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兄さんは優秀な人だった。風紀委員としても凜々しく模範生だと言われ続けてきたのは母からも聞いていた。『自慢の息子』だとか製品として扱われる兄さんを眩しく感じていたけれど高校生になって同じ途を目指すと途方も無い努力がいると言うことに気づいた。
私は愚かで無謀だ、あの二人と出会った当時はこんなに悩まなくて済んでいたのにいつからこうなってしまったのか。矯正せずとも更生は出来る、そう実践してきた兄さんの言葉通り私も平穏な学校生活を送れるように務めてきたつもりだ。
大柄なバーニーズに尻餅をつかせ迫る氷蜴委員長に。
「待ってください」
ゆらり。鷹揚に身をこちらへ向けて応える。
「蒼空もまたなぜこんな時間に居る。」
「遊んでいたのではありません、施錠の確認と部活外の生徒が居残っていないか見回っていたのです。そういう委員長は何をなさっていたのですか」
言い訳を考える暇もない剣幕にまっすぐ、大理石の柱が如く地面に立つ氷蜴委員長を見上げて言い放つ。
「風紀を護るための事だ、逃がしたか」
視界の広いであろう年輪状に皺の刻まれた眼で走り去るバーニーズへ一瞥くれると、直ぐにこちらへ向き直る。鈍く光る金鑢を手に携えて。
「その鑢は」
「風紀を護るための物だ、後は私が見回りをするから貴君は帰れ」
そう言い残して校舎の中へ入り込んでいった。
独り取り残され、左腕に通した腕章を眺め。
「風紀を護るってなんだろう」
鷲也兄さんの言っていたものと大分違う気がする。氷蜴委員長に聞けば分かると思っていたのに。
「自他の個性を理解して誇示せずにいれば誰も傷つかずに居られる、それがこの学校に兄さんが敷いた風紀なのにこの有様は一体」
生まれつき種族毎に与えられた個性、鳥類に与えられたそれは退化し飾りとなった翼と軽く脆い体。大多数を占める二大種族のイヌ科は協調性に優れネコ科は感性に優れている。だったかな、一狼に貰った本から読み取れたことなんてそんなものだったような気がする。
「鋭い爪や牙もまた個性、自ら控えていればいいだけなのに。氷蜴委員長のあれは手当たり次第に削っているのか」
ぐちゃぐちゃに乱れた羽角から制服と撫で付けながら家路を歩く。男らしくも無いし私らしくないも無い、家を空けがちでも規律を重んじる父に矯められ男らしくあるべく決められたままに動き事実を見極めてきたのに。思えば悪害を為すものは兄さんが遠ざけてきてくれたからこう悩まずに生きてこれたのか。
「私に出来ること、探さなければ」
玄関を潜り大学進学に伴って家を出た兄さんの部屋を横切り、自室の扉を開けて机に向かう。通学鞄に入っていた雑記帳に今日の委員活動を書き込んでふと本棚に並ぶ本が目に留まる。
教科書の横、寝虎と一狼から誕生日に貰ったマグカップの傍に置かれた例の『生物』の本。無骨な表紙をめくればいつかの海に辿り着く。が、単語だけはなんとなくわかるそんな感覚。
「私よりもこの分野に優れているのは」
やっぱり明日謝りに行かなければ”正しくない”な。
***
放課後。HRを終えて日直業務を完璧に終わらせ鼻を鳴らすと、ギシギシと音立てる旧校舎の廊下を歩いて科学部室の前に立っていた。
盛り上がった被毛の下でもざわつく胸の奥、どんな状況であれ引き戸を押しやって話さなければならないのに勇気が無くてためらう。
声が漏れるほどに大きな声で話しているようで、中の様子を探るべく扉に頭を寄せる。
「やり過ぎだったんじゃないか」
寝虎が起きてるなんて珍しい、雪でも降るんじゃないか。
「頭の固いあいつのことだし、一度砕いてやらなければ解決しないだろ」
「お前も大概だけどな」
「まったく手のかかるやつだ」
ため息が一つ、きっとこの間はやれやれと首を振っているに違いない。言うに事欠いてマイペースな一狼のくせに私に向かって手のかかるとは。
「そう言って結構楽しんでいただろ」
「弁解も和解もそのうちあっちからやってくるだろうし」
わざとらしく末尾の韻を持ち上げて……これは私に気付いて煽ったわけだな。
「ほらきた」
扉を開けた先にはいたずらっ子の表情をした腐れ縁の二人、ほんと成長していない。もちろん私も言えた事じゃないけれど。
「私とした事が、つい感情のままに叫んでしまった。申し訳ない」
「それは、君の常識を汲み取らずに僕も言い過ぎた。ごめん」
暗い碧の瞳は初めて会ったあの時から冷静に冷徹に、そして正確に私を映していたのだろう。近寄りがたかったのに今ではきっと受け止めてくれるだろうと信じていられる。
「はいはい、どうやら俺のおかげで仲直りできたみたいだし__」
「「寝虎は寝ていただけだろ」」
声が重なりポカンと顎を降ろした寝虎を見てくつくつと笑う狼に、釣られて嘴を押さえていると視界が急に床面を捉え次の瞬間には浮遊感と窓から見える蒼い空。ご先祖はこんな空に包まれていたのかと羨ましく思う。
「鷲己はちっちゃくて軽いからな」
「離せ!」
太い縞模様の腕が私の腰を掴み中空へ持ちあげられている、普段寝てばかりいて授業中のノートすら私に頼り切りなのによく持ち上げられるものだ。感心している場合じゃなく。抗議し腕をバタバタと振り回しても高度は変わらない。諦めて身を委ねるとそっと床に足が着くように降ろしてくれた。
「そうそう、この高さが丁度いいんだよ」
「調子に乗って一狼までマズルを乗っけるな」
重い、背が縮むと続けて抗議する。折角の羽角が台無しじゃないか、私にこうじゃれついて来るのも高校入学して初めてかも。
「なんだって抱え込んで独りでやりきることが男らしいわけじゃ無いんだからな」
頭のすぐ後ろ、唸り声と共に押し出したその言葉は父や兄からは学べなかった何かが含まれている。改めて左手で鼻先を掴み持ち上げて奥の椅子に腰かけようとすると寝虎が既に座っていて。また持ち上げられ膝上に座らせられるとゴロゴロと喉を鳴らし首の後ろを頬に擦り付けてくる。ネコ科特有の柔らかな被毛に倫理観が麻痺する。
「ふかふか抱き枕、鞄とは違うなー」
「そ、そりゃ毎日手入れしているからな」
この状況は楽しくないが、褒められるのは悪くない。
「そろそろ本題に入りたいから鷲己返してもらうよ」
言葉と同時に縞模様の腕が引っ込んで解放され漂う薬品臭。
「寝虎の尻尾は引っ張ると腕を放すからな、非常脱出レバーみたいな物だ」
まぁ、鷲己は知っているだろうけどと付け足す。
「いつから俺の体にそんな物が仕込まれて」
「僕の知っている限り寝虎の体にはあと十二個ほど機構が仕込まれている。玲音さんならもっと知ってるだろうな」
固まり自身の腕や足と尻尾をジロジロと改めている寝虎を横目に、尻尾がメトロノームかのように振られ得意げな一狼。ご自慢の白衣の裾もぱたぱたと舞い上がっては落ちる。
「もしかして、知らない間に授業が終わっているのもその機構ってやつに含まれて__」
「それは内緒」
それは別だろ。なんて野暮なツッコミは、人差し指を鼻先に当てて笑いを堪えている一狼の前で言うには憚れて。
スッと急にいつもの真面目な顔に戻った一狼がいつものノートと万年筆を音もなく取り出し。白紙のページを開くと未だ読めない字ですらすらと紙面を撫でる。
「噂に聞く風紀委員長の独裁政権、なるほど料理のし甲斐がありそうだ」
反撃に出よう、君に渡した本があったろ。と続けるその横顔にあの日から続いていた疑念は既に晴れていた。
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