ウロボロスは星を捜す 【前編】

  そう、きっと最初のひと呼吸からして間違いだったのよ。

  肺を満たす空気の味すら、何一つとしてアタシの舌には馴染まない。

  古びた羊皮紙と黴の臭いが染み付いた、無駄に歴史だけが長い屋敷。あの陰気な石造りの廊下を歩くたび、歴代の当主たちの肖像画が、値踏みするような視線でアタシの背中を焼いた。

  「高尚なる呪術師の家系」。そんな埃被った肩書きを守るためだけに、アタシという泥人形は捏ねくり回されたわ。矯正という名の暴力で、余分な感情を削ぎ落とし、彼らが望む理想的な器になるようにと。

  ああ、惨めな努力だったこと。

  鏡の前で何度、口角の角度を調整したかしら。頬が引きつり、痙攣するのを意志の力でねじ伏せ、淑女の仮面を貼り付ける。

  成績は常に首席。指先が魔導書のインクで黒く染まるまで呪いの術式を刻み込み、誰よりも早く、誰よりも深く、闇の理を貪った。

  「ごきげんよう」

  完璧なカーテシー。ドレスの裾をつまむ角度一つ狂わせず、アタシはいい子を演じ続けた。

  けれど、返ってくるのは氷点下の沈黙だけ。

  アタシの肌が、呼吸が、周囲の魔力を無意識に啜り飲んでしまうから。まるで渇いたスポンジのように他者の魔力を奪うこの体質を、誰もが不浄な病原菌を見るように遠巻きにした。

  廊下ですれ違うたび、彼らは露骨に呼吸を止め、衣擦れの音さえ立てずに距離を取る。その瞳の奥にあるのは、アタシという存在そのものへの生理的な嫌悪。

  アタシの心臓がこんなにも悲鳴を上げているのに、誰の鼓膜にも届かない。

  祈りは、いつしか喉の奥で腐り落ちて、どす黒い呪詛へと変質していたわ。

  憎い。

  アタシの輪郭を削り、土足で踏み荒らし、何もかもを奪っていくこの世界が、どうしようもなく憎い。

  だから――壊して差し上げた――ううん、壊してあげたの。

  あの日、アタシに向けられた「学友」の嘲笑が、引き金だった。

  いつもと同じ、ゴミを見るような目。アタシが積み上げてきた全てを否定する、薄汚い唇の歪み。

  指先を弾いた瞬間、世界の色が変わった。

  「――――あ?」

  間の抜けた声と共に、その学友の髪に赤い花が咲く。

  チリチリとタンパク質が炭化する、鼻を突く焦げ臭さ。爆ぜる脂の音。

  さっきまでアタシを見下していた瞳が、恐怖に見開かれ、白目が剥き出しになる。床にへたり込み、無様にのたうち回るその姿は、まるで踊り狂う道化のようだった。

  灰色一色だったアタシの視界に、初めて鮮烈な「赤」が灯った瞬間。

  化け物。

  誰かがそう叫んだ気がするけれど、それはアタシにとって最高の賛辞だったわ。

  胸の奥で燻っていた澱が、爆発的な歓喜となって血管を駆け巡る。

  ああ、なんて清々しいのかしら。

  無理やり押し込められていた鋳型が、熱で溶けていく感覚。アタシを縛り付けていた鎖が、音を立てて焼き切れていく開放感。

  口元から、抑えきれない笑みが零れ落ちた。

  もっと早く、こうしてしまえば良かったのよ。

  どうせ愛されないのなら、どうせ理解されないのなら、恐怖で支配してしまえばいい。

  アタシはこの世界にとっての異物、毒を撒き散らす災厄なのだから。

  風が、アタシの頬を撫でる。

  今の気分? ええ、最高よ。

  この腐ったマジリシアを灰燼に帰すその日まで、アタシは誰の指図も受けない。

  極悪非道、結構じゃない。それが、アタシがアタシとして生きるための、唯一の作法なのだから。

  

  [newpage]

  

  [chapter:とあるルートの袋小路にて]

  ああ、滑稽。

  あまりにも滑稽で、反吐が出るほど愛おしい「怠惰」の末路だわぁ。

  石造りの冷たい床に、べちゃり、と鈍い音が響く。

  つい先刻まで、この狭苦しい部屋でふんぞり返っていた「悪魔」と呼ばれた肉塊。契約者である少年を顎で使い、偉そうに講釈を垂れていた傲慢な瞳は、今や白く濁り、どこか明後日の方向を向いて虚空を睨んでいる。

  その首に残る紫色の指痕は、他ならぬ、彼が「使い魔」と蔑んでいた少年のもの。

  クスクスと、喉の奥から笑いがせり上がってくるのを止められない。

  自分の手駒に裏切られ、情けない命乞いをしながら自滅するなんて。これ以上ないほどの極上の皮肉。最高のエンタメじゃない。

  アタシの杖先から放たれた「負の感情を増幅する呪い」が、ここまで美味しく調理されるなんてね。

  けれど――。

  「…………う、ううっ、ぁあ……」

  興の削がれる音がした。

  悪魔の死骸の横で、膝から崩れ落ちた少年が、床に拳を打ち付けている音だ。

  石畳に擦り付けられた皮膚が破れ、滲んだ血が涙と混じり合って汚らしい模様を描いている。

  喉を詰まらせ、獣のように嗚咽を漏らすその背中は、まるで世界の終わりを嘆いているかのよう。

  ……はぁ? 何なのよ、それ。

  アタシの呪いは、心の闇を燃料に燃え上がる猛毒。憎悪、嫉妬、憤怒。それらが増幅されればされるほど、破壊衝動は加速するはずでしょう?

  なのに、なんでアンタは泣いているわけ?

  そこは、狂ったように笑う場面でしょう?

  目の前の肉塊を踏みつけ、引き裂き、鮮血を浴びて「ざまあみろ」と凱歌を上げるのが、呪いに侵された者の正しい作法じゃない。

  それなのに、まるで最愛の半身を失ったかのような、その湿っぽい空気は何?

  チッ、と舌打ちが漏れる。

  胸の奥で燻っていた愉悦が、急速に冷めて、ドロドロとした苛立ちに変わっていく。

  アタシに見せつけるつもり? その安っぽい絆とやらを。

  アタシが欲しくても手に入らなかった、互いを想い合うという「綺麗な感情」を、こんな薄汚い殺し合いの果てに見せつけられるなんて、不快指数が天元突破してるのよ。

  杖の柄を握る手に力がこもる。指の関節が白く浮き上がる。

  もういいわ。三文芝居は閉幕にしましょう。

  「灰になりなさい。アンタの愛する、可愛い可愛い使い魔と一緒にね」

  杖の先端に備え付けられた宝玉に、灼熱の魔力を収束させる。

  部屋に充満する魔導書や羊皮紙の乾燥した匂いが、焦げ臭さに変わる予兆。

  「……待って……欲しい……」

  掠れた、けれど芯のある声が、詠唱の隙間に滑り込んできた。

  杖先をわずかに逸らす。

  命乞い? それとも呪いの言葉? どちらにせよ、燃やす手間は変わらないけれど。

  灰色のローブを揺らし、少年がよろりと立ち上がる。

  フードの下から覗く瞳は、アタシへの恐怖ではなく、もっと深い、底なしの虚無を湛えていた。

  「僕は……もう生きる理由がない。いくらでも燃やしてもらって構わないけど、この魔導書だけは……残しておかなければならないんだ」

  彼が懐から取り出したのは、一冊の真紅の魔導書。

  装丁はありふれた量産品。けれど、その表紙に触れる指先は、壊れ物を扱うように震えていて、それでいて決して離そうとしない執着を感じさせた。

  「キミが、使って欲しい」

  ……正気?

  自分を呪い、相棒を殺させた張本人に、遺産を託すというの?

  罠を疑って魔力視を発動させるけれど、書物から漂うのは、少年の指先から移った微かな体温と、澱んだ魔力の残滓だけ。呪術的なトラップの気配はない。

  「足元に置きなさい」

  アタシが顎でしゃくると、彼は素直に従った。

  魔法で引き寄せ、空中でページを捲る。

  パラパラと乾いた音が響く中、目に飛び込んできたのは、乱雑な筆跡で記された異質な術式。

  『セーブ魔法』。

  『ロード魔法』。

  

  ……は?

  一瞬、思考が空白になる。

  時間への干渉? 因果の逆転?

  そんな、神の領域を弄るような魔法が、こんな子供の落書きのような魔導書に?

  けれど、ページの端々に残された「記録」の痕跡が、それが妄想ではないことを静かに物語っていた。

  「……で? アタシにこれをどうしろって言うの?」

  「キミが持っていてくれればいい。もう僕には無用の長物だ。……キミに渡せば僕の役割は終わりだと、『彼』が告げたんだ」

  「彼?」

  「……いや、こっちの話だ」

  少年の顔に、ふっと、雲間から日が差すような穏やかな笑みが浮かんだ。

  その表情が、アタシをどうしようもなく逆撫でする。

  なんで、そんな顔ができるのよ。すべてを失ったくせに。

  次の瞬間。

  彼の手元で、杖が鋭利な刃物へと形状を変えた。

  止める間もなかった。いや、止める気も起きなかった。

  ザシュッ、という生々しい肉の裂ける音。

  逆手に持った刃が、薄い腹部を貫通し、背中まで達している。

  鮮血が噴き出し、灰色のローブをどす黒く染め上げていく。鉄錆の臭いが、部屋の空気を一瞬で塗り替える。

  「……僕もそこにいくよ、でび……る……ん」

  愛おしそうに、呪われた名前を呼びながら、彼は床の肉塊へと倒れ込んだ。

  血溜まりの中で重なる二つの影。

  最後まで、アタシの理解を拒絶する、気持ちの悪い連中。

  「……ッ、ほんと、不愉快」

  吐き捨てるように呟くと、側頭部から重たく垂れ下がる長い耳が、同意するようにパタンと肩を打った。

  アタシの感情に呼応して動くこの器官も、今は心なしか重く感じる。

  もう、用はない。

  この胸糞悪い空間を、物理的に消去してやるだけだ。

  ふと視界の端、机の上に置かれた小さな旗が目に入る。

  指で摘めるほどの、安っぽい玩具のような旗。けれど、そこから発せられる魔力の波動は、周囲の空気を歪ませるほどに濃密だった。

  ……ゴール旗?

  使い道はわからないけれど、この不快な記憶の慰謝料代わりに貰っておいてあげるわ。

  指先で旗を摘み上げ、懐にしまう。

  そして、出口へと向かいながら、背後に特大の火球を放り投げた。

  爆ぜる炎の音と熱波が、背中を焦がす。

  燃えろ。全部燃えてしまえ。

  友情も、後悔も、その薄汚い死体も。

  アタシには関係のない、理解したくもないガラクタなのだから。

  ……そう、この時のアタシはまだ知らなかったのよ。

  この薄汚い魔導書と、安っぽい旗が、アタシの運命を――そして世界そのものを、狂ったようにかき回すことになるなんてね。

  

  ……

  インクの滲んだ羊皮紙と、煮詰まった薬液の臭いが充満する工房。

  ふとペンを走らせる手が止まり、アタシは大きく息を吐き出した。

  瞬きのたびに、瞼の裏側で砂を噛んだようなジャリジャリとした不快感が走る。眼球が悲鳴を上げている。

  壁の古時計に目をやれば、短針はすでに夜明けの位置を指している。

  ……いけない。遅れを取り戻そうと没頭するあまり、時間の感覚が溶けてしまっていたようね。地下室特有の湿った冷気が、足元から這い上がり、いつの間にか芯まで冷え切っている。

  軋む椅子を押しやり、重力に逆らうようにして立ち上がる。

  関節がパキパキと抗議の声を上げるのを無視して、部屋の隅にある洗面台へと向かった。

  蛇口を捻ると、錆混じりの水がゴボッと音を立てて流れ出る。冷たい水を顔に叩きつけ、タオルで乱暴に拭ってから顔を上げた。

  鏡の中、水滴の滴る女がこちらを睨め付けている。

  くすんだ肌に、目の下に張り付いた濃い隈。そして何より、この顔立ち。

  見るたびに吐き気がするほど、あの家の連中の特徴を色濃く残した、可愛げのない造形。

  少しでも似せたくなくて、淑女の嗜みとして伸ばされた髪はあらかた切り落としてやった。

  けれど、側頭部から肩口まで重たく垂れ下がる「長耳」だけはどうしようもない。

  髪のようで見紛うそれは、意志を持ってピクリと痙攣する、ヘビヘビ族特有の感覚器官だ。

  指先で弾くと、ひんやりとした爬虫類の皮膚の感触が返ってくる。この忌々しい部位が、アタシがあの家で生まれた魔獣であることを、毎朝毎晩、鏡越しに告げ口してくるのよ。

  「ああ、本当に……嫌だわぁ」

  ため息と共に吐き出した言葉は、排水溝へと吸い込まれて消えた。

  こんな気分のままじゃ、ろくな研究もできない。

  さっさと完成させて、ソルシエの街を地獄に変えてあげないと、アタシの気が済まないもの。

  分厚い遮光カーテンを、乱暴に開け放つ。

  埃が舞う暗い部屋に、鋭利な朝日の槍が突き刺さった。

  眩しさに目を細めながら、背骨が鳴るほど大きく伸びをする。

  机の上には、開封された携帯食の包み紙が散乱している。

  保存性だけを重視した、ブロック状の固形物。それを齧り取るけれど、舌の上で粉っぽく崩れるだけで、味なんてしない。まるで段ボールを食べているみたい。

  

  アタシの舌は、もう随分前から死んでいる。

  過剰なストレスと憎悪で麻痺した味覚は、実家で出された豪華な料理も、この泥のような携帯食も、等しく「砂」に変えてしまう。美味しいとか、楽しいとか、そんな感情が食事にあったことすら、もう思い出せない。

  けれど、紅茶だけは別。

  ポットからカップへ、琥珀色の液体を注ぐ。立ち上る湯気が、冷え切った鼻先をくすぐる。

  一口啜れば、熱が食道を通って胃袋へと落ちていき、凍りついた内臓を内側から優しく撫でてくれる。

  味は分からないけれど、この「温もり」だけが、張り詰めた神経を緩めてくれる唯一の救いだった。

  カップを両手で包み込み、温もりに浸っていると、視界の端で何かが動いた気がした。

  杖立てに立てかけた、アタシの杖だ。

  先端に埋め込まれた宝玉――その中心にある爬虫類じみた縦長の瞳孔が、じっと本棚の一点を凝視している。

  その視線の先にあるのは、あの少年から押し付けられた真紅の魔導書。

  ……そういえば、すっかり忘れていたわね。

  あの「時を操る」なんていう、眉唾物の魔法のこと。

  紅茶で少し気分も落ち着いたし、頭の体操がてら試してみるのも悪くないかしら。どうせ、時間を巻き戻したような幻覚を見せる精神魔法か、物質を復元するだけの錬金術の類でしょうけれど。

  カップを置き、魔導書を広げる。

  まずは「セーブ魔法」。

  少年が書き残した手順通りに、魔力を指先に集め、特定のページに触れながら詠唱する。

  「[[rb:現在を封じ、記録とせよ > クロノシア・フォラ]]」

  短い言葉と共に、指先から微かな魔力の吸い取られる感覚があった。

  けれど、それだけ。

  爆発もなければ、光も出ない。ただ、ページの隅に新しいインクの染みが一つ増えただけ。

  ……なんだか、拍子抜けだわぁ。

  やっぱり、あの少年の妄想だったのかしら? 命を賭けたにしては、あまりにも地味すぎる。

  次は「ロード魔法」。

  こっちの効果を確かめるには、状況を変化させておく必要がある。

  アタシはカップに残った紅茶を手に取った。

  まだ半分ほど残っている琥珀色の液体を、一息に煽る。

  喉をごくりと液体が通過し、胃の中に熱い塊が落ちる。カップの中身は空っぽ。底に残った茶葉の欠片が、寂しげに張り付いている。

  これでいい。

  アタシは杖を握り直し、深呼吸する。

  もし本当に時間が戻るなら、この空のカップが満たされるはず。

  馬鹿げていると思いながらも、魔導書の記述に従い詠唱を紡ぐ。

  「[[rb:停滞せし因果を呼び戻し、刻まれし刹那を現在へと再臨させよ > ロード・オブ・クロノスタシス]]」

  最後の言葉を口にした、その瞬間。

  後頭部を鈍器で殴られたような衝撃と共に、視界がターコイズグリーンの閃光に塗り潰された。

  平衡感覚が一瞬で消失する。

  足元の床が抜け落ち、世界が裏返るような強烈な浮遊感と吐き気。

  内臓がねじ切れ、血液が逆流し、意識が遠心力で引き剥がされそうになる。

  「ぁ、ぐ……ッ!?」

  悲鳴を上げる暇もなかった。

  世界が収束し、強引に型へと嵌め込まれる感覚。

  バチッ、と音がして、光が弾ける。

  恐る恐る、きつく閉じていた瞼を持ち上げる。

  そこには、さっきと変わらない朝の工房があった。

  舞い散る埃の位置も、窓から差し込む光の角度も、何も変わっていないように見える。

  けれど。

  アタシの手元。

  握りしめたティーカップからは、ゆらゆらと白い湯気が立ち上っていた。

  中を覗き込めば、さっき飲み干したはずの琥珀色の液体が、波紋一つなく満たされている。

  胃の中にあったはずの熱い塊は消え失せ、代わりに喉の渇きが戻っている。

  「…………」

  杖を見る。

  宝玉の瞳孔が、極限まで見開かれていた。

  普段は魔力を寄越せと急かすだけのくせに、今はアタシとカップを交互に見比べ、まるで幽霊でも見たかのように小刻みに震えている。

  アタシは震える手で、再びカップを口元へ運んだ。

  一口、含む。

  温かい液体が舌の上を転がる。味はしない。先程と全く同じ、けれど微かに感じられる茶葉の香ばしさ。

  「……面白いわね」

  唇から零れたのは、歓喜というよりも、冷えた刃のような呟きだった。

  紅茶は戻った。確かに、物理的には元通りだ。

  けれど、まだ信じるには早すぎる。

  ただの「物質修復」かもしれない。あるいは、アタシの記憶を操作して「飲んでいない」と思い込ませる幻覚魔法かもしれない。

  

  もし、本当に「時間」そのものが巻き戻ったのだとしたら?

  アタシの記憶だけが保持され、世界だけが過去へ再構成されたのだとしたら?

  「……試す必要があるわ」

  アタシはカップを乱暴に置き、魔導書を掴み寄せた。

  側頭部の長耳が、ゾクリとした興奮を孕んで波打つ。

  もっと大規模な干渉。もっと不可逆な破壊。

  それらを「無かったこと」にできた時、初めてこの魔法は「神の力」となる。

  瞳の奥に、暗い灯がともる。

  さあ、実験を始めましょうか。

  アタシを絶望させたこの世界が、どこまでオモチャとして壊せるのか。

  徹底的に、調べ尽くしてあげるわ。

  [newpage]

  工房の重い扉を開けると、そこは眩い光の世界だった。

  朝日は残酷なほど平等に、薄汚い路地裏も、アタシの青白い肌も照らし出す。

  眩しさに目を細めると、長耳が不快そうにのらりくらりと身をよじらせた。

  紅茶の実験だけでは不十分だわ。

  もっと決定的で、取り返しのつかない「破滅」を帳消しにできてこそ、この力は本物と言える。

  アタシはフードを目深に被り、かつて通った――そして追放された、ソルシエール魔法学校の敷地へと足を踏み入れた。

  一般にも開放されている付属図書館の裏手。ここは人通りが少なく、それでいてサボり魔の学生がたむろする絶好の狩り場だ。

  ――いた。

  生垣の向こう、ベンチに座る一人の男子生徒。

  手には安っぽいサンドイッチ。悩みなんてなさそうな、緩みきった顔で空を見上げている。

  ……ああ、腹が立つ。

  その平和ボケした脳みそ、アタシが有効活用してあげる。

  音もなく背後に忍び寄り、アタシは杖を彼のうなじへと向けた。

  躊躇いはない。あるのは純粋な知的好奇心と、仄暗い加虐心だけ。

  「[[rb:万物を灰色の沈黙へ誘え > ペトリ・ティストナ]]」

  詠唱と共に、彼の色が奪われる。

  驚いて振り返ろうとした動作のまま、皮膚が、服が、そして柔らかな肉が、一瞬にして硬質な岩石へと置換された。

  恐怖に歪む間もなかった石像の完成。

  アタシはコツン、と石になった彼の頬を杖で小突く。硬い音。生体反応はゼロ。

  これだけでも十分な死だけど、まだ足りない。

  「砕けなさい」

  杖を一閃。

  陶器を叩きつけたような派手な破砕音と共に、生徒だったモノが粉々に砕け散った。

  地面に転がるのは、鼻の形をした石片、指の欠片、そして無機質な砂利の山。

  誰がどう見ても、修復不可能な「死」だわ。どんな高名な魔術師でも、これを蘇生させることはできない。

  さあ、審判の時間よ。

  アタシは砕けた頭部の一部を踏みつけ、真紅の魔導書を開く。

  「[[rb:停滞せし因果を呼び戻し、刻まれし刹那を現在へと再臨させよ > ロード・オブ・クロノスタシス]]」

  視界がターコイズグリーンに染まり、世界が裏返る浮遊感。

  次の瞬間、アタシは再び生垣の陰に立っていた。

  恐る恐る、ベンチを見る。

  

  ……いる。

  サンドイッチを頬張り、のどかに欠伸をする彼が。

  地面には砂利一つ落ちていない。アタシが踏み砕いた感触も、彼が死んだ事実も、綺麗さっぱり消え失せている。

  「……く、ふふ」

  喉の奥で笑いが漏れる。

  背後で、尻尾の先がメトロノームのように機嫌よく左右に揺れ、シュルシュルと衣擦れの音を立てた。

  命すらも、なかったことにできる。

  これは傑作だわぁ。

  ……

  実験は続く。次はもっと派手に、もっと多くの「認識」を巻き込んで。

  ターゲットは、中庭に聳え立つ「初代校長の銅像」。

  学校の誇りであり、権威の象徴。アタシが最も唾棄すべき偶像。

  昼休み。多くの生徒が行き交う広場の真ん中で、アタシは堂々とその魔法を放った。

  「[[rb:酸に塗れ、腐り落ちよ > ポア・ルトナ]]」

  紫色の毒霧が銅像を包み込む。

  肉を焼くような不快な溶解音。銅像の顔が、腕が、ドロドロに溶けて崩れ落ちていく。

  威厳ある校長の顔が、無様なスライムのように垂れ下がり、地面に緑青色の水溜まりを作る。

  「キャアアアアアッ!」

  「な、なんだ!? 銅像が!」

  「テロだ! 先生を呼べ!」

  悲鳴。怒号。混乱。

  平和なキャンパスは一瞬で阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

  生徒たちが逃げ惑い、教師たちが血相を変えて走ってくる。

  その混乱の中心で、アタシは恍惚とした表情で崩れゆく象徴を見上げていた。

  ああ、いい気味。

  アタシを追い出した学校が、こんなにも無様に喚いている。

  興奮のあまり、無意識のうちに尻尾が地面をバンバンと叩いているのがわかる。

  数分間のパニックを十分に堪能した後、アタシは教師の拘束魔法が届く直前に時間を巻き戻した。

  ――再臨。

  

  喧騒は消え、鳥のさえずりが聞こえる昼休み。

  銅像はピカピカのまま立っており、生徒たちはその足元で楽しそうにランチを食べている。

  数百人の記憶、物理的な崩壊、社会的な混乱。

  その全てが、アタシの指先一つで「夢」になった。

  ……

  そして、最後の実験。

  場所はソルシエの城下町、活気あふれる市場通り。

  ここでの目的は破壊ではない。「コスト」の帳消しだ。

  昼下がりの市場は、平和ボケした愚民どもの熱気で満ちていた。

  肉を焼く匂い、果実の甘い香り、耳障りな笑い声。それら全てが、アタシの神経を逆撫でする。

  人混みの中心で、アタシは深く息を吸い込んだ。

  肺に満ちる生ぬるい空気が、これから吐き出す業火の燃料へと変換されていく。

  アタシは杖を掲げない。ただ、祈るように両手で包み込み、自身の魔力回路を臨界点まで暴走させる。

  側頭部から垂れる長耳が、異常な魔力奔流に反応して、バチバチと静電気を帯びて逆立った。

  脳内で幾度となく組み上げ、シミュレーションを重ねてきたオリジナルの術式。

  理論上、一撃で都市区画を灰燼に帰すその火力ゆえに、実験すら許されなかった机上の空論。

  けれど今、この無防備な街は、アタシの最高の実験場となる。

  止める者はいない。アタシの理論を否定できる要素など、この世界のどこにもない。

  唇を震わせ、第一節を紡ぐ。

  「[[rb:地を這う愚民の骸よ、我が嘆きの炉にて追悼の火を灯せ> ラメモリア・サントラ・フェイル]]」

  世界から「湿り気」が消えた。

  詠唱と共に、周囲の気温が爆発的に跳ね上がる。

  市場に並ぶ野菜が瞬く間に干からび、肉屋の吊るし肉が水分を失って燻製のように縮む。

  通りを行き交う人々の肌から、目から、喉から、体液が蒸発していく。

  悲鳴を上げる間もない。喉が張り付き、声が出ないのだ。

  蜃気楼のように歪む視界の中で、アタシだけが鮮明な殺意を保ち続ける。

  まだよ。まだ足りない。

  アタシの憎悪は、こんなものじゃない。

  「[[rb:天翔ける神々よ、星海を灼く怨嗟の雷に見伏すがいい > オスキャ・モスリィーゼ・ガリネ]]」

  断罪の言葉が完了した刹那。

  アタシを中心とした球状の空間が、純白の閃光に塗り潰された。

  それは爆音ではない。大気が絶叫している音だ。

  アタシが夢想した通りの――いや、それをも凌駕する龍の如き憤怒が、今、地上で具現化する。

  石造りの建物が飴細工のように溶解し、露店は灰すら残さずに昇華する。

  逃げ惑おうとした人々は、その影だけを地面に焼き付けて、紅蓮の渦へと飲み込まれていった。

  圧倒的な熱量。

  視界の全てが白一色に染まる水蒸気と、赤黒い炎のコントラスト。

  ソルシエの一角が、数秒足らずで灼熱のクレーターへと変貌した。

  「はっ……、はぁ……ッ!」

  炎の嵐が収まると同時に、アタシの身体を強烈な虚脱感が襲った。

  膝から力が抜け、瓦礫の山に崩れ落ちる。

  視界が霞む。指先が震える。

  

  魔力の完全枯渇。

  これほどの戦略級魔術を行使すれば当然の代償。生命力すら削り取るほどの消耗に、心臓が早鐘を打って悲鳴を上げている。

  喉が渇いて張り付き、呼吸をするたびに肺が焼けるようだ。

  気が付けば、遠くから魔法警察のサイレンが聞こえる。

  このままでは捕まる。いや、逃げるための魔力一滴すら残っていない。

  普通なら、ここで終わり。大罪人として処刑台行きだ。

  ……普通なら、ね。

  アタシは震える手で懐の魔導書を開く。

  意識が飛びそうになるのを、唇を噛み切って耐え、最後の力を振り絞って詠唱する。

  「[[rb:停滞せし因果を呼び戻し、刻まれし刹那を現在へと再臨させよ > ロード・オブ・クロノスタシス]]」

  三度目の閃光。

  裏返る世界。焼けた網膜が、強引に冷却される感覚。

  ――再臨。

  気が付けば、アタシは再び、騒がしい市場の人混みの中に立っていた。

  目の前では、さっき灰になったはずのおばさんが、元気に果物を売っている。

  焦げ臭さはない。あるのは熟れた果実の匂いだけ。

  そして何より――。

  「……戻ってる」

  アタシは自分の手のひらを、強く、強く握りしめた。

  力が漲っていた。

  さっきまで感じていた、魂が削れるような倦怠感も、焼き付くような喉の渇きも、全てが嘘のように消え失せている。

  魔力回路は潤沢な魔力で満たされ、血管の一つ一つに力が脈打っているのがわかる。

  今すぐにでも、もう一発、あの大魔術を撃てる。

  アタシの長耳が、ビクンと激しく跳ね上がり、鎌首をもたげるように逆立った。

  口元が、耳まで裂けんばかりに歪むのを止められない。

  これだ。

  これこそが、アタシが求めていた「最強」の証明。

  いくら破壊しても、いくら魔力を浪費しても、ロードすれば全て帳消し。

  弾薬も、体力も、全てが無限に湧き出る泉を手に入れたのと同じ。

  「きゃはっ……あはははははッ!!」

  雑踏の中で、アタシは腹の底から高笑いを上げた。

  周囲の人が「なんだあの女は」と奇異の目で見ている?

  構わないわ。アンタたちは全員、アタシの掌の上で何度でも殺され、何度でも蘇るだけの、哀れな人形に過ぎないのだから。

  これは本物。この力は、間違いなく神の御業。

  そして今、その神の采配は、このアタシの手にある。

  待っていなさい、マジリシア。

  今度こそ、徹底的に、完膚なきまでに壊してあげる。

  アタシの気が済むまで、何度でも、何度でもね。

  [newpage]

  [chapter:呪いの探求]

  

  ピンセットの先で、最後の回路を繋ぐ。

  カチリ、と微かな音が地下室の静寂に落ちた瞬間、作業台の上に鎮座していた「それ」が、ドクンと脈動した。

  拳大の大きさを持つ、黒曜石のごとき多面体。

  その内側には、アタシが数年かけて練り上げ、濃縮し腐らせた「負の感情」が、タールの如く渦巻いている。

  完成した。ついに、出来上がった。

  

  アタシは震える指先で、その冷たい表面を愛でるように撫でる。

  指の腹から伝わるのは、ただの魔道具の振動ではない。

  数百、数千の人間が同時に呪詛を吐き出し、怨嗟の声を張り上げた時のような、鼓膜ではなく脳髄を直接揺さぶる不協和音。

  この小さな匣に、アタシの魔力を流し込めば、それは爆発的な感染源となる。

  一度起動すれば、アタシの憎悪はウイルスのように伝播し、触れた者の精神を蝕み、隣人への不満を殺意へと書き換えていく。

  素晴らしい発明でしょう?

  アタシ一人では喉が枯れるまで叫んでも届かない呪いを、この子は数千倍の合唱に変えて、世界中に響かせてくれるのだから。

  作業台の脇に広げた、ボロボロの地図へと視線を移す。

  インクで汚れたその紙面には、このオトヌ地方が誇る「繁栄」の象徴たちが描かれている。

  魔法文明の心臓部たる、ソルシエ。

  光の都、フェネンス。

  ソルシエを覇権を競う魔法都市、ベルツ。

  美食と観光で栄えた、ナポリオ。

  廃れし公国、ローゼリア。

  どいつもこいつも、鼻持ちならない名前ばかり。

  その全てに、アタシはこの可愛い「種」を植え付けた。

  一つだけ壊しても意味がないのよ。一箇所で火の手が上がれば、他の都市から偽善者たちが水を撒きに来るでしょうから。

  だから、同時多発的に、救いようのない地獄をプレゼントしてあげる。

  逃げ場なんてどこにもない。隣の街へ逃げても、そこもまた、血で血を洗うコロシアムになっているのだから。

  「……っ、はぁ……」

  高揚感に浸っていた意識が、ふと、肉体の限界に引き戻される。

  ガクン、と膝の力が抜け、アタシは椅子に深く沈み込んだ。

  スカートの裾から伸びる太い蛇の尻尾が、まるで死んだ大蛇のように重たく床に横たわり、ピクリとも動かない。

  鉛を流し込まれたような倦怠感。

  指先が氷のように冷たい。視界の端がチカチカと白く明滅している。

  魔力欠乏だ。

  アタシの身体は、生まれつき常人とは比較にならないほどの魔力保有量を誇る。そのアタシが、ここまで干上がるなんてね。

  五つの都市全てに設置するための魔法器具。その一つ一つに、限界ギリギリまで魔力を充填し、緻密な術式を刻み込む作業は、まさに命を削る行為だった。

  何度も意識を失いかけ、その度に携帯食を齧り、泥のような眠りを貪っては、また作業に戻る。

  そんな日々を、何度繰り返したかしら。

  アタシは自身の掌を見つめる。

  血管が浮き出た白い肌の下で、魔力回路が悲鳴を上げているのがわかる。

  足りない。

  圧倒的に、足りない。

  たかが一地方を混乱に陥れる準備だけで、このザマだわ。

  アタシの悲願であるマジリシア滅亡を成し遂げるには、アタシ個人の魔力なんて、大海の前の一雫に過ぎないのかもしれない。

  側頭部の長耳が、力なくパタリと肩に倒れ込んだ。

  けれど、今はまだ休めない。

  賽は投げられたのよ。

  乾ききった喉を鳴らし、アタシは最後の力を振り絞って、起動用の術式を握りしめた。

  

  ……

  

  ソルシエの街を見下ろす時計塔の最上階。

  吹き荒れる風は地上よりも幾分冷たく、そして乱暴だわ。

  丁寧に整えたはずの髪が頬を打ち、ドレスの裾がバタバタと旗のように鳴いている。

  アタシは石造りのバルコニーの手すりに寄りかかり、そこから下界――平和ボケした「オトヌの心臓」を睥睨する。

  眼下に広がるのは、憎らしいほど美しい幾何学模様。

  石畳の街路、色とりどりの屋根、行き交う豆粒のような人々。

  ここから見れば、すべてが精巧なミニチュアのようね。アタシが指先一つで薙ぎ払えば、簡単に壊れてしまいそうな脆い箱庭。

  スカートの下から伸びる太い蛇の尻尾が、冷たい石の手すりをギリギリと音が出るほど強く締め上げた。

  興奮で鱗が逆立ち、硬質な音を立てている。

  

  長かったわぁ。本当に、長かった。

  数年という時間、数え切れないほどの「失敗」と「再臨」。

  魔力が枯渇して血反吐を吐きながら、協力者という名の薄汚い連中と手を組み、ようやくここまで漕ぎ着けた。

  アタシの手のひらには、小さな魔石が握られている。

  ただの石じゃない。これは引き金。

  このソルシエだけじゃない。

  オトヌ地方の各都市にばら撒いた「種」を、一斉に芽吹かせるためのスイッチ。

  「さあ、始めましょうか」

  アタシは口元を三日月のように歪め、魔石に爪を立てた。

  体内の魔力回路を開放する。

  ドクン、と心臓が大きく跳ね、膨大な魔力が右腕を伝って石へと流れ込む。

  指先が熱い。血管が焼き切れそうなほどの奔流。

  魔石が呼応し、目に見えない波紋となって空へと解き放たれるのが肌で感じ取れた。

  閃光なき信号は風に乗り、雲を裂き、遥か遠くの都市へと瞬時に到達したはずだ。

  世界が息を止めたような静寂。

  側頭部の長耳が、獲物の足音を探るようにピクリと揺れる。

  そして、世界が変わった。

  最初は、小さな黒い染みのような違和感だった。

  中央広場の一角で、人の流れが不自然に滞る。

  風に乗って、微かな「音」が這い上がってくる。

  それはいつもの賑わいではない。硝子が砕け散る甲高い音。何かがひしゃげる破壊音。そして、魔物の咆哮のような怒号。

  染みはインクを水に垂らしたように急速に広がり、鮮やかな街並みをどす黒く侵食していく。

  隣人を愛せ? 助け合え?

  いいえ、今、彼らの脳髄を支配しているのは、アタシが丹精込めて培養した純粋培養の「悪意」のみ。

  肩がぶつかっただけで殺意が湧き、目が合っただけで喉笛を食いちぎりたくなる。

  理性という薄皮が剥がれ落ち、本能のままに暴れるケダモノたちの宴。

  遠くの区画で、腹の底を揺さぶるような重低音が響いた。

  魔導インフラのパイプラインが破壊されたのかしら。黒煙がもくもくと立ち上り、その中で青白い魔力の火花が散り、建物が内側から弾け飛ぶのが見える。

  美しいわぁ。

  アタシの尻尾が、嬉しさのあまりバシバシと床を叩く。

  もっと、もっと踊りなさい。アンタたちの築き上げた文明なんて、所詮は砂上の楼閣だと教えてあげる。

  風に乗って、鋭い警告音が空気を切り裂く。魔法警察の到着だ。

  紺の制服に身を包んだ一団が、隊列を組んで広場へと雪崩れ込んでくるのが見えた。

  彼らは杖を一斉に掲げ、幾重にも重なる防御障壁を展開する。

  半透明の幾何学模様が壁となって、暴徒の波をせき止めようとする輝き。

  必死に声を張り上げ、鎮圧しようとしているようだけれど……無駄よ。

  最前列の警官が展開した障壁に、数人の暴徒が、いや、数十人が体当たりを繰り返す。

  爪で引っ掻き、魔法を叩きつけ、己の肉体が砕けるのも厭わずに壁を打ち据える。

  ミシミシと、光の壁に亀裂の走るのがここからでも見て取れた。

  数の暴力。

  数百、数千という「感染者」の質量は、数人の正義の味方が作る小綺麗な壁なんて、容易く踏み潰してしまう。

  パリン、と世界の割れるような音がして、障壁が砕け散った。

  堰を切った黒い濁流が、紺の制服を飲み込んでいく。

  防御を失った警官たちが、暴徒の群れに引きずり倒され、その姿が見えなくなるまで、そう時間はかからなかった。

  「あはっ、あははははッ!」

  笑いが止まらない。

  風が運んでくるのは、鉄錆のような血の匂いと、焦げた肉の香ばしい薫り。

  これよ。これがアタシの見たかった景色。

  高潔ぶったオトヌの連中が、泥と血に塗れて這いずり回る、最高の喜劇。

  アタシは手すりから身を乗り出し、指揮者がタクトを振るように腕を広げた。

  この素晴らしい破滅のオーケストラを、特等席で最後まで堪能させてもらうわ。

  眼下で燃え広がる赤黒い炎と、絶え間なく響く悲鳴の和音。

  アタシが指揮棒を振るたびに、街という名の楽器が壊れていく。

  あと数分。いや、数秒かしら。

  この勢いなら、ソルシエの防衛機能が完全に麻痺するまで、お茶を一杯淹れる時間もかからない。

  勝利の美酒に酔いしれ、アタシの尻尾はゆらゆらと優雅に宙を泳いでいた。

  ――その時だった。

  鼓膜を劈くような、鋭利で清潔すぎる高周波の音が、不協和音を切り裂いた。

  「……あ?」

  アタシの指先がピクリと止まる。

  何? 警察の増援?

  いいえ、違う。

  空気が変わった。

  鉄錆と焦げ臭さで満ちていた戦場の空気が、一瞬にして消毒液のような、鼻の奥がツンとする冷徹な気配に塗り替えられた。

  次の瞬間、街の四方から、天を突くような白亜の光柱が立ち上った。

  それは、暴徒に押し潰されかけていた警察の貧弱な障壁とは、桁が違う。

  圧倒的な質量と、緻密さを兼ね備えた大魔術の奔流。

  光は物理的な衝撃波となって拡散し、通りを埋め尽くしていた黒い「呪いの霧」を、まるで汚れを拭き取る雑巾のように強引に消し飛ばしていく。

  アタシの長耳が、不快な予感に粟立ち、バチバチと震えた。

  何が起きているの?

  バルコニーから身を乗り出し、目を凝らす。

  光の中心にいるのは、制服の警官たちじゃない。

  豪奢なローブを翻し、杖を凶器のように振るう影たち。

  ソルシエール魔法学校の、教師陣だわ。

  「チッ、今更出てきて何ができるって言うのよ……!」

  アタシは魔石を握り直し、呪いの出力を最大まで引き上げる。

  数を増やせ。もっと汚染しろ。数人の教師が加わったところで、このパンデミックは止められないはず――。

  なのに。

  アタシの思考をあざ笑うかのように、信じられない光景が網膜に焼き付いた。

  中央通り。

  一人の影が、暴徒の波を逆走して歩いてくる。

  いや、歩いてすらいない。その影は、地面から数センチ浮遊しながら、滑るように進撃してくる。

  漆黒のロングコートに、首元を覆う灰色のファー。

  頭には、頂が二つに割れた奇妙な形の帽子。その縁からは、牛のように太く湾曲した二本の角が突き出している。

  そして顔面を覆うのは、不気味に突き出した鳥の嘴――ペスト医師のマスク。

  ソルシエール魔法学校校長、プシュケ・ホテプ。

  彼の姿は、あまりにも異様だった。

  袖口からは腕が伸びておらず、本来あるはずの「手」が存在しない。

  代わりに、彼の周囲には一本の杖が衛星のように浮遊していた。

  そして、コートの裾から覗くのは、肉を持たない、白骨のみで構成された長い尻尾。

  カチ、カチリ、と骨の節の擦れ合う乾いた音が、爆音の中でも鮮明に聞こえてくる。

  彼は杖を振るいもしない。

  ただ、少し首を傾げただけ。

  それに応じるように、宙に浮いた杖が指揮者のようにひと振りした。

  それだけで、彼に襲いかかろうとした暴徒数十人が、糸が切れた人形のように崩れ落ちて昏倒した。

  殺したのではない。強制的に「鎮静」させられたのだ。

  さらに彼が通る先々で、空間に漂う呪いの粒子が、まるで彼という底知れない虚無の如き存在に恐れをなして、逃げ惑うように霧散していく。

  速い。

  異常なほどに、速すぎる。

  アタシが数年かけて培養し、魔法器具で増幅させた数千人分の感染速度を、彼一人の「治療」速度が凌駕している。

  呪いを解いているんじゃない。呪いそのものを、より強大な理で上書きして、圧殺しているのだ。

  ズズズ、と腹の底が冷える感覚。

  手すりに巻きついたアタシの尻尾が、恐怖で硬直り、石を砕かんばかりに締め上げる。

  ホテプだけじゃない。

  屋根の上を飛び回る教頭、路地裏を制圧する教授たち。

  どいつもこいつも、教科書通りの綺麗な魔法じゃない。実戦で磨き上げられた、洗練された暴力だ。

  アタシの可愛い感染者たちが、次々と無力化され、ただの「患者」に戻されていく。

  「嘘……でしょ……」

  唇が渇く。

  アタシの計算では、この規模の呪いを解析し、解呪式を組むには最低でも半日はかかるはずだった。

  それを、奴らは見た瞬間に「施術」している。

  これが、オトヌの頂点に立つ魔術師たちの実力だと言うの?

  握りしめた魔石が、熱を失っていくような錯覚を覚えた。

  眼下の景色が、黒から白へと、恐ろしい速度で塗り替えられていく。

  アタシのオーケストラが、力ずくで演奏中止に追い込まれていく。

  耳元で、通信用のピアスが不快なノイズを吐き出した。

  ジジッ……という不鮮明な雑音の向こうから、裏社会のドブネズミ――金を積んで雇った協力者の、ひきつった悲鳴が聞こえてくる。

  『ら、ラミアさん! ダメです、抑えきれません!』

  アタシは眉根を寄せ、ピアスを指で押し込んだ。

  何を言っているの? 作戦は完璧なはずよ。

  「落ち着きなさい。何が起きているの」

  『ぜ、全滅です! ナポリオも、ベルツも……ローゼリアに至っては、呪いが起動してから数分もしないうちに騎士団と魔術師部隊に包囲されて……! ぎゃああっ!』

  プツン。

  唐突な断絶音と共に、通信が途絶えた。

  アタシの指先から、サーッと血の気が引いていく。

  ソルシエだけじゃない。他の都市も?

  同時多発テロという奇襲の優位性が、こうもあっさりと覆されたというの?

  まるで、こちらの動きが全て筒抜けだったかのような、あまりにも鮮やかすぎる鎮圧劇。

  「……馬鹿な」

  唇が震える。

  アタシが数年かけて積み上げた結晶が、オトヌの「秩序」という巨大な壁の前に、蟻のように踏み潰されていく。

  ドンッ!

  思考の空白を埋めるように、背後の鉄扉が爆ぜた。

  蝶番がひしゃげ、分厚い鉄の塊が飴細工のように吹き飛んでくる。

  アタシはとっさに身を翻し、防御障壁を展開するが、爆風だけでドレスの裾が裂け、身体が宙に浮いた。

  「見つけたぞ、ホシは時計塔だ!!」

  土煙を切り裂いて現れたのは、紺の制服の一団。

  その先頭に立つ男を見て、アタシの喉がヒュッと鳴った。

  ピンと立った三角形の獣耳に、鋭利な牙を覗かせる引き締まった口元。裏社会で最も恐れられているイヌイヌ族の男。

  魔法警察の狂犬、ドーベル警部。

  彼が纏う濃紺のマントが、風もないのにバサリと翻る。

  その裏地には、赤、青、緑、黄……数え切れないほどの高純度魔石が幾何学模様を描いて縫い付けられており、それらが一斉に禍々しい光を放ち始めた。

  「確保はいらん! 抵抗するならその場で消し飛ばせ!」

  ドーベルが短杖を突き出す。

  通常なら単発の炎弾が放たれるだけの初歩魔法。

  だが、マントの魔石が共鳴し、彼の魔力回路を強制的に拡張させる。

  杖の先に展開された魔法陣が、二重、三重、四重……十重にまで増幅され、視界を埋め尽くすほどの巨大な砲口へと変貌した。

  「ふざっ……けないで……ッ!?」

  アタシの悲鳴は、轟音にかき消された。

  放たれたのは、もはや炎弾ではない。極太の熱線だ。

  アタシの展開した防御障壁が、薄氷のようにパリンと砕け散る。

  熱波が肌を焼き、衝撃が全身の骨を軋ませる。

  防ぎきれない。

  ただでさえ設置作業で魔力を消耗しているアタシに、この増幅された暴力を受け止める余力なんて残っていない。

  「が、ぁ……ッ!」

  右肩を掠めた熱線が、肉を焼く嫌な臭いを立てる。

  激痛に目の前が真っ白になりながらも、アタシは本能だけで床を転がり、追撃の雷撃を紙一重で回避した。

  石畳が粉砕され、破片が弾丸のように頬を切り裂く。

  逃げないと。

  殺される。

  アタシは懐から煙幕弾を取り出し、足元に叩きつけた。

  紫色の毒煙が充満し、ドーベルたちの視界を奪う。

  その隙に、アタシはバルコニーの手すりを乗り越え、何十メートルもの高さがある空へ向かって、躊躇なく身を投げた。

  ……

  裏路地のゴミ捨て場に、生ゴミのように叩きつけられる。

  落下速度を殺しきれなかった衝撃が、足首と背骨に電流のような痛みを走らせ、鈍く重い音が内臓を揺さぶった。

  

  「はっ、ぐ、ぅ……」

  肺が空気を拒絶して、喘鳴のような呼吸しかできない。

  視界が揺れる。世界がグルグルと回転している。

  額からツーと温かい液体が流れ落ち、左目の視界を赤く染めた。

  頭を打ったのかしら。思考が泥の中に沈んでいくように重い。

  薄暗い路地裏は、腐った野菜と下水の臭いが充満している。

  高貴なアタシが、こんなゴミ溜めで這いつくばっているなんて、何の冗談よ。

  ……ロード魔法。

  そう、やり直せばいい。

  こんな無様な失敗、全部無かったことにして、また最初から……。

  震える手で、懐の魔導書を探る。

  指先が血で滑って、うまく掴めない。

  あんなに軽かった本が、今は鉛のように重い。

  ようやく表紙に指をかけた時、遠くで警笛の音が近づいてくるのが聞こえた。

  開いて、詠唱を。

  早く、早くしないと。

  けれど、アタシの身体はもう、アタシの命令を聞いてくれなかった。

  

  プツリ、と。

  意識を繋ぎ止めていた最後の糸の切れる音がした。

  魔導書を取り出すこともできず、アタシの手は力なく石畳に落ちる。

  地面の冷たさが頬に触れたのを最後に、アタシの意識は深い闇の底へと吸い込まれていった。

  [newpage]

  放課後のチャイムの音が、遠くへ溶けていきマス。

  本来なら、茜色の夕焼け空の下、友達と今日のおやつの話でもしながら帰るはずの時間でシタ。

  でも今、ミーの鼻腔を満たしているのは、焼きたてのパンの匂いなんかじゃありまセン。

  鼻の奥がツンとするような髪の燃える臭い。胃液がせり上がってくるような、鉄錆と内臓のむせ返るような悪臭デス。

  「痛い、痛いよぉ……!」

  「誰か! 誰か来てくれ!」

  悲鳴。怒号。何かが湿った音を立てて砕ける音。

  ソルシエの大通りは、まるで悪い夢を見ているみたいに粘ついた赤色に染まっていまシタ。

  ミーの頭の上の耳が、本能的な恐怖で筋肉を強張らせ、ぺたりと頭皮に張り付きマス。無意識に尻尾の毛が一本残らず逆立って、静電気を帯びたようにボワッと膨らんでしまいマス。

  心臓が肋骨を内側から殴りつけるように早鐘を打ち、逃げ出したいと膝が笑っていマス。けれど、目の前で血を流して痙攣しているヒトたちを見捨てるなんてできまセン。

  「あ、あの! 今、治しマスから!」

  ミーは脂汗により滑る手で杖を強く握りしめ、覚えたばかりの回復魔法を唱えまシタ。

  杖の先にある星型の魔石が、呼吸に合わせて不安定に明滅し、お腹を押さえて呻くおじさんの傷口を照らしマス。

  傷口から溢れる生温かい液体が、ミーの指先を濡らしマス。傷は深すぎて、肉の裂ける感触が伝わってきそうで、ミーの拙い魔法じゃ、血を止めるのが精一杯デス。

  次から次へと、傷ついた人が運ばれてきマス。視界の端では、白目を剥いて涎を垂らした人たちが、棒や魔法で建物を壊し、また新しい怪我人が増えていきマス。

  

  足りまセン。魔力も、技術も、手の数も、全然足りまセン。

  涙で視界が滲んで、世界がぐにゃりと歪み、杖を持つ手が滑りそうになった時でシタ。

  「ガァァァッ!!」

  獣のような唸り声を上げて、口の端から泡を吹いた男の人が、ミーに向かって飛びかかってきまシタ。

  充血した瞳孔が極限まで開かれ、こちらを獲物として認識していマス。

  振り上げられた棍棒が、スローモーションのように見えマス。

  動けまセン。足がすくんで、喉がひきつって悲鳴すら出せまセン。

  ギュッと目を瞑って、痛みを覚悟して奥歯を噛み締めた瞬間――。

  「 [[rb:災禍を隔つ不可視の断絶 > クラウストルム・アエリス]]ッ!!」

  裏返ったような、けれど必死な叫び声と共に、大気の圧縮されるような重低音が響き、ミーの目の前に見えない壁が現れまシタ。

  男の人は壁に弾かれ、見えない風のハンマーで全身を叩かれたみたいに、錐揉み回転しながら吹き飛んでいきまシタ。

  「ミ、ミーティアさんっ!? け、怪我はっ、怪我はありませんかっ!?」

  慌てふためくような声と共に、一人の影がミーの前に滑り込んできまシタ。

  いつも授業でオドオドしている、マルス先生デス。

  先生の顔色は真っ青で、汗びっしょりで、かけている丸眼鏡もズレていまシタ。

  杖を握る手はカタカタと小刻みに震えていて、今にも泣き出しそうな顔をしていマス。

  「マ、マルス先生……!」

  「よ、よかったぁ……間に合ったぁ……」

  先生は腰が抜けそうなのを必死に堪えるように膝に手を突き、ゼーゼーと荒い息を吐いていマス。

  でも次の暴徒の影が見えると、先生はビクッと肩を跳ねさせながらも、ミーを背中に隠すように、震える足を踏ん張って立ち塞がりまシタ。

  「ミ、ミーティアさん……ぼ、僕なんかじゃ頼りないと思いますけど……でもっ、教師ですからっ!」

  声は上ずっているし、背中は小さく見えマス。

  でも、先生は一歩も引きまセン。

  震える手で、ズレた眼鏡を中指でクイッと押し上げると、先生は必死の形相で叫びまシタ。

  「ここは僕がなんとかしますからっ! お、お願いですから、すぐに家に帰ってくださいっ! いいですねっ!?」

  その必死な背中は、どんな英雄よりも頼もしく見えまシタ。

  ミーはコクコクと首が痛くなるほど頷くことしかできず、震える足に力を入れて、裏路地へと走り出しまシタ。

  ……

  表通りの喧騒が、壁一枚隔てて遠ざかりマス。

  薄暗い裏路地は、ひんやりとした湿った苔と、腐った野菜の酸っぱい匂いがしまシタ。

  自分の荒い呼吸音だけが、耳元で大きく響いていマス。

  早く、早くおうちに帰らないと。

  胸を押し潰されそうな不安を抱えて角を曲がろうとした時、ゴミ箱の影に、不自然な色彩が落ちているのを見つけまシタ。

  「……ッ!」

  息を呑んで駆け寄ると、そこには女の子が倒れていまシタ。

  黒とオレンジの菱形模様があしらわれた、上等なドレス。首元には、暗がりでも妖しく脈動する大きな菱形の魔石。

  まるで、絵本に出てくる魔法少女のような、可愛らしくて高貴な装いデス。

  でも、その額からは赤い血がツーと流れて、綺麗な土色の髪をべっとりと濡らし、頬に張り付いていまシタ。

  「だ、大丈夫デスか!?」

  抱き起こすと、彼女の体は驚くほど熱くて、火傷しそうなほどでシタ。そして意識のない魔獣特有の、鉛のような重さが腕にのしかかりマス。

  こんなに可愛い子が、あんな酷い暴動に巻き込まれたんデスか?

  服はボロボロで、肩のあたりも焼けたように爛れていマス。きっと、悪い人たちに襲われて、逃げてきたに違いありまセン。

  ミーの家はもうすぐソコです。

  置いてなんていけまセン。

  ミーは歯を食いしばり、自分より少し背が高い彼女の腕を肩に回し、引きずるようにして歩き出しまシタ。

  彼女の側頭部から垂れる長い耳が、ミーの首筋に触れマス。それは少しひんやりとした、爬虫類のような滑らかな感触でシタ。

  ズシリと掛かる命の重みが、ミーの肩に食い込みマス。でも、不思議と嫌じゃなかったデス。

  ……

  なんとか家に辿り着き、彼女をミーのベッドに寝かせまシタ。

  星のモビールが微かな空気の流れで揺れる、いつもの自分の部屋。ここならもう安心デス。

  水を絞ったタオルで、彼女の額の血と汗を拭いマス。

  拭いても拭いても、脂汗が毛穴から滲み出てきて、彼女の呼吸は「ヒュー、ヒュー」と浅く荒いままでシタ。

  「うっ……ぁ……」

  苦しげな呻き声。長く美しい睫毛が、苦痛に小刻みに震えていマス。

  高熱に浮かされて、彼女の意識はここにないようでシタ。

  こんなに酷い怪我をして、一体どれだけ怖かったでショーか。

  まだミーとそう変わらない歳に見えるのに。

  「おとう、さま……おかあ、さま……」

  掠れた、吐息のような声が、乾燥した唇から零れ落ちまシタ。

  その言葉を聞いた瞬間、ミーの胸がギュッと締め付けられまシタ。

  こんなに強そうな魔石を付けて、立派なドレスを着ていても、中身はただの寂しがり屋の女の子なんデス。

  親御さんとはぐれてしまったのでショーか。それとも……。

  「大丈夫、大丈夫デスよ。ミーがついてマスから」

  ミーは、彼女の燃えるように熱い手を、両手で包み込みまシタ。

  冷え切った指先を温めるように、何度も何度もさすりマス。

  すると、彼女の指が、無意識にミーの手を、すがるように弱々しく握り返してきまシタ。

  トクン、トクンと、指先から彼女の頼りない脈動が伝わってきマス。

  その感触が、なんだかとても愛おしくて、放っておけなくて。

  外の世界がどんなに壊れても、ここだけは守らなきゃいけない気がしまシタ。

  チクタク、チクタクと、時計の針が回る音だけが響く静かな部屋。

  安らかになり始めた彼女の寝顔を見ていると、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れて、泥のような重たい眠気が襲ってきマス。

  握った手を離さないまま、ミーは椅子に座ったまま、意識が深い海の底へと沈むように、眠りへと落ちていきまシタ。

  ……

  泥の底から浮上するように、意識がゆっくりと覚醒へと向かう。

  最初に感じたのは、喉の奥に張り付いた焼けつくような渇き。次いで、頭蓋骨の内側をガンガンとハンマーで叩かれるような鈍痛。

  重い。鉛を詰め込まれたように瞼が重い。

  「……ぅ、うぅ……」

  ひび割れた唇から、空気の漏れるような掠れ声が漏れた。

  嫌な夢を見ていた気がする。

  炎、悲鳴、そして全てを焼き払う屈辱的な光。

  ビクリ、と身体が強張り、反射的に身を守ろうと腕を動かそうとしたけれど、筋肉が悲鳴を上げてピクリとも動かない。

  

  ……ここはどこ? あの裏路地? 警察の牢獄?

  恐る恐る、膠着した睫毛を剥がすように薄目を開ける。

  網膜を刺したのは、無機質な鉄格子の冷たさでも、ゴミ溜めの薄暗さでもなかった。

  柔らかく拡散された、朝の光。

  鼻孔をくすぐるのは、腐った生ゴミの臭いではなく、日向に干した綿のような、甘ったるい生活の匂い。

  背中に触れているのは、ゴツゴツした石畳ではなく、使い込まれたシーツの滑らかな感触。

  ……生きてる。

  アタシはまだ、捕まっていない。

  安堵よりも先に、状況の飲み込めない混乱が渦巻く。

  視線を巡らせようと首を動かすと、錆びついた蝶番のような音が首筋から聞こえた気がした。

  その時、右手に違和感を覚えた。

  拘束具ではない。もっと生温かくて、湿り気を帯びた圧迫感。

  視線を右下へずらす。

  「…………は?」

  そこにいたのは、毛玉だった。

  いいえ、違うわね。少女だわ。

  ベッドの脇に置かれた木製の椅子に座り、上半身をベッドに預けるようにして突っ伏している。

  特徴的なのは、その頭部からピンと突き出た、三角形の耳。

  桜の花びらを溶かしたような、柔らかなピンク色の体毛に覆われたネコネコ族の耳が、呼吸に合わせてピクピクと頼りなく揺れている。

  何なのよ、こいつ。

  アタシの警戒心をよそに、少女は無防備な寝息を立て続けている。

  身につけているのは、暁の空と星屑を混ぜ合わせたような、悪趣味なほどメルヘンチックな配色のローブと帽子。

  ……見間違えるはずがない。あのアタシを拒絶した憎き場所、ソルシエール魔法学校の制服だわ。

  吐き気がする。

  アタシが命を削って破壊しようとした組織の構成員が、どうしてアタシの枕元で惰眠を貪っているわけ?

  殺意が湧き上がり、指先に力を込めようとする。

  けれど、アタシの右手は、その少女の両手に包み込まれるようにして、しっかりと握り締められていた。

  熱い。

  少女の手のひらは、鬱陶しいほどに体温が高く、そして少し汗ばんでいる。

  夜通し握っていたのかしら。アタシの冷え切った指先が、その熱に侵食されてジンジンと痺れている。

  ふと、少女が身じろぎをして、顔の向きを変えた。

  窓から差し込む陽光が、その寝顔を克明に照らし出す。

  長い睫毛が落とす影。緩みきった口元。あどけない輪郭。

  そこには、昨日の地獄絵図なんて欠片も存在しない。

  恐怖も、絶望も、憎悪も知らない、温室で大切に育てられた花のような顔。

  苦労なんて言葉、辞書にも載っていないような、幸せボケした安らかな寝顔。

  「……ふふ、幸せそうねぇ」

  皮肉を込めて呟こうとしたけれど、喉が引きつって空気しか出ない。

  何よ、その顔。

  アタシが泥水を啜っている間、アンタはそうやってのうのうと生きてきたわけ?

  いっそ、このままその細い首を絞めてやろうか。

  けれど、アタシの殺意を嘲笑うように、少女の喉がゴロゴロと猫のような音を鳴らした。

  握り締められた手に、ギュッと力が込められる。

  まるで、悪夢にうなされる子供を宥める母親のように。

  ……気持ち悪い。

  本当に、反吐が出るほど気持ち悪い温もり。

  なのに、アタシの身体は正直だわ。その熱源を拒絶するどころか、凍えた細胞が貪欲にその熱を吸い取ろうとしている。

  振りほどく気力すら湧かない。

  アタシは忌々しげに舌打ちをつくと、天井でキラキラと揺れる安っぽい星の飾りを睨みつけ、再び重力に負けて枕へと頭を沈めた。

  このまま、泥のように眠ってしまえたら、どんなに楽かしら。

  意識の端が、甘い微睡みへと溶け落ちそうになる。

  瞬間、脳裏に焼き付いた轟音と熱線の記憶が、安息を引き裂いた。

  「ッ……!?」

  ビクンッ! と心臓が早鐘を打ち、脊髄を氷柱で突き刺されたような悪寒が走る。

  違う。寝ている場合じゃない。

  まぶたの裏に浮かぶのは、あの漆黒のマントを翻し、幾何学模様の魔石をギラつかせた「狂犬」の影。

  

  ドーベル警部。

  奴は執拗だ。一度噛み付いたら、獲物が息絶えるまで決して離さない。

  今も、その鼻をひくつかせながら、アタシの血の臭いを嗅ぎ回っているに違いない。

  ここは安全な寝床じゃない。処刑台の待合室よ。

  こんな無防備な場所で、のんびりと朝日を浴びているなんて自殺行為だわ。

  

  逃げなければ。

  一刻も早く、あの犬の嗅覚が届かない場所へ。

  アタシは少女の手から、自分の指を強引に引き抜いた。

  汗ばんだ皮膚が離れる瞬間、ピチャリと粘着質な音がして、急激に指先が冷える。

  その冷たさが、アタシに現実を突きつける。

  掛け布団を乱暴に跳ね除け、強張った腹筋に力を込める。

  動け。動きなさい、このポンコツな身体!

  歯を食いしばり、上半身をグイッと起こした、その瞬間だった。

  脳味噌が頭蓋骨の内壁に叩きつけられたような衝撃。

  世界が、斜めに滑り落ちた。

  「……っ、ぐ……ぁ!?」

  視界が万華鏡のように激しく旋回する。

  天井の星飾りがぐるぐると回りながら迫ってきたかと思えば、次は床板がアタシの顔面を殴りつけようとせり上がってくる。

  平衡感覚が根こそぎ奪われ、胃袋の裏返るような強烈な吐き気が喉元まで込み上げた。

  呼吸ができない。

  酸素を求めて口をパクパクと開閉させるけれど、ヒュー、ヒューと頼りない風切音が鳴るだけで、肺が膨らまない。

  額の傷口がドクンドクンと脈打ち、熱いマグマを流し込まれているように痛む。

  ダメだ。立てない。

  身体が傾き、ベッドの端から転げ落ちそうになる。

  「ミャッ!? 起きちゃダメデス!」

  ガタッ、と椅子が倒れる音と共に、柔らかな感触がアタシの肩を支えた。

  視界が明滅してよく見えないけれど、甘いミルクのような匂いと、ピンク色の何かが目の前で揺れている。

  「離し……なさい……っ! アタシは……行か、なきゃ……」

  掠れた声で抵抗しようと腕を振り払う。

  けれど、アタシの腕は生まれたての小鹿のように震えるばかりで、少女の細い腕一本すら押し返せない。

  悔しい。情けない。

  天下のラミア様が、こんな子供に介抱されなきゃ生きられないなんて。

  「ダメデス! 全然治ってないじゃないデスカ!」

  少女の必死な声が、耳鳴り混じりの鼓膜を叩く。

  彼女はアタシの痩せた背中に腕を回し、まるで壊れ物を扱うように、ゆっくりと、しかし拒絶を許さない力強さで再びアタシをベッドへと押し戻した。

  枕に頭が沈み込むと、回転していた世界が少しだけ速度を緩める。

  「傷口が開いちゃいマス! ミーの回復魔法じゃ、まだ完全に塞ぎきれてないんデスから……」

  少女の手が、アタシの額に触れる。

  指先にある肉球のような弾力のある感触が、脈打つ患部をひんやりと冷やす。

  彼女の大きな瞳が、アタシの顔を覗き込んでいた。

  その瞳孔は心配そうに揺れ、潤んでいる。

  ……なによ、その目は。

  どうして赤の他人を、そんなふうに見ることができるの?

  「お願いデスから、無理しないでくだサイ。怪我が治るまで、ここでゆっくり休んでてほしいんデス」

  彼女はアタシの胸元まで布団を引き上げ、トントンと優しく叩いた。

  その一定のリズムが、狂ったように早鐘を打っていたアタシの心拍を、少しずつ、強制的に落ち着かせていく。

  「……お節介な、猫だこと……」

  憎まれ口を叩くのが精一杯だった。

  反論する気力も、再び起き上がる体力も、もう残っていない。

  アタシは不貞腐れたように顔を背け、再び泥のような疲労感に身を委ねるしかなかった。

  ……

  パタン、と軽い音を立てて木製の扉が閉まる。

  階段を降りていく軽やかな足音と、遠くから聞こえる包丁がまな板を叩くトントンというリズミカルな音。

  それらが遠ざかると、部屋には再び静寂が満ちた。

  後に残されたのは、甘ったるいミルクの匂いと、この身に余る清潔なシーツの感触、そしてアタシ一人。

  「……ふぅ」

  肺の奥に溜まっていた熱い息を吐き出す。

  あの猫娘、甲斐甲斐しいにも程があるわね。

  額のタオルを替え、枕の位置を直し、まるで壊れ物を扱うようにアタシの身体を拭いていく。その手つきが妙に慣れているのが、余計に癇に障る。

  おかげで、強張っていた筋肉が少しだけ緩んでしまったじゃない。

  アタシは重い頭を少しだけ動かし、この「独房」を見回した。

  ……趣味が悪い。

  一言で言えば、それだわぁ。

  六畳ほどの狭い空間は、まるで夜空を無理やり切り取って箱に詰めたみたい。

  天井を見上げれば、そこには無数の銀色が揺らめいている。

  薄い金属板を加工して作られた、月や星の形をしたモビール。窓から差し込む朝の光を乱反射して、天井に小さな光の斑点を躍らせている。

  空気の対流に乗って、チリン……と微かな音を立てて回る様は、見ているだけで催眠術にかかりそうだわ。

  あのローブの色といい、枕元に置かれた杖の星型魔石といい、よほどの星好きなのね。

  乙女チックで、夢見がちで、平和ボケした脳みその中身が透けて見えるようだわ。

  視線を下げ、ベッドの脇にある書き物机へと移す。

  そこは、整頓されたベッド周りとは対照的に、混沌としていた。

  積み上げられた魔術書の塔。埃を被った羊皮紙の束。乳鉢やフラスコといった調合器具が、所狭しとひしめき合っている。

  インクと乾燥した薬草の混じった、独特の学究的な匂いが鼻をつく。

  その雑多な山の中で、一冊だけ、妙に手触りの良さそうな革張りのノートが置かれているのが目についた。

  表紙の角が擦り切れ、手垢で黒ずんでいる。

  相当使い込まれているようね。

  ……暇つぶしくらいにはなるかしら。

  アタシは軋む身体に鞭打ち、シーツから腕を伸ばした。

  指先が震えて、何度か空を掴む。

  ようやく表紙を捉え、ずるずると引き寄せる。

  パラリとページを捲ると、目に飛び込んできたのは、見た目通りの丸っこくて可愛らしい、けれど几帳面な筆跡だった。

  『○月×日 晴れ。今夜はシリウスがとっても綺麗に瞬いていマシタ』

  『△月□日 雨。雲が厚くて何も見えまセン。残念デス』

  『×月△日 新しい望遠鏡のレンズを磨きマシタ。これで隣の銀河まで見えそうデス』

  ……はぁ。

  期待して損した。

  日記かと思えば、中身は延々と続く天体観測のログ。

  今日はどの星が見えた、明日はどの星座が昇る。そんな、地面を這いつくばる人間にはどうでもいい天空の事情ばかりが、執拗なまでに書き連ねられている。

  ページを捲る指が止まる。

  不思議ね。

  普通、この年頃の娘の日記なら、もっと他愛のない日常が書かれているものじゃない?

  友達とカフェに行ったとか、誰それが格好いいとか、先生がウザいとか。

  けれど、このノートには「他者」の影が驚くほど薄い。

  固有名詞なんて、ほとんど出てこない。

  唯一、例外があるとすれば――。

  『今日は「召喚士サン」に、星座の神話を教えてあげまシタ。興味を持ってくれて嬉しかったデス』

  『図書館で「召喚士サン」を見かけまシタ。難しそうな本を読んでいて、声をかけられませんでシタ』

  ……召喚士サン?

  同級生かしら。それとも先生?

  名前すら書かれていない、記号のような存在。

  数百ページに及ぶ記述の中で、人間らしい温かみを感じさせる単語は、この「召喚士サン」ただ一つ。

  アタシは鼻で笑った。

  長耳がピクリと反応し、唇が冷笑の形に歪む。

  なるほどね。

  アンタ、友達がいないのね。

  教室の隅で、誰とも会話せず、ただ窓の外の空ばかり眺めている。そんな陰気な背中が目に浮かぶようだわ。

  星空なんていう、決して手の届かない遠くの光に焦がれるのは、地上に居場所がないから。

  あの過剰なまでの親切心も、孤独を埋めるための代償行為ってわけ?

  「……可哀想な子」

  パタン、とノートを閉じる。

  革の表紙を撫でる指先に、少しだけ同族嫌悪に似た湿った感情がまとわりついた。

  けれど、アタシはすぐにそれを振り払う。

  孤独の種類が違うのよ。

  アタシは孤高。アンタはただの迷子。

  一緒にしないでほしいわね。

  階下から、スープの煮える良い匂いが漂ってきた。

  アタシは天井で揺れる銀色の月を睨みつけながら、ノートを元の位置に乱雑に戻そうとした。

  すると、日記を閉じた指先が、ふと机の脚元に立てかけられた異物に触れた。

  この甘ったるい星屑の部屋には似つかわしくない、禍々しい色彩。

  アタシの杖だ。

  そしてその横には、ありふれた装丁の真紅の魔導書も無造作に置かれている。

  あの猫娘、アタシを運ぶついでに、これらも回収してくれたというわけね。

  ……待って。

  アタシの眉間に、深い皺が刻まれる。

  回収した? あれが?

  視線を杖の先端、宝玉へと這わせる。

  爬虫類の瞳孔を模した縦長の亀裂が入った、赤黒い魔石。

  それは今、不思議なほど穏やかな光沢を帯びて、静かに呼吸するように明滅していた。

  普段なら、持ち主であるアタシですら触れるのを躊躇うほど、飢えた獣のように魔力を欲しがり、周囲の大気から魔力を貪り食う「捕食者」。

  アタシのような熟練の呪術師が、特殊な防護術式を展開した上で握らなければ、数秒で全身の魔力回路を食い破られ、指先からミイラのように干からびて死に至る。

  そういう「呪物」なのだけれどね。

  なのに。

  アタシは耳を澄ます。

  階下からは、相変わらず楽しげな鼻歌と、食器の触れ合う軽やかな音が聞こえてくる。

  先ほどまでここで居眠りをしていた彼女の顔色を思い出す。

  血色は薔薇のように良好。肌には瑞々しい張りがあり、呼吸も深く、安らかだった。

  魔力欠乏特有の、顔面蒼白や痙攣、冷や汗といった症状は、欠片も見当たらなかった。

  ……ありえない。

  背筋を冷たいものが駆け上がる。

  あの猫娘は、この杖を素手で握り、アタシという荷物を抱えて、ここまで歩いてきたはずよ。

  しかもその後、一晩中アタシの手を握り続けていた。

  普通なら、杖に触れた瞬間にショック死するか、良くても廃人よ。

  だというのに、彼女はピンピンしているどころか、朝食を作る余力さえ残している。

  杖の宝玉が、満足げに鈍く光るのを見た気がした。

  そう、こいつは「満腹」なのだわ。

  アタシから魔力を吸う必要がないほどに、すでに誰かからたっぷりと極上の魔力を吸い上げた後だから。

  「……化け物は、どっちよ」

  乾いた唇から、思わず零れ落ちる。

  あの華奢な身体のどこに、致死量の搾取に耐えうるだけの魔力が詰まっているというの?

  ただの孤独な星好きの少女だと思っていた。

  けれど、そのピンク色の毛並みの下には、アタシですら想像もつかないほどの「器」が隠されているのかもしれない。

  アタシの長耳が、警戒と、そして微かな好奇心にピクリと震えた。

  この杖を「ただの棒きれ」扱いできるほどの、異常な魔力保有者。

  もし、それが本当なら――。

  ドタドタドタッ!

  思考の深淵を覗き込んでいたアタシの意識は、暴力的な振動によって現実へと引き戻された。

  階段を駆け上がる重い足音。

  木の床板が悲鳴を上げ、その振動がベッドの脚を伝ってアタシの背骨を直接揺さぶる。

  このリズム、この重み。ただの来客じゃない。

  警官の靴だ。

  底の厚い、容赦のない革靴が、平和な家を蹂躙している音。

  「ちょ、ダメデスっ! 入っちゃダメデス!!」

  「公務執行妨害で逮捕するぞ! 退け!」

  階下から響く、絹を引き裂くようなあの猫娘の悲鳴と、野太い怒号。

  アタシの長耳が、不快な周波数を捉えてビクリと跳ね上がり、瞬時に頭皮へと張り付いた。

  全身の産毛が逆立つ。

  間違いない。あの声。

  昨夜、アタシを焼き殺そうとした狂犬の咆哮。

  嗅ぎつけられた。

  あの一瞬の隙、アタシがこのぬるま湯のような安息に気を許した数分の間に、奴らは包囲網を狭めていたのだわ。

  心臓が肋骨を内側から蹴り上げる。

  脂汗が毛穴から噴き出し、清潔なパジャマを冷たく濡らす。

  逃げなきゃ。

  今すぐに。

  アタシは反射的に右手を突き出した。

  指先を鉤爪のように曲げ、机の上の魔導書を睨みつける。

  手繰り寄せろ。物理的な距離なんて、魔力で埋めればいい。

  「来なさいッ!!」

  叫びと共に、アタシの掌から見えない糸が伸びる。

  机の上で真紅の魔導書がカタカタと震え、次の瞬間、吸い寄せられるように空を飛び、アタシの手のひらに勢いよく収まった。

  革の冷たい感触。

  これさえあれば。

  その時だった。

  部屋の扉が、蹴破られるようにして開け放たれた。

  蝶番が悲鳴を上げ、木片が飛び散る。

  入り口に立つ影。逆光で顔は見えないけれど、そのシルエットだけで十分すぎるほどの殺気が伝わってくる。

  ピンと立った三角形の獣耳。漆黒のマント。

  そして、そのマントの裏地で、毒々しいまでにギラギラと輝く無数の魔石。

  「見つけたぞ!!」

  ドーベル警部。

  その双眸が、ベッドの上のアタシを射抜いた。

  獲物を追い詰めた肉食獣の瞳。

  彼は既に杖を構えている。先端に集束する魔力が、アタシの眉間を狙っているのが肌でわかる。

  「ダメーッ!!」

  ピンク色の小さな影が、ドーベルの腕に飛びついた。

  あの少女だ。

  彼女は警部の太い腕にしがみつき、全体重をかけてその照準をずらそうとしている。

  華奢な身体。震える尻尾。

  それでも、彼女は必死にアタシと銃口の間に割って入ろうとしていた。

  「離せ! 貴様、魔女を庇うつもりか!」

  「怪我人なんデス! 撃っちゃダメデス!!」

  一瞬の均衡。

  その隙間が、アタシにとっての永遠だった。

  アタシは魔導書を開くことすらせず、表紙に爪を立てて魔力を流し込む。

  ページを指定している暇なんてない。

  どこでもいい。

  「ここ」ではない、「過去」であればどこだっていい!

  喉が張り裂けんばかりに、詠唱を叩きつける。

  「[[rb:停滞せし因果を呼び戻し、刻まれし刹那を現在へと再臨させよ > ロード・オブ・クロノスタシス]]ッ!!」

  世界の色が反転した。

  ドーベルの驚愕に歪む顔も、少女の必死な表情も、天井で揺れる星屑のモビールも。

  すべてがターコイズグリーンの閃光に飲み込まれ、輪郭を失っていく。

  浮遊感。

  内臓が引きずり出されるような、時空の逆流。

  アタシの視界から、星空の部屋が溶けて消える。

  最後、目に焼き付いたのは、閃光の中でこちらへ手を伸ばそうとする、あのピンク色の少女の姿だった。

  [newpage]

  [chapter:地脈の探求]

  視界が明滅し、内臓の裏返るような浮遊感がアタシを襲う。

  時間の濁流を遡る感覚は、いつ味わっても最悪だわ。

  三半規管が狂い、上下の感覚さえ失ったアタシの身体は、吐き出されるようにして硬い床へと叩きつけられた。

  「ぐ、ぅっ……!」

  肺の空気が強制的に押し出され、無様な蛙のような声が漏れる。

  冷たい。埃っぽい。そして、脇腹に鋭い痛みが走る。

  ドレスのポケットに入れていた何かが、アタシの肋骨を強く圧迫したのだ。

  「いった……なによ、もう……」

  アタシは眉間に皺を寄せ、痛む脇腹をさすりながら、その「凶器」を乱暴に引っ張り出した。

  薄暗い回廊の灯りに照らされたのは、安っぽい布切れ。

  白と黒の、目がチカチカするような市松模様。先端には、まるで喪服の切れ端のような黒色の房飾りが揺れている。

  ……ゴール旗だ。

  そういえば、これも魔導書を手に入れたあの家から一緒に盗み出したんだったわね。

  「チッ、こんな不吉なガラクタ……捨ててやろうかしら」

  アタシは旗を振り上げ、床に叩きつけようとした。

  けれど、腕が空中で止まる。

  ……待って。あの魔導書だって、見た目はただの古臭い本だった。けれど、その中身は世界を巻き戻すほどの規格外の代物だったわ。

  なら、こいつも?

  アタシの長耳がピクリと揺れる。

  勘よ。裏社会で生き抜いてきたアタシの直感が告げている。「持っておけ」と。

  アタシは舌打ちをつくと、しわくちゃになった旗を丁寧に畳み、再びポケットの奥へと押し込んだ。

  さて、気を取り直しましょう。

  アタシが顔を上げると、そこには重厚な黒鉄の扉がそびえ立っていた。

  ソルシエール魔法学校、地下大禁書庫。

  ここには、表の歴史からは抹消された、都市の成り立ちや古代魔法に関する不都合な真実が眠っている。

  咄嗟に選んだ時間軸にしては悪くない。とは言ったものの。

  ……はぁ。やっぱり、見るだけで気が滅入るわね。

  扉の表面には、複雑怪奇な魔法陣が幾重にも刻印され、物理的な鍵穴など存在しない。

  さらに、扉の両脇には、身長三メートルはある石像――警備用ゴーレムが二体、沈黙を守って鎮座している。

  以前ここに来た時、アタシは何度か解錠魔法を試みたものの、その圧倒的なセキュリティの堅牢さに尻尾を巻いて逃げ出した。

  正規の手順で入ろうとすれば、教育委員会とかいうお堅い連中の許可証が何枚も必要になる厳重なセキュリティだ。

  「ま、どうせ無理でしょうけど」

  アタシは自嘲気味に呟き、気だるげに右手を扉にかざした。

  期待なんてしていない。

  ただ、せっかくここまで戻ってきたのだから、「やっぱりダメでした」という確認作業くらいはしておこうと思っただけ。

  つい先程まで、完璧と確信していた計画を見るも無惨に破壊された憂さ晴らしも兼ねて。

  

  詠唱するのは、初歩的な解錠魔法。

  ただし、アタシの魔力を精密に流し込み、術式の構造そのものをハッキングして書き換える仕掛けも乗せておく。

  集中する。

  指先に魔力を集め、鍵の構造を解析イメージとして脳内に展開する。

  その時だった。

  少し体勢を変えた拍子に、ポケットの中の「旗」の黒い房飾りが、アタシの太もも越しに杖のグリップに触れたような感触があった。

  不意に、心臓が破裂しそうなほどの鼓動に襲われる。

  指先に集めていた魔力が、アタシの意思を無視して爆発的に膨れ上がった。

  え? 何?

  制御できない。奔流のようなエネルギーが、アタシの右腕を内側から食い破るようにして噴出する。

  「ちょっ、まちなさっ――!?」

  静かな解錠音なんてしなかった。

  代わりに響いたのは、世界が割れるような轟音。

  目を開けていられないほどの閃光が弾け、衝撃波がアタシの身体を吹き飛ばす。

  背中を壁に打ち付け、ズルズルと滑り落ちながら、アタシは唖然として前方を見た。

  扉が、ない。

  解錠されたのではない。「扉」という概念ごと消し飛んでいた。

  分厚い黒鉄の板はねじ切れ、飴細工のように溶解し、壁の一部ごと蒸発している。

  それだけじゃない。

  両脇に立っていたはずの頑強なゴーレムたちが、まるで砂上の楼閣が崩れたかのように、ただの砂利の山へと還元されていた。

  解錠魔法の効果が、「鍵を開ける」から「物質の結合そのものを解き放つ」レベルにまで昇華されてしまったとでも言うの?

  「……冗談でしょ」

  乾いた笑いが漏れる。

  けれど、感傷に浸っている時間はない。

  けたたましい警報音が地下回廊に鳴り響く。

  当然だろう。これだけの騒ぎを起こせば、上の階にいる夜警の魔術師たちが血相を変えて飛んでくる。

  アタシは震える足に力を込め、煙を上げる入り口をくぐり抜けた。

  棚に並ぶ古書の中から、禍々しいオーラを放つ数冊を直感で選び出し、小脇に抱える。

  『ソルシエ地脈考』『星の獣と封印の楔』『禁忌・質量兵器の作り方』……。

  タイトルを見るだけでゾクゾクするわね。

  「そこまでだ、侵入者め!」

  背後から怒号が飛ぶ。

  振り返ると、階段の踊り場に数人の魔術師が杖を構えて立っていた。

  チッ、早すぎる。

  「きゃはっ、また今度ね!」

  アタシはウインクを投げつけ、即座に転移魔法を発動させる。

  空間が歪み、魔術師たちの放った光弾がアタシの残像を虚しく貫いた。

  ……

  ソルシエの街外れ。人気のいない公園の植え込みに、アタシは転がり出た。

  夜風が熱を持った頬を撫でる。

  心臓がまだバクバクといっている。

  脇に抱えた禁書と、ポケットに収まった旗の感触を確かめ、アタシは深く息を吐き出した。

  成功だわ。

  手荒な真似だったけれど、これで必要な情報は手に入った。

  肺に溜まった熱い息を吐き出すたびに、口の中に鉄の味が広がる気がした。

  実際には血など流れていない。あれは「無かったこと」になった未来の出来事だ。

  けれど、脳髄に焼き付いた屈辱の記憶は、ロード魔法でも洗い流せないタールのようにこびりついている。

  クソッ。

  思い出すだけで、胃液が逆流しそうだわ。

  あんなに完璧なお膳立てだったじゃない。数年かけて準備し、何百何千という人間を狂わせた。

  「数の暴力」で都市機能を麻痺させ、内部から自滅させる。そのシナリオに狂いはなかったはずよ。

  けれど、現実はどう?

  アタシが指揮した数千の暴徒は、たった数人の「本物」によって、赤子の手を捻るように無力化された。

  ソルシエール魔法学校の教師陣。

  特に、あのペストマスクの校長。

  奴は魔法ですらない、理そのものを書き換えるようなデタラメな力で、アタシの呪いを「治療」してみせた。

  そして、あのドーベルマン。

  個人の魔力なんて関係ないと言わんばかりの、魔導装備による圧倒的な火力制圧。

  歯ぎしりの音が、静かな夜の公園に響く。

  認めたくはないけれど、認めざるを得ない。

  アタシが積み上げた「量」は、奴らが持つ研ぎ澄まされた「質」の前では、紙屑同然だったのだと。

  個人の魔力でチマチマと呪いを振り撒いたところで、組織化された暴力と、伝説級の個体には勝てない。

  なら、どうすればいい?

  奴らの「質」を凌駕するには、もっと根本的で、抗いようのない「大災害」が必要だ。

  人間一人の技量ではどうにもならない、天変地異レベルのエネルギー。

  技術も、戦術も、装備も関係ない。

  ただそこに存在するだけで、都市ごと全てを飲み込んでしまうような、圧倒的な質量。

  アタシは小脇に抱えた禁書『ソルシエ地脈考』を強く抱きしめた。

  革表紙の硬い感触が、アタシの肋骨に食い込む。

  

  答えは、この中にあるはずよ。

  このふざけた魔法都市が、何故ここまで繁栄できたのか。そのエネルギー源である「地脈」と、それを制御するシステム。

  それを乗っ取り、暴走させることができれば。

  今度こそ、あいつらの澄ました顔を、絶望で歪ませてやれる。

  もう、小細工は無しだわ。

  次は、この都市そのものを爆弾に変えてやる。

  乱れた呼吸を整え、アタシは顔を上げる。

  頭上には、満天の星空。

  ソルシエの夜は、魔法の街灯が明るすぎて星が見えにくいけれど、ここは外れにあるせいか、幾分か綺麗に見える。

  ふと、視界の端に動くものがあった。

  公園の中央にある小高い丘。

  そのベンチの上に、誰かが立っている。

  アタシは目を細めた。

  大きな筒状の機械――天体望遠鏡を覗き込んでいる、小さな影。

  夜風に揺れる、暁色のローブ。

  そして、帽子から飛び出した、ピンク色の三角形の耳。

  「……あ」

  声が出そうになり、慌てて口を押さえる。

  間違いない。

  「未来」で、アタシの汚れた手を握り、夜通し看病してくれた少女。

  あの猫娘だ。

  彼女は独りだった。

  周りには誰もいない。ただ、巨大な望遠鏡にしがみつき、一心不乱に夜空を見上げている。

  その背中は、世界から切り離されたように小さく、そして寂しげに見えた。

  なるほどね。

  運命ってやつは、どうやらアタシたちを引き合わせたいらしいわ。

  アタシのポケットの中で、あの白黒の旗が微かに熱を持った気がした。

  アタシは口元を三日月のように歪め、乱れた髪を手櫛で整えると、その無防備な背中へと、音もなく歩み寄っていった。

  ……

  夜露に濡れた芝生が、シュッ、シュッと湿った音を立てる。

  気配を殺すのは得意だわ。裏社会の泥沼を這いずり回って生きてきたアタシにとって、無防備な背中に忍び寄るなんて、赤子の手を捻るよりも容易い。

  距離、およそ五メートル。

  風向きはアタシから彼女へ。

  夜風に乗せて、アタシの移り香――安っぽい香水ではなく、先ほどの禁書庫で染み付いた古紙と埃の匂いが、彼女の鼻腔をくすぐるはずだ。

  ピクリ。

  予想通り、少女の頭頂部から突き出たピンク色の三角形の耳が、レーダーのように反応してこちらを向いた。

  「……ミャ?」

  彼女が振り返るのと、アタシが声をかけるのは同時だった。

  「こんばんは。こんな夜更けに、熱心ね」

  アタシは唇の両端を数ミリ持ち上げ、鏡の前で何千回と練習した「聖女のような微笑み」を貼り付ける。

  声色はワントーン高く、柔らかく。警戒心を抱かせないための、シルクのような声音。

  少女――ミーティアは、丸い瞳をさらに丸くして、アタシを見上げた。

  その瞳孔が、驚きでギュッと収縮するのが月明かりの下でも見て取れる。

  彼女は反射的に望遠鏡を抱きしめ、一歩後ろへ下がった。尻尾の毛がボワッと膨らみ、静電気を帯びている。

  警戒しているわね。当然か。こんな真夜中の公園に、ドレス姿の女が現れたんだもの。

  「だ、誰デスか……? ミーに何か用デスカ……?」

  震える声。上目遣いの視線。

  アタシは内心で舌なめずりをする。

  ああ、この弱々しさ。孤独な小動物特有の、他者を拒絶しながらも、誰かの温もりを渇望している矛盾した瞳。

  チョロいわね。

  「驚かせてごめんなさいね。貴方の背中があまりに真剣だったから、つい声をかけてしまったの」

  アタシはゆっくりと、敵意がないことを示すように両手を広げ、さらに一歩距離を詰める。

  そして、彼女がしがみついている望遠鏡へと視線を流した。

  「星を、見ていたの?」

  「……ハイ。今日はずっと天気が悪かったデスけど、今は雲が晴れたので」

  「そう。でも、残念ね」

  アタシは大袈裟に肩をすくめ、煌々と輝くソルシエの街並みを指差した。

  魔法の街灯が撒き散らす人工の光が、夜空の下半分を白く塗り潰している。

  「こんなに明るくちゃ、星なんて見えないでしょう?」

  その言葉は、魔法の鍵のように、彼女の心の防壁を一つだけ解除した。

  ミーティアの表情から警戒の色が抜け落ち、代わりに「共感」への期待が灯る。

  「……分かるんデスカ?」

  「ええ、分かるわぁ。本当に無粋よね、この街の人間たちは。夜は夜らしく、闇に包まれていればいいのに。……この人工的な光が、本当の輝きを奪っているのよ」

  アタシの言葉に、彼女はハッとしたように目を見開いた。

  膨らんでいた尻尾の毛が、しゅるりと元に戻っていく。

  「そ、そうなんデス! 分かってくれマスか!? この街灯、魔法で動いてるから一晩中消えないデスし、光害が酷くて、三等星より暗い星なんて全然見えないんデス!」

  堰を切ったように、彼女は早口でまくし立てた。

  身体を乗り出し、瞳をキラキラと輝かせる。

  典型的なオタク気質ね。自分の好きな話題になると、周りが見えなくなるタイプ。

  「ミー、何度も先生に言ったんデス。夜の間だけでも街灯を消してほしいって。でも『防犯のためだ』って誰も聞いてくれなくて……」

  「可哀想に。彼らには、貴方のような高尚な視点は理解できないのよ」

  アタシは深く頷き、彼女の隣に並び立った。

  肩が触れそうな距離。彼女からは、甘いミルクと、夜露の冷たい匂いがした。

  そして、アタシの肌は感じ取っていた。

  彼女の華奢な身体から漏れ出す、濃密すぎて肌がヒリつくほどの魔力の気配を。

  やはり、間違いない。この子は「生きる魔力炉」だ。

  「……お名前は?」

  「あ……ミーは、ミーティア、デス」

  「素敵な名前ね。流星……まさに星の子だわぁ」

  アタシは短く微笑むと、それ以上は踏み込まず、踵を返した。

  ここで誘うのは早計だ。

  今の彼女に必要なのは、「勧誘」ではなく、「理解者」という名の種を蒔くこと。

  「アタシはラミア。また会えるかしら、ミーティアさん」

  「あ……」

  彼女が何か言いかけたけれど、アタシは振り返らずに手をひらひらと振った。

  背中で感じる視線。

  彼女はきっと、呆然とアタシを見送っているはずだ。

  この閉塞した街で、初めて自分の不満を肯定してくれた「謎の女性」の後ろ姿を。

  さあ、始まりよ。

  これからゆっくりと時間をかけて、あなたをアタシ色に染め上げてあげる。

  ……

  二度目の夜。

  工房の硬いベッドの上で、盗み出した禁書『星の獣と封印の楔』を三時間ぶっ通しで速読したせいで、アタシの眼球は乾ききり、こめかみの奥がズキズキと脈打っていた。

  指先には、数百年分の埃と、カビた紙特有の酸っぱい匂いが染み付いている。

  洗っても落ちないこの「禁忌の匂い」こそが、今の武器だ。

  夜風が、火照った瞼を冷やす。

  公園の砂利を踏みしめるブーツの感触を確かめながら、アタシはいつものベンチへと向かった。

  いた。

  昨日と同じ場所。昨日と同じ、世界から断絶されたような背中。

  彼女は巨大な望遠鏡の冷たい金属にしがみつき、微動だにせず夜空を見上げている。

  まるで、石像か何かのようだわ。

  アタシは足音を立てずに近づき、彼女の隣、ベンチの空いているスペースへ、その身を滑り込ませた。

  木の座面がきしむ音。

  「……ミャッ!?」

  彼女の肩が跳ね上がり、ピンク色の三角耳がピンと逆立つ。

  驚愕に揺れる瞳がアタシを捉え、そしてすぐに、安堵の色へと変わった。

  昨日の「不審者」から、「顔見知り」へとランクアップしている証拠だ。

  「あ……ラミア、さん……」

  「こんばんは。今夜も冷えるわね」

  アタシは短く挨拶し、彼女の返事を待たずに、黒いレースの手袋に包まれた指先を夜空へと突き出した。

  狙うのは、南の空に低く垂れ込める、赤黒い瞬き。

  「ねえ、ミーティアさん。あそこで不吉に光る赤い星……学校ではなんて教わった?」

  「え……っと。あれは『戦士の瞳』デス。勇気と正義を司る星だと、教科書には……」

  「ふふ、やっぱりね。あの教育委員会の連中は、本当に都合のいいことしか教えないんだから」

  アタシは鼻で笑い、組んだ足を優雅に組み替えた。

  そして、あくまで世間話をするような軽い口調で、けれど声のトーンを落として囁く。

  「あれはね、『瞳』なんかじゃないの。……『楔』よ」

  「くさび……デスカ?」

  彼女が望遠鏡から顔を離し、身を乗り出してきた。

  甘いミルクの匂いが鼻をかすめる。

  「そう。太古の昔、この大地を食い荒らそうとした『星喰らいの獣』を縫い止めるために打たれた、血塗られた釘。あの赤色は勇気の色じゃないわ。楔から滴り落ちる、獣の怨嗟の血の色なのよ」

  アタシの口から紡がれるのは、さっき宿で頭に詰め込んだばかりの受け売りだ。

  けれど、ハッタリと演技力には自信がある。

  まるで自分が見てきた歴史であるかのように、抑揚をつけ、時に勿体ぶって間を置く。

  「あの星が瞬くのは、今も獣が鎖を引きちぎろうと暴れているから。……学校の先生たちは、その真実を隠しているの」

  ゴクリ。

  彼女の細い喉の上下する音が聞こえた。

  ミーティアの瞳孔は、月明かりを吸い込んで極限まで開ききっている。

  瞬きすら忘れているようだ。乾燥した夜風が彼女の大きな瞳を撫でても、彼女はアタシの唇から目を離さない。

  そのピンク色の尻尾の先端が、興奮を抑えきれないように、左右に規則正しく揺れている。

  「すごい……すごいデス! 初めて聞きマシタ……!」

  彼女は両手を胸の前で合わせ、祈るような仕草でアタシを見上げた。

  その眼差しにあるのは、純度100パーセントの尊敬と、憧憬。

  疑うことなど微塵も知らない、真っ白なキャンバス。

  「ラミアさん、物知りなんデスね! まるで、星の言葉が分かるみたいデス!」

  上気した頬。吐息混じりの称賛。

  その無防備な言葉が、アタシの鼓膜を心地よく震わせる。

  ……チョロい。

  本当に、笑い出しそうになるくらいチョロいわ。

  ただの本の受け売りを垂れ流しただけで、この食いつきようだもの。

  アタシの胸の奥底から、粘着質な優越感がじわりと湧き出してくる。

  知識とは、力だ。

  そして、無知な者にとって、知識を持つ者は神にも等しい。

  アタシは口元の笑みを扇子で隠すように手で覆い、わざとらしく目を伏せた。

  「大したことじゃないわ。……ただ、アタシは『本当のこと』を知りたいだけ」

  その一言で、彼女の尻尾の振りがさらに激しくなる。

  まだ大した交流もしてないのだけれど、すっかり夢中なのね。

  アタシはポケットの中で、禁書の背表紙を指先でなぞりながら、冷ややかな満足感に浸った。

  ……

  六度目の夜。

  凍えるような北風が、公園の木々を揺らし、乾いた葉擦れの音を奏でていた。

  吐く息は白く濁り、手袋をしていても指先の感覚が麻痺していくほどの寒さ。

  そんな中、彼女はまた、あの冷え切った金属の塊――望遠鏡にしがみついていた。

  アタシは屋台で調達したばかりの紙コップを二つ、両手に掲げながら近づいた。

  薄い紙越しに伝わる熱が、冷えたアタシの掌をジンジンと焼く。

  中身は、砂糖と蜂蜜を致死量ほどぶち込んだ、特製のミルクティーだ。

  「……こんばんは。また会ったわね」

  声をかけると、彼女のピンク色の三角耳がピクリと跳ね、反射的にこちらを向いた。

  鼻の頭が寒さで赤くなっており、長い睫毛には微かに夜露が付着してキラキラと光っている。

  アタシの姿を認めると、強張っていた肩の力がフッと抜けるのが分かった。

  

  ふふ、いい傾向だわ。

  「あ、ラミアサン……こんばんは」

  「風邪を引くわよ。はい、これ」

  アタシは湯気を立てる紙コップを、彼女の目の前に突き出した。

  甘ったるい香りが、冷たい夜風に乗って彼女の鼻腔をくすぐる。

  彼女の鼻が、ひくひくと動いた。

  「え、あ……でも、悪いデスし……」

  「遠慮しないで。買いすぎちゃったのよ。……それとも、アタシが淹れたお茶なんて飲めないかしら?」

  「そ、そんなことないデス! いただきマス!」

  慌てたように、彼女は両手を伸ばしてコップを受け取った。

  かじかんだ指先が、熱いコップに触れる。

  「あつッ」と小さく声を上げながらも、彼女はその温もりを逃がすまいと、両手で包み込むようにギュッと握りしめた。

  凍えた皮膚が熱を吸収し、血色が戻っていくのが見て取れる。

  彼女はコップに口を近づけ、猫らしく「フーフー」と慎重に息を吹きかけた。

  立ち上る白い湯気が、彼女の顔を柔らかく覆い隠す。

  ズズッ、と小さな音を立てて一口。

  途端に、強張っていた表情筋がとろりと緩み、幸せそうに目が細められた。

  「……あまぁい……。あったかいデス……」

  「お口に合ったようで何よりだわ」

  アタシも隣に腰を下ろし、自分の分の紅茶に口をつけた。

  普段なら、アタシの舌は死んでいる。

  絶望に蝕まれたこの身体は、食事をただの「燃料補給」としか認識しない。どんな高級料理も、砂を噛むような無機質な食感と、温度しか感じないはずだった。

  だから、これもただの「熱い泥水」であるはずだった。

  ――ピリッ。

  けれど、舌先に微かな電流が走った。

  ほんの僅か。砂漠に落ちた一滴の雨粒のような、頼りない刺激。

  ……甘い?

  砂糖の粒子が、死んだはずの味蕾を叩き起こしたのかしら。

  それとも、隣で幸せそうに茶をすするこの小娘の体温が、アタシの凍った感覚を少しだけ溶かしたとでも言うの?

  ……馬鹿げてる。

  アタシは眉をひそめ、正体不明の「味」を喉の奥へと流し込んだ。

  不快ではない。けれど、慣れない感覚に胸がざわつく。

  しばらくの間、ズルズルと茶を啜る音だけが響いた。

  沈黙が、昨日までのような重苦しいものではなく、どこか心地よいものへと変化している。

  コップの底が見え始めた頃、彼女がポツリと口を開いた。

  「……学校じゃ、こんなことできまセン」

  彼女の視線は、夜空ではなく、茶色の液面へと落とされていた。

  カップの縁をなぞる指先が、悔しそうに震えている。

  「星の話なんて、誰も聞いてくれないんデス。休み時間になると、みんな雑誌を開いて『今季の流行色は』とか『誰々君がカッコイイ』とか……そんな話ばっかりで」

  彼女の尻尾が、パタン、パタンと苛立たしげにベンチを叩く。

  吐き出される言葉には、鬱屈した孤独の熱が籠もっていた。

  「ミーが星の話をすると、みんな『へぇ、すごいね』って言うんデス。でも、目は笑ってなくて、すぐに話題を変えられちゃう。……ミーがおかしいんでショーか。星を見るより、布切れの色を気にする方が大事なんデスカ?」

  彼女は顔を上げ、すがるような瞳でアタシを見た。

  その瞳孔は不安に揺れ、誰かからの「肯定」を飢えた獣のように求めている。

  アタシはわざとらしく溜息をつき、呆れたように肩をすくめてみせた。

  唇の端を吊り上げ、嘲笑の形を作る。もちろん、彼女に対してではなく、その「クラスメイト」たちに対しての嘲笑を装って。

  「ええ、分かるわぁ。本当に、嘆かわしいことね」

  アタシは彼女の肩に、そっと手を置いた。

  ビクリと震えた彼女の身体だったが、すぐにアタシの手のひらに体重を預けてきた。

  「俗物たちには、高尚な趣味なんて理解できないものなのよ。彼らは地面を這いつくばって、泥の中の小石を拾って喜んでいるだけの家畜だわ」

  「家畜……」

  「そう。でも、あなたは違う。あなたは泥ではなく、天空の宝石を見上げている。……誇りなさい、ミーティアさん。あなたがおかしいんじゃない。周りのレベルが低すぎるのよ」

  その言葉は、彼女の心の傷口に、甘い毒のように染み渡った。

  彼女の瞳から不安の色が消え、代わりに熱っぽい光が宿る。

  それは「共犯者」の瞳だ。

  世界中が敵でも、この人だけは味方だという、盲目的な信頼。

  「……そうデスよね。ミーは、間違ってないデスよね」

  「ええ。間違っているのは世界の方よ」

  アタシは残りの紅茶を飲み干し、紙コップを握りつぶした。

  クシャリ、という音が、彼女の心の鍵が開く音のように聞こえた。

  

  網はかかった。

  あとは、タイミングを見計らって引き上げるだけだわ。

  ……

  そして、十度目の夜。

  今夜は新月。星の瞬きを邪魔する月明かりはなく、天空を仰ぐには絶好の条件だというのに。

  公園のベンチに座る彼女の背中は、今までで一番小さく、貝殻のように固く丸まっていた。

  近づくと、微かに鼻をすする音が聞こえる。

  望遠鏡はカバーが掛けられたまま、冷たい夜風の中に放置されている。

  彼女の膝の上には、あの見覚えのあるノートが開かれていた。

  インクの匂いと共に、『召喚士サン』と書かれたページが、涙の跡で滲んでふやけているのが見えた。

  「……こんばんは、ミーティアさん」

  アタシは足音を忍ばせず、わざと落ち葉を踏んで音を立てて近づいた。

  ビクッと彼女の肩が大きく跳ね上がり、慌ててノートをパタンと閉じる。

  振り返ったその顔は、目元が桃の実のように赤く腫れ上がり、頬には乾きかけた涙の跡が白く残っていた。

  いつもならピンと立っている耳は力なく垂れ下がり、尻尾は怯え、猫のように脚の間に隠れるように巻き込まれている。

  「ラ、ラミアサン……」

  「どうしたの? せっかくの新月なのに、望遠鏡も出さないで」

  アタシは隣に座り、彼女の肩にそっと手を置いた。

  その体温は低く、まるで凍えた小鳥のように小刻みに震えている。

  彼女は一度唇を白くなるほど強く噛み締め、それから堰を切ったように、掠れた声で話し始めた。

  「……今日、勇気を出して、話しかけたんデス。星が綺麗だから、一緒に見ませんかって……」

  「召喚士さんに?」

  アタシが問いかけると、彼女は驚いたように目を見開き、それから力なく、コクンと頷いた。

  「ハイ……。でも、忙しいからって……目も合わせてくれなかったデス。周りのクラスメイトにも、変な子だって笑われて……」

  彼女は膝に顔を埋め、再び泣き出した。

  嗚咽が漏れるたびに、ピンク色の髪が頼りなく揺れる。

  「あらあら、可哀想に。あの人たちは、貴方の本当の価値を分かっていないのよ」

  見せかけの慈愛に満ちた表情を見繕いながら、彼女の背中を、ゆっくりと一定のリズムで撫でた。

  その手が、彼女の震えを吸い取っていく。

  「……ミーは、『魔力体質』なんデス」

  不意に彼女の口から飛び出したその言葉は、完璧であるはずだったアタシの演技に、ピシリと亀裂を入れた。

  薄々察してはいた。

  アタシが常人を遙かに超える魔力保有量を誇るのは、ひとえにアタシを俗世から遠ざけ、化け物扱いさせた忌々しい『魔力体質』のおかげだ。

  彼女の体内に眠る魔力もまた、アタシと比較しても桁違いであることは、密かに計測した結果で既に分かっている。それは『魔力体質』でなければ説明がつかない、いいえ、そうであっても信じられないほどに規格外だった。

  だからこそ、その告白自体には驚きはない。

  問題は、その続きだ。

  「昔から、なんとなく他人から避けられている感覚はあったんデス。でも、それはミーの挨拶が小さかったとか、オハナシの内容がつまらなかったとか、そういうことだと思って頑張ったんデス。……でも、そうじゃなかったんデス」

  彼女は顔を上げないまま、搾り出すように言葉を紡ぐ。

  「ミーが頑張ってみんなと仲良くなろうとしても、結局うまくいかなかったんデス。最初は皆笑ってくれるのに、段々距離が離れていくんデス。その繰り返しが辛くて……気が付いたら、誰もいない星空を眺めることばかりしてまシタ」

  涙で濡れたノートを握りしめる彼女の指が、白く鬱血している。

  「それでも、召喚士サンはミーと同じ体質だから、ミーの近くにいても大丈夫で、やっとおトモダチができたと思っていたんデス。それなのに……召喚士サンも、みんなと同じ目を向けるようになったんデス」

  彼女は、耐えきれなくなったように叫んだ。

  喉が張り裂けんばかりの、悲痛な絶叫。

  「ミーは、誰とも仲良くなれないんデス! きっと、ラミアサンも、ミーから離れていくんデス!」

  ドクン。

  アタシの心臓が、嫌な音を立てた。

  

  同じだ。

  彼女は、アタシと同じ過去を抱えていた。

  同じように努力した。何とかこの世界に順応しようと、笑顔を作り、機嫌を取り、普通であろうとした。

  だけど、世界は一度だって微笑んではくれなかった。

  ただ、恐れられ、疎まれ、遠ざけられるだけ。

  ……いえ、ダメよ。

  

  アタシは頭を振る。

  情が移ったらダメ。この子にはこの後、アタシの野望のために使い潰されてもらわないと困るのよ。

  これは好機だわ。

  心が弱りきっている。拒絶され、孤独を突きつけられ、自己肯定感が底を打っている。

  今なら、どんな甘い言葉にも、蜘蛛の糸に絡め取られた蝶のように縋り付くでしょうね。

  アタシはポケットの中で、あの日盗んだ「ゴール旗」を握りしめた。

  ゴワゴワとした布越しの感触が、アタシに冷徹なゴーサインを出している。

  アタシは、むせび泣く彼女を優しく抱きしめた。

  甘いミルクの匂いが、アタシの鼻腔を満たす。

  「ミーティアさん。アタシはあなたから離れるつもりはないわ。だって……アタシも『魔力体質』だもの」

  彼女の肩がビクリと跳ねた。

  くりくりとした瞳が、驚愕に見開かれる。

  きっと拒絶されると思っていた相手が、まさか自分と同じ体質なんて、それは驚くでしょうね。

  あと一押し。

  アタシは彼女に正面から向き合い、温かく、けれど静かな力強さを込めて語りかける。

  その瞳の奥を、逃がさないように覗き込みながら。

  「アタシだけは、あなたの情熱を知っているわ。あなたがどれだけ真剣に、どれだけ純粋に星を愛しているか」

  「ラミアサン……」

  「だからね、アタシ、あなたを元気づけたくて、とっておきの場所を用意したの」

  アタシは彼女の耳元に唇を寄せ、共犯者が秘密を打ち明けるように囁いた。

  甘く、淫靡に、心を溶かす毒のように。

  「学校の地下にね、『星の井戸』があるって知ってる?」

  「星の……井戸……?」

  彼女が顔を上げた。

  涙で濡れた瞳が、月明かりを反射してアタシを映し出す。

  「そう。この地上からは絶対に見えない、大地の底に眠る『星の源流』。そこに行けば、空にある星なんて霞んで見えるくらいの、圧倒的な光に包まれることができるわ」

  「そ、そんな場所が……でも、学校の地下なんて、立ち入り禁止じゃ……」

  「だからこそ、よ」

  アタシは人差し指を立てて、彼女の震える唇にそっと当てた。

  ニヤリと、悪戯っぽく、けれど支配的に笑ってみせる。

  「誰にも理解されない私たちだけの、秘密の冒険。……素敵だと思わない?」

  その言葉は、毒入りの林檎のように甘く、彼女の孤独な心に染み渡ったようだった。

  立ち入り禁止というタブーへの恐怖よりも、選ばれた特別感と、アタシへの信頼が勝った瞬間。

  垂れ下がっていた耳が、ピクリと持ち上がる。

  瞳から迷いが消え、熱っぽい光が宿る。

  「……見たい、デス。ラミアサンと一緒に、その光を」

  「ええ、行きましょう。今すぐに」

  アタシは彼女の手を取り、力強く引いた。

  今度は、抵抗なんてなかった。

  彼女の指は、アタシの手を強く握り返してきた。

  その温もりは、アタシの指先を焼き焦がすほどに熱く、そして無防備だった。

  かかったわね。

  さあ、案内しなさい。あなたのその膨大な魔力を鍵にして。

  アタシたちの絶望の幕開けよ。

  [newpage]

  深夜のソルシエール魔法学校。

  威圧的にそびえ立つ正門の黒鉄は、冷ややかな月光を弾いて鈍く光っていた。

  アタシはツバを飲み込み、ポケットの中でカサリと音を立てる「爆弾」――ゴール旗の位置を神経質なまでに確認する。

  絶対に、杖に触れさせてはいけない。

  もし、禁書庫のようにあんなふざけた倍率で魔力が暴走すれば、潜入どころか、この正門周辺がクレーターに変わってしまう。

  「……静かにね、ミーティアさん」

  「ハ、ハイ……」

  アタシは杖を持つ右手を、不自然なほど身体の外側へ大きく逸らし、まるで汚いものでも摘むような手つきで錠前に杖先を向けた。

  脂汗がこめかみを伝う。

  極限まで出力を絞った解錠魔法。

  カチャリ。

  小気味良い音が響き、重厚な門が音もなく開いた。

  ……よかった。今回は更地にならずに済んだわ。

  アタシたちは影のように敷地内を滑り、校舎の裏手にある古びた煉瓦造りの塔へと向かった。

  蔦に覆われ、誰からも忘れ去られたような細長い塔。

  ここが、地下への入り口だ。

  錆びついた南京錠を、再び細心の注意を払って解錠し、重い木の扉を押し開ける。

  プゥン、とカビと湿気が混じった、数百年分の空気が吐き出された。

  暗闇の奥へと続く、魔獣一人通るのがやっとの螺旋階段。

  「足元に気をつけて。暗いから」

  「あ、あの……ミーの手、握っててもらっていいデスか……?」

  「ええ、もちろんよ」

  差し出された彼女の手は、小刻みに震えていて、汗ばんでいた。

  アタシはその小さな手を包み込み、暗い穴の底へと足を踏み入れた。

  ……

  カツ、カツ、とアタシの足を叩く音だけが、狭い空間に反響する。

  彼女の足音はしない。肉球のおかげか、気配すら消えているようだ。ただ、繋いだ手から伝わる速い脈動だけが、彼女の存在を主張している。

  どれくらい降りただろうか。

  螺旋の終わり、突き当たりに一枚の鉄扉が現れた。

  ここから先は、学校の管理区域ですらない。太古の昔から存在する、都市の土台。

  ギギギ……。

  蝶番が悲鳴を上げ、鉄扉が開く。

  途端に、肌にまとわりつく空気の質が変わった。

  ジメジメした湿気は消え、代わりに肌がピリピリと痺れるような、帯電した乾燥した空気が流れ込んでくる。

  煉瓦の壁は途切れ、剥き出しの岩肌が続く自然の洞窟へと景色が一変した。

  「……綺麗……」

  背後で、彼女が息を呑んだ。

  暗闇の中に、ふわり、ふわりと、青白い光の粒が舞い始めたのだ。

  蛍ではない。

  地脈から漏れ出した純粋な魔力の結晶。

  洞窟の奥へ進むにつれて、その数は一つ、また一つと増えていく。

  アタシが杖の明かりを消しても、もう足元は明るかった。

  空気中を漂う光の粒子が、アタシたちの頬を優しく撫でていく。

  触れると、パチンと微かな音を立てて弾け、甘い匂いを残して消える。

  「すごい……すごいデス、ラミアサン!」

  彼女の興奮が、繋いだ手を通して伝わってくる。

  ミーティアの大きな瞳孔が、極限まで開かれていた。

  その瞳の中で、無数の光の粒が銀河のように渦巻いている。

  ピンク色の長い睫毛に光の粒が止まり、彼女が瞬きをするたびに、星屑が零れ落ちるようだ。

  尻尾が左右に大きく振られ、アタシのドレスの裾をバシバシと叩く。

  「こんな景色、初めて見まシタ……! 地面の下に、こんな星空があったなんて!」

  「ふふ、そうでしょう? 地上の星なんて偽物よ。これが、この星の生命そのものの輝き」

  彼女はもう、恐怖なんて忘れていた。

  アタシの手を引く勢いで、光の奔流の中を突き進んでいく。

  その無垢な背中を見ながら、アタシは歪んだ笑みを深める。

  ええ、もっと奥へ。もっと深くへ。

  洞窟の狭い通路を抜けた瞬間、鼓膜がパキンと鳴った。

  気圧が変わったのではない。空間そのものの密度が、物理法則を無視して変質しているのだ。

  そこは、巨大なドーム状の空洞だった。

  天井は見えない。ただ、広大な虚無の底に、ありえない質量の「それ」が横たわっていた。

  水ではない。

  液体化した光だ。

  視神経を焼き切らんばかりの青白い輝きが、ドロリとした重い粘性を帯びて、ゆっくりと脈打っている。

  サラサラと流れる水とは違う。それはまるで溶けた水銀か、あるいは神の血液のように、ねっとりと重力に逆らいながら蠢き、地底のさらに深淵へと流れ落ちていく。

  ゴオオオオオォォォ……。

  耳ではなく、横隔膜を直接揺らすような重低音。

  地面を通して伝わる振動が、アタシの骨格をキシキシと軋ませる。

  肌に露出した部分が、チリチリと焼けるように痛い。空気中に充満した魔力があまりに濃すぎて、皮膚の表面で静電気のような火花を散らしているのだ。

  呼吸をするたびに、酸素ではなく、純粋なエネルギーの粒子が肺を焦がすような熱を感じる。

  アタシは無意識に喉元を押さえ、乾いた唇を舐めた。

  喉が渇く。

  本能が、目の前の圧倒的な「力」を飲み干したいと叫ぶ一方で、あまりの規格外な存在に、胃の腑が縮み上がるような恐怖を訴えている。

  瞳孔が、光量の変化に追いつけずに収縮と拡張を繰り返す。

  『星の井戸』。

  このふざけた都市を、何世代にも渡って支え続けてきた心臓部。

  その鼓動が今、アタシの心拍数すらも支配しようとしていた。

  「あっ……あぁ……」

  ミーティアはその場にへたり込んだ。

  あまりの光景の神々しさに、膝の力が抜けたのだろう。

  彼女の頬を、涙がつたう。

  それは悲しみの涙ではなく、魂が震えるほどの感動が生み出した雫。

  「星だ……本物の、星の川デス……」

  彼女は夢遊病者のように手を伸ばし、空中に舞う光の粒子を掴もうとした。

  その瞳は、もうアタシのことなど見ていない。

  目の前の「星」に魅入られ、心酔しきっている。

  完璧だわ。

  アタシはポケットの膨らみを愛おしげに撫でた。

  舞台は整った。

  さあ、始めましょうか。

  アタシは杖を握る手に力を込め、恍惚の表情で立ち尽くすミーティアの背中へと、音もなく忍び寄った。

  この莫大な魔力だまりに、彼女という生きた雷管を接続し、アタシの呪いを注ぎ込む。

  そうすれば、ソルシエは一夜にして地図から消え去る。

  勝利の味を幻視し、唇が自然と三日月の形に歪んだ。

  ――その時だった。

  アタシの指先が、彼女の華奢な肩に触れようとした、まさにその刹那。

  世界を満たす清浄な魔力の静寂を引き裂くように、異質な振動が空気を震わせた。

  ――ヴゥン、ヴゥン、ガリガリ……。

  低いモーターの唸りと、硬いものが擦れ合う無機質な振動音。

  こんな神聖な地下空洞に、自然界には存在しないはずの不協和音。

  アタシの背筋に、冷たい虫の這うような悪寒が走る。

  嫌な予感。

  アタシは星屑の幻覚に酔いしれて踊り出しそうなミーティアの襟首を無言で掴み、強引に岩陰へと引きずり込んだ。

  人差し指を唇に当てて「静かに」と合図を送る。

  彼女は不満げに鼻を鳴らしたが、アタシの剣呑な眼光に気圧されて大人しくなった。

  岩の隙間から、奥を覗き込む。

  そこにあったのは、この幻想的な青白い世界を冒涜するような、赤錆と油にまみれた「鉄の塊」だった。

  巨大なドリルを備えた黒い円筒形の機械が、まるで巨大な蚊のように、脈打つ地脈の光に突き刺さっている。

  透明な強化ガラスのパイプの中を、純粋な魔力がドロドロと吸い上げられていく。

  機械の側面には、角張った無骨な文字――キリル文字に似た、ロシアーニャの言語が刻印されていた。

  ……あいつら、ここまで手を伸ばしていたの?

  アタシは舌打ちを噛み殺す。

  ロシアーニャ。北の極寒の地で生き抜くため、魔法と科学の両方を発展させ、オトヌ地方とは異なる独自の体系を持つ謎の多い国家。

  魔力を吸い上げて何を企んでいるのかは知らないけれど、ろくなことじゃないはずだ。兵器の動力源か、あるいはこの都市の防衛結界を無力化するための解析か。

  アタシの脳内で、歯車が高速回転する。

  敵の敵は味方、とは言わないけれど、利用価値はあるかもしれない。

  奴らが地脈に干渉しているなら、アタシが手を下さずとも、少し細工をして暴走を誘発させれば――。

  「……痛がってマス」

  隣で、低い唸り声が聞こえた。

  ハッとして横を見る。

  ミーティアの瞳孔が、針のように細く収縮していた。全身の毛が逆立ち、喉の奥からフーッという威嚇音が漏れている。

  まずい。

  この空間に充満する濃密すぎる魔力に当てられて、理性のタガが外れている。いわゆる「魔力酔い」の状態だ。

  普段の弱気な彼女なら、こんな怪物じみた機械を見れば怯えるはずなのに。

  「星が、泣いてマス!!」

  制止する間もなかった。

  彼女は岩陰から弾丸のように飛び出すと、機械に向かって叫んだ。

  その華奢な身体から、ピンク色の魔力がスパークして弾ける。

  「やめてくだサイ! 星を汚さないでくだサーイ!!」

  ギギギ……。

  機械の天辺にあるセンサーのような赤いレンズが、即座に反応してこちらを向いた。

  無機質な銃口が、不気味な駆動音と共に鎌首をもたげる。

  躊躇も警告もなく、回転する銃身が火を噴こうとする。

  「この馬鹿ッ!!」

  アタシは反射的に杖を振った。

  魔力の糸でミーティアの腰を引き寄せ、彼女を自分の背後へと転がす。

  同時に、杖の先端で吠える宝玉から紅蓮の炎を迸らせた。

  「[[rb:不浄を清める煉獄の炎 > プルガトリウム・フランマ]]!」

  放射された炎の波が、機械を飲み込む。

  だが、アタシはすぐに奥歯を噛み締めた。

  本気で撃てば地脈に引火して大爆発を起こしかねない。威力を絞らざるを得ないもどかしさ。

  炎が晴れる。

  そこには、煤けただけで無傷の鋼鉄の装甲が鎮座していた。

  「なっ……!?」

  対魔術装甲。

  生半可な魔法など、熱風程度にしか感じない分厚い鉄の皮。

  しかも、中には誰も乗っていない。人の気配がしない。

  僅かな魔力を糧に自動で動く、感情を持たない殺戮人形。

  交渉も、威嚇も、精神干渉も通じない最悪の相手。

  円状に連結された複数の銃身を回転させながら、凄まじい勢いで弾丸が放たれる。

  銃撃が岩肌を削り、石礫がアタシの頬を切り裂く。

  痛い。熱い。

  防戦一方だわ。このままじゃ蜂の巣にされる。

  ……やるしかない。

  アタシは、背後で腰を抜かして呆けているミーティアを振り返った。

  この膨大な魔力タンクを、今ここで起爆させる。

  計画変更よ。こんな鉄屑ごと、都市もろとも吹き飛ばしてやる。

  アタシだけは、爆発の瞬間に転移で逃げればいい。

  アタシは杖を構え直し、彼女の魔力回路に干渉しようと左手を伸ばした。

  その時だった。

  ジュッ。

  ポケットの中で、肉の焦げるような高熱が発生した。

  「あつっ!?」

  太ももに焼きごてを当てられたような激痛。

  ゴール旗だ。

  触れていない。アタシは指一本触れていないはずだ。

  なのに、地脈の奔流とミーティアの感情の高ぶりに呼応したのか、あるいは単にこの場の魔力濃度が高すぎたのか。

  旗が、勝手に「確定」した。

  鼓膜をつんざく高周波音。

  アタシの意思とは無関係に、空間の魔力密度が桁違いに跳ね上がる。

  6倍? 60倍? いいえ、これは――。

  666倍。

  視界が、真っ白に染まる。

  制御不能。思考停止。

  これは爆発なんて生易しいものじゃない。オトヌ地方そのものが消滅する「崩壊」だ。

  「ロード――ッ!!」

  アタシは悲鳴に近い詠唱を叫ぼうとした。

  だが、その刹那。

  白い光の中で、ピンク色の影が動いた。

  「危ないデスッ!!」

  ドンッ、と身体を突き飛ばされる衝撃。

  ミーティアが、アタシに覆いかぶさっていた。

  彼女は自分に向けられた銃口も、迫りくる破滅の光も目に入っていないようだった。

  ただ、アタシを、自分を理解してくれた「友達」を守ろうと、その小さな身体で抱きしめてきたのだ。

  ――どうして?

  頬に触れる、彼女の頬の柔らかさ。

  鼻孔を満たす、甘いミルクと、焦げ付いたオゾンの匂い。

  そして、恐怖に震えながらも、決して離そうとしない腕の力強さ。

  その全てが、アタシの思考を白く塗りつぶしていく。

  音はもう、聞こえなかった。

  あまりのエネルギー密度に、鼓膜などとうに機能を失っていたのかもしれない。

  ただ、腕の中にいる彼女が、ふと顔を上げ、アタシを見たのが分かった。

  逆光の中で、彼女の唇がゆっくりと動く。

  声は届かない。けれど、その唇の形は、アタシの網膜に呪いのように焼き付いた。

  『――ありがとう』

  なによ、それ。

  アタシはあなたを騙したのよ。利用して、殺そうとしたのよ。

  なのに、どうして最期に、そんな聖女みたいな顔で笑うのよ――。

  「[[rb:停滞せし因果を呼び戻し、刻まれし刹那を現在へと再臨させよ > ロード・オブ・クロノスタシス]]ッ!!」

  ……

  ガタンッ!

  アタシは椅子を蹴倒して立ち上がっていた。

  荒い呼吸が、静寂に包まれた部屋に響く。

  埃っぽい空気。散らかった羊皮紙の山。インクの匂い。

  自分の工房だ。

  心臓が、肋骨を内側から殴りつけるように脈打っている。

  全身汗びっしょりで、ドレスが肌に張り付いて気持ち悪い。

  アタシは自分の身体をまさぐった。

  痛みはない。傷もない。

  ポケットの中の旗も、ただの布切れに戻って沈黙している。

  けれど。

  アタシは震える両手を、自分の胸の前で握りしめた。

  消えない。

  ロード魔法で世界を巻き戻したはずなのに。

  直前までアタシを包み込んでいた、あの猫娘の体温が。

  アタシを守ろうとした、あの必死な力の感触が。

  皮膚の表面に焼き付いて、幽霊のように離れない。

  「……なによ、あれ……」

  乾いた唇から、困惑の吐息が漏れた。

  最後に見た、彼女の顔。

  世界の終わりみたいな光の中で、彼女は泣きそうな顔で、それでもアタシの身を案じていた。

  アタシは、ただの「道具」として扱ったのに。

  彼女は、アタシを「友達」として守った。

  胸の奥が、熱い。

  旗の熱さとは違う。もっと粘着質で、甘ったるくて、どうしようもなく苦しい熱が、アタシの胸郭を締め付けていた。