【第七話:朱と銀の誓約 前編】

  (※こちらは全年齢版です。R指定完全版は別で置いてあります)

  「祓い屋様、本当にありがとうございました。まさか、あの不気味な音の正体が付喪神様だったなんて……」

  付喪神とは、百年以上大切にされた道具に宿る、神性を帯びた存在のことだ。

  「ええ。彼らは人の想いに応え、幸運をもたらすことこそあれ、決して害をなすものではありません。どうか、これからも末永く、大切になさってください」

  「曾祖父から譲り受けたこの薬研、大事にいたします」

  依頼を無事に終えた帰り道――

  いつものように、夕陽は銀郎と朱雀と共に、馴染んだ山道を歩いていた。日が傾きかけた木漏れ日の中、柔らかな風が吹き抜ける。

  けれど、その静けさを破るように、ふいに、夕陽がぐらりとよろめいた。

  「夕陽様……?」

  朱雀が慌てて駆け寄る間もなく、夕陽の身体は崩れるように地面に倒れた。

  銀郎も顔色を変えてすぐさま駆け寄り、その身を支える。

  「夕陽様、しっかり……!」

  夕陽は薄く目を開けたものの、脂汗を滲ませ、唇は蒼白に乾いている。

  それでも、苦しい呼吸の合間に、かすれた声で言った。

  「……大丈夫、だ……」

  とても、そうは見えなかった。

  朱雀と銀郎は顔を見合わせ、不安で胸を締めつけられる。

  「すぐに医者を呼ぶ。夕陽様を頼む」

  「ああ、分かった!」

  銀郎は立ち上がると、駆けるように町医者のところへ飛び出していった。

  朱雀は抱えるようにして夕陽を屋敷まで運ぶと、すぐに布団を整え、そこへ横たえた。

  掛け布を丁寧に掛け、額に滲む汗を拭う。

  「夕陽様……」

  朱雀は、静まり返った部屋で、泣きそうな顔でじっと夕陽の寝顔を見つめる。

  苦しそうな顔。

  何度も見た、戦いの傷とは違う。

  目に見えない痛みに蝕まれる、こんな表情を、朱雀は初めて見た。

  指先が震える。

  この手では、夕陽を守れないのかと、無力さが胸を締めつける。

  銀郎が医者を伴い、急いで屋敷の門へと戻ってくる。

  だが――門の前には、見慣れた男が立っていた。

  「兄上……?」

  暗がりの中、立ち尽くす夕陽の兄、朝影。

  朝影は銀郎に気づくと、僅かに口角を上げた。

  「胸騒ぎがしたから来てみたが、やっぱりか」

  その声は、いつになく重い。

  朝影は無精髭を撫でながら小さく息を吐いた。

  「兄上っ、先ほど夕陽様が急に倒れて……っ」

  銀郎は状況を説明しようとしたが、朝影はちらと医者を見やると、首を振った。

  「無駄だ」

  「……え?」

  驚く銀郎に構わず、朝影は冷たく言い放つ。

  「あれは病気じゃねぇ。呪詛だ。人の医者にできることはねぇよ」

  言うが早いか、朝影は医者に金子を握らせると、手短に事情を告げて帰らせた。

  医者は戸惑いながらも、頭を下げ、引き返していった。

  ***

  ――玄関の戸が、勢いよく開いた。

  飛び出してきたのは朱雀だった。

  「……っ、先生っ!」

  そう叫びながら、顔を上げた朱雀の目に飛び込んできたのは、医者ではない。

  そこにいたのは、黒髪を後ろで括った無精髭の男――

  「……朝影の……兄貴?」

  戸惑いに眉をひそめる朱雀に、朝影は短く言った。

  「ちょいと、邪魔するぜー」

  朱雀は銀郎の表情を見て、何かを察したようだった。

  奥の座敷にたどり着くと、夕陽は布団の上で浅く息をしていた。

  額には脂汗が浮かび、眉をひそめた顔は、普段の凛とした姿からは想像もできないほど苦しげだった。

  「……夕陽様……」

  朱雀の声は、震えていた。

  銀郎も、沈痛な面持ちで夕陽の傍らに膝をつく。

  そんな二人を、朝影は鋭く見据えた。

  「……お前ら、ちょっと話がある。こっち来い」

  低い、威圧感を帯びた声が座敷に響く。

  朝影に促されるように、二人は応接間まで足を運んだ。

  応接間の、どこか湿った空気の中。

  朝影は壁にもたれ、懐から煙管を取り出すと、ゆっくりと火入れから炭を取り、刻み煙草に火を移した。

  パチ、と小さな音を立てて火が走り、朝影は目を細めてひと口吸う。

  細く吐き出された煙が、古びた空間に静かに広がっていった。

  「……四條家はな。元はそこそこ名の知れた祓い屋の家筋だった」

  ぽつりと、口を開く。

  「だが十数年前、とある祓い屋の逆恨みを買ってな……。

  家の衰退を狙った呪詛をかけられた」

  朱雀と銀郎は、無言で耳を傾ける。

  朝影は視線を宙に泳がせながら、続けた。

  「……そいつの名は、篠宮朧雅。ただの祓い屋じゃねぇ。裏では銀妖狩りの部隊まで抱えて、銀妖の血肉を使って秘薬や呪物を作ってたような、どうしようもねぇ外道だった」

  銀郎が、びくりと体を強ばらせる。

  朝影は、ちらりと銀郎を一瞥し、低く言葉を続けた。

  「銀郎。……お前の母親を殺したのも、そいつらだ」

  ぐさりと突き刺さる言葉に、銀郎は拳を握りしめる。

  「……その銀妖狩りを止めようとしたのが、俺たち四條家だった。

  だが逆に目をつけられて、呪詛を仕掛けられた」

  煙管を持つ朝影の指が、微かに震えていた。

  「本来は、俺が狙いだった。けど、あの日、俺は外に出ていてな。家にいた夕陽が……代わりに、呪いを喰らっちまった」

  短く息を吐き、朝影は続けた。

  「……それで、呪いを受けたあいつは、正気を失った……。父親と母親、それに、まだ幼かった末の弟まで――自分の手で、殺しちまったんだ」

  応接間に、重苦しい沈黙が落ちた。

  朱雀は凍り付いたように動けず、銀郎も、信じられないという表情を浮かべている。

  「……何も、わかっちゃいなかったんだろう。

  目の前にいる相手が誰かも、自分が何をしているかも……。ただ、呪いに操られて、目の前の命を殺せって衝動に、抗えなかった」

  朝影は、わずかに目を伏せた。

  「目を覚ました時には、もう全部……。

  血まみれの家で、一人、立ち尽くしてた」

  ――そして最後に夕陽自身を殺そうとした。

  『――――夕陽ッ……やめろ――!!!』

  朝影の声が震える。

  沈黙が、重く応接間を包んだ。

  銀郎が低く問う。

  「……それで、兄上は」

  「俺の左目に、呪いを封じた」

  銀郎も朱雀も、視線を朝影の左目に向ける。

  そこには、いつものように黒い眼帯が巻かれていた。

  「完全には封じきれなかった。今も、夕陽には呪いの残痕が纏わりついてる」

  朱雀は夕陽の優しい眼差しと温かい手を思い出し、震える声で言う。

  「……そんな……なんでだよ……夕陽様が何したっていうんだよ……」

  「馬鹿だよな……、誰にも助けを求めず、ただ、黙って全部背負った。そうして今も、命を削るように祓い屋を続けてやがる」

  朝影は、煙管を一口燻らせ、ふうと煙を吐いた。

  誰に向けるともなく呟かれたその言葉が、朱雀と銀郎の胸に深く突き刺さった。

  「……あいつ自身、気付いてんだ。それでも無理に笑って、平気な顔してやがる……。だけど、今日みてぇに、呪いが暴れ出せば、どうにもならねぇ」

  朱雀は荒い呼吸のまま、朝影に一歩詰め寄った。

  「教えてくれ! どうしたらいいんだ? どんな方法でもいい、どんな危ねぇことでもやるから、夕陽様を救う方法を教えてくれ……ッ!」

  震える声に、必死の想いが滲む。

  銀郎も黙って隣に立ち、朝影を見据えた。

  「……お前ら」

  その声には、僅かな哀しみと、覚悟が滲んでいた。

  「お前ら、あいつのために命を捧げる覚悟はあるか?」

  朱雀は迷いなく頷いた。

  銀郎も静かに、しかし確かな意志を込めて応じた。

  「当たり前だ」

  「夕陽様のためなら、惜しくはありません」

  その言葉を聞いてから、朝影はわずかに視線を伏せ、煙管の先をそっと灰吹へと傾け、燻る火を落とした。

  そして、一拍置いて、驚くような言葉を告げる。

  「……だったら、あいつと寝ろ」

  「……は?」

  「……え?」

  声が揃う。

  一瞬、空気が固まった。

  思わず目を見合わせ、二人の銀妖がこそこそと耳打ちを始める。

  「なぁ、あのオッサンいくつだっけ?」

  「耄碌するにはいささか早いと思うが……」

  「おい、聞こえてんぞー」

  朝影は胡座をかいたままため息をつき、だがその目だけは、真剣だった。

  「……ふざけちゃいねぇ。これは“術”だ。魂の繋がり――つまり、身体を交わすことで、呪いの重荷を分け合える。完全に癒えるわけじゃねぇが、今みてぇな苦しみからは、多少、解放してやれる。術者を葬れば呪いは解けるが、それまでは夕陽の命が持たねぇ」

  朱雀と銀郎は言葉を失った。

  にわかには信じられず、返す言葉も見つからないまま、沈黙が流れる。

  それでも、朝影は続けた。

  「……夕陽を助けたくて、俺はずっとヤツを追ってた。だが、なかなか尻尾が掴めねぇ。

  俺一人じゃ、もう限界なんだ。昔はそれでもどうにかなったが、今の呪いは……深ぇ。あいつの中に巣食ったものは、もう、他者の“命”を媒介にでもせにゃ抑えきれねぇ」

  目の前の男の声音に、冗談の欠片もない。

  朱雀の拳が、膝の上で震えた。

  何度も何度も、助けたいと願ってきた。

  目の前で苦しむ夕陽を救うためなら、どんな手段でも、と誓ってきた。

  けれど。

  けれど、まさか――こんな形で、その覚悟を試されるとは。

  胸の奥で、何かがざわめく。

  動揺と、戸惑いと、そして……何より、譲れぬ想いが、せめぎ合う。

  銀郎もまた、視線を伏せ、長い睫毛の影に揺れるものを隠していた。

  ***

  夕陽は依然、昏睡したままだった。

  時折、喉を詰まらせるように苦しげなうめき声をあげ、額には絶え間なく汗が滲んでいる。

  朱雀はその傍らに膝をつき、濡らした手拭いで額を拭いながら、介抱を続けていた。

  「……銀郎。俺は、やるよ」

  絞り出すように告げる朱雀の声は、かすれていた。

  「それで、夕陽様を救えるなら――俺は、なんだってやる」

  その言葉に、銀郎が咄嗟に朱雀の腕を掴んだ。

  力が入っていた。必死に、引き止めようとするように。

  「待て」

  低く押し殺した声で銀郎が言う。

  「……何だよッ!」

  朱雀が振り払おうとするが、銀郎は離さない。

  「あんな話、簡単に信じていいのか……! もし、もし間違っていたら……どうする……!」

  銀郎の声が震える。

  「夕陽様に、もっと……取り返しのつかないことになったら――」

  朱雀は腕を強引に引き抜いた。

  その目には、怒りと、滲む涙が宿っている。

  「じゃあお前はこのまま、何もせず、夕陽様が死んじゃってもいいんだなッ!!」

  痛烈な言葉だった。

  銀郎は言葉を失い、拳を握りしめる。

  「……違う……ッ」

  かすれた声で、銀郎は答えた。

  「私だって……助けたいに決まってる……! けど、焦って間違えたら、夕陽様を……傷つけるかもしれないだろッ……!」

  「でももうそんな悠長なこと言ってる場合じゃねぇだろッ……! 今こうしてる間にも夕陽様の命がどんどん蝕まれてんだぞッ!!」

  怒りではない、どうしようもない不安と恐怖に押しつぶされそうになっていた。

  けれど朱雀は、迷わなかった。

  朱雀にとって、答えは一つだけだった。

  「……あっち行ってろよ……。そういう趣味があんならいてもいいけど」

  朱雀は自分の着物の上だけ脱ぎ去ると、布団の上掛けをそっとめくって、慎重に夕陽に覆いかぶさった

  朱雀の手が夕陽の襟元に添えられる。

  そっとその首筋に唇を寄せた。

  「ごめんな……夕陽様……。辛いかもしれねぇけど……少しだけ、我慢してくれ」

  銀郎は拳を握りしめたまま、しばらく動けず佇んでいたが、唇を噛み締めて目を背け、後ろ髪を引かれるようにして部屋を後にした。

  苦悶に呻く唇を塞ぐように、祈るような気持ちで口付けを交わす。

  汗を掬い取るように舐め、朱雀はそっと夕陽の喉元に指を這わせた。

  触れることすら畏れ多いと、震える指先。

  けれど――救いたかった。たとえ、どんな咎を背負うことになろうとも。

  「……夕陽様……」

  朱雀は掠れた声で名前を呼び、涙混じりの吐息を落とした。

  ――体温を分けるように、呪いを半分、自分に引き寄せる。

  それが、たとえ一時の慰めでしかなかったとしても。

  朱雀は震える手で夕陽の着物を少しだけはだけさせると、その白い肌に頬を寄せた。

  苦しそうに眉を寄せる夕陽の顔に、朱雀はもう一度、そっと口付けを落とした。

  荒れる吐息を受け止めるように、自らも呼吸を合わせ、そっと身体を寄せていく。

  優しく、優しく。

  壊れ物を扱うように、朱雀は夕陽に触れた。

  「……俺が、一緒に背負うから……」

  だからどうか置いていかないで。

  震える声が、闇に消える。

  朱雀の肌に、夕陽の熱がじんわりと移っていく。

  額を擦り寄せ、指を絡め、必死で繋がろうとする。

  これ以上、夕陽が苦しまないようにと。

  これ以上、夕陽が一人きりにならないようにと。

  朱雀は、愛おしさと痛みの入り混じる感情を、ただ、祈るように口付けに込めた。

  そのとき――微かに、かすれた声が漏れる。

  「……す、ざく……?」

  はっとして顔を上げると、夕陽の睫毛が震え、焦点の定まらない目が朱雀を捉えようとしていた。

  「夕陽様……!」

  朱雀は震える声で呼びかける。  けれど、夕陽は苦しげに首を振った。

  「……! やめてくれ、朱雀……、お前を……穢したくない……」

  弱々しいその声は、痛々しいほどだった。  自分がどれほど苦しくとも、朱雀を巻き込みたくない――そんな、夕陽の変わらぬ優しさが滲んでいる。

  朱雀は、そっと夕陽の手を取った。

  そっと、強く、両手で包み込む。

  「夕陽様……俺は、夕陽様に触れられるなら、汚れてもいい。穢れるんじゃねぇ……光だよ」

  言葉を絞り出すように、朱雀は告げた。

  苦しみも痛みも、すべて半分こでいい。ただ、夕陽を独りにしたくなかった。

  「夕陽様が、どんなになったって……俺は、絶対、手を離したりしねぇ」

  どれほど重なり合っただろうか。

  しばらく、互いに何も言えなかった。

  ただ静かに、朱雀は夕陽を抱きしめ、額を擦り寄せた。

  魂が、確かに繋がった――そう感じた。

  そして、朱雀の腕の中で、夕陽が微かに、安らかな寝息を立て始めた。

  「……夕陽様……」

  泣き笑いのような声を漏らしながら、朱雀はしっかりとその身体を抱き締めた。

  誰にも、奪わせないと願いながら、救いたいとも願う。

  矛盾する想いが、胸の奥で静かに溶け合っていった。

  ***

  夜の縁側に、ひとり、銀郎は座り込んでいた。

  冷えた木の感触が、背に、手に、無機質に伝わる。

  額を膝に押し当てるようにして、動けずにいた。

  どれほどの時間が経っただろう。

  ふと、微かな気配に顔を上げる。

  そこにいたのは――

  上半身裸の朱雀だった。

  夕陽の布団に掛けていた羽織だけを、無造作に引っかけたような格好で、

  朱雀は裸の肌を夜気にさらしたまま、無言で立っていた。

  乱れた髪、上気した肌。

  銀郎の脳裏に、否応なく、朱雀が夕陽と交わった光景が浮かぶ。

  「……っ」

  銀郎は咄嗟に顔を背け、強く目を閉じた。

  胸の奥が、焼けるように苦しい。

  朱雀は、そんな銀郎に近づくと、縁側に腰を下ろした。

  夜風が、二人の間を抜けていく。

  「……銀郎」

  朱雀の声は、低く掠れていた。

  けれど、はっきりとした強さがあった。

  「夕陽様、さっきより顔色が良くなった。……今は、穏やかに眠ってる」

  銀郎は、ゆっくりと顔を上げた。

  朱雀は、膝に肘を乗せて、真っ直ぐ銀郎を見ている。

  その紅い瞳は、ひどく鋭く、険しかった。

  「……俺は代わりに、呪いをもらった。けど……こんなん、夕陽様が背負ってた痛みに比べたら、屁でもねぇ」

  そう言って、朱雀は、自分の胸元を指でなぞった。

  薄く、黒い痣のような呪いの痕が、肌の上に滲んでいる。

  「銀郎。……お前だけは、夕陽様に触れることを許す」

  朱雀の声音が、さらに低く、重くなる。

  「少しでもあの人の痛みが、和らぐなら。……俺は我慢する。……それだけは、決めた」

  銀郎は、朱雀の言葉に、痛む胸を押さえるように拳を握った。

  朱雀の覚悟が、痛いほど伝わる。

  「……どうするかは、お前が決めろ」

  朱雀は立ち上がる。

  その鋭い視線は、夜闇よりも冷たく、熱かった。

  「俺は――」

  唇を噛み締め、朱雀は吐き捨てる。

  「……夕陽様をあんな目に遭わせた、あの外道祓い屋を、ぜってぇ許さねぇ。必ずぶっ潰してやる」

  紅い尾が、怒りに震えていた。

  銀郎は、その背を見送ることしかできなかった。

  ――心の奥で、燃え広がる想いを、押し殺しながら。

  続く