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[chapter:母親たち]
シュバリスとアイドクレーズはすきまから居間を見渡し、ドアを閉めてアルテミシアとヴァナディスの対決が終わるのを待つべきか、このまま彼らの前に出て行くべきか大いに迷った。
寝室と趣がことなり、居間は深い青、緑、茶色のカーペットにクリーム色のカーテン、と暖かみのある色調で統一され、いまはそこに鮮やかな金と赤が加わっていた。上品なシルエットをもち、素材も上質そのものだがラフな服装の、ルビーのように赤い髪の皇妃ヴァナディスと、白銀のローブに体ぴったりの、ブルーのベルベットロングワンピースを纏う金髪のアルテミシア。服の趣味も性格も真反対、そして互いに腹の中を探り合う、親密さと仲の悪さを相手の出方しだいでは即座に変えてみせる母親どうし。「いいでしょう」とアルテミシアが杖をおさめてソファに座した。ヴァナディスの隣に腰掛けるつもりのようだが、そうするとシュバリスたちが寝室から見ているのがまるわかりになる。ふたりは慌てた。
とーー
瞬間、シュバリスとアイドクレーズはドアの隙間から引きずり出された。黒髪を顎のラインでぷっつりと切りそろえた、シャツとジーンズにエプロンをつけたカミャ。彼女は針金のような体のどこにそんな力がと思わせる腕力で、ふたりをそのままキッチンへ押しこんだ。エプロンのポケットにはいつもどおり重たげな鉄製の鋏と古びたレシピブックが入れられており、その硬さに腰元を突かれながらふたりはカウンターの影に隠れた。アレクセイがそこでふたりに気づいたーー気まずそうな、しかし「おまえらなにやってんだよ」と云いたげな視線が、天井を横切る太い梁から吊るされた鉄鍋や木べら越しに見えた。
「お茶!」
「はいただいま」
すでに準備されていたのだろう、カップもソーサーも砂糖壺もミルクピッチャーも、秒でティテーブルに飛んだ。カップを手にしたアルテミシアは横目でヴァナディスを見つめ「久しぶりに会ったけど、あなた老けた?」とずけずけ云った。挨拶にしてはパンチが強いが、ヴァナディスは平然と「あなたもね」とカウンターを繰り出した。
「魔法でごまかしてるけど白髪が増えていらっしゃる。わたしの目は節穴じゃなくてよ、もう四十一だったかしら、いいかげん諦めて分家の女主人に徹したら?」
「それはこちらのセリフだわよ。もっともあなたのほうは多少色気を取り戻したほうがいいわヴァナ、四十九ならまだ可能性はありますもの。セレスタインの男はこれと決めた相手には一途だし独占欲が強いしどんな手をつかっても子を産んでもらおうとする、でもそうやって女教師みたいにがちがちじゃあいくらラーゼスといえどたまらないでしょう。その眼鏡なに、あなたもう老眼なの?」
「軽口を叩いていられるのもいまのうちよアルテミシア。あなただっていずれ思い知ることになる。それにご心配なく、陛下はこれが好みなの。あなたこそいつまでも若作りしないで年相応の格好をなさったら。きっと明日にも次の夫が釣れますことよ。頭に生えている長い角を隠したら、ですけど」
「夫を釣る気はないわ、ただ、議会のジジイどもにはこの手がけっこう使えますの。お堅いお妃どのにはおわかりにならないでしょうけれど」
ほほほほ、とアルテミシアは笑い、ヴァナディスは冷めた目で肩をすくめた。
「獣人以外の議員には、でしょ。いまや議会の半数は獣人のかたがたですのに、あなたのその思想は何度も云うけどとても危険よ。セレスタインとしても見過ごしておけない。早急に考えを改めることをおすすめするわ」
「あら、わたくしは正しい歴史を伝えたいだけよ。獣人は人より劣る、人間の下に甘んじているべき生き物なの。彼らが生まれた経緯こそが証明している、人が獣人を作った、それはなんのためか?ーー奴隷として、ひとの暮らしを美しく保つためよ。この思想のどこが危険と?」
「獣人はいまや人をしのぐ数いる。人間より丈夫で特殊な能力と才能の持ち主もたくさんいる、ハダルがじぶんの奥方にと獣人の女性を連れてきても、わたしはなんら驚きはしないわ」
「あなたのところのお坊ちゃんなら血迷ってそうしてもおかしくはないわね。でもわたくしは、アルジュナが獣人の女となんて考えただけで怖気が走るわ。愛人や奴隷として[[rb:傅 > かしず]]かせ、服従させるというならともかくね」
「七柱だってそのうちの六人は獣人だったわ。その王家のひとびとにも同じことが云えて?」
「彼らはべつよ、ハルトガルトと並んで[[rb:大神 > ジヴァ]]に選ばれたもの。あそこは血筋がいい。ただし彼らだってけっきょくはハルトガルトを皇帝にし、王といっても自身は地方の領主におさまった。その謙虚さと建国者への敬意として王家の直系に限っては人間と肩を並べることを許してやってもいいってこと」
長い金髪を後ろにはねのけて云い放ったアルテミシアに、「矛盾ね」とヴァナディスは眉間にしわをよせた。カップがソーサーとぶつかり音をたてる。小さな反論に、アルテミシアが負けずに云いかえした。
「ただし蛇神シュバリスは除く、ですけれど。あなただってそれには同意するはずよヴァナディス、あれはハルトガルトに捨てられた哀れな娼婦だもの。もっとも、その地位にふさわしくシュバリスはまっとうな裁きを受けているわ。七柱から降ろされるのもきっと時間の問題。あの魔女を頂点におく蛇人族もいまや帝国の奴隷ーー各地で犯罪を起こしているものたちはいずれ殲滅しなければならないけど、街の片隅でうごめくゴミどもは、滅ぼされないよう必死で尻尾を振って許しを乞うていると思えばかわいいものよ。いや、蛇は尻尾を振らないのですっけ? じゃあなんて云うのかしら、地面にはいつくばって? だけど獣のほとんどは四つん這いで歩くものよねえ、蛇にはその足すらないけど!」
「この親にしてあの小僧ありだな」
アイドクレーズが小さく毒づき、シュバリスも同意見だったが、ここまで首尾一貫しているといっそあっぱれと思わないではない。ヴァナディスはどこか哀れむようにアルテミシアを見つめて頭を振った。
「まあいいわ。とにかくねアルテミシア、今回の件ではハダルもアルジュナも[[rb:固有魔具 > マギアーツ]]を勝手に喚び出し、ひとに向けたという点では同罪よ。あなたはハダルのほうを問題視しているけれど問題にされるのはアルジュナだって同じよ。でしょう?」
「同じではないわよ。アレクとカミャに聞く限りでは、あの子は級友を襲った暴漢に反撃しようとしただけ。立派な行いじゃない、なにを誹りをうけることがあるの。非難されるべきはハダルのほうよ。その暴漢を殺したなんて正当防衛にしてもひどいわ。襲われたのはそもそも彼じゃないでしょうに。そのうえアルジュナにも剣を向けたのですもの。これをーー」
アルテミシアが、握りしめていた手のひらから細い鎖を取り出した。中央の台座に青い石が嵌め込まれているが、魔弓を喚んだときアルジュナの手首に巻かれていたものだった。どす黒く濁ってヒビの入った手の中の[[rb:御守 > アミュレ]]をしげしげと見つめ、アルテミシアは怒りをにじませて云った。
「これを壊せるなんて並大抵の魔法使いじゃない。しかもここから感じ取れる[[rb:魔力 > オーラ]]は明らかにハダルのもの。うちの子はハダルに攻撃を受けた。暴漢を排除するのにかこつけて殺そうとしたのよ。恐るべきことだわーーいきおいわたくしは、先日の件もハダルの仕業ではないかと疑わざるを得ないわヴァナディス。議会の者にもそう伝えるつもりよ」
「ハダルがアルジュナ暗殺未遂の犯人だと? それは不可能よアルテミシア。あなたさんざんおっしゃってきたじゃない、ハダルにはじぶんが皇位継承者である自覚もすでにない、中身は赤ちゃんみたいなものだって。赤ちゃんにどうやってそんな悪だくみができるの?」
「従者にやらせたにちがいないわ。まだ学院で授業は受けているしその程度の知力はある。それにあのナイジェルなら、主人の心中を察して自分で動くくらいのことはするでしょう。どうなのアレク? さっきの獣人どもはナイジェルの指図を受けていたの? 血を舐めてきたんでしょうね?」
「おーーわたしはなんとも」
「役立たず!」
アルテミシア・ユーレアイトは綺麗な顔を歪ませてアレクセイを睨めつけた。
「おまえが犯人を捕まえていればこんなことにはならなかったのよ。いっそおまえが盾になって死んでいればどうとでもなったものを。アルジュナにあんな怪我を負わせて、今日もまた!」
「申し訳ございません奥さま」
アレクセイは、アルジュナの悪友であり相棒であり親友でもあるふだんの顔を封じ、完璧にユーレアイト家の従者としてふるまっていた。打たれて腫れた頬が痛々しい。しかしアルテミシアはそれには頓着せず「次は忠誠の誓いを結ばせるわよ」と、直立不動するアレクセイを脅した。
「その点でナイジェルは見上げた従者だわ。従者とはかくあるべきよ。兄を見習ったらどうなのアレク。今からでも遅くないわーーそうだわ、あなたいっそアベンチュリンに帰る?」
彼女の冷笑は恐ろしく迫力があった。
「あなたを厄介者扱いする義兄と親戚の家に?」
「いいえ奥さま。どうかアルジュナさまのおそばに。ご恩返しをさせてください」
アレクセイは即答した。「じぶんをアベンチュリンと思ったことはございません。体を流れる血はそうかもしれませんが」それを聞いたアルテミシアは満足そうにうなずいた。
「当然よ。は、ルークは最後にはまっとうな息子を遺したわね。最初から人間の女を妻に迎えていればよかったのに」
隣でヴァナディスがますます哀れむような表情になった。そのヴァナディスに「あなたじゃらちがあかないわ」アルテミシアが視線を戻し、低く云った。
「ラーゼスはなぜ来ないの? 息子の暴挙や命を縮めるような真似をよすよう、諭しに来るのが父親の務めでなくて? わたくしに自ら弁解にくるのがーーそれとも息子のことはもう諦めたの?」
「あのかたは人と会う約束がおありです。皇帝の務めです。ハダルのことはわたくしが」
「そう。まあいいわーーとにかくこのことは議会に進言しますからね。ハダル・ハルシオンがアルジュナに剣を向けた、先日の件もハダルが、いいえセレスタインが黒幕かもしれないとね。それに、しばらくのあいだアルジュナを学院に置くのはよしておこうかと思っているの。すくなくともナイジェルが捕まり、あなたがたが黒幕だとわかるまではね」
「あらそう?」
ヴァナディスはおっとりと首をかしげ、「あなたがたって?」と無垢な少女のように呟いた。「いったいなんのことかしら」ーーアルテミシアは口元に親指をあてて噛んだ。
「こんなことが学院で起こるわけがない。殺人未遂に続いて暴漢だなんて。これだからあの柔弱なユアンは信用できないのよ。結界を強化した、守備を増やしたなんて口ばかり。後継者から降ろされたことを根にもってハダルの味方について、セレスタインに恩を売る気でいるんでしょう。こんなことならアルジュナはあのままタラゼド魔法学校に進ませるべきだったわ」
「あなたのその疑心暗鬼には恐れ入るばかりですけれどねアルテミシア。だけどそれを抜きにしても、わたしにはいまだにあなたが計りかねるわ。タラゼドはシオン王が、初代熊人王の子孫が作った学校じゃないの。七年前はびっくりしたわよ、いくら初等部の幼児に魔法を叩き込んでくれるとはいえ、あそこに息子を通わせるなんて。あそこはセレスタインにまして生徒は獣人ばかり、あなたには耐え難いのではなくて?」
「さきほども云ったけれど王家ならその功績に免じて認めてやらないではないのよ。それにタラゼドは昔から素晴らしい黒魔法を生み出してきた。これからの時代はそれが必要よ。温室の花でも多少は風雨にあててやる必要があるものね」
「ハイドランジアはそもそも雨の時期に咲くのだと思っていたけれどねえ。あなたはもう少しじぶんの息子を信用すべきだわ」
「あなたたちのように諦めをつけるには惜しい子なものでね。と、どうしたのカレン?」
「アルジュナさまがお目覚めになりましたわ、アルテミシアさま」
カレンが居間の反対側のドアから現れた。膝を折ってヴァナディスにも挨拶すると、背後を見やって気恥ずかしそうに微笑む。「お元気でいらっしゃいますわ」
「母上」
騎竜部の練習着であるシャツと裾のしぼられたパンツ姿でアルジュナが現れた。いつもきっちり後ろでひとつ結びにしている髪は乱れ、いかにも寝起きだ。しかしアルジュナはそれを厳しい表情でカバーし、貴族然とした態度でカレンの肩に手を置いて優雅に居間に出てきた。カレンはアルジュナがじぶんに触れた瞬間、彼の無事が自身の手柄ででもあるかのように輝かしい顔をした。が、アルジュナはカレンをいっさい振り返ることなく、母親にむかって「ご心配をおかけしました」と軽く一礼した。ソファの脇で身じろぎもせず体の後ろで手を組み、立っているアレクセイにも目配せすると「アレクを責めないでやっていただけますか。こんどのことはぼくが勝手にしたことです」と母親にきっぱりと云った。
「アレクセイはぼくを守ろうとしてくれました。彼に非はない、お願いします」
「まあ、ジュジュ」
カウンターの陰でシュバリスは驚いた。愛息を前にしたアルテミシアは、先ほどと同一人物なのかと疑いたくなるような柔和な微笑と優しい声になっていた。彼女はさっと立ち上がるとアルジュナへと歩み寄った。
「よく云ったわ、さすがユーレアイトの子よ。だけどもういいのーーさ、元気になったのならひとまず館へ帰りましょうね。アレクは荷物をとりに寮へ行かせるわ。あなたはしばらくうちで過ごすのよ」
「えーーいまからですか。いますぐに? 学校は?」
アルジュナは戸惑ったように水色の目を瞬きした。寝起きには変わりなく、湿っぽい声がいつもより彼を幼くみせた。「もうじきクラブの試合が。それに授業も」小さく反抗するアルジュナに、アルテミシアは、さも愛しくてたまらないといった声色でアルジュナの肩に手をおいて云った。
「いいえ、だめよ。こんなことまで起こったとなるととうてい通わせておけない。うちに家庭教師を呼ぶわ。久しぶりにあなたのピアノもききたいし」
「アレクは」
「もちろんアレクセイも一緒よ、いざというときあなたの盾になる子ですもの。放課後にお友だちに来てもらえばあなただってそれで退屈しないですむでしょうし。ねえカレン、あなたはうちまできてくれるわね?」
どうやらカレン・ジプサムは、アルテミシア公認のアルジュナの友人であるらしい。カレンがにこやかにうなずいた。
「もちろんですわ奥さま。ミクラの居館ですわね? アルジュナさまのためならいつでも」
「ね? カレンもこう云っていることよ。ほんとうにいい友人をもったわねジュジュ。それにカレンは母親に似て美人だし気がきくし、将来が楽しみだわ」
「あの、でも」
アルジュナの視線が宙をさまよう。ふとその水色の瞳がキッチンカウンターの陰に身をひそめていたシュバリスたちを見つけてまるくなった。シュバリスは慌てた。アイドクレーズはアルジュナが母親に呼ばれた愛称「ジュジュ」に、息を殺して大笑いしている。アルジュナも気づいたのだろう、憮然とした表情だった。家庭内での呼称をクラスメイトに聞かれるなど、いかにもプライドの高いアルジュナには屈辱のはずだ。気の毒に感じたシュバリスは「聞かなかったふりをしとくから」の意図をこめてアルジュナに軽く手をふった。が、アルジュナはその瞬間ますます表情を険しくした。カレンも気づいた。
「あらシュバリスじゃない。なにをこそこそ立ち聞きしているの?」
「シュバリスですって?」
とうとうアルテミシアもキッチンをふりむいた。
「あの例の暴漢に襲われたというクラスメイトね。よりによって娼婦の名をつけられるとは、親も本人もいったいどういうーー」
「あのーーお初におめにかかります。ご挨拶が遅くなり申し訳ございませんわ、皇妃さま、奥さま」
見つかっては隠れていられない。仕方なく居間にすべりでてシュバリスは膝を折った。
「このたびはご子息ふたりに危ないところを助けていただきまして、感謝のことばもございません。このようにご面識を得るなどわたくしとしても不本意かつ申し訳ない思いでいっぱいですがーー、」
シュバリスはぎょっとした。会釈をしていたあいだにアルテミシアがつかつかと歩み寄ってきた。この先なんと弁解しようかとシュバリスは迷っていたが、数歩手前で立ち止まったアルテミシアは「まあ」と眼を見開き、興味深そうにシュバリスの全身を眺めわたした。
「獣人に席巻されるようになって久しいとはいえセレスタインも捨てものではないわね。なぜ一介の女生徒がと思ったけれど、これなら獣どもが目の色変えて追いかけまわすのも無理はないわ。光ってる」
「え? あっ」
シュバリスはじぶんのからだを見下ろして慌てた。初めてじぶんの全身がきらきら輝いていることに気づいた。ハダルといたせいだろう。慌てていると「そちらは従者ね」とアルテミシアが背後をあごでさした。シュバリスは「はい」とうなずいた。
「わたくしの侍従でございます。アイドクレーズと申します、奥さま」
「奥さまではなく[[rb:女主人様 > ドミナトリ]]と呼んでくださる? 従者を連れているということは、あなたはアルジュナと同じ特待生ね。なるほど、ハダルの魔剣を防いだと聞いたけれどその年でたいした白魔法を使えるのね。ん?ーーということはつまり、まえにユアンが云っていた、アルジュナを助けてくれた女生徒もあなたかしら?」
「はいーー」
「すばらしいわ」
アルテミシアの目が感銘に輝いた。いまのところ好意的だが、とシュバリスが額に汗を浮かべたとき、背後からカレンが「だけど[[rb:獣人 > フェラム]]ですわアルテミシアさま。しかも[[rb:蛇人 > アンギス]]です」と勝ち誇ったように云った。瞬間、アルテミシアは表情を一変させ、その場から一歩ひいた。それでも視線はシュバリスに固定されていた。「蛇人?」息子と同じ水色の瞳がぱちぱちとまばたいた。
「この娘が? ほんとうなの?」
じぶんを丸裸にするような遠慮のない視線に、またたくまに侮蔑がまじる。シュバリスは次に放たれることばを予想して震えた。アイドクレーズがさっと前に出る。両者ともにアルジュナと同じ反応をするだろうと思っていた。しかしアルテミシア・ユーレアイトは息子よりももっと苛烈な、そしてあからさまな差別をもって、人を人とも思わない発言をした。
[newpage]
[chapter:三界に別れを告げて]
アルテミシアは云った。
「ならちょうどいいわ。もうじきあの子も年頃だけど、そのへんのよくわからない女ではやはり不安だものね。手近にこんなのがいてくれるなんて幸運だわ、練習台にちょうどいい。セレスタインにいるくらいだからそこそこ頭もあるでしょうし将来に対する打算も働くでしょう。ねえシュバリス、あなた、おいくら?」
「は……?」
「いまいくつ?」
「あ、十歳です」
いくら、ではなく、いくつ、の聞き間違いだったかとほっとしながらシュバリスは答えた。が、次に放たれたことばに目眩をおぼえた。「繁殖期の初回が来たら連絡なさい、買ってあげるわ。光栄でしょう、ユーレアイトの嫡男にその身を捧げられるのだから」――しばらくシュバリスは、どういう意味か理解できなかった。
「アルテミシア!」
数秒後、ソファから皇妃ヴァナディスの怒声がとんだ。さすがに腹に据えかねたらしい、彼女は眼鏡の奥からきつい眼差しでアルテミシアを睨みつけていた。そのむこうではアルジュナが真っ赤を通り越して蒼白になっている。カレンもアレクセイもことばを失っていた。
「なんてことを云うのあなたは。いいかげんになさい、そのような戯言!」
「あら、戯言ではないわよ」
あっさりと、しかし真剣な面持ちでアルテミシアは云った。
「ハダルと違ってアルジュナには男としても完璧になってもらいたいとわたくしは思っているの。となれば、いずれ人間の妻や愛人を娶るとしても、彼女たちを満足させられる手練手管をもっていなければね。それには練習がいるし練習相手は慎重に選ぶべき。そうーー成人まであと四年、アルジュナももう十三だしそろそろ捜しはじめようかと思っていたところよ。なのにここにこんなふうにおあつらえむきの、しかも蛇人だなんてうってつけの素材がいるじゃないの!」
「そーー素材って料理か何かみたいに。でもあなた、獣人のなかでも蛇人はってつねづね」
「そうよ、たしかに獣人のなかでも蛇人は穢らわしい種族だわ。でも、ならばユーレアイトの血で浄化してあげればいいのよ、内側から綺麗にね」
「浄……」
信じられない、というようにヴァナディスの目が見開かれた。「なにを云ってるのあなた。浄化って。浄化ってまさか」
「文字どおりよ」
どこか明るく無邪気にアルテミシアが笑った。
「この娘にアルジュナの子を産ませるのよ。獣人でも人間と婚姻して子をなし、百年も人間の血で清め続ければ獣人の要素はほとんどなくなる。だいたい三代ってところかしら、三代下ればこの顔と体を継いだ純粋な人間と呼べる子のできあがり。アルジュナとこの娘ならさぞや美しい子や孫ができるでしょう。そう、そのとき生まれるのは娘がいいわね、正式にうちの妻に迎えられるから。今の時点で並んで特待生になるほど魔力も高いならなおさらユーレアイトに隷属させる価値がある。血を捧げてもらうわ」
「その子をていのいい使い魔か魔具にでもするつもり? その子はアルジュナの同級生よ、しかもそれほど高い魔力をもつなら、蛇人たちにとってもリーダーたる存在に、いずれなるのかもしれない。[[rb:順位制 > ドミナンスヒエラルキ]]でトップにたつ可能性だってある。だいいち帝国はいまいかなる男女に対しても側室制度は認めていない、一夫一妻に反するわ!」
「獣人のなかでも性質上必要と認められた場合は一妻多夫もしくは一夫多妻でしょう。人間だって貴族の男や女はすくなからず愛人を抱え込むものだし、父親のわからない子だってごろごろいる。体面の話はうんざりだとさっきいったのはあなたじゃなくてヴァナディス。まして蛇人なんて今時分はどこだって白い目で見られるのが普通でしょう? 蛇人のリーダーなんてなったっていいことないわ、うちで飼われたほうが幸福よ。それにわたくしどうせなら若いのがいいと思っていたの、いちから躾けられるもの。ねえシュバリス・イスラメイーーシュバリス。そう考えるとあなたは自分にぴったりの名前をもっているのね。あの娼婦のように、ハルトガルトの血をひく次期皇帝になる男に身を捧げるのよ。ねえ、そうなさいな」
シュバリスは呪文にかけられたかのように身動きできなかった。千年前も現在も、ここまで露骨にただのモノとして扱われたことなどなかった。思考がおいつかない。「いまのうちに繋いでおこうかしら」細い指先が絡めとるようにシュバリスの額に伸ばされたせつな、シュバリスはものすごい勢いでアイドクレーズの後ろに匿われていた。
「恥を知れ!」
息子に対する以上の嫌悪もあらわに、アイドクレーズが叩きつけた。
「よくもそんな侮辱を、このかたが誰かも知らないで! 貴様のような薄汚れた女になど誰が!」
「あらあら、そういえば従者つきだったわね。ということは蛇人のなかでも成り上がりの富豪の出なのかしら。ふうん? そちらも成長すればなかなか見られるようになりそうね、ゆくゆくはキルに与えようかしら」
「わたしは人間だ。だが、あなたと同じ人間だということをこれほど恥ずかしく思ったことはない!」
「人間?」
アルテミシアは眉間にしわをよせた。
「人間がなぜ蛇人の従者などしているの。それともシュバリス、あなたその年でもう男を誘惑する魔法を使えるの? 名前だけでなくマジックまで[[rb:蛇神 > シュバリス]]と同じ? ならぜひ欲しいわ、蛇人なんかにはもったいない力だもの」
「このかたは誰も誘惑などしない。勝手に寄ってくるんだよ貴様と違って! どうせ貴様のまわりにいるのは金と虚栄心に目が眩んだろくでもない連中だろうがなーーおおかたそこの小僧の父親もそのひとりだろう、その血を受け継いだ息子にもさぞご立派な未来が待っていることだろうよ。貴様はいま次期皇帝とか云ったが、もしそんな日がきたら帝国は終わり、貴様も貴様の子もいずれ殺される! ユーレアイトごときの傍流は狂帝の一族として断罪され砕け散る!」
「子どもと捨ておけない発言ね」
アルテミシアが[[rb:魔法杖 > ワンド]]を抜いた。型は[[rb:錫杖 > シャカラ]]だった。先端まで螺旋状に嵌めこまれた魔晶がリンと音をたてる。主人の意図を汲み取って威嚇の光を放つ杖先を、しかしアイドクレーズは臆することなく掴んだ。触れた箇所から魔力が弾け、うねった。
「やってみろ」
シュバリスは息を呑んだ。これほどまでに激怒したアイドクレーズを見たことがない。アルジュナに侮辱されたときでさえ、いや、さきほど獣人たちに襲われたときでさえだ。つかんだ手から黒い煙があがり、それを吸ってどす黒く染まっていく魔晶にアルテミシアがぎょっとしたように手をひいた。だがアイドクレーズは離さなかった。「喰ってやるーーぼくが」ーーきわめて物騒な台詞と、はるか彼方に置き去ったはずの一人称「ぼく」の出来に、シュバリスは「アイク」と悲鳴をあげた。
「離してーーだめ、やめなさい。なぜ?」
いまのアイドクレーズは森を彷徨していたときのアイドクレーズだ。いまになってあのときの心理状態に後退するとは理解できない。急いで彼を包む魔力に意識を集中すると、烈しい怒りと苦悩がもたらす危険な兆候がみてとれた。
(またひとりぼっちになると思ってる? なぜ?)
虹彩に銀と青の縁取りのあるアイドクレーズの灰色の目に黒い陰りが広がる。瞳の闇は獲物を狙って急速に研ぎ澄まされていった。
「母上!」
異常を感じたアルジュナも駆け寄ってきた。とーーアイドクレーズの全身から暗黒の[[rb:魔力 > オーラ]]があふれ、どくんと脈打った。シュバリスは戦慄した。
(ぶちぎれちゃってる! まずいまずいまずいわよおおお)
脳裏をよぎったのは初めて会ったときの光景だった。生きるために彼女を狩ろうとしたアイドクレーズ。彼は死に物狂いで攻撃してきた。あれをぜったいにここで再現してはならない。シュバリスはなんとかアイドクレーズの指を[[rb:錫杖 > シャカラ]]から引きはがそうとした。彼女が触れた瞬間、シュバリスの白とアイドクレーズの黒が混じり合って灰色の稲妻が周囲に走った。ついに魔晶が砕け、放散された光はすべてアイドクレーズの纏った黒に吸収されていったーーアイドクレーズがまとう暗黒は、そこからシュバリスすら見たことのない激しい変動をはじめた。ひときわ大きく脈打ち、ぶくぶくと泡のようなものを吹き出しながら形を変えていく。「はーー?」アルジュナとアレクセイが呻き声をあげた。しかしシュバリスが気にするまもなく、唐突に門番小屋のドアが軋み、音をたてて開いた。
「失敬、いまものすごい音が」
「ユアン! ふたりを止めて!」
「皇ーー、御意!」
革靴の踵で寄木細工の床を打ちながら駆け寄ってきたユアンは、アイドクレーズとアルテミシアの腕に触れ、指先で皮膚になにかを描いた。印が青い光を放つと、衝撃でアイドクレーズもアルテミシアもその場から吹き飛んだ。
「アイドクレーズ!」
シュバリスはアイドクレーズを受け止めた。背後に転びそうになったが、床に激突寸前でカミャの腕に支えられ、なんとかその場に踏ん張った。
「アイドクレーズ! わたしを見て、こっち見て!」
「痛ってえ……」
アイドクレーズははじかれた両手の手のひらを見つめ、それからゆっくりとシュバリスを振り返った。瞳にたたえられた怒りも全身を包み込む暗黒も消え、どこかぼんやりしていた。
「ばか!」
無事とわかって、シュバリスは正面を向いたアイドクレーズを抱きしめた。
「あのときよりちっちゃいくせに! あんなふうに魔法を使うものじゃないわよ、壊れちゃうわよ!」
「ああーー、ええ、はい……」
「あなたまでいなくなったらどうしたらいいの! なにを思いつめたか知らないけど、いまこの世界でわたしが頼れるのはあなただけよ、わかってるでしょ!!」
「申し訳ございません」
アイドクレーズはだまってシュバリスに抱きしめられていた。あやうく暴走するところだったが、大人のときのようにきちんと魔力制御ができない今、暴走したらどんなことになるか予測不能だ。「ありがとう存じます教官」シュバリスは従者を抱きかかえたまま一礼し、ユアンはほっとしたように「よかった」とじぶんの手のひらを見下ろしてため息をついた。
「よくわからないが、あのままではふたりともただではすまなかった。無事でなにより」
「無事? 無事ですって?」
床から息子の手を借りて立ち上がりながらアルテミシアが毒づいた。床にしりもちをついていたが、人前でそんな姿をさらすのは屈辱だったのだろう、険悪な顔だった。
「これのどこが無事だとユアン? 生徒の躾がなってないのではなくて。御双家の[[rb:女主人 > ドミナトリ]]に魔法で対抗するなど!」
「いえ」
ユアンはちょっと首をかしげると「アイドクレーズはうちの生徒ではございませんので」と皮肉っぽく云った。
「よってわたしの指導の及ぶところではございません[[rb:小母上 > アウンティ]]。どうぞご寛恕賜りたく」
「小母上だなんて呼ばないでちょうだいっ」
「どう見てもあなたが悪いわアルテミシア」
横からヴァナディスが云った。
「従者の坊ちゃんがお怒りになるのも当然よ。反省なさい」
アルテミシアはユアンとヴァナディスを睨みつけていたが、やがてユアンにむかって「あなたの偽善者ぶりにはうんざりよユアン。慇懃無礼とはまさにこのこと、アルジュナはとうぶんうちで学ばせます」と吐き捨てた。「カルセドニーの嫡男が、セレスタイン本家の子ばかりを贔屓して同じ御双家の嫡男を守る手立てをなにもうってないどころか事態を悪化させている、そう悪評をたてられても甘んじるのねーー行くわよアルジュナ、アレク!」
「しかし母上」
「行くわよ!」
アレクセイもアルジュナも微妙な顔だったが、逆らうのは得策ではないと判断したのだろう。カレンもアルジュナに寄り添うようにしてくっついていったため、約半数が居間からいなくなって静寂があたりを包んだ。
「ああも自己中心的かつ利己的になれるなんて一種の才能じゃないかとすら思うわ。ごめんなさいね、おふたかた」
静寂を破ったのは皇妃ヴァナディスの、諦め混じりの苦笑だった。
「あーーいいえ」
ヴァナディスは、シュバリスに優しく云った。
「初めて見たときからアルテミシアが気に入りそうだとは思ったけれど、まさかあの方向に興味をもつとは思わなかった。シュバリス・イスラメイさんーーカミャから聞いてるわ、すばらしい白魔法をお使いになるそうね。ハダルのお友だちで、息子を助けてくださっていると」
「はい」
「どうもありがとう。それからユアン、あの子に防御の印をつけてくださっているわね。おかげでかなりもちなおしていると先日侍医が」
「とんでもございません。それより、どうやら来るのが遅すぎたようですがいったいなにが?」
「なにも。アルテミシアがちょっとね」
「ああ」
アルテミシアの性格はユアンも熟知しているのだろう、「災難だったね」とシュバリスたちに微笑みかけた。
「まあ、おかげでハダルがアルジュナに魔剣を放った部分はうやむやになったわ。ただでさえハダルの命は風前の灯火だというのに、こんなことでさらに煩わせられるのはごめんだもの。助かったわ」
「陛下。それは」
「ねえ。こうしてちゃんと会うのは久しぶりだし、いい機会だから教えてくださるユアン。あの子はどのくらいもつのかしら。わたしはやはりあの子を亡くすのかしら。率直な意見を聞きたいわ」
「陛下」
「教えてちょうだい」
息子に残された時間を知りたい。ヴァナディスは「わたしももとは医者よ。さっき会って息子の状態には見当がついた。ただ、あなたの意見もききたいの」――あくまで冷静なヴァナディスにユアンが「今年いっぱいは」と頭を垂れて告げた。声には苦渋がにじんでいた。
「なんとかもちます。いえ、もたせます」
「そう」
ヴァナディスはため息をついた。
「ではそれで、千年つづいたハルトガルト直系の血もとうとう絶えてしまうのね。セレスタイン本家はこれでおしまい。ハダル・ハルシオン、あの子が最後の子になるのだわ」
「そんな、陛下。あなたと御夫君ならまだこれからも」
「いいえ。わたしも夫ももう疲れ果てているわユアン。ハダルで最後よ、そう決めたの。だからあの子さえ生きていてくれたらと望みをかけてきた。でももういいの。アルジュナがアルテミシアを反面教師に学んでくれることを願うばかりよ。アルテミシアはああ云ったけれど、きっと学院にアルを戻すでしょうし、そのときはユアン、どうかアルジュナを導いてあげて。獣人蔑視なんていまどきは世間でだって少数派よ。なにも危ない道にじぶんから踏み込むことはないわ」
「それはもちろん」
「だけどそれじゃこころもとないのもたしかだわ」
ヴァナディスはソファの背もたれに背を預け、やんわりと笑みを浮かべた。
「わたしはねユアン、近々議会にあなたを筆頭皇位継承者に戻すよう検討の申し入れをしようと思っているの。夫もこの意見には賛成よ」
「えっ?」
ユアンが凍りついた。シュバリスもアイドクレーズも。ユアン・カルセドニーがふたたび皇位継承者に、しかも筆頭後継者の地位に返り咲く。もしも承認されれば年齢からしてまちがいなくユアンが皇帝になる。
「しかし陛下。それには小母上がひどく反対なさるでしょう。議会も渋るはずだ。わたくしのほうも、皇帝陛下が日々こなしていらっしゃる激務に耐えられる体ではございません。降りたのもそもそもそれが理由です」
「はたちまで生きられないと云われていたのにあなたはぶじに生きのびたでしょう」
ヴァナディスが静かに手のひらを見せた。
「そして三十の年すら越えて健康そのもの。支えてくれるかたも大勢いる。あなたには皇帝としての資質がすべて備わっている。傲慢で孤独だった昔のあなたはもういないわ。そういえば今日はテオドールは?」
「ご存知のとおり今日解放されましたが、宿舎に戻ったとたん緊張がとけたのか発熱して倒れまして……いっしょにいた知人が残って看病してくれております。恥ずかしながら、そのためこちらに馳せ参ずるのが遅れました」
「あらあら」
ヴァナディスは目を細めた。シュバリスも「あなたって子はー!」とテディに怒りながら、それでも手際よく面倒をみるギネヴィアの姿が目に浮かんだ。
「夫が事件の解決を急がせたせいね。申し訳なかったわ。この件ではテオドールだけでなくアレクセイもたいへんな目にあっているようだし、アレクセイも心配。アルジュナと仲良しなのがせめてもの救いだけれど……だけどアルジュナがいずれアルテミシアのようにならないともかぎらないし、あの子はほんとうにアベンチュリンに戻したほうがいいかもしれない。もしそうなったらテオドールはきちんとしてくれるかしらね。どうかしらユアン?」
「だいじょうぶでしょう。わたしもアレクセイがその気なら援助する気でいます。アルジュナと同じくらい才能のある子ですから、テディといっしょにうちの従者になってくれてもいいし」
それはユアンがいずれアレクセイの面倒をみるということだろうか。シュバリスとアイドクレーズは顔を見合わせた。もしそうなったら、ユアンはアレクセイからユーレアイトの動向を聞きだすことができる。ここにきてアイドクレーズも疑いを深めたらしく、シュバリスに抱きしめられたままそっとユアンの表情を伺っていた。ユアンはそっと付け足すように云った。
「しかし、もしアレクセイがわたしの従者では厭だと思うのなら、アベンチュリンの屋敷に戻り、一介の学生としてセレスタインで学ぶという手もある。テディもアレクのことは常々気にしていましたし、もうそろそろわたしもテディ離れをしないと、と思っているところでしたので、ふたりでアベンチュリンの屋敷に戻って兄弟仲良く暮らせるのだったらそのほうがいいかとも思います。ナイジェルにもしものことがあったら、ふたりきりの家族になってしまうわけですしね。わたしのほうも、あいつになにくれとなく世話を焼かれているのが、最近なかなか窮屈になってきましたし。しかしともかく、テディはアレクセイとアベンチュリンの屋敷で暮らすのもやぶさかではないですし、つねに気にかけていますよ。そもそもあの子をユーレアイトに行かせるのも渋っていました。ですからどうぞアレクセイのことはお任せください」
「そう、よかったわ。ありがとう。では、あとひとつだけ」
ヴァナディスはシュバリスをゆっくりと見つめた。
「あなたもたいへんな目にあったわねシュバリス。怖かったでしょう。ほんとうに無事でよかったわ」
「あーーいえ」
「それにハダルと仲良くしてくださってありがとう。あの子があんなふうに特定のだれかに懐くなんて、これまでにはなかったことです。もうじき消えてなくなってしまうとしても、これが生涯でただひとつの恋だとしても、あの子は誰かを愛することを覚えた。とても嬉しいわ」
シュバリスはなにも云えなかった。「君を皇后にしたい」と云ったハダルの真剣な眼差しと口調が脳裏にこびりついていた。おもてのハダルにはほかに好きな少女がいるようだが、さきほどのハダルは明らかにシュバリスを慕っていた。
「なにも力になれませんで」
シュバリスはそう呟き、ヴァナディスは頭をふった。手に嵌めた指輪は、セレスタインの例の指輪と結婚指輪だった。
「ううん。力になれないなんてそんなことはないのよ。あなたはここへ来てくれた。ありがとう、蛇神シュバリスと同じ名前のお嬢さん。その名に誇りをもってね。それはとても、蛇神シュバリスは娼婦なんかじゃないと確信しているわたしたちにとって特別で素敵な名だわ。あなたが蛇人だからって差別したり見下したりするひともいるでしょうけど負けちゃだめ。どうか心をしっかりもって。あなたが健やかに成長してくれることを祈るわ、ハダルのぶんまで」
「そんなーー」
もはやなにも云えなかった。ユアンもじぶんの力の足りなさを痛感するように唇をかみしめていた。すくなくともシュバリスとアイドクレーズには彼がたしかに己の無力さをかみしめているように見えた。
ヴァナディスはシュバリスをじっと見つめ、「わたしはときどき思うの」ため息をつくと低く云った。
「蛇、兎、熊、鳥、猫に狼。そのほか大勢の獣の性質をもつひとびと。獣人は人間が作った、だけど人間だってヒトと云う獣の一種だわ。ならば、いまこの世界に生きる人間だって、ほかのだれかが作ったものではないとどうして云えるかしら」
静かな声色だったが、口調に秘められた強さは、それがヴァナディスのなかで長年あたためられていたひとつの考えであることをあらわしていた。だが証明するてだてはなにもない。「でもだとしたら、そんなことができるのは神さまだけ」とヴァナディスは低くつぶやき、諦めたように微笑んだ。
「あの子の生も死も、もはや神の御手に委ねられた。わたしたちの介在する余地はないーーラピデス・クレスカント。ヴェジェタビリア・クレスカント・エ・ヴィヴント。アニマリア・クレスカント、ヴィヴント・エ・センティウントーーだけどときどきわたしたちはどうあがいても植物どまりなんじゃないかという気がするわ。魔法を得てもなお」
「陛下」
ふと、意を決したようにユアンが顔をあげ、云った。
「ハダルさまを延命させる方法がございます。ひとつだけ」
「わかっているわ」
ヴァナディスはうなずき、しかし頭をゆっくりと横に振った。
「だけどそれをしてどうなって? ナイジェルにしろほかの誰かにしろ、たしかにそのおかげで最終手段が浮かび上がりはしたけれど、五王家のたいせつな宝物を皇帝家のために献上せよなんてとても云えない。それに、陛下がおっしゃるには、[[rb:聖遺物 > あれ]]はそもそもそのために遺されたものではないしね。いいのよユアン、ありがとう。わたしは残りの時間を精一杯楽しむわ。ほかの誰が忘れても、わたしたちだけは忘れないように」
「陛下」
「ありがとう」
ヴァナディスの目には涙は見られず、表情は穏やかで澄み切っていた。それがいっそう悲哀を感じさせた。
その後ヴァナディスはシュバリスを手招きし、彼女の手首を握ってそっと呪文を唱えた。「これは?」ふわりとヴァナディスから魔力が流れ込み、同時に彼女の手首に現れたちいさな花の模様にシュバリスは首をかしげた。ヴァナディスは「いつでも好きなときにあの子に会いに来れるよう、資格を与えたのよ」と微笑んだ。
「これであなたはいつでもハダルに会いに来られるわ。宮殿でもこの小屋でもどこでも、この大陸の中ならばたとえ地の果てであろうとも。よければ使ってちょうだい。好きなときにあの子に会いに来て。あの子が元気なうちに」
その心遣いにシュバリスは恐縮するばかりだった。
(わたしの危機を察知して、彼は魔剣を召喚し、あの獣人たちを斃した。だけどあれはかなり体力も気力も魔力も使うのだわ。ならばあれは決定的にハダルの寿命を縮めたのでは? 残り少ない命をさらに削らせてしまったのでは?)
(ハダルを助けたいのにーー)
これからのことを話し合うというヴァナディスとユアンを残し、シュバリスたちはカミャに送られて寮に戻った。学院の敷地内に賊が侵入したという噂はすでに広まり、シュバリスが騒動の中心にいるということもみんななんとなく知っているようだ。なぜこうもシュバリス・イスラメイのまわりで騒動が頻発するのか不審がっていた。周囲の視線を避けてシュバリスたちは部屋にこもり、アイドクレーズの求めに応じて、ユィリエ・シャマールに連れられて騎士団に行ったところから、アイドクレーズが駆けつけてくるまでに森の中で演じた死闘のことなどをつっかえつっかえなんとか話した。
「だいじょうぶですか」
「あんまり」
シュバリスは発熱していた。狼人に魔法で無理やり成長させられたり、その後子どもたちを守るために防御魔法を使ったりでひどく消耗したためだろう。アイドクレーズに寝かされたベッドの上でしかし、シュバリスは朦朧とする意識のなかでこれだけは伝えねば、と必死で告げた。
「ギネヴィアかもしれない」
「えーー?」
けげんそうに首をかしげるアイドクレーズに、シュバリスは騎士団での出来事から自分なりに考えた推理を披露した。
[newpage]
[chapter:おやすみモラトリアム]
「あなた前に云ったわよね、ユアンでもナイジェルでもない第三の、ユアンを皇帝にしたい誰かがナイジェルを嵌め、ハダルを死なせ、アルジュナも害そうとしている可能性はあるって。その条件にドットールはぴったりあてはまる。騎士団で話してよくわかった。彼女は教官が候補者から降りたいまも皇帝になってほしいと切望しているの。それに、ひょっとしたらあのとき地下に押し入ってきたのも彼女自身かもしれない」
「彼女がですか? 眼と足を奪ったのが? えっしかし」
「わかってる。地下神殿に押し入ってきた人物とは体格が全く違うし、あれはまちがいなく男だったっていうんでしょ。でもわたし、今日もういちどギネヴィアのことを[[rb:読魔能力 > オルリド]]で見てみたのだけど、そうしたら彼女が獣型をとるところが見えた。なかにはふだんの彼女のかたちからはかけ離れて巨大化する姿もあった。もし彼女が、半獣半人の姿に見た目を調節することができるんだとしたら、つまり大型の獣人に半獣化した姿で行動していたとしたら、男女の性別は獣の状態だと判別がつかない場合が多い。あっという間に押し入ってきて狼藉を働いてさっさと帰る、あの短時間の犯行くらいなら性別を偽るくらいは可能なんじゃないかしら」
「えーーっとーー?」
アイドクレーズは寝台のそばの椅子にこしかけながら、眉間にしわをよせてシュバリスの話に耳をかたむけていた。シュバリスはアイドクレーズが理解しきるまでじっと待っていた。アイドクレーズはシュバリスの上に毛布をかけなおし、「獣型ですか。なるほど、それはあるかもしれませんが」と、用意してきたお茶のカップを差し出しながらうなずいた。
「飲んでください。解熱作用があるお茶をいれました。しかしだとするとーー?」
「しかも彼女、指輪を三つ持ってたの。ひとりの人間が複数所持している場合もあるとすると、わたしたちが追ってきた手がかりはもうまるっきりご破算なのよ。指輪をもってないひとが犯人だとずっと思ってたけど、もし犯人が指輪の複数所持者だとしたらそのうちひとつを失くしたっていくらだってごまかしがきく」
「指輪が三つ。ああ、そういえば、わたしたちあれからぜんぜん」
シュバリスがカップを受け取ると、アイドクレーズはすばやく立ち上がり寝室から出て行った。戻ってきたときには、いつか院長室に忍び込んだときに[[rb:複写 > コピィ]]してきた指輪の受贈者名簿を抱えていた。
「あのあとアルジュナの殺害未遂が起こって、犯人がほぼナイジェルで間違いないだろうってことで放置しちゃってましたが」
ヘッドボードにもたれかかって手足を伸ばすシュバリスの邪魔にならない、しかし彼女にも見えやすい位置に書類が広げられる。シュバリスは手を振った。「ユアン・カルセドニー。ナイジェル・アベンチュリン。ギネヴィア・トリッチトラッチ」ーー求めに応じて三人分の書類が浮かび上がり、空中で一列に整列する。ユアンが三枚、ナイジェルが二枚、ギネヴィアが三枚。それがすなわち三人の受賞回数でありもっている指輪の個数だ。ふたりは愕然とした。
「なんということでしょう」
乾いた笑みを浮かべてアイドクレーズはぼやいた。
「ほんとに子どもになっちゃったんでしょうかわたしたち。なんということだ」
「余計に熱があがりそうよ」
全員が複数所持者だとしたら、ひとつくらいなくしたところで、どうということはない。しかもシュバリスは気づいた。
「でもギネヴィアはちゃんと三個もってた。三つ全部揃ってた、ということは」
「彼女は犯人ではない。もしくはよそから融通したとか? 紛失したと申請すればもういちど支給してもらえるとかーー?」
「再支給? そうか、そういう手もあるのね」
「じゃあその記録を調べればーーいや、彼女が犯人だとしたらユアンに直接云ってこっそり支給してもらえば記録には残らないのかも」
考えれば考えるほど深みにはまる。最終的にアイドクレーズがぼそりと「指輪の件から犯人に迫るのは、いったん中止にしましょう」と、お手上げであることを隠さずつぶやいた。
「ドツボにはまるだけですよ。それにすみません、追い討ちをかけるような、もんのすごく暗いこと云っていいですか?」
「毒を食らわば皿まで。いいわ、なに?」
「あの指輪、犯人がわざと落としていったとは考えられませんか」
「犯人がわざと。なぜ?」
「わたしたちに、犯人がセレスタインの関係者だと思わせたかったんです」
「それでミスリードさせようとした? そこまでいくともう、わたしたちのこれまでの努力はぜんぶ無駄ってことだわね」
「すみません」
しかしすぐにふたりは顔をあげた。いや、ちがう。セレスタイン魔法学院でこれだけの騒動が、アルジュナ暗殺未遂だったりいままたシュバリスが襲われたりしている以上「犯人がセレスタインの関係者ではない」というのはありえない。それだけはシュバリスたちにも理解できた。
「よくわからないけどそれだけはたしかよ。そこだけは信じましょう。あの指輪は犯人のものなのよアイク。事件はこの学院と、ひいてはこの学院にいる三人の皇位継承者とぜったいに関係がある」
「ですねえ……」
「そして、実行犯と黒幕が別の人物、というのも、わたしを襲った男か女かに関してはあてはまらない。犯人はあそこにいた[[rb:白蛇 > ナーガ]]が蛇神シュバリスと知っていたんだから、あの件だけは犯人みずから犯行に及んだに違いないと思う。廟の結界を破ったりだとか、七柱の一人を傷つけるなんてこと、どんなにお金を積まれたって、そうおいそれと請け負うひとがいるとは思えない。それにあれほど強い黒魔法や、とっとと姿をくらまして、指輪以外の証拠を一切残さない奸智に長けた立ち居振る舞いができるのは、まさしくあの人物が真犯人、黒幕だった証拠にほかならないんじゃないかと思うのよ」
「あなたって熱があったほうが賢いですねえ」
「おだまり。とにかくーーとにかくえっと」
「ふりだしにもどった」
「そう、ふりだしにもどーーいや、戻ってはいないわよ。ただ犯人とおぼしきひとが増えていってるだけ」
シュバリスは手をふって抗議しようとしたが力が入らず、右手はべしゃんと寝台の上に落ちた。アイドクレーズがその手をもちあげ「ふりだしより悪いような気もするんですが」と毛布の中にしまう。そのままシュバリスの額に手をあてて温度を測りつつ、
「さっきより上がってますね。じゃあ、ナイジェルとユアンについては検討しましたし、ギネヴィアが犯人だとしたら、というのも検討してみましょうか。動機は?」
アイドクレーズもこころなしか顔色がすぐれない。シュバリスは心配になったが、じぶんも多少意識が朦朧としているため、早く話してしまおうといきおいこんで云った。
「教官を皇帝にしたいからよ、もちろん。そうすれば獣人蔑視の風潮が変わるし、ギネヴィアはいまでも教官が好きなの。だから教官にこの国の頂点に立ってほしいと願ってる。きっと彼女にとってはそれが、じぶんを救ってくれたことに対する恩返しなのよ」
中庭でギネヴィアがしてくれた話をかいつまんで話すと、アイドクレーズが唸った。
「それがほんとうなら、彼女はおそろしく義理人情に厚い、かつおそろしく巨大な自己犠牲精神のもちぬしですね。しかし失礼ながら、そんなにしおらしい女性だとはまったく思えないのですが。ひとかどの人物であることは間違いなさそうでしたけど」
「いえ、見たところあれは、巧妙に周囲にそう思わせたくてふるまっているだけよ。ドットールは本来義理人情に厚いひとで、なかみはもっと複雑かつ純粋一途だわ。これから帝国に生まれてくるであろう、じぶんと同じような身の上の子どもをとても案じている。彼女は教官がカルセドニー家の権力で止めるまでずっと実験動物として扱われてきたひとで、オルリドの力を発揮したとき彼女の過去をいくつか見たけどそうとうひどかったわ。幼い頃からあんなことをされてきたとすると、蛮行を止めた教官がまるで神さまみたいに思えたでしょう。ひそかに忠誠を誓ったり人生を捧げると決めたとしてもおかしくない。しかも彼女はその後、横暴な夫のもとで精神的にも肉体的にも虐待されていたところをまた教官に救われている。一度ならず二度までもーーしかも学生時代にも、いろいろと学院で騒動を起こすにつれカルセドニー家の嫡男である教官の地位と権力でフォローしてもらってきているようだし、上級生から力づくで征服されそうになったところをユアンとテディに救われたりもしたと云っていた。とすると、ギネヴィアの教官に対する思いいれはなみたいていのものじゃない。身も心もユアン・カルセドニーに救われ、そして彼と結婚したかったけれど彼の将来を思うが故に諦めた、思い合っているけれど妻としては役に立てない、そんなふたりの関係について思い悩んだすえ、せめてもの報いとしてユアン・カルセドニーになんとか皇帝の地位を、と彼女が願ったとしたら、これは彼女の動機として、あながち見当違いじゃないんではないかしら?」
「研究者としての順風満帆な一生を無駄にしても? 聞いた限り、彼女はそうとう優秀な魔具開発者だ。それに将来の野望ももっている。大陸横断鉄道」
「カモフラージュかもしれない」
「ーーたしかに」
そしてアイドクレーズは、シュバリスが予想だにしなかったことを云った。
「わたしもまあ、そういう可能性もあるのかな、と思います。じつは事態がいっこうに進展しないもので、ここ数日ユアンやナイジェルの関係者についていろいろと情報収集をしていました。そのなかにはギネヴィア女史の情報もあって、彼女の研究や、彼女が口にしていたところの大陸間横断鉄道の実現性についてもくわしく調べてみましたよ」
「なにそれ。そんなの調べたの?」
「はい。研究所職員の論文や学会での発表内容なんかは、ぜんぶ[[rb:公的記録 > アーカイヴ]]として研究所内部の図書室で閲覧できるんですよ。セレスタイン魔法学院の六年生以上から大学関係者、研究所の所員しか閲覧申請はできませんけど」
「ーーあなたってほんと賢いわ。というかそこまでいくとちょっと厭味よね。でも、六年からしか申請でないなら、いったいどうやって調べたわけ?」
「上級生のお姉さまにお願いしました。研究所では受付のお姉さまを泣き落としてなかにいれてもらって、で、なんとかギネヴィアがこれまで発表した論文やら研究概要やら展望やらをさーっと斜め読みしてきましたよ」
「お願い? 泣き落とし? あなたってほんとーーまあいいわ。それで?」
「結論からいうと、ギネヴィア・ルネ・マリー・トリッチトラッチは一流の研究者です。魔具開発のみならず古代の魔具の分析もしており、そちらにも明るい。というか、専門だけでなくほかのあらゆる分野にも通じています。ありとあらゆる研究に首をつっこんでは、その分野でなにがしかの成果をあげてる。しかし、ほかの研究はともかく鉄道の件に関してはまだ実用には程遠い。理論はちゃんとできあがっているんですが、実際の敷設や運用に関してはどんなにあがいてもあと五十年はかかります。つまり、彼女が語った夢であるところの鉄道計画は、今の段階ではほんとうに夢のまた夢です。だからこそ彼女も最大の目標にしているのでしょうが」
「てことは」
「それを目標に心血を注いでいる、だからそれで頭がいっぱいで皇位継承権になんかかかずらってはいられない、というのが彼女がじぶんの犯行を否定するおもてむきの理由である、周囲にそう思わせている、というのはじゅうぶんありえます。ただし、これは同時に、ギネヴィアがユアンを皇帝にしたくて今回の犯行に手を染めている動機にもなります。その五十年は、ユアンが皇帝になれば大幅に短縮できるからです」
「あ、そうか。図書館から帰る途中で云ってた、税金の投入ーー?」
「そうです。ユアンが皇帝になれば、彼は長年の友人であり恋人であるギネヴィアの望みを叶えてあげるでしょう。あのときの会話から本心では乗り気だってことは間違いなさそうですしね。彼が大陸横断鉄道を有用な計画であると議会に認めさせれば、莫大な額の資金調達が可能になり、計画の最大の障害となっている資金不足はたちまち解決、出資する貴族もぞくぞく名乗りをあげるでしょう。ギネヴィアは出資者の名前を駅名にして出資者を募るという案も添えています。なんとも虚栄心をくすぐるステキな案です。いまのところは誰にも認知されていませんがね」
「そう……だとすると、私的な気持ちだけでなく、研究者としてもユアンに皇帝になってほしいと思う動機があるわけね」
「そのとおりです。わたしも最初は、ギネヴィアが犯人というのはあまりにも、と思っていましたが、なんだかだんだん信憑性があるような気がしてきましたね……」
ことばどおり、だんだんとその幼い顔に真剣みをましていきながらアイドクレーズはうなずいた。
「あとはマジックの色。ユアンが青みがかった灰色でナイジェルが黒、でしたっけ。で、ギネヴィアは灰色。白も黒も得意ってことはきっと攻撃魔法もいけるんでしょう。けっ、優秀だなどいつもこいつも」書類をつまみあげてアイドクレーズはつぶやいた。
「そうか、あのときのあいつは、半獣化した姿だった可能性もあるのか……。たしかに体型のわからない服装をしてはいましたね。全身黒づくめで、見えたのは目だけだった」
「ええ。金色に光ってた。だから獣人である、と思ったのだけど」
「だからユアン本人でないことははっきりしていると。ナイジェルかギネヴィアかーーもしくは、操られたテディ説もありましたっけ?」
「あったわね。えーっと」
シュバリスはいちおう「テオドール・アベンチュリン」と目の前に広がる書類の海へ囁きかけてみた。立ち上がった書類は一枚だけだった。指輪はひとつ、マジックの色は薄い白。アイドクレーズがため息をついた。
「ここだけは確実ですが、絶対にテディではないですね。出会ってから現在にいたるまでずっと指輪はしてますし、色は白だ。誰が犯人にせよ彼は無関係だ。黒幕も共犯者も別にいる」
「そうね。ひょっとして、彼も囮に使われたのかも。監察部にひっぱっていかれたし」
「ギネヴィアが犯人だとすると、ユアンがナイジェルをじぶんの犯行における[[rb:犠牲 > スケープ]]の[[rb:山羊 > ゴート]]にしたのと同じく、ギネヴィアはテディをスケープゴートにした。もしくはギネヴィアは、彼を情報源として利用している。テディからユアンのスケジュールについて情報を流してもらい、ユアンに疑いがかからない日時に犯行を重ねる、じゅうぶんありえる話だ。あなたの話だとファラスというシャマールの部下もどうやら彼女に魅了されている。だとすると、騎士団の情報も彼女には筒抜けなのかもしれない」
「たぶんね」
嫉妬をにじませてテディとギネヴィアを見ていた若い青年の姿を思い出しながらシュバリスはうなずいた。
「そうね……ユアンだけじゃない、ギネヴィアにだってファンがたくさんいるんだわ。思い返すとこれまでの話で頻々とそういう話題はでていた。頼めばいうことを聞いてくれる異性や同性がダース単位でいそう」
「じぶんの[[rb:不在証明 > アリバイ]]を証明してくれるひともね。こうなってくると断然怪しいですね。ハダル誘拐事件も彼女の犯行、その可能性はじゅうぶんある」
「ええ、そのとおり」
ギネヴィアとユアンは同年齢だ。当時ギネヴィアも二十四歳、ユアンの皇帝即位を諦めきれなかったかもしれない。個人的にはシュバリスはギネヴィアを好きだったので、だからこそ彼女がハダルから魔力を奪い呪いをかけた、守るべき子どもにそんな卑劣な真似をしたと思うと胸が苦しかった。一連の事件の真犯人かもしれないとすると「なぜ」という思いが膨らんだ。恐怖も。
「もうなにがなんだかわからないわ」
「わたしもです。もうなにがなんだか」
アイドクレーズがため息をついた。彼がそんなふうに悄然としているさまをあまり見たことがないので、シュバリスもなんとなくしんみりしながらアイドクレーズの肩に手を伸ばした。
「あなたもなんだか疲れてるみたい。だいじょうぶ?」
「ええ。疲れました。失礼して、すこしよろしいですか」
「いいわ。いらっしゃい」
アイドクレーズは靴を脱ぎ捨てると、シュバリスのベッドにあがり、隣にすべりこんだ。アイドクレーズはシュバリスの首筋に顔をよせてなんどか深呼吸し、肩を上下させた。シュバリスの匂いをたしかめている。「ーーやっとわたしのあなたになりました」と小さく呟いたのはいまいち真意がつかめないにせよ、とにかくアイドクレーズも、今日は獣人の件でシュバリスを心配してはぶちぎれ、門番小屋でアルテミシアとぶつかってはぶちぎれ、なにかと神経を尖らせた一日だった。ふだんもっとも近くにいるがゆえにシュバリスはアイドクレーズに対してオーラを探ることはないが、さすがに今は心配になり、アイドクレーズのオーラに意識をむけた。濃い灰色に銀と青と黒が等分に混じるオーラは、ふだんより黒が勝っている気がした。
「だいじょうぶ?」
よく考えたら肉体的にはじぶんより三歳も若いのだと、シュバリスはアイドクレーズのくしゃくしゃの黒髪を撫でた。
「とうとう夏になってしまう」
アイドクレーズが窓の外に視線をむけてつぶやいた。
「あの小僧を助けた翌日、一ヶ月あれば眼も足もとりもどしてみせる、なんて威勢良く豪語したのに」
「そうだったかしら」
「そうですよ。なのにざまあありません、一ヶ月どころか一年経ったって解決できる気がしない」
「そんなことないわ。足は取り戻したもの、あともう少しよ」
「その、あともう少しが途方もなく遠い」
ぼんやりとアイドクレーズは囁いた。
「どうしようもなく遠い。きっと永遠に踏みこえることができない」
「そんなことはないわよ、どんなことだっていつかは解決できるものよ。どうしたのアイドクレーズ、いまになってそんなこと云うなんてらしくない。さっきのアルジュナのお母さまのことで弱気になってる?」
シュバリスをあの暴行や暴言から守れなかったことで自信を失くしているのか。しかしアイドクレーズはゆるやかに頭をふり、シュバリスの胸元から頭をあげた。
「あなたに必要とされたいだけです」
「してるわよ。いまも昔も、これからもずっと」
「ほんとうですか?」
疑わしそうな目がシュバリスを見上げた。「ほんとうに、あなたにとってわたしは必要なんでしょうか?」ーーシュバリスはちょっとおかしくなりながらうなずいた。
「ほんとうよ。だって、この五百年ずっとわたしたちいっしょだったじゃない。よく考えたら、ハルトやシオンやアリスやエコーやエステルやライドとより、もうずっと長い時間をあなたといっしょに過ごしてる。ほとんど一心同体みたいなものだし、これからもわたしがじぶんからあなたを手放すなんてことは絶対ないわよ。そうでしょ?」
「そうですかね」
「そうよ」
「ならいいんですけど」
アイドクレーズはようやく安心したように笑うと、シュバリスの隣に起き直った。「じゃあ」と細く長くため息をつくと、なにかが切り替わったのか「なんとかして眼を取り戻しませんとね」と力強く云った。「そうよ」シュバリスも力強くうなずいた。
「犯人がユアンにしろナイジェルにしろギネヴィアにしろーーあ、でもそうだ。もうひとつ。ギネヴィアが犯人かもしれないというのにものすごく有力な証拠となる話を本人がしていたの。彼女の[[rb:固有魔法 > マジック]]はね、他人の魔法を吸い取って、じぶんのものとして使うことができる、ってものなんですって」
「それは」
アイドクレーズが目を見開いた。
「あなたの眼や足から魔力を吸い取って、じぶんのものにしている、という犯人の姿と合致します」
「そうなのよ」
それこそ自白したも同然ではないか。ギネヴィアが犯人だと信じたくない、というシュバリス自身の葛藤さえなければ、いますぐ彼女の家へ侵入してもいいくらいだ。
「ただ、それをよりによって蛇神シュバリスと同じ名前のわたしに云うかしら、とは思うわ。彼女が犯人なら蛇神シュバリスが生きていることを知っている。もう少し用心してもいいはずよ」
「しかしギネヴィアが犯人なら彼女はオルリドだ。シオンの槍からあなたの生存についての情報を得た、その予測とも合致します。特に物の情報を読むのに長けたオルリドなんでしょう? あなたの大人の姿しか知らないから、こんなことになるとは予想もしていないのかもしれない」
「ええ、そうね」
シュバリスはうなずいた。
「とにかく、もしそうだとしたらなんとかギネヴィアの身辺を探って、シオンの槍とわたしの眼を隠していそうな場所をつきとめなくちゃ」
「くわえて、今日のようにまたあなたに刺客を放たないとも限らない。今日の一件で明らかだ、犯人はいまや明らかにアルジュナとあなたを殺そうとしてる」
「むしろもういちど襲ってきてくれればね」
今日彼女を襲った三人のうち、狼人はやはり死んでいたと、寮まで送ってもらう道すがらカミャがそっと教えてくれた。残る獅子人と馬人は騎士団に拘束されて取り調べを受けている。そこから犯人に迫るなにかが見つかれば話は早い。だが見つからなかったら、また次に犯人がシュバリスとアルジュナを狙うのを待たなければならない。シュバリスのそのことばにアイドクレーズは「とんでもないことを」と苦笑したが、「もし次があるのならわたしが容赦しません。次こそ犯人に直接つながるような証拠をつかんでやりますよ」と凄惨な表情で云った。
「次こそはね」
ひとまず、どんどん高くなっていく熱にとうとうベッドに崩れ落ちたシュバリスだけでなくアイドクレーズも、そのまま寄り添うようにして同じ寝台で眠りについた。蓄積した疲労とじぶんたちの無力さへの忸怩と反省が、正反対のふたりをしてようやく意見を一致させた。
「それにしてももうよくわかんないし、とりあえず……寝る!」
眠りに落ちる瞬間、シュバリスが思い出したのは、ハダルとともに意識を失ったときにみた陽炎のような幻の照り返しだった。しかしそれは、いまだシュバリスの脳裏にはっきりと知覚されることなく、澱のように沈んでは姿を消していった。
[newpage]
[chapter:ああ夏休み]
シュバリスが獣人三人組に襲撃を受けてから一ヶ月が経った。けっきょくあのあとシュバリスの熱は一週間ほど下がらず、アイドクレーズもひさびさに感情にまかせて魔法をつかったせいか体調を崩してしまい、主従はそろってアリアナと寮母に看病されつつずっとベッドの上ですごした。とうぜんそのあいだギネヴィアについてさらに調べるなど不可能だったし、回復してようやく講義に出られるようになってからは、溜まっていた課題や宿題を片付けるのに手一杯で、犯人についてさらに議論を深めたり証拠を探しに出かけるひまもなかった。
しかし、そうしてあっというまに一ヶ月が過ぎ去ってみると、いろいろなことが以前とさまがわりしていた。まず、体調を回復してシュバリスが講義に出たときには、教室からアルジュナ・アレクセイ主従の姿が消えていた。アルテミシアが口にしていたとおり、少なくとも一連の事件の黒幕と目されているナイジェル・アベンチュリンが捕まるまで、ミクラガードにあるユーレアイトの居館で自主学習をして過ごすことになったらしい。そして、「もし状況が変わらないようだったらこのまま学院をやめてタラゼド魔法学校に移るかもしれない」とのアルテミシアのことばを、あれから居館に招待されて放課後や休日に頻繁に出入りしているカレンとその仲間たちが声高に喋り散らしていたため、主従がいなくなってもその動向はクラスメイトに筒抜けだった。
「学院からいなくなったほうがうるさいって、いったいどういうことかしらねえ」
訪れたユーレアイト居館の豪華さや壮麗さ、じぶんが受ける上にも下にもおかない扱いについて自慢げに語るカレンの様子に、アリアナはじめ平民出身の子どもはすでに辟易していた。おまけに、すっかりアルジュナの恋人気取りであるカレンが「もしそうなったらじぶんもタラゼドに移ろうかしら」などと云い出すのでまたうんざりしていたーーシュバリス自身はそのとき高熱が引いたあとの体のだるさが残っていて、たいして気にする余裕もなかったが、彼女が休んでいたあいだからそれはずっと続いているらしく、クラスメイトのなかには、カレンに訊ねるのも癪だしどうせろくに真実など知っていまいと断じて、ようやく講義に出てきたシュバリスに何があったか訊こうとしてくるものも多数いた。
シュバリスが森で獣人たちに襲われ、偶然通りかかったアルジュナらが巻き込まれた。シュバリスとともにいたハダルが獣人を撃退したが、その後ハダルとアルジュナとのあいだでイザコザが起こったーー皇帝家と御双家同士の確執や軋轢はともかく、前半の事件だけは隠すことはできないと判じたのだろう、賊が学院内に侵入した事実だけは正式にユアンから生徒たちに公にされていた。春にアルジュナが殺されかけたことと関係があるかは不明、とされたが、無関係であると思うほど学院の生徒も単純ではなく、よってシュバリスは、休み明け当日にさっそく好奇心いっぱいの子どもたちに取り囲まれ、森であったことについて質問攻めにされた。ハダルもいたそうだがほんとうか、シュバリスが襲われ、危ないところをアルジュナが助けたというがほんとうか。カレンはほんとうはどういう役割を果たしたのか。最終的にどうやって獣人たちを斃したのかーーシュバリスは曖昧にことばを濁したが、そのせいで子どもたちは余計に好奇心を掻きたてられたらしい。だから、カレンが好き勝手に話を改変し「わたしが危ないところでアルジュナさまをお守りしたのよ、魔法でね」という捏造甚だしい自慢や「ほら、うちは防御魔法が得意な家系だから。なんといっても初代皇妃ドーリスの血筋だから」と、じぶんに都合のいい話を作りあげているのに、とりあえず気軽にしゃべってくれる情報源がそこしかないからか、話の半分ほどは信じているようだった。アイドクレーズは苦りきっていた。
「いっそほんとのことぜんぶぶちまけたらどうでしょうかね。あの小娘はなんの役にもたたなかったって」
「もしそうしたら、じゃあほんとうはなにがあったの、って説明を求められるのがおちよ。すすんで注目を浴びてわたしたちから気をそらしてくれるなんてこんなにありがたいことはないわ。いいから放っておきましょう」
なぜシュバリスがこれほどまでに騒ぎに巻き込まれるのか、そちらを詮索されると困るし、蛇神シュバリス本人であることを気取られるようなことはやはり避けたい。それに、もっと逼迫した事態がこの一ヶ月で出来していた。ハダル・ハルシオンの容態である。
シュバリスの危惧したとおり、やはり魔剣を呼び出し使用したことは、ハダルの肉体にかなりの負担をかけたらしい。目覚めたとき、神速で森に出現したりシュバリスを救うため魔剣を召喚したりといったこと一切をハダルは忘れていて、特になんら変わった様子もなくするりと学校生活に復帰していたが、普段の生活においても意識をなくしたり転倒したりといったことが増えた。あのとき森で現場に居合わせた騎竜部の上級生によって、ハダルの「そのとき」の変貌ぶりは驚きをもって語られていたが、その後はそんなことは微塵も思わせないハダルの危うさのほうが話題になった。講義中の居眠りが増えたとか、課外授業で別教室に集合する途中で道に迷ったとか、階段教室の上階から足を踏み外して転倒して医務室に運ばれたとか、クラブ活動においてもハダルは選手としてはおろか補欠としても見込まれず、運動場の隅でただただ見学させられて過ごしていた。そして、
「だいじょうぶなのかあいつ」
ことここにいたってようやく学院の生徒たちもハダルの異常に気づいた。彼の誘拐事件は一般には秘されているから、学院生はハダルが魔力の大半を奪われたうえ呪いまでかけられていることを知らない。が、最近のハダルは、入学当初のハダルと比べてあまりにも落差がありすぎた。なんらかの疾病によるものではないかと噂されるようになった。
「ハダルはなにか重篤な病気にでも罹っているのかシュバリス? たしかに近頃は、普通に歩いていても普通じゃないというか」
とうとうクラブ活動中、キャプテンのタッカ・パザルジークまでもがひっそりと、しかし心配そうにシュバリスに囁いた。「かなり具合が悪いのか? 話しかけても反応がないことが多いし、かえってくる答も筋がとおらない。このままじゃ危なすぎて試合どころか練習にも出せないが、しかし本人は毎日律儀に運動場に見学に来るしーーいやなにより、本人はだいじょうぶの一点張りだが、最近あいつひどく痩せたと思わないか。顔色もずっと悪いし」
シュバリスもいわれるまでもなくそのことには気づいており、前にもまして彼の呪いを軽減すべく必死で魔法をかけつづけていた。しかしそれがおいつかないほどハダルは消耗しはじめていた。以前はまがりなりにも明るく朗らかだったのに、最近は笑顔を見せることも少なく、ぼんやりした顔には疲弊が浮かんでいる。目は落ちくぼんで濃い隈ができているし、頬もこけた。パザルジークのいうとおり全体的に痩せてきてもいる。これまでクラブで激しいトレーニングを積んできたため、分厚く固く筋肉がついていて、あっというまに骨と皮ばかりになるという痩せかたではなかったが、カミャの話ではめっきり食欲が落ち、それまで好物だったものにもあまり興味を示さなくなったという。
魔力や知力はともかく、ハダルは肉体的には頑健で体格にも恵まれていた。長い手足に均整のとれた体つきは、選手らしい逞しさと若い牡鹿のしなやかさをそなえていた。温厚で快活でありながら過去の傷からかどこか憂いを帯びて光る切れ長の目や、笑うと片方だけできるえくぼや、それでも拭いきれない育ちの良さ、品の良さからくる優雅な挙措動作には、「落ちこぼれ」とか「七光り」の悪評をさしおいても、こっそりクラブの練習を覗き見しにくるひそかなファンがいたものだ。だが最近は彼の纏う朗らかで優しいオーラすらどこかとげとげしくなり、恵まれた肉体的長所は、ただひたすら転んだり躓いたりするだけの無用の長物と化していた。比例して、優雅だった立ち居振る舞いはどこか粗暴でやぼったいものになりつつあった。
シュバリスは時間さえあればハダルに会いにいった。最初にハダルの異変を察知したとき、これならいまだに隠れて姿を現さないナイジェルですら姿をみせるのではないかと期待した。いまこそシュバリスはナイジェルと話し合ってみたかった。黒幕はユアンかもしれないし、ユアンを皇帝にしたいギネヴィアかもしれない。自分はそう思うのだがあなたはどうかーーいまなら先日の初対面と違ってもう少し有意義な意見交換ができるはずだった。だが、騎士団がかなり厳しく行方を追っているにもかかわらず、ナイジェルの行方は杳として知れなかった。どうやら匿っている人間がいるのだろうという話だが、だとするとシュバリスたちが思ったより人望のある人物だったのだ。
そして、一ヶ月どころかさらに一週間が過ぎ、とうとうセレスタイン魔法学院は夏季休暇を目前に迎えた。
講義はすべて午前中で終わり、学院側からの各種伝達も済んだ放課後、帰省の準備で寮内はかなり騒がしかった。エイシャはシーナ域ベイジ市への陣による転送時刻が迫るなか、窓辺のテーブルについたまま鬱々と考え込むシュバリスにアイドクレーズは云った。
「ーーどうしますか、寮は閉まってしまうそうですよ。クラブや研修で学校にいなきゃいけない生徒には解放されているそうですが、それを理由に残りますか?」
ネスボラはちょうど競技シーズンを迎え、夏休み中も毎日のように対外試合が組まれている。シュバリスは手首をぎゅっと握りながら頭を振った。ヴァナディスがくれた[[rb:印 > しるし]]が、シュバリスの手首の内側にくっきりと浮き上がっていた。綺麗な花模様の刺青に見えるが、調べてみるとこれはほんとうに王宮内部まで入場を許可する特別なしるしらしかった。先輩のひとりに、平民ながら皇帝陛下の近習として王宮に仕える人物の息女がいて、そっと訊ねたシュバリスに驚いた顔で教えてくれた。「それは信頼の証よ。皇族、王族が書類に押す印璽と同じで、それを捺された人間はあらゆるチェックをパスして該当する発行者のもとへ一直線に行けるの。模様の形に凝縮された魔法陣だと思ってくれていい。しるしの形によって誰が発行したものかわかるけど、これはハダルさまの印ね」ーーたぶん、ハダルの状態が心もとないため、彼の印は母親であるヴァナディスが管理しているのだろう。あのとき初めて会ったにもかかわらず、じぶんを信頼してくれたヴァナディスにシュバリスは心から感謝した。しかし、
「いいえ。ハダルしだいだと思っていたけど、彼、今日はこれからとうとう王宮に帰って静養ですって。さっき寮母が伝言を渡してくれた。このしるしを使って会いに行くにしろ、場所が王宮なら皇子さまとの面会にはあらかじめ約束をとりつけなきゃいけないでしょう、いくらなんでも」
「たしかに。王宮にアポなしはまずいか」
「だから手紙か伝言で日程を決めてからーーだけどしるしがある以上ヤハンから一瞬で彼の元に行けるし寮にわざわざ残る理由がない。それに、クラブにはそもそもハダルがいるから入部したし、担当してるハダルも練習に参加しないから、わたしが寮に残る理由はどちらにしろない」
「では、いったん廟に帰りますか。地下神殿に」
「あそこに帰ったとしても、とうてい心安らかな気分で夏休みを満喫することなんかできない。さて、どうするかーー」
寮に残る、というのは、できない話ではない。ただ、残ったとてなんになるのか。残ってまた襲撃を受けたら、寮にいる他の生徒を巻き込むことにならないか。
「ユアンとアルジュナも、ハダルと同じくらい気にはなるけれども」
皇位後継者の三人から遠く離れてしまっていいのかどうか。それが問題だった。あれからユアンとシュバリスが個人的に会って話すことはできていない。ギネヴィアもさっぱり学院に姿を現さない。この一か月、D11の件でシュバリスは頻繁に研究所を訪れていたが、そもそも魔具の研究開発をしているギネヴィアの部署と、聖遺物の研究をしている部署とでは、仕事の内容も場所も隔たりがあるらしく、広い研究所内で彼女とすれちがうことすらなかった。ギネヴィア自身も最初はユアンとのつながりでD11に関わってくれていたらしいが、いまではじぶんの立場を鑑みたのか単純に忙しいのか、シュバリスのもとへ顔を出すことはない。かといって、シュバリスたちのほうから彼女を訪れれば、ギネヴィアが犯人だった場合いらぬ疑いを抱かせる。アルジュナに関しても同様だ。ミクラガードのユーレアイト居館を訪れ、彼らが安全かどうか確かめたいとシュバリスは切望していたーーなにしろアルジュナも二度も命を狙われている。だが、そんなことをしたところでアルジュナとアレクセイは「なにをしにきた」と不審がり反発するだけだろうし、もっと悪ければシュバリスはアルテミシアから門前払いを食らわせられるだろう。
いや、門前払いならまだいい。アイドクレーズのほうは実のところ、シュバリスが捕まってアルテミシアから監禁されないかのほうを恐れていた。アルテミシアはシュバリスの容姿と魔力に執着し、ゆくゆくは息子に与える愛玩動物か血を残す奴隷として彼女を飼おうとしている。またそれを臆面もなく口にしてみせることこそが、現実の脅威としてアイドクレーズにアルテミシアを警戒させていた。ときが経つにつれシュバリスは、アルテミシアのあのときの発言はたちの悪い冗談だろうと思い始め、じぶんでもそう云って不安をなだめていたが、アイドクレーズにはとても冗談とは思えなかった。
だがしかし、やはりいちばんの問題は、シュバリスとアイドクレーズがことここにいたって迷っていることだった。当初の想定より事態が広がりすぎて、ふたりともどう手をつかねていいかわからないのだ。そしてこの一ヶ月、だんだんとふたりのなかで現実味を帯びてきたのが、いつかシュバリスがいった「また五百年かけてゆっくりおとなに戻ればいいじゃない」という積極性を欠く案だ。だがそれも、シュバリスにとっては「ならばハダルはどうなる?」という悩ましく切実な課題としてのしかかってくる。
のどかな窓外から室内の荷造りずみの鞄へと視線をもどすと、シュバリスはため息をつきながらテーブルにつっぷした。「あああああ、もうううう〜」思考が飽和し、女神の威厳もへったくれもない気の抜けた顔で彼女は懊悩を吐き出した。
「とうっーーとう夏休みだわよ。楽しいはずの夏休みだわよ。正直この日がくるまでにぜーんぶ解決してると思ってた。なのにああ、どうしたら犯人がわかるの。眼をとりもどせるの。わたしにシャマールさまみたいなマジックがあったらよかったのに」
たぶんじぶんのマジックは防御と治癒なのだろう。しかしこれは攻撃に不向きで後手にまわることしかできない。シュバリスは、じぶんがとほうもなく無力な存在であるように思えてしかたなかった。アイドクレーズが頭をふった。
「よしましょう。その監察部の女傑のシャマールでさえまだ犯人の目星がつかないんだからよほどなんですよ。しかしどうしてもというなら、話によるとアリアナは同じマジックを持っているのですよね? あなたなら、シャマールがかつて結んだというアリアナの魔法を封じる青いリボンを解くことができるのでは。それを解いてアリアナのマジックを解放して、事情を話して協力を仰いでは?」
「だめよ、だめだめっ。なんてこというのあなた」
ユィリエ・シャマールの猛禽の眼を思い出しながらシュバリスは頭をふった。
「そんなことしたら、わたしたちのほうが即座にシャマールさまから粛清を受けるわよ。あのかたは表には出さないけどずーっとひそかに愛娘の様子をうかがっているの。アリアナを巻き込むのはだめ、そんなこと考えただけで背筋が凍るわ、ぶるぶる」
「じゃあどうするんですか。寮にずっといるのもあれだし、ヤハンに帰ったところでハダルのことが心配であなたは夜も眠れないでしょう。これまでの方針通りユアンとハダルとアルジュナと、もうひとつおまけにギネヴィアにはりつくにしたって、わたしたちふたりじゃ手が足りないし」
「そうなのよね。その気になればすぐ会えるのはハダルだけ。はあ」
ハダルはすでに門番小屋を引き払い、カミャに連れられてミクラガードの王宮に向かっているころだ。夏休みのあいだ、帝国じゅうの腕利きの魔法使いや魔法医師から診察を受ける予定だと本人が喋っていた。ということは、とうぶんハダルの安全に関してはがっちり守られていると思っていい。
「彼にはしるしを使って会いに行くにせよ、やっぱり目を離したくないのはユアンとアルジュナよね。でもーー」
そのとき、とんとんとノックが響いて、アリアナが姿を現した。すっかり帰省の準備を整えた彼女は、久しぶりに父親に会えるとあって意気揚々としていた。
「どうしたの? さ、行きましょ。わたしたちふたりともエイシャに帰らなきゃ。じき転送の時間よ!」
「ええーー」
シュバリスはのろのろと立ち上がり、アイドクレーズも続いた。ふたりが気乗りしない様子なのを、帰りたくない理由があるのだと思ったのだろう、アリアナが云った。
「あのね、お父さまが、ふたりとも夏休みのあいだよければうちでバイトしないかって。ベイジ観光の若いひとたちが夏はわんさかくるし、シーナからヤハンへの秘境ツアーっていうのがここ半年は大ブームで、うちは大盛況なのですって。あなたたちに手伝ってもらえると助かるって云ってたわ。もちろんバイト代も出すから、よければこの夏はうちでいっしょに過ごしましょうよ! 親戚のおうちじゃ肩身がせまいってふたりとも前にいってたでしょ?」
「あーー」
アリアナについた嘘もいまだに有効なのであった。思わず顔を見合わせて気まずい笑みを浮かべるふたりに、アリアナは優しく云った。
「これもなにかの縁だもの。わたしも夏じゅう友だちといっしょなら嬉しいし、学生バイトていったってちゃんと終業時刻は守るし空き時間にベイジもいろいろ案内してあげるからねーーさ、早く!」
ふたりはとにかくエイシャに戻ることとした。そしてけっきょく、アリアナのありがたいお招きにあずかって、ヤハンのシュバリス廟に帰ることなくベイジのノヴェレッテン家に身をよせた。パトリックとアリアナ双方の気遣いからにせよ宿が大繁盛なのは事実で、ふたりは夏じゅうバイトに明け暮れることになった。
シュバリスは折を見てハダルに手紙を書いた。ハダルはあまり筆まめではないようで、いつも便箋に[[rb:蚯蚓 > ミミズ]]ののたくったような文字で数行を書き送るのみだったが、手紙にはいつも声を封じ込めたクリスタルを同封し「ねえ、会いに来て」としょっちゅうシュバリスにねだった。求めに応じてシュバリスはたびたびハダルを王宮に訪ねたが、王宮に行く以外はほとんどエイシャから出ることなく過ごした。
そして、シュバリスの不毛な千年間とは比較にならないほど充実した夏休みの一ヶ月半は、ひきこもっていた千年間に負けず劣らずなんとな〜くすぎていってしまったのだった。それまでのおよそ四ヶ月が嘘のように、ひとつとして事件らしい事件も、皇位継承権がらみの対立も起こらなかった。すなわちそれは、なりゆきを注視し、なにかあったらすぐに帝都ミクラおよびセレス市にすっとんでいこうと身構えていたシュバリスたちに肩透かしを食らわせる結果でもあった。
妙に不気味で静かな夏休みが、とうとうそのまま終わった。
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[chapter:秋の特別ご招待]
そしてとうとう夏休みも終わり、シュバリスたちは帰校日に指定された新学期前日に学院に戻ったのだったが、帰宅した寮は混乱を絵に描いたようなありさまだった。上は二十(はたち)から下は十歳まで、十も年齢の開きがあれば、成人を迎えた上級生などはそれなりの落ち着きをそなえているが、とうぜん彼らの「夏のおもいで」も多岐にわたり、それぞれの冒険や経験を声高に、あるいは声をひそめて語り合ったり、またセレスタイン魔法学院には、広大なエウレシア全土から生徒たちが集まっていることもあり、ひとまず荷物を置いてお茶だの菓子だの軽食だのをとりにめいめいが殺到した一階の食堂はお土産交換会の場と化し、ちょっとした物産品展示会のようになっていた。なかにはそれを見越して、大袋で特産菓子や果物など持参して誰彼かまわず配りまくっているものもいるが、どうやら彼らは商人の、あるいは農園主の子弟なのだった。
将来の帝国有力者に自社商品や産業を売り込もうという戦略や努力はあながち見当ちがいではなく、ほとんどは前向きに受け取られて人気を博していた。いっぽうそうした莫迦騒ぎを冷笑してみている一部の貴族の子弟もいた。しかし彼らでさえ、久々に会った友人との歓談や、そうしたお祭り騒ぎを見ているのがけして厭ではない証拠に、なかなか自室にひっこもうとせず、いつまでも群れを作ってわだかまっていた。
授業開始の一日前、ほぼ全員が帰寮し終えた夕方、どうやら夜中まで続きそうな食堂での再会劇や、談話室で開かれている楽器を持ち出しての簡易演奏会を脱出したシュバリスとアイドクレーズは、じぶんたちの寮室で深くため息をつきあった。賢明なアリアナはすでに明日からの授業の予習をすると云って自室にひっこんでいる。ふたりはしみじみとつぶやきあった。
「帰ってきちゃいましたねえ」
「ええ、ええ。戻ってきちゃったわよ、ええ」
長い夏季休暇のあいだ、ふたりが予想したような事態はなにも起こらなかった。セレス市からもミクラからも離れていたため物理的な距離によって耳に届かなかった、ということはない。パトリックの宿で取られている新聞や[[rb:平面結晶板受像機 > ヴィジョン]]を絶えず気にかけていた。貴族や高官や議員や有名企業の子弟がごろごろいる学院内にいるとあまり意識しないが、皇位継承権に関する問題だったり学院内部で起こる事件は、やはりひとびとの耳目を集める重大ニュースで、ハダルもアルジュナもユアンもいちおう顔は知られているしそれぞれに特定のファンがいるため、なにかあれば即座にニュースになるはずだった。
「なんかこう……無駄足踏んだかな? って感じですね、ぜんたいに」
「まあね。でも、おかげで傷は回復したけどね」
一ヶ月半で、獣人たちによってつけられた手首の傷も縛られた跡も火傷も完全に回復していた。手首をさするシュバリスに、顔をしかめながらアイドクレーズもうなずいた。
「平和で結構といえば結構ですがね。しかしそれにしても、ここまで無事に夏休みが終わると拍子抜けというかなんというか。あのう、訊くのも怖いんですけど夏休みの宿題って……?」
「アリアナといっしょだもの、やらないではいられなかったわよ。ぜんぶやったわ。まだまだとうぶん学生でいなきゃならないし」
宿を手伝うあいまにアリアナとすべてすませたから、休み明けに教官に叱られる心配はせずにすむ。鞄から解答済みの巻紙や提出用の魔晶を取り出して並べながらシュバリスは頬杖をついた。授業の心配ももうあまりしていない。彼女自身がこれまでの生活でかなり学院に慣れた。ただ、彼女がいま心配なのはハダルだった。
夏休み中シュバリスは、手首のしるしを使ってハダルに数回会いにいったが、ハダルの容体はいまや坂を転げ落ちるように悪くなっていた。さらに痩せて物忘れが激しくなったし、頻繁に転ぶため怪我も多い。後期の授業が始まる前に魔法使いや医師と、徹底的に呪いの解除や健康の回復に専念するとのカミャからの伝言を受けていた。彼も今日は門番小屋に戻っているはずだ。
「会いに行くのは明日だわね。クラブもはじまるし、そこで会えるでしょう」
そして平和な新学期がはじまった、のだったが。
朝、シュバリスが登校してすぐ驚いたことに、一時間目の「魔力精錬」にアルジュナ、アレクセイ主従の姿が揃っていた。久しぶりに見るふたりは、選民意識ばりばりのまま平民たちを無視して貴族仲間と楽しげに談笑している。シュバリスたちのもとにもその内容が漏れ聞こえたが、「せっかく通い慣れたこともあるし、ユアンが警備について今度は万全を期すと居館を訪れて約束してくれたので、学院長たってのお願いを無碍にもできずやむなく通学を再開した」「今日のうちに寮にも戻る」という。喜んでいいのかシュバリスはわからなかったが、授業の合間に情報収集から戻ってきたアイドクレーズは、教室の窓からアルアレコンビの姿を確認して「けっ」と毒づいた。
「そのまま家にこもってりゃいいものの。またあいつらと隣同士か」
「うーん。まあ、元気そうでなによりと思いましょう」
門番小屋で別れてから二ヶ月経っているが、ふたりともシュバリスに話しかけてくることなく徹底して無視を貫いていた。個人的にはアレクセイとだけは話ができるのではないかとシュバリスは期待したが、主人と一緒のときは近づくことすらできなかった。やはり音楽の授業を待たねばならない。
放課後、シュバリスは逸る気持ちをおさえて第三運動場にむかい、まずは[[rb:巣球 > ネスボラ]]の仲間たちと久しぶりの再会を喜びあった。選手もマネージャーも、口々に夏休み中の練習や試合の様子について楽しげにシュバリスに教えてくれ、シュバリスは彼らから地元のお土産をもらったり思い出話に耳をかたむけた。しかしハダルはいっこうに現れず、クラブ活動も半ばにさしかかったころ、ようやくカミャの姿が運動場に現れた。
「カミャ! ねえ、ハダルさまはどうなさったの?」
「とうぶんクラブはお休みです。参加できるような体調ではないので」
「そうなのね。門番小屋には?」
「お戻りでいらっしゃいます」
カミャの表情はいつもどおり鉄壁で、髪は一筋の乱れもなく整えられていたが、なにかしら憂慮と呼ぶしかない翳りがたたえられていた。あまり体調が良くないのかもしれない。シュバリスはクラブが終わると、急いで門番小屋にむかった。
パトリックといっしょに作った、以前ハダルが大好きだといっていたお菓子を持参したが、門番小屋のドアをあけ、玄関と続きになっている居間でソファに寝そべるハダルの姿を見つけたとき、シュバリスは息を呑んだ。
「ハダル」
「シュバリス……?」
うたた寝でもしていたのか、とろんとした目でシュバリスを見、嬉しそうに微笑んだハダルは、およそ一週間前に会ったときよりさらにげっそりと頬がこけて面やつれしていた。余分な脂肪を失ったばかりか筋肉まで削げ落ちている。もとの彼を知っているぶんいっそう「すごく、痩せた」という印象をうけた。これでは巣球部など危なくて行かせられない。
「具合がわるいの?」
「んーー大丈夫、講義には出たよ。ただクラブを止められてるだけ。いろいろ薬も飲んでて、副作用で眩暈がするしね。それ以外はいたって健康だけど」
「そうなの……?」
「そうだよ。見た目ほど不健康じゃない、ちゃんと生活できてるもの。ねえシュバリス、こっち来て座って」
示されたのは隣ではなく、起き上がった彼の膝のあいだだった。アイドクレーズは眉を跳ね上げたが、シュバリスは乞われたとおりハダルに背をすっぽり覆われるかたちで足の間におさまった。ハダルはシュバリスの頭に鼻先を埋め、動物のように頬をこすりつけて呟いた。
「あー落ち着く。やっぱり君のそばがいちばんだ。すごーくたくさんのお医者さんと魔法使いがずーっとぼくに魔法をかけてくれてたけど、君といっしょにいるほうがよほど体がラク」
「そうなの?」
「そうだよ。君が来てくれる日は、だからすごく調子がよかった。君の魔法がいちばん効いた。いやもうこうしてるだけで天国天国。ずっとこうしてたい」
見上げると、シュバリスをのぞきこんでハダルはふわりと微笑んだ。伸びた前髪が影をおとし、目の下にできた隈をいっそう濃くした。前に会ったときも感じたが、なんだかこの子はすごく儚げになった、とシュバリスは息を呑んだ。彼はぼそりと云った。
「むかしぼく、誘拐されたでしょ……えっと、これ云ったっけ。シュバリスはだれかに聞いた?」
「ええ。聞いたわ」
「その犯人がずーっとぼくの魔力を奪ってるんだって。それで最近、また犯人がぼくの魔力をもっともっと奪いだしたんだって。だから急に調子がわるくなっちゃったの。困っちゃうよね」
「そうねーー」
それはシュバリスたちが抵抗したせいだろうか。だから犯人はハダルからさらに魔力を奪って補おうとしているのか。
「ただでさえ授業が頭に入ってこないのに、このうえ病気で欠席が増えたら今年はいよいよ留年しちゃうかも。そうなったら父上と母上ががっかりするだろうな。ナジにも申し訳ないや……ナジに会いたいなあ、あいついまどこにいるんだろう。あいつのかけてくれる魔法もすごく効いたのに。ほかのみんなやユアンの魔法だって効くしすごくありがたいけど、ぜんぜん知らないひとに魔法をかけられるのってぼくはなんだかいつも背中がぞーってするんだよ」
「そう……」
「こんなに帰ってきてくれないなんて、ナジはやっぱりぼくが嫌いになったのかな」
ハダルはせつなそうに眉間にしわをよせた。どのくらい事態を理解しているのだろう、とシュバリスはハダルのオーラを探り、おそらくあまりよくわかっていないのだとわかって胸が苦しくなった。ハダルはいま、外界の情報を感じ取って不安に怯える赤ん坊だ。感じ取ることはできても知覚はしていない。
「そういえばもうじき王宮でなにかの集まりがあってぼくも出席するんだけど、シュバリスも来てくれない?」
「んーー?」
「本がどうとか云ってた。うちの初代のなんとかがなんとかだから、なんとかかんとかで、ひとがいっぱい集まるんだって」
さっぱりわけがわからない。カミャがテーブルにお茶を置き、ハダルはシュバリスの体ごしに二つのカップをつかまえると、ひとつをシュバリスの手の中に、ひとつをじぶんの手に収めた。シュバリスの頭にお茶をひっくりかえさないよう慎重に口をつけ、しかしシュバリスを離す気はないらしくなおも両足でシュバリスの腰をはさみこみながら、じっと顔をのぞきこんで甘えるように云った。
「ね、来てよ。そしたらぼくも話の途中で寝ちゃわなくてすむし、きっと疲れちゃうだろうからシュバリスがいてくれたら嬉しいんだ。途中で抜け出してのんびりできるかもしれないし、その日はうちに泊まってけばいいし。そういえば母上が、こちらの件はシュバリスさんも関係しているそうだから呼ばれるだろうけどあなたからもお誘いしなさいねって云ってくださってね。ひょっとしたら蛇人族の皆さまにとっていろいろ助けになるかもしれない発表だからって」
「ええ。ーー?」
ハダルが何を云っていたのかは、翌日の魔法印・魔法陣の授業のあとわかった。シュバリスは、さまざまな印陣の図章をおさめたファイルや関連する学術書の棚にかこまれた教官室で、授業のあとちょっと来てくれ、と云ったユアンと向かい合っていた。
「これを君に」
差し出されたのはクリーム色の封筒だった。[[rb:赭 > ソホ]]色の封蝋の上に印璽が捺されている。盾の上にSという飾り文字が描かれているのは学院の紋章と同じ。だが、盾の内側に茎と葉のついた花が一輪と、RCという文字が刻んであって、微妙に学院章とちがった。
「実は[[rb:原本 > オリジナル]]の変化についての中間報告が、研究所から皇帝陛下に奏上された。陛下もいたく興味をもたれ、じっさいに原本を見てたしかめたいとおおせになった。そこで原本を王宮にお持ちして、現れた変化をご覧になっていただき、ついでに王族の皆さまがたにも研究所から直接ことの次第を申し上げる、いわゆる発表会のようなことをやることになった」
「はあ」
「原本についての中間発表といったところだ。セレスタインの分家やそれに連なる貴族が出席する。身内のパーティーと思ってもらって結構だ」
「パーティー、ですか」
ということは、これはその招待状か。シュバリスが封筒をためすがめつしていると、ユアンはうなずき、
「そうだ。その発表が済んだら、研究所も正式に原本の変化について公表する。君は原本の文面が変化するきっかけとなった人物だ。ぜひ直接話を聞かせてほしいということだ」
「えっ。そのーー聞かせてほしい、とおっしゃっているのは、そのーー」
「皇帝陛下だ」
ユアンは穏やかに微笑んだが、シュバリスは戸惑いを隠せなかった。現皇帝ラーゼス・シンビジウム・セレスタイン。夏休みに王宮にハダルを訪ねたとき、母ヴァナディスとは何度か顔を合わせ、ハダルをまじえて歓談したものの、ラーゼスとは一度も会ったことがなかった。「実家に戻ってから父上にいっぱい会えるようになって嬉しいんだ」とハダルは無邪気に話してくれたがーーユアンは「そう身構えなくてもだいじょうぶ、陛下は気さくなかただしここの卒業生だから君の先輩でもある。服装は制服で構わないから」とあくまで楽しげだった。
「陛下も必ず、原本に収められた詩が捧げられたのはドーリスではなくシュバリスだと断言してくださるよ。そうなれば、蛇神シュバリスが娼婦だと云っている分家連中も蛇人を下に見ている連中にも一泡吹かせられる。世界が変わるのをこの目で見られるなんて、ひじょうに楽しみじゃないか?」
「はあ……」
背後ではテディが印陣の専門書を片付けていたが、彼もシュバリスにも励ますように視線を送ってくれていた。シュバリスは背後のアイドクレーズと顔を見合わせ「そういうことなら」とうなずいた。
「出席させていただきますわ、教官」
「そうか。よかった」
ユアンがいれば、シュバリスが魔法をつかって文面を変えたのではと嫌疑をかけられることはなさそうだ。ユアンもシュバリスの不安を読み取ったのか「もちろん君の仕業じゃないことをふまえたうえでの発表だからね」と立ち上がり、次の授業で使うのだろう、分厚いファイルを手に取った。
「アイドクレーズといっしょにおいで。わたしもギネヴィアを連れていくよ。彼女がいれば他の口さがない連中から君たちを守ってくれるし、話し相手にもなる。あの直後に原本に触れた数少ないひとりだし、彼女にもいい気分転換になるだろう」
「ドットールとは随分会っておりませんが、お元気ですか?」
「いや」
ユアンは困ったように笑って頭を振った。
「どうもここ最近は体調を崩しているらしい。仕事のしすぎがたたってるんだ。じぶんの担当だけじゃなくほかの研究にも首をつっこんでいろいろやっているからね。そのせいかこの夏は捕まらずじまいだったーーまあ、夏休みに七年が職場体験(インターンシップ)で大勢行ったから、担当を外したとはいえそれなりに世話を焼いて疲れたんだろうね。さて、次の授業がはじまる。わたしもこんどは上級生をお相手しなければ」
体調を崩しているのは、シュバリスとアルジュナの命を奪うのに失敗して心理的に追い込まれているからだろうか、とシュバリスたちはいぶかしんだ。それとも体調不良を理由にユアンを遠ざけ、彼を皇帝にすべく次の計画を練っているのだろうか?
夜、シュバリスは、この時期最後だといって特売されていたラズベリーとブラックベリーをジャムに煮詰めながら、アリアナに招待状を見せた。アリアナは、あの詩がドーリスではなく蛇神シュバリスに捧げられたものだとついに発表されるときいて興奮していたが、そのあと心配そうに切り出した。
「でも、制服でいいっていわれたって、きっとほかのひとたちは盛装してくるのよね。というか皇帝家のお身内がくるってことは、お隣も?」
お隣、というのでアリアナはアルアレコンビの部屋の方角を指した。空っぽになっていた隣室は、今夜ようやくあるじを迎えているはずだった。シュバリスは声を低めて「わかんないけどたぶん」と曖昧に首をかしげた。
「ユーレアイトも御双家だし、教官がいらっしゃるならアルジュナもいるのじゃないかしら。日程は平日だし、時刻はずいぶん遅いし、お母さまが心配して外に出さないかもしれないけど」
「でも、そういう場ならかえって安全だと踏んで出席するかもよ。彼のことだからきっと蛇神シュバリスは娼婦だとかあなたが原本に魔法をかけたんだとか云い出して嫌がらせしてくるかもしれない。ねえシュバリス、それ、制服じゃなくてちゃんとした格好でいったほうがいいわよ。もしアルジュナが来るんだったらきっと制服ではいかないだろうし、せめて服だけでも用意したほうがいい」
「かしらねえ……」
角度によって七色の光沢を帯びてみえる淡い灰色の制服は、ふだんの授業用にくわえ礼装用に作業用などバリエーション豊富で、入学時にそれら一式をセットで購入するのがふつうだ。シュバリスも黒魔晶を嵌めこんだ肩章、飾り紐、フリンジなどがついた礼装用の、男女同型の制服をふだんの制服とは別にもっている。それでじゅうぶんだと思えたが、しかしアリアナは「ほかの貴族もいるのよね」と難しい顔だった。「皇帝陛下が主催でご列席する、と。公式の競技会や討論会にいらっしゃるならそれでも失礼ではないだろうけど」ーーそれでシュバリスもことの大きさに気づいた。だが、王宮で開かれる会にふさわしい服装などさっぱりだ。アリアナもこれにはお手上げだった。ただ、黙ってふたりの脇で話を聞いていたアイドクレーズが、その五日後の夜、大荷物を抱えて帰ってきた。
「なにこれ?」
居間に広げられた衣装に目を丸くするシュバリスに、アイドクレーズは自慢げに云った。
「[[rb:蝶袖服 > キーノ]]ですよ。カミャにいろいろ聞いて、一式あつらえてみました」
「えっーーま、待って。こんなのどこで?」
「蝶袖」と名称されているとおり、アイドクレーズが包み紙から取り出して見せたのは、ふんわりとした袖が優雅に軽やかにひるがえる目にも綾な衣装だった。身頃も袖も淡い水色と桃色のグラデーションで、やわらかなシフォンの帯や飾りのリボンも、首もとからのぞかせる[[rb:掛衿 > かけえり]]も、細部にいたるまで繊細で美しい。そしておそらく流行の最先端だ。
だが、ヤハンの伝統衣装であるキーノをあつかう店はセレス市にはない。どうやって、とシュバリスがふたたび問うと、
「セレス市には王族貴族議員の子弟がごろごろいるので、彼らが冠婚葬祭ほか式典に出席するとき駆け込むお店があるんですよ。だからその店に頼んで、子ども用の蝶袖服をシーナ経由で取り寄せてもらいました。慣れない場所に行くんだから蝶袖のほうがあなたは楽かと思って。お気に召しませんか?」
「いやいやいや、お気に召さないなんてとんでもない。すごく素敵、素敵すぎてびっくりしてるの。でもあの、聞いてもいい? これ、すっごく高価そうだけど」
「そのへんはぬかりありません」
アイドクレーズはにやりと笑った。
「セレス市でなら特待生特権が効くんです。学用品はぜんぶタダ、だからこれも学用品の一部として落としました。お店のひともあなたのことを知っていたので、細部の詰めを突貫工事で仕上げてくれました」
「えっ。あーーあなたってほんとうに」
「有能な従者でしょ。お供するんで、いちおうわたしのぶんも準備させていただきました。わたしは[[rb:筒袖服 > クラーズ]]ですが、こちらもあなたの学用品としてねじ込んだんでどうぞご心配なく」
アイドクレーズの目に映る並々ならぬ決意と意気込みに、シュバリスもはっとした。もしもアルジュナが出席するなら、シュバリスとアルジュナ、敵にとっては標的であるふたりが同じ場所に揃うことになる。王宮ではまさか襲って来はしまいが、行き帰りの道なら? 発表会は平日に行われるから、もしアルジュナが出席するなら、シュバリスとアルジュナはともに寮へと戻ることになるのだ。
犯人にとって千載一遇のチャンスだ。
「ま、そうでなくてもいい気分転換にもなるかもしれませんし?」
アイドクレーズが笑い、なるほどねえ、とシュバリスはため息をついた。
そして秋も本番となったある夜、主従はとうとう、暮れなずむ帝都ミクラガードの中枢に建つ王宮へとむかった。現王宮は「[[rb:星削宮 > セイショウキュウ]]」と呼ばれる、[[rb:鋼 > ハガネ]]と[[rb:硝子 > ガラス]]の城である。シュバリスがふだんハダルを訪れるのもそこだ。だが、今回シュバリスが案内されたのは、王宮の敷地内に建つ別の離宮だった。
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