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神の契りは解けない(6)

  温かい光が、柔らかく差し込んでいる。

  風がそっと頬を撫で、遠くで鳥のさえずりが聞こえた。

  大和は、ここがどこだかわかっていた。

  懐かしくて、愛おしい場所。

  子どもの頃、何度も訪れた小さな神社。

  そして、今はもう祀られる神様がいなくなった神社。

  気配を感じて、そっと振り返る。

  銀色の狼が、そこにいた。

  大きな体躯。ふさふさの毛並み。誇り高く、揺るがない眼差し。

  「霧生」

  名前を呼ぶと、狼の霧生は静かに近づいてくる。そのまま、大和の頬にふわりと鼻先を寄せた。

  大和は、ためらうことなくその柔らかな毛並みに手を埋める。

  指の間をすり抜ける銀色の毛は、あの頃と同じように温かい。

  「約束、守るから」

  気づけば、ぽつりと口をついて出ていた。

  狼の霧生が、じっとこちらを見つめる。

  その青灰色の瞳に吸い込まれそうになりながら、大和は静かに言葉を続けた。

  「お前の一番近くで、お前と生きていきたい」

  ふわりと尻尾が揺れる。

  霧生が喉の奥で低く鳴いた気がした。

  「もう、離れないから。ずっと一緒にいてくれ」

  狼の霧生が、ゆっくりと体を寄せてくる。温かく、大きく、大和を包み込むように。

  そのまま身を預けて、瞼を閉じる。

  心地よい温もりに包まれながら、夢の世界はゆっくりと溶けていった——。

  ————————————————————

  まどろみの中、大和はゆっくりと目を覚ました。昨夜の余韻がまだ微かに身体に残っている。布団の中はぬくもりに包まれ、隣には霧生の寝息が静かに響いていた。

  仰向けに眠る霧生の横顔を、ぼんやりとした意識のまま見つめる。銀色の睫毛がゆるく影を落とし、ゆったりとした呼吸に合わせて、胸が静かに上下している。

  「……寝てるだけ、だよな」

  わかっている。わかっているはずなのに、どうしようもなく不安になる。大和はそっと霧生の胸に耳を当てた。

  トク、トク、トク……。

  規則正しく響く心音が、大和の鼓膜を優しく揺らす。胸の奥がじんわりと温かくなる。力が抜けて、少し息を吐いた。

  「ちゃんと、生きてる……」

  思わず小さく呟いて、もう一度目を閉じる。昨夜だって確かに抱きしめて、温もりを感じたのに、それでもどこかでまだ怖がっている自分がいた。

  「バカか、俺……」

  そう苦笑して、そっと顔を離した。その時。

  「そろそろ起きたらー?」

  部屋のドアの向こうから母の声がした。

  「……っ!!」

  大和はびくりと跳ねるように身を起こし、慌てて霧生と距離を取る。動揺しすぎて心臓が爆発しそうだった。

  「……大和?」

  霧生の低く眠たげな声が部屋に響く。

  「いやっ、母さんが起きろって」

  「ん……」

  霧生は布団の中で何度か腕や首を回し、ゆっくりと伸びをしている。

  「まだ眠い……」

  「もう朝飯だぞ」

  「……大和がキスしてくれたら起きる」

  「バ……ッ!お前なぁ!」

  霧生の額をぺちっと軽く叩くと、彼は口元を少し緩め、ようやく布団から出てきた。二人で階段を降りていく。二段前を歩く霧生の銀髪が、朝の光にふわりと揺れていた。なんとなく手を伸ばし癖のついた髪に指を滑らせると、その手を取られ、軽くキスをされる。自分で先に仕掛けておいて、恥ずかしさで顔が上げられなくなった。

  洗面所で顔を洗い、ふと鏡を見る。

  「うわ……やべ」

  首元に、昨夜霧生につけられた跡がちらほらと見えている。大和は慌ててシャツの襟元を引き上げて隠す。霧生が背後から甘えるように首元に顔を埋めてくる。

  「おいコラ、どうしてくれんだよ、これ」

  「……せっかく付けたのに」

  「見せられる訳ねぇだろバカ!」

  そんなやりとりをしつつ、二人で朝食の席につく。食卓に並んでいるのは、湯気の立つ味噌汁、炊きたてのご飯、焼き魚、漬物、そして卵焼き。いつも大和が朝食に準備するものとほぼ同じだ。霧生は相変わらず卵焼きがお気に入りらしく、ぱくぱくと熱心に口に運んでいる。

  「霧生くん、卵焼き気に入った?」

  「美味い。大和の作るのと同じ味がする」

  「ふふ。大和がうちの味を大事にしてくれてるなんてね」

  「べ、別にそんなんじゃ……」

  母が嬉しそうに微笑むと、大和は思わず目を逸らした。味の好みも、料理のレパートリーも、思い返せば母の手料理から影響を受けているのは確かだ。この家でこの母に育てられたのだと、改めて実感する。

  「お前、今日は良く食うな」

  「昨夜、体力を使ったからな」

  「ぶっ……!!」

  大和は思わずむせる。

  「大和?」

  「……なんでもねぇ!」

  母が不思議そうに首を傾げるが、説明できるわけがない。大和は気にせず淡々と卵焼きを口に運んでいる霧生を横目に睨みながら、急に味のしなくなった朝食を急いで掻き込んだ。

  「急に来て悪かった。ありがと」

  「今度はゆっくりできる時にいらっしゃい。もちろん霧生くんも一緒に」

  靴を履きながら、大和が母に言うと、母はにっこりと笑ってそう返した。そして、横にいた父が霧生の方を向き、唐突に深く頭を下げる。

  「大和のことを、よろしく頼む」

  霧生は一瞬驚いたようだったが、すぐに真剣な表情になり、深く頷いた。

  「はい。大和は、俺が守ります」

  「な、何なんだよ二人とも……っ」

  大和がついていけず慌てていると、父も母も大真面目な顔で大和に向き直る。

  「私たちは、大和に生きたいように生きてもらいたい」

  「父さん……?」

  「今までお前が俺たちに遠慮していたのはわかっていた。実際のところ、お前とどう関わっていけばいいか悩んでいたのも本当だ。だが、俺も母さんも、心からお前に幸せになってほしいと思ってる。健康で、楽しく、前向きにいてくれれば、それが一番いい。霧生くんといる時の大和は、今までに見たことがないくらい楽しそうだった。これからも二人、仲良くな。また近いうちに二人で帰ってきてくれ。血が繋がってなくても、俺たちはお前の親で、ここがお前の家だから」

  「霧生くんのことも、私たちの新しい家族だと思ってるからね」

  二人の言葉に、胸がじんと痺れる。涙があふれそうで、慌てて下を向いた。

  「ありがとうございます。俺が必ず大和を幸せにします」

  「……っ!!」

  霧生の言葉に、堪えていたものが決壊した。ぽたぽたと涙が玄関の床に落ちる。これではまるで結婚の挨拶みたいじゃないかとツッコみたいのに、言葉が出てこない。口を開けば情けなくしゃくりあげてしまいそうで、ただきつく唇を噛み締めた。

  「なになに、兄貴結婚すんの?」

  「バ……ッ!」

  陸人の言葉に慌てて袖で涙を拭った。

  「結婚は今の日本では無理だから、パートナーシップになるのか」

  「霧生くんを養子縁組したらいいんじゃないの?」

  「ああ、そうか。それがいいな」

  大和抜きで勝手にどんどん話が進んでいる。そもそもそういう関係だなんて一言も言っていないのに。子の秘密など親には全てお見通しなのか。

  「どうすれば正式に伴侶になれる」

  「そうね、養子縁組って言って、霧生くんを大和の子どもってことにしちゃえば……」

  霧生まで話の輪に入ってしまった。

  「お、俺も話に入れろー!」

  あまりのことに涙も引っ込んだところで、ようやく大和が声をあげた。

  「兄貴、またなー!」

  陸人が元気よく手を振る。足元にいるコタロウも尻尾をブンブンと振ってお見送りしてくれていた。

  「おう。しっかり勉強しろよ」

  「霧生兄ちゃんも、また来てね!」

  「兄ちゃんって、お前……」

  大和が怪訝そうに言うと、陸人は無邪気に笑って言った。

  「だって霧生さん、兄貴のお嫁さんになるんでしょ?」

  「だ、誰が嫁だコラアアア!」

  「嫁はどちらかというと大和の方だ」

  「お前は黙れェエエ!!頼むから口を開くな!!」

  「兄貴の方が嫁なんだ……」

  「~~~~~ッ!じゃあな!!」

  大和は逃げるように霧生を引っ張り、家を出る。背後から母の「気を付けてね」の声が聞こえる。それに黙って片手を上げ、ひらひらと振った。

  実家を出てしばらく歩いたところで、大和はふと立ち止まる。

  「……あー、なんかこんなことになっちまって、すまん」

  「何を謝る。みんないい人だ。このあたりが温かくなった」

  霧生は自分の胸に手を当てて言った。

  「ん、そうか」

  「また来よう」

  「……まあ、そのうち」

  霧生が「大和」と呼ぶ。

  「ん?」

  振り向いた瞬間、霧生がそっと大和の額にキスを落とした。

  「バカ!外でやんな!」

  「俺の伴侶が可愛くて、つい」

  「うーーー!なんなんだよお前らぁ……!」

  両親も弟も、霧生との関係を察して、受け入れてくれた。大和の幸せを尊重してくれた。恥ずかしいのに、擽ったいのに、大和の胸もぽかぽかと温かい。

  突然霧生が大和の手を握る。驚いて振りほどこうとしたが、霧生の表情を見て、少しの間ならと抵抗を止めた。まるで宝物を見つめるような、愛おしくてたまらないという微笑みがきらきらと眩しかった。

  アパートに帰った時には、もう空は夕焼けに染まっていた。

  「ただいま」

  鍵を開けて部屋に入り、靴を脱ぎながら何気なく呟く。霧生も「ただいま」と小さく返す。実家も良かったけれど、まだ引っ越して間もないというのに、やはり霧生と二人で過ごしていたこのアパートの狭い部屋が落ち着く気がした。

  慌てて飛び出してきたからか、部屋はぐちゃぐちゃに散らかったままだ。大和がちょっと片付けないとな、と思っていた、その時。

  「……大和」

  霧生が静かに呼ぶ。振り返ると、そこにはじっとりとした視線。大和が警戒するより早く、霧生の腕が伸びてきた。

  「えっ、お、おい……!?」

  「帰ったらすぐに交尾すると言っただろう」

  霧生の青灰色の瞳がじっとりと熱を帯びている。大和の首筋に唇を寄せると、昨日つけたばかりの痕にぺろりと舌を這わせた。

  「それにしても、こんなすぐ……っ」

  霧生の荒い息が耳を擽る。熱のこもった指がシャツの裾を捲り上げ、少し汗ばんだ肌に触れた。

  「ま、待て待て!もうちょっと、こう、落ち着い……っ」

  「もう待たない」

  さらに密着し、片手が大和の腰に回る。唇も塞がれて、これはもう逃げられない。霧生にあてられて、大和の鼓動もドクドクと跳ねる。

  「やべえって、マジで……!ちょ、待……ッ」

  ピンポーン。

  間の抜けたチャイムの音が、熱のこもり始めた部屋に響いた。

  ピタリと動きを止める二人。

  「……誰だ」

  「知らねぇっつの」

  霧生の声が一段と低くなる。大和は息を整えながら霧生を押しのけると、玄関の方へ向かった。

  「霧生は出てくるなよ?いいな?」

  乱れた服を整えドアを開けると、そこにはゆるりとした笑みを浮かべた一人の男。

  「やあ、人間。昨日ぶりだね」

  「お前……っ」

  「……朱峯」

  出てくるなと言ったのに、後ろから顔を覗かせた霧生がぽつりと呟く。目の前には相変わらず着物を着崩した朱峯が立っていた。

  「……帰れ」

  「霧生ったら、つれないこと言うねぇ」

  「そんな邪険にしないでおくれよ、これでも恩人だろう」などと言いながら、無理矢理部屋へと押し入ってくる。

  「お邪魔しちゃ悪いと思って、わざわざ人間式にインターフォンを鳴らしてあげたのに」

  「充分邪魔してる」

  霧生の声が低くなる。朱峯を睨む目は噛みつきそうな獣のようだった。

  「ふふ、ごめんねぇ」

  朱峯が面白がるように大和をちらりと見た。大和は羞恥心で顔を上げられず、ただ頭を抱える。

  「はぁ……マジで勘弁してくれ」

  「まあまあ、そんなに怒らないで。霧生の体調とかを確認したら、すぐに帰るから」

  朱峯の言葉に大和がハッと顔を上げた。

  「霧生、どこか悪いのか」

  「それを確認するために来たんだよ。なにせ、神から人間になるなんて、前例がないんだから」

  「俺は何ともない」

  大和は霧生を見た。本人はそう言っているが、確かに急に人間の身体になったのだ。どこかしら不具合が出てもおかしくないのかもしれない。

  「よし、では少しお邪魔させてもらうよ。お茶か酒をくれるかい」

  朱峯はすとんと床に座って、大和にそう要求した。神とは皆こう図々しいものなのか。かつて押しかけてきた霧生の姿を思い出しながら、大和は諦めたように冷蔵庫へと向かった。

  「さて、さっそくだけど」

  出された麦茶に口をつけつつ、朱峯が切り出した。

  「霧生、人間の身体になって変わったことはあるかい」

  「……ん。少し肌に感じる感覚が違う。あとは腹が空いて飯が欲しくなるし、夜になれば睡眠したくなる」

  追い出すのはもう諦めたのだろう。霧生は淡々と朱峯に問われたことについて答えていく。

  「やはり、人間とは随分面倒なのだな。神に戻りたくならないのかい」

  「ならない」

  ぴしゃりと言い切った霧生の目には迷いも何もない。朱峯は一瞬驚いたように目を見開いた後、微かに微笑みを浮かべた。

  「霧生はあんまりに力が強いから、他の神もよく機嫌を伺いに来てたよね」

  「昔の話だ」

  「でもほら、西から来たあの子なんて、わざわざ自分の天狗に酒を造らせて君に献上してさあ。よほど嫁になりたかったんだろうなあ」

  「……あれは、相当しつこかった」

  「ふふ、モテる男は大変だねぇ」

  「知るか」

  霧生の返事はそっけないが、過去を思い出しているのかどこか懐かしさを滲ませていた。二人はまさに旧友なのだろう。大和は黙ってかつての霧生についての話に耳を澄ませる。けれど、どこか居心地が悪い。

  「覚えてるかい。昔二人で人間に紛れようとして[[rb:八雲深霧雄神 > やくもふかきりおのかみ]]様のお怒りに触れたこと」

  「覚えてる。朱峯の耳が出そうになって、無理矢理連れ戻された。あの後の修行の辛さと、お前への恨みは忘れない」

  「ごめんねぇ。でも霧生だって人の姿になるの苦手だったでしょう。随分と練習していたもんねぇ」

  「ああ。二人して苦手なのに人間に紛れようとするなんて無謀だった」

  「ふふ。懐かしい」

  朱峯が遠くを見るように目を細めた。在りし日の二人の思い出を辿るように、ゆっくりと瞬きをする。朱峯の言葉に、霧生が少し懐かしそうに目を伏せた。大和は、なぜかそれがなんとなく気に入らなかった。

  (……俺の知らねぇ霧生ばっか、だな。)

  そう思うと、なんだか落ち着かなくて、無意識に膝の上で拳を握る。当然だ。霧生と朱峯は、途方もない時間をともに過ごしてきたのだから。そんなことはわかっていても、面白くないものは面白くない。

  ぼんやりとコップを指で弄る。妙に指先が熱い。昔の話をする霧生は懐かしそうだ。朱峯も楽しそうに笑っている。なのに、俺だけが、この場に馴染めていない。

  (……こいつ、早く帰ってくんねぇかな。そしたら——)

  「あれから、二人で随分と人の姿になる練習をしたねぇ。まさか、本当に人間になってしまうとは思わなかったけれど」

  「大和と生きるって決めてから、かなり修行した。だからお前より人に化けるのが上手くなったな」

  「……ふふ」

  ぼうっと聞いていたら自分の名前が聞こえて、大和が顔を上げる。

  「あれから、俺は大和の側にいられるようにすることだけを考えて生きてきた」

  さらりと言われたその言葉が、大和の胸の奥に落ちて、静かに響く。

  「だから人間になったことも後悔していないし、神に戻りたいとも思わない」

  それが、あまりにも自然で、まっすぐな言い方だったから。さっきまでモヤモヤしていたのが嘘みたいに、胸の重さが消えていく。

  「難しい儀式をしてくれた朱峯には感謝している。ありがとう」

  ——沈黙が落ちる。

  朱峯が、そっと目を伏せた。そして、微かに笑って、ぽつりと呟く。

  「ふふ……すっかりこの人間に染まってしまって……寂しいなあ」

  まるで大切な何かを諦めたような、どこか切ない笑みだった。

  「朱峯……?」

  大和が言葉を発する前に、朱峯はゆるく笑って誤魔化す。その瞳が揺れているのが見えて、大和はハッと息を呑んだ。

  (もしかしてこいつ、霧生のこと……。)

  「朱峯お前……」

  大和が口を開きかけたその時。

  ピンポーン。

  「おや、お客さんかな」

  今日二度目の来客を知らせるインターフォンの音。口に出かけた言葉を飲み込み、大和が玄関に向かう。

  「どちら様で——」

  「おー大和いたか!バイクなかったから出かけてんのかと思った!」

  「迅先輩……!」

  大和が制止するのも間に合わず、桐島はさっさと靴を脱いで部屋に向かっていく。そして朱峯の姿を見つけ、ぽかんと口を開けた。

  「大和のツレって、こんなイケメンばっかりなのか?」

  「……ツレじゃないです」

  さっきまでの緊張感は消え失せ、大和はがっくりと肩を落とした。

  「いやーお客さん来てたとは知らなかった!酒いっぱい持ってきたから、一緒していい?」

  「いや俺まだ酒飲めねえっす」

  「おお、この人間は気が利くじゃないか。霧生もほら、大和など放っておいて一緒に飲もう」

  「……こいつ、嫌い」

  霧生が大和の隣でじとっとした目を向ける。大和は思わず苦笑したが、それより気になるのは迅が持ってきた酒の量だった。

  「てかなんで酒っすか?前に祝いもらったばっかりなのに」

  「そりゃ、お前ん家にお邪魔するんだから手土産くらい持ってくるわ。これでもジョーシキジンなんでな」

  桐島と朱峯が軽い挨拶を済ませた後、テーブルの上に置かれた酒が次々と開けられていく。朱峯だけでなく、霧生も注がれるがままに飲んでいた。大和はその様子を眺めながらげんなりと顔を曇らせる。

  (役所に行って手続きしようと思ってたのに……これは朝までコースだな……。)

  大和が諦めて、何かつまみでも作ろうかと立ち上がろうとした時。ぐいっと桐島が大和のシャツの首元を引き寄せた。

  「あー、やっぱヤッてんだ」

  「ブホッ!?!?」

  大和は思わず噎せる。

  (ヤッてるって何?!てか、やっぱりって何?!)

  混乱している大和の服の中を、桐島が覗き込む。が、一瞬で霧生が大和を抱き寄せた。二人の前で強く抱きしめられ、大和が真っ赤になって必死に身を捩る。

  「ちょっ、霧生?!何?!」

  「お前、俺の大和に何をしている」

  霧生は桐島を射抜くような眼差しで見つめていた。こめかみに青筋が浮いているのが見える。

  「いや~、前見た時からそんな感じかなーって思ってたんだけど、首のとこにチラチラチラチラ、キスマークみたいなのが見えちゃってるからさ~」

  「なッ!?だから昨日やめろって言っただろ……!」

  「なるほど、昨晩はお愉しみでしたね……?」

  「ウワアアアアア!!!」

  墓穴を掘って慌てふためく大和を、霧生が一層強く抱きしめてくる。

  「マーキングしておいて正解だった」

  「不正解だよバカ!」

  「じゃあ祝杯だな!おめでとー大和アンド霧生サン!乾杯しようぜ!」

  「ありがとう。お前いい奴だな。乾杯」

  「だから違うって!!霧生も簡単に態度変えんな!!」

  どうしてこうなってしまったのか。久しぶりに霧生とゆっくりこの部屋で過ごせると思っていたのに。これからのことを話し合って、正式に番になろうと——。

  (いやいやいや、決して抱かれたいとかではなく……!)

  「どうした大和。さっきから変な顔をして」

  「失礼なこと言ってんじゃねぇ!」

  「大和きゅんは、霧生くんといちゃいちゃできなくて拗ねてるんだよねえ?」

  「迅先輩!全然違うから!!」

  「そうだったのか大和。すまなかったな。んー」

  「ウワアアアア!顔近づけんな!」

  「いいぞ!キース!キース!」

  「やめろおおおおお!この酔っ払いどもがアアアアア!」

  「いやあ、人間ってやっぱり面白いなあ」

  「お前絶対寄ってないだろ!止めろよおおお!」

  酔いが回ってきたのだろう。終始好き勝手に話を進める三人に、大和はついに限界を迎えた。

  「もういい、もういいから、全員とりあえず落ち着け!!」

  霧生の腕から逃れるように藻掻きながら怒鳴るが、酔っ払い達が言うことを聞くはずもなく。結局、大和は抵抗を諦めた。こうなったらもう誰も止められない。

  「大和、撫でろ」

  「お前、人前でよくそんなこと強請れるな」

  「早く」

  そう言って、大和の手を取って自分の頭に押し当てる霧生。大和は仕方なく乱暴に銀髪をかき回し、ぐちゃぐちゃにしてやった。

  「痛い」

  「文句言うな」

  ぐいっとまた杯を傾けた朱峯が、そんな二人を見てゆるく微笑む。

  「霧生も、ほんに変わったねぇ。まさかこんなに甘えたになっているとは思わなかったよ」

  「……変わったか?」

  「うん。昔の霧生は孤高の存在で、話をするのなんて私ぐらいだったろう」

  「動物の神が珍しかっただけだ」

  霧生はそう言って、ぐいっと日本酒をあおる。昔の霧生を知っている朱峯に思うところがないと言えば嘘になる。だが、甘えたで優しい霧生は大和だけのものだ。そう思えば、胸の中にかかったモヤが少し晴れた気がした。

  やりとりを見ていた桐島が、にやりと笑う。

  「なんかもうカップルっていうより、夫婦って感じだな?」

  「ブ……ッ!はあああ?!」

  夫婦。大和はびくりと肩を揺らした。耳や首まで一気に朱に染まる。

  「なんだその顔?今更照れてんのかあ?」

  慌てて俯いたが、桐島にまじまじと顔を覗き込まれてぷいっと横を向く。その顔を霧生に救い上げられて、流れるようにキスをされた。

  「そんな顔、俺以外に見せるな」

  「な……な……」

  「あと桐島、俺たちは正式に伴侶になる。そもそも今頃番っているはずだったのに、お前たちが来たからできなかったんだ」

  「ふぁ……ッ?!」

  「あ、そうだったん?ごめんな大和」

  「今からしてくれてもいいんですよ?」

  キスだけで固まっていたのに、三人からのあまりの追い打ちに頭が真っ白になる。霧生が恨みつらみを吐き出しているのにツッコミを入れることもできず、大和は霧生の膝の上でとうとう意識を手放した。

  翌朝。暖かい日差しに目を開ける。久しぶりの自分のアパート。隣にはすぅすぅと寝息を立てる霧生が——いなかった。

  「霧生……っ?!」

  見ればテーブルを囲んで屍が2つ転がっている。霧生と桐島だ。昨日大和が眠ってしまってから一体どれほど飲んだのだろう。桐島が持ってきた酒は見事に空になり、床に散らばっていた。

  「お前、霧生が隣に寝ているのがもう当たり前なんだねえ」

  「……っ!」

  朱峯だった。ベッドの足元からのそりと立ち上がり、そう呟く。その顔は見惚れるほど美しいのに、何の感情も浮かべていない。それがなぜか酷く恐ろしかった。

  「昨日、思ったんだけど、お前もしかして霧生のこと、本気で……」

  口ごもりながらそおう言うと、朱峯が口角をゆっくりと上げる。

  「何だい気持ち悪い。霧生と私は兄弟弟子のようなものだよ」

  「兄弟、弟子……?」

  聞きなれない言葉を復唱すると、朱峯はやれやれと首を振った。

  「私たちは、八雲深霧雄神という神の下で修行に励んでいたんだよ。昨日霧生も言っていたけれど、天では動物の神は少ない。あの当時は狼の霧生、狐の私、あとは蛇がちょっといたくらいかな。人間に加護を与えたり、罰を与えたり、神としての仕事をするにあたって、人間のことを知らないといけないけれど、私たちは元々動物だからわからない。そこで八雲深霧雄神様が私たちの師匠になってくださった。それで霧生とは共に修行をしてきたのさ。それこそ人の形になる練習とかね」

  「ああ、なるほど……」

  「だから心配することはないよ。確かに私は霧生のことは気に入っているし、神として今後も一緒にいてくれたら嬉しかったけれど、お前のような感情ではないから」

  そう言った朱峯の瞳には、やはり少し暗い影が落ちていて。しかし大和が口を開く前に、朱峯は少し明るい口調で言葉を続けた。

  「霧生はお前と出会ってから、より一層修行に打ち込むようになったよ。私は力は強かったけれど、そもそも人間に興味がなかったからね。人間に関することでは霧生にすぐ追い越されてしまった」

  「……」

  「お前を迎えに行くまでの間、そうやって霧生は過ごしていたんだよ。全てはお前のため」

  「霧生……」

  当の本人は床の上でまだ寝息を立てている。床が硬くて不快なのか、少し眉根を寄せているように見えた。

  「八雲深霧雄神様は、人と神は直接関わるべきではないっていう教えだったんだけど、霧生はそれだけは聞かなくてね。毎日狼の姿で幼いお前と接触していた。お前がその時の記憶をなくしているのは、多分八雲深霧雄神様のお力じゃないかな」

  「なん、だって……?」

  思わぬところでずっと心に引っかかっていたことの解答が得られた。

  「八雲深霧雄神様は人の心を操るのが得意な方でね。お前の記憶を消すなんて容易いことさ。人間と神が交われば、世の秩序が狂ってしまう。だからお力を使われたのだろう」

  「……」

  「それでも霧生の心は変わらなかった。修行を重ね、律儀にお前が迎えに来るのを待って、来ないと思えば逆に迎えに行って。ついに人間になってしまった」

  朱峯の言葉に、大和は何も言えなかった。大和はこの世から一人の神を奪ったのだ。朱峯や八雲深霧雄神から。

  「八雲深霧雄神様はたいそう悲しんでおられたよ。やはり人間と関わらせるべきではなかったとね。儀式をした私も怒られてしまった。ふふふ」

  「あ……なんか、ごめん……」

  この男はいけ好かないが、巻き込んでしまったのは事実だ。やまとは俯き、ただ静かに謝った。

  「へえ、素直になったらなったで気味が悪いね」

  「お前……俺が素直に謝ってやってんのに」

  「あ、そうそう。八雲深霧雄神様は人の心を操るのが得意と言っただろう?霧生も同じく、とっても得意だったんだよ」

  「霧生が……?」

  ここで寝入っていた霧生が薄く瞼を開いた。昨日何があったのか思い出そうとするかのように、ぼうっと周囲を見回す。

  「お前のその感情も、操られていたとしたら……?」

  「そんな、こと……」

  信じられるはずがない。信じたくない。けれど、一瞬だけ胸がざわつく。

  もし本当に霧生が、力を使っていたのだとしたら——。

  もしも、自分が霧生に惹かれたのが、その影響だったとしたら——。

  「ないと言えるかな?」

  いつしか朱峯の顔には意地の悪い笑みが浮かんでいる。くつくつと一通り笑った後、彼はまだ床でだらけている霧生に向き直った。

  「霧生。私はそろそろ失礼するよ。君が祀られていた白霧神社の管理を任されてね。元々忙しいのに、君の分の仕事まですることになったんだから、今度豪勢なお礼をしておくれよ」

  「朱峯……?」

  未だ寝ぼけている霧生にそれだけ言うと、朱峯は玄関へと向かった。その背中を見て、大和は思わず立ち上がる。

  「待てよ、朱峯——」

  声をかけるが、彼は振り返らない。ただ、軽く片手を上げただけだった。

  「霧生を奪ったお前には、これくらいの意地悪、許してもらうよ」

  まるで冗談のように軽い。けれど、その言葉は、酷く重くのしかかった。

  朱峯はそのまま玄関のドアを開け、朝の光の中へと消えていった。

  「霧生、起きろよ」

  酒が抜けていないのか、未だ床に座ったままぼんやりしている霧生に声をかける。

  「……ん」

  鈍く反応したものの、目はまだ半分閉じたままだ。

  「お前さ、いい加減起きろって」

  大和は霧生の肩を軽く叩く。すると、霧生がふっと微笑んで、大和の手首を掴んで引き寄せた。

  「わっ……!?」

  バランスを崩し、大和の顔が霧生の胸に押し付けられる。ぬくもりがじんわりと伝わってきて、瞬間、心臓が跳ねた。

  「ちょ、朝から何してんだよ……!」

  「……嬉しい」

  「は?」

  「やっと、番になれる」

  霧生はそう言って、大和の首元に顔を埋めた。冷たい鼻先が肌に触れるのが、妙に擽ったい。

  「お前、まだ寝ぼけてんのか……?」

  「寝ぼけてない」

  霧生は大和の腰を抱き寄せ、耳に唇を寄せて囁いた。

  「早く抱きたい」

  「……っ」

  低く甘い声が耳に響き、身体が熱くなる。

  「ってか、さっきの朱峯の話、聞いてた?」

  必死にそういう雰囲気に呑まれないよう、努めて冷静を装い、大和は問いかけた。

  「聞いてた」

  「……ならさ」

  大和はぐっと唇を噛んでから、ゆっくりと口を開いた。

  「お前、俺に力……使ったこと、ある?」

  霧生の腕が、一瞬だけぴくりと動いた。それだけで、大和の心臓が強く跳ねる。

  (……まさか、本当に……?)

  けれど、次の瞬間、霧生は真っ直ぐに大和を見つめ、はっきりと言った。

  「ない」

  「……っ」

  「お前にだけは、絶対に使わないと決めていた」

  ゆるがない瞳に、大和は一瞬で息を呑む。

  (……ああ、そうだ。)

  たとえ霧生が神だった頃にどれだけの力を持っていようと。たとえ人の心を操ることができる存在だったとしても。こいつはどうしようもなく誠実で、大和を大和以上に大事にするやつだ。それを、知っている。信じられる。

  「……なら、いいけど」

  不器用にそう返すと、霧生がくすりと笑った。

  「疑ったのか?」

  「疑うっていうか……あいつの言い方が、なんか、気に食わなくて……」

  「朱峯は意地の悪いところがあるから」

  「意地の悪いところしかない」

  二人で向かい合って、くすくすと笑った。

  「俺が力を使ったのは、外に出た時だけだ。周りに騒がれては面倒だと思って、認識を少し阻害した」

  「ん……?」

  「俺の風貌は目立つのだろう?」

  「ああ、なるほど」

  そこでやっと気が付いた。実家で何となく感じた違和感の正体。

  (前に霧生と買い物に行った時、なんでこんなイケメンなのに皆注目しないんだろうと思ったけど、そういうことだったんだ。母さんや陸人に会ったときはもう人間だったから、ばっちり見た目に食いついてたんだな。)

  腑に落ちた。あれは霧生の神としての力だったのだ。

  「大和……」

  「んん?!」

  一人で考え込んでいた大和を霧生が至近距離で見つめてくる。そのままゆっくりと唇を寄せ——

  「……ちょっと待て、何しようとしてんだ!」

  「何って、キスだが」

  「やめろ!!」

  「なぜ。番になろう、早く。もう待てない」

  「バカか!!こんな朝っぱらからできるかぁ!!」

  大和が全力で霧生を突き放したその時、背後から呻き声が聞こえた。

  「うぅ……頭いてぇ……」

  屍と化していた桐島がようやく目覚めたようだ。

  「……静かにしろ……俺が寝てるのに、騒ぐな……」

  「あ、迅先輩……」

  すっかりその存在を忘れていた。慌てて霧生から距離をとる。またもや邪魔されたと、霧生が不機嫌そうに低く唸った。

  「お前らさぁ……俺がいるのに朝っぱらからいちゃいちゃすんなよ……マジで……」

  「いちゃいちゃしてねぇ!!!」

  大和の怒声が、朝のアパートに響き渡った。

  胸の奥に残っていた小さな不安は、いつの間にか綺麗に溶けてなくなっていた。

  「とりあえず、朝飯作ろ」

  桐島の視線から逃げるように大和はキッチンへと向かう。すぐに背後からぴったりと霧生が張り付いてくるのを手で払った。

  「なんだよ、くっつくなって」

  「嫌だ。キスしたい」

  大和の肩に顎を乗せ、霧生が強請ってくる。

  「なっ……!やめろって!」

  「さっきも途中で邪魔が入った。昨日も交尾できなかったし——」

  「味噌汁ぶっかけるぞ」

  真顔で言うと、霧生はしぶしぶ離れた。その落ち込みようを見ると罪悪感と少しの歯がゆさを感じる。昨日から我慢しているのは霧生だけではないのだから。

  二日酔いの桐島のことを考え、胃に優しい味噌汁とだし巻き卵を作ることにした。手際よく仕上げ、頭を抱えている桐島の元へ運ぶ。

  「迅先輩、これなら食えそうっすか?」

  「あぁ……助かる……大和の料理はマジで染みるな……」

  大和が出した味噌汁を啜り、桐島は肩の力を抜いた。目の下にはクマができている。

  「迅先輩って結構酒飲むんすね」

  「いやぁ……昨日は楽しくてつい……今は地獄だけどな」

  桐島が力なく笑う。横では霧生も黙々と味噌汁を飲んでいた。

  「そういやさ、お前のバイクは?」

  唐突に桐島が問いかける。大和は箸を止めた。

  「……どうしても手放さないといけなくなって」

  ポツリと呟く。

  「お守りの、第二ボタンも」

  静かにそう続ける。大和にとって、あのバイクも、お守りも、特別なものだった。初めてできた仲間や桐島たちと走り抜けた時間の象徴だったし、何より、自分が変わったことを証明するものでもあった。いくら霧生を助けるためとはいえ、手放すことに迷いがなかったわけではない。けれど、霧生が生まれ変わるための儀式に捧げる「大切なもの」をどうするか考えた時、あの二つしかないと、そう確信したのだ。

  桐島はしばらく黙って大和を見ていたが、やがてふっと笑った。

  「そうか……じゃあ代わりにこれ、お守りにやるよ!」

  そう言って、よれよれになった柄シャツの第二ボタンを外し、大和の手のひらにぽんと置く。

  「え?」

  「お前は俺が大好きだからな。お守りがないと心細いだろ」

  軽く言ってから、桐島は味噌汁を飲む。

  「いらん」

  低く冷たい声が響いた。そう言ったのは、大和ではなく、霧生だ。

  「大和は俺が守る。他の男のものなどいらない」

  明らかに機嫌を損ねた霧生の目が、大和の手に乗ったボタンを睨んでいる。

  「霧生、お前さぁ……」

  「はは、愛されてんね」

  ツッコむ気力も失せ、がっくりと肩を落とす大和に、二人を見てけらけらと笑う桐島。大和はしばらく無言だったが、やがてふっと小さく息を吐き、桐島が差し出した第二ボタンをぎゅっと握りしめる。

  「先輩、ありがとうございます」

  しっかりとそう言った。霧生が不満げに目を細めたが、大和は気にしない。霧生は嫉妬するかもしれないけれど、桐島は霧生とは違った意味で大和の特別大切な人なのだ。

  「じゃあ俺、そろそろ行くわ」

  食事を終えた桐島が、伸びをしながら立ち上がる。

  「押しかけた上に泊って悪かったな、大和。朝飯も美味かったよ」

  「別にいいっすよ。またいつでも来てください。あ、でも早めに来るって連絡はしてくださいよ」

  大和が肩を竦めると、桐島はにやりと笑った。

  「確かに。また邪魔したら今度こそ霧生さんにキレられるわ」

  「別に昨日邪魔されたわけじゃ……」

  「いや、邪魔だった。もう少しで交——」

  「ウワアアアア!何言うつもりだお前!!」

  霧生の口を手で押さえながら必死に誤魔化す。桐島は涙を滲ませて笑い転げている。

  「そんじゃ、次は結婚祝い持ってくるわ」

  「ぶはっ!?!?」

  霧生を無理矢理羽交い絞めにしながら、桐島の言葉に吹き出す。なぜこの人はこんなに自分たち二人の関係について受け入れているのかと思う。どこまでも器の大きい人だ。揶揄われるのはどんな反応をしていいかわからなくて困るけれど。

  「迅先輩まで何言ってんすか……!」

  「霧生さん、指輪とかもちゃんと用意してやってな」

  「はァァ!?!?」

  「ちなみに式はどこでやるんだ?俺も呼べよな」

  「やめてくださいよ!どこでもやんねぇっす!!!」

  「だって伴侶になるんだろ?」

  「……う」

  「なる」

  「番うんだろ?」

  「今から」

  「もおおおおお!嫌だこの人たち!!」

  霧生はさっさと行けと言わんばかりの愛想のなさである。桐島は楽しそうに笑った後、ふと真面目な表情になる。

  「まあ、冗談はさておき——幸せになれよ、大和」

  「……!」

  「霧生さんなら大丈夫だろうけど」

  それだけ言って、手をひらひらと振り玄関のドアを開ける。

  「じゃ、またな!霧生さん、大和をよろしくな!あんま無理させんなよ」

  「言われなくとも大切にする」

  大和が全力でツッコミを入れる前に、ドアは閉まった。

  「……はぁ」

  ようやく静かになった部屋を見回し、大和は大きく息を吐いた。

  「さて、と。俺らも行くか」

  「どこへ」

  「役所。まずはお前の戸籍取らねぇと、養子縁組の手続きもできねぇし」

  大和が立ち上がると、霧生も素直に従う……かと思いきや。

  「その前に」

  スッと大和の腰に手を回し、耳元で囁く。

  「番になろう」

  「っ……バカか!!」

  大和は一瞬ぎょっとして固まったが、すぐに霧生の手を叩き落とした。

  「お前はそればっかりか!」

  大和が慌てて突き飛ばすと、霧生は少ししょんぼりとした顔をした。もう狼ではないけれど、もしその姿であれば耳も尻尾も垂らしているのが容易に想像できる。

  「……昨日からずっと我慢してる」

  「知らねぇよ!!ほら行くぞ!!!」

  霧生が鼻を啜る。大和はぐっと唇を噛んで、片手を差し出した。霧生の見えない耳と尻尾がピンと立ったのが分かる。

  「すぐそこまでだぞ」

  霧生は差し出された大和の手を握るだけでなく、そのまま指を絡めてしっかりと繋いだ。

  「嬉しい……離したくない」

  「いや、アパート出たら離すから」

  霧生は少し納得いかない顔をしながらも、大和と並び、まずは法務局へと歩き出した。

  霧生のように、両親が不明かつ、戸籍がない所謂無戸籍者の場合、戸籍を取得するには家庭裁判所で手続きをしないといけないらしい。ただ書類を提出するのとは違って、それなりに時間がかかるようだ。それでも、これから霧生が人間として生活していく上で戸籍は必要である。二人は法務局の担当者に例を言って、ひとまずその書類を持ち帰ることにした。

  帰り際、法務局の近くの役所にも立ち寄り、養子縁組の書類ももらっておいた。こちらは戸籍さえ得られれば届出を出すだけで大丈夫そうだ。

  霧生のように、両親が不明、かつ、戸籍がない無戸籍者の場合、戸籍を取得するには家庭裁判所での手続きが必要らしい。ただ書類を提出するだけでは済まず、それなりに時間がかかるようだ。

  「時間がかかるのか……」

  霧生がぽつりと呟く。

  「まあ仕方ねぇよ。急いでもどうにもならねぇし」

  大和は書類の束を手にしながら肩をすくめた。

  法務局の担当者は丁寧に説明してくれたが、やはり正式に“存在”を認めてもらうのは簡単なことではないらしい。

  「とにかく、まずはこれをちゃんと準備して、提出しようぜ」

  そう言って大和が霧生を振り返ると、霧生は手元の書類をじっと見つめていた。

  「俺の……名前が書いてある」

  霧生はそう呟くと、ゆっくりと指先でその文字をなぞった。「霧生」という名前はずっと使ってきたものだが、正式な名前としてこうして紙に刻まれたのを見るのは、初めてだ。

  (あ……。)

  大和はその表情を見て、言葉を失う。霧生にとっては、これはただの手続きじゃない。“神”として生きていた時間を捨て、“人間”として生きるための、大事な一歩なのだ。

  「当たり前だろ。今はもう、人間なんだから」

  少しだけ意識して、軽く言う。霧生は目を伏せたまま、ふっと口元を緩めた。

  「……人間、か」

  霧生は噛み締めるようにそう呟いた。大和は、改めて人間になった霧生と共に生きていく覚悟を決めた。そして何も言わず、ただ霧生の肩をぽんと叩いた。

  帰り際、法務局の近くの役所にも立ち寄り、養子縁組の書類を受け取る。霧生は興味深げに書類を覗き込んでいた。

  「これで、お前の戸籍が取れたら、俺の戸籍に入る手続きもすぐできるな」

  「本当に大和の家族になる、ってことか」

  霧生は相変わらず無表情だが、その声が嬉しそうに弾んでいるのがわかる。大和は擽ったくなり、緩んだ口元を咳払いで誤魔化した。

  「ま、そういうことだな」

  「待ち遠しい」

  大和の袖をくいっと引っ張る霧生を見て、結局堪えられず笑ってしまった。

  「お前って本当、いちいち犬っぽいよな」

  「狼だ」

  「もう違ぇだろ」

  そんなやりとりをしながら、二人は役所を後にする。一度弁護士に相談してみようとか、養子縁組する時には大和の実家に寄ってから、実家の方の役所に提出しようとか、そんな未来の話をしながらアパートに帰った。

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