初めて大声で泣く雪をみたネロは、雪が疲れて寝てしまうまで、雪を優しく抱きしめていた。やがて雪は、スヤスヤと寝息を立てて寝た。ネロはそんな雪を優しく抱きかかえて、子供たちの部屋を出て、離れた部屋のベッドに連れて行く。
子供たち、伊織と彩葉は子供用のベッドで安心したように「むにゃむにゃ」と言いながら寝ている。しかし、傷だらけの雪を手当てしてやりたかったし、何より血の匂いがしたら、獣人の子供なら起きて泣きだしてしまう。母親である雪なら、その声ですぐに目を覚ましてしまうだろう。
「雪…ゆっくり寝なさい。」
雪の頭を優しく撫でながらつぶやいた。雪の柔らかい髪の毛がいつもと違って、土や埃でガシガシに絡まっている。
「辛かったね…。」
ネロは行き場のない怒りのせいで、泣きそうになっていた。雪はネロと出会うまで酷い扱いを受けていた。そんな思いをもうさせたくなかったのに。
雪の白い頬も、腕も足も傷だらけだ。ネロは消毒液やガーゼや包帯を出して、雪の手当てをした。雪を起こさないように、物音一つたてないように。
一通りの手当てを終えると、ネロはハッと思いつく。
「そうだ、夕飯を作ろう。」
ネロは思いついてすぐに立ち上がり、寝室を出た。
いつもは雪が様々な日本料理を作る。しかし、本好きなネロの屋敷にはたくさんの料理本がある。雪はたまに本で見た異国の料理を作っては、ネロに楽しそうな笑顔で、
「今日、書斎で見た本にこんな料理があって、作ってみました!」
と話す。
雪は弱視だ。さらに勉強もしたことがないので、文字は読めない。しかし、昔から本というものを読んでみたかった雪は、必死に写真を見て真似るように料理を作っている。そんな雪の姿が、ネロは大好きだ。
「故郷の温かいスープにするか。あれなら伊織と彩葉も食べれる。」
ネロはキッチンの前でブツブツと言いながら料理を始めた。雪ならきっと、ネロの手料理を喜んで食べてくれる。[newpage]
カタカタコトコト
カタコトカタコト
忙しない音とともに優しい匂いがした。雪はその音と匂いに心地よい目覚めを迎えた。ぼんやりとぼやける視界では、目を覚ましてすぐにココが何処なのかはわからない。しかし、自分がベッドの中にいることはわかった。
「ネロ…様…?」
体を起こして愛する夫の名前を呼んだ。時が経つにつれて、視力は少しずつ悪くなっている。雪は空を探りながら、夫はどこに居るのかと探してしまう。そして、寝起きの頭がハッキリしてくると、下の階からする音の主がネロなのだと気がつく。「ああ、近くには居ないのか」と思ってしまうと、寂しかった。
「あ…」
寂しく思って俯くと、獣人専門の医師であるネロが手当てをしてくれていることに気がつく。腕には包帯が巻かれており、額にはガーゼがついている。その数にやっと、自分がどれだけの怪我をしていたのかがわかった。
「ネロ様…」
寂しさと愛おしさが雪の瞳に涙を浮かべさせた。グスグスと泣きながら、疲れから来る体の怠さに動けないでいる。掛け布団をグッと握っていると、ガチャリと部屋のドアが開いた。すると、すぐに愛しい声が聞こえる。
「雪、起きたのかい…?!」
「ね、ネロ様…!」
顔を上げると、ぼんやりとした視界の中で黒く美しい毛のネロが見えた。
「よかった…傷は痛むかい?」
雪の顔を覗き込むように見るネロの腕の中に、ホカホカと湯気の立つ器の乗ったトレーがある。雪は驚きながら首を横に振った。
「大丈夫ですよ。」
ネロはその返事に不満そうな顔をする。雪にはよく見えなくても、ネロの気配でわかった。雪はもう一度繰り返した。
「本当に、平気ですよ?痛くありません。」
「んー…最近気がついたけど、雪は痛みに鈍いね?」
「え…」
「君が痛いって言うときは、恐ろしいほど傷が深いときだけだ。」
ネロはベッドの横にある小さなテーブルにトレーを起きながら言った。
「伊織と彩葉がお腹にいたときも、痛いって言わなかったね。私に言えなかったのかもしれないけど…。」
ネロは寂しそうに言う。声も尻尾も悲しげだ。雪は人の感情に敏感なので見えなくてもわかる。幼い頃から、殴られたり犯されることが怖くてたまらないため、人の機嫌の変化を注意して過ごしていたからだ。
「そ、それは…」
雪は「何か言わないと」と思い口を開いたが、ネロが続ける。
「いつも、切り傷やすり傷は気が付かないし…」
ネロは雪の包帯を巻き直しながら話した。雪はそう言われて初めて思い出す。たしかに、過去に怪我をしたときはネロが雪に声をかけてやっと気がついていた。
「雪はきっと、過去の堕胎剤や抑制剤の影響で痛覚に影響が出ているんだね。質の良くない抑制剤で五感に影響が出るという話はよく聞くよ。」
「そう…なんですか?」
「うん。だからね、雪。」
ネロは雪の手を優しく両手で包み込んで、雪の瞳を見つめた。ネロの両手には柔らかい肉球がある。
「傷や病はよく熱を持つ。だから体のどこかが熱くなったら、すぐに私に言いなさい。約束だよ。」
「は、はい…。」
雪がコクリとうなづくと、ネロは優しく雪の頭をなでた。
いつも雪から「辛い」とは言わなかった。番で夫夫だというのに、頼ることをしていない。こんなに悲しいことはないだろう。しかし、ネロはそれを責めなかった。
雪は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「雪、私は責めるつもりはなかったんだ。悲しい思いをしていたら、ごめんね。」
「い、いえ…!僕が…」
顔を上げて頭を撫でるネロの手を近くで見て、ハッとする。ネロの手は傷だらけだった。
「え…ね、ネロ様…」
雪は驚いてネロの手を掴んだ。ネロはその様子を見て目を丸くしたあとに、すぐに笑う。
「ああ、ごめん。気がついてしまったか。」
「え?」
「心配しないでくれ。下手なくせに料理をしたから…。」
「ネロ様が、料理を?」
雪がさらに驚いて目を丸くすると、ネロはテーブルに置いたトレーを手にした。トレーの上にはスープがあった。
「いい…香り…。」
「食欲はあるかな?私の故郷のスープなんだ。田舎の料理だから…口に合うかわからないけれど。」
「ぼ、僕に?」
「もちろんそうだよ。」
そう言ったネロの尻尾は嬉しそうに横に揺れていた。
「食べられるかな?」
ネロはそう言いながらスプーンを出してスープをすくうと、雪に差し出した。雪は初めてされることに驚きながら、ゆっくりと口を開いた。ネロは雪の口の中にスープをそっと入れる。
「お、美味しい…美味しいです…!」
雪は感動した。豆の入った優しい味のスープ。野菜は細かく切られており、具材がたっぷりである。こんなに優しい温かい飲み物は、ネロの入れてくれた蜂蜜入りのお湯の他に今まで知らなかった。
「それはよかった!これは私の家では、風邪を引いたときに食べたりしててね。これを食べると不思議と元気になれるんだよ。」
ネロは優しい笑顔で話した。雪はその話がなんだか嬉しくて、心の底から笑顔になれた。好きな人が、大切な思い出を話してくれたからだろう。
「そんなに…手をボロボロにして…僕のために、作ってくれたのですか?」
雪が尋ねると、ネロは一瞬黙ってから恥ずかしそうに頭を掻きながらうなづいた。
「そ、そうだよ…。嫌…かい?」
「いいえ。とっても嬉しいです。」
雪は本当に心の底から嬉しくて、力強く返事をした。
「よかった……よかった…!」
ネロは声にしながらブンブンと尻尾を揺らす。そして、雪にスープの器をそっと渡した。雪が落とさないように近くで寄り添ってくれるネロ。雪はそんな彼の仕草に気がついて、夫にもっと恋をする。
「雪が美味しいって言ってくれたから、きっと伊織と彩葉も好きだよね!」
ネロが弾んだ声で言う。その言葉を聞いた瞬間に、雪は我が子を思い出した。[newpage]
「い、伊織!彩葉!」
雪は大声を出した。ネロは驚いて、尻尾の毛を膨らませてしまう。
「ネロ様!伊織は!彩葉は!ど、どこに!?」
「ゆ…」
「ど、どうしましょう!け、怪我とか!あ、お腹空いているかも!泣いていないですか?!おしめを変えないと!」
「雪!落ち着いて!」
ネロは雪に負けないように大きな声を出した。雪はネロに肩を掴まれてやっと口を止める。
「二人とも怪我はないし、今は寝ているよ?それに、私が下手な料理をしている間しか、君は寝ていないし…。」
「え、そ、それって…」
「二十分も経っていないんだよ?君はもっと寝るべきだ。」
雪が「しかし」と言ってすぐに、ネロはまた言葉を遮った。
「私たち夫夫の子供なんだ。君だけが世話をしなくてはいけない訳ではない。心配しなくても、私が世話をするから、君は寝ていなさい。
それにあの子達は獣人の子供なんだ。君が思っているよりも強い体をしているよ。君の怪我が、例えば完治までに一週間かかるとしたら、あの子達が同じ怪我をしたときは三日で治るんだ。」
「そ、そんなに…早く?」
「そうだよ。」
ネロはうなづく。
「君は、自分の体にもっと優しくあるべきだ。さっきのΩなんかという言葉は本当にいけないよ。」
「は、はい…。」
「雪、私に話していなけれど…最近さらに見えなくなっているんじゃないかい?」
雪は驚いて、心臓がドクンと大きく脈打つ。
「今日はよく見えるという日もあるみたいだけど、普通はそんなに毎日変わらないよ。」
「う…嘘をついているわけでは…」
雪はボソボソと話す。ネロは優しい声で雪に話した。
「わかっているよ。けれど…心配でね。」
ネロは俯いてしまった雪の手を優しく握った。雪の手は震えて、酷く冷たくなっている。
「私もしっかり調べたんだ。日本にある、酷く安価な抑制剤の副作用を。」
「え…」
「どうやら、脳血管に血栓ができてしまう人や…ガン腫瘍のできる人もいるらしい。君の目も脳神経に影響が出ている場合もあるかも…」
ネロは考え込みながら話した。雪はネロをじっと見つめてしまう。ネロの手が震え始めていたのだ。
「頭痛がすることはあるかい?」
「は、はい…よく。」
雪はうなづく。ネロは立て続けに質問をした。
「心臓が痛むときは?安価な抑制剤を使っているΩの人の話では、血管の異常はたくさん聞いたんだ。」
「し、心臓は…そんなには…」
「目が全く見えなくなる頻度はどれくらいで?」
「え…えっと…」
雪は俯いて答えづらく思う。しかしネロは震える声で質問し続けた。
「見えないときはどこか痛むかい?」
「あ、頭が…痛いです。」
雪は小さな声で答えた。ネロは「脳神経かな…」と頭の中で考えていた。ネロの真剣に悩んでいる姿に、雪は心が痛くなりながら決心した。しっかり話そうと。
「ネロ様が察しているように、最近二日に一回は…見えなくなります。出産を終えてからです。頭も…心臓も…時折…」
雪が話すと、ネロは時が止まったようにショックを受けた。ネロが恐れていたことだった。
「ゆ、雪は…安価な堕胎剤や抑制剤は…いつから…どれだけの量を…」
「詳しくは覚えていませんが…初めて飲んだのは…おそらく七歳の時です。お客をとるようになってからは、毎日…朝昼晩とお客と寝る前と寝たあとに…。逆に媚薬と呼ばれるものを飲むときもありましたので…。」
「それは、無理矢理かい?」
「は、はい…拒否すると殴られたりするので…」
雪はネロの顔を見れずに答えた。
「どこを殴られるんだい?」
「そ、それは…人によって違います。商品だから顔を避ける人もいますが…お客さんだと顔に傷をつけて傷物にしたい人もいましたので…。」
「目を殴られたことは…?」
雪はそう聞かれて、ネロの確認したいことがわかった。
雪は目を瞑って答える。
「たくさん。」
「やっぱり…そうか。目に傷がついたことで、視力低下が起こることもある。雪はもしかしたら、それで弱視になって、薬の影響でさらに弱まっているのかもね。」
ネロも俯いていた。しかし、手を優しく握って雪の顔を見るとまた尋ねる。
「前はこの距離で私の表情をわかっていたね?今はどう?」
雪は嘘はつけないと思って、首を横に振った。
「み…………みえ…ません……。」
明らかに、見えなくなっているとお互いが理解した。
「そう…確認だけど、何か薬は…」
「飲んでません…」
「そうだよね…。」
ネロは心から悲しかった。子供が生まれたばかりなのに、この先きっと雪が我が子の成長を見ることは叶わない。
「で、でもネロ様。」
「ん?」
「僕は、寂しくありません。」
雪が言った言葉に、ネロは自分を心配させないために言っているのかと思った。しかし、雪は違った。
「だってあなたが、僕が見えない代わりに見ていてくれるでしょう?」
雪は微笑んで話す。
「それにきっと、あなたなら弾んだ声で教えてくれるでしょう?」
今度は雪がネロの手を優しく包み込んだ。
「あなたなら、きっと…また街に連れて行ってくれますよね。だから、大丈夫です。」
「雪…」
「心配をおかけして申し訳ありません。でも、僕は負けません。あなたがいるから、目のこともΩの立場のことも、きっと…乗り越えますから。だから僕を愛していてください。」
雪はネロのことを見上げて勇気を振り絞ったか細い声で言った。
「あなたが愛してくれるから、僕は強くなれるんです。」