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光なき途 09

  数多の重く厚い本に囲まれ、しんと情報の失せる部屋の中。きっとこの部屋や家を抜ければ日常が渦巻き、接触と別離を繰り返して結果均される。夏休みは時間と日付の感覚が薄れ、いつ寝起きしても誰にも咎められないでいるとなると社会性が削られる、日が沈む頃に起きて日の昇る頃には眠る。

  疲れたから、気分が優れないからと自分のベースでベッドに突っ伏していると時の感覚も消退した。

  何か鳴ってる。音の出所は本の塚によって反射し減衰されて紛れているが寝転がっているベッドの付近、碧いシミが残るシーツを踏みつけて立ち上がる。ふらり揺れる視界と体は筋力が落ちたサイン、壁に手を当て落ち着くまでじっと待つ。さっきの音は何処から、再び鳴ったビープ音が着信音だって結びつき枕の下を探ると這い出てくるスマホ。

  表示されているのは「寝虎?なぜだろ」ずっと声を出さずに過ごしたからか、いつになく低くしゃがれた声に驚く。咳払いしてガラス面をタップした。

  「もしもし」

  『やっと出た!夏だし、プール行こうって言ったじゃん』

  そんなこと言ってたっけ、いやなんでも疑うのは良くないし寝虎が言い出している事だし回り回って“男子高校生”の手がかりを得ることが出来るかもしれない

  「あ、あぁそんなこともあったな」

  『もしかして今起きた?』

  暗い部屋の中耳がピンと立つ。

  『やっぱりなープールで待ち合わせって言っていたけど最後に言ったの終業式の時だったし、忘れているよな……俺の誕生日と同じように』

  蛍光灯を点けて露わになった自室。カレンダーと机に放置された腕時計を改め。

  「ごめん、寝虎の誕生日も今日のプールも忘れてた」

  『誕生日は鷲己も忘れていたみたいだけど。当日いつ祝われるかずっと待っていたのにな、俺泣いちゃうぞ』

  愁いを帯びた寝虎の声、後ろから聞こえる蝉の声に体感温度はみるみる上がって行く。

  「今から支度して向かうから待ってもらっていいかな」

  その時、チャイムの音が鳴り。「もしかして」長い廊下を早足に玄関を開けると。

  「いつまでも来ないから迎えに来たぞ。テキトーにジュース飲んで待ってるから準備して来いよ」

  夏特有の強い日差しを背後に現れた腐れ縁の二人、手に握ったガラス面をタップし通話を切ると十一時の電池の残量は十二%。スマホなんて滅多に用がないから充電もしなければ。

  「うん。それと寝虎、お誕生日おめでとう」

  「何から何まで遅すぎるけど、ありがとう」

  その後に続く言葉を探し佇む。

  「準備するんだろ、こんな暑い中来たんだから上がらせてもらう」

  寝虎の後ろから玄関の扉を「お邪魔します」と声を掛けて靴を揃えキッチンへ向かう鷲己にポカンと口を開ける僕と寝虎。先に動いたのは寝虎で。

  「ほら、早く準備しろよ。夏休みだから時間感覚無くなるのは俺も実感済みだけどさ」

  そう肩を叩かれ、逆転した立場に取り残された僕は水着や財布などを取りに奥へ向かった。

  いつから着続けていたか分からない服を洗濯機に放り込み、博物館のミュージアムショップで買った白地のTシャツにサックスブルーの薄手襟付きシャツを羽織る。カーキの洗いざらしたチノパンツなら機能性に問題は無いだろう。水の染み出ないバッグに水着など必要なものを入れ、最後に帽子を被って二人の待つキッチンに声掛けに行く。

  「お待たせ、じゃあ行こうか。近くの市民プールで合ってるよね」

  「寝てない寝てない、そうだぞ」

  鷲己に視線を向けると頷いて、ダイニングテーブルにはうっすらよだれが残る。帰ってから片付ければいいや、二人が外に出て鍵を閉めたら歩き出す。

  家から離れてすぐ襲い掛かる日光はやはり苦手だ。夏休みに入ると夜行性が顔を覗かせるのも恨めしい日光が長く残るその季節は気温が高く怠い、クーラーとカーテンのある家の中に籠もっているに限る。夏毛に生え換わっても毛足の長い狼の被毛だと、高温多湿の下で蒸されて活動時間限界が短くなるのだから無理も無い。

  こんな季節をよく涼しい顔して活動できるな、無駄話している前の二人を見ても思える事だけど。服に活動時間を延ばすヒントが隠されているのかなんてね。鷲己はミントグリーンのポロシャツにデニムパンツ、尻尾穴の問題で大衆向けの一回り居大きなサイズを買っては自分で穴を拡げてるって言ってたかな。寝虎はいつもの赤Tシャツと黒い短パン、こだわりが無いというか虎だから縞模様を見せるのがおしゃれだとか言っていたけど真偽は寝虎以外に虎の友人が居ないからわかりかねる。どちらにせよ日光が防げ無さそうで光を極力浴びたくない僕の参考にはならないなと帽子を深く被りなおす。

  日光は照度が大きすぎて他の光を消し去ってしまう、どうか僕が外出する間くらいは雲に陰って欲しい。

  「これよりプール会を開催する!家に居ても暑いだけだしみんなで思い出作りたいじゃん」

  「高校生になってプールに出かけるって必要性を感じないんだけれど、大体盛夏に来ても水が熱されて涼むどころじゃないだろうに」

  ずらり並ぶ自転車に石畳。近づいてみて表面を観察し火成岩か、なんて癖で判別してしまう。

  「私も宿題終わらせて以降は二学期に向けた予習が待っているのだが」

  寝虎に背を向け言っている割には碧い羽角が細かく動いている。ビクッと跳ねた寝虎は尻尾をピンと立たせて猫背に僕の顔を仰ぎ見る。

  「おいおい夏といったらプールだろ」

  「その理由は」

  短く、鋭く返す。

  「……海に行くには懐が寒いからです」

  「素直でよろしい」

  「そうかそうか、寝虎は仕方ない奴だな。私も一肌脱ごうか」

  得意気に言う鷲己を先頭にチケットを買って入場する寸前。

  「水着に着替えるんだから一肌以上は脱ぐよね」などという発言は寝虎に肩をポンと叩かれて終わりになった。

  鼻を突く塩素の臭い、刺激臭とよく言われるそれは毒ガスとして初めて使用された気体だから不快感を覚えるのは生物的には正しいのかな。消毒に使われるくらいのごく薄い濃度だから問題はないが。高い天井にぽつぽつと開く換気扇はカラカラと乾いた音を立てながら回るスポットライト。昼行燈もいいところのぼんやりした白熱灯も釣り下がり、地面はわずかに傾斜を設けたコンクリートにすのこが敷かれている。そんなロッカールーム。

  「着替えるだけだしどこでもいいよね」

  挙動不審な寝虎に聞く、鷲己も寝虎の様子に目を光らせている。

  「ソウダナ、俺は、テキトーなところでいいと思うぞ」

  「他人の目が気になるならこの柱の陰とか__ロッカーが空いてないか、久しぶりにきたけどやっぱおっきいね」

  高校生になり目上の相手に関わる機会が増えてだいぶ堅苦しい言葉を遣うようになったけど、鷲己は不意に子供っぽい言葉を遣う。これも個性なのか。

  「俺は少し離れたところでもいいから、二人は丁度そこに二つ並んでるロッカーを使えばいいんじゃないか」

  「そう言うなら」

  寝虎一人で行動すると碌な事にならないんだけど。やれやれと上のシャツを脱ぎバッグからパーカー型のラッシュガードを羽織る、ズボンに手を掛けて横を見ると白と茶色の数ヶ月前の記憶が重なる。

  碧く染まった羽角に無警戒な蒼い眼とふさふさの白い羽毛、起伏の乏しい暗い茶色の幼児体系にへそと鼠径部その下には叢が__水着に隠されている。

  「どうした」

  「いや、もしかして家で水着を履いてきた」

  「至って普通じゃないか?」

  連れなさそうな態度をしながら楽しみにしていたんだな。ただ家から水着を履いているのはあまりに幼い気がする、学校指定の水着なのもらしい。

  ズボンをパンツごと降ろして僕も学校指定の水着を履く。

  「そういえば寝虎は」

  離れた柱の陰、腰の高さでロッカーの扉を開いたままモタモタと短パンを脱いでいる。Tシャツを尻尾の根元まで垂らし試行錯誤している様子は滑稽で、何を気にしているのか気にもなる。

  「おとーさん、あのおにぃちゃんのち__」

  「人にはそれぞれ悩みがあるんだ。早く泳ぎに行こうか」

  「でも僕よりちっちゃ__」

  「いいから!」

  通り過ぎて行ったレトリバーの親子、真っ赤になった寝虎。深緑のトランクスタイプの水着をどうにか履きTシャツを脱いで露わになった上半身は縞模様と真白な毛皮越しにも隆起が見られ、生育が進んでいるとこうなるんだなと一人思う。忘れ物をロッカーからポケットに移しロッカールームを出た。

  相変わらずの日差しに眉をひそめラッシュガードのフードを被る。

  「着替えたはいいけれど僕たち泳げないよ」

  「そうだっけ」

  学校水泳は水難事故を予防する名目で実施されているって知らないのか、泳げないなら水に入らないという選択肢に繋がるだろうに。

  準備運動している鷲己を横目に目前のプールに……足のつく深さだ。ポケットのブツを取り出しピンを抜いて入り水を吸い上げる。

  「何してんの」

  「パックテストを用いた採水試験、塩素濃度など簡易に試験できる優れものだ」

  ビニール製のチューブが桃色に色づく、遊泳基準を満たした濃度に__可能であれば濁色度も試験したいが計測器を持ってきていないし併せて持ってきた水素イオン濃度用に水を吸わせようとした時。

  「いやいやきっと専門の職員さんが測定しているだろ、目立つし気にせず楽しもうぜ」

  ザブンと音立て近寄ってきた影が日を遮り肩に手を置く。振り返り逆光で表情の読み取りにくくなった寝虎はそのまま佇み、きっと僕の返答を待っているのだろう。

  「それも……そうだな、僕の悪い癖だ」

  半身以上浸かった生ぬるい水は大気より強く巻き付きプールサイドに上がろうとすると尻尾を掴んで引き戻そうとする。それでいて水しぶきが消えた途端、凪いだ水面は模様を変えてキラキラと瞬いて見せる。

  綺麗な華には棘があるなんて言うけれど身近でいてこれほどに恐ろしくもあるものが他にあるだろうか。DHMOなんて言っても彼らには通じないジョークだろう。

  「ほら、いつまでも突っ立っていないでここまで来たんだから泳げなくとも寝虎が満足するまで涼もう」

  頷き、ペタペタと音立てて歩く無毛の趾が残す足跡を肉球で踏みしめる。素焼きの地面は熱されてすぐ空に呑まれるだろうが、念入りに。

  「そういえばプールに来たのっていつ振りだっけ」

  「私は誘われた覚えは無いな。一狼が自ら行くなんて考えられないから小学生の頃じゃないか」

  そう碧い羽角をなびかせる。高く立ち昇る入道雲と幾重にも塗り重ねられたかのような蒼い空、[[rb:閾 > しきい]]を見破れないグラデーションが遠く続く。

  「ほら、寝虎のやつあんな所に居る」

  茶褐色の指で指す先にはウォータースライダー、そうかあいつ高いところ好きだもんな。

  「面白そうだけど僕は遠慮しておこうかな」

  「なんで」

  滑り落ちる寝虎は水の流れに乗り、終着地点の水面に叩きつけられ潜り込む。盛大に水飛沫を巻き上げ、透けた粒は中空で交わりススキやキノコ様に纏まり陽を吸って白く輝く。ざぁと[[rb:驟雨 > しゅうう]]が水面を叩き、水底から浮き上がってきたのは尻尾の根元を押さえた寝虎。

  「しっぽ、いたい」

  「こういうことさ」

  間近で見守っていた僕らをも巻き込んだ水飛沫が残した虹は寝虎がプールから上がる頃には消えていた。

  時が経ち、幾分照度が小さく暖色に空が染まれば自然と人波が引いてゆく。

  「あぢ~」

  「食べるか鳴くかどっちかにしたらどうだ」

  売店で抹茶ソフトクリームを受け取って、パラソル付きのテーブルへ近づくと遊び疲れたのか寝虎がテーブルに顔を押し付けている。

  「日光を甘く見るからそうなるんだ」

  「そういう一狼は日光を浴びなさすぎだがな」

  黄色い嘴がバニラソフトクリームの頂点を咥え取り、思いの他冷たかったのかパクパクと開閉する。テーブルに置かれた赤い蜜の掛かったかき氷をスプーンで掬いネコ科の薄く柔らかな耳を捲りそっと一欠片転がしてやる。

  「冷たい!にゃ、にゃたまがキーンとする」

  「食べても無いのに?」

  「あーもう、食べるよ。それとさっきから気になってたんだけど鷲己、その羽角はイメチェン?」

  さっきとは違う意味で嘴をパクパクと開閉する。僕の顔を見て火に油を注いでしまったようで顔は紅潮し開閉の頻度も大きくなる。

  「それは、ふ、ふふ不慮の事故というもので。染まって、そのぅ。落ちなくなったんだ」

  「ふーん」

  「別に、誰かのせいだとか確認作業とかそういうわけでは」

  「似合ってるじゃん」

  そうかと呟きソフトクリームに嘴を差したまま固まる。シャクシャクとかき氷を削っては噛みしめる音が響く。

  「それはそうと寝虎。八月上旬ももう終わりだけど宿題終わった?」

  「遊びの場でその話題は禁止です」

  「だと思った」

  手中のソフトクリームを舐め取って、ぼんやり眺める一番星。

  「夜型の僕を今日付き合わせたんだから今度は僕に付き合ってよ」

  暗い碧の目の先、未だ朱い宙の奥。縫い付けられた煌めきがそのうちに。

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