Scape wolf 1-1「始まりの朝」

  「始まりの朝」

  

  「おい、起きろ! 仕事だぞ」

  下から、声が聞こえてきた。

  ブラムは、のっそりと起き上がると、眠い目を擦りながら身を乗り出し、下を覗き見た。

  女性が一人、両手を腰にあてて彼の方を見上げている。

  黒髪紅眼。纏っているのは、黒い男物の服だ。

  女性の横にはテーブルが置かれ、その上にはパンと温めた牛乳、スープが盛られた椀が二組乗っていた。

  できたてらしい食事から漂ってくる湯気が、ブラムのいる屋根裏部屋まで登ってきて彼の鼻をくすぐった。

  「さっさと降りて顔を洗って来い。食事が済んだら、すぐに行くぞ」

  女性は、そう言うと、席につき食事を始めた。

  ブラムは、黙ったまま梯子を伝って女性のいるところまで降りると、部屋の中をぐるりと見回した。

  部屋の隅に水の入った桶がある。

  彼は、桶の方に向かうと、手で水をすくい顔を洗った。

  井戸から汲んできたばかりなのだろう。水は、ひどく冷たく、それまでの眠気が嘘のように消え去った。

  「目が覚めたか?」

  女性は、ブラムに尋ねた。

  先程までとは打って変わって、優しい響きのある声だ。

  「うん」

  ブラムは、服の裾で顔を拭きながら答えると、席についた。

  女性とテーブルを挟んで真正面の位置だ。

  その時、彼は、ある事に気づいた。

  自分の前に置かれたコップには、牛乳が入れられていたが、女性の前のコップには、牛乳とは違う赤い液体が入っていたのだ。

  「朝から酒? これから、仕事じゃなかったの?」

  ブラムが、そう尋ねると、女性は、コップを彼の前に差し出した。

  「バカを言え。これは、牛の血だ。今回は、場合によっては体力を使うからな」

  女性は、そう言うと、コップの中の液体を一息に飲み干した。

  「お前も、どうだ?」

  女性の問いに、ブラムは、首を横に振った。

  「いらない。と言うか、ルーシーは、知ってるでしょう? 僕が、血が苦手だってこと」

  彼が、そう答えると、女性は、悩ましいと言った様子で頭を抱えた。

  「〝感じやすい“って言うんだろう? 全く、血が嫌いなヴァンパイアなんて聞いたことないぞ」

  この言葉にブラムは、少し気分を害されたが、気にせずにパンに手を伸ばした。

  「それで、今日は、どんな仕事?」

  ブラムは、パンを一口齧ると、ルーシーに尋ねた。

  「人探しだ。ルークが、昨日の夜、森を出たきり帰って来ないらしい。大事ないと思うが、先週の件もあるからな」

  「遠吠えのこと?」

  ブラムの問いかけに女性は、頷いた。

  「断定はできないが、魔物の可能性も否定できない。実態把握のためにも、一度見て行った方が良いだろう?」

  「そうだね」

  ブラムは、そう言うと、今度はスープに口をつけた。

  

  シルバーマイン。

  それが、ブラムたちの住む村の名前だった。

  その名の通り、村の近くにそびえる山は、かつては銀山(シルバーマイン)で、そこから取れる銀が村人の主な収入源だったが、今では、すっかり掘り尽くされてしまったため、多くは、農家に転職していた。

  ルークは、そんな風にして農家になった者の末裔の一人だった。

  働き者で、家族思いと言うのが、他の村人たちのもっぱらの評判だ。

  昨日も、急に体調を崩した妹のために滋養のあるモノを食べさせてやろうと狩りをするために森に入ったのだと言う。

  「行くのは、一向にかまわないけど、せめて僕らに一言ぐらい欲しいよね」

  森の中、ブラムは、先を行くルーシーの背に向かってつぶやいた。

  「悪い奴じゃあ、ないんだけどね。ただ、一度決めると後先考えずにつっ走っちゃうのが、玉にきずよね」

  ルーシーは、前を向いたまま、そう答えた。

  言葉とは裏腹に、二人は、そんなルークの人柄に愛着を持っていた。

  ブラムとルーシー以外の村の住人は、皆人間であったが、二人は、他の村人たちがそうであるように住人を家族のように慕っていた。

  それは、ルークに対しても変わらない。

  軽口を叩きあう間も、二人は、ルークの無事を心から祈り、困っているのなら助けたいと思っていた。

  「狩りにでたって事は、ナイフくらいは持っているだろうし、野獣相手なら何とか生き延びられるでしょう?」

  問題は、先週森から聞こえてきた、獣の遠吠えだ。

  その声が聞こえたのが、一度きりだったので、当初二人は特に気にしていなかった。

  だが、村人の誰かが森にいるのなら話は別だ。

  森には、狼のような遠吠えをする生物は、いない。

  考えられるのは、近くに棲んでいた生き物が、この森に迷い込んだくらいだ。

  それが、そこらへんに棲んでいる普通の獣なら問題ないだろう。

  だが、相手が魔物なら話は別だ。

  魔物は、体力があるばかりでなく人間と同等もしくはそれ以上の知識を有する。

  種族によっては、魔法を使う者もいるため、余計に手強い。

  まず、普通の人間には、どうこうできる相手ではないのだ。

  「まあ、私たちがいれば、野獣でも魔物でも問題ないけどね」

  ルーシーは、そう言いながら後ろを振り返り、腰に差した剣を左手で叩いた。

  「それは、僕たちも魔物だもの」

  ブラムは、そう言いながら自分の腰にぶら下がっている二振りの剣をなでた。

  一本は、十字型の長剣、もう一本は、柄を覆うほど大きな鍔を備えた短剣マンゴーシュだ。

  「でも、過信は早死のもとだと思うよ」

  彼は、剣から手を離すと、目の前のルーシーに向かって言った。

  「おお? 師匠に向かって口答えとは、お前も偉くなったものだな、ブラム」

  ルーシーは、半ばからかうように言った。

  「仕事中にふざけないでよ?」

  ブラムは、少しだけ語気を荒げた。

  こっちは、真面目に話しているのに…。

  さすがに、やりすぎたと思ったのか。ルーシーは、急に真顔に戻って言った。

  「ごめん。言い過ぎた」

  「いいよ。別に…」

  ブラムは、いつもの口調に戻って言った。

  怒りは、すでに収まっていた。

  

  森に入って、半時が過ぎた頃だったろうか。その声は、突然聞こえてきた。

  獣の咆哮。続いて、小さな男性のうめき声。

  ルークだ。

  「あっちだ!」

  ブラムは、東の方を見ながら叫んだ。

  「遠いな。ここから走っても、大分かかるぞ?」

  ルーシーが、渋い顔でつぶやいた。

  「だったら、急ごう。ルークが危ない!」

  言うが早いか、ブラムは、すでに駈け出していた。

  「おい、待て。勝手に行くな!」

  そう言いながら、ルーシーが後を追った。

  ブラムは、声の聞こえた方角へ矢のように駆けて行った。

  しばらくして、彼は、ある事に気づいた。

  先程からずっと聞こえていた獣の声の他に、新たな別の音が入り込んでいる。

  硬いモノが、ぶつかり合う音。

  これは、戦いの音?

  だが、一体誰が戦っているのだろう?

  一方は、間違いなく獣だ。では、もう一方は?

  ルークは、まず考えられない。

  彼は、度胸はあるが、好戦的と言うわけではなく、無駄な争いは極力避けようとする性格だ。

  それに、戦いの音は、かれこれ数分続いている。

  仮に野獣が相手であったとしても、ルークの体力では今頃疲弊して倒れてしまう頃だが、件の音は、鳴りやむ気配がない。

  いや、今はそんなことを考えている時ではない。

  何よりも大事なのは、ルークの安否。それだけだ。

  いずれにせよ、音の主とは、もうすぐ会える。

  そして、次の瞬間、その時がおとずれた。