广告广告
  
グレイマジック11夜の帳の内側で

  [chapter:王宮のゴースト

  ]

  湖に面した離宮のホールで、シュバリスはじっと目の前の光景に見入っていた。

  待ち合わせた星削宮のエントランスからいっしょにやってきた、すでに顔なじみである聖遺物研究の老学者や春以来じぶんを質問攻めにしてきた若い研究者たちにまざって、シュバリスはおとなしく壁際のベンチでジュースのグラスを手にしていた。

  彼女のいる場所からは会に集まったひとびとの様子が一望できた。グラスのぶつかる音とひとびとの笑い声が混ざり合う、さほど広くないホールに集った数十名はいずれもセレスタイン家と近しい貴族たちで、妍を競って装う女性と男性の群れは、じぶんが子どもにもどっていることもあってひどく大きく眩しくシュバリスには感じられた。今は本格的に会がはじまるまえの[[rb:食前酒 > アペリティーヴォ]]の時間だ。久闊を叙する大人たちの社交のひととき、挨拶を交わしご機嫌を伺いあう一種の狂騒状態はやみそうにない。

  黙って観察を続けるうち、色とりどりの熱帯魚にしか見えない彼らのなかでも、はっきりと派閥や序列が存在すると気付いてシュバリスはひそかに感嘆した。この場でもっともひとびとの注目を集めて派閥と序列のトップを築いているのはユーレアイト家のふたり、アルテミシアとアルジュナだ。やはりアルジュナもこの会によばれていた。若く美しい未亡人として知られているらしい母、アルテミシアのもとには男性陣が殺到しており、追従と賛美を口にする母親の取り巻きたちに息子のアルジュナは輪からはじき飛ばされていたが、しかしアルジュナのほうにも高名な貴族の子息息女がご機嫌とりに殺到しており、アルジュナも彼らをさばくのに精一杯のようだった。いっぽう対照的に、多くの人々に取り巻かれながらもひっそりとしているのはカルセドニー家で、おとなしげな風貌の当主と妻、そして息子であるユアンは、ごく親しい貴族たちとだけゆったりと会話を交わしていた。両者のあいだでは時間の流れすら異なるようだった。というより、相手にしている客層が、両者ではまるきり異なっている。カルセドニー家の周囲には、年配の男女やいかにも学識のありそうなひとびとが集まっていた。

  「や、久しぶり。元気だった?」

  と、カルセドニー家の輪のなかから、じぶんもおなじく輪の中心と化していたギネヴィアが抜け出てシュバリスとアイドクレーズのもとへやってきた。ギネヴィアは相変わらず全身に生命力をみなぎらせており、いつもおおざっぱに結ばれている栗色の髪を今日は綺麗に結い上げてラベンダー色のドレスを身につけていた。溌剌として清冽な色香を放つ彼女には、アルテミシアを取り巻く男性たちからも時折興味深げな視線がむけられていた。ギネヴィアはシュバリスの見たところ、ユアンの同伴者としてすでに老齢に達しパーティーが億劫そうなカルセドニー夫妻にかわって貴族たちとのおしゃべりを引き受けていたが、「やっと親しいお友だちも来てくれたようだから」と、夫妻の知り合いが到着したのをしおにシュバリスたちのもとへ来た、とにっこり笑った。そして、深く入ったスリットからかたちのいい足がのぞかせながら、ちらりとユアンを見やって皮肉っぽくつぶやいた。

  「王子サマも王子サマでいろいろ忙しいみたい。もっとも投げられる話題の大半は、うちの娘とお見合いしないかとか、うちの孫娘は遠縁の[[rb:娘 > コ]]は、のようだけど。いちおうわたしが同伴してるのに失礼きわまりないよねえ。彼もそのためにわたしを誘ったんだろうけど、みごともくろみは大外れってわけだーーふうむ、見たとこわたしの出番はもうなさそうだな、発表が始まるまでヒマになっちゃったわ。シュバリスにアイドクレーズ、君たちは退屈してない? 平気?」

  今日はギネヴィアは、ユアンとの身長差を慮ってかヒールの低い靴を履いている。どさりと隣に座ったギネヴィアに、シュバリスは微笑んだ。

  「幸いまだ退屈はしておりませんわ。このような場は初めてですので興味深く拝見しております。このあとの発表を思うと緊張してしまいますけれども」

  「そう? そのわりには落ち着いてみえるけど。ねえーーそれ[[rb:蝶袖服 > キーノ]]だよね、エイシャのほうでよく着られてる。すごくよく似合う、それ着ると女の子はすごく嫋やかにみえるんだよね。アイドクレーズの見立て?」

  「はい。アイクが準備してくれました」

  「お手柄お手柄、いいセンスしてる」ギネヴィアの賞賛に、アイドクレーズは恐縮顔で一礼した。「アイドクレーズも蝶袖だったらよかったのに。わたしはそっちも好きよ、男の子が着るとそれもかっこいいしね。でも筒袖もよく似合うーーそういえばシュバリスはエイシャ出身だったっけ。でも蝶袖ってたしか、エイシャでももっと東のほうの?」

  「はい、ヤハンです。[[rb:筒袖服 > クラーズ]]も動きやすくて最近は重宝しておりますが……、でもあの」

  シュバリスがヤハン出身かどうか訊くのは、蛇神シュバリスかどうか疑っているからだろうか。ひそかにいぶかしみながらシュバリスは話題を変えた。

  「恐れ入りますがドットール、お訊ねしてもよろしいでしょうか。ここはどこなのでしょうか? さきほどの星削宮には何度かお邪魔したことがあるのですが、今夜は魔法陣で一気にこちらに誘導されたので、位置がつかめず困惑しておりまして。こちらも王宮の一部なのですよね?」

  いつもハダルを訪ねて彼女が入る王宮は縦に長い。ベイジを訪れたとき街の様子が千年前と違うのでシュバリスはたいそう驚いたが、いま現在皇族の住居である星削宮も、ベイジはじめエウレシアの各都市を席巻し始めているという[[rb:大型建築物 > ビルディング]]と呼ばれるものに近かった。いや、星削宮にいたってはビルではなくもはや巨大な[[rb:塔 > タワー]]だ。初めて訪れたとき「これがお城?」とシュバリスは唖然としたものだ。そこかしこに隠し部屋や隠し通路が設置され、周囲をぐるぐると急階段や急坂や[[rb:狭路 > クランク]]にとりまかれているのが彼女の知る城塞であり城郭だったが、ハダルが両親とたくさんの使用人に囲まれて住んでいる王宮は、ぽっかりとひらけた見晴らしのいいミクラ中心部にそびえ、内部はとにかく快適性と利便性最優先の造りだった。「こんなんでほんとにだいじょうぶ!?」と、戦時に青春を送ったシュバリスなどはうっかり云いそうになったものだ。ひょっとしたら有事にそなえて隠し通路くらいは作ってあるのかもしれないが、ぱっと見にはまったくそんなふうに見えない。シュバリスのことばにギネヴィアはうなずいた。

  「いまは攻城を想定して戦に特化したお城を建てたって無用の長物だし暮らしにくいしいいことないしね。ラーゼス陛下ももちろん皇帝としての備えはしてらっしゃるでしょうけど、まずはご家族が暮らしやすいようにいまのお城を設計されたってきいたことがある。陛下ももとは建築家でいらっしゃるからね……知ってる? 大学時代は魔法建築を専攻されてらしたのよ現皇帝は」

  「そうなんですか?」

  「うん。で、ヴァナディス陛下は医学部で、卒業後はしばらくお医者さまとして大学病院にいらしたから、皇室史上もっともアカデミックなご夫婦として当時は評判だったんだって。ユアンがそう云ってた」

  「なるほど」ヴァナディスの、いつも抑制された物静かな立ち居振る舞いに納得していると、「でもこの王宮のほうが現王宮よりずっと格は上なのよ」ギネヴィアがおごそかに云った。

  「というと?」

  「じつはここは、初代皇帝陛下が暮らしていた王宮で、セレスタイン家のはじまりの場所なのですって」

  「初代皇帝」

  シュバリスは目をぱちくりさせた。

  「ということはハルトガルトのーー?」

  「そう、初代が建てたの。たしか[[rb:寧華宮 > ネイカキュウ]]って名前なのよここは。わたしたちのいまいるホールだけはハルトガルトの孫だかひ孫だかが後からつけたしたんだけど、そっちの扉から行った奥は当時のまま。ハルトガルトとドーリスが暮らしてた居室があって、発表の会場はそこよ」

  ギネヴィアは、ホールの奥にある重厚な木の扉を指差した。全面に草木や花の[[rb:浮彫 > レリーフ]]が施され、申し訳程度にセレスタインの紋章が隅っこに彫られている。ギネヴィアはくすりと笑った。

  「あのセレスタインの紋章もねえ。『盾の上にS』ってやつ。でも当初ハルトガルトはあの印を使ってなくて、単に真っ黒な旗だけ掲げて自分の旗印にしてたらしいね。だからいまの紋章は、統治が落ち着いてから[[rb:標章 > シンボルマーク]]としてひねり出されたもので、あの扉も、最初は寧華宮って名前にあわせて花模様を彫ってはみたものの、やばいうちの紋章いれとくの忘れてた、で後から付け足したんじゃないかと対物専門オルリドのギネヴィアさんなんかは思うわねえ」

  「ーーああ。そういえば」

  そういえばそうだった、とシュバリスはぼんやりと思い出した。セレスタインの紋章についてである。最初に指輪を拾った時も、だから彼女はまるっきりセレスタインの紋章に見覚えがなかったのだ。ギネヴィアは、今日はきちんと指に嵌めた優秀者に贈られる指輪を撫でて微笑んだ。

  「今夜は[[rb:原本 > オリジナル]]がどう変わったか、ハルトガルトがかけた魔法を解明する発表会だから、皇帝陛下がここがふさわしいと思って会場にお選びになったんでしょう。粋よねえ。でも、この王宮そのものが帝国の重要文化財であり世界遺産だから、研究所のおじさまおばさまがたはすごーく浮き足立ってるよね」

  「ああ。それでーー、」

  ホールの隅っこでぶつぶつと発表の練習をしている研究者たちはいずれも緊張した表情だ。「じぶんは畑違いなのでこうしてリラックスしていられる」とギネヴィアはくすりと笑ったが、シュバリスは別の意味で愕然としながらあたりを見渡した。実はシュバリスは、この建物に入ったときから妙な違和感をおぼえていたのだ。

  (というより、懐かしいといったほうが近い。たぶんわたし、ここを知ってる……)

  ハルトガルトが建てたとしたら。そして千年前からこの城があったとしたら。シュバリスは急に好奇心に駆られた。

  「あの、ドットール。わたしちょっと、他の部屋を覗いてきてもいいでしょうか?」

  ギネヴィアが教えてくれた扉とは反対方向に、キッチンに続いているのかひっきりなしに使用人が出入りする扉があって、ほかにも、食前酒とともにサンドイッチやビスケットといった軽食を載せたワゴンが運び込まれるたびにかすかにドアの開閉する音が響いていた。

  「いいよ。わたしもちょっと庭に出てこようかな。夜風が恋しくなっちゃった」

  ギネヴィアも立ち上がったが、その瞬間顔をしかめた。たしかにユアンのいうとおりあまり体調がよくないようだ。どことなく顔色が悪い。犯人では、という疑いがあったのでギネヴィアのことはつねに視界にいれて行動を見ていたが、思い返してみると、勧められてワインやシャンパンのグラスを手にしていたものの口をつけている様子がなかった。

  「お仕事、お忙しいんですか?」

  それとも別のことで? 再びいぶかしむシュバリスの質問に、ギネヴィアはまったく気にする様子もなくへらりと笑った。

  「うん、まあいろいろ。でもいまはとりあえず足が痛いかな。この靴、今夜はじめておろしたんだよねーーじゃ、あとでね」

  ギネヴィアは立ち上がると、それでもじゅうぶんしっかりとした足取りで庭へとつづくステップを降りていった。庭に面した巨大なガラス窓は、金色の窓枠に仕切られて蛇腹状に折りたためるようになっている。いまは夜風を防ぐため半ばまで閉じられていたが、端っこの一部はふんわりとしたシフォンのカーテンで覆われて、徐々に落ち始めた月の光と柔らかな風がそこから吹き込んでいた。ギネヴィアはそちらに消えていったーー「尾けてきましょうか」とアイドクレーズが何食わぬ顔で云った。

  「もし彼女だとしたら、いま帰り道であなたや小僧を襲うようだれかに指示をだしているかもしれません」

  「かもね。いいわ、行って」

  「承知」

  アイドクレーズが追った。が、すぐに愕然とした顔で戻ってきた。「消えました。どこにもいません」

  「消えたーーえっ?」

  わずか数秒。こんな短時間で、とシュバリスが驚いていると「どこにも姿がありません」とアイドクレーズが顔をしかめた。「陣で別の宮に行ったかどこかに身を潜めたか、それともほんとうに体調が悪くて帰った、という可能性もありますが」

  「教官がまだいるのに帰るのは、ありえないように思うけどーー?」

  ユアンは楽しげに年配の老婦人と会話している。とっさにアルジュナに視線を向けると、カレンといっしょに壁際に移動してジュースのグラスに口をつけたところだった。今夜はカレン・ジプサムも招待されていたようだが、カレンではいざというときアルジュナを守れない。頼みの綱のアレクセイは、とちょっと焦ってホールじゅうを見渡すと、アレクセイは長兄といっしょだった。巨体を窮屈そうにスーツに包んだテディは、顔を赤くしながら末弟にしきりと話しかけ、アレクセイは冷酷に顔を背けている。やがてアレクセイは、誰も見ていないのを素早く確認してテディの膝裏に蹴りをいれ、脱兎のいきおいであるじの元へと駆けもどっていった。アレクセイを迎えてアルジュナがいたずらっぽく笑い、じぶんとカレンの間にアレクセイを押しこむーーテディは悄然とユアンのもとへ戻っていった。兄弟どうし親睦を深めようというもくろみははずれたようだ。

  それにしてもギネヴィアがあっさり消えたとはどういうことか。シュバリスたちが考え込んだところで、ホールの隅からざわめきがあがった。ふりむくと、皇帝一家が姿を現したところだった。はじめて目にする皇帝ラーゼスの姿にシュバリスは目を見開いた。ハダルに似ていたーー黒い髪は夜の闇のように濃く、瞳は海のように青い。客たちをゆったりと見渡し、口元に穏やかな笑みを浮かべている。ハダルほど[[rb:初代 > ハルトガルト]]にそっくりではなく、ラーゼスのほうが甘やかで柔和な顔立ちだった。彼の隣には、今日は豪華なダイヤモンドのネックレスと青いドレスに身を包んだヴァナディスが寄り添い、二人の後ろにはカフスまで黒いサテンのドレスシャツに黒いジャケット、黒いスラックスと黒い革靴に身を包んだハダル。またいちだんとやつれた様子だったが、どこか影のある眼差しが、そこにいるのがいつものハダルではなくもうひとりのハダルではないかという錯覚を起こさせた。さすが皇帝一家というのか、居並ぶ王族貴族たちとは異次元の重厚な空気が放散されている。もっともそれは、ものものしく彼らを取り囲む大勢の護衛の存在がそう思わせたのかもしれなかった。

  皇帝と皇妃がひとびとの輪に混じり、皇子であるハダルは、寄ってくる貴族の子弟たちにむけてはちょっと笑みをみせるだけで冷たく手をふって追いやると、まっすぐにシュバリスめがけてやってきた。

  「来てくれたんだね。ありがとう」

  「どういたしましてーー体調は?」

  「十分前まで寝てた。だからいまはちょっと気分がいい。ただ、起きてすぐいろいろ着せられたせいですごく窮屈ーーねえ、外に行かない? ここは人が多くてよけい息苦しい。ーー父上母上、ぼくはシュバリスを裏に案内してきます」

  両親に軽く手をあげると、返事を待たぬまま「いこう」とハダルはシュバリスの手をとり、じぶんの腕にかけさせた。ホールがざわめきに包まれたーーアルジュナもアレクセイもカレンも、男たちに囲まれたアルテミシアも驚愕していた。ハダルがここまで露骨に特定の人物だけを相手にするとは、彼らでさえ思っていなかったのだ。また、彼らはシュバリスが蛇人であることは子どもたちから聞いていただろうが、どういう人物なのかは知らないはずだった。それがハダルとかなり親しいのだとわかって唖然としていた。なかでもアルテミシアの目には苛立ちと嫌悪が映っていたーー彼女を取り巻く男たちも、幾人かが同じ目つきでシュバリスを睨んだ。が、ハダルは彼らを無視してシュバリスを連れ、さきほどギネヴィアが消えた窓のほうへ向かった。

  「こっちから行こう。庭がきれいだ」

  「ハダル。カミャを連れて行きなさい」

  ラーゼスの穏やかな声が追ってきて、ハダルがうなずく。カミャがしずかについてきた。

  庭はすでに日が落ち、淡い月光に包まれて草木も花も暗い緑色に光っていた。ところどころ魔晶でライトアップされていても足元は暗い。しかし、勝手知ったる庭であることを証明するように、ハダルは悠々とシュバリスをいざなった。城の壁づたいにざくざくと草を踏んで進んでゆく。やがて大きな鉄の門と、青銅の大扉が見えた。

  大扉には、さっきギネヴィアが説明してくれた扉と同じく花々の[[rb:浮彫細工 > レリーフ]]が施されていた。上部には盾の上にSという紋章。「こっちは裏口なんだけど」とハダルはつぶやき、手のひらを押し当てた。

  「あー、息苦しっ」

  きしむ音をたてて扉が開き、内部に踏み込んだとたんハダルはジャケットを脱ぎ捨ててわきに抱え、シャツのボタンを三つまで開けるとカフスも外して腕まくりした。靴も脱ぎたそうだったがかろうじて思いとどまり、笑顔でシュバリスを振り返る。胸元にも手首にも、ネックレスやブレスレットのかたちをした[[rb:御守 > アミュレ]]が山ほど着けられ、肌には印が施されていた。

  「さて……ねえ、どこかみたいとこある?」

  「あーーじゃあ、食堂とキッチンを」

  ハダルの痛々しさにも胸が痛んだが、別の感慨にもうたれてシュバリスはぼんやりとあたりを見渡した。建て増しされたホールではなく古色蒼然とした本館部分に来ると、ますます彼女の抱いていた既視感は強くなった。現在の王宮と比べて格段に質素とはいえ、そこは凄まじく高い[[rb:天井 > ヴォールト]]に白黒大理石の複雑なモザイクの床をもつ玄関ホールだった。これが裏口だとすると表玄関はいったいどんなものか。しかしその表玄関もうっすらとではあるが脳裏に思い描くことができる。やはり、と考え込むシュバリスに、「[[rb:寧華宮 > ネイカキュウ]]は」と、シュバリスの視線を追って天井に目をさまよわせたハダルが、いつものぼんやりした様子もなくすらすらと説明をはじめた。

  「まだエウレシアが統一なかばだった建国中期、ハルトガルトによってユーロープとエイシャにまたがるこの地に建てられた城だ。ほかの戦闘用の城と違い平地に建てられているのは、戦闘のためというより暮らすため、実用に特化して造られたから。でもここはまちがいなく、各地の拠点や要塞にも匹敵する統一軍の最重要拠点だった。当時はハルトガルトの仲間と部下の家族、あるいは子弟が身を寄せ、彼らの家として機能した。ハルトガルトにとってもここは家だった。のちに寧華宮と呼ばれることになるこの館には、彼の思想が詰まっているーー[[rb:大神 > ジヴァ]]へ祈りを捧げる礼拝堂や聖堂も建物の後背部に残されており、ハルトガルトは自身の結婚式もそこで行ったと云われている」

  最後の一言はシュバリスにとっては悲しい情報だった。ドーリスの花嫁姿はさぞ美しかっただろう。

  シュバリスがきゅっと唇を噛んだのをみてハダルは慌てたように別の場所へ彼女を誘導した。

  「ほかにもいろいろ、初代が暮らしてた痕跡がそこかしこにあるよーー見て」

  いちばん近くの扉を開けると、そこは古いヴァイオリン、ヴィオラ、フルートなどが壁に掛けられ、中央にはグランドピアノが置かれた音楽室だった。ピアノはカヴァーが掛けられ、いまは触れられた形跡はなかったが、シュバリスはほっとため息をついた。

  (あなたのピアノね、ハルト)

  あまり上手ではなかったが、コード選びが精確で、聴いていると清々しい気持ちになったものだ。あの夜のピアノ、そして歌声。ぎゅっと胸が苦しくなった。

  「それからこっちが子ども部屋。こっちは図書室。読書室。サンルーム。その奥の扉は礼拝堂につづく柱廊への扉ーーキッチンはこっちかな。ここが食堂」

  ハダルは次々とシュバリスを案内していった。シュバリスはその間、えも云われぬ感動に包まれていた。彼女はたしかにこの場所を知っていた。

  (ハルトガルトと別れるまえ、まだみんなが仲良しだったころ、わたしはここにいた)

  (建国中期にここで暮らした。別の城、別の城へと転居を繰り返し、エウレシアの統一が確実になった末期には、ハルトガルトがふたたびここを拠点に決め、だからわたしもほかの五人もみんなここで暮らしてた。わたしたちが別れ、みんなが各地に散り、ここがハルトガルトのドーリスの家になってしまうまえは、ここがわたしたちの家だった。こここそが)

  武器倉庫へ連れ込まれてドーリスに叱責されたのも、ひょっとしたらここだったのかもしれない。

  ハダルがドアを開け、シュバリスはその瞬間、別の驚きと遭遇した。クリスタルのシャンデリアが天井から下がる広々とした食堂には先客がいて、全員が生きた人間ではなかった。気づいた瞬間シュバリスはびっくりして立ち止まり、ハダルが笑った。「ホールが騒がしいから集まってきたかな? みんな普段は他の宮にいる子たちだね」彼はぐるりとメンバーを見渡すと、シュバリスにむかって「骸気のみなさんだよ」とにこやかに云った。

  「[[rb:骸気 > ゴースト]]?」

  「ユーレイとも云うのかな。そっちのほうが通りがいいかな? 人間の、魂だけの存在になったひと」

  「ゆうれい……、」

  三人の男女がテーブルについて、幻のお茶とお菓子を囲んでいた。特に仲良しというわけではなく、たまたまそこに集まって一緒にお茶を飲んでいるだけのようだ。ひとりは高速でページをめくって分厚い本を読みふけっており、ひとりは眼鏡をかけた老人で、テーブルに頬杖をついたままうたた寝していた。最後のひとりは、これが幽霊かと疑いたくなるようなきわめて整った目鼻立ちとすんなりした手足をもつ、まだ十四、五歳ほどの、目の覚めるような美少女だった。緋色の瞳が濡れたように鮮やかで、顔をふちどる銀色に近い[[rb:褪墨 > セピア]]色の髪が、腰まで流れ落ちていた。

  「やあレディ」

  ハダルは気さくに手をあげて挨拶し、少女はハダルたちを見ると立ち上がって膝を折った。「よくわかんないけどたぶんうちの先祖の誰か」とハダルはおおざっぱに紹介し、「ごめん、聞いたんだけど名前は忘れた」と頭をかいた。本人を前にして失礼きわまりない発言だが、少女はにこにこ笑っている。彼女が胸にあてていた手を外してまっすぐに立った瞬間シュバリスは驚いた。あっさりしたクリーム色のドレスの胸元に、血と思われる跡がかなりの範囲にわたって付着していた。この若さでどういう死にかたをしたのだろう? 神秘的な笑みを浮かべた少女はそのままはんぶん浮遊するようにシュバリスたちの元へ近づいてきた。間近で見るとますますお人形のような美少女だったーーと、風のようにかすかに、鈴が鳴るような清涼な声が囁いた。

  「おかえりなさい」

  視線はまっすぐにシュバリスを射抜き、そのままどこか遠くを見るように別の場所に逸らされた。彼女はそれだけ告げると、一行の横を通り過ぎ、さきほどシュバリスたちが入ってきた扉から出て行った。清廉な花の香りが後に残された。「まあ」とカミャが感嘆の声をあげた。「彼女がしゃべったのを初めてみましたわ」

  シュバリスはそのまま呆然としていた。

  (昔、ここにいたーー)

  その実感はますます強く、切なく彼女の胸をしめつけていた。

  [newpage]

  [chapter:喧々囂々]

  その後もハダルに案内され、シュバリスは寧華宮のなかを見て回ったが、ほぼ当時のまま残されているという内部のみならず、混迷を極めるキッチンにもやはり見覚えがあった。キッチンに隣接してはんぶん屋外にある焼き場や蒸し場、[[rb:竃 > カマド]]にパン焼き窯などは、すべてシュバリスが作らせた竃であり作業場だった。石屋根の下で料理人が炎と水の魔法を駆使し、給仕たちが軽食と酒と酒器類をどんどん運び出している。ハダルを見ても「まあ皇子殿下」と眉をはねあげるだけで咎めるでもなく仕事に没頭している。彼らの口からはときおり愚痴のようなものもこぼれたが、星削宮から転送印で料理を運ぶよりこちらのほうが時間がよみやすく、そのため不便を承知で今夜はここで作業が行われているためだった。しかし承知のうえでも勝手の違いが堪えるらしい。熱いものを熱いうちに、冷たいものを冷たいうちに出すのは意外と神経をつかうものだーーかつてじぶんが城の台所を取り仕切っていたころとたいして変わらない様子に、シュバリスはとうとう背後に付き従っていたアイドクレーズに「わたし、ここにいたの」と、もはや笑うしかないと自嘲しながら告白した。

  「ここ、わたしが住んでたお城だわアイク。ハルトガルトと別れるまえ、ほかの五人も全員一緒にここで暮らしてたの。いまでも残ってたのよ。すごいーーなつかしい……、そうよ、ここよ。ここがわたしが最後に暮らしてたところよ。ハルトと別れてヤハンに移るまえ」

  シュバリスはそのままひたすらため息をついていたが、やがて「ーーというか」とアイドクレーズのいぶかしげな声が響き、ふりむくと彼女の従者はうろんそうに腕組みしていた。

  「以前から、というかセレスタインに来てからずっと思っていたんですが、あなたってちょっと、いやかなり変じゃないですかシュバリスさま?」

  「変ってなにが。ああ、子どものふりが不自然?」

  シュバリスが目をぱちくりさせると、

  「いえそうではなく」アイドクレーズは困ったようにこめかみに指先をおしあてた。

  「あんまり覚えてなさすぎじゃないですか、ってことですよ。あなたってなんだか、いろいろと大事なことをぽかーんと忘れすぎです。思い返せば元恋人の姓も覚えてなかったし、ここで暮らしてたってこともさっきまでピンときてなかった。じぶんの暮らしてた家をふつう忘れますかねえ、その様子だとけっこう長いことここにいたんでしょ? 星削宮の上階からなら、この離宮の全体も周辺の地形も見渡せるじゃないですか。すぐにわかりそうなものなのに、それってすごーく奇妙なことに思えるんですけどわたしには」

  「そう……?」

  たしかにじぶんの記憶には穴がある。ところどころ記憶が曖昧だし、なかにはまったく思い出せないところもある。だが、千年という時の経過を思えばべつに変でもない。

  「千年生きてみたら誰だってそうなるんじゃないの。いまだから笑っていえるけど、実体験としてはとんでもない時間だわよ?」

  「ですかねえ」

  アイドクレーズはじろりとシュバリスを見た。

  「それにしたってなんだか違和感があるんですよね。だって恋人の姓どころか最大の恋敵のこともぜんぜん覚えてなかったじゃないですか。ふつうそういうのって、恋人の名前以上に深く脳裏に刻まれてしまうものじゃないですか。皇妃ドーリス、なんて」

  「うーん。そういえばそうかしら?」

  「そうですよ」

  我が意を得たとばかりにアイドクレーズはうなずいた。

  「恋人と別れるきっかけになった人物の名前をすっかり忘れるなんて。だって彼女さえいなきゃあなたが皇帝の妻だったのに。なのにあなたは図書館で初めてきいたみたいな顔してびっくりしてたし、建国時代のことを寝物語にしてわたしに話してくれたことだってあるのに、そのときだっていちどもドーリスなんて名前を口にしたことがなかった。なんだか解せないんですよねーー」

  ドーリスのことを話してくれれば、アイドクレーズだって、シュバリスが恋人に利用されて捨てられたなどと、彼自身も従者として屈辱をおぼえるような推測をせずにすんだのだ。アイドクレーズがその意をこめてじっと見つめると、

  「やだ、そんな目でみないでよ。うっかり忘れてただけよ」

  「うっかりねえ。千年前のことはあなたにとって輝かしい青春の思い出だったはずなのにねえ。それを忘れるっていったいどういう了見ですかね」

  「ううーん。わ、わかんない」

  シュバリスは首をひねりながらキッチンで忙しく働く料理人や使用人たちを見ていたーーと、背後で咳がきこえてふりむくと、ハダルがグラスを手に呻いていた。喉が渇いてそのへんの飲み物を失敬したら、どうやらお酒だったらしい。カミャが気遣わしげに「だいじょうぶですか」と背を撫でた。「どうぞ。こちらはお水です」

  「あ、ありがと……」

  ハダルは涙目で顔をあげ、ハンカチで口元をぬぐうと別のグラスに口をつけた。テーブルに戻し、シュバリスを見ると薄く微笑む。ほんとうに今日は顔色がいい。シュバリスはアイドクレーズにかるく手をふるとハダルのもとへ戻った。

  「だいじょうぶ?」

  背を撫でるとハダルはうなずいた。

  「平気だよ。でもそろそろここはお邪魔かもね。行こうか」

  たしかに、さきほどと比べるとキッチンはいくぶん違った様相を呈していた。銀食器と茶器類が大テーブルにずらりと並べられ、魔法の光が煌めくたびに、大皿や鍋にもうもうと湯気を立てる料理ができあがってゆく。「適温までこのまま」「あと十分でスープ」「次の食材準備」「保温箱は」「むこうと遠いからな」ーー発表会のあとは食事会となっていたが、そこで出される料理の調理に入ったのだろう。

  「こっちからまわろうか」

  湯気をあげている焼き場と蒸し場のあいだをぬって、シュバリスたちは再び庭に出た。湖とは反対側にあたる庭は、ずっとむこうに丘陵が広がり、そこにいたるまでのだだっ広い広場に植わった草木が風に揺らめいていた。ハダルが説明してくれた。

  「丘のむこうは平原だよ。ずーっとすすむと王宮と市街を隔てる森。いつも綺麗だけど春と秋がとくに綺麗だ。平原にはもうじきコスモスが咲くし楓や銀杏も紅葉して、森全体がまるで燃えてるみたいに見える。春は桜が満開だし、庭園では水仙や薔薇やアイリス、とにかくたくさんの花が咲く。[[rb:庭師 > ガーデナ]]のみんなが丹精込めて世話してくれてるから毎年とても楽しみなんだ」

  「そうなの? 見てみたいわ」

  「いっしょに見よう。またここで」

  自分でもそんな日が来るとはまるっきり信じていない空疎な口調でハダルは呟いた。「今年いっぱいは」と苦しげ云ったユアンのことばが思い出され、シュバリスは彼に手を引かれながら唇をかんだ。これまでずっとハダルはじぶんの腕にシュバリスの手をかけさせていたが、ようやく繋いだハダルの手は乾いていて温かかった。いや、温かいというよりーーシュバリスがカミャを振り返ると、カミャは無言でうなずいた。かなり熱がある。だが今夜欠席すれば、最近貴族たちのあいだで噂になっている疾病説を裏付けることになる。だからありったけの御守と印とで体調をととのえてこの状態を保っているーーそれを一瞬で伝達しあって、シュバリスは前をすすむハダルの横顔に視線を戻した。

  こんどは表門から寧華宮に入った。玄関ホールには白と黒の大理石で幾何学模様が描かれ、天井は先ほどの裏玄関よりさらに高い。クリスタルのシャンデリアがきらめいている。すぐそこの扉の中から、ひとびとの声が聞こえていた。

  「あーーもう始まってるみたいだね」

  そこは居間で、かなりの数のひとびとが集まってもじゅうぶんくつろげる広さと高さのある部屋だった。ハダルがそっと開いた扉の先には見覚えがあった。大きな暖炉に漆喰の壁、キューブの寄木細工の床、ドーム型の高い天井。いまは中央のソファやテーブルが片付けられて椅子が並べられ、そこにホールにいたひとびとが紙片を手にして、前方で講演する研究者に見入っていた。

  「以上が[[rb:原本 > オリジナル]]の変化についての研究所の見解です。先ほども説明しましたとおり、変化というよりはもともとの文章に戻った、すなわちこれは原本の変化ではなく回復と呼ぶべきだーーというのが我々の結論です」

  驚きとざわめきが居間を包んでいた。とくに、つきつけられた結果を受け入れ難く思っているのは、ユーレアイト家と彼らの周りに固まっている右側の集団だ。そのなかでひときわ大柄な、カールした茶色い髪の男性が声を上げた。

  「皇妃ドーリスに捧げられたものではないと云ったな。では誰に?」

  「いまのところ、最も有力な人物としては蛇神シュバリスが想定されます」

  「シュバリス。あの娼婦ーー?」

  「娼婦とは公式には云われておりません辺境伯」

  メガネをきらめかせて研究者が答えた。

  「ハルトガルトの手稿における妻への詩にはたいてい彼女の金色の髪を褒め称え、ドーリスが金髪であることははっきりと伝わっていますが、それが今回すべて[[rb:白金 > プラチナム]]すなわち銀色に修正されたのですからハルトガルトが詩を献呈した相手は別人であると考えるのが妥当です。そして、明確にハルトガルトと関係をもっていた、恋人だったと確定しているのはドーリス以外ではシュバリスのみです。また我々はこの変化もとい回復をうけて帝国内の獣王家に確認をとりましたが、建国戦争についてもっとも詳細に記録を残しているシオン王の日記に、シュバリスの外見についての記述が一箇所だけありました」

  「シュバリスが銀髪だとはっきり書いてあったのか? [[rb:白金 > プラチナム]]の髪をもつと?」

  「その可能性があります」

  だんだんと白熱していく辺境伯と呼ばれた男性の剣幕にもひるまず、研究者は続けた。

  「蛇神シュバリスに関してはほかの七柱も断片的に記述を残しています。が、全員がのちに自らの手でその記録を消し去ったあとがある。ですから蛇神シュバリスが建国期において果たした役割もどんな人物だったかも外見も、すべてが曖昧になり昨今流布しているような娼婦説が巷間に広まっているのですが、シオン王の建国中期の日記には、シュバリスが病にかかって臥せっているが、そのとき『ハルトガルトが彼女の髪の色にちなんだ[[rb:銀梅花 > ミルテ]]の枝を彼女の眠る枕元に飾らせた』とありました。シュバリスは翌朝それを見てとても喜んだ、とも」

  「それがなんになる。[[rb:銀梅花 > ミルテ]]? 証拠とするには不十分すぎはしないか。だいいちほかの七柱が記録を消しているとするなら、あの魔女が邪悪な力で七柱に割り込んだ証拠ではないのか、それが」

  「わかりません」

  研究者は頭をふった。

  「しかし[[rb:原本 > オリジナル]]が千年の時を経てもとの姿を取り戻し、そこでハルトガルトによって愛を告白されている相手がほんとうは銀髪をもつ人物でシュバリスだったとすると、ハルトガルトがそんな魔法を手稿にかけた意味は? 元どおりの文章のままでは困る人物がいた、本心を悟られたくない相手がいたーー当時ハルトガルトはドーリスと結婚していました。いちばん知られたくない相手が誰か、順当に考えればそれはあきらかに」

  「ばかばかしい」

  辺境伯は吐き捨てた。シュバリスはそっとドアのあいだからハダルとともに滑り込みながら、その人物の隣にカレンがちょこんと座っているのを見つけた。カレンの父親なのだーージプサム辺境伯、ドーリスの兄の子孫。ドーリスがハルトガルトに愛された女性だったこと、その一族であることを彼が誇りにしているのは間違いなかった。彼は云った。

  「ハルトガルトが間違ったのではないかね? 解釈の違いでなんとでもなる、[[rb:白金髪 > プラチナムブロンド]]と[[rb:金髪 > ゴルテブロンド]]など、色にしてみれば些細な違いだ。それを[[rb:白金 > プラチナム]]と[[rb:金 > ゴルテ]]と色ではなく[[rb:素材 > マテリオ]]で比較するから妙なことになるのだ。これは従来通りドーリスへ捧げられたとするほうが自然ではないかね?」

  「しかし、妻へ捧げられたと思われてきた詩のみならずD11の文章も回復されているのです。これは長きにわたって蛇神シュバリスを示すものと考えられてきましたが、今回のことでシュバリスは復讐の女神ではなく救済の女神であると修正されている。よって、蛇神シュバリスは昨今考えられているような存在ではないとも推測されます。この両者から総合的に判断すると、やはりーー」

  「ハルトガルトが生涯にわたり愛していたのは、どちらにしろシュバリスだった、ということかな?」

  ふと、左側から声があがった。おっとりとして、上品に紺色のスーツに身を包んだ男性はユアンの父親だった。「長らくシュバリスは、ハルトガルトとドーリスの仲を引き裂こうとした障壁だと思われてきた。しかしほんとうはドーリスのほうが障壁だったーーみごと皇妃の座を勝ち取った女性のほうが」

  「かもしれません」

  研究員がほっとしたようにうなずいた。「まだ断定はできません。しかし、従来のようにハルトガルトが結婚後はドーリスのみを寵愛した、シュバリスが邪悪な存在だったという説には、この原本の回復によって疑問の余地がーー」

  「そんなことはありえない」

  ジプサム辺境伯がわりこんだ。

  「シュバリスは邪悪だった。だからことごとくほかの七柱も記録から消したのだ。だいいちこれがドーリスに捧げられたものではないなら、かといってシュバリスが相手であるという証拠だってない。シオン王の記録も確実なものではない」

  「それはまあ、そうですがーー」

  「研究所は、こんな不確実な変化を発表する気か?」

  眉間にしわをよせて、辺境伯は脅迫するように研究者を睨みつけた。

  「これを公にすれば、各地にのさばる蛇人どもを狂喜させるだけではないか。シュバリスが娼婦ではなく救済の女神かもしれない、つまるところおまえたちはそう云いたいのだろう。だが、それを発表したら帝国は大混乱に陥るぞ」

  「しかし事実は事実です」

  研究者も負けずに云い返した。

  「それに、彼女が娼婦だとは、そもそも当時のひとびとは誰も云ってません。ハルトガルトも他の七柱も、誰ひとりそんなことは書いていないのです。ここではっきり申し上げますが、それはここ百年ほどで急速に広まった単なる噂に過ぎーー」

  「だいたい、なぜいまになって魔法が解けたのだ? 配られた書類には、学院の教官と女子生徒がD11について議論を交わしている間に突如として、とある。魔法史の教官と入学したばかりの一年生、それが単に話をしているだけでなぜ魔法が解けるのだ?」

  「ーー実は」仕方なさそうにため息をついて研究者は云った。「その女子生徒は[[rb:蛇人族 > アンギソム]]でした。彼女の名前が蛇神と同じだったことが大きな要因ではないか、と研究所ではいまのところ考えられております」

  「同じ名前? シュバリス?」

  そのころハダルはカミャに誘導され、皇族として一段高くしつらえられた後方のソファに座る両親の隣にいて、シュバリスは研究者たちが位置する左側の壁の末席にすべりこんでいた。全員の視線がシュバリスにむけられた。シュバリスはひるまないよう必死で顔をあげ、彼らの好奇心と軽蔑と感嘆の眼差しに耐えた。だが、「蛇人。だとしたら、そのシュバリスという名の少女が原本に魔法をかけ、文章を改竄した可能性は?」ーー辺境伯の憎悪の表情を、シュバリスは冷静に見つめ返した。その隣で、驚きと憎しみと、「またあんたが」と云いたげな歪んだ表情でシュバリスを見つめるカレンにも。研究者が少しむっとしたように答えた。

  「その可能性は真っ先に検討しましたし検証しました。しかし不可能です、文章が回復された附属図書館では、生徒はいかなる魔法も使えません。また、原本からも少女の魔力は検出されませんでした」

  がっかりしたようなため息と安堵したようなため息が、それぞれ右翼と左翼からもれた。辺境伯は引き下がらなかった。

  「しかし蛇人ではないか。じぶんに都合の悪い原本の文章を改竄すれば利益がある。そうだ。わざわざセレスタインに入学したのはそれが目的だという可能性は? 入念に準備をしていたのなら、魔力残渣を残さず改竄することも可能かもしれない」

  「そんなことはーー」

  研究者は目を白黒させていた。辺境伯の顔はどす黒く変わり、原本の回復をシュバリスの仕業にすることでハルトガルトがドーリスへ詩を捧げていなかった、という事実から目をそらそうとしているようにも見えた。ユアンが答えた。

  「失敬、その点に関してはわたくしが。わたくしは学院長として、一報を受けたのち図書館に駆けつけて確認しましたが、シュバリス・イスラメイ嬢は、D11のことも原本の存在も、その日図書館に行って関連書を閲覧するまでなにひとつ知りませんでしたよ。それは同席したほかの女子生徒や居合わせた生徒、教官の証言からも明らかになっています。彼女はその日はじめて原本の存在を知りはじめて中身を読んだ。その後起こった文章回復については、彼女と魔法史の教官が閲覧室でかわした議論のなかに、ハルトガルトの魔法が解けるワードなり行動が含まれていたから、というのが有力でしょう。たまたま条件を満たしただけで、彼女自身の魔法によってどうこういう話ではない」

  「しかしーー、」

  「それともなんですか。さきほどから妙に殺気立っておられますが、ジプサム辺境伯は原本の文章が元どおりになったりこれが公表されたりすると、なにか都合の悪いことがおありなのでしょうか?」

  この発言に、ユアンのいる左翼に座ったひとびとから忍び笑いがもれ、辺境伯の顔はますますどす黒くなった。「もちろん閣下にとっては」ユアンは飄々と云った。

  「ハルトガルトがドーリスに詩を捧げておらず、それはすべてシュバリスへ捧げられたものだった、ひいてはハルトガルトはドーリスと結婚した以後も依然としてシュバリスを思い続けていたのかもしれない、初代皇帝と皇妃のの結婚はかりそめのものだったかもしれないーーそれが明らかにされることは、もちろんその一族のご子孫としては耐え難い事実でしょう。しかし千年ぶりにハルトガルトが真に記した文章が現れたのです、もう少しお喜びになってもよろしいように思います。同時にハルトガルトの血をも引いている身としては」

  「荒くれた蛇人どもを喜ばせるのは帝国のためにならないと思ってのことですよ学院長。蛇神シュバリスは娼婦ではない、などと世迷言をいう一部の学者たちのためにもね」

  辺境伯は皮肉げに云った。一部の学者呼ばわりされたユアンはしかし顔に出さず、シュバリスにもいくぶんわざとらしいと思えるとぼけた表情でさりげなく反撃した。

  「そうですか? たしかその、蛇神シュバリス娼婦説というのはあなたの先代だか先々代のジプサム伯が云いだしたことであると記憶していますがね。そしてかの説はエイシャを中心に急速に広まり、いまではすっかり定説のような顔をして帝国全土にのさばっている。しかしいまだに議会はそれを正式な学説として認めていませんし、それこそ噂が噂にしかすぎないことの証明ではないでしょうか。ですから、シュバリスが娼婦ではなく真にハルトガルトの愛した女性であった、ハルトガルトの残した愛の詩はすべてシュバリスに捧げられたものであった、とされるのはやはり喜ばしいことでしょう。なにしろ建国七柱のひとりが邪悪なるものと思われるのは、その彼らの栄光のうえに国を築き上げてきた我々の正当性を否定されるものですから」

  「ドーリスでないからといって相手がシュバリスと決まったわけではない。だとしてもシュバリスに関するほかの七柱の記述には曖昧なところが多すぎる。彼女の功績が事実かどうかも多分に疑いの余地がある。シュバリスはほんとうは、別の人物から功績を掠め取ったにちがいない。そうーー建国七柱の一席を占めるのに、シュバリスよりふさわしい人物はほかにいる」

  「それがドーリスだと?」

  うんざりしたようにユアンが呟いた。

  「あなたがドーリスを、シュバリスにかわって建国七柱の地位にあげようとしていることは存じ上げていますがね。しかし原本がいまようやく真の姿を取り戻した以上、ハルトガルトが示した意思ははっきりしています。一連のできごとを鑑みると、シュバリスではなくドーリスこそがシュバリスの功績を横取りしたのでは、とも思えますしね」

  「それこそ飛躍ではないか。というより、それは我が家に対する侮辱か? だとしたら、いくら御双家とはいえ聞き捨てならないぞ」

  「いえ、単なる疑問提議です閣下。そういう見方もございます、と云っているまで」

  「ふんーーならばそういう見方で考えてやってもいいがなカルセドニーの御嫡男。ハルトガルトがほんとうはシュバリスを思っていて、原本の詩がシュバリス宛であったとしよう。だがそれもシュバリスが邪悪であったことの証拠かもしれないではないか。ハルトガルトを生涯にわたって誘惑するほど、シュバリスの人をたぶらかすマジックは強力だった。そしてハルトガルトは、それを恥じて千年にわたって自分の記した手稿にごまかしの魔法をかけていたーーそれにシュバリスが[[rb:白金 > プラチナム]]の髪をしていたという確たる証拠は、やはりどこにもない。ハルトガルトには、ドーリスでもなくシュバリスでもない第三の女性が、皇帝という座につく男にふさわしくいたのかもしれない」

  「さあ、それはどうでしょうかね」ユアンは辟易したように肩をすくめた。「それこそ、そんな存在がいれば他の誰かが書き残すなりしていそうなものですがねえーー」

  「でないとしてもだ。ハルトガルトがシュバリスを思い続けていたとしたら、結婚までした女性を裏切ったどうしようもない夫ということになるぞ。我々の共通する先祖である初代皇帝の、妻に対するこの非道なしうちを知ったら、帝国民は我々に対する認識をどう改めるかな。やはりこの件は、原本の変化は公表すべきではない、わたしにはそう思える」

  「変化ではなく回復、とさきほど研究所のかたがたがおっしゃったと思うのですがね閣下。ことばはだいじですよ。それ一つで物事が大きくねじ曲げられるおそれがある」

  いまやはっきりとふたりはにらみ合っていた。前方の壇上で研究者たちは困ったように「あの」だの「それはまだはっきりとは」と口を挟もうとしていたが、焼け石に水だった。辺境伯と対峙するあいだ、ユアンの視線をシュバリスは幾度も感じた。

  (もしいまここで、とっさにアイクがついた嘘とはいえわたしがシュバリスの娘であることを暴露したら、事態はおさまるのかしら)

  (それとももっとひどくーー、)

  シュバリスが蛇神シュバリスの子孫であること、容貌を受け継いでいることをこの場で発表すれば、おそらく流れは変わる。ハルトガルトの詩がほかの誰でもなく[[rb:蛇神 > シュバリス]]に捧げられたのだとはっきりするか。だが同時に、とてつもない対立の中心にシュバリスも投げ入れられることになる。ユアンはシュバリスの正体を話したそうだったが、巻き起こる騒動を思うと踏ん切りがつかないのだろう、賢明にも口をつぐんでいた。シュバリスも黙るほかなかった。理性的に、しかしおとなしく上品にユアンが黙っているのをいいことに、辺境伯は今度はシュバリスに水をむけた。

  「では、そちらの蛇神と同じ名をもつというお嬢さんにあらためて直接お訊ねしたいのだが。シュバリス・イスラメイ嬢ーー君は原本になにか魔法をかけなかったか。大神の名にかけてそんなことはしていないと誓えるか?」

  「していません。誓います」

  とっさにシュバリスは云った。「いきなり本が飛んできて、文字が光って踊って、驚いたのはわたくしも同じです。なにが起こっているのかさっぱり理解できませんでした。本が喋り始めたのも、彼の声がきこえたのもーー」

  「本が喋り始めた? 彼の声?」

  「声とはなんだ。そんなことは[[rb:説明用紙 > レジュメ]]にないがーー?」

  しまった、とシュバリスは口をつぐんだが後の祭りだった。あのときハルトガルトが云ったこと、彼と話した内容については、ユアンにも研究者にも「覚えていない」の一点張りで通していた。

  「なーーなんと云った?」

  ユアンも研究者も腰を浮かせていた。ユアンがするどく云ったーー「声? やはり君は、本に込められた初代の意思と話したのか? 本にはやはりハルトガルトの魂が? 彼がそこにいた?」

  「[[rb:皇帝 > インペラトル]]のーー?」

  ざわめきに、ひときわ驚愕と憎悪と畏怖がまざった。

  「えっとーーそれはーーえっと」

  逃げ場はなかった。隣からアイドクレーズが気遣わしげにシュバリスを見つめている。

  「ハルトガルトの? 初代皇帝の? しかしそれはーーなぜその声がハルトガルトのものとわかる?」

  「えっとーーそれはその、なんとなくーー」

  きびしく追求する辺境伯にシュバリスがしどろもどろに答えると、口々に右翼から揶揄や追求の声があがった。

  「なんとなく!?」

  「なぜ君に? なぜハルトガルトが君に話すのだ?」

  「その声とやらはいったいなんと云ったのだ?」

  「それはーーそれは、」

  どう説明したらいいのか、シュバリスは頭が真っ白だった。じぶんが蛇神シュバリスそのひとであることを話すには事態が複雑すぎる。困窮するシュバリスは室内を見渡し、そしてはっとした。

  この騒ぎのなか、いつのまにかハダルの姿が消えていた。皇帝家が占めているソファには、皇帝ラーゼスと皇妃ヴァナディスが暗い表情で座している。そして、

  「さきほどからどうも話がかみあわないな」

  けして大きくはないが、よく通る声が一瞬でひとびとを黙らせた。ひじかけにもたれかかり、足を組み、頬杖をついていた腕を外した皇帝ラーゼスは、まっすぐに起き直って片手にした説明用紙を一瞥し、それからゆっくりと、ふりかえってじぶんを見つめる面々に口を開いた。澄んだ濃い青い瞳が投げかけた視線はシュバリスの上を一瞬通り過ぎていったが、その恐ろしいほどの青さははっきりとシュバリスにも見てとれた。

  [newpage]

  [chapter:新しい千年]

  「さきほどから、研究所の見解もユアンの見解もバルトロメイの見解も興味深く聞いた。がーー少々わたしも口を挟ませていただきたい」

  皇帝ラーゼスは、真名をバルトロメイというらしいジプサム辺境伯に穏やかに云った。

  「辺境伯。おまえはいま、ハルトガルトを生涯にわたって籠絡するほどシュバリスのマジックが強かった、と云ったな?」

  声色は表情ほど穏やかではなく、むしろ怒りを含んでいた。辺境伯は一瞬で表情をひきしめ、「いえ、籠絡するほどとは」もごもごと云い、「誘惑した、にございます陛下」と弁解したが、ラーゼスは「おなじことだ」と一蹴した。

  「おまえの言動は、ハルトガルト・ミクラガード・セレスタイン、初代がシュバリスのマジックを生涯ふりほどけないほど魔力が弱い、と云っているようにわたしは聞こえたな。さきほどおまえはユアンがジプサム家を侮辱していると感じたようだが、その後わたしもおなじように感じたーーおまえが口をひらくたびにだ。ほかにはなんといったかな。皇妃を裏切ったどうしようもない男だとか?」

  「そーーそのようなことは。けして」

  「そうか?」

  「失言にございました」

  「ならいい」

  ゆったりとラーゼスはあたりを見渡した。そして云った。

  「そうーー原本にハルトガルトがそのような魔法をしかけていて、いまようやくもとの文章が現れたとするなら、まちがいなくそれこそがハルトガルトが千年の時を経て我々に伝えたかったことなのだろう。研究所の見解やユアンの説のほうが筋がとおる。ハルトガルトはドーリスではない別の相手に愛の詩を贈った。相手がシュバリスかどうかはまださだかではないが、これのみは現実であり事実だ。そしてシュバリスが復讐の女神ではなく救済の女神であることもこれで確実となった」

  ひとりごとのようではあったもののその発言は、右翼側が息を呑んで静まり返るほどの断定がこめられていた。辺境伯の目に屈辱と怒りが映った。否定したそうだったが、皇帝の口からはっきり云われてはなすすべもない。さらに皇帝が云った。

  「そしてこれが発表されれば、昨今巷間で流布している蛇人族蔑視と蛇神シュバリス娼婦説に一石を投じることになるだろう。帝国内が混乱に陥るとのバルトロメイのことばには一理ある。おそらくそのとおりになるだろう。だが、これも研究所のものたちやユアンの云うとおりだが、混乱に陥ったところで何の問題があるのだろうか。真実の前にはなんの効果もない。シュバリスに関するその説が一部の貴族のあいだで猖獗をきわめていることはわたしも知っている。蛇人族を討伐せよ、根絶やしにせよなどという暴力的な思想をもつものが、このなかにさえいることも。だが、ここにいる全員にあらためて皇帝家の総意として下達しておきたい。先祖代々の皇帝家の意思として、皇帝家が数多いる獣人族のうち蛇人族のみに剣をむけることはないし、蛇神シュバリスを七柱の座から降ろすよう議会に正式に要求することもない。まして彼女を娼婦と認めることなども断じてない、絶対に」

  「絶対にーーでございますか」

  右翼から声があがった。ラーゼスはうなずいた。

  「そうだ。ぜったいにだ」

  「なぜーー?」

  若い男性が立ち上がった。いかにも気性が荒そうだった。彼が云った。

  「恐れながら陛下。いまやこの国の悪事の裏には必ずといっていいほど蛇人たちの成す反帝国組織の存在や、各個に活動する魔法使いや魔女がいるといわれております。その違法な連中だけでも討伐すべきという意見が、わたしたちだけではなく民間からもあがっているのです。わたしたちはだからこそ、領土に暮らす民たちの陳情を受けて何度も議会にその議題を奏上しております。そうした蛇人族についてはいずれ帝国の上層部としてもなんらかの処罰を下すべきだと。少なくともその用意があると議会が、ひいては皇帝陛下が正式に発表するだけでも抑止力になると」

  「だとしてもそのような発表はしない。議会もだ。そのようなことは我々の仕事ではない。それは警察と騎士団の仕事だ。そうーー法のもとで裁くべき罪を犯すものについては蛇人族も裁かれるべきだ。しかしだからといって皇帝家がいたずらに彼らに対する差別を助長するような命令を下したり、シュバリスが娼婦であるという説に賛成することはない、ぜったいに」

  「しかし、確実なことはやはりまだなにもわからないのではないですか。エイシャ辺境伯のおっしゃられるとおり彼女に関してだけ記録が極端に少ないし少なすぎる。本人が記したり伝えたというなにがしかの記録もないうえ、ここまでほかの七柱の記録からも彼女の名や行く末が抹消され、途絶え、残されていないとなると、蛇神シュバリスの行動や性格になんらかの問題があったと考える方が自然では。となると、彼女が唾棄すべき娼婦であり七柱の席を邪悪なやりくちで掠め取った可能性だってじゅうぶんにある。だからこそ、その蛇神シュバリスを崇拝し王として崇めていた蛇人族もまた邪悪なるものたちなのではございませんか。それがいま帝国内でこうして騒ぎになっているおおもとなのではないですか?」

  「鶏が先か卵が先か。はたまた蛇人たちの、獣人のなかで人間より存在が遠いという事実がその世迷言を生んだのだろうかね」

  若い貴族をうんざりと眺めながらラーゼスは頭を振った。そして彼は、若さにまかせて云い募る青年の後ろから、そのとおりだという表情をしている右翼の人々をじっと見つめ、静かに云った。

  「では真実を話そうか?」

  その響きは、びんと張った弓弦をさらに張り詰めさせるほどの緊張をその場にもたらした。

  「蛇神シュバリスが千年前にいったいなにをしたのか、皇帝家が明らかにしてみせようかーー?」

  「それはーー、」

  顔色を変えたのは、エイシャ辺境伯バルトロメイ・ジプサムとアルテミシア・ユーレアイトだった。シュバリスは意味がわからず、皇帝と彼らを交互に見つめていた。わたしなにかしたっけ? と目を白黒させる彼女を、全員を見渡すラーゼスの視線が一瞬かすめた。

  「世界が変わるぞバルトロメイーーそれからアルテミシア。蛇神シュバリスがいまここにいる我らにとってどういう存在であるかを知ったらな。そうーー文字通り世界が変わる。この場にいるほとんどの者にとっての世界が、という意味だが。そしてなにも知らずシュバリスと蛇人族を忌み嫌う帝国民にとってはーーそして」

  ゆっくりと皇帝が立ち上がる。手にした[[rb:錫杖 > シャカラ]]に提げられたクリスタル同士がぶつかって鈴のような音を響き渡らせた。

  「きたるべき[[rb:千年紀 > ミレニアム]]には慶事が必要だ。これまでにない[[rb:福音 > ニュース]]が。それはもう数年後に迫っている。予想されるもっとも喜ばしいニュースは、ここにいる御双家の子息どちらかの婚約か婚姻だろうか。もしくは一足飛びに元気な[[rb:継子 > あとつぎ]]が誕生してくれるというのならなおのこと喜ばしいのだがなーー」

  ラーゼスはユーレアイトの席とカルセドニーの席をそれぞれ見やったが、これは特に、すでに三十路を越えていまだ独身であるユアン・カルセドニーに御双家嫡男としての義務を言い聞かせているようにも聞こえた。ユアンもぎくりとしたようにつかのま周囲に視線を漂わせ、シュバリスはそのとき気づいた。彼の隣にも部屋のどこにもギネヴィアの姿はなかった。シュバリスの話し相手にというより、ユアンはおそらくこのためにギネヴィアを同行したのだろう。周囲のひとびとはもちろん、なにより皇帝陛下に対し将来の不安を払拭してみせるために。しかしそれが叶わず気まずそうなユアンに「わたしも晩婚だったがな。一般的な結婚年齢と比較してという意味だがーー気持ちはわかるがね」とつぶやき、ちょっと微笑みかけてから、ラーゼスはかたわらのヴァナディスに視線を戻し、云った。

  「もしくは年頃をむかえる我が皇子の婚約でもいい。節目の年にわたしが退位し、候補者のいずれかに譲位するのでもいい。虐げられ、苦渋を舐めてきたものたちに救いをもたらすのもいいーー今回の原本の回復についての発表はよき前触れとなるだろう。それが単なる報告で終わるか、多いなる真実という嵐の前の静けさで終わるかはおまえたち次第だがな」

  特に右翼を睥睨するラーゼスに、

  「譲位する気がありますの、ラーゼス?」

  シュバリスのことなど忘れたように、皇帝を真名で呼び捨ててアルテミシアが云った。彼女の水色の目は爛々と輝いていた。

  「帝国建国千年の節目に、候補者のいずれかに皇位を退いて譲る気がーー?」

  「あるよ」

  皇帝は淡々と告げた。

  「わたしも年だ。若くして子を残さず逝った兄から帝位を継いで三十年、未来を考えてもおかしくはない。だろう?」

  「そうですの? ところで当の皇子殿下の姿が見えませんわね。なにか問題が?」

  「先ほど厨房に使用人たちを労いにいったところ水と間違えて酒を口にしたらしい。息子はすでに成人したが、まだ酒席に出る機会はそう多くはない。下がらせた」

  「あらあら。おかわいらしいこと……」

  信じていないようだった。ハダルの健康問題についてはこの場にいる全員がなんらかのかたちで情報を手に入れているようだ。思惑をそのまま顔にだすもの、表情を消すもの、さまざまな反応が見られた。ラーゼスはそのままため息をつくと、無表情に淡々と云った。

  「千年ーーそう、千年だな。我が祖ハルトガルトがエウレシアを統一し帝国として国づくりをして、もうじき千年。だが、千年も経つといろいろなことが変わるものだ。付随していろいろな歪みやひずみ、考えられないような惨事も出来してくる。真実は捻じ曲げられ、もとの姿を失い、真逆の捉えられ方をされてしまうこともある、たとえば件のシュバリスに関する逸話のように。そしてふとしたことでまた真実に光が当てられることになる、今回の原本回復のように。そうーーまるで図ったようにいまこの時期になって真実が明らかになり、それに伴って動乱や惨事が起こるのも偶然ではあるまい。だいたいそれらの惨事、事件というものは、それが起こる何年も前にすでに種が蒔かれているものだ。千年かけてその種は出芽のときを待っていた、そういうことかもしれない。変事というのはすべからくそういうものなのだろう」

  全員が顔を見合わせあった。ラーゼスのことばの意味を理解しているのは、かたわらの皇妃ヴァナディスだけのようだ。ヴァナディスは一貫して穏やかな表情でゆったりと列席者を見渡している。ラーゼスは立ち上がると、それまでの無表情が嘘のように柔和な笑みを浮かべた。

  「まあいいーーさて、皆よ別室へ。難しい話はこれまでにしてさきほどのホールへ戻ろうか。王宮自慢の料理人が腕をふるっている、食堂をと思ったが今日は人数が多いため立食で楽しんでいただくのはご了承いただきたいーーただしユアン、おまえには、今後のことについて話がある。いますこしこの場に残ってくれ。だいじな話だ」

  「はーー」

  ユアンは不思議そうな表情を作っていたが、おそらくラーゼスの話が、今後彼が皇位継承者に返り咲く件についてであると理解したようだった。緊張した面持ちで、立ち上がって部屋を出て行くひとびとの流れから外れてラーゼスのもとへむかっていった。いっぽうシュバリスは、研究者たちとともに廊下に出たところで、ひとびとをゆったりと見送っていたヴァナディスに腕を掴まれた。

  「待ってちょうだいシュバリス。ちょっと」

  「皇妃陛下。どうなさいましたか?」

  「あなたはこの場に」

  アルアレコンビやカレンやカレンの父親やアルテミシア、シュバリスと顔見知りであるひとびとは不思議そうにシュバリスとヴァナディスを振り返ったものの、それでも楽しい晩餐の待っているホールへと去っていった。全員の後ろ姿を見送り、なんの話だろうとヴァナディスを見上げたシュバリスは息を呑んだ。ヴァナディスの表情はひとびとを見送り終わってから一変していた。自分でも信じられないような口調で彼女は云った。

  「ハダルが倒れたの」

  「えっーー?」

  「あなたが矢面に立たされているときだったから会場のひとびとには気付かれずにすんだわ。でも、あまり思わしくない状態に陥ったようなの。いまはカミャが部屋に連れて戻って医師がついていて、さきほどから頻々とクリスタルから状況報告がきている。いますぐに駆けつけたいのはやまやまなのだけど、わたくしはこの場を外すことはできません。シュバリスあなた、わたくしたちの代わりにあちらの王宮へ行って、ハダルについててあげてくださらないかしら?」

  ヴァナディスの右手が耳に装着された魔晶のイヤリングを探る。おそらく連絡用の[[rb:機構 > デバイス]]が組み込まれているのだろう。最近普及しはじめた[[rb:連絡用魔晶 > コム・クリスタル]]とよばれるものだ。着信を知らせる鈴の鳴るような音がそこからかすかに聞こえた。

  「お願いよシュバリス。息子のそばに」

  話しているあいだ、ヴァナディスの表情はどんどん崩れていった。眉はひそめられ、声はわずかに震えていた。「最後にハダルはあなたを呼んでいたわ。だからシュバリスーーなんだかねーーこれまでになく様子がおかしいようなの、あの子。ついさきほどのカミャの報告だと、ひょっとしたらひょっとする」

  「えーー?」

  「急激に容体が悪化しているそうなの。もしかしたら今夜ーー」

  「それはーー、えっ」

  危篤ということか。まがりなりにもつい先きほどまで彼といっしょに寧華宮を歩き回り、本人も熱があるとはいえ元気だったのに。シュバリスは愕然とした。隣で薄く開いたままのドアの内側で、話し込むラーゼスとユアンを凝視していたアイドクレーズも、ぎょっとしたようにシュバリスに視線をひきもどした。

  (なにかが起こってるーー?)

  「お願いシュバリス。ハダルのもとへ」

  ヴァナディスの琥珀色の目がシュバリスを射抜いた。「承知しましたわ陛下」答えながらシュバリスは、そのまま室内のラーゼスを見つめた。おそらくラーゼスも息子の急変は知っているのだ。なのに理知的な態度を崩さずいまもおくびにも出していないと思うと、あらためて皇帝の座につくものの責任と覚悟を感じた。ヴァナディスにしても表情は歪んでいるものの、目元に涙ひとつ見せるではない。しかもすぐに完璧な皇妃の顔で「頼みます」と低く云い、「さきほどの発表会でのことはごめんなさいね。蛇神シュバリスのことは、いまや皇帝家にとっても貴族たちをおさえるカードになってしまっているものだから」と、シュバリスを気遣い、話を終えて出てきた夫に「わたくしたちも参らねば、ラーゼス」と穏やかに笑いかけた。

  「皆さまお待ちだわ。参りましょう」

  「ああ。ゆこうーー」

  錫杖が音をたてる。ラーゼスの後ろからユアンが付き従っていたが、その顔は期待であふれていた。シュバリスとアイドクレーズは顔を見合わせた。ラーゼスとユアンの会話はとぎれとぎれながらかすかに聞こえてきていた。やはりふたりが話していたのは、ユアンを再び筆頭皇位継承者にするための議会提案についてだった。

  (ユアンが皇位継承者に復帰する。そのタイミングでハダルがーーこのあとハダルになにかあったら?)

  「ギネヴィアが相変わらずいない」

  隣でアイドクレーズが険しい表情でつぶやいた。

  「これはいったいどういうことなのでしょうか。彼女はどこへ消えたのか」

  「そんなことよりいまはハダルよ」

  ふたりは玄関ホールに足をむけた。庭に出ると、手首のしるしをもう片方の手のひらでおさえた。

  「彼のもとへ行く。わたしならまだ引き伸ばせるかもしれない」

  「待ってください。おかしいと思いませんか、ついさきほどまでハダルはいちおう元気だったわけですよ。それがこんなに急にーー」

  「考えるのはハダルの状態を確かめてからでもおかしくない。とにかくハダルの元へ。アイク、掴まって」

  ハダルのところへ連れて行って。念じると手首からふわりと魔力が広がり、シュバリスたちは淡い光に包まれた。宙に浮く感覚のせつな、ふたりは寧華宮の庭ではなく別の場所に立っていた。

  そこはこの夏、彼女が何度も訪れたハダルの部屋だった。帝都の夜のきらめきをかすかにこぼす広い硝子窓には、花嫁のヴェールのようなレースとブルーグレイのシルクサテンのカーテンが引かれ、[[rb:拡張 > エクステンション]]式のセラミクス天板をもつ回転デスクやホワイトレザーの椅子が配された学習スペースも、床の段差をそのまま背もたれとして利用できるようになっている、矩形にくりぬかれて一段下がった絨毯張りのリラックススペースも、天井からの照明が落とされているため暗く静まり返っていた。反対に、そこから続きになっている奥の寝室からは、人々の声と医療器具のたてる硬質な音がきこえた。

  「カミャ! ハダルはーー?」

  シュバリスの声に、寝室の入り口で人形のように立ち尽くし、寝台に釘付けになっていたカミャが振り返る。まっすぐに切りそろえられた前髪の下で彼女の褐色の瞳はこれまでにない厳しさをたたえていた。

  「急激に魔力を削られています。急な魔力低下にともない体力も低下し、かなり危険な状態です」

  「危険ーーて、」

  カミャは嘘をつかない。シュバリスが絶句していると、

  「はっきり申し上げて予断を許さない状況だと、さきほど医師が」

  「はーー?」

  慄然としてシュバリスはカミャを追い抜き、寝室に踏み込んだ。ハダルはベッドにあおむけになりその周囲で主治医と解呪の資格をもつ魔法使いが杖を手にしていた。シュバリスがそちらへ近づいた瞬間、そばにいた看護師が制止しようとしたが、カミャが「かまいません。ハダルさまがお持ちの[[rb:御守 > アミュレ]]を作られたのはそのかたです」とシュバリスを通させた。顔見知りの医師はシュバリスを見ると「どう思う」と首をかしげた。

  「君は幼いが白魔法は一流だ。それに強力な[[rb:対人読魔能力者 > オルリド]]でもある。君の目にはどう見える、この急変」

  シュバリスはハダルの体に手を伸ばした。胸に触れると、ハダルにいま何が起こっているかわかった。

  (なにこれーー)

  医師たちの見立てどおり急激にハダルの容態は悪化していた、というより、ハダルの魔力はいまだに彼を誘拐した犯人に奪われ続けているが、その体を蝕む呪いが急激に強さを増していた。ユアンの「年内いっぱい」とのことばはもはやなんの意味もない。

  正真正銘の命の危機だ。いままさに危篤におちいっている。

  「はーー、」

  (犯人がハダルを殺そうとしている。いまこれから、今夜のうちに)

  「食い止めます」

  シュバリスは云い、目の前でだんだんと色味を失って青ざめていくハダルに全神経を集中させた。手のひらから放出された魔力はその瞬間、治癒魔法として発動する。が、ハダルの魂に結ばれた古い呪いは、彼女の力をもってしても完全にとけず、呪いの効果をわずかに食い止めることしかできなかった。アイドクレーズが横からシュバリスの腕をおさえた。

  「無駄です。いまのままでは焼け石に水です」

  「だけどーー」

  「出ましょう」

  アイドクレーズに引きずられるようにしてシュバリスは寝室の外に出た。カミャが連絡用のクリスタルを手に入れ違いに寝室に入っていく。彼女を見送ったアイドクレーズは、いますぐにも寝室に引き返していこうとするシュバリスを押さえつけて低く囁いた。

  「だめです。こうなったらもう犯人を捕まえるしかない」

  「ていったって……アイク、」

  誰なのかわからないのだ。唇をかむシュバリスにアイドクレーズはうなずきかけ、

  「ギネヴィアを探しましょう。とにかくユアンはあなたの眼と足を奪った本人ではない、とすると共犯がいるわけですが、実行犯としていまのところ可能性が高いのはギネヴィアとナイジェルです。ナイジェルの行方はわかりませんが、ギネヴィアならまだ探せる」

  「ーーわかった」

  どのみちここにいてもなにもできない。医師も解呪師も一流の人物だ。いったん寧華宮に戻ることにして、しかしいまいる場所からそちらへ戻る陣がどこにあるのかわからず、ふたりはしばらく王宮内をさまよった。けっきょく、三階にある従業員用の階段つき出口から星削宮の背後に広がる中庭にとびだす。中庭とはいえ、直近の離宮まではかなりの距離がある。庭は視界におさまらないほど広く、すでにあたりは夜闇が天蓋のように空を覆いつくしている。丘陵のシルエットを浮かび上がらせるように明るく輝く方角に寧華宮があると見当づけ、ふたりは速足で歩き出した。

  「いったいどこに行ったのかしら彼女。ほんとうに帰った?」

  「かもしれません。ですがユアンの様子だと彼も彼女の行動を把握していないようです。ひょっとしたら把握していないふりかもしれませんが、ユアンがまるっきり今回の件に関知しておらず彼女が真犯人だとしたら、このタイミングでハダルが危篤に陥ったことから鑑みて、彼女こそ同時にハダルを誘拐した人物でもあるんでしょう。ハダルに呪いをかけて魔力を奪い、いまとうとう殺そうとしている。ユアンが皇位継承者に復帰するめどがようやくついた、次はその継承を確実にするために」

  「彼女が犯人なら、そのうえわたしからも奪ってる。魔力はものすごい量になるわ。それにどう考えてもこのタイミングで消えるのはおかしいーーじゃあ、やっぱりギネヴィアが」

  初対面から鮮烈で清々しい印象を残したギネヴィア。シュバリスをユアンの魔法から救ってくれたギネヴィア。夢を語ったギネヴィア。弱みをさらけ出してくれたギネヴィア。凶行の理由が彼女なりの正義や優しさからきているのだとしたら、あまりにも切ないし、だからこそ許せない。

  「もっとほかのやりかたがあったはずよ。なのに」

  アイドクレーズは無言だったが、つないだ手を握る力が強くなった。がーー

  「しっ」

  アイドクレーズが唐突にその場に立ち止まる。シュバリスも止まった。寧華宮へむかう方角には、小さな[[rb:東屋 > ガゼボ]]や庭園整備のための資材などを収納した小屋が点在していたが、ふたりはちょうど休憩所として使われているらしい[[rb:宝形造 > ほうぎょうづくり]]の建物を斜めむかいに通り過ぎたところだった。「どうしたの」と首をかしげるシュバリスを無視して、アイドクレーズは険しい表情で、三十メートルほど離れた[[rb:八注 > はっちゅう]]の影を凝視していた。シュバリスも追って目をこらし、気づいた瞬間息を呑んでアイドクレーズに身を寄せた。誰かがそこにいた。

  「誰だ」

  アイドクレーズの誰何に人影が八注から離れる。やがて月光のもとへ歩みだすと、闇に沈んだ顔が光に曝け出された。

  「あーー」

  するどい双眸が金色に輝いてふたりを見つめている。げっそりとこけた頬に、無精髭が覆いつくした顎。全身黒づくめの姿はまさに死神か幽鬼かといったところのナイジェル・アベンチュリンだった。

  「ナイジェーールーー、?」

  ここで会うとは予想だにしなかった。およそ半年ぶりに会う男を息を呑んでふたりは見つめた。彼もふたりを見つめていた。長きにわたる逃亡生活のためか、以前とは桁違いの恨みと瞋恚をたたえた目は狂気にみちていた。彼の右腕に握られているものを見てシュバリスたちは後ずさった。[[rb:鎚矛 > メイス]]だった。[[rb:魔法杖 > マジックワンド]]としてだけでなくそれじたいが凶器でもある。しかもナイジェルは、腰と背に大剣や双剣や長剣など、複数の武器を携えていた。

  「あーー、」

  あるじの命が危機に陥って、ようやく現れた。

  「逃げ、」

  ナイジェルの全身に殺気がみちている。ふたりは顔を見合わせ、次の瞬間、寧華宮へと疾走しようとした。だが、空を切る音が耳元で聞こえ、せつな、がつん、という音と衝撃がふたりを襲った。

  最後にシュバリスが感じたのは、全身が歪み、時空を超えて遠くへ連れ去られていく感覚だった。

  [newpage]

  [chapter:ギネヴィア]

  (ーーああ)

  (そうだったーーのかーー)

  ギネヴィア・ルネ・マリー・トリッチトラッチは深い瞑想から我にかえり、周囲を見渡してほっとため息をついた。瞑想とはいえぼんやりとじぶんの考えや、これまでに感じていた違和感を脳裏に遊ばせていたわけで、それがようやくギネヴィアのなかで答となって現れてきてくれてひどく安堵していた。そしてその答は、じわじわとギネヴィアに驚きと焦りをもたらした。

  (なるほど、彼女がそうだったのかあ。なーんでわたし、いままで気づかなかったのかなあーー)

  シュバリス・イスラメイ。彼女の秘密がようやくわかったとギネヴィアは確信し、巣球部時代に磨きをかけた、勝負勘とでもいうべき己の第六感を自画自賛した。対物特化とはいえ強力な[[rb:読魔能力者 > オルリド]]であるギネヴィアは、ここのところずっと「彼女はいったいなんなのか」という疑問にかかりきりだったが、その疑問がようやく解けたのだ。

  (だとしても死んでほしいとはまったく思わないわ。むしろ好きだわね……優しくて綺麗で穏やかで、わたしだってうっかり惚れちゃいそうよ)

  (だけどあの子の中には、わたしとはまったく別種の情熱や頑固さがあるーーそれがユアンのみならずわたしをも惹きつけている。だけどもし、それが障害になるのだとしたら)

  いろいろなことをしゃべりすぎたと、いまではギネヴィアは後悔していた。じぶんの力を過信しすぎるのはいつもじぶんの悪い癖だ。

  「まっさかこんなことになるとはねえ〜……」

  小さく呟いてギネヴィアは立ち上がり、寧華宮の青銅葺き円屋根の上を悠々と歩行して軒先から宵闇の庭を見渡した。ところどころに照明用魔晶が浮遊し、その光が湖の水面に反射して幻想的にきらめく。その淡い光を縫うようにして、先ほどシュバリスとアイドクレーズが庭に駆け出てきてどこかへ消えていった。おそらく現王宮に飛んだのだろう。ギネヴィアの鋭い聴覚はその理由すら拾いあげていたーーハダル・ハルシオン・セレスタインが、計画通り危篤に陥ったらしい。

  「とうとう、だね……」

  だがここからが本番だ。彼女の鋭い聴覚は、発表会のあとで囁かれていた皇帝とユアンの会話も屋根越しに拾い上げていた。とうとうラーゼスが判断をくだし、ユアン・カルセドニーが皇帝の座につくめどがついた。ギネヴィアは口元に笑みを浮かべようとしたーーやっと願いが叶うのだ、大声で笑ったって責められはしない。しかしできなかった。じぶんがしてしまったことの罪の重さとこれからすることの重大さにうちのめされて気が狂いそうだった。目に涙が浮かんだ。

  (らしくない。あともうちょっとなのに、なにを迷っているの?)

  (苦しくて泣きたいのは、子どもたちを殺しかけたことへの罪悪感のせい? それともこれからまた、ぜんぶ承知の上で子どもたちを危険に晒そうとしていること?)

  (それとも此の期に及んで、まだじぶんの愚かさが呪わしい?)

  (そうーーこれからまた、わたしは)

  ギネヴィアは軒先からじっと湖面を見つめた。あそこに飛び込んで頭を冷やした方がいいだろうかと思ったが、そんなことをしたらこれからの仕事に差し支える。予定通り席をはずすとはいえ、やはりユアンにひとこと断っておかねば失礼にあたるし不審にも思われるだろう。足元にひとびとの気配がした。ホールにひとびとが戻ってきた。いくらなんでもここから降りるのはまずい。どこか別の場所から降りようと振り返ったとき、ふとギネヴィアは人の気配を感じて足を止めた。

  「ここにいたのか」

  髪も衣装もきっちりと整えたユアンが立っていた。灰色のスーツに、瞳と同じ濃緑のタイ。盛装していると驚くほど精悍に見える。エメラルドの目が月光に照らされ、興奮に輝いていた。ギネヴィアは目を細めた。

  「よくわかったわね、ここだって」

  「君の考えることはだいたいわかる」

  病弱だったのは過去の話だし、そのときから運動神経はそこそこあった。けして鈍臭くはなかった。ユアンは屋根の上をゆっくりと歩いてギネヴィアの隣に立った。

  「ここは冷えるぞ。いくら君が頑丈とはいえ足場がいいとはいえない、足を滑らせでもしたらどうする。君はそんなドジは踏まないだろうが万が一ということもある。いままでずっとここに?」

  「まあね。見合いを持ちこもうとする横に別れたはずの元婚約者がいるんじゃ親戚のみなさまだって話しづらいでしょ。遠慮してあげたのよ」

  「拗ねてるのか?」

  緑の目が面白そうにきらめいた。拗ねてる? まさかーーギネヴィアはややうんざりしながら頭を振り、足元に目を落とした。

  「拗ねてない。ちょっと足が痛くてさ。ほら、今日はおろしたての靴だから」

  さっきと同じく銀色の爪先を蹴り上げてみせると、

  「そうか。足の痛い人間がここに登るかという気はするが、まあ君だからな。しかし肝心なときにいてくれないから困ったよ、皇帝陛下のお目に入るときだけは隣にいてくれと云っただろう?」

  「ーーあなたってたまに横暴になるよね。ひとを都合のいい道具にする。これまでの男どもよりはマシだけど」

  「……君を道具だと思ったことはいちどもない。それに君のことは皇帝陛下も承知だ。応援してくれていたし、いまも応援してくれてる」

  「それで? 継承者に返り咲くの?」

  だんだん隣にいるのが厭になって、一歩横にずれながらギネヴィアは云った。ユアンは面食らったように目を丸くした。

  「聞いてたのか?」

  「というより聞こえた」

  並外れた視力と聴力をもつ彼女には、屋根の上にいれば人の出入りや内部で交わされる話もすべてわかるのだ。ギネヴィアは肩をすくめた。

  「わたしにはかわいいワンワンやニャンニャンの血も混じってるし、たいていの獣人は五感も第六感も人間より鋭敏なのよ。知ってるでしょ?」

  「ああ。すでに議長には話が通っているそうだ、来月議題にあがるが、まずまちがいなく決議も通るだろうと云われた。後継者がユーレアイトひとりになるとすると各地で反発が起きるから、彼らへの押さえとしてもわたしの復帰は要るとのことだ。返り咲きだ。実に十七年ぶりに皇位継承者に復帰する」

  「そう、おめでとう。長いようであっという間だったわね。でも、あなたもたいがいこの国の都合のいい道具よね、かわいそうに」

  「御双家の人間だからな。けっきょくは、国に振り回されるために生まれてきたようなものだ」

  ユアンは再びギネヴィアへ一歩踏み出した。追えば逃げるのに逃げると追ってくる、この男はいったいなんなのだろう、とギネヴィアはユアンを見上げてため息をついた。やはりヒールの高い靴を履いてくるべきだった。見下ろされるのに慣れていないばかりか、王子さま然とした穏やかな瞳に見つめられるとじぶんの罪を告白しそうになる。

  ユアンは手を伸ばし、心配そうにギネヴィアの頬に触れた。

  「下に戻ろうギネヴィア。さすが皇帝家だ、うちとは違って滅多にないご馳走がたくさんあるよ。なんだか君は最近やつれたし、さっきもろくに食べていなかった、そろそろなにか口にしたほうがいい。それに、このところ君は付き合いが悪くて心配だとトラヴィスも云っていた。仕事のあとはさっさと帰ってしまうし飲みにもつきあわなくなったと。わたしが連絡した時は残業だなんだといって断られた気がするが、このところずっと定時あがりだそうじゃないか。いったいどうしたんだ。ほんとうにどこか悪いのか?」

  よけいなことを、と世話焼きの部下に心中で舌打ちしたギネヴィアに、ユアンはつづけて「体調が悪いなら別室で休んでいてもいい。料理も酒もそこに運ばせる」と神妙に云った。

  「それと、伝えるのが遅れたが、今夜はとても綺麗だよ。きみはいつも綺麗だがことさら綺麗だ。その髪も服もよく似合う」

  「知ってる」

  ギネヴィアは肩をすくめた。ラベンダーのドレスはユアンが以前に褒めてくれたから選んだ。しかし、なにも知らないユアンを見ていると泣きそうになる。ギネヴィアは無理やり視線をユアンから庭へと引き剥がし、そっけなく云った。

  「でも、やっぱり今夜はこれで失礼するよユアン。悪いね、やっぱりあんまり体調が良くないみたい。帰るよ」

  顔を見ないまま、ギネヴィアはじぶんの頬に触れるユアンの手をゆっくりとおろし、そのまま軒先から跳躍した。館と湖から離れた庭のやわらかな草地、ここまで跳べばユアンは追ってこないだろう。しかし驚いたことに、一瞬後ユアンはギネヴィアの隣にいた。「パーティーに印をもってきたわけ。なぜ?」ギネヴィアが目を見開くと、上着の内ポケットを軽く示してユアンは肩をすくめた。

  「春から立て続けにあれだけ起これば、急が起こるのを見越して備えもする。あんまり褒められたものではない印も陣もあるがね。君を歓ばせるためのもの含め」

  誘惑する緑から、ギネヴィアは視線をそらして頭をふった。

  「要らない。それはいつか憧れの彼女と使うときのためにとっておいて。悪いけどわたしはもう帰ーー、え、ちょっと!」

  「ギネヴィア」

  とつぜん抱きしめられて息が詰まった。指先が髪をかきわけ、ユアンの唇が額に、頬に、唇に落ちた。長いキスのあと息継ぎのために顔を離すと、興奮をたたえた緑とぶつかった。

  「待ってくれーー聞いてくれ。君の云うとおりわたしは悪い男かもしれないヴィア。怖いのに嬉しいんだ。やっとこのときがきたと思ってる」

  ユアンの声は震えていた。いつにない様子にギネヴィアは息を呑んでその場に立ちすくんだ。

  「ハダルが死んだらどうしようーー?」

  ユアンはぽつりと云った。

  「もし彼になにかあったらわたしだと、ちゃんとわかっていた。アルジュナではなくじぶんが選ばれるとわかっていたんだ。だから君と別れたのかもしれない。そしてわたしは、このときが来るのをずっと待っていた」

  「ユアン、」

  「ハダルはいい子だギネヴィア。ほんとうにいい子なんだ。わたしは彼をとても好きだし、彼が生まれて激しく嫉妬したのと同時に、これでわたしは重荷から解放されると安堵したんだ。大きな魔力をもって生まれたことも生まれつき黒を出したことも聡明で優しいところも、親戚として兄代わりとしてとてもハダルを愛おしい。だけど同時に彼さえいなければじぶんが、とーー心のどこかでそう思ってきたのもまぎれもない事実だ。いったいどうこの気持ちとどう折り合いをつけたらいいのか。もしほんとうに彼が亡くなったらわたしはどうなるのかーーどうなるんだろう?」

  まるで学生時代に戻ったときのような、いや、皇位継承者から外れたときの少年の顔で弱気につぶやくユアンに、ギネヴィアはかっとなった。

  「あなたねえ。いいかげんしっかりしなさいよ!」

  もたれかかってくるユアンを、ちゃんちゃらおかしいと思いながらギネヴィアは叱咤した。

  「なんなのそれ。いまさら何を云ってるの。どうしたのユアン、それがなんだっていうの? 人の不幸の上にじぶんの栄光が準備されることに、いまさらショックを受けてるの?」

  「ーー端的にいえばそうだ。いよいよじぶんが復帰すると聞かされて、つかのまわたしは喜んだーーそれがハダルの不幸を意味すると知っていてだ。そのことにいま打ちのめされている。急に恐ろしくなった」

  「あなたってほんとうにーー」

  ギネヴィアは深く息を吐き出した。そして云った。

  「士道不覚悟もたいがいになさい。それに関しちゃ学生時代のあなたのほうがよっぽど覚悟が決まってたわよ。ねえ、いまさらそんなことに気づいたの?ーー誰かが幸せになれば誰かが不幸になる、そんなの至極まっとうなことでしょう。べつにぜんぜん変なんかじゃないよ」

  「そうーーだろうか」

  「そうだよ。ギネヴィアさんが断言してあげる、当然のことだよ。わたしだって身をもって知ってる。でも、わたしたちはそうやってなんとか生きてゆくしかないんだよユアン。ねえユアン」

  ギネヴィアはユアンの肩を掴んだ。

  「誰かを愛する気持ちも憎む気持ちも、そのあいだにはっきりと壁があったり境界線がひかれてるわけじゃないんだよ。というか、白黒はっきりつくことなんて世の中にほとんどありはしないんだから、ハダルの死を願うと同時に生きていてほしいと願う、それは両方まっとうなことだよ。それでいいんだよ。人の気持ちってのはたいがい灰色に揺蕩っていて、ふとしたときにただちょっと白か黒が濃くなるだけなんだから。だけどそれでも、あなたは皇位継承者なんだから、選ばれたんなら役目を果たさなきゃだめだよ。ハダルが死んだり、わたしがあなたのそばから去ったとしても立派な皇帝にならなきゃだめ」

  「ーーギネヴィア?」

  ユアンが顔をあげてギネヴィアを見つめた。じぶんはいまどんな顔をしているのだろうと恐怖に駆られながら、ギネヴィアはじっとユアンを見返した。ユアンが首をかしげた。

  「あのーーそれはどういう? いま君が、わたしのそばから去るとかいったか?」

  「まあね……」

  背筋に汗が浮かんだ。恐怖が全身を突き抜けた。気づかれたらどうしよう? ギネヴィアは必死で恐怖を抑え込み、まっすぐにユアンを見つめた。

  「潮時ってやつだね、たぶん。あのね……あなたに云わなきゃならないことがある。こないだ研究所に休職願を出したんだ。トラヴィスにも仲間にもまだ云ってないけど、これからしばらく休養する。一年か二年、それとももっと長くなるかも。両親の遺してくれた土地にでも移ろうかなって思ってさ。もうずっとそっちの家も手入れしてないしちょうどいい機会だから」

  「休養? ちょっと、まさかーー待ってくれ。どういうことだ?」

  ユアンの目が驚愕に見開かれた。やがてはっとしたように「まさか病気か?」と声をあげた。

  「調子が悪いといってたな。それで休養って、ほんとうにどこか悪いのか。なにか重篤な病気なのかーーいま?」

  戸惑う様子に、ギネヴィアは笑って頭を振った。

  「病気じゃないよ。ただそう、ずっと働きづめで疲れたんだ。夏にちょっと体調を崩したのは知ってるでしょ。それでちょっと考えてねーー学院を卒業してあなたと婚約して、大学行って研究所に勤めて婚約破棄して結婚して離婚して、仕事一筋に働いて、わたしはこの十年ずっと走り続けてきた。そしてもう三十を越した。地に足をつけてゆっくり将来のことを考えたい、ここ数ヶ月そう思うようになったんだ。ずっとミクラとセレスと研究所しか知らないできてることも気になってたし、もっと別の世界を知りたい。だから仕事を休んで、とうぶんどこかでのんびり過ごすつもり。もう決めた」

  「は? ーー待ってくれ、どうしてわたしに話してくれなかったんだ。仕事を休む……それはまあいい、君はとにかく働きすぎだ。だが、遠くでのんびり? どこで、いつから? どうしてそんなことをわたしに一言の相談もなしに決めた?」

  「どちらにしろあなたと一緒にいる気はもうない」

  ユアンは固まった。じぶんがギネヴィアを拒否することはあってもギネヴィアがじぶんを拒否することはないと思い込んでいたのだ。ユアンは呆然としていた。ほんとうに身勝手な男だとギネヴィアは思った。

  「なぜ?」

  「なぜって?」

  できるだけ酷薄に、悪い女に見えるようにギネヴィアは笑った。

  「君ってばほんとうに王子サマだね。ひとりの人間がそうなにもかも手に入れることはできないんだよ。だからあなたはじぶんに巡ってきた幸運がほかの誰かのお膳立てによるものだって気づかないでいられるんだ、ユアンーーユアン・リコリス・カルセドニー。すまないがわたしはあなたとはもういられない。それだけはわかってよ」

  「待ってくれ。だってーーこのまま順当にいって、わたしが皇帝になったら、いろいろなことがーー」

  「変えられる? それはいい、わたしにとっても願ってもないことだ。そうーー約束してユアン。もし本当にハダルさまが亡くなられたら、悲しみも苦しみも乗り越えていい皇帝になるんだよ。そしてこれからわたしが失敗して、なにもかもダメになっちゃっても、あとから真実を知っても、ヤケになったりしないでね」

  「どういう意味だ。いったいーー」

  「わたしにはもう、こんなことしかしてあげられないよ。どっちにしろあなたを傷つけるかもしれないけど、もうそんなに弱くないって信じてる。できるかぎりのことはするから……その結果をあなたが受け止められることを願ってる。そうーーいつかちゃんと真実を話すからねユアン。もっとずっと時が流れてわたしたちの思い出が笑い話になったら。あのねユアン、今夜はじっとしておいてよね。そしてこのあとなにがあってもじぶんを責めちゃだめだよ」

  ギネヴィアが素早く口づけると、ユアンは後方によろめいた。その表情を見ることなくギネヴィアは踵を返し、こんどはユアンが追いかけてくることのできないスピードで前方へ跳んだ。振り返ると、浮遊する光に照らされたユアンがせわしなくスーツのポケットを探っているところだった。が、あいにくと彼の所持していた印はすべてギネヴィアの手中にあった。

  「さあいこう」

  これは正義だ。

  きっとみんなそう信じて、己の欲望のために力を振るってきたのだろう。

  「わたしのマジック」

  この体の中にとてつもない力が宿っている。神さまが彼女に託した無二の魔法が、細く繋がれた線から流れ込んでくる。それは別の誰かのいのちの力だ。とても素晴らしい力。誰にも渡しはしない、これはじぶんのものだ。

  ほかの誰のものでもない。

  さきほどユアンから抜き取った印を手の中に広げた。武器召喚の印があった。うってつけだ、とギネヴィアは笑った。いつだってユアンの印ほど使いやすいものはない。ずる賢いことにユアンは自分の署名、すなわち作成者の[[rb:魔力残渣 > アウラ]]を残さない巧妙なやりかたで印や陣を作ってくれる。プロの技だ。

  ずっと一緒にいたかった。

  「あなたが気づくべきだったんだユアン。そうしたらわたしを止められた」

  困ったことに、もう着替えている時間はない。それに精神状態が最悪だ。気を抜いたら泣きそうになるのは、体内にとりこんだふたりぶんの魔力があまりに莫大すぎるためだろう。じぶんには過ぎた魔力だったのかもしれない。それでもやるしかない。

  ギネヴィアは印を発動させた。

  [newpage]

  [chapter:三つ巴]

  「んんー……んうーーう?」

  シュバリスはじぶんの唸り声で目を覚ました。前後の記憶はしばらくつながらなかったが、つながった瞬間眠気が吹っ飛び、すぐさま体を起こそうとして両腕を背で拘束されていることに気づいた。

  「えっーー?」

  「うー、ん……」

  「あーーアイク!」

  隣では、やはり両腕を背中で拘束されたアイドクレーズが床に転がっていた。急いでにじりより、「アイク! アイドクレーズだいじょうぶ?」と囁きかけると、アイドクレーズはすぐに目覚め、ゆっくりと体を起こしてぼんやりと周囲を見渡した。

  「ここはーー?」

  周囲に明かりは一切ない。が、暗闇に強い蛇人のシュバリスにはそこがどこかすぐにわかった。

  「学院の教官室だわ」

  似たような造りの似たような雰囲気の似たような匂いのする部屋。資料や本を取りに行ったり運んだり、手伝いで各教科の教官室に入ったことがあるから、間違いなくそうだと断言できた。ただしどの教官の部屋なのかは判然としない。アイドクレーズが首をひねった。

  「なんで学院?」

  「さあーー」

  両腕を拘束されているというのは尋常ではない。ただ、ここが学院ならふたりはよく知っている。ふたりをぶん殴るか魔法を用いるかして気絶させた犯人が、印か陣でここへ連れてきたのだ。というか、後頭部がひどく痛むので殴られたのでまちがいない。が、いまはぐずぐず考えている暇はない。とにかく頭の痛み以外に怪我はないし、ここから逃げなければと、シュバリスは身をよじって縄を解こうとした。だが固い結び目はびくともしない。頭痛に顔をしかめながらシュバリスはじぶんの肩越しに背後を覗き込んだ。

  「解けないわ。夏の襲撃のときみたいに魔力を封じられているわけではないみたいだけど。よしーー待ってて、すぐに魔法で」

  「あのう。というより」

  水でふやかして解くか炎で焼き切るか、それとも風で切り裂くか思案するシュバリスに横からアイドクレーズが呟いた。

  「獣型に戻るのはどうでしょう。蛇身になれば縄を抜けられるのでは? 魔法を使うと多少は光だの音だの漏れちゃいますし、犯人が近くにいるならそれで気づかれちゃうかも。魔力を封じられていないなら物理でいくのがいちばんだ。あなたがまず縄をといて、そのあとわたしのも解いてください。教官室なら鋏かナイフか、なにかしら使えるものがあるでしょう」

  「あ、そうか」

  うちの従者ってば世界一賢いんじゃないかしら、とシュバリスは感心し、さっそく蛇の姿に戻ろうとした。服が脱げてしまうという難点があるので、いみじくも大勢の子どもたちと暮らしている手前もあって蛇型への変化をはばかっていたが、いまはふたりきりだしすぐ着直せばいい。「じゃあ」とシュバリスは久しぶりに[[rb:大白蛇 > ナーガ]]の姿、いや単に白い子蛇の姿へと戻ろうとして、はっとアイドクレーズと顔を見合わせた。

  足音が聞こえた。かすかな音だったが急速に近づいてくる。足音は、ふたりの十メートルほどむこうの教官室のドアの前でぴたりと止まった。犯人だとするならやはり近くにいたのだ。ふたりは慌てたーーいまいるのは教官室のどの部屋にも置いてある巨大な執務机の前だったが、ドアがひらけば相手にすぐ姿を見られてしまう。「気絶しましょう」とアイドクレーズが素早く云った。「起きてると気づかれるほうがまずい。逃げるのはあと」

  「了解」

  一瞬後、ふたりはもとどおり床に寝転がっていた。ドアが開く。足音が近づいてくるーー目を閉じたまま蛇人独自の感覚で周囲を探ったシュバリスは、足音の持ち主がかなり大柄な男性であると感じ取った。男はシュバリスたちの前に膝をついて小さく呟いた。

  「ようやくこの時がきたな。あそこで会えてなによりだったーーやっと自分の手でケリをつけられる。ハダルを救える」

  その声にシュバリスはぎょっとした。隣で眠っているふりをするアイドクレーズも愕然としていた。

  (ーーナイジェル)

  まちがいなくナイジェル・アベンチュリンだ。八注の陰から凶器を身につけて現れた逃亡者。ふたりを気絶させてここに連れてきたのはやはりナイジェルで、いまこうやってふたりが拘束されているということはーー

  (ギネヴィアじゃない)

  (アイドクレーズが最初に云ったとおり、ナイジェルが黒幕だった!)

  ナイジェルが黒幕ではないなら、まずはシュバリスたちにむけて潔白を証明しようとするはずだ。しかしそれをする手間を省いてシュバリスたちを気絶させ、ここへ連れ込んだということはーーハダルが窮地に陥ったと知って、こんどはシュバリスの肉体の一部を奪うのではなく殺して魔力を奪うことで完璧にあるじを救おうとしている。たまさか、近くで金属音がした。鞘からナイフか剣を抜く音だ。シュバリスが薄く目をひらくと、開けられたままのドアからさしこむ薄明かりのなか、手にしたナイフを握りしめてシュバリスとアイドクレーズにかざすナイジェルの姿があった。彼の瞳は金色に光り、それは半年前に地下神殿で彼女を見下ろしていた冷たい瞳と同じだった。殺されるーー

  せつな、アイドクレーズが動いた。

  小さな体をバネのように弾けさせ、寝ていた体勢からその場に片膝立ちになると、アイドクレーズはナイジェルの手の中のナイフを蹴り上げた。ナイジェルの目が驚きに見開かれる。「逃げますよ!」そのことばにシュバリスも跳ね起き、ナイジェルの横をすりぬけてドアへと走り出した。本棚が横目に見えた。“最新版 移動の符丁”“黒系印章一覧”“図解・召喚式”ーー

  印陣教官室だ。

  「てことはーー、」

  ここで殺せばユアンに罪を被せられると思ったのか。

  ぞくりとしながらシュバリスは「アイドクレーズ!」と叫んだ。背後でアイドクレーズの魔力が増幅した。魔法を使おうとしている。しかしここが学院の教官室ということは、高レベルの魔法、ことに黒魔法は使えない。だからナイジェルもナイフを抜いたのだ。なにもかも知った上でここに連れ込んだ、それこそが彼がシュバリスたちの敵である証だった。アイドクレーズも気づいたのか、ナイジェルの横をすりぬけてシュバリスのもとへダッシュしてきた。シュバリスはアイドクレーズの手を掴み、ドアへ走った。がーー

  「ひゃっ」

  なにかに足を取られてシュバリスは転んだ。アイドクレーズもだ。ナイジェルが腕をのばし、[[rb:鎚矛 > メイス]]を床に滑らせていた。引っ掛けられたのだ。両腕を封じられたふたりは受け身をとることもできず床に倒れたが、無言で起き上がり、めげずにドアへ駆け出した。が、そこにはすでにナイジェルが回り込んでいた。

  「逃がさない」

  まともにやりあったら勝ち目がない。シュバリスたちは執務机へと後退した。「窓からは?」アイドクレーズが視線を走らせながら云った。執務机の後ろには窓がある。「逃げられませんか?」ーーユアンの教官室はたしか二階だから、飛び降りたところでさほど怪我をせずにすむし、飛び出した瞬間に衝撃を和らげる魔法を使えば無傷でいけるだろう。だが、窓をあけて鎧戸をあけ窓枠をこえる、と、脱出するまでに三つも動作をこなさねばならない。そのあいだに捕まる。ナイジェルを睨みながらアイドクレーズがするどく云った。「ドアは望み薄だしわたしが時間を稼ぎます。鎧戸をあけて窓から出てください」ーーシュバリスは頭をふった。

  「だめよ。彼の狙いはわたしのはず。わたしが囮になるわ。あなたが窓を」

  「[[rb:否 > ノール]]。あなたが捕まればぜんぶ終わりだ、わたしが出ます。大怪我のひとつやふたつ、あなたが癒してくれるでしょう?」

  「もちろんだけどーーねえ、ふたり同時にドアと窓にむかうっていうのはどう? 同時にふたりを捕まえるのは無理なんじゃない?」

  「名案だ。ドアに行きます」

  「じゃあ窓に。その前にーー」

  シュバリスは両腕に力を込めた。魔力を手のひらに集中させる。袖が風をはらんで膨らんだ。縄が緩んだーーシュバリスはそのままアイドクレーズの両手首の縄を解いた。この程度の魔法は使える。白魔法も使えるだろう。一瞬の目配せののち、解けた縄を振り落としながらふたりは同時に駆け出した。がーー挑発するようにドアにダッシュしてナイジェルに立ち向かったアイドクレーズを、ナイジェルは跳躍し、頭上を飛び越えてかわした。それどころか、空を切る音をたててシュバリスの背後にまで迫ってきた。アイドクレーズの舌打ちが聞こえ、シュバリスがふりむいたとき、執務机の上に降り立ったナイジェルの腕がシュバリスを捉えた。

  「きゃあっーー」

  さすが騎士団、なかでも実戦部隊と名高い[[rb:狩人 > サヤド]]の所属、身体能力だけでも群をぬいている。シュバリスは感心したがそれどころではなかった。シュバリスの襟首をつかんだナイジェルはそのまま素早く体を入れ替えて反転し、シュバリスの体を背中から執務机に叩きつけた。

  「ぐっーー」

  衝撃で息が詰まった。机からはみ出た足が宙に浮き、腕も手も力が入らない。おさえつけられてもがくシュバリスに「おとなしくしろ」と、せっぱつまって善悪の判断もつかなくなった声が落とされた。

  「帝国のためを思うならおとなしくしてくれ!」

  「ナイジェルーー」

  「ハダルを救う、それだけだ」

  「ならばそのかたを救うのがわたしの望みですーー手を離せ!」

  激怒したアイドクレーズが、シュバリスが押し倒された拍子に床に落下した鉄製のペン立てからペーパーナイフを掴み、まっすぐにナイジェルへ放った。ナイジェルはそれをすんでのところでかわしたが、頰からこめかみにかけてざっくりと裂け、血がシュバリスの顎や胸元へ滴った。それでもシュバリスを押さえつける手は緩まない。次の手を繰り出そうと思案するアイドクレーズに、「アイドクレーズ!」シュバリスは降りかかる血を避けようと顔をそむけながら、そっと手のひらを机の上から持ち上げた。

  「目を閉じてーー!」

  ナイジェルの頭上で、オレンジの大きさをした魔法の光が浮遊している。照明の魔法は使える。ならばーー

  「光(ルシア)!」

  「うっーー、」

  最大光量で生み出した魔法の光を、シュバリスはナイジェルの顔に叩きつけた。しばらく視界が利かなくなるはずだ。ひるんでわずかに手の力がゆるんだすきにシュバリスは蛇身に戻り、するりと執務机から降り立った。人型に戻りつつ、肩、腕、手、指先が現像した瞬間、執務机の上で抜け殻のようにわだかまる蝶袖服の上着と帯だけをひっつかむ。衣服を纏いながらドアのほうへ走ったところで、ナイジェルは執務机を飛び越えてあてずっぽうにシュバリスたちにタックルしてきた。

  「こんのーーっ」

  ナイジェルに押さえ込まれながら、ふたりはもんどりうって床に倒れた。アイドクレーズが「莫迦力め」と呻く。魔力なら五分だろうが、体力と腕力の差は歴然。アイドクレーズが呼び寄せの呪文をつぶやき、彼の手のひらに先ほどのペーパーナイフが吸い寄せられた。ナイジェルも腰から短剣を抜いていた。武器の差も歴然、もろともに殺される。もうだめだ。シュバリスが思わずぎゅっと目を瞑ったときだった。

  「ナイジェル!」

  怒号が響いた。三人はほぼ同時に開け放たれたドアを見た。ナイジェルに負けず劣らず大柄で重量のある肉体のもちぬしが立っていた。窮屈そうな盛装を乱し息を切らしているテオドール・アベンチュリンだ。

  「こんなところでなにをしている。そのふたりにこれ以上危害をくわえるな。鬼ごっこはおしまいだ!」

  するどく云って、テディは室内に踏み込んできた。シュバリスたちは顔を見合わせ、ほっと安堵の息を吐いた。

  「また邪魔をする気か。捕まえてみろ、この無能!」

  シュバリスたちはナイジェルの下から逃れ出て、テディへと駆け出そうとした。が、ものすごい力で後方に引きずり戻され、執務机の背板へ投げつけられた。しかもナイジェルが追って魔法を放った。さきほど床に解き落としたロープが床から立ち上がると、シュバリスたちを背中合わせにぐるぐる縛りつける。本や荷物をまとめるときに使う魔法の応用だ。さきほどもこれで拘束されていたのかとシュバリスたちが納得したときーー

  ほぼ同じ体格の、同じ重さの男ふたりがぶつかりあった。ナイジェルは短剣を抜いていたが、テディもすぐ近くにあった真鍮製のコートかけを手に応戦していた。火花が散った。

  (ーーすごい)

  ギネヴィアがいつか、「魔法は仕方ないにしても腕力だけならたぶんあなたのほうが上、組み合わせしだいでは斃せる」と告げていたが、純粋に腕力と体力ならナイジェルに引けをとらないことをテディは証明していた。教官室では高度な魔法は使えない。シュバリスたちを閉じ込めておくのに、だからナイジェルはここを選んだのだろうが、それがいまはテディに有利に働いていた。額に汗をしたたらせながら弟にむかってテディが云った。

  「云っただろう。ようやく見つけたーー鬼ごっこはおしまいだ。そのふたりを離して降れナイジェル。わたしはおまえに怪我をさせたくない」

  「ほざけ。よく云う、おまえこそ目を覚ませテオドール。あの男は反逆者だ。ハダルの死を願うなど、皇子殿下の死を望むなどもってのほかだ!」

  「あのかたはそんなことを願ってない!」

  「おまえのその忠誠は邪魔なんだよ!」

  真鍮製のコートかけは意外にも武器として強力だった。何度目かのぶつかりあいで刃こぼれした短剣をナイジェルは放ち、テオドールを睨みつけて徒手を構えた。

  「同じ母親の胎から生まれたとはいえ、わたしたちはもはや敵同士だテオドール。覚悟しろ」ーーテディもつぶやいた。「それでもわたしはおまえが大事だナイジェル。しかしおまえがそのふたりに手を出しユアンを謗るならわたしはおまえを斃す。最後の最後はわたしが勝ってみせる。兄だからな」

  「此の期に及んで兄も弟もあるか、死ね!」

  「ーーあるよ」

  ナイジェルが吠えるのと対照的に、悲しげにテディは呻いた。「愚かなことを。わたしなんかよりよほど愚かだ」。

  瞬間、室内に嵐が起こった。

  「ーー!」

  強力な魔力が渦を巻いた。教官室全体が軋み、もだえ苦しむような音があがる。続いて大量の水が室内に降り注いだ。

  「雨ーー?」

  激しい雨、そして風。唸りを上げる風が吹き荒れる。雨も風もすべてナイジェルから生み出されていた。

  「[[rb:固有魔法 > マジック]]ーー?」

  教官室の禁呪をくぐりぬけて発動するなど尋常ではない。術者にとって最も身近で自然な魔法であるがゆえだ。これこそがナイジェルのマジックに違いなかった。シュバリスは目を見開いた。ナイジェルの体を赤い光が覆い、陽炎のようにゆらぐ赤い魔力は外縁部にいくにしたがって黄色みを帯びてオレンジに輝いた。「次元すなわち空間や時空に関するマジックなら黄色、過去・現在・未来といった時間に関するマジックなら紫、生物・無生物・有機物・無機物など物に干渉する力をもつなら赤、ひとの思いや感情といった形のないものを変える力なら青」ーーそしてそれがすべて攻撃魔法として使われて黒になる。ナイジェルのオレンジの光は、さらに外縁部では暗黒にきらめいていた。

  「いけ!」

  嵐は雷を生む。ナイジェルの手のひらから放たれた雷柱が、テディに殺到していった。

  (これは天候ーー天候を操る[[rb:固有魔法 > マジック]]なんだわ。これがナイジェルのマジック。うそでしょ、こんなのーー)

  濃い霧や霞を生み出せるのならば、人目を隠れて移動することも潜伏することも容易い。天候の延長として光の屈折まで操れるのだとしたら、警備をかいくぐって王宮に侵入することも、もっというなら七柱廟に侵入することだって可能だ。誰にも知られずに。

  「だめだ、」

  隣でアイドクレーズが呻いた。シュバリスもだった。完敗だ。テディも殺される。ふたりが小さく悲鳴をあげたときだった。

  とうとつに、教官室全体がしんと静まりかえった。シュバリスはなにが起こったのかわからず、周囲を見渡した。「愚かなことを。わたしなんかよりよほど愚かだ」先ほどと寸分違わぬ口調で云い、ナイジェルと相対していたはずのテディはそのとき、なぜかシュバリスの目の前でナイジェルの首に両手を絡ませ、きつく締め上げていた。指が皮膚に食い込み、赤い跡をつける。兄の腕を外そうと、ナイジェルは苦悶の表情を浮かべながらもがいたが、テディの手から力が抜けることはなかった。最後に小さくナイジェルは「目を覚ませーー」とテディを見つめて呻いた。「おまえは奴に操られてるんだテオーー」しかしテディは、その屈強な腕で弟の体を宙づりにしながら悲しげに「操られてない」と目に涙を浮かべて呟いていた。

  「操られているのはおまえだナイジェル。いきすぎた忠誠は毒でしかない。おまえの一途さがおまえを滅ぼすんだ。どうしてこんなことをしたんだ。ひどいことをーー」

  その後、ナイジェルはがくりと頭を垂れて気を失った。ふたりが呆然と見つめる前で、慎重に弟を抱きとめ、床に寝かせてテディが振り返り、心配そうに首をかしげた。

  「ふたりともけがはないか?」

  「えーーっ、ーー?」

  シュバリスとアイドクレーズは顔を見合わせた。室内を先ほど席巻していた水も風もなく、衝撃で本棚から無数の本がなだれ落ちたり水浸しになったり、たしかにそうなったはずなのに室内はまったくの無傷だった。ナイジェルのマジックの痕跡はなにもなかった。

  教官室はまったくのもとどおりだった。

  「えっーー?」

  愕然とするふたりに、ナイジェルを武装解除しながらテディが微笑んだ。

  「ユアンさまがこの部屋に施した仕掛けだ。あんな危険なマジックをこの部屋で使わせるわけがない。印陣に関する貴重な書物がたくさんあるんだからーーあのかたにとってここは城だ。誰にも汚せない聖域。そうだろう?」

  テディはいくぶん自慢げに云い、シュバリスたちは再び顔を見合わせた。たしかにあのユアンが、いくらマジックとはいえ危険で黒い魔法を自分の縄張りである部屋で許すはずがない。さすが、と感心していると、テディは集めた武器一切を執務机の後ろに隠すようにおしこみ、ふたりの前に戻ってきて、ナイジェルが落とした短剣を使ってロープを解いてくれた。焦り顔で手を差し出す。

  「さ、行こう。気絶させただけだからたぶんすぐに目を覚ます。騎士団に通報して後はまかせよう。わたしたちは安全な場所まで退避せねば。というかふたりは早く王宮に戻った方がいい。ユアンさまが心配する。いや、ハダルさまかな?」

  小さくウィンクするテディに、シュバリスは思わず微笑んだ。

  「あーーありがとう存じます」

  「どういたしまして。いや、きつかったーー我が弟ながら恐ろしい、死ぬかと思った」

  テディはごきりと首を鳴らすと、先ほどの格闘で破れたり裂けたりしたシャツのを見下ろして「怒られるなあ」としょんぼり肩をおとした。人型に戻ってから半裸のままだったシュバリスも、ようやく上着を羽織って帯を巻きつけた。テディは目をそらし、「よくやったな」とアイドクレーズをねぎらった。

  「あのナイジェルを相手によく時間を稼いでくれた。勇敢だな」

  「どういたしまして。あのーーそういえばあなたはどうしてここに?」

  「うん……実はユアンさまに頼まれて先輩を探しに出ていたんだがね。そうしたら庭で君たちの声が聞こえたうえナイジェルらしき影を見たので追ってきたんだ。いやまさかこんなところにいるとは思わなかったがーーけっきょく先輩も見つけられなかったし、いまごろどこにいらっしゃるのやら、このまままではやっぱりユアンさまに怒られてしまう」

  そういえばそうだった。ギネヴィアは結局どこに、とシュバリスは内心で首をひねりながら、帯を締め終えてふたりを振り返った。

  「できましたわ、行きましょう。あの、テディ。わたしたちも実はドットールを探していたんです。一緒に探します。王宮に戻りましょう」

  「そうだったのか。いいだろう。行こうーー、」

  「ーーわたしならここにいるよ」

  唐突に響いた凜とした声に、ドアに向かいかけていた三人はぎょっとしながら背後をふりむいた。まさか、とおののく三人の目の前で、執務机の上にギネヴィア・ルネ・マリー・トリッチトラッチがふわりと現れた。空中に散らばった栗色の髪ときらめく紅茶色の瞳が、手にした刀の刀身と同じくらいぎらぎらと鈍い光を放って三人を見渡したせつな、印が放つ淡い燐光が消え、銀色の靴のかかとが机の天板を鳴らす。空中から降り立ったギネヴィアはテディを睨みつけ、するどく云った。

  「ナイジェルを斃したんだねテディ。さすがセレスタイン始まって以来の[[rb:守備者 > ブロッカー]]。だけどキャプテンの進路をふさがないでほしいな。ねえ、シュバリスとアイドクレーズをこっちに渡して?」

  先輩どうして、とテディが戸惑いの声をあげるまに、ナイジェルに劣らぬ身体能力を発揮してギネヴィアが跳んだ。体重を込めた飛び蹴りがテディの胸に入り、テディが後ろ向きに激しく倒れる。あっけにとられるシュバリスと、シュバリスをとっさに背後にかばったアイドクレーズを、ギネヴィアはゆっくりと振り向いた。アイドクレーズが身構えたが、しかしギネヴィアはそのままつかつかとシュバリスたちの横を通り過ぎると床に倒れたナイジェルのそばで立ち止まり、爪先でナイジェルの頬の傷めがけて蹴りを入れた。シュバリスは思わず喉の奥で悲鳴をあげたーー気を失ってなお呻き声をあげたナイジェルを見下ろして、ギネヴィアははげしく怒鳴りつけた。

  「生きてるね。よかったーーほら起きな次男くん! あなたの仕事はまだ終わってないよ!」

  「先輩、あなたは」

  胸を押さえて、テディが床から起き上がった。その顔に驚愕が浮かんでいた。

  「ーー味方なんですか、ナイジェルの?」

  ナイジェルの味方? ギネヴィアが? すなわち共犯ということかーーシュバリスとアイドクレーズはぎょっとしながらギネヴィアを見つめた。ギネヴィアは真っ赤に塗られた唇を歪め、同じくらい歪んだ目つきでシュバリスたちを見渡すと、「まあーねえ」と肩をすくめた。

  「まあそうなるね。こうなった以上こっちの肩をもたせてもらう。そう、ナイジェルがもうちょっとうまくやるかとも思ったんだけどねーー」

  「ナイジェルといつのまに。まさかーー」

  できているとでもいうのだろうか。テディの口調はまさにそれを想像しているようだった。ギネヴィアは悲しげに目を伏せ、無言で頭をふっていた。テディの顔に怒りが浮かんだ。

  「裏切り者! ユアンさまがいながら、あなたというひとは!」

  「ユアンがいるからだよ」

  沈着に告げてギネヴィアは胸元に手をつっこみ、引き抜いた。印が指先に挟まれていた。

  「ぜんぶぜんぶユアンのためだよ。ーーね、テディ?」

  それはまるで慈母のような優しいささやきだった。しかし、せつなに打ち込まれた刀の筋は正反対に容赦がなかった。

广告广告