんな感覚がフリッドにはあった。

  狼との、あの口が悪い彼との関係が、終わった。修繕の仕様もなく、別れなければいけなくなった。そんな気がする。けれどどうしてそんな気がするのか、思い出せない。胸の内がくすぶって、どうしても嫌な気分にさせられてしまう。これはいったいどういう事なのだろう。

  もしかして。もしかしたら、俺はアイツの前で──

  「邪魔するぞ」

  「おひゃあ!!」

  噂をすれば何とやら。ズカズカと狼が入室してきた。いつもと同じ、毛布を目深に被ったスタイルで。

  久しく見ていなかったような、そんな懐かしさがフリッドに込み上げてくる。何度も顔を見合わせているにもかかわらず、だ。

  「なんだ、起きてたのか」

  「あ……まあ、おう」

  態度に変化は見られない。もしかしたら気味の悪いものを見る表情を浮かべているかもと思ったが、そこは普段から隠しているような男だ。全く分からない。

  こちらから聞くべき、なのだろう。これまで何があったのか。死んでしまったところを、見ていないのか。

  「……あのさ」

  「ったく、何日も眠りコケやがって。疲れたからって泥のように眠るヤツがいるかっての」

  「え」

  予想を裏切る反応に、フリッドはあっけにとられる。死んだから記憶にないのではなく、ただの過労で倒れていただけ。

  本当にそうだろうか。狼のことを疑うわけではないが、それで記憶が曖昧になるとは思えない。絶対にないと言い切れないのが悲しいところだが。

  「……」

  「あ? どした」

  「なんでも……てか泥じゃねーから! 俺はそんな汚くねぇ!」

  「いやくっっそ寝汚いぞ」

  「ウソぉ!?」

  そんなにだらしのない寝相をしているのか。思わず顔に手を触れると、しっとりとした何かに触れた。……涎のあとだ。

  「うわぁ……うわ、俺、汚すぎ……?」

  「ようやく気づいたか汚物」

  「トドメとばかりにぶっ刺してくんなよぉぉぉ!!」

  よかった。いつもの狼だ。歯に布着せぬ、相変わらずの憎まれ口だ。

  フリッドは狼の暴言に内心安堵する。けれど直後、妙な違和感が彼を襲った。

  「なあ」

  「ん」

  「俺さ、ちゃんと手、あるんだな」

  おかしな質問だ。聞いている本人ですら、首をかしげたくなるくらい当たり前のことだ。

  けれども。フリッドはほんのわずかに“手が己にある”ことがおかしいと思った。本当なら、付いていないのが正しいのではないかと。

  「……」

  狼は何も答えない。毛布の奥は今一体、どんな表情をしているのだろう。呆れてものも言えないのか、それとも侮蔑のまなざしを向けているのだろうか。フリッドには想像すらつかない。

  何かがおかしい。何かが変わってしまった。気のせいならそれでいい、ただその判別がつかない。

  「……いつまでも寝ぼけてんなよ」

  そう言い残すと狼は部屋を出ていった。

  なぜだろう。この気分も、初めてなんかじゃない。呼び止めたいのにどうすることもできない、この感覚。喉の奥に異物が引っ掛かったかのような、このもどかしさ。これはなんだ。一体全体、何があったというのか。

  一人になった室内を、外の雨音が満たしていく。

  雨はいまだ降り続いている。まだ、上がりそうにもない。