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日曜日が明け、月曜日からはまた学校とバイトの生活が始まる。朝起きて、支度をして、霧生に簡単な食事を用意し、学校へ向かう。その日からも霧生の体調は相変わらず一進一退だった。心配はしているが、良くないことに、霧生の看病も大和の日常の一つになってしまっていた。霧生の体調が悪いことが、もはや当たり前になってしまっていたのだ。
だから、大和は、何ひとつ気づけなかった。
「じゃあ行ってくる」
「今日は、行かないでほしい」
「何言ってんだ。今日は学校終わってからバイト。0時回るから先に寝てろよ」
「大和……」
「終わったらすぐ帰ってくるから。じゃあな」
「……いって、らっしゃい……気を付けて」
思い返せば、その日、霧生の体調はいつもより一段と悪そうだった。朝、大和の腕を掴んだ手は震えていて、何度言っても離そうとしなかった。しかし大和は普段通りに食事を用意し、振り切るようにしてアパートを出た。きっと、また少し寝れば回復する。……そう思って、部屋を出たのだ。
授業を受け、バイト先へ向かう。時々、苦しそうな霧生の顔が頭に浮かんだ。
(今朝はいつもよりしんどそうだったな……明日はバイトもないし、側にいてやるか。)
そんなことを思いながら、バイトを終えて大和は帰路に就いた。
部屋には明かりが着いていた。こんなに遅くまで起きて待っていたのかと急いで玄関のドアを開ける。
「ただいま」
「大和……おかえ、り……」
いつもの調子で声をかけると、霧生の声が小さく返ってくる。思いのほかその声がはっきりしている気がして、もしかすれば朝より少し回復しているのではないかと、大和は淡い期待を抱いた。
「ちゃんと大人しくしてたか?」
気軽に話しかけながら視線を向けた、その瞬間——。
違和感が、あった。
ベッドから立ち上がろうとしていた霧生がよろめく。膝がわずかに折れ、肩が揺れる。まるで足元の感覚がないみたいに。
「霧生?」
呼びかけた途端、霧生の身体が、糸の切れた人形のように、ゆっくり前へと崩れ落ちた。
「おい、霧生!!」
咄嗟に駆け寄り、抱きとめる。
——冷たい。
驚愕するほど、肌が異様に冷えていた。
「なっ……お前、何でこんなに……!」
霧生の肌は血が通っていないのではないかと思うほど青白くなっていた。指先は氷のように冷たく、触れた瞬間、嫌な悪寒が走る。
「しっかりしろ、霧生!!」
返事はない。大和は必死に霧生の肩を揺さぶる。しかし、霧生の身体からは力が抜け、完全に大和へもたれかかる形になった。
不安に押しつぶされそうになりながら、口元に耳を寄せる。小さく、かすかな呼吸音。微弱な心音。どちらも今にも途切れそうに頼りなかった。
「くそっ……救急車っ」
焦る手でポケットのスマートフォンを取り出し、震える指で画面を操作しようとする。しかし、焦りで指が滑る。
――ガツン。
硬い床にぶつかった音が、やけに大きく響いた。
「くそっ、くそ……っ!!」
拾わなければ。急がなければ。
そう思うのに、指が動かない。足が竦んで、一歩も踏み出せない。視界がぐにゃりと揺れる。鼓膜の奥で、血の気が逆流するような感覚。
その瞬間――。
空気が変わった。否、『ねじれた』。
まるで世界の輪郭が一瞬歪んだかのように、耳鳴りがする。温度のない風が頬を撫でた。
そして、そこに、何かがいた。
艶やかな金髪、長く流れる髪。
女ものの着物を気だるげに着崩し、匂い立つほどの色気を纏った男。
確かに、人の形をしている。けれど、それは明らかに違った。
大和は息を呑む。
ぞくり。背筋に、冷たいものが這い上がる。
「おやおや、霧生、気高き狼神がこんな姿になって……」
凛と澄んだ声が響いた。
「お前、誰だ……!!」
大和が睨みつけると、その男はくすりと微笑んだ。微笑んでいるはずなのに、どこか冷え冷えとした感情の読めない目。
「ふふ……そんな怖い顔しないでよ。私は[[rb:朱峯 > あかみね]]。ま、君たちのことは、前から見てたんだけど」
男の名前が聞こえた瞬間、腕の中の霧生が微かに動いた。
「朱峯……?」
霧生の声には、驚きと警戒が含まれていた。
「やれやれ、こんなになるまで消耗してしまったのかい」
朱峯はゆっくりと歩み寄ると、大和の腕の中の霧生を覗き込んだ。
「こりゃ、本当にギリギリだねぇ……せめて人型を解除した方がいいよ」
「やま、と……」
「こんな人間気にしている場合かい」
そう言って、朱峯は長い指を霧生の額にそっと添えた。すると、霧生の身体がわずかに光を帯びる。
「……!?」
大和の腕の中の霧生が、一度だけ深く息を吐いた。
「さて――」
朱峯が口の端を上げる。
「霧生、お前は、どうしたい?」
このまま、消えたい?
……それともまだ、生きたい?
朱峯の声は、ひどく静かだった。
まるで、霧生の返答を試すように。
あるいは、初めから答えを知っている者のように。
大和の心臓が、ひとつ、大きく跳ねる。
「霧生が、消える……?」
頭が真っ白になった。それはつまり――こいつを失うってことか?
ふざけるな。
「ふざけんな!こいつは死なせねぇ!!」
朱峯に向かって、大和は声を張り上げる。本当は怖い。この得体のしれない存在が。自分など、話すどころか、見ることすら赦されていないと感じる。それでも、どれだけ足が震えていても、声が掠れても、これだけは立ち向かわねばならないと本能が言っていた。霧生を守らなければならない。いや、守りたいと。
朱峯は、大和を見て微かに目を細めた。その視線はまるで矮小なものを嫌悪するようでもあり、眩しいものを見るようでもあった。
しばしの沈黙。
そして、彼は何かを確信したかのように、ゆっくりと笑った。
「ふふ、お前は本当に面白くて、そして、呆れるほど莫迦だねぇ」
霧生の目が、ゆっくりと開かれた。
————————————————————
どこまでも白い世界だった。
足元すら曖昧で、遠くも近くもない。ただ、どこまでも広がる白。
——大和。
呼んでも、声は霧散して消えていく。
——大和、どこにいる。
走る。必死に探す。なのに、大和の気配がどこにもない。いくら探しても、見えない。匂いも感じない。
そんなはずはない。いるはずだ。だって俺は、大和の側にいるはずなのに。
胸の奥に、鈍く冷たい痛みが広がる。
——俺は、お前の家族になりにきたのに。
——俺が、ずっとお前の側にいると誓ったのに。
ここはどこだ。どうして、大和がいない。
白い世界は静かすぎた。何の音も聞こえない。永遠に続くかのような沈黙。
違う、こんなところは、俺の居場所じゃない。
その時、ふと。
耳の奥で、何かが聞こえた。
「……霧生が、消える……?」
微かに震えた声。ずっと聞きたかった。自分を呼ぶ、大和の声。
大丈夫だ。俺は、消えたりしない。
「ふざけんな!こいつは死なせねぇ!!」
叫びが、白い世界を引き裂いた。
視界が揺らぐ。世界が歪む。
何かが俺を引き戻そうとしている。
その声を、追わなければ。
その手を、掴まなければ。
俺が、お前の——。
「……居場所になる」
大和。
「俺はお前の家族なんだから」
その瞬間、視界が弾けた。
——瞼が、ゆっくりと開く。
目の前には、たった一人の愛しい家族の顔。
彼の二つの潤んだ瞳が、霧生を覗き込んでいた。
酷く辛そうに、泣いている。
(大和が、泣いている……?)
どうした。誰に泣かされた。
俺が、守ってやる。
大和を苦しめる全てのものから、今度こそ、守ってやる。
「……大和……」
掠れた声で呼ぶと、大和の顔がくしゃりと歪んだ。
「どう……し、た……誰に、いじめ、られた……」
「お前、バカか……っ」
震える指が、そっと霧生の頬に触れる。瞼を開けているのが辛くて、目を閉じそうになる。すると大和が焦ったように強く抱きしめてきた。
抱きしめ返したいのに、腕が動かない。身体が鉛のように重い。
「お前が……消えるとか……ありえねぇ、だろ……っ」
まだ、言葉もうまく出てこない。
しかし、大和の涙が頬に落ちてきた瞬間、霧生の口が自然と動いた。
「……俺は……ずっと、大和の、側にいる」
そうだ。
大和と、離れたくない。
家族だからじゃない。大和だから、だ。
もう一度、息をする。大和の匂いがする。
大和が、ここにいる。
俺は——まだ、生きていたい。
大和と共に、生きていきたい。
ふ、とどこかで狐の微笑む気配がした。それは、祝福だったのか。それとも、嘲笑だったのか。
————————————————————
霧生は「ずっと大和の側にいる」と言い残し、再び意識を失った。大和は彼の冷たくなった手を握りしめ、必死にその顔を覗き込む。しかし、霧生の呼吸は浅く、脈も微弱だ。焦燥感が胸を締め付ける中、大和はゆっくりと朱峯の方へ顔を向けた。
「……どうすれば、霧生を助けられる?」
大和の声は震えていた。しかし、その眼差しには決意が宿っていた。朱峯はそんな大和を何の感情もない瞳で見下ろしている。
「お前は霧生に消えたいか生きたいか聞いたな?つまり、生き続ける方法を知ってるってことだ」
「おや、莫迦なだけだと思っていたけれど」
朱峯は口元に薄い笑みを浮かべた。
「それに気づいたなら、私が霧生を助けられるとは思わなかったのかな。自分で神を救おうなんて、随分と烏滸がましい」
「神頼みで霧生が助かるなら、いくらでも拝んでやる!だけど、お前はそれで聞き入れるほど性格が良いとは思えない!」
朱峯の言葉には嘲笑が含まれていた。しかし、それに怯むどころか啖呵を切ってくる大和に、片方の眉を上げた。
「ふふ、面白い。確かに、私はそんなに親切じゃないよ。ましてや人間なぞに肩入れする義理もないからね」
「……俺にできることがあるなら、したい。霧生が消えそうな時に様子を見に来るくらい、あんたにとっても霧生は大事な存在なんだろ?頼む。教えてくれれば、あとは自分で何とかするから」
「……」
「こいつは、俺の家族になるって言ってくれたんだ。ずっと側にいるって。俺の家族を、もう、死なせてたまるかよ……!」
朱峯はそれを聞くと、軽く肩をすくめ、口を開いた。
「霧生はね、かつて力ある狼として群れを率いていた。それはもう立派で美しい狼だったよ。そして、ある村を暴徒から守ったことがあって、それ以来、人から『[[rb:大口真神 > おおくちのまがみ]]』、つまり、大いなる口を持つ神として崇められるようになったんだ」
大和は初めて聞く霧生の過去に、黙って耳を傾ける。
「だが、人間というのは移り気なものでね。最初は感謝して神社を建てて祀るけど、時が経つと信仰は薄れ、神社も荒廃していく。霧生を祀っていた神社も例外じゃない。信仰が神の力の源なのに、今や彼の存在すらも忘れ去られている」
朱峯の声には、どこか哀れみが感じられた。
「……じゃあ、どうすればいい?」
大和の問いに、朱峯は微笑を浮かべたまま答える。
「聡いお前ならもうわかっているだろう。簡単さ。霧生が神として生き続けるには、神社を再興し、彼への信仰を取り戻せばいい。人々がまた彼を再び崇めるようになれば、霧生は力を取り戻すだろう」
その言葉に、大和は拳を握りしめた。
(そんなこと、俺にできるのか……?)
迷いが胸を締めつける。信仰を取り戻す?神社を再興する?そんな大それたことを、自分一人の力でできるのだろうか。
朱峯は俯いて自分の拳をじっと見つめる大和に、肩をすくめて軽く言う。
「まあ、お前が死ぬ頃には、霧生も話せるくらいに回復しているかもね」
「そんなの……」
そんなのは、遅すぎる。それではだめだ。
「生きてさえいてくれればいい」と思っていたはずだった。なのに――今は違う。
(俺は……今すぐにでも、霧生と話したい。霧生と一緒に部屋に帰って、飯を食って、くだらない話をしたい。霧生と一緒に、生きていきたい。だから……)
救える方法があるなら、やるしかない。たった一人でも。時間がかかっても。
大和が決意を固めたその時、朱峯の言葉の一つが頭に引っかかった。
「あんた、『霧生が神として生き続けるには』って言ったな?じゃあ、さっきの方法以外で生き続ける方法もあんのか」
そう尋ねると、朱峯は初めて表情を崩した。大きく目を見開いた後、突然腹を抱えて笑い出す。
「はははははは!!……あーあー、ほんに可愛くないな、お前は」
「……霧生には可愛いって言われたけど」
何がそんなに可笑しいのかわからない。しかし朱峯は涙を浮かべるほど笑い転げている。
「まぁ、霧生に消えてほしくないのは私も同じだからね。ただ、この方法はできるだけ避けたいと思っていたんだよ」
「早く教えろ……いや、教えてください」
「ふふふふ。そうだな、神としてではなく、『人として生きる』方法ならあるよ」
「……人、として?」
大和はポカンと口を開けて固まった。その顔を見て、朱峯は再び笑い転げる。
「間抜けが一層の間抜け面になった!ふふふふふ!」
こんな局面なのに、なんだか毒気を抜かれてしまう。大和は肩をすくめ、深く息を吐いた。
「……教えてください。早く」
「間抜けなうえにせっかちとは」
「いいから早く!」
「そう苛々するでない。怖い面がさらに怖くなっているぞ」
一通り大和を揶揄った朱峯は、霧生の額に手を当ててゆっくりと微笑んだ。
朱峯の説明はこうだった。
神が具現化するには莫大な力が必要であり、霧生は元の狼の姿ではなく、人の形をとっているため、相当な力を消耗している。さらに、大和に加護を与え続けている。つまり、霧生の力のほとんどは「大和を守るために使われている」のだという。
「お前が怪我をしないのも、病気をしないのも、全て霧生の加護のおかげさ」
「……は?」
「つまり、もともと力が弱まっていた霧生にとって、常に人の姿を保ちながらお前を守るのは無謀だったってことだよ」
大和は息が詰まる感覚を覚えた。
俺のせいで、霧生が——。
事故に遭いかけて怪我をしたのは、霧生の力が弱まって加護の力も弱まっていたから。最近霧生の体調が少し回復したのは、「大和がアパートにいる時間が増え、加護の負担が軽減されたから」。そして今日、外出した途端、霧生は力を使い果たして倒れた。
(……俺の運が良かったんじゃない。霧生が、ずっと俺を守ってくれてたんだ。)
大和は唇を噛みしめた。
「頑なに人の姿を保とうとするのは、お前を怖がらせないようにするためだろうね。ほら、意識のない今でも、狼に戻ろうとしない」
「霧生……」
――そこまでして、俺の側にいたかったのか?人として、家族になりたかったのか?
耳元で、「狼に戻ってくれ」と声をかけたが、霧生は何の反応も返さなかった。声が届かないことが、これほど切なく、虚しいものだとは思わなかった。
「そこで、人間」
朱峯は一拍おいて、ゆっくりと口を開いた。
「お前はどうしたい」
「……?」
「霧生を人間にするには儀式をする必要がある。儀式をすれば、当然、神の力は失われ、お前を守るものはなくなってしまう。そして、霧生は人間として生まれ変わる。が、神のように生き続けることはできない。お前と同じように、老い、病み、やがて死ぬ。それでも、お前はそちらを選ぶかい?」
朱峯の言葉は、淡々としていた。ただ事実を告げているだけのようでいて、その実、試すような響きを帯びている。
「それとも、霧生をこのまま神として存続させるか。さっきも言ったとおり、お前が生涯をかけて霧生の神社を再建し、人々に崇めさせることができれば、霧生は神の力を失わずにすむかもしれない。そうすれば霧生を皆が尊敬し、信仰し、忘れ去られない存在になる」
「……でも、それには時間がかかる」
「そう。信仰を取り戻すまで、霧生は今のままの状態だろうね。お前はそれを受け入れるかい?それとも、今ここで人間にしてしまうかい?」
大和の喉が、微かに鳴った。
「……どっちを選んでも、簡単じゃねぇな」
「当然だよ。神に関わるというのは、そういうことだから」
朱峯は飄々とした笑みを浮かべている。
「さあ、人間。選べ。お前は、霧生を神のまま救うか。それとも人間にして救うか」
霧生の運命を決める、たった一つの選択。
大和は唇を噛み、腕の中の霧生を見下ろした。
生きてほしい。それは揺るがない。
けれど——どの道を選べばいいのか。
「……俺は——」
神として生きるか、人として生きるか。
霧生を人間にすれば、こいつは普通の生き物と同じように、死ぬ。それがどれほど恐ろしいことか、大和は痛いほど知っていた。家族を失うことが、どれほどの喪失か、嫌というほど知っている。
けれど、このまま神として存続させる方を選んだとして、ずっとずっと先、目覚めたときに何を思うのだろうか。
大和の拳が、ぎゅっと強く握られる。
どちらを選んだとしても、もう後戻りはできない。どちらを選んだとしても、それが霧生にとって正しいのかはわからない。そして何より——。
(霧生の命の在り方を、俺が決めていいのか。)
本当に、霧生の人生を、勝手に選んでいいのか?
喉の奥が、きゅっと詰まるような感覚がする。
(俺は自分の生き方を誰にも指図されたくない。だから俺も、霧生に、そんなことしたくねぇ。)
大和は、ゆっくりと顔を上げた。
「俺は……選ばねぇ」
朱峯の細い眉が、少しだけ動く。
「ほう?」
「どっちも選ばねぇ……霧生自身が、決めるべきだ」
「逃げるのかい」
「これが逃げだと思うんなら、勝手に思ってろ」
大和はまっすぐに朱峯を見つめた。
「霧生がどっちを選ぼうとも、俺がずっと霧生の側にいるのは変わんねぇ。そりゃあ、すぐにでも人間になってほしいって思うけど。そっちの方が確実だし、早いし」
「ふふ、それはまた、正直だね」
「でも……もし霧生がそれを望まねぇなら、無理矢理、俺の選んだ生き方を押しつけることになる。そんなの、俺はまっぴらごめんだ」
大和の手が、霧生の冷たい頬をそっと撫でる。
「こいつの命は、こいつ自身のもんだろ?」
静寂が落ちた。
朱峯はしばらく大和を見つめた後、ゆっくりと口元を綻ばせる。
「……お前、やっぱり面白いねぇ」
「勝手に楽しむな」
大和は霧生を抱きしめ、そっと額を合わせた。
(今まではこいつがずっと俺を守ってくれてた。だから今度は、俺がお前を守る番だ。)
小さく息を吸い込み、目を閉じる。
「だから……まずは、一瞬でもいいからこいつを起こす」
目を閉じ、霧生の名前を小さく呼ぶ。
「霧生、絶対に起きろよ。お前に聞きたいことがあるんだ」
そのまま朱峯をもう一度見遣る。
「こいつが祀られてた神社の場所を教えてください」
「……なぜ?」
「少しでも神社を綺麗にする。んで、お供えとお参りする。完全に復活させるのには時間がかかっても、選ばせる一瞬だけなら、数日で何とかなるかもしれない」
「あはははははは。いいだろう、霧生の神社は―」
——[[rb:白霧神社 > しらぎりじんじゃ]]。
かつてこの地の人々が霧生を祀った社。
その名のとおり、深い霧に包まれた場所にあり、晴れた日でさえも白く霞んで見えたという。
だが、時が経つにつれ、人々は霧とともに神の存在も忘れてしまった。
「……ここ、来たことある気がする」
その鳥居をくぐった瞬間、大和は足を止めた。本殿へと続く緩い石段を見上げる。手入れがされていないのだろう。背の高い雑草が多く、石段も所々崩れていた。昔はもっと綺麗だったのだろうか。朱峯の言うとおり、ここは人の気配が途絶え、静かに朽ちていく神社なのだ。
(なんか、懐かしい感じがする。)
木々のざわめき、きりっとした気温、陽だまりの匂い。ひとつひとつが心の奥の記憶に触れる。しかし、思い出そうとしても、霧がかかったようにぼやけてしまう。
「ここはお前の故郷だろう。当然に来たことがあるんじゃないかい」
「どうだろう……」
後ろからついてくる朱峯に大和がぼんやりと答える。
どこへ向かえばいいのか、考えているわけじゃない。けれど、大和の身体は知っていた。どこを踏みしめれば石段が鳴るか、どこを曲がれば本殿へと続く道が見えるか。記憶にないはずなのに、迷いなく進む足が、かつて何度もここへ通ったことを証明していた。
境内に足を踏み入れた瞬間、風がふわりと吹き抜けた。
(……あ。)
その感触に、胸の奥がざわりとした。静かで、風が気持ちよくて。どこか、優しい空気が流れている。
「……なんだっけ、ここ」
指先が微かに震える。何かを思い出しそうで思い出せない。でも、間違いなく、この場所を知っている。
(俺は、ここに……いたんだ。)
喉の奥が詰まりそうになる。
何かが心の奥底で、ひっそりと目を覚まそうとしていた。
大和の腕の中で眠る銀色の小さな狼が大きく息を吐いた。霧生だ。さすがに人の形をした霧生をそのまま連れてくるのは難しいと朱峯に相談したところ、「笑わせてもらったお返し」だと、狼の姿にしてくれた。これで力の消耗も抑えられる。
神社に足を踏み入れた途端、霧生の心音がわずかに強くなった気がした。境内の空気に包まれた瞬間、何かが彼を呼び覚ましているような――そんな気がする。
「霧生、俺はここに来てたんだな」
大和の声は静かな境内にぽつんと落ちた。
考えても仕方がない。今できることをするしかない。そう思い、大和は背負った大きなリュックから掃除道具を取り出し、一礼してからこじんまりとした本殿へと足を踏み入れた。
本殿の扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んだ。
大和は思わず鼻を鳴らす。埃っぽいのを覚悟していたが、思ったほど空気は汚れていなかった。
(……思ったより荒れてねぇな。)
人の手が入っていない神社なら、長年放置された埃や枯葉が積もっていてもおかしくない。けれど、ここは妙に整然としている。
「……どういうことだ?」
大和はそっと霧生を下ろし、本殿内を見渡した。
この場所が廃れて久しいことは、鳥居や石段の荒れ具合からも明らかだった。それなのに、本殿の中だけは、まるで誰かが定期的に手を入れているかのように保たれている。
(誰かが……掃除してるのか?)
そう考えるのが自然だが、こんな人の気配がない場所に、わざわざ手を入れる人間がいるだろうか。
大和はゆっくりと奥へ進む。
古びた木の扉を押し開けると、その先には自然のままの大きな石が祀られていた。おそらくこれが、この神社のご神体なのだろう。
手を加えられていない、ただの石——。
しかし、その表面は不思議なほどに滑らかで、まるで最近磨かれたばかりのように澄んでいる。埃一つない。苔もついていない。
「なるほどね」
後ろから朱峯の声がした。
「どうやら、霧生はまだ完全に見捨てられたわけじゃないらしい」
大和は振り返る。
「どういう意味だ?」
「誰かが定期的にここを清めているってことだよ」
「なんで……一体誰が……」
思わず、ご神体を見つめる。
長い間、忘れ去られていたはずの神社。それなのに、誰かがここに通い続けている。
「誰がどんな想いでここを守っているのか、私にはわからない。ただ……信仰が完全に途絶えた神社なら、ご神体はもっと荒れ果てて、霧生も存在していられないだろうから」
胸の奥に、妙な感覚が広がる。まるで、遠い記憶の断片に触れたような、懐かしいような、それでいて落ち着かない違和感。
——その時。
「おや、あんたら……」
低く穏やかな声がした。
大和と朱峯が振り返ると、そこには、一人の老人が立っていた。
年の頃は七十代後半といったところだろうか。
小柄で、細身の体つき。それでも姿勢はしゃんとしていて、手には掃除道具を抱えている。その老人は驚いたように目を細め、大和たちを見つめた。
「久しぶりに、人が来たねぇ」
静かな本殿に、柔らかな声が響く。
その老人は、しばらくの間、大和をじっと見つめた。目を細め、まるで遠い記憶を探るように。
「君は……どこかで見たことがあるな」
確信は持てないが、どこか引っかかる、そんな感覚がその声に滲んでいた。
大和もまた、目の前の老人を見つめる。どこか懐かしい気がする。けれど、それが誰なのか、はっきりとは思い出せない。
(……誰だ、このじいさん。)
それでも、不思議と安心感がある。初対面のはずなのに、どこか懐かしい——そんな感覚に、大和は戸惑いながら口を開いた。
「……えっと……じい、ちゃん……?」
思い出せない歯がゆさと気まずさに、小さくぽつりと呼びかけた瞬間、老人の目がぱっと見開かれた。
「ほぉ、わしを『じいちゃん』と呼ぶとは、こりゃあ懐かしい……ああ、お前さん、昔ようここに来とった子じゃろ?確か、ええと、山……なんとか君、じゃったか……?」
大和は一瞬息を止め、それからゆっくり答えた。
「藤崎大和です」
その名前を聞いた瞬間、老人の顔にぱっと懐かしそうな笑みが広がる。
「ああ!思い出した!藤崎さんとこの大和くんじゃ!毎日のように顔を合わせて……ああ、でも覚えていないのは無理もないわな。随分と昔のことじゃから。まさか、またここに来てくれるとは……」
「……はい」
「そうかそうか。あんなに小さかったのに、立派になったもんじゃ」
守屋——どうやらこの老人の名前らしい——は、目尻の皺を深くしてしみじみと笑った。
大和はじっと守屋を見つめる。そして、自分が小さい頃、ここに通っていた記憶が、ゆっくりと蘇ってくるのを感じた。
「大和くん、あの頃は毎日毎日、本殿の端でべそをかいとったのになぁ」
「え、そうなのかい?」
「うわっ」
今まで気配を消していた朱峯が急に話に入ってくる。
「幼い頃のこやつ、どんなやつだったんだい」
「そりゃもう、ずうっと一人で泣いとった。わしが声をかけても、理由は話してくれんかったが、ここによく来ていた大きな野良犬がおってな。そいつ相手に、学校に行きたくないー、家にも帰りたくないー言うてな」
「大きな野良犬?」
大和の胸が、微かにざわつく。
「おお、そうじゃ。白っぽい毛の、そこそこでっかい犬じゃよ。覚えとらんか?お前さんにだけやけに懐いとったのに。まあ、懐いていたというより、お前さんが来るのを待っていた、という方が正しいかもしれんが」
「待って……た?」
「うむ。わしが餌を置いてやっても、決して食べんくらい警戒心が強くてな。それどころか、わしが姿を見せると、さあっと森の奥に消えてしまう。けれど、お前さんが神社に来ると、まるでそれを見計らっていたかのように現れた」
「…………」
「それで、お前さんが帰ると、またいつの間にか姿を消す。まるで、お前さんのためにだけそこにいるような、不思議な犬じゃったよ」
大和の指が、無意識に冷たくなる。それなのに、身体の芯はじんじんと熱くなった。
「そりゃもう、あの犬はお前さんのことが大好きだったよ」
守屋は懐かしそうに目を細める。
「お前さんが泣きながらそいつの毛に顔を埋めると、じっと動かずにおった。まるで、お前さんが泣き止むのを待つみたいに。そうしてるうちに、お前さんはいつの間にか眠っとったなあ」
「…………」
大和は、霧生の方を見た。端で寝かされている銀色の狼。守屋もつられるようにそちらに目を向けると、その姿を見て、ふと微笑んだ。
「おやおや、この子、まるで大口様みたいじゃなぁ」
——ぞくり。
背筋がひやりと冷える感覚。
霧生は、ここにいたのか。いや、それだけじゃない。あの頃から——ずっと。
「…………」
大和はゆっくりと、丸まって眠る霧生を見下ろした。その毛並みを、無意識に指が撫でる。ふわふわとした豊かな毛。ここに顔を埋めたら、どんな匂いがするのか、大和はもう知っている。
思い出さなくてもわかる。大和はここで狼の霧生に会っていたのだ。学校も家にも居場所がなかった大和の、居場所になってくれていた。
(なんで、思い出せないんだよ……っ!)
忘れていたはずの何かが、胸の奥を締め付けるように疼いた。
「お前、昔から俺のこと……」と、思わず言いかけた瞬間。
「さて、大和くん」
守屋の声が、ふっと間を割った。
「話は後にして、まずは掃除を手伝ってくれるかい?お前さんもそのために来てくれたんじゃろ?」
「あ……うん」
そうだ。今は、考えても仕方ない。とにかく、できることをしなければ。大和はそっと霧生を撫でてから、手にしたほうきを握り直した。
大和は本殿の端に置いていたバケツの水を手に取り、雑巾を浸した。すっかり乾いていた床板が、水分を含んで色を濃くしていく。その変化をぼんやりと眺めながら、何度も雑巾を絞り、木の床を拭いていく。
カタン。
どこかの板が軋んだ音に、ふと手が止まる。大和は目を細め、その板の上にそっと手を添えた。
(ここに……俺、座ってたような……?)
拭いたばかりの床に触れると、不思議な感覚がこみ上げる。ほんの少し、温もりがあるような気がした。
そのまま周囲を見渡す。半ば朽ちかけた柱、色褪せた扉。埃っぽかったけれど、それでもこの本殿は思ったほど荒れてはいなかった。守屋がずっと守ってくれていたのだ。霧生も、大和の居場所も。
ほうきを手にした守屋が、本殿の入り口で落ち葉を掃いている。朱峯は……相変わらず何もせず、本殿の隅に寄りかかっていた。
「じいちゃん、普段どのくらい掃除しに来てんの?」
「月に何回か、気が向いた時にな。でも本殿しか手が回らんのよ。他にやるもんもおらんし、気づいたらわし一人だけになってしもうた」
「……そっか」
大和は何気なく、奥のご神体に目を遣った。
手を伸ばし、木の柱を軽くなぞる。細かい溝に指が触れるたび、心の奥底で何かがゆっくりと溶けていくようだった。
濡れた雑巾を握りしめる指先が、微かに震える。
ぽた、ぽた。
滴る水滴が、床に落ちる音だけが静かに響いた。
——ふと、鼻腔をくすぐる匂い。
ひんやりとした木の香り。草の匂い。ほんのりと土の匂いも混ざっている。
そして、
(お日様の……霧生の、匂い?)
瞬間、胸の奥がずくんと軋んだ。目の奥が熱くなる。
頭の奥で、霧が晴れていく。それはまるで、ずっと心の奥に眠っていた記憶が、ゆっくりと目を覚ましていくような——。
————————————————————
静かだった。
泣きすぎて、目の奥がじんじんと痛む。鼻も詰まっていて、息をするのも苦しい。
「……うぅ」
幼い大和は小さな拳で目元をこすり、膝を抱え込んだ。寂しい。苦しい。両親はいない。学校にも、友だちはいない。
僕には誰もいない。ひとりぼっちだった。
どこにも行く場所がなくて、ここにいる。いつからか、ここに来ると少しだけ楽になれる気がしていた。静かで、風が気持ちよくて、誰にも邪魔されない場所。
——ふと、気配を感じた。
そっと顔を上げると、視界の向こうに白い影が揺れている。
(……犬?)
月明かりを浴びたような、白銀の毛並み。ふわふわとした長い尻尾。それは神様の遣いみたいな、不思議な空気を纏っている。
けれど、遠い。その犬は少し離れた場所で、大和をじっと見ていた。
「……君は、どこから来たの?」
掠れた声で問いかける。犬は、少しの間こちらを見つめ——それから、静かに背を向けた。
(……行っちゃう?)
胸の奥が、きゅっと縮こまる。大和は慌てて声を上げた。
「君も、いなくなっちゃうの?」
犬の耳が、ぴくりと揺れる。
「君も、僕を一人にするの?」
喉が詰まる。鼻がすんすん鳴る。言葉を続けるたびに、込み上げてくる涙が止まらなくなりそうだった。
「……やっぱり、僕はひとりぼっちなんだ」
そう言って、再び膝に顔を埋めようとした、その時——。
ふわり、と。
柔らかい毛並みが、頬に触れた。
驚いて顔を上げると、白銀の犬が、すぐ目の前にいた。さっきまで遠くにいたはずなのに。足音の一つもしなかった。
「……?」
犬は、大和の手の甲に鼻先を寄せる。少しくすぐったい。だけど、温かい。
「……君、僕のこと……嫌いじゃないの?」
犬は何も応えない。けれど、その澄んだ青灰色の瞳は、ただまっすぐに大和を映していた。
ゆっくりと、そっと。
小さな手が、白くふわふわの毛並みに触れる。温かかった。それだけで、また涙が零れた。
「……君は、どこにも行かない?」
犬は動かない。かわりに、その大きな身体をそっと寄せてきた。
大和はたまらず、ぎゅっと抱きしめた。頬を埋めると、心臓の音が聞こえた。静かで、穏やかで、暖かなお日様の匂いがした。
大和は手を止め、ご神体をじっと見つめていた。掃除をするはずだった。なのに、動けない。指先が微かに震えている。何かが、胸の奥からゆっくりとあふれ出そうとしていた。
(……俺、ここに……いたんだ。)
ひゅう、と。遠くで木々が鳴る音がした。それがどこから聞こえたのか、大和にはわからなかった。
ふいに、目の前の景色が揺らぐ。
それから、山の上の神社にはいつも白銀の犬がいた。学校で嫌なことがあった日も、家でひとりぼっちだった日も、両親が恋しくなった日も。ここに来ると、彼がいた。
「今日は、先生に怒られた……」
「みんな僕のこと女みたいだって揶揄うんだ……」
「家に帰りたくない。お母さんもお父さんも、僕なんていらないんだ。弟の方が大事だから」
泣きながら話す大和の隣で、犬は黙って寄り添っていた。時々、涙で濡れた頬を舐めてくれた。泣き疲れた時には身体を寄せて温めてくれた。そのふわふわの毛に顔を埋めると、嫌なことを忘れて自然と眠りに落ちた。
どんなに世界が冷たくても、彼だけは、ずっと側にいてくれた。彼だけが、大和の世界だった。もう、彼しか必要なかった。
「ねぇ、僕の家族になって」
その声は、大和のもの。
「でも今は、連れて帰れないんだ。陸人……弟が、動物とか、だめで。だから、僕がおっきくなって、あの家から出たら、迎えに来るね」
白銀の犬は、この時初めて鳴いた。威厳のある声で、一言だけ。
——あの犬は、霧生だったんだ。
——俺が、願ったんだ。霧生と家族になりたいって。
これが、約束。
霧生は、ここでずっと大和を待っていたのかもしれない。そして、忘れてしまった自分のところへ、霧生が来てくれたのだ。
「……っ」
大和は、はっと息を呑んだ。気づけば、ご神体の前ではなく、霧生のそばに座り込んでいた。
目の前には、白銀の毛並み。ゆっくりと胸が上下する、小さな狼の姿。
——やっと、思い出せた。
霧生は、ずっと側にいた。誰よりも、大和の居場所になってくれていた。遠い昔の約束を守りに、家族になりに来てくれた。胸の奥が、締めつけられる。痛いくらいに。
「……っ」
「大和くん?」
守屋の声が、遠くから聞こえる。けれど、大和は答えられなかった。
「……大和くん、泣いているのかい?」
その言葉で、自分が泣いていることを自覚した。頬を伝う涙が止まらない。
「俺……思い出したぞ……」
声が震える。
膝の上に横たわる霧生を見つめる。幼い頃と同じように、彼の側で涙を流している。
「……霧生」
名を呼んだ瞬間、小さな狼の耳が、ぴくりと動いた。
日が落ちる頃、空は赤紫に染まっていた。
「さて、今日はこの辺にしておくかの」
守屋が竹ぼうきを本殿の壁に立てかけ、背中を軽く伸ばす。掃除を始めた頃よりも、境内はずっと綺麗になっていた。長年積もった落ち葉や埃を払うだけでも、神社の雰囲気は少しずつ変わるものだ。
「お前さんたちは、明日も来るかい?」
「しばらくは通うつもりです。だから、守屋さんは無理しないでくださいね」
「ほっほ、わしはもう長年の習慣じゃからな。また何日かしたら来るよ」
守屋は満足げに笑いながら、本殿を見回した。そして、端で丸まる銀色の狼を一瞥すると、ふっと微笑む。
「それにしても、不思議なもんじゃ。こりゃまるで、ほんに大口様の生まれ変わりのようじゃの」
そう呟きながら、守屋は手を軽く振ると、ゆっくりと神社の石段を降りていった。残されたのは、大和と朱峯、そして霧生。
「……行ったな」
朱峯が柱にもたれながら、気怠そうに呟く。
「本殿で寝る気かい?それとも人間らしく家に帰るかい?」
「……今日はここにいる」
大和は霧生の寝顔を見下ろしながら答えた。昼間よりも、呼吸は落ち着いている。ぴくりとも動かないが、胸の上下は穏やかだ。
(こいつがここにいて、俺がここにいる……。)
この状況は、昔と同じだ。
小さい頃、俺は何度もここで泣いていた。そのたびに、霧生は側にいてくれた。
(……もう少しこのままでいたい。)
「朱峯、お前は?」
「私は人間じゃないからね。どこででも寝られるよ」
「やっぱりそうなんじゃねぇか、おい霧生」
「まったくね」
適当に会話を交わしながら、大和は霧生の横に腰を下ろした。
夜の本殿は静かだった。木々が風に揺れる音が、微かに響く。時折、草むらで小さな虫が鳴いた。月明かりが差し込む。本殿の天井に細い影が揺れる。
「……霧生」
そっと名を呼ぶ。
その瞬間、狼の耳が、また微かに動いた。
——それだけ。
霧生は眠ったまま、動かない。けれど、生きている。ほんの僅かな反応でも、大和の胸の奥はじんと熱くなる。
「……おやすみ」
霧生の頭を、そっと撫でる。
今日一日で、色々なことを思い出した。ここに来てよかった。けれど、思い出したはずなのに、まだ足りない。神社の記憶だけが、なぜかぽっかりと空白のままだ。
(俺は、どうして神社に来なくなったんだろう……。)
唯一の居場所だったのに。大好きな霧生がいたのに。今の今まで完全に忘れていたなんて。まるで、最初からなかったみたいに。
風が吹く。夜の空気はひんやりとしていて、静かに肌を撫でていった。大和は霧生の寝息を聞きながら、そっと瞼を閉じる。
(明日になったら、何か思い出せんのかな……。)
大和はそう思いながら、ゆっくりと眠りに落ちた。
翌朝、静寂を破るように、鳥のさえずりが聞こえた。
大和はゆっくりと目を開ける。薄暗い本殿の天井が視界に入り、昨日のことを思い出した。霧生の側でいつの間にか眠ってしまったらしい。
(……霧生は。)
横を見ると、銀色の毛並みが朝の光を受けて柔らかく輝いていた。そっと手を伸ばし霧生の身体に触れると、確かな温もりがあった。指の隙間をすり抜ける毛は、昨日よりもなめらかに感じる。大和は微かに安堵しながら、霧生の頭を優しく撫でた。
「おはよう、霧生」
狼の耳がぴくりと動く。けれど、まだ目を開ける気配はない。
「はは……まだ寝てるか」
大和は大きく伸びをしてから本殿の外へ出る。硬い床で寝たからか、全身がギシギシと軋んでいた。
「ようやく起きたかい」
柱にもたれかかっていた朱峯が、欠伸交じりに言った。
「朝からのんびりだねぇ」
「人間は寝ないと死ぬんでね」
「そうだったね」
朱峯との会話もそこそこに切り上げ、大和は本殿の周囲を見回す。
(そうだ。ここ、裏に湧き水があったはず。まだ出てっかな。)
そう思い立ち、足を向ける。
しばらく歩くと、苔むした岩の間から、細い水の流れが現れた。ちょろちょろと細く水が落ちる音がする。大和はしゃがみ込み、両手を水に浸した。ひんやりとした感触が心地いい。
(……俺、昔もここで手を洗ってた。)
手をすくって顔を洗う。すっかり春とはいえ、山の湧き水はまだ冷たい。少しだけ肩を震わせながら、手早く身支度を済ませた。
「ふうん、人間ってのは朝からそんな面倒なことをするんだね」
気だるげな声に振り返ると、朱峯が腕を組んでこちらを見下ろしていた。
「顔を洗うくらい、普通だろ」
「神は汚れたりしないからね。前に風呂に入ってから、何百年経っただろう」
「そんな自慢すんな」
霧生と同じようなことを言っている。軽く額の水を払うと、本殿に戻り、カバンの中からおにぎりを取り出した。ここに来る前に買っておいたものだ。
本殿の階段に腰掛け、おにぎりの包みを開く。これも、昔に同じことをした気がした。
「いただきます」
手を合わせ、一口食べる。一人での食事はこんなに味気なかっただろうか。随分と、一緒に食べていないような気がする。
「霧生。お前が起きたら、美味い飯いっぱい作ってやるからな」
「神は食べなくても平気だよ」
いつの間にか隣にいた朱峯は、何の感情も伺えない声でそう言った。
「霧生もそんなこと言ってたな」
「そうさ。命を奪って糧にするなんて、今の私には無理だね」
「でも、そうしないと人間は死ぬ」
「人間は、ほんに手間がかかるねぇ」
飢えれば死ぬ。力が出なければ霧生を救うこともできない。
おにぎりの味はしなかった。それでも大和は少しずつ噛み砕いて、飲み込む。
「霧生が元気になったら、あんたにも食事を振舞ってやるよ」
「ふふ、遠慮するよ」
「そうかよ」
朱峯と適当なやり取りをしながら、大和はもう一口おにぎりを齧る。
今日は、霧生が目を覚ますだろうか。そうであればいい。そうなるように、また掃除をして、お供えをしよう。
朝食を終えると、大和はそっと立ち上がり、ほうきを手に取った。本殿の入り口に積もった落ち葉を掃きながら、昨日よりも少し澄んだ空気を感じる。
境内を掃き終わると、次にご神体の前に小さなお供えを置いた。昨日持ってきた米と酒、そして近所で買ったお饅頭。
「そんなものを供えて、何か変わるのかい」
意地の悪い笑みを浮かべながら、朱峯が問う。
「変わるかはわかんねぇ。でも、俺にできるのはこんなことくらいだから」
「へえ。随分殊勝なことを言うねえ」
そう言いながら、朱峯は本殿を見上げた。風が心なしか心地よく吹く。陽の光が、少しだけ差し込んでいる。神である朱峯にはわかった。気の流れが変わったのだと。
「ふふ。ほんに、可愛くない」
「……何?」
「なんでも」
朱峯の含んだ言い方は気になったが、大和はご神体に向き直る。そして静かに手を合わせた。
なあ、霧生。お前、ずっと俺のこと守ってくれてたんだな。
それなのに、俺はなぜか、あんなに大切だったこの場所も、お前のことも、約束も、全部忘れちまってたよ。
約束守らなくてごめん。
お前のこと、迎えに行かなくてごめん。
俺を守るために、しんどい思いさせて、ごめん。
あの日も、お前が調子悪いってわかってたのに、放って出て行って、ごめん。
ちゃんと、話聞いとけばよかった。信じてやればよかった。
それなのに、ずっと一緒にいてくれてありがとう。
迎えに来てくれて、家族になりに来てくれて、ありがとう。
俺、お前とこれからもずっと一緒にいたいよ。
消えてほしくなんかないよ。
なあ、霧生。俺、もう認めるわ。
俺、お前が好きだよ。
お前がずっと俺の居場所になってくれてたこと、覚えてなかったけど、それでもお前のことを好きになってたよ。
最初は得体の知れないやつだと思ったし、世話も大変だったけど、お前との生活は心地よくて、もう離れるなんてできねぇよ。
なあ、霧生……聞こえてるか。
頼むから、生きてくれ。
俺のために力を使い果たして消えるなんてやめてくれ。
これからも一緒に生きていきたいんだ。
そのために、お前と一緒に考えたいんだ。
だから早く目を覚ましてくれよ。お願いだ。
大和は静かに顔を上げ、頬を伝っていた涙を拭った。
そして、「霧生のために願うなんて、おかしな話だよな」と、涙を拭いながら小さく笑った。
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