【第十一話:八咫の契り 前編】

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  薄く茜色に染まりはじめた空の下、祓い屋【夕月庵】の三人は、田のあぜ道をゆっくりと歩いていた。

  「ね、ね、夕陽様! さっきの俺、カッコよかっただろ? 最後は俺のトドメの一撃、バシッと決まったし!」

  自慢げに身を乗り出す朱雀の尾が、得意げにふわふわと揺れている。後ろを歩く銀郎が「口を慎め」と呆れたように眉をひそめた。

  夕陽はそんなふたりを見て、ふふ、と穏やかに笑う。

  「そうだね。でも、“祓い”というのは、騒いだり、目立ったりすることじゃない。いつだって冷静に、静かに終わらせるのが理想なんだ」

  「でもさ、派手にやったほうがスカッとするじゃん?」

  「派手に、ではなく無駄に、だ。夕陽様の結界がなければお前もタダじゃ済まなかったんだぞ」

  「まぁ、お互い怪我がなかったのだから、それで良しとしようか」

  夕陽の穏やかな声が割って入ると、ふたりはぴたりと口を閉ざした。道沿いには風に揺れるススキが波打ち、虫の声がかすかに聞こえる。

  その時だった。

  「……あれは」

  ふいに夕陽が立ち止まり、すすきの中へと足を踏み入れた。足元に、何か黒いものが倒れている。近寄ってみると、それは――

  「カラス……?」

  体はまだ若く、小さな黒い烏。けれど、その脚は三本あった。

  「まさか……[[rb:八咫烏 > ヤタガラス]]?」

  銀郎が小声で呟く。朱雀も後ろから覗き込んで「マジかよ」と息を呑む。

  「驚いた……。神の使いだ。おまえ、飛べないのか?」

  夕陽はそっと烏を抱き上げる。羽はところどころ傷つき、呼吸は浅い。こんな姿になるまで、どこで、何と戦っていたのか。

  そうして夕陽たちは、いつもの依頼帰りに出会った奇妙な“客”を伴って、帰路についたのだった。

  夕月庵の奥の一室。障子の向こうから聞こえるのは、水の音と、包帯を巻く布の擦れる音。夕陽は静かに手当てをしながら、傷ついた烏に声をかける。

  「もう大丈夫だ。飛べるようになるまで、ここにいなさい」

  烏はじっと夕陽を見つめていたが、目を閉じるように小さく「カー……」と一声鳴いた。

  その鳴き声が聞こえたのは、それから一週間後の朝――

  空を仰げば、東雲に染まる大空を、あの三本足の烏が一羽、力強く羽ばたいていくところだった。

  その後ろ姿に、夕陽はそっと手を添えて見送る。

  「……行っておいで」

  この時、誰も知らなかった。

  あの烏が、やがて自分たちの運命を大きく揺るがす“鍵”であることを――

  ***

  あの八咫烏が飛び去ってから、数日が過ぎた。

  祓い屋【夕月庵】は、いつもの静かな日常に戻っていた。朝になれば掃除と祓いの支度、依頼の確認と、山の麓の里から届く文に目を通す。朱雀は庭で体を動かし、銀郎は薬湯の調合をしている。

  夕陽は、涼風の入る縁側に腰かけて、ひと息ついていた。

  ――その時。

  庵の門前で、ひとつ風鈴のような鈴の音が響いた。

  控えめでありながらも、妙に耳に残る音色だった。銀郎がすぐに気づいて戸口に向かうと、そこには見慣れぬ人物が一人、丁寧に頭を下げて立っていた。

  白を基調とした装束に、漆黒の羽織。長い黒髪をひとつに結い、紫の瞳はどこか人ならざる気配を纏っている。

  「祓い屋、四條夕陽殿にお目通りを願いたく、参上いたしました」

  その声は凛として澄み、文句のつけようがない礼儀作法だった。

  「どちらさまですか?」

  銀郎が顔をのぞかせると、使者はすっと名乗った。

  「我が主は、八咫の里を統べる者。名は[[rb:黒耀 > こくよう]]。先日、夕陽殿が保護された烏は、まさしく主その人にございます」

  空気が一瞬、凍る。

  「……あの烏が?」

  夕陽がゆっくりと立ち上がる。使者は深く頭を下げると、懐から巻物を差し出した。

  「このたびのご恩に報いるべく、主より直接の招待がございます。八咫の里へ、ぜひ足をお運びいただきたく」

  「招待……?」

  銀郎が鋭く問い返すが、使者はあくまで柔らかに微笑む。

  「歓待の意にございます。もちろん、ご同行者がいらしても差し支えはありません」

  ふいに、朱雀が身を乗り出す。

  「雀の恩返しならぬ、カラスの恩返しってか! 面白そうだし、行ってみよーぜ!」

  「朱雀」

  銀郎が少し咎めるように言ったが、夕陽は小さく笑った。

  「……急ぎの依頼も今は無いし、せっかくだからお言葉に甘えようか」

  こうして、三人は八咫の里へ向かうことを決めた。

  それが、自分たちの運命の歯車を、静かに、しかし確実に動かすことになるとも知らずに――。

  ***

  その朝、空は晴れていた。

  八咫の使者に導かれ、夕陽、銀郎、朱雀の三人は【夕月庵】を出発した。草木のざわめき、風に揺れる梢、耳慣れた山道を抜けていくと、やがて見慣れぬ霧が立ち込める峠道へと足を踏み入れる。

  「この先が、八咫の結界です」

  使者が、懐から一枚の紙札を取り出し、霧の中へそっとかざす。

  すると、霧が裂けた。白い帳が二つに割れ、まるで水面をくぐるような感覚と共に、まったく異なる空気が流れ込む。

  

  そこは――神域だった。

  蒼の空がどこまでも澄み渡り、鳥の声が低く遠くに響いている。大地は青々とした草に覆われ、奇岩と巨樹が交互に並ぶ。人工の気配は薄いが、整えられた道が続いていた。

  「なんか……空気が、違うな」

  朱雀が周囲を見回しながら呟く。

  「この結界は、外界の瘴気を拒み、千年以上守られてきたものです。八咫の里へようこそ」

  使者は一礼し、先導を続ける。

  しばらく進むと、集落が見えてきた。高台に並ぶ木造の建物、中央にそびえる社。人々の姿も見えるが、どこか閉じた印象を受ける。視線は静かに、しかし確かにこちらに向けられていた。

  やがて、広い屋敷の前で足が止まった。

  門が開かれ、すでに誰かが待っていた。

  黒髪に紫紺の瞳、漆黒の衣、背には大きな黒い翼――あの日、夕陽が助けた烏の人に紛れた姿。

  「……やっと来たか」

  黒耀の一言が、周囲に凛と響く。その目は、夕陽のことだけを見ている。

  「……だが、来てくれて良かった」

  黒耀は一歩前に進み、射抜くような眼差しを向けたまま、夕陽に深く頭を下げた。

  「――命を救ってくれたこと、礼を言う。どうしても、お前にここへ来てもらう必要があった」

  その声に滲んでいたのは、感謝というよりも、揺るがぬ覚悟と重い決意だった。

  夕陽はふっと笑みを浮かべ、黒耀の姿を見つめながら口を開いた。

  「……元気そうで、何よりでした」

  言葉に込められた温かな響きに、黒耀の瞳がかすかに揺れる。

  「さあ、着いて来い。歓迎の宴はもうすぐだ。お前たちにはしっかりと、俺がもてなしてやる」

  黒耀はそう言って、夕陽を無理に引き寄せるように館の中へと案内した。朱雀と銀郎は、その後ろを黙って従うしかない。

  夕陽たちが通されたのは、里の奥にある広間だった。天井は高く、壁際に火の玉のような淡い光がゆらめく。祭器や絵巻が飾られた荘厳な空間。にもかかわらず、部屋の中央には色とりどりの料理と酒が豪勢に並んでいた。

  黒耀は夕陽の手首を掴んだまま、堂々とした足取りで広間の奥へと歩いていく。その後ろ姿に、朱雀は肩をいからせ、銀郎はわずかに眉をひそめた。

  黒耀は、中央の座に腰を下ろすと、隣に当然のように夕陽の席を示す。

  「こっちだ、夕陽。お前は“特別”なんだからな」

  さらりとした言い回しに、空気が張りつめる。

  「……っ、は? なんで――」

  朱雀が低く唸るように口を開きかけたが、それを銀郎が目線一つで制した。

  夕陽は一瞬躊躇いを見せたものの、静かに黒耀の隣へと歩を進め、盃の並ぶ席に身を沈める。

  里の者たちが次々と酒を注ぎ、華やかな装いの踊り子たちが舞を披露し始める。笛の音が夜風に乗り、焚かれた香がほのかに漂っていた。

  「これが俺たちの“誓いの宴”だ」

  黒耀が静かに酒を口に運び、わずかに細めた目で夕陽の横顔を見つめる。

  「……お前がここに来たのは、偶然じゃない。俺はずっと、待っていた。“このとき”を」

  その言葉に、夕陽はふと盃を見つめたまま、短く息を吐いた。やがて、視線を逸らさず、静かに黒耀を見返す。

  「……縁とは、不思議なものですね」

  盃を手に取り、唇に触れさせる。

  「貴殿がどう思おうと、私がここに来た理由を決めるのは――私自身です」

  その声音に、とげはない。だが芯の通った、揺るぎない意志があった。夕陽の言葉は、里の祝いの熱気の中に、ひとしずくの静けさを落とした。

  黒耀はくぐもった笑みを浮かべ、杯を置くと、やや声を落とした。

  「これは盟約の宴――いや、“婚礼”にも等しいものだ」

  焚火の爆ぜる音が、沈黙の隙間を埋める。黒耀は声を荒げることなく、だが逃げ場を与えぬような確かな調子で続けた。

  「お前の力を、この八咫の柱とする。俺たちと生き、命運を共にしてほしい――それが、この宴に込めた願いだ」

  まっすぐに語られた想いに、朱雀の拳がわずかに震える。銀郎の瞳にも、鋭い光が走った。

  宴が進むにつれ、舞の拍子はゆるやかに、盃は次々と満たされていく。

  けれど、朱雀と銀郎は料理にも箸をつけぬまま、じっと席に座り続けていた。

  「気に入らないなら、無理に食わなくていい。俺は強制する気はない。だが――」

  黒耀は盃を傾けながら、ちらりと朱雀に視線を送る。

  その紫紺の瞳に射抜かれ、朱雀は睨み返すことも忘れるほどの重圧を感じた。

  「お前の怒りも、不安も、わかっている。……だが、それを俺にぶつけても、意味はないだろう?」

  「……黙れ」

  朱雀が低く絞り出すように吐き捨てた声は、焚火の揺らめきに紛れるほど微かだった。

  怒りに震える朱雀の肩を、銀郎がそっと押さえる。

  「朱雀。今は場を荒らすな。……夕陽様も、それを望んではいない」

  「っ……わかってるよ」

  朱雀は俯いたまま、強く拳を握りしめた。

  一方、夕陽はそんな二人をそっと横目に見やり、静かに盃を置いた。

  「黒耀殿。そろそろ本題を――宴のもてなしは、もう十分です」

  夕陽の言葉に、黒耀は一拍置いて、くつくつと喉を鳴らすように笑った。

  「……そうだな。酔わせるには、少々時間のかかる相手らしい」

  艶やかな微笑とともに黒耀は杯を置き、傍らに控える側近に手を振る。

  その合図で酒が下げられ、ざわついていた場がぴたりと静まり返った。

  「――さて、本題に移ろうか」

  その瞬間、場の空気が変わる。

  黒耀の眼差しが鋭さを帯び、静かな威圧がじわりと広がる。

  夕陽はわずかも逸らさず、その視線をまっすぐ受け止めていた。

  「恩返しという言葉に偽りはない。だが……それだけでは、足りなかった」

  低く響く黒耀の声に、朱雀と銀郎の背筋がわずかに強張る。

  「八咫の里を守る結界には、代々“誓い”が結ばれてきた。

  その結界が歪み、限界を迎えるとき――定めがある。“外より来たりし魂を捧げよ”。それが、災いを鎮めるという契りだ」

  「魂を捧げるって……」

  朱雀が息を呑む。銀郎は険しい顔で、黒耀を睨んだ。

  「つまり……“贄”ですか」

  黒耀は一瞬、沈黙を挟んだのち、静かに頷いた。

  「そう呼ぶ者もいる。だがな……俺は、その言葉を使いたくない」

  そう言って黒耀は、手を伸ばし、夕陽の頬へと指先を向けた。

  触れる寸前で止まったその指は、どこか優しさと熱を帯びている。

  「俺が惚れたのは、“贄”なんかじゃない――お前だ、夕陽」

  その言葉に、場の空気がぴんと張り詰める。

  朱雀の眉がわずかに跳ね上がり、銀郎は目を細めて黒耀を鋭く見据える。

  「……惚れた、とは。貴殿が私に?」

  夕陽が静かに問い返すと、黒耀は艶やかな笑みを浮かべた。

  「ああ。だからこそ、“俺の嫁”になってほしい」

  その場に、一瞬、風の音さえ止まる。

  「……っ、は?」

  朱雀が凍りついたように声を漏らし、銀郎が鋭い眼差しで黒耀を睨みつける。

  「……なるほど。ずいぶんと一方的な申し出ですね、黒耀殿」

  夕陽は動じぬ声で返す。その静けさに、黒耀はわずかに目を細め、口を開いた。

  「これは、俺の選択だ。――惚れた。だから、お前にいてほしい。

  八咫の未来のためでも、俺自身のためでも、どちらでも構わない。……ただ」

  低く響くその声が、宴のざわめきを静かに塗り潰していく。

  「お前が傍にいてくれるなら――この地も、俺も、救われる気がするんだ」

  まっすぐな眼差し。その奥に、先を見通す光が、静かに揺れていた。

  だが――

  「申し訳ありません。そのお申し出は、お受けできません」

  夕陽はそっと黒耀の手を避けながら、静かに続けた。

  「私の命は、父と母の願いによって生まれたもの。けれどそれは誰の為でもありません。――どう生きるか、誰の隣に立つかは、私自身が決めることです」

  「……意志、か。なるほどな」

  黒耀は笑みを浮かべたが、その瞳には冗談の色はなかった。

  「だからこそ、俺は――お前に選んでほしいんだよ。……俺を。この地を」

  その宣言に、朱雀の怒気が限界に達する。

  「ふざけんな……! 夕陽様は、そんなもんのためにここに来たんじゃねぇ!」

  ばっ、と立ち上がる朱雀を、銀郎がすかさず制止する。

  「やめろ、朱雀。今は――夕陽様の意志を、尊重すべきだ」

  朱雀は悔しげに唇を噛む。けれど――

  夕陽は、静かに首を横に振った。

  「私の返答は変わりません。……黒耀殿、申し訳ありません」

  一拍の沈黙ののち、黒耀は低く呟いた。

  「……そうか。まぁ、いい」

  その声音は、先ほどまでとは打って変わって冷ややかだった。

  紫紺の双眸から艶の色が消え、氷のように冷たい光を宿している。

  「だが、忘れるな。人間界への門は――我ら八咫の一族の力でしか開けぬ。“帰る”には、俺の許しがいるということだ」

  夕陽を真っ直ぐに見据えたまま、黒耀は振り返ることなく命じた。

  「……宴は終わりだ。案内しろ。客間に通せ」

  命じられた側近の青年が恭しく一礼すると、黒耀はそのまま背を向けて歩き出す。

  その背には、拒絶された怒りを沈めながらも、なお王としての威厳が滲んでいた。

  残された三人のもとへ、側近が静かに頭を下げる。

  「こちらへ。お部屋をご用意いたします」

  そうして、夕陽たちは黒耀の真意も知らぬまま、八咫の里の奥へと再び導かれていった――。

  宴の後、三人は屋敷の離れにある客間へと案内された。しばしの沈黙ののち、それぞれが椅子や寝台に腰を下ろす。

  客間とは呼ばれているものの、実際は八咫の儀式にも用いられる、神殿のような空間だった。

  天井は高く、壁には重厚な意匠が彫り込まれ、四方の柱には神具や古い文様が施されている。

  半透明の細工が施された硝子越しに、中庭から淡い月明かりが差し込み、石畳の床を青白く照らしている。

  夜の静けさと相まって、部屋全体にどこか荘厳な、息を呑むような静寂が満ちていた。

  だが、その沈黙に最初に耐えかねたのは朱雀だった。苛立ちを隠さず、声を上げる。

  「――あのクソガラス、恩返しとか招待だなんだ言っといて、結局夕陽様を利用しようとしてるだけじゃねぇかよ!」

  銀郎も、腕を組んで深く頷いた。

  「同感だ。しかし黒耀殿のあの様子だと、そう簡単に引き下がるとは思えない」

  その声に重ねるように、夕陽がぽつりと呟く。

  「神へ贄を捧げる風習は、古くからあるものだが……“嫁として差し出す”とは、少々風変わりだな」

  どこか他人事のような声音に、朱雀がぎゅっと拳を握りしめ、不安げに夕陽の顔を覗き込む。

  そんな朱雀の頭に、夕陽が静かに手を伸ばした。

  「……心配するな。私は嫁にはならん。お前たちと一緒に帰るよ」

  優しく撫でられた朱雀の耳がぴくりと動く。

  その言葉が、彼にとって何よりの救いだった。

  続く