【第六話:杜鵑草の咲く頃に 後編】

  ふらり、ふらりと足を引きずるように、銀郎は川べりを歩いていた。

  濡れた草が、素足を冷たく撫でる。

  けれど、そんなことに気を向ける余裕など、とうに失っていた。

  ──行くあてなど、どこにもなかった。

  それでも、どうしても。

  あの人のもとには、戻れないと思った。

  あの、夕陽という男に助けられて。

  あの温もりに包まれたのに。

  嫌悪と、拒絶と、どうしようもない感情が、胸を濁らせる。

  ……人間など、嫌いだ。

  なのに、どうして……。

  足取りはおぼつかず、視界もぼやけていく。

  生きる力も、歩く理由も、すべて手のひらから零れ落ちるようだった。

  その時──。

  「……母、様……?」

  微かな声が漏れた。

  川面に目をやれば、そこに、死んだはずの母親が立っていた。

  優しい眼差しで、銀郎を見つめている。

  あの日と同じ、あの温かい声で。

  「──銀郎、こちらへおいで」

  呼ばれるまま、銀郎は一歩、また一歩と川へ踏み出した。

  濡れた水面に足を取られながら、胸に広がるのは、奇妙な安堵だった。

  これで、やっと。

  やっと、母様に、会える──。

  差し出された母の手に、自らの手を重ねようとした瞬間だった。

  どろり、と。

  川底から黒い何かが湧き上がった。

  無数の小さな黒い手が、銀郎の足首を掴み、引きずり込もうとする。

  息が、できない。

  苦しい。

  視界が、暗く染まる。

  それでも、銀郎の心は、不思議と静かだった。

  ああ──これでやっと、楽になれる。

  薄れゆく意識の中で、銀郎は静かに瞼を閉じた。

  

  だが。

  

  「────君!!」

  怒鳴り声とともに、鋭い水音が弾けた。

  瞬間、腕を引かれ、銀郎は水中から引きずり出される。

  力のない身体を、必死に支え上げるその手は、夕陽だった。

  夕陽が、銀郎を抱き締めていた。

  「ゴンベエっ!!」

  「朱雀っ、頼む……!」

  朱雀が銀郎の服を掴み岸に引っ張り上げる。

  だが呼吸がない。肌は恐ろしいほど白く、唇が紫色になっている。

  「夕陽様! こいつ息してない……!」

  夕陽はすぐに心肺蘇生を施し始める。

  荒く、必死な動作だった。

  朱雀が、背後で必死に呼びかけ、手助けをしている。

  「頼む、目を覚ませ──!」

  夕陽の掌が銀郎の胸を押し、何度も、何度も。

  人工呼吸を繰り返す。

  どれほどの時が経ったか。

  銀郎の口から、ごぼり、と水が吐き出された。

  呼吸が戻った。

  喉が苦しげに、かすれた声を漏らす。

  銀郎は──生きていた。

  銀郎の体に命が戻っていく。

  か細く震える睫毛が、一度だけピクリと動いた。

  夕陽は、微かに安堵しながら銀郎を抱き寄せた。

  冷たい、けれど確かにまだ温かい命を、この手に。

  だが──。

  「なんで……、どうしてだよ……」

  次の瞬間、銀郎は怒りに震えた声をあげた。

  かすれた喉で、必死に吐き出すように。

  「もう少しで……母様の所に行けたのに……っ、余計なことするな……!!」

  振り上げた腕が、夕陽の胸を弱々しく叩いた。

  震えながら、幾度も、幾度も。

  顔をぐしゃぐしゃに歪め、声を震わせ、泣きながら銀郎は訴えた。

  苦しくて、悲しくて、どうしようもない痛みを、その小さな拳に込めて。

  夕陽はその全てを、黙って受け止めた。

  拒むことも、言い返すこともなく。

  しばらくして、銀郎の叩く手も、すすり泣く声も、力を失ったように止まった。

  そんな銀郎の髪を、そっと撫でながら、

  夕陽は低く、静かに言った。

  「──すまない」

  それだけを、心から。

  ただ、ぽつりと告げた。

  「君に、生きていて欲しかった」

  その声音には、押しつけがましい感情も、見返りも、何もなかった。

  ただ一つの命を、無条件に願っただけの、真っすぐな想いだった。

  ***

  相変わらず銀郎の口数は少なかったが、それでも、僅かな変化は確かにあった。

  体力が戻ってからというもの、彼は夕陽の行動をまるで観察するように、障子の影からじっと見つめていることが増えていた。

  それに気づいた夕陽は、微笑みながら声をかける。

  「君も、やってみるかい?」

  一瞬戸惑うように視線を逸らした銀郎だったが、おずおずと無言で頷く。

  料理、薪割り、火の起こし方から掃除洗濯に至るまで──彼がやりたそうにしていたら、夕陽はひとつひとつ、丁寧に教えてやった。

  今日は、魚の三枚おろしに挑戦していた。

  「……こう?」

  「うん、そう。上手だね」

  夕陽に褒められ、銀郎はわずかに目を伏せる。

  その微かな変化を、朱雀が見逃すはずもなかった。

  「あっ! 今ゴンベエ、笑った!」

  「笑ってない! それに、俺はゴンベエなんて変な名前じゃない!!」

  「おいおい、いま国中のゴンベエさんに喧嘩売ったぞ?」

  「売ってない! お前が変なこと言うからだ!」

  「じゃあさ、なんて名前なんだよ?」

  朱雀に詰め寄られ、銀郎はしばらく口ごもったあと、しぶしぶと小声で答える。

  「……ろう」

  「は? なんだって?」

  聞き返され、銀郎はむきになって叫んだ。

  「銀郎だよ……このバカ!」

  「バカは余計だろ、バカは!」

  にぎやかなやり取りを眺めながら、夕陽は肩を揺らして、穏やかに笑った。

  ──その笑顔を、銀郎は、ちらりと横目で盗み見て、小さく笑った。

  ***

  その日、三人は山菜と茸を採りに森へ出かけていた。涼やかな風が木々の間を吹き抜け、銀杏の葉がひらひらと舞い落ちる。秋の深まりを感じさせる、静かな昼下がりだった。

  朱雀は元気よく茸を探しながら歩き、夕陽は銀郎に何かと気を配りつつ、手際よく手伝いを頼んでいた。

  銀郎はといえば、他の二人に比べるとまだぎこちなかったが、少しずつ森の歩き方にも慣れ始めていた。彼はどこか遠慮がちに、しかし確かに二人の後を追い、静かに足を運んでいた。

  ふと、銀郎は足元に目を留める。

  木の根元にひっそりと生えたキノコを見つけ、何気なく手を伸ばしかけた、その瞬間――

  「待って」

  鋭く、それでいて柔らかな夕陽の声が、空気を切り裂いた。

  反射的に銀郎の手首を掴んだ夕陽の指は、思いのほか強く、しっかりと銀郎を引き止めた。

  驚いて顔を上げた銀郎に、夕陽は真剣な眼差しで告げる。

  「それは毒キノコだよ。触れると皮膚がかぶれるから、触らないほうがいい」

  夕陽の手の温もりと、まっすぐな声音。

  そのすべてが、銀郎の胸に強く響いた。

  ――守ろうとしてくれている。

  ふいに、銀郎の胸の奥で、何かがひび割れる音がした。

  幼い頃、母が彼を守るために注いだあの優しさと、今の夕陽の仕草が重なって見えた。

  銀郎は、はっと息を呑む。

  ――ああ、この人は。

  ――『守ってくれる人』だ。

  それに気づいた瞬間、張り詰めていた心の糸が切れた。

  「……銀郎?」

  「……うっ、うっ、うわぁぁぁぁぁんっ……う、ううっ……ひっく……っ…………」

  堰を切ったように、涙が溢れた。

  涙が頬を伝い、声にならない嗚咽が漏れ出す。

  朱雀はその様子に驚き、呆然と立ち尽くした。

  けれど、どうしたらいいのかわからず、困ったように夕陽を見上げる。

  夕陽は何も言わなかった。

  ただ静かに、泣きじゃくる銀郎を胸に抱き寄せ、その背を優しく、ゆっくりと撫でた。

  言葉ではなく、手のひらで伝える――

  『大丈夫だよ』という想いを、ただ静かに、確かに。

  夕陽の胸の中で、銀郎はいつしか涙を流し尽くし、静かな眠りに落ちていった。

  母を失って以来、初めての、穏やかな眠りだった。

  銀郎を布団に寝かせ、肩まで上掛けをかけてやったあと、音を立てないようにゆっくり襖を閉めた。

  「……少し落ち着いたか?」

  「うん、泣き疲れて眠ってしまったよ。今までずっと我慢してたことが、一気に溢れたんだろうね」

  「そっか……。でも、少しでも前を向いて生きていけるといいな。俺みたいに」

  夕陽は、朱雀の頭を優しく撫でながら、静かに言った。

  「そうだね。ありがとう、朱雀。」

  「ヘヘっ……」

  朱雀の顔に、ほっとした笑顔が浮かぶ。何も言わなくても、伝わる温かさが二人を包み込んでいた。

  ***

  夕陽の家で過ごす時間も少しずつ銀郎にとって、心地よくなってきていた。

  銀郎の怪我は痛々しい跡こそ残ったものの、すっかり良くなり、痩せ細った体には年相応の肉が付き、元気を取り戻した日々が続いていた。

  前はあまり口を開かなかった彼も、最近は夕陽と朱雀と一緒に過ごす時間に、少しずつ笑顔を見せることが増えてきていた。

  ある日の昼下がり。庭に吹く風が心地よく、銀郎は夕陽の近くで、何気ない日常を過ごしていた。木々の間を通り抜ける風が、彼の髪をそっと揺らす。

  夕陽はその様子を見ながら、少しずつ言葉を切り出す。

  「……銀郎は、どこか帰る場所はあるのかい?」

  その言葉に、銀郎は不安げに顔を曇らせた。帰る場所と言われても、母と暮らしていた里もどこにあるのかわからないし、どこにも行く宛などなかった。

  「もし君さえ良かったら、ここで一緒に暮らさないか?」

  その言葉に、銀郎は目を見開いた。驚きと戸惑いが入り混じった顔で、夕陽を見つめる。

  「ここで、ずっと……?」

  「うん。君がここで安心して過ごせるなら、私も嬉しい」

  夕陽の言葉には、強い決意と深い優しさが込められていた。銀郎は言葉を飲み込み、しばらく黙ったままでいたが、意を決したように口を開いた。

  「……じゃあ、ここにいる。でも、俺、あなたに迷惑かけないようにする」

  「そんなこと、気にしなくていいよ」

  夕陽は穏やかに笑い、銀郎の頭をそっと撫でる。その手のひらに、銀郎は自分の気持ちが温かく包まれていくのを感じた。

  その後、二人は庭で並んで座り、静かな午後の時間を過ごした。銀郎は、初めて感じる安心感に包まれて、少しだけ心を落ち着けることができた。夕陽がそばにいるから、怖くない、何もかも大丈夫だと思えた。

  守りたい。

  今度は、自分が――。

  この場所を、この人たちを、守れる存在になりたい。もっと、もっと強くなりたい。

  翌朝――。

  まだ少し寝ぼけまなこの夕陽の前に、銀郎がきちんと膝を揃えて正座し、静かに深々と頭を下げた。

  「夕陽様。今日から側仕えとして、改めてよろしくお願いいたします」

  思いがけない宣言に、隣で毛布にくるまっていた朱雀が、目をぱちくりさせながら素っ頓狂な声を上げる。

  「え、なに? どうなっちゃってんの??」

  夕陽もまた、寝癖のついた髪を手ぐしで乱雑に直しながら、ぽかんと銀郎を見つめた。

  「う、うーん……?」

  寝起きのぼんやりとした頭では、すぐには事情が飲み込めない。

  それでも、銀郎が向けてくるまっすぐな眼差しには、どんな眠気も吹き飛ばすほどの、強い意志の光が宿っていた。

  迷いなく、真っ直ぐに――。

  その清らかな決意に、夕陽はふっと目を細め、銀郎の頭にそっと手を置いた。

  「……こちらこそ、これからよろしく頼むよ、銀郎」

  大きな手のひらのあたたかな重みが、銀郎の髪越しに心にまで沁みた。

  銀郎の小さな胸の奥で、またひとつ、守りたいものが増えた気がした。

  第六話:杜鵑草の咲く頃に 完