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神の契りは解けない(1)

  ——どこか、静かな場所だった。

  風の音が、ざわざわと耳をかすめる。

  冷たい石畳の感触。

  銀色の……何か。

  なぜだか、ずっとそばにいた気がする。

  あたたかくて、でも、少し冷たい。

  「……家族に……」

  自分の声だろうか?

  誰かの声だろうか?

  何を言ったのか、それとも言われたのか、思い出せない。

  何かが心の奥に引っかかる。

  ずっと、ずっと前に、

  大事なことを、約束したような——。

  ー神の契りは解けないー

  アラームの音が響いて、ふっと、瞼が開いた。

  「また、この夢か」

  天井をぼんやりと見上げながら、[[rb:大和 > やまと]]は額に手を当てる。どこか懐かしい光景。何かを思い出しかけていたような気がする。しかし、すぐに霧がかかったように思考がすり抜けていく。

  「……どこだっけな、あそこ」

  胸の奥がざわつくのに、結局何も思い出せない。夢なんていつもそうだ。起きた瞬間にはほとんど忘れてしまう。

  「めんどくせ」

  二度目のアラームが鳴る。[[rb:藤崎 > ふじさき]][[rb:大和 > やまと]]は布団を蹴り飛ばして起き上がった。そんな夢のことなんかより、今日はバイトだ。ぼんやりとした胸の違和感を振り払うように、無造作に髪をかき乱した。

  「やべえ、初日から遅刻とかシャレになんねぇって」

  少々傷が目立つバイクに跨り、大和はバイト先の居酒屋に急ぐ。専門学校は春休み中で、今が稼ぎ時だ。

  藤崎大和は先日無事に高校を卒業し、動物系の専門学校に進学した。理由は単純で、なぜか昔から動物にだけはよくモテたから。野良猫はみんな大和に引っ付いてきたし、動物園どころか水族館でさえも、みんな大和に向かって集まってくるくらいだった。

  それなのに、家ではペットを飼えなかった。大和を育ててくれた叔父夫婦の子ども、大和の甥である[[rb:陸人 > りくと]]が酷いアレルギー持ちだったからだ。

  そう、大和に両親はいない。幼い頃に交通事故で亡くなった。

  引き取ってくれた叔父夫婦は大和に良くしてくれて、高校も行かせてくれた。どれだけ感謝しても足りないくらいだ。……それでも、やっぱり、どこか壁を感じていた。

  この頃の記憶として付随して思い出すのは、小学校でのことだ。

  今でこそ金髪ツーブロック、がっしりした体つきで、見るからにヤンキーだが、当時は本当に華奢で可愛かったらしい。大人からは「お嬢ちゃん」と呼ばれ、しょっちゅう女の子に間違えられていたくらい。

  そんな大和は、いじめの格好の的だった。「おんな男」「弱っちい」なんて言われ、泣きそうになれば、「ほらやっぱり女だ!」と追い打ちをかけられた。

  でも、そんなこと、叔父夫婦には言えなかった。これ以上、気を遣わせたくなかった。

  大和には、家にも学校にも居場所がなかったのだ。

  本当に……?

  本当に、どこにも居場所はなかっただろうか?

  学校帰り、いつもどこかに立ち寄って——。

  「お疲れ様っす!」

  ヘルメットを片手に、軽く息をつきながら居酒屋の裏口へ足を踏み入れる。緊張を紛らわすため、大和はバイクのキーに付けたお守り代わりの小さな袋をポケットの中で握りしめた。熱を帯びた空気に、だしの香りがふわりと絡んで鼻腔をくすぐる。

  「お、来たな金髪くん!」

  「新入り、初日からちゃんと来てえらいえらい」

  「藤崎っす。さすがに初日は来ますって」

  軽く笑いながら、エプロンをつける。店長も先輩も気のいい人のようで安心した。

  「兄ちゃん、新人か?」

  「っす。今日からよろしくお願いします!」

  接客は笑顔と元気。店長に言われたことを思い出しながら返事をすると、客は「おお、こいつ意外と可愛いな」と酒臭い声をあげた。先輩たちが大和に親指を立てている。

  可愛い?今の俺が?

  「俺みたいなゴツいの、可愛いっすか?目、大丈夫すか?」

  冗談めかして軽く言うと、客たちは手を叩いてげらげらと笑った。

  居酒屋独特のざわめきと熱気の中、あっという間に時間は過ぎていく。

  「おつかれしたー」

  「おう、大和!明日も頼むぞ!」

  「了解っす」

  外に出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でた。熱のこもった店内とは打って変わり、静けさが耳に染みる。

  バイクにまたがると、遠くの街灯がにじむように瞬いた。春の夜はまだ少し肌寒い。エンジンをかけ、ゆるやかにアクセルをふかす。

  ——とりあえず、バイトはなんとかなりそうだ。

  さっきまでの喧騒を思い出して口元を緩めた。

  アパートに帰り、カンカンと階段を上る。廊下に、誰かが立っていた。あれは、自分の部屋の前ではないか。

  「……は?」

  銀色の髪。夜の灯りに揺れる、非現実めいた美しさ。

  視線が絡む。どこか懐かしいような、そんな気がした。

  男は、一歩、ゆっくりと大和へ歩み寄る。

  そして、静かに、けれど確かに告げた。

  「迎えに来たぞ」

  夜の静寂を裂くように、低く響いた声。

  その男は、まるでここが自分の居場所であるかのように、玄関先に立っていた。

  「ど、どちら様っすか」

  大和はごく普通に尋ねた。ナンパか?宗教の勧誘か?いや、こんな時間にそれはない。

  ズボンのポケットにはスマホ。いざとなれば警察を呼ぼう。

  そう思っていても、目の前の男から視線を外せなかった。銀色の髪は夜風にさらさらと揺れ、薄い唇はきつく引き結ばれている。その姿はまるで浮世離れした彫刻のようだった。こんなに美しい人間は見たことがない。

  その男は、懐かしいような、どこか苛立つような、そんな目で大和をじっと見つめてくる。ほんの数秒、沈黙が落ちた。

  「おい、誰だって聞いてんだよ。てか、こんな夜中に人んちの前に立たれてんの、普通に怖いんすけど」

  警戒しながら、距離を一歩詰める。しかし、男は動じることなく、大和の顔を見下ろした。

  「……忘れたのか」

  「は?」

  「俺との約束を、忘れたのか」

  声に微かに滲む怒気。けれど、それ以上に——。

  (なんだ、この感覚。)

  胸の奥に、小さな違和感が生まれる。この男、知らないはずなのに、どこかで——。

  「知らねぇよ。何の話だ?」

  そう答えると、男は、目を細めた。冷たい夜風が吹き抜ける。

  「……許さない」

  言葉の割に、怒気はなかった。むしろ、深い寂しさが滲んでいる。

  「本当に、忘れたのか?」

  大和は、ひとつ息を吐き、頭を掻いた。

  「いや、マジであんたが誰かもわかんないんだけど」

  「[[rb:霧生 > きりゅう]]だ」

  「だーかーらー、霧生って誰だよ!」

  「俺だ」

  「話にならん。帰れ」

  「帰らない」

  即答だった。話が通じる気がしない。

  しかし、霧生という名前を聞いた途端、なんとなく脳裏をよぎった感覚があった。まるで、ずっと昔に聞いたことのある名前のような——。

  一歩、霧生から距離を詰められる。思考に沈んでいた大和はハッと顔を上げて後ずさった。

  「いいから帰れって。俺んちの前でナンパみたいなことしてんじゃねぇよ」

  「ナンパではない」

  「わかってるわ!例えだろうが!」

  深夜の住宅街に、言い争う声が響く。そして——。

  「……ねぇ、あれって警察呼んだほうがいいんじゃない?」

  隣の部屋から聞こえるひそひそ声。

  背中に冷や汗が滲む。これ以上続ければ、本当に通報される。まだ引っ越してきたばかりだというのに。

  大和はぎりっと奥歯を噛み、霧生を睨みつけた。

  「……お前、本当に俺の知り合い、なのか?」

  「自分の胸に聞け」

  「クソ、もういい!」

  最悪、部屋で話を聞いて、納得できなかったら追い出せばいい。大和は乱暴に鍵を回し、ドアを押し開けた。

  「入れ」

  言うと、霧生は静かに頷いた。当然のように、何の躊躇もなく。

  「……はあ」

  部屋に入った大和は力なく床に座り込んだ。霧生と名乗った銀色の男は物珍しそうにあちこちを歩き回っている。

  「おい、うろうろすんな。一旦ここに座れ」

  大和は指でローテーブルをコンコンと叩き、向かいに座るよう手で示した。

  「ここは随分と狭いな」

  「お前なぁ、初対面の相手に部屋あげてもらってそれ言うか?」

  「初対面じゃない」

  遠慮のないその言い様に肩をすくめる。なんだかいちいちツッコむのも疲れてきた。諦めたように肩を落とし、冷蔵庫から麦茶を取り出す。

  「大和は変わったな」

  いきなり言われたその言葉に、コップにお茶を注いでいた手が止まる。振り返って見れば、男は不機嫌そうに床に座ったままぐるりを部屋を見回していた。

  まだ名乗っていないはずなのに——。この男、やはり大和のことを知っているのだ。

  「な、にが」

  「昔はもっと柔らかかった」

  「はあ?」

  「それに可愛かった」

  「はァァ?!」

  何を言い出すかと思えば、しょうもない。もしかして小学生時代の同級生だろうか。もしくは近所に住んでいたとか、親戚とか。いや、そんなはずはない。大和は自分の考えにかぶりを振る。さっき自分で思ったではないか、「こんなに美しい人間は見たことがない」と。

  「で、何の用で来たんだって?」

  コップを差し出しながらそう問うと、霧生は大和に向き直って、真剣な表情で言った。

  「約束どおり、家族になりに来た」

  「……は?」

  アパートの気温がわずかに下がった。しばしの静寂の後、フリーズしていた頭がようやく動き出す。

  「お前、ほんとに何者なんだ」

  霧生はわずかに目を細めて——。

  「神だ」

  大和はポカンと口を開け、今度こそ本当にフリーズした。

  ————————————————————

  大和は一旦考えることをやめた。さっきから言動がおかしいとは思っていたが、ここにきてこれである。

  (……ヤバい人だ。)

  頭の中で警鐘が鳴る。相手は酔っ払いでもなく、宗教勧誘でもなかった。ただの危険人物だった。

  しかし、こういう類の人間には否定も突っ込みも無意味だ。これまでのやりとりで痛いほどわかっている。

  「……そうか、そりゃすげえな」

  今はとにかく、刺激しないようにしよう。

  「俺は風呂に入るから、お前は勝手にしろ」

  そう言って大和は霧生をリビングに残したまま風呂場へ向かった。一人きりにしておくのも不安で、手早くシャワーを浴びる。熱い湯が肌を打つたびに、少しずつ思考がクリアになっていく。

  (神ってなんだよ……。絶対関わったらダメなやつじゃん。早く出ていってくんねぇかな。)

  どうやったら諦めて出ていってくれるのか。考えても考えてもいい案は浮かばなかった。

  溜め息を吐きながらバスタオルでざっと髪を拭き、浴室から出る。すると、座っていた霧生がじっとこちらを見つめていた。

  「……何だよ」

  「なるほど。身体を清めたんだな」

  霧生は腕を組み、納得したように頷いた。そして大和に近づくと、首筋に顔を埋めすんすんと鼻を鳴らしている。

  「ちょっ……お前、何?!」

  「せっかくの匂いが薄まっている」

  「は!?何言って……クソッ、離れろよ!」

  どことなく不満げに零した霧生を慌てて押しのけ、大和は手近にあったタオルを男の顔面に力いっぱい投げつけた。

  「お前もさっさと入れ!どうせ今日は出ていかねぇんだろ!」

  霧生はタオルを受け取り、少しの間それを見つめた。

  「ふん。大和の匂いが残っている」

  「————っ!?」

  ゾゾゾ、と大和の全身に鳥肌が立った。まったく意味が分からない。

  「もういいから、それ持ってさっさと風呂入れ!神だか何だか知んねぇけど、頼むから人間界のルールに従ってくれよ!」

  大和がぐっと声を強めると、霧生はしぶしぶといった様子で立ち上がった。

  「仕方ない」

  そう言いながら浴室へと向かっていく霧生を見送る。こめかみを押さえつつ、大和は深い溜息をついた。一応言うことを聞いてくれたのはいいが、これからどうすればいいのか。

  「まぁ、俺に危害を加えるつもりはなさそうだし、なるようになるか……」

  答えの出ないことをうだうだ悩んでも仕方がない。さっさと髪を乾かして寝よう。バスタオルでざっと水気を取る。ドライヤーを引っ張り出し、スイッチを入れた——その瞬間。

  ガチャ。

  「……」

  「……?」

  「は?」

  振り返ると、浴室から出てきた霧生と目が合う。タオルすら巻かず、髪から水滴をぼたぼたと落としながら、まるで修行を終えたというような顔で立っていた。

  「おい!なんでびしょびしょのまま出てくんだよ!!」

  大和が思わず叫ぶと、霧生はまったく悪びれる様子もなく、「ん?」と首を傾げた。

  「……入れと言われたから入った。終わったぞ」

  「絶対終わってねぇよ!まだ三分も経ってねぇだろ!」

  「言われたとおり水は浴びた」

  「うわ冷たッ!ほんとに水で済ませたんかよ!普通にお湯を使えバカ!」

  「湯が出るのか?」

  霧生は大層感心したように呟いた。

  「そこは贅沢なのだな」

  「普通だわ!!!」

  大和はがっくりと肩を落とし、タオルをつかんで霧生に押し付ける。

  「いいからもう一回入れ!シャワーの出し方くらい教えてやる!」

  半ば強引に霧生を浴室へ押し戻す。しかし、彼は微妙に渋い顔をしていた。

  「水浴びはあまり好きではない」

  「お湯だから!」

  風邪をひかれても困るし、何よりこんな状態のまま部屋をうろつかれるのはたまったもんじゃない。渋々もう一度風呂場へ向かう霧生を見送りながら、大和は深く溜め息をついた。

  なんやかんやで、結局全部世話をするハメになった。なぜなら、また湯だけ浴びて三分で出てこようとしたからだ。

  「シャンプーはこうやって泡立てて使うんだよ……って、何」

  「初めて見る」

  「ハァそうですか……ひとまずやってみろ」

  促すと、霧生はもこもこと泡立つシャンプーをじっと見つめた後、不器用に髪を擦り始めた。洗えていない部分を手伝ってやると、心地よさそうに身体を預けてくる。

  「大和にしてもらうのがいい」

  「アホ、甘えんな」

  「バカだのアホだの、神に向かって失礼な」

  「あーはいはい、スミマセンネ」

  なんとか髪も身体も洗わせ、無事に風呂から出られた。逃げようとする霧生を引き留めて全身をタオルで拭いてやる。本当に手のかかる男だ。なぜ自分がこんな訳のわからない不審者の面倒をみなければならないのか。

  それにこの男、ずっと距離が近い。洗っている最中も、今こうしてタオルで拭いている間も、ぴったりと身体を合わせてくる。

  「おい、離れろって。ちゃんと拭けないだろ!」

  「ん?」

  「『ん?』じゃねぇよ!お前パーソナルスペースって知ってる?!」

  「なんだそれは」

  「適切な距離感だよ!お前は距離がゼロすぎる!普通はもっと離れるもんだ!」

  「普通?」

  霧生は小首を傾げ、澄んだ瞳で大和を見つめる。

  「大和は嫌なのか?」

  「嫌に決まってんだろうが!」

  「そうか」

  霧生はあっさりと返事をすると、当然のようにまた体重を預けてきた。

  (なんで確認したんだよ!意味ねぇじゃん!)

  「だーかーらー、近すぎだって!」

  「お前が嫌がる理由がわからない」

  「……もうわかんなくていいから、とにかくどけ!」

  言っているそばから、霧生はまたしても小首を傾げ、大和の腕に指を滑らせるようにして掴んだ。思わず振り払おうとしたが——。

  (……いや、もういい。考えるのやめよ)

  ため息を吐き、大和はがっくりと肩を落とした。

  大和が余った部屋着を着せる。明らかに丈が足りていない。袖は手首まで届かず、ズボンの裾も中途半端に足首が覗いている。

  「……お前、でかいな」

  「ん?」

  大和は改めて霧生を見上げた。自分だってガタイはいいはずなのに、霧生の隣に立つと、やたらと体格差を意識させられる。妙にムカつく。なんか負けた気がする。

  そんなことを考えていると、霧生が大和の服の匂いをくんくんと嗅ぎ始めた。

  「おい……何してんだ」

  「お前の匂いがする」

  「……だから?」

  「嗅いでいる」

  「やめろっつってんだろバカ!!」

  霧生の腕をぐいっと引っ張り、頭をぐりぐりと押し下げる。

  「屈め!髪乾かすから!」

  霧生は素直に少ししゃがんだ。しかし、大和がドライヤーのスイッチを入れた途端——。

  「……!」

  びくりと肩を震わせると、さっと下を向き、手で耳を押さえた。

  「おい、顔上げろ」

  「うるさい」

  拗ねたような声。手は耳から離さない。ドライヤーの大きい音が苦手なのか。

  (距離の近さといい、やたら匂いを嗅いでくるところといい、これって……。)

  「お前、犬みたいだな」

  「犬じゃない。狼だ。」

  「はぁ!?」

  霧生はただ無表情でこちらを見ている。まるで、「今さら何を言っているんだ」とでも言いたげな顔で。

  (狼の神様って何のゲームだよ……。こいつ、やっぱヤバい。明日になったら絶対追い出す。)

  苦労しながらもドライヤーを済ませた頃には、大和の体力は尽きかけていた。

  「何も考えたくねぇ……俺はもう寝る。お前は勝手にしろ」

  「お前じゃない、霧生だ」

  「あーはいはい、霧生サン、おやすみ」

  大和はベッドに倒れ込む。すると——。

  ガサゴソ。

  後ろから、霧生がベッドにもぐり込んできた。

  「は?」

  「狭い。もっとそっちに寄れ」

  「いやいや、なんでだよ!神なら雲の上ででも寝てろ!」

  「なぜだ。寝床はここだろう」

  「ここは俺の寝床なの!わー!くっついてくんな!」

  「大和の寝床なら、俺の寝床でもある」

  「なんでだー!!」

  大和の抵抗などものともせず、霧生は当然のような顔で隣に陣取る。しかも、気がつけば背を丸めるようにして腕を回し、大和の背中に顔をスリスリと擦り付けてきた。これでは本当に犬ではないか。

  「ちょっ……おまっ……!」

  「……落ち着く」

  「落ち着くな!!」

  大和はじたばたと暴れたが、大きな身体で包み込まれて動けない。なぜかだんだん顔が熱くなってきた。

  (くっそ、なんでこんな……!)

  文句を言いたいのに、今日一日の疲れが一気に押し寄せてくる。

  「お前、ほんと、何……」

  最後に呟いたのを最後に、意識がふっと落ちていった。

  大和より少し体温の高い霧生に包まれるのは、思ったよりも心地よかった。

  ————————————————————

  ——どこか、静かな場所だった。

  冷たい石畳。風の音がざわざわと耳をかすめる。

  銀色の何か。いや、銀色の狼。

  ふさふさとした毛並み。力強く、それでいてどこか優しい瞳。

  自分は、その狼と向かい合っていた。

  小さな手をそっと伸ばす。

  狼は動じず、その手を受け入れるように鼻先を寄せた。指先に、あたたかい息が触れる。

  「……大和」

  耳元で囁くような声がする。

  誰の声だ?

  どこか懐かしくて、やけに心地よくて。

  「お前は俺と……」

  そこで、夢は途切れた。

  ————————————————————

  目覚める直前、じんわりとした温かさに包まれていた。まるで、ふかふかの毛布にくるまれているような——。

  そして、ふわりと鼻先をかすめた匂い。

  お日様みたいな匂いがする。どこか懐かしくて、胸の奥がざわつくような。それなのに、不思議と落ち着く。

  (なんか、悪くない……。)

  悪くないどころか、このままずっと包まれていたい。まどろんだ頭でぼんやりと考えていたが、遠くに目覚ましのアラームが聞こえてゆっくりと目を開けた。

  目の前に、白い喉元。

  そこから少し視線を上げると、端正すぎる顔立ちが目に入る。

  (すげーイケメン……誰だっけこいつ……。)

  薄く色づいた唇になめらかな肌。銀色の長い睫毛の先に、朝の光がきらめく。

  しばらく見惚れた後、少しずつ頭の中にかかっていたモヤが晴れていく。そして、ハッと目を見開いた。

  (あ、そうだ。こいつ、昨日ウチに押しかけてきたヤバい奴だ!!)

  そこでようやく状況を把握し、大和は慌てて起きあがろうとして、動けないことに気づく。

  まず、腕。霧生の腕ががっつり自分の身体を抱え込んでいる。次に、足。霧生の足が自分の足に絡んで、完全にロックされている。その上、身じろぎをした大和をより一層強く抱きしめ、頬を擦り付けてきた。

  「……大和」

  低く、優しい声。

  ゆっくりと霧生の瞼が開き、透き通るような青灰色の瞳が現れる。朝の光を浴びた霧生は、怖いくらい綺麗だった。

  「ッ!!!」

  大和は全身の毛が逆立つような気持ちで、力いっぱい腕を振りほどいた。

  「は、離れろ!!」

  霧生がきょとんとした顔でこちらを見上げる。

  「どうした?」

  「なんでもない!いいから起きろ!朝飯作る!!」

  勢いよく布団を剥ぎ取ると、霧生はわずかに不満げに眉を寄せた。

  「寒い」

  「知るか!!」

  キッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。

  (落ち着け俺!気のせいだ!気のせいだ!あいつがあったかかっただけ!!)

  ガチャガチャと食器を取り出しながら、霧生の腕の中が居心地よく感じてしまった自分を叱咤する。

  冷静になれ。昨日からの流れを思い出せ。こいつはただのヤバいやつで、神だとか狼だとか言って、アパートに転がり込んできただけの変な奴。

  イラつく気持ちを振り払うように、包丁を取り出した。食材をまな板の上に並べ、一気に下ごしらえを始める。

  味噌汁の出汁をとり、葱入りの卵焼きを作り、鮭を焼き、保温にしておいた残りのご飯をよそう。和食の朝食が、あっという間に整った。

  客人の予定など考えていなかったのだから、食器が足りないのは仕方がない。

  「霧生、いつまで寝てんだ、早く顔洗え。朝飯できたぞ」

  自分が何の疑いもなく二人分の用意をしていることに、大和はついぞ気づかないまま、未だ布団の中の男を叩き起こしに向かった。

  布団の中で丸まって眠る霧生を、大和は容赦なく揺さぶる。彼はまどろんだ様子で目を開けると、ゆっくりと起き上がり、大和にすり寄ってペロリと頬を舐めた。

  「ギャアアアア!!てめッ、この、何しやがる!」

  「……」

  飛び上がって距離を取った大和を追って、霧生がのっそりと立ち上がる。寝ぼけているのか、そのまま危ない足取りで洗面台へと向かった。

  嫌々ながらもまた霧生に顔の洗い方や歯磨きについて指南し、二人で部屋に戻る。

  「座れ」と指示すると、霧生は素直に席についた。だが、自分用に用意された食事を前に、じっと無言で眺めるばかり。

  「食わねぇの?」

  問いかける間もなく、霧生は迷うことなく鮭の切り身を手で掴み、そのまま齧りつこうとする。

  「ちょっ、待て!手で食うな!!」

  慌てて大和が霧生の手を払い、箸を持たせる。

  「こうやって持つんだよ。いいか、親指と——」

  大和が手本を見せると、霧生はじっとそれを観察し、見よう見まねで箸を持った。しかし、ぎこちない。なんとか形にはなったものの、手元が安定せず、今にも箸が落ちそうな雰囲気だった。

  「まぁ、何事も慣れだ……いただきます」

  とりあえず手を合わせてから、大和は自分の飯をかきこみ始める。少し冷めてしまったが味は悪くない、と思う。すると霧生は不思議そうに大和を見つめてきた。

  「何?」

  「いただきますって何だ。大和が作ったものだろう」

  不器用に箸を動かしながら、霧生が不思議そうに首を傾げる。

  「あ?……感謝の気持ちだよ」

  「感謝?」

  「食材とか、作った人とかに『ありがとう』って意味。で、食べ終わったら『ごちそうさまでした』って言う」

  説明すると、霧生は一瞬考えるような顔をしたが、次の瞬間、素直に「いただきます」と呟いた。大和は意外そうに目を瞬かせ、「おう」と小さく相槌を打った。

  霧生は特に気にした様子もなく、箸を再び動かし始めた。なんとか食べられてはいるものの、まだぎこちない。それでも、大和の手元をちらりと見ながら、少しずつ動作を真似しているのがわかった。

  大和が味噌汁をすすりながら横目で観察していると、霧生が再び鮭に箸を伸ばし——。

  そのまま骨ごとガブリと齧りついた。

  「おい!」

  思わず大和は箸を置き、霧生の手を止める。

  「骨があるだろうが!丸ごとかぶりつくやつがいるか!」

  「問題ない」

  「問題あるわ!食い方がワイルドすぎだろ、まったく……骨くらい取れ」

  「そのままでも食える」

  「だめだ、貸せ。こうやって……ほら、こうやって箸で持ち上げて、骨の流れに沿って……ほら、こう」

  大和は自分の箸で鮭の骨をきれいに取り除き、霧生の皿の上に置いた。

  「こうすりゃ食いやすいだろ」

  霧生はじっとそれを見つめ、しばらく沈黙したあと、一口食べる。そして、ゆっくりと噛みしめ——。

  「……うまい」

  ぽつりと呟いた。

  大和は思わず箸を止める。

  「お、おう……」

  「ありがとう。いただきます」

  「ど、ういたしまして」

  「何だ。何か間違っているか?」

  「間違ってない、けど」

  霧生は無表情のまま、淡々と食事を進めていく。次に手を伸ばしたのは卵焼きだった。

  一口食べる。

  もう一口食べる。

  「……」

  再び沈黙。そして、またひとつ。

  「お前、卵焼き気に入ったのか?」

  「美味い」

  「いや、めちゃくちゃ食うじゃん。俺の分も残しとけよ」

  霧生は淡々と卵焼きを食べ続ける。気に入ったらしい。大和は小さく笑いながら、自分もご飯をかきこんだ。

  「しかし、食事というのは手間がかかるものだな」

  「そりゃあな」

  「今まで食事をする必要はなかった」

  「あ、そう……」

  「だが、こうして大和と食べるのは悪くない」

  淡々とした口調でそう言いながら、霧生は最後の一口を食べ終えた。

  「ごちそうさまでした」

  言った後、霧生はまだ食事を終えていない大和をじっと見つめる。食べているところを見られるのは落ち着かない。急いで食べ進めながら、ふと自分の行動を思い返した。

  (なんで俺、こいつに箸の持ち方とか、骨の取り方とかをこんなに丁寧に教えてんだ?これからも一緒に住むみたいに……いやいやいや、今日出ていってもらうから!)

  やはり霧生は懐かしくて、温かい。けれど、何かがつっかえているようで、もどかしい。

  その違和感の正体が何なのか、大和はまだ気づかないまま、食べ終えた皿を手に取り、霧生の隣で一緒に片付けを始めた。

  結局、何度言っても霧生は部屋を出て行こうとしなかった。

  「なあお前、本当にずっとここにいるつもりなのか?」

  「当たり前だ」

  霧生が来てから数日。ローテーブルを挟み、大和はため息混じりに問いかける。不本意ながら、この数日間の同居生活で、霧生の存在に慣れてきてしまったのも事実だった。最初こそ「ヤバい奴」としか思えなかったが、蓋を開けてみれば手がかかるだけで危害を加えてくるわけではないし、なんなら動物みたいな素直さで懐いてくる。

  相変わらず距離は近いし、ふいに匂いを嗅いでくるし、頬とか首に鼻先を押し付けてくるし——。

  (……ツッコむのも面倒になってきたな)

  居心地が悪いわけじゃない。むしろ、部屋に帰るとそこに誰かがいるのは、どこか安心する感覚すらあった。今まで、家に帰ってそんなふうに思ったことなんてなかったのに。だが——。

  「だからって、ずっとここにいるわけにはいかねぇだろ」

  その一言に、霧生は少し首を傾げるようにして、まっすぐに大和を見つめた。

  「俺の居場所はここだ」

  迷いのない声だった。

  「……は?」

  「大和がいるなら、俺はどこでもいいが」

  霧生の言葉には、まるで「それ以外の選択肢はない」とでも言いたげな確信があった。軽い気持ちで言っているわけではないのが、嫌というほど伝わる。

  「いや、意味わかんねぇし……」

  大和は顔を顰めたが、霧生はただまっすぐこちらを見つめている。何も疑っていない目で。言い返そうとした言葉が喉の奥でつっかえ、出てこない。

  (なんで俺は強く拒否できねぇんだ……。)

  少しの間、沈黙が落ちた。大和はごちゃごちゃと考えそうになる頭を強く振り、深く息を吐いた。

  「……もういい、好きにしろ」

  霧生の目がわずかに緩む。

  「大和」

  「ただし!勝手に外に出るな!俺の部屋に住むんなら、俺の言うことは絶対だ!」

  「……」

  「どうせお前、まともな身分証もねぇんだろ?こんな目立つやつがふらふらしてたら絶対職質されるわ」

  「わかった」

  霧生は素直に頷く。

  「でも、買い物は行くぞ。お前の服もないし、生活用品も足りねぇ」

  「買い物?」

  「そうだ。お前の服とか、最低限のものを揃えないと」

  「ならば、大和に渡すものがある」

  そう言って、霧生は懐から無造作に札束を取り出した。

  ——束。

  「……は?」

  霧生は当然のように、大和の目の前に分厚い札束を置いた。

  「金だ」

  まるで「ほら、生活費とはこれだろう?」と言わんばかりの顔。ごく当たり前のことをしているつもりなのがありありと伝わる。

  「……ちょっと待て」

  じわじわと、嫌な汗が滲む。それは誰がどう見ても本物の金で、それも、相当な額だった。

  「お前、なんでこんな大金持ってんだよ」

  低い声で問いかける。

  「俺のものだ」

  「だから、どこで手に入れた!?まさか——」

  霧生はきょとんとした顔で大和を見つめる。

  「買い物には金が必要だろう」

  「いや……いやいや、待て、待て待て待て!」

  大和は札束を突き返し、椅子から立ち上がった。

  「金はいい!俺が悪かった!俺がなんとかするから、お前はその金しまっとけ!」

  霧生は眉をひそめた。

  「俺のものを買うのだから、俺の金を使えばいい」

  「いいから!しまえ!マジで!」

  金の出どころが怪しすぎて、大和は全力で拒否することにした。下手に関わって危ない目に遭うなどシャレにならない。高校時代にバイトで貯めた分がまだある。なぜ居候のために自分の金を使わねばならないのかと思いつつも、大和は霧生に金の話をするのはやめようと誓った。

  後日、最低限の生活用品を揃えるため、大和は霧生を連れて買い物に出た。

  「とりあえず、服な」

  「大和のでいいのに」

  「ダメだろ、サイズ合ってねぇんだから」

  霧生は何が不満なのか、淡々とした顔で「着られればいい」と呟く。

  「ほら、行くぞ」

  霧生は小さく首を傾げたが、素直に大和の後ろを静かについて歩いた。

  「どれがいい?」

  服の棚の前で、大和は霧生を振り返るが、霧生はやはり無関心そうに「どれでもいい」と答えた。

  「好みとかはねぇの?」

  「大和が選んだものなら、それがいい」

  「……あっそう」

  大和は反応に困りつつも、適当に選んだ無難なシャツとパンツを手に取った。シンプルなものでも嫌味なくらい似合っている。

  「ほんとになんでもいいのか?」

  「大和が選ぶなら、それで」

  試しに、派手な花柄のシャツを霧生の前にかざしてみる。

  「じゃあ、これでもいいんだな?」

  「大和が選ぶなら」

  「……いや、普通のでいいわ」

  結局、無難なデザインの服をいくつか見繕った。試着するよう言えば、案の定その場で脱ごうとしたため、無理に試着室に押し込む。

  「人前で脱ぐなー!」

  「ここで試着しろって言った」

  「そういう意味じゃねー!」

  目立たせまいと必死なのは大和ばかりのようだ。下着やタオル、生活雑貨などを一通り買い終えた頃には、大和はすっかり疲れ切っていた。

  帰り道。

  「あー疲れた。お前が普通に人前で服脱ぎ始めたのにはびっくりしたわ」

  「試着室など知らなかっただけだ」

  「はいはい、教えてなくてスミマセンでしたー」

  霧生の不遜な態度ももう慣れたものだ。適当な会話をしながら二人並んで歩く。

  「店員とか他のお客さんに見られてたらやばかったな。お前の裸とか、死人が出そう」

  「見ただけで死ぬのか?」

  「大興奮でな」

  「興奮だけで人は死なない」

  噛み合っているんだかいないんだかわからない二人の掛け合いは、暗くなった夜道に静かに溶けていく。

  そういえば、霧生が隣にいても意外と周りは気にしていなかったなと、大和は思い返した。こんな外国人モデルみたいな男、普通ならコソコソ見られたり、話しかけられたりするだろうに。不審がられるのを避けるためにフードを被らせたのがよかったのかもしれない。それとも、自分が隣にいたからだろうか。

  (まぁ、みんな所詮他人のことなんてそこまで気にしないか……。)

  大和は違和感を抱えつつも、一人納得して帰りを急ぐ。荷物はそれなりにあるはずなのに、なぜか足取りは軽いように感じた。

  

  ————————————————————

  春休みが終わり、大和は専門学校の門をくぐった。

  動物関係の仕事を目指す生徒が集まる場所。専門学校らしく様々な年齢層の生徒がいるのがわかった。

  入学式はあっという間に、クラスごとに教室へ移動する。

  (まあ、最初はこんなもんだよな。)

  周りを見渡せば、ちらほらと会話が生まれているグループもあるが、大和に話しかけてくる者はいない。別に驚きはしなかった。見た目が原因で怖がられるのは、もう慣れたことだ。ガタイが良いせいで、意図せず周囲に圧を与えてしまうことも多い。

  (話しかけられねぇなら、こっちもわざわざ絡む必要ねぇし。)

  そう考えていた矢先、足元を何かがすり抜けた。

  「ん?」

  ふと下を見ると、小さな柴犬がちょこんと座ってこちらを見上げていた。

  「ちょ、ちょっと!もも!どこ行くの!」

  飼育実習用の犬だろうか。慌てた様子で女の子が駆け寄ってきた。もも、と呼ばれた柴犬は、大和の足元に擦り寄り、ちぎれんばかりにしっぽを振っている。

  「ももか。ん、いい子だな」

  大和がしゃがんでそっと手を差し出すと、ももが躊躇いなくペロペロと指を舐めた。

  「えっ、すごい、ももって、普段は警戒心強いのに……」

  驚いたように目を丸くするその子に、大和は「そうなのか」とだけ返す。

  「え、あの……もしかして、動物飼ってました?」

  「いや、家の事情で飼ったことねぇ」

  「そうなんだ……でも、すごいなぁ」

  彼女は不思議そうにしながら、もものリードを持ち直した。そのやりとりを見ていた一人の男子が、ぽつりと漏らす。

  「へぇ、意外と普通に話すんだね」

  不意に言われ、大和は少し眉を上げた。

  「ん?」

  「いや、めっちゃヤンキーだと思ってビビってた。俺、本田。よろしく」

  「……まぁ、よく言われる。俺は藤崎。こっちこそよろしく」

  そう返すと、本田はふにゃりと笑って握手をしてきた。本田の周りにいた何人かの男子生徒達も会話に加わる。

  「動物に懐かれるし、なんかギャップすごいな」

  「ヤンキーなのに優しいって漫画でよくあるやつじゃん。モテそー」

  「なんだそれ」

  モテないわ、と本田を小突くと、小さく笑いが広がる。同じ趣味嗜好を持つ生徒が集まっている専門学校だけあって、最初こそ距離を取られていたものの、どうやら壁はそこまで高くなかったようだ。高校時代とはまた違うクラスの雰囲気に、大和は無意識のうちに張っていた緊張の糸を、ふっと緩めた。

  ——学校もなんとかなりそうだ。

  安堵の息を吐きながら、窓の外をぼんやりと眺める。どこか遠くで、犬が一声、短く鳴いた気がした。

  授業が終わり、教室を出ようとしたところに本田が話しかけてくる。

  「藤崎って、家どこ?下宿?」

  「下宿。最寄りは〇〇駅だな」

  「おお、俺もそっち方面だ。せっかくだし一緒に帰ろうぜ」

  「悪い、俺バイク通学なんだわ」

  「はは、そこはギャップねぇのな」

  「バイクなんか誰でも乗ってんだろ……」

  バイトもあるから急ぐわ、と小さく手を挙げて謝罪する。本田や他のクラスメイトも「また明日な」と軽く手を振った。

  初日からこんなに打ち解けられるなんて、不思議な感じだ。なんだか胸がムズムズする。少しだけ緩みそうになる口元を引き締めながら、大和は駐輪場へ急いだ。

  夜遅く、居酒屋のバイトを終え、大和はアパートへの帰路についた。バイクで繁華街を抜けると、熱を持った肌をひんやりとした夜風が撫でる。喧騒が遠ざかるにつれ、じわじわと疲労が体にのしかかった。

  (なんだかんだ、やっぱり疲れたな……。)

  帰り道、信号待ちの間に今日の出来事をぼんやりと振り返る。学校は思ったほど悪くなかった。バイトはいつも通り。なのに、なぜか今日はやけに帰り道が長く感じる。

  やっとアパートの前に着き、ポケットから鍵を取り出して扉を開けると——。

  「おかえり、大和」

  当たり前のように、玄関を開けた先に霧生がいる。ふわりと抱きしめられ、すっかり恒例となった匂いチェックが始まった。

  「……ただいま」

  返してから、一瞬固まる。

  (あれ、なんか今、めっちゃ肩の力抜けた……。)

  霧生がいる生活には慣れたつもりだったが、この何気ないやりとりとスキンシップに、妙に胸がそわそわして落ち着かない。慣れたどころか、霧生に心を許しすぎているような——。

  「あー、えっと、お前、もう飯食った?」

  「ああ。作り置きしてくれていただろう。食器も洗っておいたぞ。風呂も沸いてる」

  「……サンキュ」

  否定できない。霧生を見た瞬間に、霧生に包まれた瞬間に、ふっと身体が軽くなるなんて。あれほど早く追い出そうと思っていたのに。

  「大和、次学校に行くのはいつだ」

  「あ?普通に明日だけど。てか、学校なんだから平日は毎日だぞ」

  「嫌だ。学校は辞めろ」

  「は?何言ってんだ」

  「それか俺も学校へ行く」

  「それこそ何言ってんだバカ!!」

  ——訂正。やっぱり霧生の相手は疲れる。もう、追い出そうとまでは思わないけれど。

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