灰色のむこうがわ 11 そのさん

  狩りをする上で重要な事。それは如何に相手を追い詰めるか。ストレスを与え続け、如何に弱らせるか。それに尽きる。

  まずは音による刺激。[[rb:煩 > うるさ]]い音を継続的に、そして強制して聞かされるのは、それだけで相手の神経を尖らせるもの。それが銃声ならば、相手は否応なく警戒するだろう。『次に撃たれるのは自分ではないか』と。

  

  次第に距離を詰め、退路を狭めることも忘れてはいけない。死体や血痕を残していれば、そこから先に向かえば死ぬ可能性が高いと、そう印象付けることができる。

  そうしていけば、相手は自ずと誘い込みたいルートへと向かっていってくれる。精神を追い詰められた獲物は、案外単純な行動をするものだ。たとえ相手がどれだけ優秀な逃亡者であろうとも。

  そして彼らは辿り着いた。いや、導かれた。

  彼らが死ぬべき墓標へと。彼らが調理されるまな板へと。自ら、その場所に踏み入った。

  これから何が起こるのか、彼らは知らない。悟りすらしていない。

  そして狩人は忍び寄る。舌なめずりをして、獲物を見定めるように。

  ❋

  フリッド達の一時の休息は、一人の[[rb:鰐 > わに]]獣人によって終わりを迎えた。

  「よう、愉しんでるか?」

  彼の第一声は、さながら旧友に話しかけるようだった。そして挨拶がわりと言わんばかりに、彼は銃を放つ。

  「っグああああ゛!」

  最初に撃たれたのはフリッドだった。声をかけられ、振り返るその瞬間を一発。気の緩みを狙い澄ました攻撃だった。

  突然二の腕に走る衝撃に、フリッドは動転する。痛みとか、そんなものを感じる前に自身に何が起こったのか。状況というものが整理できないまま、その鰐──ガレッツォは歩み寄ってくる。

  「ワリぃな。お前邪魔になりそうだったから」

  打ちぬいた張本人だというのに、その男は軽くぶつかったかの如く謝罪を口にする。

  理解が追い付かない。この男は、いったい何を話しているのだろう。バクバクと高鳴る心音を耳元で感じながら、フリッドは遅れてやってきた痛みに顔をゆがませた。

  怖い。ただ純粋に、意味が分からない。

  突如やってきた鰐獣人にフリッドが感じたのは、そんな純粋な恐怖だ。たとえるなら急にリッツに助けられる前の環境に戻ったようなもの。違いがあるとすれば、彼が異常なまでに気さくなことだ。

  喉元にナイフを突き立てながら仲良くしようと握手を求められる。そんなちぐはぐな対応を、鰐獣人は行っている。

  「ここまで追ってきたか、言いなりの死神風情」

  そんな相手を前にしても、老人は[[rb:毅然 > きぜん]]とした[[rb:佇 > たたず]]まいで鰐と対面する。

  怖い、はずだ。相手は陽気に接してはいるが、いつその拳銃が発砲されるのかわからないのだから。

  「言いなり? ……あーそれな。くだらねえよなあ。都市を護るためだとか都市のためだとか」

  「……なに?」

  「そんなココロザシ高くねーよ。つかさ、アホくせえじゃん? そんなもんのために命張ろうなんて」

  カラカラと、ヘラヘラと。鰐獣人は馬鹿らしいと笑い飛ばす。

  会話の内容はフリッドに理解できない。と、言うより、ついていけない。「殺すのに目的なんかあるかよ」なんて老人を指さして[[rb:囀 > さえず]]るものだから、ますますもって意味が分からない。

  それならば放っておけばいいはずだ。けど、それならなぜ鰐からは怖気のようなものを感じるのだろう。殺そうと、しているのだろう。

  「ふざ……けるな!」

  「ハッハッハ。いや元気じゃねーの。こりゃ[[rb:嬲 > なぶ]]り甲斐あるわ」

  「だれが貴様相手に黙ってやられると──」

  「けどメンドイから大人しくなれ」

  

  殴りかかろうとする老人を、これまたヒラリと鰐はかわし、その背中を蹴り飛ばす。

  「威勢だけじゃ駄目だぜじーさん」鰐が嬉しそうにそう言うと、腰からナイフを抜き出し、倒れてうつ伏せになっている老人目掛け振り下ろした。

  「がっあ!!」

  「あーら[[rb:呻 > うめ]]き声もス・テ・キ。こりゃ益々いたぶって差し上げたいもんですなあ」

  「フザけた、真似を」

  なおも上機嫌に鰐獣人は老人へ向けナイフを振り下ろす。カラカラと、なんとも楽しそうに。

  立て。起き上がれ。フリッドは痛む腕を握りしめ何とか奮い立とうとする。

  けれどどうすれば打開出来るだろう。老人一人だけでも相手にならないというのに。自分が加勢して何とかなるものだろうか。

  思えば、フリッドの人生において、いたぶられるのは常だった。そのたびに『これは仕方のないコト』と諦めていた。反抗なんて考えたことがない。そうしてしまうと、より強い、より恐ろしい暴力を受けると知っていたから。

  ……できない。ここで自分達は殺されてしまう。助けて貰った恩を返せず、それこそバケモノのように見捨てて、自分一人だけ生き残るのだろう。

  フリッドは唇を噛み、悔しさにそっと涙をこぼす。

  きっとこれが運命だった。最初からそうであると決められた、フリッドの定め。

  「おい小僧!」

  「え」

  絶望的な状況につい、俯いてしまうフリッド。そこに、老人の檄が飛ぶ。

  はっ、とそちらを向けば、老人が振り下ろされるナイフを転がって[[rb:躱 > かわ]]していた。お返しとばかりに鰐を蹴り飛ばそうとするが、それは軽くいなされてしまう。

  「まだ逃げたいと思うか! この期に及んでまだいなくなればいいと思うか!」

  「それは……」

  なんで諦めないのだろう。もう、どうやったって死ぬことからは逃れられそうもないというのに。なんで、それよりも辛い思いをして、老人は抗おうとしているのだろう。

  もうどうしようもない、そう気落ちするフリッドに、老人は尚も声を張り叫ぶ。

  「いいか、お前はどうしようもないろくでなしだ。ヒトの好意から目を背け、ヒトの善意から逃げ出そうとする、最低最悪の生物だ!」

  「なんだ老いぼれ。命乞いしたければもっと下手に出ろよ」

  「貴様は……黙っていろ!!」

  再び老人が鰐獣人へと飛び掛かろうとする。その行為が、フリッドには直視できない。見ていて痛々しいにもほどがある。なのに老人は歯を食いしばって、果敢にも、無謀にも、鰐に食らいつく。

  もう止めてほしい。もう十分だ。誰かが傷つくのも、誰かを傷つけてしまうのも。

  「目をそらすな! かっぴらけ! またお前は見捨てるのか!」

  それでもなお、老人は叫ぶ。痛くても、苦しくても。何度躱され、痛めつけられても。それでも、老人は叫ぶ。

  「そいつを、サルビアを、背負って逃げろ!」

  はっとなってフリッドはサルビアを見る。銃弾に撃たれ、昏睡している彼女。治療を受け、ようやく助かる兆しが見えたはずなのに。それなのにまた、危機に[[rb:瀕 > ひん]]している。

  それだけは、いけない。助けて貰ったのに、苦しい目に合わせてしまったのに、それを見捨てるなんて。

  ゆっくりと、フリッドが立ち上がる。自分はどうなってもいい。けど、助かったはずのヒトを、見捨てるなんて。見放すなんて、そんなのやっちゃいけないことだ。リッツが教えてくれたヒトというのは、そんなヤツじゃない。もっと心の底から尊敬できる、いい奴だ。

  たとえそれがリッツの嘘だったとしても。それがリッツのでまかせだったとしても。ヒトとはそうあるべきだと、教わった。フリッドが教わり、信じようとした、唯一の真実だ。

  「そんな簡単に行かせると思って」

  「追わせんさ、貴様にはな!」

  ようやく老人の腕が、鰐へと届いた。しっかと掴み、もう逃がさないといった心持ちで彼は鰐へと組み付く。

  何度もかかってこられ、いい加減面倒に思い始めた鰐ことガレッツォ。ここいらで終わらせてやろう。そう思い、老人に銃を突きつける。

  ニタリと、老人が口角を吊り上げていた。まるでそれが、狙い通りだとでも言うように。

  何かがおかしい。コイツはただ闇雲に突っ込んでいただけのはずだ。気でも触れたのか。

  不審に思ったガレッツォは、とっさにあたりの状況を確認する。……違う、この老いぼれは血迷っていたわけじゃない。この老いぼれの、本当の狙いは。

  「行け! 俺が気を引いている内に!」

  「おま、やりやがったな……!」

  ガレッツォはようやく気づいた。老人の狙いに。

  老人はワザと避けさせていたのだ。フリッドから、サルビアから、脅威を引き離す。それだけのために。

  サルビアを担ごうとするフリッドへ向け、ガレッツォは銃を向ける。しかし弾が放たれる瞬間、老人に横槍を入れられ、弾は明後日の方へと飛んでいく。

  「ハハ、やるでねーの、この老いぼれが」

  「浅いな小僧。これが年の功というものだ」

  「ほざけ老害。所詮幸せがどうたらほざいてた脳無しのくせに」

  「その脳無しに出し抜かれた気分はどうだ。いいんだぞ? 己の未熟さを認めても」

  「はっ、強がりが」

  「お、おじさん」フリッドが弱々しく声音を上げる。サルビアを逃がせるのは自分しかいない。けど、それならば老人はどうするのだろう。

  「行け。行ってしまえ。その女ごと、どこか遠くに」

  「で、も」

  「行ってしまえ! このウスノロが!!」

  その言葉を皮切りに、フリッドはサルビアを背負い飛び出す。

  「──ゴメン!」そう、彼に叫んで。

  決意を無駄にするな。そう言われた気が、フリッドはした。

  老人は選んだのだ。大切なものと共にいるよりも、大切なものを守ることを。

  たとえ己の身がここで尽きようとも、サルビアには生き残っていてほしい。そのための最善の手段が、犠牲になることだった。

  背後で銃声が何発も聞こえる。それが誰に向けられたものなのか、フリッドは知らない。

  ただ振り向かず、ただひたすら。罪悪感で潰されそうになる心臓を動かしながら、がむしゃらに走る。

  逃げること以外に考えてはいけない。もう、後ろは振り向かない。そう、心に決めて。

  [newpage]

  暗がりが居住区跡を覆っている。雨が降って視界が悪い。

  そんな中をフリッドはただひたすら駆け抜ける。いつぶりだろうか、こんな風に逃げ惑うのは。

  「はぁ、はぁ……」

  息が苦しい。上手く頭が回らない。雨のせいで体温が奪われていく。

  ブーツの中まで水がしみわたり、指先の感覚がなくなってしまった。一歩足を踏み出しても、それが地面についている気がしない。足元がフワフワしていて、いつか転んでしまうんじゃないかと、内心肝を冷やす。

  でも、止まっちゃいけない。止まったら、動けなくなる。

  そう[[rb:叱咤 > しった]]し、フリッドは雨中を駆ける。

  「ふ……っく、ふ、ぅぅ……」

  先程のことをふいに思い出し、フリッドは固く目を閉じる。喉元まで込み上げてくるものを、歯を食いしばって押し込める。

  けれどそれでどうなることもなく、フリッドの足は次第に速度を落とし、ついには立ち止まってしまう。

  誤魔化しても仕方ない。誤魔化しても変わらない。

  自分は見捨ててしまったのだ。あの老人を。気難しくておっかなくて、鋭い目つきをしたあのヒトを。

  とても酷いヒトだと、フリッドは思う。話しかけ辛くて、きっと仲良くなんてなれないだろうと。

  彼がサルビアのことを思っていたのは……恐らく本当なのだろう。あのヒトは、護りたいからこそ、ああしていた。

  たとえ彼女に嫌われようと構わない。ただ、彼女に生きていてほしい。それが、あの老人の願いだった。

  「無理、だ」フリッドが呟く。

  そんな風に、自分はなれない。きっとどこかで挫けてしまう。足を止めて、もう動きたくないとすべてを諦めてしまう。

  それでも前に進まなければいけなかった。あの鰐は、すぐにでも追いかけてくるだろうから。

  『目を背けるな』老人が最後に残した言葉が、フリッドを掻き立てる。とにかく身を隠せる場所を探さなければいけない。屋根があって、風を[[rb:凌 > しの]]げて、襲われる心配のない場所を。

  「ん……ぅぅん」

  「……あ」

  「フリッド、ちゃん?」

  気だけが先走り動けずにいるなか、もぞり、サルビアが身を捩らせる。

  ……よかった、目を覚ました。フリッドは彼女の声に安堵するが、直後にそうじゃないだろとを己を叱咤する。まだ気を緩ませている状況じゃない。目を覚ましたとはいえ、まだ彼女は細く息を震わせ、辛そうにしている。

  早く屋根のある場所へ避難したほうがいい。「大丈夫ですよ」そうフリッドは励ましの言葉をかけると、取り敢えずは近場の建物へ入った。

  *

  口から吐く息が白い。だいぶ、体力を消耗してしまった。

  寒さに震えながらフリッドは建物の中を散策する。一先ず誰かがいる、という気配はないが、安心はまだできない。ここだって、安全だという保証はないのだから。

  「……あのヒトは?」

  周囲を見渡し、老人の姿が見えなかったのだろう。サルビアが不安そうに聞いてくる。

  その問いに、フリッドは答えられない。貴女を助けるために犠牲になった、なんて。

  だけどそれならなんて答えればいいだろう。知らない、なんて答えても、きっと嘘だとばれてしまう。何かあったんじゃないかと、悟られてしまう。

  「フリッド、ちゃん、答えて。あのヒトは、どこ?」

  「ゴメン、な……さい」

  「……フリッドちゃん?」

  「ごめんなさい……ゴメン、なさい……。おれ、なんも……」

  そう思い至ってしまえば、フリッドはただ謝ることしかできなかった。

  もう戻ってこない。失ってしまったものは、どうすることもできない。

  だって、あのヒトは、もう──

  「殺されちまったもんなあ? 悪ーいワニさんに」

  背後からやってきた声に、フリッドの背筋がゾワリと泡繰り出す。

  いつまのに追いついてきたのだろう。ゆっくりと振り返れば、あの鰐が息も切らさず佇んでいるではないか。

  「殺された……? ええと、それはどういう……?」

  突然の来訪者と、その彼の発言に戸惑うサルビア。

  まだ眠気がさめていないのだろう。言葉の真意を受け入れられないかのように、彼女はやんわりと聞き返す。

  「あ? そういう立場にいるって、アンタ知ってるはずだが。あれか、ついにボケたか」

  

  そう言ってケラケラと鰐が嘲笑っても、サルビアはどこか夢見心地で、不思議そうに首を傾げている。

  そんな急に、目を覚ましたら長年連れ添っていた夫が亡くなっていたとか、感情の整理が追い付かないのだろう。けれどフリッドにはサルビアの様子が、それとは別の理由でおかしいような気がした。

  得も知れぬ不安が、フリッドの脳裏をよぎる。物腰穏やかな、けれど年の功を感じさせる物言いをする彼女だが、それが今の彼女にはない。本当になんと形容すれば良いべきか。例えるなら、このまま風に吹かれて消えていなくなりそうな。突拍子もないことをしでかしそうな。そんな、一抹の不安すら抱かせる。

  そんな不安がるフリッドの頭を、サルビアはなだめるように一撫で。「下ろしてくれる?」そう耳元で言われてしまえば、断ることもできず素直に従ってしまう。

  「フリッドちゃん」

  「……なん、ですか」

  少し先には、こちらの様子を退屈そうに眺める鰐獣人。逃げることは恐らく敵わないだろう。

  そして目の前には様子のおかしいサルビア。

  気がおかしくなりそうだった。恥も外聞も捨てて叫び散らしてしまいたい。そんな感情がフリッドを襲う。むしろそんな風に狂えてしまえたら、楽になれたのに。

  そんな不安げに見つめるフリッドを、サルビアはゆるりと抱きしめる。獣毛を撫でるその手つきが、あまりにも優しすぎて。こんな危機的な状況にも関わらず、フリッドはつい、甘えたくなってしまう。

  

  「私ね、本当は……寂しかったの」

  堰を切るように、サルビアは胸の内をフリッドへと語る。

  「あのヒトの側にいて、あのヒトと結ばれて。

  幸せになってって、そう言われた時は確かに嬉しかった。ああ、ようやく憧れの幸せに、私はなれるんだって。柄にもなく浮かれたの」

  「あの、急になんの話を」

  「聞いて。ね、お願い」

  サルビアのその願いに、フリッドはこくりと頷く。ここで断ってしまえば取り返しのつかないことになる。そんな気が、フリッドにはした。

  結婚は人生最大の瞬間だ。分岐路、とも言っていい。

  これから先どんなことがあっても二人で乗り越えていく。赤の他人同士が、一生を誓い合う。それが人生おいての幸せで、少なくともそれが幸福なのだと、サルビアは信じていた。

  「あのヒトもね、昔は今と違って優しかった。ふふ、おかしいでしょ?」

  「……想像、できないです」

  「このヒトと一緒なら、どんなことだって嬉しいと思える。私にとってのあのヒトって、そういうヒトだった」

  けれど。当たり前の話だが、家族やら友達やらの間にはすれ違いが生まれるもの。互いにわかり合えるなんて考えは幻想で、実際は他人同士。折り合いをつけながら共にいるもの。

  何かを捨てる。何かを諦める。共にあるというのは小石同士を擦り合わせて丸くする過程のようなもの。

  擦り合わせて何を失うのか。それが大切なものだったかどうか。共にいるというのは、そういうものが[[rb:曖昧 > あいまい]]になっていく。

  「フリッドちゃんとこうしてお喋りしてね、久々に楽しいなって。あのヒトとはそうしてこなかったから」

  フリッドが『離れないのか』と言ったとき。サルビアは初めて自分達の関係を見つめ直した。

  もう自分にはあのヒトしかいない。それは変えようがない事実。だけど彼といて苦しくなかったかと問われれば、確かにそうで。

  「気付くっていうのは残酷ね。だって、知らなかった時の方が幸福だったって、そう思えちゃうから。

  もう戻れない。やり直せないって、不幸だなって。そう思えちゃう。……哀しいものだったのね、私の人生って」

  「……あ」

  そのままでいられたのなら、それは彼らの幸福だった。

  そうじゃないと気付いたならば、他にも選択肢があったのだと言われたら。

  ひゅうと、フリッドの喉が鳴る。取り返しのつかないことをしていたのだと、事の次第を初めて実感した。

  フリッドにとってそれはただの善意だった。辛いものは辛い。逃げていいと、そう伝えたかった、それだけ。それが今までの彼らを否定する行為だと、露にも思わなかった。

  「でも、私はそう生きていくことしかできなかったから。これが私の幸せだって、そう信じて生きてきたから」

  「あ、あの……俺は」

  サルビアが離れていく。あのレッサーパンダの老人にはできないであろう、温かな微笑みを浮かべて。

  何をするのだろうか。フリッドは気が気でない。

  取り返しのつかないことをしてしまった。そしてその行為が今、彼女を突き動かしているのなら。

  「じゃあね、フリッドちゃん。私は、私の幸せに……向かい合わなきゃ」

  「ま、待って……!」

  そうしてサルビアは、鰐の下へと歩み寄っていく。

  「茶番は終わったか?」退屈そうに欠伸をかきながら鰐獣人が言う。律儀に待つのは強者の余裕だろうか。首のコリを揉みほぐし、ようやくやってきた狩りの相手に笑みを浮かべる。

  行ってほしくない。ここで行ってしまったら、ここで殺されに行ってしまったら、老人の決意が無駄になってしまう。

  「い、いっちゃ、ダメです!」フリッドが止めようと腕を伸ばす。しかしそれは彼女の腕を掴まぬまま、空をかき切る。

  

  強引に引き止めれば止めさせることはできただろう。けどそれで何が解決するのか。もう、殺されることは既成事実でしかないというのに。

  そんな諦めが、フリッドの手を掠めさせた。要は負けてしまったのだ、この現実に。

  「お待たせ致しました」

  「おう待たされた待たされた。じゃあ早速──」

  「はい。連れて行って下さい。私達の永劫の園へと」

  「……ハァ」

  ニコニコと、笑みを絶やさぬままサルビアは右手を差し伸べる。エスコートを求める貴婦人のように。

  予想もしなかった行動にフリッドの頭は真っ白になる。こんなときに何を言ってるんだ。あの鰐は殺しに来たんだぞ。流石の展開に相手の鰐も呆れたのか、盛大に溜め息を吐いている。

  「だって、あのヒトは先に行ってしまったのでしょう? なら私も早くいかないと」

  「……あー、そういう狂い方?」

  「何を仰っているの? 貴方は永劫の園へと導いて下さる使者、でしょう?」

  「……」

  鰐は何も言い返さない。真底馬鹿にしたような、そんな呆れ顔でサルビアを見下している。

  「……ハッ、んな訳ねーだろ。ふざけんなよババァ」

  そんな風に乾いた声で言い返すのが精一杯だ。

  「それはないですサルビアさん。そのヒトはサルビアさんの」

  「私の夫を連れて行って下さった。でしょう?」

  「んな訳ねーだろ。殺してやったんだよ、この手で無様になぁ」

  「ううん、違う。貴方は連れて行ったの。私の夫を、本当の幸せを得られる場所に」

  夫の死が受け入れられなかったのだろうか。それとも、これが彼女の言うところの、幸せに向かい合うということなのだろうか。

  二人に狂っていると、腫物の目で見られても、サルビアは意に介さない。むしろガレッツォの腕をつかみ、さあ早くと急かすばかりだ。

  「ね? 今度は私の番なのでしょう? 早く連れて行って頂戴な。きっとあのヒト、一人で先に行って道に迷っているでしょうから」

  「聞き分けねーなババァ。アイツは死んだんだ。足の腱を切られて歩けなくされて、芋虫みてぇに這いつくばってなぁ!」

  「そういう洗礼なのでしょう? ホント、御冗談が上手ですねえ」

  うざったそうにガレッツォが付き飛ばす。よろめき倒れるサルビア。けれどその表情はなぜか嬉しそうだ。

  鰐獣人が言ったことが妄言だとは、フリッドでも思えない。冗談じゃなく、本当にそうして老人を殺したのだろう。それを洗礼だと言っているサルビアが、いよいよもって怖くなってくる。

  壊れてしまった。こうなってしまってはもう、元に戻るなんてことない。そう、フリッドは悟る。

  何もかも手遅れだったのだろう。老人が守りたいと思っていたことも、ここまで逃げてきたことも、全部が無駄だった。大事にしたかったものは初めから壊れかけていて、治る見込みすらなかった。

  そうでなければおかしいじゃないか。思い人をなくしたのに、悲しみの涙すら浮かべないなんて。

  「フフフ、愉しみ。永劫の園ってどういう所なのかしら。

  暖かいといいわねえ。フワフワしてて、穏やかな風が吹いていて。ああそう、雨が降っていないといいわねえ。ずーっとジメジメしていては気分が沈んじゃいますもの。ねえ?」

  虚空へ向かい、サルビアは語る。譫言を、夢のような理想の園を。

  鰐のこともフリッドのことも、彼女の目には映っていない。そこに映るのは穏やかなセカイ。どこかにあるかもしれない、行きたいと切に願う場所。

  「サルビア、さん」

  「フ、フフ。なあに」

  戻って来てほしい一心でフリッドは呼びかける。そんな場所はこの世に存在しない。一人でどこまでも放浪してきたフリッドだからこそ、それが分かる。

  不死者を受け入れてくれるヒトなんてどこにもいなかった。どれだけ求めようが、歩き続けるほかなかった。ずっと一人で抱える傷で、永遠に蝕み続ける理想でしかないと。

  サルビアは返事こそ返してくれる。けど反応としてはイマイチだ。まだ正気とはいえない。

  「フリッドちゃん、大丈夫。私、今度こそちゃんと幸せになってみせるから」

  「そんなのどうでもいいです! どうでもいいから」

  「だからまた逢いましょう? あの永劫の園で──」

  そう言い終えるか終えないかといったところで、ズガンと重い銃音が鳴った。

  にこやかにほほ笑むサルビアから、血飛沫が舞う。「うざってぇんだよババァ」そうガレッツォが吐き捨て、続けて二発彼女へ向け打ち込んだ。

  サルビアの体内を巡る鮮血が、フリッドに降りかかる。恋しいとすら思えるそのぬくもりが、彼の琥珀と黒で構成された毛皮を緋色に染める。

  「フリッド、ちゃ」そしてもう一発。

  ゴポリと、サルビアの口から血がこぼれる。静かに笑みをたたえ、フリッドを見つめている。

  そして彼女はぐらりとよろめくと、自身がつくった血溜まりへと身を沈ませる。その口が言葉を紡ぐことは、もう訪れることもなかった。

  [newpage]

  赤い花が咲いている。作物なんてマトモに育たないこのセカイで。真っ赤な花が咲き誇っている。

  「あ……あ、あ……」

  虎の青年がそれを見つめている。へたれ込み、瞬きもせずにただじっと、それに目を奪われている。

  涙が溢れるのはそれが美しいものだからか、それとも哀愁に浸っているからか。ただ痴呆のように、壊れたかのように声を漏らすばかりだ。

  「ようやく黙りやがったか、このクソババァ。夫共々面倒くさいことしやがって」

  鰐獣人ガレッツォがため息交じりにそう呟くと、可憐に咲くその花を踏みにじる。

  彼にとってそれはただの脱け殻。異臭を撒き散らすゴミ同然だった。ゴミに敬意を払うものなんて、それこそ熱心な収集家くらいなもの。踏まれたところで文句を言う輩なんて存在しない。

  「あーあ、もう少しじっくりいたぶりたかったんだがなあ。流石にキモすぎ。ヤクでもキメたのかコイツ?」

  はじめこそ楽しく花を踏み散らしていたガレッツォだったが、次第に飽きてきたのだろう。靴跡で汚れてしまったそれを、邪魔だとばかりに蹴り飛ばす。

  それでも花は笑っていた。その身をいくら汚されようと、その微笑みを絶やさなかった。

  きっとこれこそが幸せだと、信じて疑わなかった。そうなることが花の幸せなのだと、それは信じていた。他人がどう言おうと、これが幸せへ至る道だと。

  「なんで……?」

  虎獣人フリッドは問う。今は亡き、その花へ向けて。

  死んでしまえたらいい。ずっとそれだけを望んで生きてきた。殺されることに疲れ、生きていくことにも疲れて。簡単にいなくなってしまうまわりに置いていかれて。なにもかもを諦めてしまえば、楽になれた。

  けれどフリッドにはそうできなかった。ヒトが死ぬのは、哀しいことだ。誰かがいなくなってしまうのは、哀しいことだ。

  生きていて欲しかった。そんなものを幸せだなんて、言ってほしくなかった。もうそれを望むことすら叶わなくなってしまったが、フリッドは彼女にこそ、救われて欲しかった。

  もう何を望んだところで、すべて無駄なことだが。

  「さっ、後はお前一人だけ。消化不良な分楽しませてくれよ? なあ」

  失意に暮れるフリッドの胸倉を、ガレッツォが掴み上げる。そのままフリッドは無理やり立たされると、こめかみに銃を突きつけられた。

  「お前は死ぬの怖いよなあ。切り刻まれて突き刺されて。ああ、皮を剥いでやるのもいい。俺の肌は毛に覆われてないから知らんが、きっと想像を絶する痛さだぜ?」

  「……」

  「ん? 聞こえてるかー? おネンネにはまだはえーぞー?」

  「……ふざけんなよ!!」

  そういうや否や、フリッドはガレッツォを突き飛ばした。

  死ぬのなんて怖くない。どうせ生き返ってしまうから。

  痛めつけられるのはどうってことない。大半のことなら経験済みだ。

  そんなことよりももっと辛いことがある。殺される瞬間を見て嘲笑う存在が、見ていて信じられない。酷い目に合っているのに、それをヤラセとして楽しんでいる、そんな奴等が許せない。

  サルビアを殺しておいてなんの感傷すら抱かない、目の前の鰐が許せない。

  「なんで楽しそうなんだよ……なんでそうやって喜べるんだよ!

  ヒトを殺したんだぞ?! もっとこうあるだろ、取り返しのつかないことしたって」

  「はあ?」

  何もしなかったから失った。それならまだ自信が悪いとフリッドは非難できただろう。憤りを、自身の不甲斐なさへと向けられただろう。

  けどこれは違う。これは失ったのではなく奪われたのだ。非道にも、目の前の鰐獣人に。

  「こんなことしてなんになるんだよ! 目の前のヒトを殺したとこで欲しいものなんかなんも手に入らない! そんなことして何が楽しいんだ!」

  かつて痛めつけられていたことを、しょうがないと切り捨てた。そんなフリッドだからこそ、憤る。

  それは当然であってはならない。ヒトを傷付ける行為は正しいと言ってはいけない。ヒトというものをリッツに教わったからこそ、こんなものに意味がないと、フリッドは訴える。その行為に意味がなくとも、黙ってなんかいられない。

  「なんとか言えよ、なんでコレが楽しいことなのか、説明してみせろよ!!」

  「説明なんて必要あるか? こんな茶番に」

  「……は?」

  「殺しに理屈なんてあるか。アイツが邪魔だから殺す。アイツがムカつくから殺す。

  大体おかしいにもほどがあんだよ、護るとかどうとか理屈語る奴は。生き物ってのは本来殺しあうもんなんだよ。命を奪い、食つなぐ。そうして生きていくもんさ。

  あるわけねーだろ理由なんざ。世の中みーんな自分のことしか考えちゃいない。自分さえよければなんだってよし。

  それでもとってつけて欲しいなら……俺の娯楽だ。面白おかしく、殺されてくれや」

  

  ガレッツォにとって殺しとは娯楽だ。恨まれようが憎まれようが、そんなことどうだっていい。煮え[[rb:滾 > たぎ]]る[[rb:鬱憤 > うっぷん]]を晴らせるならそれでいい。

  そこに正当性なんてものは存在しない。介在すら求めない。生きるということは必ず、何かしらを犠牲にしているのだから。

  「お前だってそうだろうが。食いもんは元を辿れば何かしらの生命。そーゆーモンを食らって生きてくもんだ。

  まさか、自分が手ェ下してねーからノーカンだ、なんて言わねぇよなあ?」

  それを仕方なくというのなら、それは綺麗事だ。当たり前から目を背け、罪の意識から逃れようとしている。

  幸せになりたいだとか、護りたいだとか、そんなものの前では理屈でしかない。

  「どーよ、納得できたか?」ガレッツォがフリッドの耳元でそう囁く。横目で見る彼の眼は今にも貪りたくてたまらない──そんな、捕食者特有のギラつきを見せていた。

  「……じゃあ、サルビアさんが殺されるのは当然だったって、言うのか」

  「あ? 誰だそれ。肉に名前なんてつけるのかお前。ぶっは、それ傑作! お前コメディアンの才能あるんじゃねーの?」

  

  笑い話なんかじゃない。冗談を言ったつもりもない。

  けれどガレッツォは笑い転げている。額に手を当てて、心底おかしいジョークだと[[rb:嗤 > わら]]っている。

  それが、フリッドには我慢ならなかった。

  「ころ……せよ」

  「あ? なんて」

  「だから殺せよ。こんなものが楽しいって言うなら。こんなのが面白いって言うなら」

  精一杯の恨みを込めて睨んでも、きっとこの鰐は涼しい顔で返すだろう。なんの感慨もなく、そうして無惨に自分もサルビアたちの後を追わせるのだろう。

  なら、フリッドが出来ることは一つ。

  そう簡単に殺せないと、相手に叩きつける。どうせ死なない身体だ。そんなもの無駄だって、突きつける。それが、唯一の抵抗だ。

  こめかみにあてがわれた拳銃が火を吹く。フリッドの目に、紅い火花が飛び散る。

  「がっ、あ……!」

  「おう。お望み通り、お熱いの一丁」

  熱い。イタイ。キモチワルイ。

  アタマの中の大事な部分を、鉛玉が貫いていく。楽しかったと思えた記憶とか、悔しいと思えた記憶とかが抉り取られていく。かなしみも怒りも、奪われていく。

  フリッドの視界がグラリと揺らぐ。天と地がひっくり返る。そう思ったら後はもう、ただ滑り落ちるように倒れるしかなかった。

  「オイオイ、呆気ないなあ。これでオシマイ、じゃあないだろ」

  ケラケラと、せせら笑いが降り注ぐ。けれどフリッドの耳にそれが届くことはない。脳内を駆け巡っていく激痛が、外の刺激すらかき消していく。

  そうして仰向けに倒れたフリッドにガレッツォは跨ると、ナイフに持ち替え、胴体目掛け振り下ろす。

  「あっ、あ゛あ゛!!」

  「んーいい反応。そこいらの女より良く喘いでくれるじゃねーの」

  「あ゛あ゛ア゛ぁ゛」

  「散っ々溜まっちまったからよぅ、フラストレーション限界なんだわ、俺」

  フリッドの耳元まで顔を近づけ、ガレッツォは囁く。

  「だから……お前、俺の慰みになってくれよ」

  それが、彼の解体ショーの合図だった。

  猟奇的な笑みを浮かべ、ガレッツォは何度もフリッドへナイフを振りかざす。戯れにスレイブと文字を刻んだり、かと思えば太腿にナイフを突き立て、股関節まで切り裂いてみたり。

  切り傷に爪を立てて抉ってやれば、なんとも甘美な悲鳴をフリッドは響かせる。痛めつける度に泣き叫ぶフリッドがたまらなく可笑しくて、ガレッツォはまたナイフを振りかざす。

  次はどうしてやろう。腹を切り開いて臓器を引きちぎってやろうか。爪を剥いでやるのもいい。

  気持ちいいくらい良く反応を返すフリッドに、ガレッツォは大興奮。老体を嬲るのではこうはいかない。大抵はすぐに弱っていってぽっくりお陀仏になってしまう。

  だからというべきか、同時に違和感も抱く。大体脳を打ち抜いているのだから、徐々に声が弱まってくるものだ。なのに目の前の虎は一向にその様子を見せることがない。

  「んー? なんかお前、丈夫すぎね?」

  嬲り続けるのに夢中でガレッツォは気づかない。彼が最初、大人しくさせるために撃ったはずの二の腕。その傷が、塞がっていることに。

  フリッドの身体の異常にガレッツォは不審に思いながら、それでもナイフを滑らせる。まあ、長く遊べるのならそれに越したことはない。刺すたびに新鮮な叫びが聞けるなら、こんなに気分がいいこともない。

  こんなに愉快なのはいつぶりだろう。ここまで歯ごたえのある獲物なんて、そう巡り合えることじゃない。

  老人相手では満足に痛めつけられない。それだけがガレッツォにとってネックだった。

  もっと泣き叫べ。もっと乱れ狂え。行き場のない渇きが満たされるまで、存分に楽しませてくれ──

  あまりにも虎がしぶとく息を永らえるものだから。あまりにも気持ちよくあえいでくれるものだから。

  だから、ガレッツォは忘れてしまっていた。本当なら、こんなに遊んでいる時間がないということに。血の匂いに誘われて、やってくるであろう脅威の存在を。

  初めに気づいたのはフリッドだった。いたぶられ、意識が途切れ途切れになる中、ふとあたりが白んでいっていることに。

  だからどうした、という話だが、フリッドにはふと嫌な記憶がよぎっていく。痛みで麻痺している筈なのに、脳は鮮明にソレを想起させる。

  ──クリーチャーだ。あの得体のしれないものが、やってきた。

  「……くそ、興奮しすぎた」

  遅れてガレッツォも異変に気付く。

  これだけ血の匂いが立ち込めているのだ。そこに生き物がいると教えているようなもの。

  襲って来るその前には虎獣人を殺している。ガレッツォはその算段でフリッドに暴行を働いていた。誤算だったのは、彼が不死性を持ち合わせていること。そして、彼の叫びに思わず熱中してしまったことだ。

  白煙が濃くなっていく。嬲る手を止め、舌打ちするガレッツォ。

  確実に気を取られている。そのチャンスを、フリッドは逃さなかった。

  「っがあああ!」

  「なっ……!」

  首根っこを鷲掴み、体制を逆転させる。

  油断していた。まさかここで抵抗されるとは夢にも思わなかった。

  ギリギリと首を締め付けられるガレッツォ。振りほどくのは容易だ。手負い相手に油断してしまったが、そんなものに負けるほどガレッツォも落ちぶれてはいない。

  それに、なんとも滑稽だ。相手は喧嘩すらマトモにしたことがないのだろう。ガレッツォはニタリと笑い、挑発するように口を開く。

  「なんだ、殺さねえの?」

  フリッドの腕がヒクリと動く。馬乗りになって、鬼気迫る表情で首を絞めている。

  殺せ。殺せ。殺せ。

  コイツは大勢殺してきた。狼も、老人も、サルビアも。死ぬことが当たり前だと言い放ち、みんな殺してきた。

  だからここでこの鰐は殺してやる必要がある。例え誰も帰って来なくても、この男だけは生かしておけない。

  精一杯、自分が出せる全力をもって、フリッドは首を絞める。絞めている、はずなのに。鰐はどこか余裕の表情を浮かべている。全く苦しくもなさそうだ。

  『ヒトを恨むなよ。例えどんなことがあっても』

  不意に、声が聞こえてきた。もういない、リッツの声。

  

  フリッドの指に籠もる力が、徐々に抜けていく。

  ……できない。自分には、ヒトを殺すことが。

  「……はっ、腰抜けが」

  その言葉と同時に、フリッドに走る衝撃。

  気力が抜け落ちていく。そのまま重力に従うようにガレッツォへと倒れ込む。

  「あーあ、最後に面白いモン見れると思ったんだが……見当違いか」

  ああ、撃たれたのか。心臓を、一撃で。

  霞んでいく意識に落とされる声を、けれどフリッドは上手く聞き取れない。

  「じゃなあ腰抜け。そのままバケモンに喰われて終わっちまいな」

  鰐が去っていく。みんなを殺した男が、いなくなっていく。

  ゴメン、やっぱり何もできなかった。

  フリッドは失意にくれながら、悔しさを抱きながら。

  そうして、意識を手放した。

  [newpage]

  ぼんやりと意識が霞むなか、フリッドはゴードンの声を耳にした。

  二重にも三重にも反響するその声は、上手く言葉として聞き取れない。何かを探っているようだが、霧散していく意識の中ではそれが何かを伺えない。頭に入ってくるものを、情報として受け止められず、するりと抜け落ちていく。

  『そうですか。貴方が、そうだったんですか。皆が求める理想を、皆が願った夢を、貴方が持ち得ていたとは』

  理想。夢。それを持っている自分。

  何を言われているのかフリッドにはさっぱりだ。けれど、それでもゴードンは嬉しそうに声を弾ませている。

  『またお会いしましょう、福音の子。人類の夢の先駆者樣。

  次に目覚められますその時が……貴方の救いであるように』

  そして声は、ゴードンは、遠ざかっていく。

  福音の子ってなんだ。人類の夢の先駆者って、いったい。

  けれどもそんなものを考えるよりも先に、フリッドの意識はだんだん薄れていく。

  白い微睡みに、溶けていく。

  ❋

  フリッドが次に目覚めた時、辺りには何もなかった。

  「……あれ」

  知らない床。血塗れの地面。覚えのない光景。

  眠っている間なにかが起こったのは明白で、けれどフリッドは何も思い出せない。

  そもそものハナシ、ここは拠点じゃない。いつの間に移動していたのだろう。そして、この一面に広がる血は、誰のものなのだろう。

  「……もどら、なきゃ」

  自分の毛に絡みついた赤色をぼんやりと眺めていると、そんな言葉が口から出てきた。立ち止まってはいけない。絶えず、進まなければいけないと。

  けれど、どこへ? 待ってくれるヒトなど、自分にはいないはずだ。

  けれど自然と足は動いた。重たい足取りだが、それでも歩はゆっくりと、前へ。

  屋外へと出れば、いつものように重苦しい鈍色が出迎えてくれた。フリッドがずっと嫌だと思っている、暗い空。

  ヒトはいつかあの空へ昇る。リッツはそう言っていた。

  あの灰色の向こうに、いるんだろうか。リッツは。あそこで、待っていてくれているのだろうか。

  きっとそんなことはないのだろう。薄々と、フリッドは感づいていた。

  失ったものが戻ってくることはない。ならば、きっとそんなものはただの夢で、妄想にしか過ぎないのだろうと。

  そして生きながらえ続ける自分は、そんなものにすら縋れない。

  喜びも楽しみもどこにもない。喪失だけを背負う、人でなしなのだから。

  

  ❋

  そして長い時間をかけ、フリッドは狼との拠点へと戻ってきた。

  戻っても仕方ないことは、フリッドだって分かっている。きっと自分はまたしても、すべて失ってしまった。だから、ここにとどまっていても仕方ない。

  狼は、死んだ。

  きっと自分が愚図だったから。何もできなかったから、殺されてしまった。

  「……しにたい」

  もういいだろう、こんなセカイを歩き回るのは。

  もういいだろう、ヒトに好かれたいと願うのは。

  結局なにをどう足掻こうが、嫌われることは確定しているのだ。期待も希望もするものじゃない。どうせ最後にはいなくなる。どんなに足掻こうとも、どんなに切望しようとも。

  ならいっそ、二度と目を覚まさなければいい。

  朝も夕もなく、ヒトに触れず、ひたすら眠り続けてしまおう。

  だって。こんな自分に居場所なんて、何処にもないのだから──

  「っ、フリッド!」

  失意に飲まれ、膝から崩れ落ちるフリッドに声がかかる。

  もういい。何もかも失ったのに、これ以上何も期待したくない。

  けれどその声に胸がざわめいてしまう。フリッドという抜け殻に、感情という熱を走らせる。

  気だるげにフリッドが振り向いた。そこには、息を切らせながら佇む狼の姿。

  「何があった……って、違う。その……」

  しどろもどろと、狼が言葉を紡ぐ。いつもは[[rb:毅然 > きぜん]]としているはずの彼の意外な態度に、フリッドも呆けていた。

  胸の底に、熱いものが込み上げてくる。どくりと鼓動を鳴らし、全身に巡っていく。

  この気持ちを言葉にすることが、フリッドにはできない。ただ鼻の奥がツンとして、涙があふれてきそうで、どうしようもなくなる。

  『フリッドちゃん』

  ふと、フリッドの胸に語りかけるものがあった。

  そうだ。こんな時にやれることを、自分は教わった。

  いつだったか巡り合ったもの。そして今はもう失ったもの。

  血まみれで泣きじゃくりながら、フリッドは狼に向け言葉を放つ。

  「……おかえり。おかえり、なさい……っ」

  忘れてしまった者へ、せめてもの罪滅ぼしになるように。確かに出会ったその事実を、今に結び付けるように。