早朝。まだ空が青く輝く前。
「じゃあ、私たちは国に帰ります。」
ネオンが口を開いた。その次にイオが続けて口を開く。
「雪さん、ネロをよろしく頼みます。」
「はい。」
「無理はせずに。」
「はい。」
雪はコクコクとうなづく。
「こっちに来たくなったら、手紙をください。」
ネオンは尾をダランと垂らして、心配そうな顔をする。雪にその顔は見えないが、ネオンの声はか細くなっており、雪は声からネオンの気持ちがよくわかった。
雪がおんぶ紐で背負った彩葉と、腕に抱えた伊織は雪を見上げる。
「うー。」
「あらあら。彩葉はおしゃべりねぇ。伊織は表情が豊か。」
ネオンは手を動かす伊織の頭を撫でた。こうして毎日かまってくれていた人がいなくなる。雪は寂しくなった。けっきょく、雪は日本に残ることになった。雪がそう決めたのだ。
「雪さんなら、きっと素敵な子に育つ。」
ネオンはそう言いながら、伊織から手を離すと荷物に手をつけた。
「信じています。」
離れてしまうことに、悲しげな夫婦。雪とネロも悲しく感じた。
「イオ様とネオン様は、僕にとっても…お父さんとお母さんです。僕も…お二人のこと…幸せを願い、信じています。」
雪がそう言うと、ネオンは離れがたそうに泣いてしまった。ネオンは雪をぎゅっと抱きしめてから離れると、泣いたまま背を向けて去っていった。
「さ、うちに入ろうか。」
ぼやける視界で黒い影を見つめる雪に、ネロは話しかけた。雪はコクリとうなづいて、子供たちを抱えて屋敷に入った。ネロは屋敷に入ってすぐに振り返って口を開いた。
「雪…こんな時にごめん。仕事があるから今日は家を空けるよ。」
「はい。僕の心配はいいんです。ネロ様の身の安全のほうが心配です…。」
雪は不安を顔全面に出して言った。ネロはその顔を見て落ち込んだように尻尾をだらけさせる。その動きが見えたから、雪は慌てて笑顔を見せた。
「あ、朝食の用意をしますね!」
「え、いやいや私がやるよ。」
「いえいえ!子供たちのご飯もありますし…。」
それに、不安を忘れるために料理をしたい。とまでは言えなかった。
ネロが仕事に出かけたあと、雪は買い物に出かけた。伊織を背におんぶし、彩葉を抱っこして外に出る。本当は自慢の子供だと顔を人々に見せたいくらいなのに、獣人を敵視している今の日本人には見せられなかった。伊織も彩葉も顔を小さな布で隠して外に連れて行った。家に放っておけないし、仕方がない。
「ううー」「うあうー」
伊織と彩葉は布を嫌がって喋っているが、雪は「ごめんね」と謝ることしかできない。成長が早い獣人の子である伊織と彩葉はすでに歯も生えてきていて、おしゃべりがどんどん発達している。
「いあ!いああ!」
「彩葉、しー!」
「うう〜」
「ごめんね。」
背中は伊織に押され、前からは彩葉に話しかけられる。雪は忙しくてあたふたとしてしまう。それを見た魚屋の主人は獣人の子と知らずに微笑ましそうに笑う。
「おやおや、可愛い子だな〜。」
雪はそう言われると嬉しいと感じて、微笑んで会釈する。
「ありがとうございます。」
その返事は我が子を持つ親の言葉だ。魚屋の主人はそれに気がつく。
「え…あんたの子かい?」
「は…はい…」
雪はうなづいた。その瞬間にハッと気がつく。弱視で見えなくても、相手が嫌そうな顔をしていることだけはわかった。Ωだと気がついていなかった時は優しかった相手が、途端に冷たくなる。
「Ωに売る魚はねぇよ。」
魚屋の主人はそう言った。帰れと言わんばかりに手を払う。なんで忘れていたのだろう。雪はそう思った。優しい人に囲まれていて忘れていた、Ωに対する冷たい世の中を思い出した。
「あ、あの…お願いです…夕飯に魚を使いたくて…」
「ああー、そうかいそうかい。Ωのくせに、金があるんならいいぞ。」
頭を下げてお願いをする雪に、魚屋の主人は鼻で笑って答えた。
「あの…鮭はいくらですか…。」
「見りゃわかんだろ。」
金がないと思っていた魚屋の主人は、雪の質問に機嫌の悪い声で答える。しかし、雪は値札の文字が弱視で見えなくて、困り果てた。困った表情で立ち尽くす雪を見て、魚屋の主人はゲラゲラと笑い始めた。雪は驚いて声のする方向に顔を上げる。
「こりゃ傑作だ!Ωのくせに、目も見えねぇのか!」
「え…」
「あんた生きてる価値あんのか?!」
そこまで言わなくてもいいのに、と思ってしまう言葉だった。消えてしまいたくなる状況に、雪は思わず腕の中の彩葉を抱きしめた。
「そこまで言わなくてもいいでしょう!」
背後から声が聞こえた。年寄りの女性の声だ。魚屋の主人は声を歪めて「あぁ?」と言っている。雪は一瞬、その女性は味方になってくれるなんて、思ってしまった。
風が吹いて、背負っていた伊織の顔を隠す布がハラリと舞った。
「…ぎゃっ!!!!」
女性が醜いものを見たように悲鳴を上げた。雪が見られてしまったと気づくと同時に女性は大声で叫んだ。
「獣人よ!!!」[newpage]
「獣人の子供よ!!!」
街はざわめき始める。
「あのΩ、獣人の餓鬼背負ってる!!」
「なんだって?!」
「殺せ!!」
「日本から追い出せ!!!」
「あいつらは俺たち人間を殺すつもりだ!!!」
様々な人の声が聞こえる中、雪はすぐに伊織の顔を隠した。伊織と彩葉は背後で叫ばれてしまい、怖くてたまらなくて大泣きし始める。雪はパニックに陥った。心臓は破裂しそうなほどにバクバクと脈打って、体からは緊張で熱が奪われる。寒気がした。
いったい、誰が最初に獣人を殺せと言ったのだろう。
「殺してやる。」
頭上から声がした。気がつくと、大きな影が見下ろしていた。魚屋の主人だ。大きな包丁を振り上げている。
「え…」
「俺の店に…汚い獣を連れてきやがって…!!!この…クソΩー!!」
キラリと包丁が光った。雪は慌ててその場から走って逃げた。弱視で見えないのに、力の限り走った。いつもの安心する香りのする建物に入ったら、そこがネロと住む屋敷だった。どうやって帰ったのかわからないけれど、気がついたらそこにいた。
大切な子供を傷つけられたくなくて、道行く人を突き飛ばしていたと、家の扉がしまった時に気がついて、恐ろしさに体が震えた。それと同時に涙が溢れて号泣した。怖かった。なにがって、我が子が殺されそうになったことがだ。声を上げて泣く雪を、伊織と彩葉は心配そうに見つめた。
「う〜」
二人で雪の頬に手を伸ばす。雪は泣きながら我が子を抱きしめた。
「ごめんね…あんな危ないところに連れてってごめんね。」
「うー?」
「ごめん…ごめんね…。」
ネロが帰ってくるまで泣いていた。
ネロは家に帰ってすぐに、いつもどおり「ただいま」と家の中に向けて言った。もはや本能のように言ってしまう。しかし、いつもなら輝く笑顔で迎えてくれる番が、今日は来ない。
「雪?」
ネクタイを緩めながら首を傾げる。するとその時に「グスッ」という音に気がついた。泣いている、と頭で思った時には体が動いた。
雪はベッドに眠る双子を前にして、顔を手で覆って泣いていた。
「雪?!」
駆け寄って雪を抱きしめると、雪は余計に泣いてしまう。
「ど、どうしたんだ!」
それから事の詳細を聞くことに苦労した。雪は悲しかった、怖かったと泣きながら話す。ネロは傷だらけの体をしている雪に心が痛んだ。雪は気がついていなかったが、必死に走っていたときに何度も転んだりしていたから、足も腕も体も血だらけだった。けれど双子には怪我はなく、雪がどれほど子供を守ることに必死だったのか、想像すると胸が痛んだ。
「その魚屋の主人は…罪になることがわかっているのだろうか…。人殺しは犯罪だというのに…。」
ネロはつぶやいた。しかし、雪はうつむきながらも否定的に話した。
「暴行の末に殺されるΩはたくさんいます。自殺するΩも…。珍しいと言われたって…みんな…Ωなんて嫌いなんです…。」
初めて投げやりに言う雪を見た。ネロは驚きで一瞬言葉が出てこなくなった。雪の「Ωなんて」という言葉に、ネロはたまらなくなった。
「君は、Ωだからこの子達に会えたと、言っていたじゃないか。」
伊織と彩葉を指して言ったネロに、雪はやっと顔を上げた。涙目の雪は、誰がどこにいるかも簡単にはわからない。けれどその時、ネロだけはすぐに見つかった。
「う…は、はい…。」
「あの言葉は嘘なのかい?」
雪は首を横に振った。ネロは雪の肩を掴んで言った。
「Ωなんて…と言ってはいけない!」
「でも…でも…みんな…Ωのことばかり…」
「雪!いつもの強い雪はどこに行ったんだい?」
雪はネロの言葉を聞いて、大泣きし始めた。さすがのネロも驚いてしまったが、雪が思い切りに泣けていることに安堵する。ネロは優しく雪を抱きしめて、耳元で優しく声をかけた。
「好きなだけ泣きなさい。」
君の涙が満足するまで待ってるから。