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ゼイゼイと息を切らし、厚くもない胸を押さえても肺の灼ける痛みは治まらない。チラリと見えた一狼の書きつけた一葉、どうにか読み取れた『どこで間違えてしまったのだろうか』と大書されたその一文が胸に刺さって抜けない。羽毛ばかり膨らんで潔白とは程遠い暗い色の胸に。
「どうして、私ばかりこんなにも苦しまなければならないのか」
押しあてた手に残る異物感、内ポケットを改めて取り出した小さな蒼い石一つ、どこかつるりと瞳のようにこちらを見やる縞模様。お守りなのか未練がましくも身に着けてきたその石は、かすかな光を浴びても見通せずじっとこちらを見るばかり。太陽は既に沈んでも、月のない夜で現れる一番星は金星だっていつか言っていた気がする。
「そういえばあの頃も二人の事を分からないまま勝手に決めつけていたんだ」
***
「今日は連絡事項も特にないしまた明日」
担任がそう締めの言葉を言い終礼が終わると、すぐに廊下へ駆け出す猫に遠目には違いの分からない犬たちは群れて部活に向かうらしい。クラスメイト達は名前を覚える前に私から離れて行き、去る者を追っていくほどの勇気は無い。
三年ほど前の事、中学一年生の春は父の転勤に伴って縁もゆかりもない土地に移住した。少ないながらも居た友人と別れを告げて家族揃っての引っ越し、小学校からそのまま持ち上がってきた面子とは違って転校生ってだけで声を掛けられ期待を裏切られたと勝手に判断されたら捨てられる。そして一ヶ月経った今では独り放置される。全く面倒なものだな、私は勉強のために学校に通っているに違いないのに。
近くの席にいる本ばかり読んでいて一向に口を開こうとしない狼と所構わず寝てる虎。それに私を加えてクラスに取り残されがちな余り物とそんなことは分かっているけど。何処かでひとりぼっちな私には転機をくれるような期待を抱いていたのかもしれない。
遠い目で授業に使っていたノートに教科書類を鞄にしまい込んでいると。
「ちょっといいかな」
「はい先生」
落ち着きのある低い声、教壇を降りて声を掛けてきた鹿の目を見上げる。短く手入れされた毛並みに覆われた細いマズルと、額から空へ伸びた老松を思わせる角は冠のようにも思える。
「蒼空は友達を作らないのかい、遠くから越してきたから馴染みにくいだろうが友達は人生の宝になるぞ」
「それは、そのぅ」
好き好んで独りで居るわけで無くとも、特技もないこんな私を誰が受け入れてくれるのか。そして誰でも良いというわけでも無い。霞む語尾に項垂れた視線の先はまだ結び慣れていないよれよれのネクタイ。
「親御さんに許可を貰って部活に入るのも良いだろうし勉強だけじゃ無い学校生活のために考えてみなさい」
「……はい」
暖かく大きな手で左肩をそっと叩くと踵を返して教卓に座る。成熟した大人の男、未熟な私の憧れにいつしかなっていたそんな後ろ姿。何倍もの年月を経て熟れた言葉は正しいに違いない、撫で付けても形を保てないふわふわの羽毛に覆われた手で袖の余った真新しいブレザー越しに左肩を抱き確かめる。
「ぬわぁーん」と音の生まれた元を見ると「よく寝た」「授業中から放課後まで寝るって学校来ている意味あるのか」
部活だなんだと引き上げていく群れに取り残されていたいつもの二人、稲妻模様の虎は普段寝てばかりいるから私と同じ目の色をしているなんて知らなかった。
「ほら、帰るぞ。僕も家に帰って本が読みたいんだ」
致し方なく、そんな言葉が適している。二人分の鞄を片手に虎の腕を掴み廊下に出て行く狼は、一瞬こちらを見て何事も無かったかのように去って行った。
友達が全然居ないのは私ぐらいなものだったんだ、正反対もいいところなあの二人が一緒になって動いているのもその友達ということなんだろう。
ただ寄り道などせず歩いた先、用意された新しい家は四角く区分けされたそれ。隣の家庭が立てる音が時折聞こえる。部屋になだれ込んでも学習机とベッドだけの個性も無く空っぽで宿題を終わらせると予習する以外にすることも無い。
「図書館で読んでた難しい本、また読みたいな」
中学生であんな本読もうとするなんて私だけだろうし一目置かれるだろう。
「学校で友達はできたのかい」
食卓で兄に聞かれても勿論と心配させないように返すだけ。高校一年生に進んだ兄も私の事を構っていられるほどに余裕がある訳ではないだろうに。
「兄さんな風紀委員会に所属して不和の無い高校生活を目指して活動しているんだ」
家に引きこもりがちな私の事を想ってか何時になく饒舌な兄を見て心配を掛けたくない気持ちがこの問題の根を深くしている気もする。
「君、こんなところで会うなんて。この先には何も無いから引き返した方がいいけれど道分かる?」
翌日の放課後、少し寄り道して本を買いに出たつもりが道に迷ったみたいで例の狼に声を掛けられた。虎も一緒に居るのは偶然では無いだろうな。
「でも、そういう貴方はこの先へ行こうとしているのだろう」
虚を突かれたのかじっと顔を見つめてきたかと思えば鼻先を押さえ牙を露わに笑う。
「何がおかしい」
「いやなに、おおよその学生には価値のないだろう図書館と僕の家があるだけだからさ」
教室内ではくすんだ青灰色の被毛は青み掛かった銀灰色に様変わりし、癖の強そうな頬の毛は風に揺られている。
「君は僕の仮説通り他のクラスメイトとは少し違うみたいだね、気に入った。それでどんな用事でこんな辺鄙な場所まで来ていたんだい」
「前居た町の図書館で読んだことのある本だけれど、また読みたくなって図書館まで探しに来たんだ。タイトルとISBNがこれで」
見るからに変わり者で近寄りがたかったのにこちらに越して初めて言われた“気に入った”という言葉に、この子をもっと知りたいと未だ輪郭の朧な羽角がかすかに動いた。猫背気味だけど少し背の高い二人に見えるよう胸ポケットからメモ帳を開いて見せる。
「その本なら僕の家に間違って買った分があるから上げるけど」
「そんなクラスメイトから頂くには」
「返品しに行くのは面倒臭くて売りに行くでも親を煩わせ大した値にもならない。そして僕は一冊分新たに物を置くスペースが手に入る。メリットしか無いだろう」
さも当たり前のように言葉を並べ「ま、この本に興味を持つとなると増々君を知りたくなったけどね」と付け足した。深い碧の瞳は見開かれて私を捉えて離さない。教室での印象を覆す行動に、視線を横に振り左肩を抱いて肝心な問いを投げかける。
「貴方達の名前は?」
「ああ、[[rb:碧海一狼 > へきかいいちろう]]だ。しかし名前など個体識別にしか使わないし大した意味は無いだろう」
「…[[rb:朱嶺寝虎 > あかみねねこ]]」
後ろで黙っていた虎が消え入る様に名を告げて、落ち着かないのか耳の裏を掻いている。
「碧海くんと朱嶺くんだね、私は[[rb:蒼空鷲己 > そうくうしゅうき]]」
「別に、寝虎でいい」
疑問符を浮かべながらに「じゃあ寝虎くん」と呼ぶと黙って頷いた。
「時間が惜しい、案内するから付いてきて」
左右にゆらり揺れる銀灰色の尻尾に導かれ寝虎と歩くその途は、歩幅を合わせることもあり合わせに話すことも無い。やはり余りものですぐに解散する間柄だと思っていた。
「上がってくれ、どうせ僕しか居ないんだし。多少散らかっているがお客を呼んでも見た目は大して変わらない」
「お邪魔します」
数分後着いたその家は広々とした庭付きの二階建て一軒家で隣近所からの音も聞こえない。門を開け招かれるがままに付いて行くと廊下や階段にうっすら埃が積もり途中見えた部屋のほぼ全てに本の塚が並んでいる。
「ここが僕の部屋」
扉を開けたその先は暗く、見える限り全ての壁面に本棚が取り付けられて本が詰まっている。それでも間に合わないのか床にも例の本の塚が乱雑に置かれ辛うじて机とベッドへの獣道が続いている。もちろん机の上にも本の塚にその他細々とした何かが載せられていた。
本の森か深海か、照明をつけて傍を寝虎が通り抜けると当然のようにベッドに寝転がり雑多に積まれた本の中から漫画を掴むと読みだした。
「入口で立っていないで座ったら」
いつの間にか机の前に座って本の塚を漁っている一狼に促されてちょこんと見えている床面に正座する。
きょろきょろと低くなった視点から見渡すと部屋の角に鎮座した円筒状の何かを指差して「なにこれ、バズーカー?」と聞くと「天体望遠鏡、確かに性能の良いものだけどそんなに珍しくないものだろう」と言う。「カーテンが閉め切られているのは」「本が傷むから」ずらり並ぶ本の背表紙、教科書でタイトルだけは知っている小説にまだ読めない漢字の羅列。
ハードカバーで落ちてきたら相当痛そうだなと見ている最中にふと気づいた単語を口にする。「『鉱物』と『天文』?ケースに入ってるのは石かな」
耳を俄に動かし「それと『生物』かな、ほら君の欲しがっていたのはこの本だよね」
先ほど見せたタイトルの本を手渡して「もう一度以上は読んだ本だし君も気になるこの分野は大人に聞いても答えたがらないからね」
確かにこのハードカバーの、無骨な装丁に気圧されるのも無理はない。どっしりと以前より重くなった本を開きクリーム色の海を横書きに泳ぐ魚。跳ねて生まれる泡と飛沫、読点はカンマと句点はピリオドに置き換わる。用意無しに潜れば溺れるそんな感触。
「この本を読んで内容が分かるのかい」
「”わかる”?程度によるけれど、すべてはわからないよ」
さらりと返される。
「ところでこの石は」
指差した先の、縞模様の瞳のようにも見える光の筋が通った小さな蒼い石。
「欲しかったらあげるよ、そんなに珍しい物でも無いし。それにも名前は有るけど君におあつらえ向きかもしれないね」
「ありがとう」
やっと見れた一狼の笑顔に見入ったのも束の間に。
「そういえば寝虎は」
ベッドで漫画を顔に乗せて仰向けに、いびきをかいているからいつも通り寝ている。
「いつもの事だよ」
「それにしてもよく漫画なんて置いているね」
「僕は読まないけど、木を隠すなら森の中って言うでしょ」
なるほど、漫画を隠すなら本の塚の中と。
「あいつ、いつでもどこでも寝ようとするからどうしても起こさなきゃならない時は無駄に長い尻尾を踏むか握ればいいよ」
幼馴染だし扱いは慣れてる。そんな一狼はため息吐いて立ち上がり廊下の受話器を握るとどこかに連絡を入れた。
取り留めのない話をして十分後、扉をノックされて現れたのは「…帰りが遅いからお邪魔していると思っていた」「[[rb:玲音 > れおん]]さん後はよろしく」
「お、おっきい」見上げるばかりの背、同じブレザーを着ている所から中学生だとして父親や担任よりも大きい。青い被毛に走る縞模様、虎だしお兄さんかな。
十分大きい寝虎を何てことの無いように背負って背を向け部屋から出る玲音さん。「ん?」二つ連なる赤褐色と青い縞模様の尻尾、先の毛色が藤色に映えている?おしゃれでわざとしているのかもしれないしあまり干渉しないようにしよう。
「さて、日も暮れてしまったしそろそろ君も帰りなよ」
「うん。また明日」
何処か名残惜しそうな瞳に見送られて帰ったその日を境にあの二人とは事あるごとに話すようになったんだ。
***
私は一体何をやっているんだろう、ようやく手に入れた友人を遠ざけて自分で打ち立てた理想も規則も破って。情けない、自分自身が嫌で仕方ない。ポケットに忍ばていたハンカチを熱い眼に押し当てて声を殺し呻く。
「こんな時間にこそこそと何をしているのやら」
なにやら聞き覚えのある声が、慌てて校舎の陰に隠れて周囲を見る。
「調べは付いている。貴君の処遇は私が決める」
日の暮れた夜闇でも見間違えることの無い白一色と赤い腕章。
「あれは__氷蜴風紀委員長」
一般生徒を前に仁王立ちする背に私はただ立ち尽くしていた。
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