どれくらいの時間、そうやって呆けていただろうか。
数分か、それとも数時間か。
鼓動がようやく落ち着きを取り戻し、冷え切った汗が背中を伝う感覚が戻ってきた頃、アタシはようやく深い溜息を吐き出した。
「……はぁ」
肺に溜まっていた熱を全て吐き出すと、少しだけ冷静さが戻ってくる。
感傷に浸っている場合じゃないわ。
アタシは生き残った。それだけが事実。
問題は、「なぜ失敗したか」だ。
アタシは眉間を揉みほぐしながら、記憶の中のデータを冷徹に再構成する。
計算ミスではない。術式の欠陥でもない。
アタシがミーティアという膨大な魔力タンクを接続し、いざ実行に移った瞬間。
予期せぬエラーが起きた。
アタシは震える指先を、ドレスのポケットへと突っ込んだ。
指の腹に触れる、ガサガサとした安っぽい布の感触。
それを掴み出し、作業机の上に乱暴に叩きつける。
白と黒の市松模様。
どこかの運動会で使うような、滑稽なほどチープな旗。
けれど、今の魔法眼を通してみれば、その布切れから立ち上る魔力の残滓は、毒ガスのように禍々しく揺らめいていた。
ゴール旗。
こいつが、元凶だ。
アタシは指一本、この旗には触れていなかった。
それなのに、こいつは勝手に反応した。
まるで、その場の「盛り上がり」を感知して、勝手に演出過剰なフィナーレを用意したかのように。
『666倍』。
脳裏で浮かんだその数値に、背筋が凍る。
増幅なんて可愛いものじゃない。あれは「バグ」よ。
通常では説明がつかない異常な係数。
1の力を666に変えるなんて、神の悪戯か、悪魔の嘲笑か。
あの真紅の魔導書と同じ、この世界の理を根底から覆す規格外。
アタシは机上の旗を睨みつけた。
布切れは、何事もなかったかのように静まり返っている。
まるで、アタシを試しているようだわ。
確かに、威力は魅力的よ。
これを使えば、どんな堅牢な結界も、どんな軍隊も、紙屑のように吹き飛ばせるでしょうね。
けれど……。
「……使い物にならないわね」
アタシは吐き捨てる。
武器というのは、引き金を引けば弾が出るから武器なのよ。
いつ爆発するかわからない、あるいは勝手に爆発する爆弾なんて、ただの自殺志願者のオモチャだわ。
制御不能な力は、力じゃない。ただの災害よ。
アタシは支配者になりたいのであって、災害の生贄になりたいわけじゃない。
前回のような、「意図しない暴走」で自滅するなんて、三流の悪役以下の末路だわ。
アタシの長耳が、不快そうにパタンと垂れ下がった。
まだ指先が微かに痺れている。
あの時、制御権を奪われた瞬間の、全身の血液が逆流するような喪失感。二度と味わいたくない。
方針転換が必要ね。
アタシ自身の手で、アタシの魔力で、あるいはアタシが完全に制御できる「駒」を使って壊さなければ意味がない。
不確定要素は排除する。
このふざけた旗も、そして……アタシの計算を超えてくるあの子の魔力も。
アタシは旗を丁寧に、しかし忌々しげに折り畳み、机の引き出しの最奥へと押し込んだ。
鍵をかける。
二度と、軽々しくは使わない。
これは「詰み」が見えた時の、最後の自爆スイッチとして取っておくのがお似合いよ。
アタシは机の上に広げられた、使い古された羊皮紙の地図へと視線を落とした。
指先が、インクで描かれたオトヌ地方の輪郭をなぞる。
ソルシエ、フェネンス、ベルツ……。
数百年かけて築き上げられた、魔獣たちの自尊心と繁栄の象徴たる都市名。
今頃、あちらの「未来」では、これら全てが消滅していることでしょうね。
ふと、爪先が地図上のソルシエ一点に食い込んだ。
カリッ、と乾いた音がして、羊皮紙が僅かに破れる。
あの光。
網膜に焼き付いて離れない、絶対的な白。
あれは都市を破壊するなんて生易しい出力じゃなかった。地形そのものを抉り取り、地図を書き換えてしまうほどのエネルギーだわ。
おそらく今頃、オトヌ地方の中心には、底が見えないほど巨大なクレーターが口を開け、周りの海が滝のように流れ込んでいるはず。
数千万の命が一瞬で蒸発し、悲鳴を上げる間もなく原子へと還る。
……想像するだけで、ゾクゾクするような絶景だわ。
アタシの口角が、自然と吊り上がる。
それこそが、アタシが夢見た結末。
この腐った世界に対する、最大級の復讐。
けれど。
吊り上がった頬の筋肉が、ピクリと痙攣して硬直した。
その「絶景」の中に、アタシの死体も混ざっているとしたら?
いいえ、死体すら残らない。
あのエネルギーの奔流に飲まれれば、アタシの高貴な肉体も、憎悪に燃える魂も、等しく光の粒子となって霧散する。
誰の記憶にも残らず、ただの「災害の一部」として消え去る。
「……笑えないわね」
アタシは不快感を振り払うように、首を振った。
側頭部の長耳が、ペチリと頬を打つ。
それじゃあ、意味がないのよ。
アタシは、あいつらが絶望に顔を歪め、泥水を啜りながら死んでいく様を、この目で見届けたい。
安全な場所で、優雅に紅茶でも啜りながら、燃え盛る街を眼下に眺めて、「ざまあみろ」と嘲笑ってやらなきゃ気が済まない。
もし、この『セーブ&ロード』の魔法がなければ、敵と刺し違えるという選択肢も悪くはなかったかもしれない。
刺し違えてでも世界を殺せるなら、それはそれで一つの美学だわ。
でも、今は違う。
アタシの手には、真紅の魔導書がある。
何度でもやり直せる、神の権能がある。
アタシは机の端に置かれた魔導書の表紙を、愛おしげに撫でた。
冷ややかな革の感触が、高ぶった神経を鎮めてくれる。
一度きりの命をチップにして博打を打つなんて、持たざる者の戦法よ。
全てを持っているアタシは、もっと貪欲でなくては。
命も、勝利も、愉悦も。何も手放さない。
舞台の上で踊るのは愚かな道化たちだけで十分。
アタシはその劇場のオーナーとして、特等席で破滅という名のオペラを鑑賞するのよ。
そうだわ。
次は、アタシの手は汚さない。
アタシは影に徹し、安全圏から破滅の種を撒く。
そう、決めたはずなのに。
アタシの視線は、無意識のうちに地図上の「ある一点」で止まっていた。
ソルシエの街外れ。
そこにあるはずの、小さな公園の場所で。
……
カツ、カツ、カツ……。
羽ペンの硬いペン先が、机の上で焦燥のリズムを刻んでいる。
アタシは真っ白な羊皮紙を睨みつけていた。
『Plan C: 』。
表題を書きかけてから、もう何分が経過しただろうか。
インクが乾き、ペン先から黒い雫がポタリと落ちて、紙の上に醜い染みを作った。
その黒い楕円が、嘲笑うようにじわりと繊維に滲んでいく。
書けない。
思考の歯車が、錆びついたように噛み合わない。
脳裏に浮かぶのは、緻密な戦略でも、マジリシア滅亡を成し遂げた未来の姿でもない。
まとわりつくような、「熱」だ。
アタシはペンを置き、無意識のうちに自分の胸元を強く鷲掴みにしていた。
ドレスの薄い生地越しに、心臓の鼓動が掌を突き上げる。
そこに、まだ残っているのだ。
ロード魔法で全てを無かったことにしたはずなのに。
あの猫娘が、死の直前にアタシを庇って抱きついた、あの柔らかくて強い感触が。
皮膚の表面に、見えない火傷のように焼き付いて消えない。
「……鬱陶しいわね」
アタシは首を振り、こめかみを指の関節でグリグリと押し込んだ。
頭痛がする。
この『セーブ&ロード』という魔法の正体は、未だ不明だ。
アタシが時間を遡った後、あとに残された世界はどうなるのか。
フィルムを巻き戻すように、世界そのものが消滅して「現在」に統合されるのか。
それとも――アタシという観測者だけが抜け落ちた、「残骸としての未来」がパラレルワールドとして存続し続けるのか。
もし、後者だとしたら。
ズキリ、と胃の腑が重く沈んだ。
想像したくもない光景が、アタシの意思を無視して脳裏にフラッシュバックする。
一度目の世界。
あそこでアタシは、怪我をしたアタシを匿ってくれた彼女を見捨てて逃げ出した。
あの部屋に踏み込んだのは、血に飢えた狂犬、ドーベル警部だ。
テロの首謀者を逃した怒りは、どこへ向かう?
残されたのは、アタシの痕跡だらけの部屋と、事情を知らない哀れな少女一人。
――想像に難くない。
彼女は、連行されたはずだ。
あの華奢な腕に冷たい手錠を嵌められ、粗暴な大人たちに怒鳴られながら。
「あの女はどこへ行った」「何を企んでいた」と、何時間も、何日も、終わりのない尋問責めに遭う。
星を見上げる自由を奪われ、薄暗い独房で、信じていた「友達」に裏切られた絶望を抱えたまま、膝を抱えて震えているかもしれない。
そして、二度目の世界。
あれはもっと最悪だ。
暴走する光の中で、彼女はアタシを守ろうとした。
その腕の中から、アタシだけが忽然と消え失せたとしたら?
彼女は、空っぽになった腕で、何を抱きしめて最期を迎えたの?
一人ぼっちだ。
誰もいない、何も聞こえない轟音の中で。
「ありがとう」なんて馬鹿な言葉を遺して、たった一人で。
「ッ……!」
アタシは反射的に、机の上のインク瓶をなぎ払っていた。
ガラスの砕ける鋭い音が、静寂を引き裂く。
黒い液体が床に飛び散り、アタシのスカートの裾を汚した。
呼吸が荒い。
喉の奥で空気が悲鳴を上げている。
アタシの長耳が、怯えた小動物のように細かく痙攣し、頭皮に張り付いている。
なによ、これ。
なんでアタシが、あんな道具の心配をしなきゃいけないのよ。
あの子はただのエネルギー源。使い捨ての乾電池と同じ。
利用して、捨てて、壊れたら新しいものに変える。それがアタシのやり方でしょう?
なのに、どうして。
胸の奥が、こんなにもザラザラして、気持ち悪い。
罪悪感? 馬鹿言わないで。アタシは悪よ。世界を壊す魔女よ。
そんな綺麗な感情、アタシの辞書には載っていないはずなのに。
アタシは震える手で顔を覆った。
指の隙間から漏れる吐息が、熱い。
瞼の裏に、あの無垢な笑顔が焼き付いている。
星の話をする時の、キラキラした瞳。
アタシに向けられた、一点の曇りもない信頼。
……あんな未来を、あの子に残してきたというの?
碌な結末じゃない。
アタシが関わったせいで、あの子の平穏な日常は、泥と血に塗れた。
アタシはゆっくりと、顔を上げた。
インクで汚れた床を見る。
黒い水溜まりが、まるで底なしの沼のように見えた。
思考がまとまらない。
次の作戦? 効率的な破壊?
そんなことより、今、アタシの頭を占めているのは、たった一つの、どうしようもない衝動だけだった。
鼻腔を突く鉄錆びたインクの臭いが、吐き気を催すほどに濃い。
アタシは汚れたスカートの裾を掴もうとして、指先が震えて止まらないことに気づき、そのまま力を抜いた。
黒い染みが、上質な生地の繊維一本一本を侵食していく様を、ただ虚ろな目で見つめる。
ダメだわ。
これ以上、あのピンク色の幻影を追いかけていたら、アタシの精神が焼き切れてしまう。
思考を止めなきゃ。
強制的にでも、このオーバーヒートした脳髄を冷却しないと。
アタシは重力に負けた人形のように、背後の長椅子へと倒れ込んだ。
ギシッ、と古びたスプリングが不満げな音を立てる。
埃っぽいクッションに顔を埋めると、カビと古い紙の匂いがして、それが妙に落ち着くのと同時に、どうしようもない惨めさを掻き立てた。
瞼を固く閉じる。
視界を遮断しても、網膜の裏ではまだ、あの爆発の閃光と、少女の笑顔が明滅を繰り返している。
アタシは自身の両肩を抱き、胎児のように膝を抱えて丸まった。
スカートの中で行き場を失った蛇の尾が、冷え切った肉塊となってアタシの足首にまとわりつく。
鱗越しに伝わるその生々しい重みと冷たさが、アタシがいかに弱りきっているかを、物理的に教えてくるようだった。
意識のスイッチを、乱暴に切る。
考えるな。感じるな。
ただの肉塊になりなさい。
アタシは自分自身に呪いをかけるように念じ続け、泥のような微睡みの底へと沈んでいった。
……
肌寒さで、意識が浮上した。
目を開けると、世界の色が変わっていた。
朝方の、あの突き刺すような白い採光はもうない。
工房の高い位置にある小さな窓枠が、群青色の絵の具で塗り潰されている。
部屋の隅々まで濃密な影が侵食し、散らばった羊皮紙や実験器具の輪郭を曖昧に溶かしている。
いつの間に?
数分だと思っていた。けれど、身体の節々が固まっている感覚と、喉の渇きが、数時間単位の喪失を告げている。
アタシはのろりと上半身を起こした。
首の骨がポキリと鳴る。
血管を流れる血液が、冷えて重たくなった水銀のように感じられた。
何もしなかった。
世界を滅ぼす策を練るべき貴重な時間を、ただ蹲って浪費した。
その事実が、鉛のように胃の腑にのしかかる。
ふと、視線が窓へと吸い寄せられた。
分厚いガラスの向こう、夜の帳が下りた空。
普段なら、魔術実験の煙や街の明かりで濁って見えるはずのソルシエの空が、今夜に限って、忌々しいほどに澄み渡っている。
そこには、無数の光の点が散らばっていた。
ダイヤモンドを砕いてベルベットの上にぶちまけたような、冷たく、鋭利な輝き。
大気の状態が安定しているのか、星々の瞬きは強く、まるで地上を監視する無数の目のようだ。
……綺麗だなんて、思いたくないのに。
アタシは無意識に長椅子から立ち上がり、窓の下へと歩み寄っていた。
窓枠に手をかける。
指先が冷たいガラスに触れると、そこから夜気の冷たさが伝わってくる。
星。
あの子が、あんなにも執着していた光。
独房のようなこの部屋から見上げるそれは、あまりにも遠く、そして残酷なほどに平等に輝いている。
この空の下のどこかに、あの子がいる。
「今」のアタシを知らない、まだ絶望を知らない彼女が。
心臓が、トクリと鳴った。
一度認識してしまうと、もうダメだった。
視線が、思考が、磁石のように吸い寄せられる。
会いたいわけじゃない。
ただ、確かめたいだけ。
あの子が、アタシのせいで壊れていないか。
あの子が、今日も変わらず、あの場所で馬鹿みたいに星を見上げているか。
それを確認しなければ、アタシは一歩も前に進めない気がした。
これは偵察よ。そう、ただの状況確認。
自分に言い訳を重ねながら、アタシはドレスの埃を払い、重たい扉へと手を伸ばした。
……
夜風が、インクで汚れたドレスの裾を揺らす。
普段なら気にも留めないその冷たさが、今日ばかりは皮膚を刺すように敏感に感じ取れた。
アタシは工房の重い鉄扉を背にして、闇に沈むソルシエの街並みを睨む。
足が勝手に動いていた。
目的地なんて決まっていないはずなのに、足が刻むリズムは、無意識にあの場所へと向かう最短ルートをなぞっている。
街外れの、あの人気のない公園。
「前の世界」で、彼女と出会った場所。
……行って、どうするつもり?
路地裏の影に身を隠しながら、アタシは自問する。
彼女はもう、アタシのことを知らない。
「星の井戸」の秘密も、「地脈の暴走」も、アタシが彼女に向けた殺意すらも、全てリセットされている。
彼女にとってアタシは、ただの不審な夜歩き女だ。
それに、もう一度あの手順を踏むの?
何日もかけて公園に通い詰め、安っぽいミルクティーで機嫌を取り、星の話に合わせて相槌を打ち、信頼を勝ち取る。
あんなまだるっこしい茶番劇を、もう一度?
効率が悪すぎる。
それに、結果は見えている。
彼女の魔力は、アタシの手には余る。あれを利用しようとすれば、またあのゴール旗が反応して、世界ごと吹き飛ぶのがオチだわ。
リスクが高すぎる。彼女を計画に組み込むメリットなんて、もう何もない。
そう、これは合理的な判断よ。
アタシは自分自身に言い聞かせる。
彼女を避けるのは、アタシの崇高な目的のため。決して、彼女を巻き込みたくないとか、もう二度とあんな悲しい顔を見たくないとか、そんなセンチメンタルな理由じゃない。
……ええ、違うわよ。絶対に。
アタシは強く奥歯を噛み締め、早足になった。
誰に言い訳をしているのかも分からないまま、石畳を蹴る音が夜の静寂に虚しく響く。
心拍数が、歩調に合わせて加速していく。
喉が渇く。
もし、彼女がいなかったら?
もし、もう二度と会えなかったら?
そんな、ありもしない不安が胸の奥で黒い棘となってチクチクと突き刺さる。
角を曲がる。
視界が開け、見慣れた公園の全貌が月明かりの下に浮かび上がった。
錆びついたブランコ。
誰もいない砂場。
そして、小高い丘の上に鎮座する、古ぼけた木のベンチ。
……いない。
アタシの足が、ピタリと止まった。
ベンチの上は空っぽだった。
あの巨大な望遠鏡も、丸まった背中も、風に揺れるピンク色の髪も、どこにもない。
あるのは、冷たい月光が照らし出す、無機質な木の板だけ。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
時間が早すぎたのかしら。
それとも、今日は体調が悪くて休んでいるの?
いや、もしかして……アタシが世界を書き換えた影響で、彼女の存在そのものが消えてしまったのでは?
「……ッ、馬鹿なこと考えないで」
アタシは頭を振り、早鐘を打つ胸を押さえながら、丘を駆け上がった。
息が切れる。
普段なら、こんな無様な姿、誰にも見せられない。
ベンチに辿り着き、その背もたれに手をかける。
冷たい。
人の温もりなんて、欠片も残っていない。
「……はぁ」
深い溜息が漏れた。
安堵なのか、落胆なのか、自分でも判別がつかない。
アタシは力を失ったように、その冷たいベンチへと腰を下ろした。
スカートの裾が、カサリと音を立てる。
隣を見る。誰もいない。
いつもなら、ここに彼女が座っていて、アタシが来るのを待っていたのに。
あの甘いミルクの匂いも、はにかむような笑顔も、今はただの記憶の中にしかない。
……静かすぎるわ。
アタシは空を見上げた。
満天の星空。
彼女が愛し、アタシには見えなかった世界。
今夜は、雲ひとつない。
無数の星々が、まるでアタシの愚かさを嘲笑うように、冷ややかに瞬いている。
アタシは膝の上で手を組んだ。
指先が震えているのを隠すように、強く握りしめる。
星を見上げるなんて、いつぶりかしら。
彼女に出会う前は、空なんてただの「天井」でしかなかった。
でも今は、この光の一つ一つに、彼女の言葉が重なって聞こえる気がした。
首の裏側が、ギシギシと軋む音がした。
アタシはベンチの背もたれに全体重を預け、ただ呆然と頭上の虚空を見上げ続けていた。
瞬きをするたびに、乾いた角膜を涙の膜が覆い、無数の光の点が滲んで乱反射する。
痛いほどに、鮮明だわ。
『……気が付いたら、誰もいない星空を眺めることばかりしてまシタ』
鼓膜の奥で、あの子の少し鼻にかかった声が蘇る。
あの時、アタシはその言葉を聞き流すことができなかった。
嘲笑うことなんて、できるはずがなかった。
あの一言は、鋭利な氷柱となって、アタシの胸郭の隙間を滑り込み、一番柔らかくて脆い部分を容赦なく突き刺していたから。
だって、それはアタシと同じだもの。
視界を埋め尽くす光の粒子。
それらは、アタシを見下ろしているけれど、決して監視しているわけではない。
アタシが世界を壊そうとする魔女だろうが、路地裏で震える孤児だろうが、あるいはただの石ころだろうが、関係ない。
等しく照らし、等しく突き放し、ただ圧倒的な「事実」としてそこに在る。
嫌悪もなければ、崇拝もない。
息が詰まるような期待も、背筋が凍るような蔑みも、ここには存在しない。
……ああ、そうか。
これは「救い」だわ。
アタシは無意識に、首元のドレスの襟を緩めた。
冷たい夜気が、熱を持った鎖骨を撫でていく。
この絶対的な無関心こそが、異端として弾き出されたあの子にとって、唯一呼吸ができる場所だったのね。
誰の目も気にせず、誰の顔色も窺わず、ただ「自分」として存在することを許される、静寂の聖域。
アタシの記憶の底から、カビ臭い匂いが這い上がってくる。
実家の屋敷。
重厚な漆黒のカーテンは常に閉ざされ、外界の光を拒絶していた。
壁一面を埋め尽くす肖像画の視線。
廊下ですれ違う使用人たちの、息を殺した気配。
アタシの世界は、あの四角い箱庭の中だけで完結していた。
そして、逃げ出した先のこの工房でも、結局アタシは窓を塗り潰し、地下に潜り、机上の羊皮紙と睨めっこをしていただけ。
視線は常に下を向いていた。
インクの滲みと、呪いの術式と、どす黒い復讐の炎だけを見つめて生きてきた。
もし。
もしも、もっと早く顔を上げていれば。
いいえ、違う。きっと自分一人じゃ無理だった。あの屋敷のカーテンは、子供の細腕には重すぎたのよ。
だから……誰かが。
呼吸を止めてアタシを避ける連中じゃなくて。
埃被った書斎の扉を乱暴に蹴破って、アタシの冷え切った手を強引に引いて、この夜風の中に連れ出してくれる「誰か」がいてくれたら。
『天井ばかり見てないで、これを見なさい』って。
昨日のアタシが、あの子の手を引いて地下へ降りたみたいに。
そんな誰かが、あの日のアタシの傍にいてくれたら。
アタシの喉の奥で、何かが詰まったような音が漏れた。
スカートの下で、蛇の尾が苦しげにうねり、自身を抱きしめるように強く巻き付く。
鱗と鱗の擦れ合う微かな音が、衣擦れに混じって響く。
この頭上に広がる、あまりにも広大で、静謐な美しさに気づいていれば。
アタシの血管を流れるこのマグマのような憎悪は、少しは冷やされたのだろうか。
「化け物」として牙を研ぐのではなく、ただの星好きな魔獣として、誰かと並んでこの空を見上げるような……そんな、ありふれた幸福を望むことができたのだろうか。
……馬鹿ね。
今更だわ。何もかも。
アタシは自嘲気味に唇を歪めようとして、顔の筋肉が強張って動かないことに気づく。
目頭が熱い。
星の光が強すぎて、目が痛いのよ。きっと、そうに決まっている。
その時だった。
チリン、と。
背後の闇から、涼やかな鈴を鳴らしたような声が、鼓膜を震わせた。
「……こんばんは。綺麗な星空デスね」
ビクリ、と。
アタシの肩が、無様に跳ね上がった。
心臓が早鐘を打ち、全身の血液が沸騰したように駆け巡る。
この声。このイントネーション。
聞き間違えるはずがない。
恐る恐る、油の切れたブリキ人形のような動作で首を回す。
そこにいた。
夜闇に溶けるような暁色のローブ。帽子から飛び出した、ピンク色の三角形の耳。
大きな天体望遠鏡を背負い、小首をかしげてこちらを見つめる少女。
ミーティア。
安堵か、恐怖か。名状しがたい感情が胸の奥で爆発し、アタシは息を呑んだ。
生きていた。存在していた。
アタシの度重なる歴史改変の波に飲まれることなく、彼女はここに立っている。
「驚かせてしまいまシタか? すみまセン、ベンチに先客がいるなんて珍しくて」
彼女はペコリと頭を下げ、人懐っこい笑みを浮かべた。
その表情に、警戒心のかけらもない。
……おかしいわね。
この世界線において、アタシたちは「初対面」のはずだ。
深夜の公園に佇む不審な女なんて、普通なら距離を取って様子を伺うのが正常な反応でしょう?
なのに、彼女はまるで待ち合わせをしていた友人に話しかけるような距離感で、アタシの隣へと歩み寄ってきた。
「不思議デスね……」
彼女はアタシの顔をじっと見つめ、透き通った夜空のような瞳を瞬かせた。
「初めてお会いするはずなのに、なんだか……ずっと前から知っているような気がしマス。懐かしくて、とても大切な……」
彼女の言葉に、アタシの眉間に皺が寄る。
……はぁ? 何を言っているの、この子は。
ロード魔法は世界を再構築する。記憶も、事象も、全てリセットされるはずだ。
前の世界で、アタシが彼女を騙し、利用し、死なせた記憶なんて残っているはずがない。
だとしたら、今の言葉は何?
単なる人違い? それとも、寂しすぎて初対面の相手に勝手な幻想を抱いているだけ?
気味が悪い。
原因は分からないけれど、その無防備な眼差しが、アタシの罪悪感を勝手に刺激してくる。
「……奇遇ね。アタシも、そんな気がしていたところよ」
アタシは内心の動揺をひた隠し、精一杯の虚勢を張って、年上の余裕を演じて微笑んでみせた。
声が震えないように腹に力を入れる。
深入りはしない。適当に話を合わせて、すぐに立ち去るべきだ。
彼女は嬉しそうに目を細め、隣に腰を下ろした。
望遠鏡を抱え、夜空を見上げる。
「今日は北の空が澄んでいマス。あっちの山の方に行けば、もっとすごい星が見えると思うんデスけど……」
「北?」
アタシは釣られて、北の空を見た。
オトヌ地方の北。深い森林地帯の向こう側。
「ハイ。オトヌとロシアーニャの国境近くにある深い森なんデス。街から遠くて不便な場所なんデスけど、その分、空気が澄んでて街明かりもないから、星を見るには最高なんデスよ」
「……ロシアーニャ」
その単語が出た瞬間、アタシの脳裏に電流が走った。
前の世界。地下深くで遭遇した、あの無慈悲な殺戮機械。
魔法を弾く装甲。感情を持たない自動兵器。
圧倒的な科学力を誇る、謎の国家。
――待って。
それだ。
思考のパズルが、凄まじい勢いで組み上がっていく。
アタシが手を下す必要なんてない。
アタシが持っているのは「情報」と「魔力」、そして「やり直す時間」だ。
もしアタシが、その国境付近で「何か」をして、ロシアーニャを刺激したら?
奴らの矛先を、このソルシエに向けさせることができたら?
アタシは自身の口元が、三日月のように歪むのを止められなかった。
これよ。これこそが、アタシが求めていた「安全圏からの破壊」。
軍隊と軍隊をぶつければいい。アタシはただ、そのマッチを擦るだけでいい。
「今度の長期休みに、観測の旅行に行こうと思っているんデス」
彼女の無邪気な声が、アタシの興奮に冷水を浴びせた。
ハッとして横を見る。
長期休み。
それが始まるまで、まだ数ヶ月ある。アタシが今思いついた計画を実行に移すのに、最適な準備期間。
もしアタシが期間内にロシアーニャを焚きつければ、奴らは間違いなく、最短ルートである「北の森」を抜けて侵攻してくる。
つまり、彼女が旅行に向かう場所は――。
……最前線になる。
ダメよ。
それじゃあ、何のためにアタシが手を汚すのをやめたのか分からない。
彼女を巻き込まないために新しい計画を立てようとしているのに、その計画の第一歩が彼女を踏み潰すことになるなんて。
「……やめておきなさい」
アタシの声は、思ったよりも低く、鋭く響いた。
ミーティアが驚いてこちらを見る。
「え?」
「北へ行くのはやめなさい。……星見には適さないわ」
「ど、どうしてデスカ? あそこは街明かりもなくて……」
「風が変わるのよ」
アタシは彼女の瞳を真っ直ぐに見据え、今思いついたばかりの「未来」を、さも確定事項のように告げる。
予言者のように、あるいは過保護な姉のように。
「アタシは鼻が利くの。北の方から、腐った鉄と、焦げた油の臭いが漂ってきている。……近々、あの方角は大嵐になるわ。星どころか、自分の手足も見えなくなるような、酷い嵐にね」
嘘ではない。
アタシがこれから起こすのだから、それは間違いなく訪れる現実だ。
戦火という名の嵐が、北の森を焼き尽くす。
「だから、約束して。当分の間、この街から……いいえ、家から離れないって。星を見るなら、この公園にしなさい」
アタシの真剣な眼差しに気圧されたのか、彼女はゴクリと喉を鳴らし、それから素直にコクンと頷いた。
「わ、分かりまシタ……。お姉サンがそう言うなら、やめておきマス」
「ええ、いい子ね」
アタシは安堵の息を吐き、立ち上がった。
これ以上、ここにいてはいけない。
情が移る前に、姿を消さなければ。
彼女をここに縛り付けておく。
その間に、アタシが北へ飛び、戦争の引き金を引く。
ほとぼりが冷めるまでは安全な場所に避難させておき、全てが終わった頃に、彼女は何事もなく日常に戻る。
それが、アタシが描く「償い」のシナリオ。
「じゃあ、アタシは行くわ」
「あ、お名前……!」
背後から呼び止める声を、アタシは手だけ振って遮った。
名乗らない。縁は結ばない。
アタシはただの通りすがりの予言者。
これでいい。
そう自分に言い聞かせながら、アタシは闇の中へと足早に消えていった。
まさか、その警告こそが、後に彼女を災いへと誘う「道標」になるとも知らずに。
[newpage]
[chapter:3. 対立の探求]
肺の奥まで凍てつくような、鋭利な冷気が気管を逆撫でする。
アタシは厚手の軍用コートの襟を立て、マフラーに顔を埋めるようにして、石造りの重厚な回廊を歩いていた。
吐き出す息は白く濁り、瞬きをするたびに睫毛が凍りついて微かな音を立てる。
……寒い。
寒すぎるわ、この国は。
変温動物であるヘビヘビ族のアタシにとって、この極北の大国・ロシアーニャの気候は、緩やかな拷問に近い。
コートの下、肌着に張り付けたカイロ代わりの魔石が熱を発しているけれど、それでも血管を流れる血液がドロリと重く澱み、思考の回転を鈍らせようとまとわりついてくる。
指先が痺れ、感覚がない。
今すぐにでも冬眠したいという本能的な欲求を、アタシは意思の力だけでねじ伏せていた。
コツ、コツ、コツ。
軍靴の硬い足音が、高い天井に反響する。
すれ違うのは、同じく厚着をした軍人や官僚たち。
彼らの頭上には、例外なく獣耳が生えている。
それも、三角形で、毛並みの良い、あの忌々しいネコネコ族の耳だ。
アタシは無意識に、自分の頭に手をやった。
帽子の上から触れる感触。そこにあるはずのない、柔らかな起伏。
種族ごと擬態する魔法。
鏡を見れば、今のアタシは誰がどう見ても、愛らしい銀灰色の毛並みを持つネコネコ族の女性士官に見えているはずだ。
本来あるはずの長耳も、ドレスの中で蠢く蛇の尾も、視覚的・触覚的に隠蔽されている。
……屈辱だわ。
よりにもよって、あの子と同じ種族に化けなきゃいけないなんて。
しかも、この国の連中は猫のくせに、愛想の一つもない。
すれ違う瞳はどれも、凍った湖のように冷たく、猜疑心に満ちている。
アタシは表情筋を動かし、能面のような無表情を作った。
この国で生き抜くための、擬態色。
……
ロシアーニャ、軍事参謀本部。
重い鉄扉の向こう、会議室の空気が紫煙で白く濁っている。
アタシは「書記官」として、部屋の隅のパイプ椅子に腰掛け、ペンを走らせるフリをしていた。
安っぽい紙巻きたばこの臭いと、強いアルコールの揮発臭、そして男たちの脂ぎった体臭が混ざり合い、鼻が曲がりそうだ。
「――それで、不凍港の確保はどうなっている!」
マホガニーの机が拳で叩き割れんばかりの音を立てた。
声を荒げたのは、左目に眼帯をした大男。
軍部きってのタカ派と目される将軍だ。
彼のこめかみには青筋が浮かび、首元の血管が怒張して脈打っている。
「南のオトヌ共は、のうのうと太陽を浴びて肥え太っておる。我々がこうして氷を齧って飢えている間にな!」
「将軍、落ち着いてください。現在、政府との調整が……」
「調整だと? 生ぬるい! 奴らは資源を独占し、我々に法外な関税をかけている。これは経済的な宣戦布告と同じだぞ!」
将軍が広げた地図の上には、赤いインクで無数の矢印が書き込まれている。
その全てが、南へ――ソルシエのあるオトヌ地方へと向けられていた。
彼の瞳に宿っているのは、愛国心なんて綺麗なものじゃない。
飢餓だ。
獲物の喉笛を食いちぎりたくてたまらない、野生の捕食本能。
アタシは手元のメモ帳に、無意味な記号を羅列しながら、口元が緩みそうになるのを必死に堪えた。
……いいわね。実にいい。
アタシが煽るまでもなく、火薬庫はもうパンパンに膨れ上がっているじゃない。
前の世界で、ソルシエの地下深くに突き刺さっていたあの無骨なドリル。
あれだけの巨大な質量兵器を、他国の重要拠点である地下深くに送り込む。
並大抵の執念じゃない。
正規のルートで運べるはずがないから、おそらく国境から地下トンネルを掘り進め、何年もかけて到達させたのでしょう。
泥と油にまみれ、暗闇の中で爪を研ぎ続けてきた、執念の結晶。
アタシの聴覚強化魔法が、隣の部屋の密談も拾う。
技術開発局の官僚たちの囁き声だ。
『新型の魔導戦車の出力テスト、良好です』
『ソルシエの結界データ解析、完了しました。理論上、三点同時砲撃なら貫通可能です』
『しかし、首相府からの許可が下りない。これ以上、国際的な非難を浴びるのは得策ではないと……』
なるほど。
状況は見えたわ。
この国は、飢えた獣だ。
極寒の環境、枯渇する資源、閉ざされた海。
生きるためには、豊かな南の土地を奪うしかない。
軍部も、技術者たちも、牙を研いでその時を待っている。
唯一、その首輪を握っているのが、慎重派の政府首脳陣というわけね。
アタシはペンを回し、地図上の国境線を睨みつける将軍の背中を見つめた。
あの太い首には、見えない鎖が巻き付いている。
ご主人様の許可がなければ噛み付けない、哀れな番犬。
でも、もし。
そのご主人様が、「噛み付け」と命じたら?
あるいは、敵の方から「石を投げてきた」と錯覚させることができたら?
アタシのポケットの中で、真紅の魔導書が微かに熱を帯びた気がした。
情報は揃った。
動機も、能力も、十分すぎるほどにある。
あとは、ほんの少しの「きっかけ」を与えるだけ。
会議が終わり、将軍が荒々しく椅子を蹴って退室していく。
アタシもまた、書類をまとめるフリをして立ち上がった。
冷え切った身体の芯で、黒い炎がチロチロと燃え始める。
待っていなさい、飢えた猫ちゃんたち。
その首輪、アタシが外してあげるわ。
そして、思う存分暴れさせてあげる。
アタシは誰にも見えない角度で、ニヤリと唇を歪めた。
その口元から、蛇のような細長い舌がチロリと覗いた気がした。
……
執務室の空気は、吐き気を催すほどに澱んでいた。
換気扇が回っているはずなのに、安っぽい紙巻きたばこの紫煙が天井付近に層をなし、部屋全体を薄汚れた灰色に染め上げている。
古びた暖房器具がジジジ……と不穏なノイズを立て、焼け焦げた埃のような臭いを撒き散らしていた。
その部屋の主である将軍は、巨大な革張りの椅子に深々と体を沈めていた。
全身を覆う分厚い白虎の毛皮。
軍服の襟元から覗く首筋は丸太のように太く、そこに刻まれた古傷が、彼がただのデスクワーク屋ではないことを雄弁に語っている。
彼が指に挟んだ太い葉巻の先端が、呼吸に合わせて赤く明滅する。
アタシは直立不動の姿勢を保ちながら、フードの下で唇を舐めた。
乾いている。
喉がというよりも、この状況そのものが、アタシの渇いた復讐心を潤すための舞台として誂えられていることに、興奮しているのだ。
「……ほう」
将軍が、肺の底から響くような重低音で唸った。
彼の手には、アタシが先ほど差し出した数枚の書類が握られている。
分厚い肉球のある指が、紙の端をくしゃりと歪ませた。
「ソルシエの連中が、気づいただと?」
鋭い眼光がアタシを射抜く。
それは獲物を値踏みする捕食者の目だ。
もしアタシがただの密告者なら、そのプレッシャーだけで膝が笑い、失禁していたかもしれない。
けれど、残念ね。
アタシは、アンタたちが想像もつかないほどの怪物を相手にしてきたのよ。
アタシはあえて視線を逸らさず、しかし敬意を装って小さく頷いた。
変装魔法で作り上げたネコネコ族の声帯を使い、少し震えた声を演出する。
「はい、閣下。……残念ながら、彼らの魔力探知網は、我々の想定を超えていました。地下数百メートルの微細な地脈変動……それを『何者か』が、ソルシエ魔法省にリークしたようです」
もちろん、その『何者か』は、目の前に立っているアタシなのだけれど。
将軍の眉間の皺が深くなる。
葉巻を灰皿に押し付け、揉み消す。ジュッ、という火傷のような音が静寂に響いた。
彼は疑っている。
ロシアーニャの誇るステルス掘削技術が、そう簡単に見破られるはずがないという自負があるからだ。
「馬鹿な。あの深度の振動など、自然地震と区別がつかんはずだ」
「ええ、通常ならば。……しかし、彼らは既に『確証』を得て動いています。現に、国境付近の魔力濃度が上昇しているとの報告が、前線部隊から上がっているはずです」
アタシの言葉に、将軍の右耳――白く大きな獣耳が、ピクリと跳ねた。
図星だわ。
アタシが匿名で流した「ロシアーニャが地下から侵入している」という情報を受け、ソルシエ側は既に調査隊を派遣し、国境警備を強化している。
その「調査のための魔力反応」を、ロシアーニャ側は「攻撃の予兆」として誤認し始めている。
将軍は無言で杖を取り上げ、乱暴に連絡魔法を唱えた。
短く、暗号のような言葉を数言交わす。
杖を置く音が、ガチリと硬く響いた。
彼の表情から、僅かに色が抜けていた。
その瞳孔が、猫のように細く収縮している。
「……国境付近に、ソルシエの魔術師団が集結しつつあるだと」
かかった。
アタシは心の中で、満面の笑みを浮かべた。
さあ、ここからが仕上げよ。
ただの「警戒」を、「開戦の合図」へと書き換える魔法の言葉。
アタシは一歩、デスクに歩み寄った。
声を潜め、共犯者のように囁く。
「閣下。彼らの目的は、単なる防御ではありません。……『報復』です」
「報復……?」
「はい。彼らは年末年始頃に合わせて、大規模な魔法攻撃を画策しています。表向きは演習と称していますが、照準は明らかに我々の『採掘施設』と、この『前線基地』に向けられています」
将軍の拳が、机の上で握りしめられた。
革の手袋がミシミシと悲鳴を上げる。
血管が浮き上がり、彼の喉から獣特有の低い唸り声が漏れ出した。
彼にとって、それは悪夢のシナリオだ。
何年もかけて準備し、莫大な予算と人員を投じてきた地下侵攻計画。
それが露見しただけでなく、先制攻撃で全て灰にされる。
軍人としての面目、国家の威信、そして何より、彼自身の出世の道が閉ざされる。
「……おのれ、南の屑共め」
吐き捨てられた言葉には、明確な殺意が宿っていた。
恐怖が、怒りへと変換された瞬間だ。
「私は……戦争を止めたくて、この情報を持ってきました」
アタシは殊勝な顔で、胸に手を当ててみせた。
なんて白々しい。吐き気がするほど善人ぶった台詞だわ。
「彼らが攻撃を開始する前に、外交ルートで抗議を……」
「馬鹿者ッ!!」
将軍が吠えた。
机を叩き、巨体を揺らして立ち上がる。
その影が、天井の照明を遮り、アタシを覆い隠すほどに巨大になる。
「抗議だと? そんな生ぬるいことをしている間に、奴らは魔法を撃ち込んでくるぞ! 向こうがその気なら、やることは一つだ!」
彼の瞳は、もう理性の色を失っていた。
あるのは、追い詰められた獣の狂気と、待ち望んでいた「暴れる口実」を得た歓喜。
アタシの撒いた種が、彼の猜疑心という土壌で、醜悪な花を咲かせている。
「やられる前に、やる。……我々の科学力と火力をもって、奴らの魔術師団ごと国境を焦土に変えてくれるわ!」
将軍は荒い息を吐きながら、壁に掛けられた直通電話へと手を伸ばした。
その指先は、怒りで震えているように見えて、実は武者震いしているのがアタシには分かった。
アタシは深く頭を下げ、恭順の意を示した。
その影で、口元が三日月の形に歪むのを隠しながら。
ああ、簡単ね。
本当に、魔獣って単純だわ。
「相手が殴ろうとしている」と囁くだけで、自分から拳を振り上げてくれるんだもの。
アタシの役目は終わった。
あとは、決行の夜。
アタシ自身が「ソルシエの魔術師」になりすまし、派手な花火を一発打ち上げればいい。
そうすれば、この張り詰めた糸はプツリと切れ、雪崩のように戦争が始まる。
部屋を出るアタシの背中に、将軍の怒号交じりの命令が聞こえてくる。
全軍、第一級戦闘配置。
総員、実弾装填。
……ふふ。
最高の音楽だわ。
アタシは冷たい廊下を、スキップでも踏みたい気分で歩き出した。
北風が運ぶのは、もう冬の匂いじゃない。
鉄と油と、焼けた肉の匂い。
戦争の芳香が、すぐそこまで迫っていた。
……
北の国境付近、ソルシエ魔術師団の前線駐屯地。
吹きっさらしの荒野に急造されたテントの布が、寒風に煽られてバタバタと悲鳴のような音を立てている。
アタシは、フェネフェネ族特有の巨大な三角形の耳を、寒さにより悴む手で押さえていた。
擬態魔法で作り上げたこの大きな耳は、感度が良すぎる。
周囲の空気の振動、衣擦れの音、そして何より――この場に充満する、数百人の魔術師たちの恐怖と混乱のノイズを、過敏に拾いすぎてしまう。
隣に立つ若い魔術師の手元が、小刻みに震えているのが見えた。
彼は杖を握りしめているが、その指関節は白く鬱血し、呼吸は浅く、過呼吸気味にヒューヒューと鳴っている。
無理もないわね。
彼らにとって、ロシアーニャは「技術交流のパートナー」だったはずだ。
それが、一夜にして「国土を抉り取る侵略者」へと変貌したのだから。
アタシはフードを目深に被り、口元をマフラーで隠した。
隠さないと、笑みが零れてしまいそうだから。
ソルシエ魔法省は大混乱に陥っている。
匿名の通報――アタシが撒いた種――によって発覚した、地下深くの盗掘トンネル。
平和ボケした彼らは、まさに寝耳に水を浴びせられ、パニック状態で国中の魔術師をかき集めた。
その結果が、これよ。
見渡す限りの烏合の衆。
個々の魔力値は高い。中には一騎当千の英雄級もいるでしょう。
けれど、指揮系統はズタズタ。連携なんて言葉は存在しない。
ただ、「強い個体」が漠然と並んでいるだけ。
対して、ロシアーニャは数年前から牙を研ぎ、組織化された軍隊として完成されている。
勝負になるわけがない。
ソルシエは一度、完膚なきまでに蹂躙される。
けれど、それが狙いだ。
魔法文明の心臓部たるこの都市が落ちれば、周辺のオトヌ諸都市は恐怖し、なりふり構わず連合軍を結成する。
世界中を巻き込んだ、泥沼の大戦。
美しいわぁ。想像するだけで、ゾクゾクと背筋に電流が走る。
ただ、一つだけ。
この素晴らしい脚本に水を差す可能性のある「不純物」が残っている。
アタシは懐中時計を見るフリをして、自身の魔力回路の奥底にある「タイマー」を確認した。
ロシアーニャの政府首脳陣。
軍部の暴走を恐れる慎重派の古狸たち。
彼らが生きていれば、まだ「外交交渉」なんていう退屈な手段で、この火を消そうとするかもしれない。
だから、消えてもらうことにしたの。
カチリ。
アタシの体内時計が、夕刻を告げた。
同時に、遥か北の彼方、ロシアーニャの首都にある政府庁舎の支柱に仕込んだ、アタシ特製の「遅効性腐食魔法」が起動する瞬間。
……さあ、どうなったかしら?
「――ほ、報告ッ!!」
司令部テントから、通信兵が転がり出るようにして走ってきた。
その顔色は紙のように白く、目は極限まで見開かれている。
「ロシアーニャ首都より緊急入電! 政府庁舎が……ほ、崩壊しました!!」
駐屯地が一瞬、真空になったかのように静まり返る。
「崩壊だと!? 事故か!?」
「い、いえ! 建物全体がドロドロに溶解しているとの情報です! 中にいた首相をはじめとする閣僚全員の安否は……絶望的と!!」
ドッ、とどよめきが広がった。
恐怖。動揺。そして、理解不能な事態への混乱。
アタシはマフラーの下で、舌なめずりをした。
成功だわ。
石材だけでなく、有機物すらも瞬時にゲル状に変える酸の霧。
誰がやったか?
そんなの、タイミング的に「ソルシエの先制攻撃」と解釈されるに決まっている。
これで、ロシアーニャ軍のタカ派は、誰に遠慮することなく「報復」の大義名分を得た。
もう、誰も止められない。
「つ、続けて報告!!」
通信兵が、裏返った声で絶叫した。
その声は、震えすぎて聞き取れないほどだった。
「国境ラインの魔力センサーに反応! 敵影多数! ……速い、速すぎます! ロシアーニャ機甲師団、侵攻を開始しました!!」
地鳴りがした。比喩ではない。
大地の底から響く重低音が、脚を通して骨格を揺さぶる。
アタシは素早く、混乱する魔術師団の列から離れ、少し高い位置にある丘の上へと移動した。
特等席が必要だもの。
北の地平線が、黒く染まっていた。
雪原を埋め尽くす、鋼鉄の波。
蒸気を吐き出し、キャタピラで大地を削りながら迫る戦車の群れ。
その上空には、ワイバーンを模した機械仕掛けの爆撃機が、不吉な羽音を立てて編隊を組んでいる。
「迎撃せよ! 撃てぇッ!!」
ソルシエ側の指揮官が、やけくそのように叫んだ。
数百の杖が一斉に掲げられる。
紅蓮の火球、紫電の雷撃、カマイタチの暴風。
視界を埋め尽くすほどの魔法の弾幕が、黒い波へと殺到する。
壮観ね。これだけの火力なら、山一つくらい消し飛ばせるでしょう。
――パシュン。
けれど、現実は無慈悲だった。
魔法が戦車の装甲に触れた瞬間、水が蒸発するような頼りない音と共に、全てがかき消された。
「な……ッ!?」
「魔法が、効かない!?」
対魔術装甲。
アタシがあの地下洞窟で見た、悪夢のような技術。
魔力を拡散させ、無効化する特殊合金の壁。
それが、数百台規模で押し寄せてくる。
次は、向こうの番だ。
戦車の砲塔が、一斉にこちらを向いた。
鼓膜が破裂しそうな轟音。
着弾。
アタシの目の下、魔術師団の前列が、土煙と共に吹き飛んだ。
魔獣の身体なんて、物理的な炸薬の前では脆い水風船に過ぎない。
千切れた手足が宙を舞い、赤い霧が大地に鮮やかな模様を描く。
「ひ、ひぃぃぃッ!」
「逃げろ! 勝てるわけがない!」
蜘蛛の子を散らすような敗走。
背中を見せた魔術師たちを、機械の怪物は容赦なく踏み潰し、機銃で薙ぎ払っていく。
防御魔法? 障壁?
そんなもの、鉛の弾丸の嵐の前では紙切れ同然よ。
「きゃはっ……ふふっ」
喉の奥から、抑えきれない笑いが込み上げる。
アタシの身体が、歓喜で小刻みに震えている。
これよ。これが見たかった。
高慢ちきなソルシエの連中が、自分たちが否定してきた「科学」という暴力に蹂躙される様が。
血の匂いが風に乗って運ばれてくる。
鉄錆と、内臓の生温かい臭気。
最高の香水だわ。
アタシは恍惚とした表情で、眼下の虐殺劇を見下ろしていた。
けれど。
ふと、冷静な計算が脳裏をよぎる。
速すぎる。
ロシアーニャの進撃速度は、アタシの想定を遥かに超えている。
この勢いなら、国境の防衛線を突破し、ソルシエの市街地に到達するまで、そう時間はかからない。
半日……いいえ、数時間か。
アタシの笑みが、フッと消えた。
脳裏に浮かぶのは、公園で交わした約束。
『家から離れないって』
あの子は今、ソルシエの街にいる。
このままでは、あの街も戦場になる。
いくら家にいても、空から爆撃が降り注げば関係ない。
「……チッ、のんびり見物もしていられないわね」
アタシは舌打ちをし、踵を返した。
目的は達した。戦争は始まった。
次は、アタシ個人のミッションだ。
アタシは愛用の杖を取り出し、魔力を込める。
行き先は、ソルシエ市街地。
あの馬鹿正直な猫娘を回収し、安全な場所に放り込むまでは、アタシの仕事は終わらない。
「[[rb:空間を繋ぎ、座標を越えよ > ポルタ・スパティウム]]」
アタシの姿が光に包まれ、血塗られた戦場から掻き消える。
背後で響く断末魔の悲鳴を、置き土産に残して。
[newpage]
網膜を焼く転移魔法の残光が散る。
石畳に足が叩きつけられた瞬間、空間跳躍による胃の腑が裏返るような吐き気を強引に飲み込んだ。
鼓膜を殴りつけるのは、けたたましい警報のサイレンと、何万という魔獣が放つ恐怖の不協和音だった。
南や東へと続く大通りは、家財を抱えて逃げ惑う群衆で黒く塗り潰されている。
吐く息の白さが人いきれの熱気に混じって視界を濁らせ、冷たい夜気の中にあっても、汗と土と焦燥の匂いがむせ返るほどに充満していた。
アタシは逆流する人波を魔法で強引に掻き分け、記憶にある通りを走った。
辿り着いた見覚えのある扉を乱暴に押し開けると、そこには外の狂乱から切り離されたような静寂だけが淀んでいた。
冷え切った暖炉。乱雑に開け放たれたままの戸棚。いつも彼女の周囲に漂っていた甘いミルクの匂いすら、既に冷たい隙間風に攫われている。
肩の強張りが解け、肺の奥でつっかえていた息が、長い白煙となって唇から零れ落ちた。
間に合った。ミーティアは家族と一緒に、あの群衆の中に紛れ込んで逃げたのだ。そう口の端を緩めかけた、まさにその刹那。
視線が、部屋の隅の暗がりに縫い付けられた。
床板にうっすらと残る、四角い埃の跡。以前の世界線でそこに鎮座していたはずの、あの巨大で無骨な金属の筒がない。
肋骨の裏側で、心臓が狂ったように警鐘を鳴らした。
避難の荷物に、あんな大質量の鉄屑を選ぶ? あり得ない。長耳が嫌な予感に総毛立ち、ピタリと頭皮にへばりつく。冷や汗が一気に背筋を滑り落ちた。
気付けば、呼吸の仕方も忘れて石畳を蹴っていた。
肺が千切れそうなほど冷気を吸い込み、公園の入り口の鉄柵を飛び越える。
街灯の消えた小高い丘。星明かりだけが降り注ぐ特等席に、暁色のローブが夜風に揺れていた。
足元には、はち切れんばかりに膨らんだ革の旅行鞄が置かれている。そして、その細い肩に抱え込まれるようにして、あの巨大な天体望遠鏡が、どこまでも澄み渡る夜空へと砲身を向けていた。
「アンタッ……何やってるのよ!」
怒鳴り声は、自分でも驚くほど掠れていた。
砂利を踏み荒らして歩み寄り、その華奢な肩を乱暴に掴む。厚手のローブ越しに伝わってくるのは、ひどく冷え切った体温。
ビクッとピンク色の三角耳を跳ねさせ、彼女が振り返る。
その大きな瞳孔には、パニックの欠片もなかった。ただ、空に散らばる冷たい光の粒だけが、静かな水面のように反射している。
「お姉、サン……」
瞬きをして、彼女は少しだけ泣きそうに眉尻を下げた。
「街を出る前に、ミー、これだけはどうしても見ておきたくて。……このソルシエの星空は、きっと、もう当分見納めになりマスから」
静かな声の足元から、微かな地鳴りが靴底を震わせていた。北の国境を食い破った鋼鉄の軍靴が、もうそこまで迫っている振動だ。
「馬鹿なこと言ってないで、荷物持ちなさい! 今すぐここを……!」
アタシは望遠鏡から彼女を引き剥がそうと、その細い手首を強く握りしめた。
強引に引きずり出そうと、右腕の筋肉を収縮させた――その、コンマ一秒の隙間。
鼓膜を殴りつけていた群衆の悲鳴も、サイレンの金切り声も、肌を刺す北風も。
それらが「遠ざかる」過程など、一切存在しなかった。
プツン、と。
世界から突然、すべての音声と動きが断ち切られた。
何が起きたのか、脳が現実の処理を拒絶する。
彼女の手首を引こうとしていたアタシの右腕は、空気を分厚い鋼鉄で固められたような絶対的な抵抗にぶつかり、ミリ単位すら動かない。
大きく見開いた瞳の焦点すら変えられず、瞬きをするためのまぶたの筋肉さえ、完全に機能停止している。
ドレスの下で波打っていたはずの蛇の尾も、宙に浮いた不自然な形のまま、石像のように縫い止められていた。
息が吸えない。肺の中に残った僅かな酸素だけで、心臓だけが肋骨の内側で警鐘を鳴らしている。
そして、気付く。
気付いてしまった。
ほんの瞬き一つする前まで、アタシの背後には、誰もいない夜の公園の砂利道が広がっていたはずだ。
風が運んでくるのは、遠くの土煙と焦げた匂いだけだった。
なのに今、硬直したアタシのうなじを、極めて至近距離から「誰か」の規則正しい呼吸が撫でている。
石鹸と、古い書物のような、この狂乱の戦場にはあまりにも不釣り合いな清潔な匂い。
足音も、衣擦れの音も、砂利を踏みしめる気配すら、一切の過程をすっ飛ばして。
まるで、世界が創造されたその瞬間からそこに立っていたかのような、不気味なほどの自然さで。
背後の極小の距離に、絶対的な冷たさを持つ男の視線が、微塵も動けないアタシの背中へ刃のように突き刺さっていた。
肺に溜まった空気を吐き出すことすら許されない。
眼球の表面がひび割れそうなほど乾燥していくのに、瞬きするための筋肉さえ、絶対的な理の前に縫い止められていた。
アタシの右手が強く握りしめている、ミーティアの細い手首。
彼女の脈打つ血の温もりすらも、琥珀に閉じ込められた虫のように、その温度を固定されたまま微動だにしない。
風に煽られ、空中でアーチを描いたまま静止している彼女の暁色のローブが、この世界が完全に停止している事実を網膜に焼き付けてくる。
「――おや。やはりあなたには、この停止した世界が知覚できているのですね」
鼓膜を揺らす空気の振動すら死に絶えた空間で、その声だけが頭蓋骨の内側へ直接、波紋のように広がった。
感情の起伏を綺麗に削ぎ落とした、凪いだ水面のように丁寧で、ひどく冷たい男の声音。
背後、ほんの二、三歩の距離。振り返ることはできない。
だが、うなじの産毛を逆撫でする、剃刀の刃を突きつけられたような濃密な殺気が、男の立ち位置を正確にアタシの神経へ伝達してくる。
「ご挨拶が遅れました。わたくしは、ロシアーニャ政府に与する魔獣とだけお伝えしておきましょう」
スッ、と。
空気を伝う音ではなく、石畳からアタシの素足の裏、そして骨伝導で脳髄へ響く、皮膚が冷たい石を踏みしめる密やかな振動。
男が悠然と、アタシの背後で歩みを進める気配がした。
「軍部の者たちは、科学という名の新しい玩具に夢中になりすぎていた。彼らの目では、あなたのその見事な擬態魔法を見破ることは不可能だったでしょう」
男の言葉が、アタシの耳元で滑るように紡がれる。
軍部ではなく、政府。
その単語が脳内で処理された瞬間、毛穴という毛穴から噴き出した脂汗が、ドレスの下で急速に熱を奪われ、氷の粒となって背筋を滑り落ちた。
「ですが、我々政府側は少々勝手が違います。北の大地には、古き魔術の理を重んじる有力な魔術師が多く隠れ住んでいる。……わたくしたちは、彼らを勢力下に置いておりますので」
喉の奥が痙攣する。声帯を震わせようとあがいても、掠れた呼気すら漏れ出ない。
バレていた。あのタカ派の将軍の懐に潜り込んだ、ずっと前から。
アタシの行動はすべて、この冷徹な眼差しの監視下にあったのだ。
「あなたの不審な動向には、比較的早い段階で気づいておりました。諜報員としての動き、背後に隠された強大な魔力。ただ、その真の目的が掴めず、泳がせて観察を続けていたのです」
背後で、衣擦れの音が微かに響く。
杖を構えたのか、あるいは魔法陣を展開したのか。
周囲の温度がさらに数度、一気に急降下し、アタシの露出した首筋に鳥肌が立っていく。
「しかし、我々もあなたの手腕を見誤った。まさかこれほど短期間で、あのような巧妙な工作により、両国を巻き込む全面戦争の火蓋を切って落とすとは」
男の口調に、怒りはない。ただ、純粋な計算違いに対する事務的な分析だけが並べられる。
「政府庁舎を崩壊させたあの酸の霧。見事な手際でした。……ですが、わたくしのような時間干渉の術式を持つ者が要人の傍に同席していたのが、あなたの不運です。彼らは崩壊の刹那に時を切り離し、無傷で避難を完了しております」
ドクン、と。
肋骨を叩き割らんばかりの勢いで、心臓が跳ねた。
生きていた。アタシが仕掛けた開戦の決定打であり、和平の道を完全に断ち切るための毒牙は、この背後の男の手によって無に帰していたのだ。
「戦端は開かれました。これ以上の予測不能な致命的変数は、早急に盤上から排除せよ。それが、わたくしに下された命です」
男の吐息が、アタシのうなじを凍らせる。
アタシの胸の中心、心臓の裏側あたりに、見えない銃口がピタリと狙いを定めている。
逃げられない。
指一本、声一つ上げられない絶対的な静寂の中で、アタシの右手に握られたミーティアの手首だけが、唯一の温もりとしてそこにあった。
「何故、死にゆく者にこのような機密をわざわざ語るのか。……そう訝しんでいるのでしょう」
脳髄を直接撫で回されるような、粘着質で冷ややかな声。
背後の気配が僅かに首を傾げたのが、密着する空気の微細な歪みとして肌に伝わってきた。
「わたくしは、少々意地が悪い性質でしてね。自分の盤上で全てが思い通りに動いていると、そう高を括ってせせら笑っているお行儀の悪いお嬢さんに、冷たい現実というものを教えて差し上げたかったのですよ」
その顔は視界に入らない。だが、喉の奥で転がすような微かな吐息の響きだけで、薄い唇が冷酷な三日月の形に歪んでいるのが、はっきりと網膜の裏に焼き付く。
絶対的な優位性から見下ろす、静かで昏い嘲笑。
「あなたが何故、これほどまでの規模の陰謀を企てたのか。その狂気の源泉には、魔術師として多少の興味を惹かれます。……ですが」
背後で、空気が悲鳴を上げた。
チリチリと、極低温にまで冷却された魔力の粒子が圧縮され、互いに衝突して火花を散らす。
アタシの背中に、目に見えない剣の先端が押し当てられたような、鋭利で重たい殺気が膨れ上がる。
「今は、事態の収束が最優先です。これ以上の延焼を防ぐため、ここで確実に、芽を摘み取らせていただきます」
処刑の宣告。
背中の皮膚が、強烈な魔力の放射を受けて粟立ち、チクチクと焼けるような痛みを訴え始める。
あと三秒。いや、二秒。
次の瞬間に、背中から心臓を撃ち抜かれ、アタシの意識はこの静止した世界ごと永遠の虚無へと消え去る。
頭蓋骨の内側で、思考だけが狂ったように暴れ回る。
逃げろ。どうやって?
魔力回路を暴発させて自爆する? ダメだ、指先も、体内の魔力の流れすら、この絶対的な停止の理には逆らえない。
命綱である真紅の魔導書。
詠唱を唇に乗せるだけでいい。
だが、凍りついた声帯は微塵も震えず、肺の空気は泥のように重く沈殿したままだ。
終わる。
アタシの復讐も、憎悪も、すべてがこの見知らぬ男の冷たい計算式の中で塵にされる。
何もできない無力感に、視界の端が黒く侵食されかけた、その時だった。
ミシッ。
分厚い氷の板に亀裂が入るような、嫌な音が鼓膜を打った。
いや、鼓膜ではない。硬直した空間そのものが、内側から軋む音。
アタシの固定された視界の真正面。
光も色も奪われ、完全な灰色に塗り込められていたはずの景色の中で。
「やめ……」
アタシが右手に握りしめていた、ミーティアの細い手首。
冷たく硬直していたはずのその皮膚の下で、ドクン、と熱い血の脈打つ感触が、アタシの掌を確かに打った。
「てくだ……サイ」
ひび割れたガラスを無理やり擦り合わせるような、歪な音の連なり。
彼女の暁色のローブから、灰色を強引に剥がすように、濃密なピンク色の魔力が粒子となって明滅を始める。
固定されていた彼女の桜色の唇が、空気の強固な抵抗を力任せに引き裂き、震えながらその言葉を紡ぎ出した。
この絶対的な停止の理を、自らの内から溢れ出す規格外の魔力だけで、無理やり押し除けたのだ。
奇跡か、それとも異常な魔力保有量による力技か。
だが、その現象を目の当たりにしたアタシの全身の血液は一瞬で凍りつき、心臓が氷の掌で握り潰されたように縮み上がった。
動いてしまった。
この、異常なまでの脅威を排除するためだけに動いている、背後の冷徹な監視者の目の前で。
予測不能な致命的変数として、何よりも最悪な形で、彼女自身がその存在を証明してしまったのだ。
灰色に停止した視界の中で、ピンク色の粒子がひび割れた空間から漏れ出している。
アタシの網膜に焼き付くその光が、どうか気のせいでありますように。背後に立つ死神の眼穴を、今だけ分厚い泥で塞いでくれと、無神論者のアタシの脳髄が神という名の虚像にすがりついて絶叫する。
奥歯を噛み締める力が限界を超え、顎の骨がミシリと嫌な音を立てた。
見ないで。気付かないで。
けれど、冷酷な現実は、背後の大気の微細な歪みとなってアタシの首筋を撫でた。
アタシの心臓の裏側、極小の一点に集束していた光すら飲み込む漆黒の殺気が、ふっと、その輪郭をぼやかしたのだ。
殺意の焦点がブレたのではない。一つの凶器が、二つに分裂して射程を広げた感触。
「……おや」
凍りついた空気を切り裂き、その声が直接脳髄へ滑り込んでくる。
「まさか、わたくしの時間を力業で破る者がいるとは。……しかも、そのローブ。見覚えのある顔ですね」
絶望が、冷たい泥となって胃の腑の底へ沈み込んでいく。
背後の男は、アタシの右手が握りしめる少女の顔を、その所属を、完全に認識していた。
「まさか、生徒の中に協力者が隠れていたとは。……実に、驚きです」
淡々とした、抑揚のない声音にほんの僅か、一瞬の動揺が混ざる。けれど、それもすぐに戻ってしまった。
残ったのは、計算式に突然混入した正体不明の記号を、いかに処理するかという無機質な思案だけだ。
彼女の指先から漏れ出していたピンク色の魔力が、バチバチと静電気のような火花を散らし、灰色の世界をさらに侵食しようと足掻いている。
彼女の意思が、アタシを庇おうと強引に空間の理をこじ開けようとしているのだ。
やめなさい。動くんじゃないわよ。
声にならない悲鳴を上げるアタシの背後で、男の素足が石畳を微かに擦る振動が伝わった。
「普段であれば、何故このような場所にいるのか、ゆっくりと事情をお伺いしたいところですが」
首元に突きつけられていた見えない闇の重圧が、さらに何十本もの鋭利な殺意の杭となって増殖し、アタシと、そして隣のミーティアの全身を包み込む。
「残念ながら、この切羽詰まった非常時において、これほど予測不能な脅威を野放しにする余裕は、わたくしにはありません」
慈悲も、躊躇もない。
ただ、盤上の極めて危険な異物を払い落とすだけの、合理的な作業宣告。
「……揃って、退場していただきます」
男の指先が動いたのか、杖が振るわれたのか、アタシの固定された視界では知る由もなかった。
閃光も、爆音も、空気を切り裂く風切り音すら存在しない。
ただ、静寂。
そして、アタシの右手に握られていたミーティアの指先から、プツン、と、張り詰めていた糸が切れるような感触が伝わった。
灰色の世界をこじ開けようとしていた彼女のピンク色の魔力が、電源を落とされた機械のように、一瞬にしてフッと消失する。
ドクン、と。
アタシの胸の中心で、何かが致命的に欠落した音が鳴った。
熱い。いや、冷たい。
闇魔法の黒い閃光が貫いたのだろう。
だが停止した時間の中では、肉が抉られ骨が丸く消滅する生々しい破砕音も、血肉を焼くような激痛すらも、アタシの神経にはまだ一切届かない。
ただ、アタシの胸の中心にも、そしてミーティアの胸の中央にも、ぽっかりと完全な円形の「空洞」が穿たれたという事実。
悲鳴を上げることも許されない灰色の虚無の穴から、アタシたちの命の熱だけが、とめどなく外気へとこぼれ落ちていく絶対的な喪失感だけがあった。
……
パチン、と。
世界を縫い止めていた見えない糸が弾け飛んだ。
堰き止められていた色彩と喧騒が、致死量の津波となって鼓膜と網膜を全力で殴りつける。
遠くで街を焼く爆破音、人々の絶叫、木々を揺らす北風の唸り。
そして――。
「ガ、ぁ……ッ!?」
遅延していた激痛が、脳髄を真っ白に焼き切った。
胸に穿たれたぽっかりとした空洞から、どす黒い血液が圧力の逃げ場を失った間欠泉のように吹き荒れる。両手で傷口を塞ごうと指を立てるが、抉り取られた肉と砕けた肋骨の断面を弄るだけで、零れ 落ちる命の熱は指の間から無情に滑り落ちていく。
膝から完全に力が抜け、アタシは無様に顔面から石畳へと叩きつけられた。
硬く冷たい石の感触。頬を濡らす、生温かくて鉄錆の臭いがする自分自身の血。
酸素を求めて肺が痙攣するが、気管から逆流した血の泡がゴボゴボと口の端から溢れ出すばかりで、呼吸が成立しない。
痙攣する視界の端で、黒いローブの裾が揺れた。
見下ろす冷ややかな気配。男の素足が、血の海でのたうち回るアタシの身体を無機質に検分している。確実な「死」を見届けたという、わずかな空気の弛緩。
次の瞬間、瞬きをする間すらなく、その気配は掻き消えた。風が巻き上がることも、足音が遠ざかることもなく、ただ空間からコマ送りのように「切り取られて」消滅したのだ。
アタシは、痙攣する指先で地面をガリガリと引っ掻き、首の骨が軋むほどの力でどうにか顔を上げた。
泥水のように濁る視界の先。
数メートル離れた砂利の上に、同じように仰向けに倒れ伏す小さな影があった。
暁色のローブが、急速に広がる赤黒い水溜まりに沈んでいく。
彼女の胸の中央にも、アタシと同じ、真っ暗な虚無の穴が開いていた。華奢な心臓があったはずの場所から、大量の血がとめどなく溢れ、公園の土を濡らしている。
「あ……、あ……」
喉の奥で、気泡が破裂するような粘着質な音だけが鳴る。
アタシの視線に気づいたのか、彼女の首が、ゆっくりとこちらを向いた。
大きな瞳孔が、夜の闇に溶けそうに開ききっている。そこに、死への恐怖や痛みに顔を歪める素振りはない。ただ、残酷な運命のすべてを静かに受け入れたような、透き通った凪の表情がアタシを見つめ返していた。
ピンク色の唇が、微かに震えて開く。
血に染まった桜色の口元から、吐息のような輪郭を持った音が零れ落ちた。
「……ラミア……サン……」
ドクン、と。
アタシの壊れた心臓が、最後の痙攣を起こした。
名乗っていない。
この世界線で、アタシはまだ、彼女に自分の名前を教えていないはずだ。
なのに、その声は確かにアタシを呼んだ。以前の世界で、アタシに向けてくれたのと同じ、一点の曇りもない絶対的な信頼と、愛おしさを孕んだ響きで。
その言葉を最後に、彼女の瞳から、星の瞬きがフッと消え失せた。
焦点が虚空へと固定され、桜色の三角耳が力なくパタンと倒れ、石畳を赤く染める血だまりに沈み込む。
視界が、血の涙で真っ赤に歪む。
アタシのせいだ。
アタシが、この忌々しい戦争の引き金を引いた。
北の怪物を呼び込み、あの男を極限の非常事態へと追い詰め、この公園で彼女を殺させた。
巻き込みたくなかった。遠ざけたかった。そのための、手を汚さない計画だったはずなのに。
アタシの撒き散らした憎悪の火種が、アタシの最も欲しかった温もりを焼き尽くした。
奥歯を噛み割りそうなほど強く食いしばる。
指先が、冷え切った自分の血の海を這い、ドレスのポケットへと伸びる。
魔導書を取り出す力すら残っていない。ただ、生地の上から、その分厚い革の感触に血塗れの指を強く押し当てる。
意識の糸が、今にもプツリと切れそうに張り詰めている。
視界の縁から黒い靄が這い寄り、世界の音が急速に遠ざかっていく。
胸の穴から命のすべてが抜け落ちる熱を感じながら、アタシは残された最後の魔力を、血に濡れた声帯の微細な震えに乗せた。
「……ロー……ド」
[newpage]
[chapter:4. 平穏の探求]
鼓膜を圧迫する、重く冷たい水圧。
光の届かない深海の泥底から、泡が水面へと昇っていくように、意識がゆっくりと浮上していく。
張り付いた気管が強引に剥がれ、肺が外気を貪り食った。
むせ返るような咳き込みと共に重い瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは、無数のインクの染みがこびりついた木の天井だった。
カビた羊皮紙の匂い。薬品のツンとする揮発臭。アタシの工房だ。
石造りの床から、骨の髄まで凍結させるような冷気が背中を伝ってくる。
指先を動かす。胸を触る。
肉は抉られていない。骨も砕けていない。心臓は、薄い皮膚の下で早鐘を打っている。
生きて、戻ってきた。
身体を起こそうとして、右腕が丸太のように重いことに気づく。関節という関節に錆が回ったような、ギシギシとした不快な軋み。
アタシは糸の切れた操り人形のように、のらりくらりと上半身を揺らしながら立ち上がった。
足裏が床を踏みしめる感覚すら曖昧な、生きているのか死んでいるのか判然としない泥のような足取りで、部屋の隅にある洗面台へと向かう。
錆びた蛇口を捻る。
ゴボッという音と共に吐き出された冷水を両手に受け、顔に叩きつけた。
凍えるような温度が皮膚を刺すが、脳髄にこびりついた熱は一向に冷めない。
乱暴に濡れた前髪を掻き上げ、顔を上げる。
壁に掛けられた曇った鏡の中に、見知らぬ女が立っていた。
頬の肉は削げ落ち、土気色の皮膚の下には青黒い血管が不気味に透けている。目の下にはどす黒い隈が張り付き、ひび割れた唇は死人のように青白い。
何より、その瞳。
光を一切反射しない、泥水を煮詰めたような虚ろで無惨な硝子玉。
「……あ、ぁ……」
乾いた喉から、間の抜けた音が漏れた。
見覚えがある。
無駄に広くて、陰気で、吐き気がするほど歴史ばかりを重んじていたあの実家の屋敷。
アタシの手で全てを燃やし尽くしたあの日、業火に焼かれながらアタシを見上げた、両親の顔だ。
『高尚なる呪術師の血統』。
『我々がいずれこの国を支配する』。
そんな大層な野望を口の端から垂れ流し、アタシという器を暴力で捏ねくり回しておきながら。いざ己の命が尽きる直前には、燃え盛る炎の前で全てを諦め、ただ無様に這いつくばって命乞いをした、あの空っぽの瞳。
大口を叩きながら、結局何一つ成し遂げられずに実の娘に焼き殺された、惨めな敗北者の顔。
鏡の中の女は、あの連中とそっくり同じ顔をして、こちらを見つめ返している。
ああ、当然だわ。アタシの血管の中には、あの薄汚い連中の血が流れているのだから。
ズキリ。
無傷のはずの胸の中心が、激しく脈打った。
幻肢痛。
いや、違う。そこには確かに「穴」が開いている。
アタシの右手に残る、あの細くて温かい手首の感触。灰色の世界で、無理やり空間をこじ開けて口を動かした、あの桜色の唇。
『やめ……てくだ……サイ』
そして、血の海に沈みながら、最後にアタシを呼んだ声。
守れなかった。
いいえ、違う。
アタシが、殺したのだ。
身の程知らずの野望を掲げ、この世界をめちゃくちゃにしようと火種をばら撒いた結果。
その業火はアタシの敵を焼くよりも先に、アタシに温もりをくれた唯一の存在の胸を、真っ直ぐに貫いた。
両親と同じだ。
何も成し遂げられず、ただ周りを巻き込んで、最も無様な結末を引き寄せただけの、滑稽な泥人形。
「あ……ああ、あぁぁぁッ!!」
両手が、自然と顔面を覆っていた。
爪が、青白い頬の肉に深く食い込む。ギリギリと皮膚を引き裂き、温かい血が数筋、顎を伝って洗面台へと滴り落ちる。
痛い。痛い。
けれど、胸の奥で暴れ回るどす黒い感情の奔流は、こんな表面の痛みでは誤魔化しきれない。
「あ゛あ゛あ゛ぁああああああぁぁぁぁッ!!」
声帯が引き裂かれんばかりの、獣のような絶叫が工房の空気をビリビリと震わせた。
振り上げた拳が、鏡を真正面から殴りつける。
凄まじい破砕音と共に硝子が弾け飛び、鋭利な破片がアタシの拳をズタズタに切り裂くが、止まらない。
アタシは振り返り、最も近くにあった重いオーク材の作業台の下に指を掛け、渾身の力で跳ね上げた。
ガシャンッ!!
天板に乗っていた乳鉢が床に叩きつけられて粉々になり、インク瓶が壁で爆発して真っ黒な染みをぶちまける。
飛び散る硝子片。宙を舞う羊皮紙。
アタシは近くにあった木製の椅子を蹴り飛ばし、壁の棚を薙ぎ払い、視界に入る全てのものを破壊して回った。
思い通りにならないと、すぐにヒステリックに喚き散らし、高価な壺や皿を壁に投げつけていた両親の姿がフラッシュバックする。
同じだ。
血は争えない。
アタシのこの醜い振る舞いも、怒りに任せて手当たり次第に物を壊すこの幼稚な凶暴性も、全てがあの忌々しい血統の証明。
「嫌ッ!! 嫌だぁッ! なんで、なんでよぉッ!!」
ドレスの裾が裂け、足の裏を硝子の破片が貫通しても、暴れる足は止まらない。
何もかもが不愉快だ。自分の血も、この無力さも、アタシの復讐を嘲笑う世界も。全部、全部消えてなくなればいい。
部屋の隅、倒れた杖立てから転がり落ちた愛用の杖。
その先端に埋め込まれた宝玉の縦長の瞳孔が、まるでアタシの狂気におののくように、極限まで見開かれてこちらを凝視している。魔力を貪る呪物すらもドン引きするほどの、醜悪な狂乱。
「見ないでよッ!!」
足元にあった分厚い魔術書を拾い上げ、その瞳へ向かって全力で投げつける。
鈍い音と共に杖が壁際へ吹き飛び、そのまま動かなくなった。
ハッ、ハッ、ハッ……。
気管が焼け焦げるような呼吸音だけが、廃墟と化した工房に響き渡る。
血塗れの拳からは紅い雫が滴り、割れたインク瓶から広がる黒い水たまりと混ざり合って、床にどす黒いマーブル模様を描いている。
散乱する木片、砕けたガラス、破られた紙屑。
すべてを破壊し尽くし、動くものが何一つなくなった空間に、急激な静寂が重くのしかかってきた。
ピタリと、身体の動きが止まる。
怒りの熱に浮かされていた脳細胞が冷却された、その一瞬の空白。
『……ラミア……サン……』
血の海の中で、光の消えた瞳がアタシを見つめている。
桜色の三角耳が、泥と血に塗れて冷たくなっていく。
「――ウッ、ぐ……!」
胃袋が、下から上へと雑巾のように激しく絞り上げられた。
内臓の痙攣が喉を突き上げ、アタシは両膝から砕けたガラスの散らばる床へと崩れ落ちた。
両手で床を突き、背中を弓なりに反らせる。
酸っぱい胃液と、消化され切っていない泥のような携帯食の残滓が、口から勢いよく吐き出された。
鼻腔を突く強烈な胃酸の臭い。食道が焼けるように痛む。
涙腺が刺激され、ボロボロと大粒の涙が頬を伝って落ちる。
「げほっ、ごほっ……う、あ……ぁ……」
吐くものがなくなっても、胃袋は空のまま痙攣を繰り返し、黄色い胆汁だけが口の端から垂れ落ちた。
インクと、血と、吐瀉物に塗れた冷たい床。
アタシの手には、もう何一つ残っていない。
魔法も、野望も、復讐の甘い味も、そして、あの温かい体温も。
顔を上げる気力すら湧かず、這いつくばったまま、アタシは自身の両肩を抱きしめた。
スカートの下で蛇の尾がアタシ自身の太ももに強く巻き付き、その冷たい鱗の感触が、自分が独りぼっちであることを冷酷に突きつけてくる。
「あぁ……ああぁぁぁ……」
嗚咽が、泥に塗れた唇から零れ落ちた。
一度決壊した涙は、もうどうやっても止めることができなかった。
世界を滅ぼす魔女の顔も、冷酷な復讐者の仮面も、今はすべてが粉々に砕け散っている。
瓦礫と悪臭に満ちた廃墟の中心で、アタシは声を上げて泣いた。
喉をひきつらせ、鼻水を垂らし、傷だらけの身体を限界まで丸めて。
誰にも見捨てられた子供のように、ただただ、情けなく泣きじゃくることしかできなかった。
……
涙は、もう一滴も出なかった。
限界まで酷使された喉の奥から、乾いた空気が摩擦音を立てて漏れ出している。
腫れ上がった瞼は、瞬きをするたびに乾いた塩分で粘りつく。
頬には涙の跡がカピカピに干からび、顔の皮膚全体を膜で覆って引き攣らせていた。
冷たい石の床に投げ出した両腕の感覚は、とうに麻痺している。
横倒しになった視界の先、原型を留めないほどに破壊された工房の瓦礫の上を、オレンジ色の光の帯がゆっくりと這い進んでいた。
狂乱の中で力任せに引き裂いた遮光カーテンの裂け目。そこから、残酷なほどに鮮やかな夕焼けが、埃の舞う室内へと斜めに突き刺さっている。
光の粒が、飛び散ったガラス片の断面や、床に広がるインクと血の入り混じったどす黒い水溜まりを無遠慮に照らし出していた。
アタシの惨状は、視線を動かすまでもない。
ドレスの裾は無惨に裂け、剥き出しになった膝や足の裏には、細かな硝子の欠片が突き刺さったままだ。
鏡を全力で殴りつけた両手の拳は、裂けた皮膚から流れた血が黒く乾ききり、指を僅かに曲げようとするだけで音を立てて傷口が再び裂けようとする。
空っぽの胃袋は、もう痙攣することすらやめ、内側に重い鉛の塊を抱え込んだように冷え切っている。
鼻を突くのは、酸っぱい胃液の残り香と、古びた羊皮紙の埃っぽさ、そして自分自身の鉄錆の匂い。
生きている。
薄皮一枚の下で、心臓だけが憎たらしいほど正確に血液を送り出している。
傷口からガラス片を抜き取り、流水で血と泥を洗い流し、清潔な布を巻く。
枯渇した魔力と体力を補うため、無理やりにでも冷たい水を流し込み、戸棚の奥に残っている保存食を胃に詰め込む。
頭の片隅で、生存のための手順だけが記号の羅列として浮かび上がる。
だけど、石畳に貼り付いた頬を数ミリ持ち上げるだけの命令すら、脳髄は肉体へ発行しなかった。
重い。
肉体が、空気が、時間そのものが。
ドレスの下で力なく床に投げ出された蛇の尾に、神経は通っていない。
ただの重く冷たい肉の塊として、石畳の温度を静かに吸い上げているだけだ。
差し込む夕焼けの光が、血に塗れた指先を赤く染め上げるのを、アタシはただ泥水を煮詰めたような濁った瞳で、瞬きもせずに見つめ続けていた。
ぴくり、と。
瓦礫の中に投げ出されたままのアタシの右手の指先が、力無く空を掻いた。
無意識の痙攣ではない。掌の皮膚の奥深く、神経のさらに下層にまで焼き付いて離れない、あの細くて温かい手首の感触。
それをもう一度だけ確かめたくて、指先が勝手に虚空をまさぐっていた。
喉は干からび、胃袋は空っぽだというのに、肉体が要求する生存のための渇きは完全に麻痺している。
脳髄の端を掠めるのは、あの巨大な星の川の暴走でも、マジリシアを焼き尽くす業火の幻影でもない。
そんな途方もない絶望のスケールを処理する機能は、今の頭蓋骨の中には一ミリも残っていなかった。
両手で耳を塞ぎ、泥に塗れた頭を力任せに振って、その巨大な悪夢を思考の外へと放り投げる。
欲しいのは、一つだけ。
あの夜の公園で、星空を見上げていた暁色のローブ。
アタシに向けて、絶対的な肯定の言葉を紡いでくれた、あの桜色の唇。
視線が、部屋の隅に転がったままの真紅の魔導書へと滑る。
這いつくばって手を伸ばしかけ、だが、血に汚れた指先は空中でピタリと凍りついた。
駄目だ。開けない。
今この瞬間が、幾度目のループの、どの時間軸に該当するのか。それを確認することへの、強烈な拒絶反応。
もし、このページを開いて。今が、彼女がこのソルシエの街に存在すらしていない世界線だと証明されてしまったら。
胃の腑の底から、冷たい胆汁が再び食道へと逆流してくる。ガチガチと奥歯が鳴り、伸ばしかけた腕が怯えたように胸の前に縮こまった。
確証なんていらない。文字で突きつけられる絶望よりも、自分の足で探しに行く残酷さを選ぶ。
アタシは石畳に両手をつき、ひび割れた関節に無理やり魔力の残滓を流し込んで、錆びた機械のように身体を浮かせた。
「……ッ、ぁ……」
立ち上がった瞬間、足の裏に突き刺さった無数の硝子片が体重でさらに深く肉に食い込み、鋭利な激痛が脳天を貫く。
膝がガクガクと笑い、視界がぐらりと明滅した。
それでも、アタシは倒れなかった。
裂けたドレスの裾が、瓦礫と血糊を引き摺って重苦しい音を立てる。
ズリッ。ズリッ。
右足を前に出し、左足を引き寄せる。たった数メートルの玄関までの距離が、果てしない荒野のように遠い。
息を吸うたびに、乾いた気管がヒューヒューと惨めな音を鳴らす。
それでも、視線だけは真っ直ぐに、分厚いオーク材の扉のノブへと固定されていた。
あそこに行けば。あの公園の暗がりに行けば、きっと彼女がいる。
星空を見上げて、またあのお人好しな声でアタシを呼んでくれる。
その根拠のない妄執だけが、今の崩れ落ちそうな肉体を辛うじて前へと駆動させる、たった一本の命綱だった。
赤黒く汚れた指が、氷のように冷たい真鍮のドアノブに絡みつく。
重い金属の感触を掌に押し当てながら、アタシは祈るように息を止め、渾身の力でその扉を手前へと引き開けた。
……
真鍮の重いドアノブに体重をかけ、強引に押し下げる。
分厚いオーク材の扉が、錆びついた蝶番を軋ませながら、重苦しい悲鳴を上げてゆっくりと外側へ開いた。
隙間から流れ込んでくる、冷え切った夕暮れの風。
埃と血と胃液の臭いが充満していた工房の空気が、微かな土の匂いを孕んだ外気と混ざり合う。
アタシは敷居の枠にすがりつくようにして身体を支え、ひび割れた視界を外の薄暗がりへ向けた。
公園へ向かわなければ。
その一心だけで前に出そうとした右足が、空中でピタリと縫い止められる。
扉のすぐ真横。
冷たい石造りの外壁に背中を預け、石畳の上に直接座り込んでいる、小さな影があった。
身を縮めるように両膝を抱え込み、その上にちょこんと顎を乗せている。
夕暮れの逆光に縁取られた、見間違えるはずのない暁色のローブ。頭頂部でピクッと反応した、桜色の三角耳。
ミーティア。
ドクン、と。機能停止していたはずのアタシの心臓が、肋骨を内側から叩き割らんばかりの暴力的な鼓動を打った。
呼吸の仕方を忘れ、肺が強烈に収縮する。
なぜ、ここに。
今がどの周回なのかすら分からないのに。アタシが探しに行こうとしていた矢先に、どうして一番会いたかったその温もりが、アタシの工房の入り口なんかに座り込んでいるの。
石畳に触れている彼女のローブの裾は、微かに湿気を帯び始めている。その小さな肩が時折ブルッと震えるのは、夕方の冷気に体温を奪われているからだ。
いったい、いつから。どれほどの時間、こんな冷たい壁に寄りかかって、アタシの扉が開くのを一人で待っていたというの。
問いたださなければ。
脳髄が現実の処理を拒絶してショートを起こしそうになるのを必死に堪え、アタシは震える唇を無理やりこじ開けた。
「ど、して……アンタ、が……ここに……」
だが、口の端から零れ落ちたのは、空気が漏れるような情けない摩擦音だけだった。
限界を超えた絶叫と、吐き出した胃酸で焼け爛れた声帯は、もはや正常に機能していなかった。気管の奥から鉄錆の味がせり上がってくるだけで、声という音の輪郭が全く形を成さない。
扉の枠を掴むアタシの指先が、白く鬱血するほどに震える。
血と泥に塗れ、掠れた吐息しか吐き出せないアタシを見上げ、ミーティアの丸い瞳が、ゆっくりと極限まで見開かれていった。
大きく見開かれた瞳孔に、沈みかけの夕陽の赤と、ボロボロのアタシの姿が同時に反射する。
「ラミアサンッ!?」
夕暮れの静寂を切り裂くような、弾かれた悲鳴。
石畳に座り込んでいたミーティアが、バネ仕掛けのように跳ね起きた。
アタシの裂けたドレス、血と泥に塗れた素足、そして硝子片が突き刺さって真っ赤に腫れ上がった両拳を、信じられないものを見るように忙しなく上下する。
「な、何があったんデスかその怪我……! 酷い血デス、早く手当てをしないと!」
有無を言わさぬ勢い。
彼女の小さな両手が、アタシの血塗れの右腕に容赦なく伸びてくる。
触れられた瞬間、その手のひらから伝わってくる圧倒的な熱量に、アタシの凍りついていた肩がビクッと跳ねた。
あの灰色の世界で急速に失われていった、あの体温。それが今、確かな脈動となってアタシの皮膚越しに血流を叩いている。
抵抗する気力なんて、最初から一ミリも残っていなかった。アタシは糸の切れた操り人形のように、彼女の細い腕に引かれるがまま、夕闇の通りへと引きずり出された。
どれほど歩いたのか、意識のピントが合ったのは、ふわりと温かい空気に包まれた瞬間だった。
木組みの温もりを感じる、こぢんまりとした玄関ホール。
奥の部屋から、エプロン姿のネコネコ族の男女――ミーティアの両親が顔を出し、アタシの凄惨な姿に息を呑んで硬直している。
「お、お父サンお母サン! ミーのおトモダチなんデスけど、ちょっと魔法の実験で失敗して爆発に巻き込まれちゃって……! とにかく早く手当てしマス!」
息もつかせぬ早口で適当な嘘をでっち上げると、彼女はアタシを強引に廊下の奥へと押し込んだ。
そこから先は、嵐のような時間だった。
洗面所の椅子に座らされ、ミーティアの小さな手がアタシの傷だらけの拳を包み込む。
彼女の桜色の唇から紡がれた呪文と共に、淡いピンク色の魔力が患部を優しく撫でる。硝子片が皮膚から押し出され、裂けた肉がチリチリと熱を持ちながら塞がっていく、痒みにも似た不気味な感覚。
「痛いところ、他にないデスか?」
覗き込んでくる大きな瞳に、アタシはただ曖昧に首を横に振ることしかできない。
傷が塞がると、今度は湯気の立ち込める浴室へと連行された。
泥と血に塗れた高価なドレスは「洗濯して穴を縫いマスから!」と問答無用で剥ぎ取られ、代わりにふかふかのタオルが頭から被せられる。
背中を流す彼女の指先から伝わる、石鹸の泡の滑らかな感触と、少し熱いくらいのお湯の温度。
アタシの人生のどこを切り取っても、他者の手でこんな風に甲斐甲斐しく世話を焼かれた記憶なんて、一秒たりとも存在しなかった。あの冷え切った実家で、アタシの身体はただ魔術を刻み込むための 無機質な実験材料でしかなかったのだから。
湯上がり。ミーティアのクローゼットから引っ張り出された、アタシのサイズには少し丈の短い、柔軟剤の甘い匂いがするコットンの部屋着。
それに袖を通したまま、アタシは一階のダイニングテーブルの席に座らされていた。
カチャリ、と。
目の前に置かれたのは、湯気を立てる白い陶器の深皿だった。
「さぁ、冷めないうちにいっぱい食べてくだサイね」
向かいの席に座ったミーティアが、ニコニコと微笑みながら木製のスプーンを差し出してくる。隣では、彼女の両親が心配そうな、けれどどこか温かな眼差しでアタシを見守っていた。
四人で囲む食卓。
オレンジ色のランプの光。
鍋から漂ってくる、肉と野菜がじっくりと煮込まれた、甘くて暴力的なほど食欲をそそる匂い。
アタシは震える指先でスプーンを握り、とろみのあるクリームシチューを掬い上げた。
ふうふうと息を吹きかける気力すらなく、そのまま口の中へと放り込む。
火傷しそうなほどの熱さが、舌を焼き、食道を滑り落ちて、空っぽで冷え切っていた胃の腑の底へとドスリと落ちた。
――甘い。
そして、恐ろしいほどに、しょっぱい。
野菜の甘みと、肉の脂のコク。
泥のように濁っていたはずの味覚の神経が、その強烈な熱と旨味によって強制的に再起動させられる。
咀嚼するたびに、口の中いっぱいに広がる暴力的なまでの「生」の味。
鼻腔の奥を、ツンとした鋭い痛みが突き抜けた。
眼球の裏側が焼け付くように熱くなる。アタシは奥歯を強く噛み締め、スプーンを握る右手にギリッと力を込めて、震えようとする指先を木製の柄に力任せに縫い付けた。
喉の奥にせり上がってくる熱くて硬い塊を、咀嚼の動きで強引に押し殺す。
顔を上げられない。今、目の前にいる彼女の顔を見てしまえば、限界まで張り詰めている何かが決壊してしまう。
アタシはただ白い深皿の底だけを睨みつけ、火傷しそうなシチューを次々と口の中へ放り込んだ。
お嬢様のテーブルマナーなど欠片もない、空腹の獣のような不格好な貪り方。
喉をひきつらせ、咽せ返りそうになる嚥下音を、向かいに座る彼女の柔らかな微笑みだけが、静かに肯定し続けてくれていた。
……
オレンジ色のランプが、こぢんまりとした部屋を柔らかく照らしている。
壁際に置かれた小さなベッド、綺麗に整頓された机、そして星図が描かれたタペストリー。部屋全体を包み込むのは、洗い立てのリネンと、微かに甘いミルクのような、彼女自身の体臭と同じ匂い。
アタシは借り物の柔らかいコットン地の服に身を包んだまま、ベッドの縁に腰を下ろしていた。
その足元の丸い絨毯の上に、ミーティアはちょこんと正座をしている。膝の上に両手を揃え、まっすぐな、一切の濁りを持たない大きな瞳でアタシを見上げていた。
「ミーは、夢じゃないって分かっていマス」
静かな声だった。
室内の微かな空気の揺らぎを縫うように、その言葉はアタシの鼓膜へと滑り込んだ。
「街の人がたくさんおかしくなって、暴れ回っていた時のこと」
食後の温かさで弛緩していたアタシの心臓が、唐突に氷水をぶちまけられたように跳ね上がった。
気管が収縮し、呼吸が止まる。
呪いを拡散させた、あの最初の結末。
「路地裏で倒れていたラミアサンを見つけて、ミーのベッドに寝かせまシタ。ラミアサン、すごくうなされていて……」
ミーティアの桜色の唇が動くたび、アタシの指先から急速に血の気が引いていく。
幻聴ではない。彼女の口から語られているのは、確実に「無かったこと」にしたはずの、切り捨てた世界線の記憶だ。
「地下で見た、あの凄く綺麗だった星々のことも、覚えていマス」
彼女は瞬きすらせず、言葉を紡ぎ続ける。
「あの時は、公園のベンチで、一緒に星を見まシタ。ラミアサン、最初は難しい顔をしてたけど……とりとめのないお話しをするの、ミーはとても楽しかったデス」
両手の指先が、無意識にベッドのシーツを強く握りしめていた。爪が掌に食い込む痛みすら、今の麻痺した脳髄には届かない。
「それから……お空が赤く燃えていた時」
ミーティアの長い睫毛が、微かに伏せられた。
アタシの胸の中心、完全に塞がったはずのその場所に、幻の激痛が走る。
「あの時、何故かずっと前から知っている、すごく大切な人だって思いまシタ。お名前を聞きたかったのに、全然思い出せなくて……でも、胸に黒い魔法が飛んできたあの瞬間に、やっと、ラミアサンのお名前を思い出せたんデス」
肺の中に溜まった空気が、鉛のように重くなる。
全部。最初から最後まで、すべてを知っていた。
アタシがこの街に何を仕掛け、彼女をどんな悲惨な結末に巻き込み、その度に時間を巻き戻して逃げ続けてきたのかを。
「……ある日、ラミアサンがすごく、今にも泣きそうな顔をして帰っていくのを見まシタ」
顔を上げたミーティアの耳が、少しだけ申し訳なさそうに後ろへ倒れた。
「心配で、どうしても放っておけなくて……足音を消して、後ろを歩いていきまシタ。この辺りの、大きな扉の建物だってことだけは、ずっと頭の中に残っていたんデス」
アタシの喉の奥で、情けない音が鳴る。
猫の魔獣特有の、気配すら殺す完璧な尾行。実力者のアタシですら気づけないほどの、純粋な心配という名の追跡。
「今日、ここかもって探していたら……中から、凄い音がしまシタ」
彼女の瞳の奥が、ほんの少しだけ揺らいだ。
「物が割れる音と……すごく、痛いぐらいの、泣き声」
アタシは息を呑み、力強く握りしめていた両手の力をフッと失った。
扉一枚隔てた外側で。
あの血と吐瀉物と瓦礫に塗れた地獄のような空間で、アタシが両親の幻影に怯え、子供のように泣きじゃくっていたあの最も惨めな時間を、彼女はすべて聞いていたのだ。
「どう声をかけたらいいか、分かりませんでシタ。だから……扉の横で、ずっと待っていまシタ」
静かな部屋の中に、時計の秒針の音だけが響く。
アタシの網膜に焼き付いているのは、冷たい夕暮れの風の中で、膝を抱えてアタシの扉が開くのを待っていた彼女の小さな背中。
それら全ての行動が、消え去ったはずの記憶の集積の上に成り立っているという事実。
ベッドのシーツを握りしめていた両手から、一気に温度が抜け落ちていく。
肺に吸い込んだはずの空気が、鋭利な氷の破片となって気管の内側をズタズタに切り裂いた。
完璧なはずだった。
あの真紅の魔導書が紡ぐ「ロード」の術式は、世界を完全に白紙に戻し、都合の悪い失敗をすべて無に帰す、絶対的な神の御業であるはずだった。
なのに今、足元の床板が泥のように溶け落ち、底なしの暗黒へと真っ逆さまに突き落とされたような、強烈な浮遊感と眩暈が脳髄を乱暴に揺さぶっている。
帳消しになど、なっていなかった。
アタシがこの手で撒き散らした呪いも、街を飲み込んだ地脈の暴走も、戦火の中で彼女の胸を貫いた冷酷な闇の魔法も。
消去したはずの地獄の光景は、誰の目にも触れない暗闇の中で、静かに、確実に積み上がっていたのだ。彼女の、そしておそらく他の誰かの脳の奥底に、真っ黒な「記憶の澱」として。
カチ、カチ、カチ。
鼓膜の奥で、不吉な歯車の噛み合うような幻聴が鳴り響く。
時限爆弾だ。
やり直せばやり直すほど、対象者の内側に致死量の記憶が圧縮されていく。もし、この致命的な欠陥に気づかないまま、アタシが自身の目的のために、あるいはただ絶望から逃避するためだけに、安易な死と逆行を何十回、何百回と繰り返していたら。
蓄積された「無かったはずの惨劇」の質量は臨界点を突破し、いつかどこかの周回で、取り返しのつかない大爆発を引き起こしていた。関係者の精神を完全に破壊し尽くすか、あるいは世界そのものがアタシを滅ぼすべき災厄として牙を剥く、どうしようもない破綻。
奥歯が勝手に噛み合って嫌な音を立てた。
背筋を駆け上がる凄まじい悪寒に、全身の毛穴が総毛立ち、蛇の尾が本能的な恐怖に駆られてベッドの脚にギリギリと巻き付く。
アタシは、無自覚のまま、導火線に火のついた巨大な爆薬の山の上で、目を塞いでリセットボタンを押し続けていただけの愚か者だったのだ。
ランプの光が、ミーティアの瞳の奥で小さな星のように瞬いている。
その柔らかい光の奥底に、アタシが押し付けた無数の死の記憶が、静かに横たわっている。
胸を貫かれた時の生々しい破砕音。憎悪に狂った暴徒に襲われ、理不尽な暴力に引き裂かれそうになった恐怖。大地そのものを蒸発させるほどの地脈の閃光に、生きたまま全身を焼かれた絶望。
アタシがこの手で引き金を引いた地獄のすべてを、彼女の小さな身体は完全に記憶している。
盤上の駒。アタシの目的を果たすための便利な道具。
そんな傲慢な言い訳は、もはや砂のように崩れ去り、微塵も残っていなかった。
胃の腑から、鋭い棘のような罪悪感が食道を逆流してくる。
謝らなければ。アタシのせいで、アンタを何度も殺して。その消えない痛みを全部押し付けて。
だが、微かに開いたアタシの唇は、わななくばかりで一つの音も紡ぎ出さない。
冷たい石造りの実家で、他者を呪い殺す術式は骨の髄まで叩き込まれた。しかし、自らの非を認めて頭を下げる方法は、一度だって教わらなかった。あの屋敷において、謝罪とは弱者の証明であり、決して口にしてはならない禁忌だったから。
張り詰めた胸の奥で、行き場を失った感情が暴れ回る。内臓が破裂しそうなほどの圧力。呼吸が浅くなり、酸欠で視界の端が白く点滅を始める。
情けない。どうしてこんな時に、たった六文字の言葉すら絞り出せないのよ。
罪の重圧に首の骨が軋み、アタシは逃げるように視線をベッドのシーツへと落とした。
その時だった。
シーツを握りしめて白く鬱血していたアタシの右手に、ふわりと、温かい小さな質量が重なった。
ビクッと蛇の尾が硬直し、反射的に視線を上げる。
ミーティアの両手が、アタシの氷のように冷え切った指先を、下からすくい上げるように包み込んでいた。
「ラミアサン、まだ指先が冷たいデスね。お部屋、もっと暖かくしまショーか」
桜色の唇から零れたのは、弾劾でも恨み言でもない。ただ目の前の傷ついた存在を案じるだけの、どこまでも透明な声音だった。
覗き込んでくる大きな瞳孔に、アタシを責める色は一欠片も存在しない。
彼女の親指の腹が、アタシの強張った手の甲を、こわばりを解すようにゆっくりと撫でる。
皮膚越しに流れ込んでくる、圧倒的な命の熱量。
知っている。
呪いを撒き散らし、路地裏で死にかけていたアタシを、躊躇いもなく拾い上げたあの夜。血だらけの身体を拭い、温かい毛布で包み込んでくれた、あの最初の体温と何一つ違わない。
アタシが世界を炎で焼き尽くしても。
残酷に時計の針を逆回転させても。
この小さな両手は、決してアタシを拒絶しない。
何度地獄の底に突き落とされようと、決して裏切ることなく、こうして同じ温度で汚れた手を握りしめてくれるのだ。
「……アンタ……」
喉の奥に詰まっていた謝罪の言葉は、熱い塊となって溶け落ちた。
代わりに、ひび割れた唇から零れ落ちたのは、理屈では到底処理しきれない、魂からの問いかけだった。
「どうして……ここまで、してくれるのよ……」
「……それは」
ミーティアは、きょとんとしたように小首を傾げた。
桜色の三角耳がピクリと揺れ、アタシの手を包み込んでいる彼女の親指が、脈打つ手首の血管の上を優しく撫でる。
「さっき、お父サンとお母サンに言った通りデス」
彼女は、まるで今日の夕食の献立を教えるような、あまりにも何気ない口調で言った。
「ミーとおトモダチだからデスよ。……あれは、嘘じゃないデス」
おトモダチ。
その五文字が、アタシの鼓膜を震わせ、無防備な胸の奥へとストンと落ちる。
実家の屋敷では「利用価値のある駒」か「排除すべき敵」しか存在しなかった。アタシにとってその言葉は、絵本の中だけの絵空事か、あるいは弱者が群れるための言い訳でしかなかったはずだ。
なのに、どうして。
彼女の口から紡がれるその響きは、どんな高度な防御魔法よりも強固に、アタシの崩れかけた精神を支えている。
「それに……」
ミーティアの視線が、アタシの瞳から、その奥にある何か遠い場所を見つめるように少しだけ細められた。
「ラミアサンが何をしようとしていたのか。何を目的に、あんな怖いことを繰り返していたのか……今になってみると、ミーは何となく分かりマス」
ドキリ、と心臓が跳ねた。
握られた手から、嫌な汗が滲む。
見透かされている。
アタシが抱える昏い野望も、世界への復讐心も。彼女は全てを記憶しているのだから、当然だ。
「きっと、それは……この世界や、街の人たちにとっては、良くないことなのかもしれまセン」
否定はしなかった。
彼女の真っ直ぐな瞳は、アタシの罪を正確に射抜いていた。
当然だ。断罪される。その手を振り払われ、軽蔑の言葉を吐き捨てられる。
アタシは反射的に身構え、奥歯を噛み締めた。
だが、彼女の手は離れなかった。
それどころか、その温もりはより強く、より優しく、アタシの凍えた指に絡みついてきた。
「それでも、ミーはラミアサンに、何度も助けてもらいまシタ」
暁色のローブが衣擦れの音を立てる。
彼女は膝立ちになり、アタシの顔を覗き込むように距離を詰めた。
「誰も聞いてくれないミーの話を、星空の下で聞いてくれまシタ。危ないところを庇ってくれまシタ。……世界がどうとか、正しいとか間違いとか、そんなことは関係ないデス」
暖かい光を背負い、彼女は花が咲くように微笑んだ。
それは、アタシがこれまで見てきたどの宝石よりも美しく、残酷なほどに眩しい、個人としての選択。
「ラミアサンがミーを助けてくれた。ミーにとっての真実は、それだけで十分なんデス」
喉の奥が熱く焼ける。
視界が水膜で揺らぎ、彼女の輪郭が滲んでいく。
世界を敵に回しても、アタシという存在を肯定する。
その愚かで、愛おしいほどの純粋さが、アタシの罪悪感ごと魂を貫いていた。
「だから、今度はミーがラミアサンを助けたいデス」
彼女の両手が、アタシの手を包み込んだまま、祈るように胸元へと引き寄せられる。
「……ダメ、デスか?」
上目遣いに見つめるその瞳に、拒絶の言葉など、吐けるはずがなかった。
アタシは口を半開きにしたまま、ただ呼吸をすることさえ忘れ、その圧倒的な光の前で立ち尽くすことしかできなかった。
[newpage]
照明の油が尽きかけ、芯がチリチリと燃える微かな音が、深夜の静寂を際立たせていた。
「……アタシの手は、アンタが思っているよりもずっと冷たくて、汚れているのよ」
膝を抱えたまま、アタシは喉の奥に澱んでいた汚泥を、一雫残らず吐き出した。
生き延びるために騙した商人の顔。復讐の資金を作るために横流しした違法な魔法薬。そして、あの屋敷で両親を焼き殺した時の、鼻腔にこびりついて離れない脂と焦げた肉の臭い。
美辞麗句で飾ることなどできなかった。ただ淡々と、事実という名の刃物を並べ立て、彼女の反応を待った。拒絶されるなら今だ、と身構えて。
けれど、ミーティアは少しだけ悲しそうに耳を伏せ、けれど決してアタシから視線を外さなかった。
「……悲しいお話デス。でも、ミーはラミアサンが悪い人だとは思えまセン」
彼女の小さな手が、アタシの震える手を包み込む。
「……ただ、お願いがありマス」
ミーティアの指先に、ぎゅっと強い力が込められた。
痛いほどではない。けれど、決して逃がさないという意思の強さが、皮膚を伝ってアタシの軟弱な心臓を鷲掴みにする。
「もう二度と、あんな風に……嘘をついて、ラミアサン自身を切り刻むような真似は、しないでほしいデス」
アタシはミーティアから視線を逸らせなかった。
誰かを傷つけることへの批難ではない。アタシ自身が傷つくことへの、純粋な心痛。
彼女の大きな瞳が、涙の膜で潤みながら、アタシの魂の底を射抜く。
「あの記憶の中で……ミーに嘘をついたり、本当の気持ちを隠して笑ったりしている時のラミアサンは、すごく辛そうでシタ。まるで、ナイフの刃を素手で握りしめて、自分自身の血を流しながら無理やり立っているみたいに……心臓の音が、泣いていまシタ」
言葉が出なかった。
必要悪だと割り切っていた。復讐のためなら泥をすすることも厭わないと、鉄の意志で感情を殺してきたつもりだった。
けれど、この小さな少女は、その仮面の下で血を流していたアタシの本当の姿を、ずっと聴いていたのだ。
「お願いデス。これからは、自分を大事にしてくだサイ。もし困ったことがあったら、嘘をついたりする前に、ミーに言ってほしいデス。ミーが、一番に助けマスから」
その言葉は、どんな免罪符よりも重く、そして温かくアタシの魂を縛り付けた。
代わりに彼女が語ったのは、アタシとは対照的な、けれど同じくらい切実な孤独だった。
生まれつき規格外の魔力を持ちながら、それを制御できずに魔法学校で落ちこぼれ扱いされていること。爆発しそうなエネルギーを抱えたまま、誰にも理解されずに空回りしていた日々。
改めて彼女の魔力回路を診て、アタシは絶句した。
まるでダム湖の水を細いホースで無理やり流そうとしているような、あまりにも歪で贅沢な詰まり方。
「……呆れた。宝の持ち腐れにも程があるわ」
「うぅ、面目ないデス……」
「いいわ、教えてあげる。アンタのその無駄に巨大なタンクの使い方をね」
ため息交じりに告げたその約束が、アタシたちの間に見えない契約の糸を結んだ。
主従でも、利用関係でもない。欠けた部分を補い合う、共犯者としての契約を。
……
一夜明けた朝の食卓で、ミーティアはスプーンを片手に、さも当たり前のことのように宣言した。
「ラミアサン、お買い物に行きまショー!」
「……は?」
「だって、ラミアサンの着替えも日用品も足りないデスし。それに……昨日のシチュー、美味しいって言ってくれまシタよね? だったら、味覚が戻った記念に、甘くて美味しいお菓子を作りまショー! ミーの大好きなジャムクッキー!」
アタシは呆気にとられ、口に含んだパンを飲み込むのを忘れかけた。
この子は分かっているのだろうか。アタシは今、この国で重い罪を背負った指名手配犯だ。白昼堂々、街中を練り歩くなど狂気の沙汰でしかない。
「無理よ。アタシの顔は割れてるわ。一歩外に出れば、魔法警察どもが血相を変えて飛んでくる」
「大丈夫デスよ。ラミアサンの魔法なら、別の姿になれるんじゃないデスか?」
あっけらかんと言い放つ彼女に、アタシは言葉を詰まらせた。
確かに擬態魔法を使えば、種族ごと外見を偽装することは容易い。だが、リスクがゼロになるわけではない。合理的に考えれば、必要な物はミーティア一人に買いに行かせるのが正解だ。
けれど。
「おトモダチとお出かけしたいデス」と尻尾を揺らす彼女の、その無防備な誘惑に、アタシの理性が揺らいだ。
友達と街を歩く。好きなものを選び、甘いお菓子の材料を一緒に探す。
それは、アタシがこれまで「無駄な時間」として切り捨て、心の奥底で焦がれ続けていた日常そのものだったから。
「……捕まっても知らないわよ」
「ふふ、その時はミーがラミアサンの手を引いて逃げマスから!」
根拠のない自信に苦笑しながら、アタシは腹を括った。
この温かい朝の空気が、アタシの警戒心を甘く麻痺させていたのかもしれない。
……
そうして訪れた朝のソルシエの街は、アタシの知っている世界とはまるで別物のように輝いていた。
「わぁ……ラミアサン、すごくクールで綺麗デス!」
ネコネコ族への擬態魔法を行使したアタシを見て、ミーティアが目を輝かせる。
鏡に映るのは、彼女から借りた少し窮屈な外出着をまとい、頭に黒猫の耳を生やした見知らぬ少女。
魔法警察の検問をすり抜けるための変装だったが、隣を歩く彼女が嬉しそうに尻尾を振るたびに、アタシの頬がむず痒く熱くなった。
市場の喧騒。焼き立てのパンの香ばしい匂い。色とりどりの果物が並ぶ露店。
これまで「身を隠すべき影」でしかなかった街並みが、今は鮮やかな色彩の洪水となって網膜を刺激する。
ただ並んで歩き、日用品を選び、夕食の材料をカゴに入れる。
たったそれだけの、取るに足らない行為。けれど、隣に「おトモダチ」がいるという事実だけで、アタシの心臓は早鐘を打ち続けていた。
「でも、本当は……」
人混みが途切れた路地裏で、ミーティアがポツリと零した。
「ラミアサンの、そのまますごく綺麗な茶色の髪で、堂々と歩けたらいいのにな、って思いマス」
その無垢な願いに、アタシは返す言葉を持たず、ただ強く彼女の手を握り返すことしかできなかった。
……
続いて、次の日。
甘いバターと焦げた砂糖の香りが、狭いキッチンに充満していた。
「あーもうッ! なんで生地が均等に伸びないのよ。この麺棒、歪んでるんじゃないの!?」
「ふふ、ラミアサン、力が入りすぎデスよ。もっと優しく、こうやって……」
オーブンから取り出した天板の上には、残酷なまでの格差が広がっていた。
ミーティアが作ったのは、完璧な猫の形をした愛らしいクッキーたち。
対してアタシのエリアにあるのは、猫……というよりは、車に轢かれた泥人形のような、歪な小麦粉の塊。
完璧主義のアタシのプライドは粉々に砕け散り、肩を落として呻く。
「……才能ないわね、アタシ」
「そんなことないデス! 見てくだサイ、この子、ちょっと困った顔をしてて可愛いデスよ」
ミーティアは笑いながら、アタシの作った一番マシな失敗作を手に取り、サクッと音を立てて齧った。
つられてアタシも、彼女の作った綺麗な猫を一匹、口へ運ぶ。
サクッ。ほろり。
舌の上でバターの風味が溶け出し、野イチゴのジャムの甘酸っぱさが爆発的に広がる。
美味しい。
脳髄が痺れるほどに、甘くて、優しい味。
死んでいた味覚が完全に蘇り、生きている喜びを直接神経に流し込んでくる。
「……ん、美味しい」
「えへへ、良かったデース!」
二人で顔を見合わせ、クッキーを齧る。
その穏やかな時間の隙間に、つけっぱなしの魔法ラジオから無機質なノイズが混じった。
『――現在、魔力を動力源とする都市インフラにて、原因不明の出力低下が確認されています。住民の皆様は……』
キャスターの声が、何か不穏なことを告げている。
『魔力不足』。『計画停電』。
アタシの頭の片隅で、論理的な警報がチリリと鳴った。
魔力炉の不調? いや、この規模の都市でそんな単純な欠陥が起きるはずがない。何かが、異常な速度で魔力を吸い上げている?
けれど。
「珍しいこともあるものデスねぇ」
のんきにクッキーを頬張るミーティアの笑顔を見たとたん、アタシはその警報のスイッチを、意識的に「切」へと押し込んだ。
考えたくない。
今はただ、この甘いジャムの味と、彼女の笑顔だけに浸っていたい。
どうせまた、ろくでもない貴族の権力争いか、設備の老朽化だろう。明日になれば直っているはずだ。
そう自分に言い聞かせ、アタシは湧き上がる微かな胸騒ぎを、熱い紅茶と共に胃の腑へと流し込んだ。
……
部屋の隅に置かれた魔力式のランプは、昨夜のニュース通り、沈黙を守ったまま冷たいオブジェと化していた。
窓から差し込む午後の日差しだけが、薄暗いリビングの埃をキラキラと浮かび上がらせている。
静寂。魔力循環ポンプの駆動音も、冷蔵庫の低い唸りも消えたこの空間は、世界から色を奪われたように無機質だった。
「ね、ラミアサン。こんな日はお外でお弁当を食べまショー!」
その静けさを破ったのは、ミーティアの弾むような声だった。
彼女はバスケットに詰め込んだサンドイッチと水筒を掲げ、窓の外、北の森の向こうに広がるなだらかな丘を指差している。
「あそこの丘なら、夜になったら星が降るみたいに見えマスよ。街の明かりも消えちゃうんデスから、絶好のチャンスだと思いマス!」
……
工房の裏手。乾いた土の匂いがする勝手口で、アタシはクローゼットの奥から引っ張り出した代物を、忌々しげに見下ろしていた。
柄の部分が飴色に磨き上げられた、樫の木の箒。
先端の穂先は少しバラつき、グリップには手垢が染み込んでいる。
最新鋭の浮遊術式を編み出し、杖一本で空を駆けるアタシにとって、こんな魔力効率の悪い骨董品を使うなど数年ぶりの屈辱だった。だが、重力制御の術式は繊細だ。他者を抱えて飛ぶとなれば、この無骨だが安定感のある「乗り物」に頼るのが一番安全な選択肢だった。
「……まさか、またこれに跨る日が来るなんてね」
ため息をつきながら箒を水平に構える。
アタシは慣れた動作でその柄に跨ると、蛇の尾を螺旋状に絡ませて重心を固定した。
太腿の内側に伝わる、硬い木の感触。
「失礼しマース!」
背後で、トン、と軽い衝撃があった。
箒の柄が、新たな質量を受けてきしむように少しだけ沈み込む。
直後、アタシの腰回りに、細い二本の腕が回された。
「ひゃっ!?」
変な声が出た。
背中に押し付けられる、柔らかくて温かい感触。
コットンの服越しに、ミーティアの体温が直接アタシの背中の皮膚へと染み込んでくる。彼女の心臓のトクトクという速いリズムまでが、アタシの背骨を伝って共鳴するようだ。
「ラミアサン? どうしまシタ?」
「な、なんでもないわよ! ……しっかり掴まってなさい。振り落とされても知らないから」
動揺を悟られまいと、アタシはわざと不機嫌な声を張り上げ、箒の穂先に魔力を流し込んだ。
ブンッ、と低い振動音が空気を震わせる。
浮力が発生し、足が地面から離れる独特の浮遊感。
「いきマスよ!」
地面を蹴ると同時に、魔力スロットルを一気に全開にする。
轟音と共に、景色が後方へと弾け飛んだ。
強烈なGが全身にかかる。
重力に逆らって急上昇する加速感に、内臓がふわりと持ち上がる感覚。
頬を切り裂くような風圧が襲ってくるが、アタシは即座に風除けの結界を展開し、それを心地よい微風へと変還させた。
眼下には、緑の絨毯のような北の森が、ものすごい勢いで流れていく。
普段なら、術式の維持や周囲の警戒に神経を尖らせているはずの時間だ。
けれど今の意識の大半は、腰に回された彼女の腕の感触だけに釘付けになっていた。
「わぁぁ……! すごいデス! 鳥サンになったみたいデス!」
耳元で、興奮したミーティアの声が響く。
彼女の吐息が首筋にかかり、ぞくりと甘い痺れが背筋を駆け抜けた。
怖いのか、楽しいのか。彼女の腕のアタシを抱きしめる力が、ギュッと強くなる。
その圧力は、アタシを拘束すると同時に、かつてないほどの安心感を与えていた。
ただの移動手段。ただの飛行。
なのに、背中に預けられた質量の分だけ、アタシの世界の重心が変わってしまったようだ。
箒の振動が、密着した身体を通して互いに伝わり合う。
彼女のミルクのような匂いが、上空の澄んだ空気の中で鼻腔をくすぐる。
アタシの魔術師としての卓越した平衡感覚をもってしても、この制御不能な胸の高鳴りだけは、どうしても水平を保つことができなかった。
……
乾いた風が、丘の上の短い草を撫でていく。
アタシはチェック柄のレジャーシートの上に投げ出した両足を、行儀悪くぶらぶらと揺らしていた。
尻尾の先が、太陽の熱をたっぷり吸い込んだ地面の温もりを感じて、あくびをするように緩くトグロを巻く。
「はい、ラミアサン! こっちは卵とキュウリのサンドイッチデス!」
視界の端から、バスケットを抱えたミーティアの笑顔が飛び込んでくる。
差し出されたそれを、アタシは半ば呆れたように、けれど拒むことなく受け取った。
しっとりとした白いパンの感触。一口齧れば、マヨネーズの酸味とキュウリの青臭い香りが、口の中いっぱいに弾ける。
なんてことのない、庶民的な味。
ご馳走になったあの濃厚なシチューや、一緒に作った甘いジャムクッキーとは違う、単純で、飾り気のない味だった。
「……またキュウリ? アンタ、好きねぇ」
「美味しいデスよー? シャキシャキしてて、夏! って感じがしまス」
もぐもぐと頬を膨らませる彼女を横目に、アタシはゴクリとパンを飲み下した。
喉を通る質感が、妙に愛おしい。
することがない。
ただ風に吹かれ、流れる雲を目で追い、腹が満たされれば微睡む。
物心ついた時から、アタシの時間割は「義務」と「復讐」と「研究」で埋め尽くされていた。
一分一秒を惜しんで魔術書を読み漁り、睡眠時間を削って術式を組み上げる。空白の時間など、罪悪感の温床でしかなかったはずだ。
「アタシも焼きが回ったわね……」
自嘲気味に呟きながら、アタシは芝生の上に大の字に寝転がった。
背中越しに伝わる大地の硬さ。瞼の裏に焼き付く、茜色に染まり始めた空のグラデーション。
指先についたパン屑を払い落とす動作さえ、ひどく緩慢だ。
こんな無為な時間が、これほどまでに贅沢で、魂のささくれを一本一本丁寧に抜いていくような感覚だなんて、知らなかった。
……
やがて、世界から青色が抜け落ち、代わりに深淵のような黒が降りてきた。
計画停電の影響だろう。眼下の森も、その向こうにあるはずのソルシエの街並みも、今日は死んだように沈黙している。
人工の光が消え失せた世界。
その代償として、頭上には息を呑むような光景が広がっていた。
「わぁ……っ!」
ミーティアの歓声が、夜気に溶ける。
星。星。星。
まるで神様が宝石箱をひっくり返したかのように、視界のすべてを埋め尽くす光の粒。
天の川が白く太い帯となって夜空を分断し、一つ一つの星が、突き刺さるような鋭い輝きを放っている。
ソルシエ地下深くの地脈で見た、あの偽物の星空とは違う。
街の灯りにかき消され、見ることのできなかった「本物」の宇宙が、そこにはあった。
「見てくだサイ、ラミアサン! あれ、ネコネコ座デスかね!?」
「……そんな星座ないわよ。あれは射手座」
隣で無邪気にはしゃぎ、夜空を指差す彼女の横顔を、アタシは盗み見る。
星明かりを受けて、彼女の大きな瞳の中に、小さな銀河が映り込んでいる。
その瞳は、アタシがこれまで繰り返してきたどの世界線よりも澄んでいて、綺麗だった。
かつてのアタシにとって、星空なんて図鑑のインクで描かれた記号でしかなかった。
外界を遮断された屋敷でも、昼夜の区別すらない工房でも、アタシの視界を埋め尽くしていたのは、血とカビの臭いがする復讐の教典だけだったから。
顔を上げて、頭上の輝きを探す余裕なんて、一秒たりとも持ち合わせていなかった。狭い暗闇の中で膝を抱え、自分には「破滅」という一本道しか残されていないのだと、この圧倒的な光の海を知らないまま、そう思い込んでいた。
けれど今は、どうだ。
たった数日。このお節介で、無防備で、太陽みたいに温かい「おトモダチ」に手を引かれただけで。
アタシの視界はこんなにも鮮やかに色づき、肺いっぱいに吸い込む夜気は、甘く澄んでいる。
(……生まれ変われる、のかしら)
ふと、そんな思考が脳裏をよぎる。
罪が消えるわけじゃない。犯した過ちが帳消しになるわけでもない。
それでも、彼女が隣にいてくれるなら。
この不器用で傷だらけの手でも、もう一度、何かを掴み直すことができるんじゃないか。
「……綺麗ね」
アタシは空に向かって、誰に聞かせるでもなく呟いた。
それは星のことでもあり、隣で笑う彼女のことでもあり、そして、今この瞬間のことでもあった。
ずっと、このままで。
この静かで、何もない、けれど全てが満ち足りた時間。どうか永遠に続いてほしい。
そう願って、アタシは伸ばした指先で、一番明るく輝く星をなぞろうとした。
けれど。
その願いは、天に届くよりも早く、物理的な質量を持って圧殺された。
予兆など、一ミリ秒たりとも存在しなかった。
風の音も、草の匂いも、隣に座るミーティアの温もりも。
網膜に焼き付いていた満天の星空さえも、認識する間もなく「白」に塗り潰された。
絶対的な、極光。
それは音を置き去りにした。
視界の端から徐々に明るくなるのではない。世界そのものの色彩設定が、瞬きの間に「白一色」へと反転したのだ。
眼球の裏側が焼け付くような熱。
伸ばしかけていたアタシの指先が、その輪郭を保てずに光の中へと溶解していく。
「――え?」
喉の奥で、音にもならない呼気が漏れた。
思考回路がショートする。
何が起きた? 敵襲? 事故? いや、この規模はなんだ。
ソルシエの方角から膨れ上がったその光は、爆発などという生温かいものではない。世界を構成する魔力そのものが臨界点を超え、飽和し、すべてを無に帰そうとする「浄化」の奔流だった。
熱い、とも、痛い、とも感じる暇すらなかった。
ただ、圧倒的なエネルギーの波が、細胞の一つ一つを原子レベルで分解していく感覚だけが、脳髄に直接叩き込まれる。
隣にいたはずのミーティアの笑顔が、白飛びして消える。
彼女が何かを言おうとして開いた唇も、アタシの名を呼ぼうとした喉の震えも、すべてが光の渦に呑み込まれて掻き消された。
握りしめていたはずの小さな手の感触が、ふっと、嘘のように軽くなる。
守る、と誓ったのに。
一緒に生きようと、約束したのに。
アタシの指先から、掌から、腕から、感覚という感覚が剥ぎ取られていく。
(あ、ぁ……)
理解するよりも早く、意識の糸がプツリと焼き切れた。
最後に残ったのは、網膜を灼く純白の残像と、為す術もなく引き裂かれた日常への、届かない絶叫だけだった。
[newpage]
……キミは 本当に 世話が焼けるなぁ。
折角 ボクの力を キミに預けてあげたのに。
世界を滅ぼすことばかり考えて 好き勝手 やってくれたよね。
挙げ句の果てに 救いを求めて 何もしないなんて 勘弁してほしいよ。
折角のアイテムも 扱えずに仕舞っちゃうし。
彼曰く まだ必要みたいだから ここに入れておくよ。
キミなら 辿り着けるって 予見してたみたいだけど もうちょっと 効率よく進めてくれないかな。
ただこれで キミがどうするべきかの 手掛かりは 掴めたはずだよね。
あまり 悠長には していられないことも 含めてね。
マジリシアの滅亡なんて ボクの 望むところじゃ ないんだから。
……ああ そうだ。
もし失敗して あの光に巻き込まれても キミは 死ねないよ。
ボクの 魔法の 所有者なんだから その力で 頑張ってね。
さあ もう一度 いってらっしゃい。