「狂気」
白髪の男ルーは、赤いコートを纏った人狼と刃を交えながら自身に疑問を投げかけ続けていた。
見知らぬ者から奇襲を受けることは、大して珍しいことでない。
魔物や盗賊、野獣。一歩文明の外に出れば常に危険と隣合わせだ。
加えて人狼である自分たちは退魔騎士たちのことも頭に入れておかなければならない。
問題は、突然自分たちを襲ったこの人狼が何者であるかだ。
目深に被ったフードからわずかに飛び出している鼻先から人でないことはすぐに分かった。
それに匂いも違う。
これは同族の匂いだ。
だが、目の前のジン物が人狼だと分かったところで何の解決にもならない。
「お前は何者だ?何故俺たちを襲う?」
ルーはそう問いかけたが、人狼は唸り声を上げるだけで質問に答えようとしない。
彼女の声には強い怒りと憎悪が込められていた。
コイツは、本気で俺を殺す気でいる。
長年の経験によって鍛え上げられた勘がルーにそう知らせた。
「ルー、あの子は本気よ」
その時。突然頭の中で女性の声が響いてきた。
今の殺伐とした雰囲気には全くそぐわない澄んだソプラノボイスの声。
「分かってるよ」
ルーは脳内の声に答えると、足を前に突き出し人狼を蹴り飛ばした。
「話し合う気がないのなら、こちらも本気で行かせてもらう」
彼は人狼に向かって言った。
「死んでも文句は言うなよ?」
言うが早いかルーは駆け出し、起き上がろうとする人狼に向かって槍を振り下ろした。
人狼は左腕を前に出し、その一撃を受け止めた。
服の下に防具を着けていたのか、槍の刃は乾いた音を立てて弾かれた。
次の瞬間。人狼が剣を水平に振り回し反撃に出た。
いくつもの歯が飛び出した刀身がルーの首に向かって牙を喰いこませようと唸り声に似た風切り音を上げる。
ルーは身体を後ろに反らし反撃を避けると、左手を槍から離し腰に忍ばせていた銃に伸ばした。
破裂音とともに銃が火を吹いた。
「ギャン!」
人狼が悲鳴を上げ、その場にうずくまった。
右足の周りでは血の海ができ始めていた。
命中だ。
ルーは、体制を立て直すと銃口を人狼の頭に向け引き金を引こうとした。
だが次の瞬間、強い風があたりに吹き荒れ周囲の砂埃を巻き上げた。
「うわっ!」
ルーは思わず顔を右腕で覆った。
人狼も両手で顔を隠す。
赤いフードが風に煽られ、その灰色の顔が露わになった。
風は現れた時と同じように突然消えた。
二人は、顔を上げ互いの顔を見た。
その瞬間、ルーは大きく目を見開いた。
頭の中では先程の女性の息を飲む声が響く。
ルーは数回瞬きをして、もう一度目の前の人狼を見た。
ピンと尖った耳、ほっそりとした輪郭、、並びのキレイな歯、小さく丸い鼻、どこか気品のある眼差し。
間違えようがない。
「マリ…?」
ルーの口元から声が漏れた。
と、その時。全身に衝撃が走り、気がつくと彼は地面に倒れていた。
「痛てて…。何だ?」
身体の上に何かが乗っている。
人間だ。
いや、違う。この匂いは、ヴァンパイアだ。
身に覚えのない顔だ。誰だろう…?
ルーは懸命に考えようとしたが、考えはすぐ別の方に移った。
「おぉぉぉぉぉ!」
金毛の人狼が、奇声を上げながらこちらに向かっている。
いや、正確には赤い服を着た灰色の人狼の方にだ。
「フェンリル、止めろ!」
ルーは金毛の人狼に向かって叫んだが、彼は聞く耳を持とうとせず、そのまま手にした両手剣を灰色の人狼に向かって振り下ろそうとした。
「くそっ!」
気づくとルーは上に乗った少年をわきに投げフェンリルの前に立っていた。
彼は、右手に持った槍で剣の刃を受け止めると、左手にある銃のグリップをフェンリルの首に叩きつけた。
フェンリルは、白目を向くとその場で倒れた。
ルーは武器から手を離し倒れる人狼の身体を受け止めると、そっと地面に置き後ろを振り返った。
赤いコートの人狼はうずくまったまま動かなくなっていた。
人狼の前には、フェンリルに投げ飛ばされたその少年が、こちらを睨みながら立っていた。
黒髪、丸い輪郭、青い瞳、小さな鼻と口。やっぱり始めて見る顔だ。
頭からは血流れ、顔に血の筋ができている。
少年の両手には長さの違う二振りの剣がそれぞれに握られていた。
ルーは両手を軽く上に上げながら、少年の方に近づいた。
少年は、サッと右手に持った長剣を前に突き出した。
「待て」
ルーは、少年に向かって言った。
「もう、これ以上戦うつもりはない。お互い誤解があったようだ。その人狼の治療もするから一度話し合わないか?」
彼のこの提案に少年は首を横に振ると、突然左手に持った短剣の石突を長剣の鍔に叩きつけた。
金属同士がぶつかり小さな火花が起こる。
「弾けろ!」
少年がそう叫んだとたん、火花の光がドンドンと大きくなっていき、やがてその場が白い光に包まれた。
あまりの光の強さにルーは思わず顔を背けた。
光はしばらくの間その場に残りやがて力を失ったかのように小さくなっていった。
光が消えルーがようやく目を開けた時には、少年も人狼の姿もなく、あるのは草むらへと点々と続く血痕のみとなっていた。
「ルー…」
あの声が再び脳内に響いてきた。
「追いかけて。フェンリルは、私が見ているから」
「いや、もう追いかけられないよ」
ルーは草むらの方を見ながら言った。
「あの子ども、ずっと俺の目でなく胸を見ていた。たぶん催眠術を警戒したんだろう。
アレは、相当の手練れだ。今頃は痕跡を消し終わっているはずだよ」
脳内の声は、悔しそうに息を漏らした。
「とにかく、今は帰還して司祭に報告するのが先だ。良いな、セラ?」
「分かったわ」
しばらくして声は答えた。
すると、突然。地面に落としたルーの槍が勝手に光り始めた。
ルーは、それを驚く様子もなく見つめる。
光はあっという間に消えた。
その場に槍の姿はない。代わりにそこにいたのは、白いドレスを着た金髪碧眼の女性だった。
「そうと決まれば、早くした方が良いわね」
女性はルーの脳内で聞こえていた声と同じ声色で言った。
ルーは、再び草むらの方に目を向けた。
「ああ。アイツが生きているのも正直驚きだが、それよりも、あの目の色と行動。何か嫌な予感がする…」