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高校最初の一週間で最後の平日、金曜日の午後。天気は生憎の雨。そんな日の授業を終えた俺は、一人で家路に就いていた。いつも心と二人で歩いていた道を、傘を差しながら初めて一人で歩く。
心は――というか多くの同級生達は、放課後の時間を利用して行われる、部活動の見学や体験入部に参加していた。勧誘こそは滅茶苦茶な有様だったが、それ以外は至って普通の部活って感じだ。
そんな中で、俺はどこの部活も見学することなく帰宅していた。というのも、中学では帰宅部だったせいで経験で差がついてしまう部活は憚られたし、そうやって俺でもやれそうな部活を絞っていくと、あまり惹かれないものばかりが残ってしまって。
一つだけ、少し気になる活動はあったけど。勧誘が始まったあの日……俺達にビラを渡してきた、文化祭実行委員会。今日は隣にいない心が、今まさに説明会に参加している委員会だった。
なんでも、この高校は文化祭に相当力を入れているようで。一年を通して精力的に準備を行うものだから、委員会という名を冠しているものの、実態は一つの部活動に近いらしい。
他の活動とは幾らか異なる存在に興味は引かれたものの、言ってしまえばそこまでだった。ただ、珍しいなと思うだけ。外野から眺めるだけでも十分だろうと、そう思ってしまった。
そうこう考えているうちに、家の前へと辿り着いた。傘に付いた水滴を軽く落とし、扉に鍵を差して開く。誰に宛てるでもなく「ただいま」と呟けば、雨音が薄ら聞こえるだけの静寂が俺を出迎えた。
靴を脱いで室内に上がり込めば、部屋に誰もいないのをいいことに、俺は濡れた服を脱ぎ去って下着姿になる。洗濯するものは籠の中へ、そうでないものは適当にハンガーにぶら下げておいた。
「ふう……」
俺は自室に入り、肌着とパンツを身に着けただけの姿でベッドに寝転ぶ。寝間着を着てしまってもいいんだが、雨で気分が下がっているとそれすら億劫に感じてしまって。
……思えば、この家に一人きりなの、今日が初めてな気がする。俺が一人で逸花の部屋に行ったりはしてたけど、心が一人で出かけることは今までになかった。それだけに、俺以外に人の気配のしない部屋が、なんだか新鮮に思える。
そもそも、今日あいつが帰ってきていない理由。そのきっかけは、数日前――あの、滅茶苦茶な部活動の勧誘があった後、寮に帰ってきた時に遡る。
*
「うへー、やっと着いた」
「散々だったな、ほんと……」
数々の部活動からの常軌を逸した勧誘をどうにか掻い潜り、俺達は無事に自分たちの部屋に辿り着いた。走り回るのなんて久々だった俺は、帰るなり制服の上着を脱いでソファに身を預ける。
走り回ったせいで火照っている身体を冷ます為、ワイシャツでパタパタと風を送っていると、俺の隣に心が座り込む。その手には、ついさっき貰ったビラが摘ままれていた。
「文化祭実行委員会、ねえ……」
俺はわざとらしくそう口に出し、心と同様に手に持っていたビラに目をやる。ビラの上部には大きな文字で団体名が記されており、その下には去年の文化祭を映した写真や、大まかな活動内容が載せられていた。
「今週の金曜、説明会があるんだって」
ビラの裏面を見る心が呟く。心に倣って俺もビラを捲れば、確かに説明会の時刻と会場が明記されていた。
「どう、晴は興味ある? この委員会」
「俺はあんまり、かな。……イベントごとにはちょっと疎くて」
「……そっかあ」
俺は文化祭実行委員会には気が向いていない旨を伝えると、心は露骨に残念な表情を浮かべ、しゅんとしてしまう。この反応を見る限り、心の奴はきっと。
「お前はこの委員会、興味ある感じか」
「うん。俺、行事とか好きでさ。晴と一緒にやれたらなーって思ったんだけど……」
心は、何かを期待するような表情でこちらを見据えてくる。そんな目で見られたら罪悪感も湧くし、誘いが嬉しいのも事実だけど……だからといって、急に委員会に興味が湧いてくるわけでもない。
どうしたものかと返事に悩んでいると、心が慌てた様子で口を開いた。
「あっ、別に無理にとは言わないから! 晴の気が進まないなら、全然」
「……悪いな。なんつーか、ノリ悪くて」
「いいのいいの。無理して付き合わせるわけにもいかないしね」
心はいつも通りの明るい様子で言う。……なんだかまた、心に気を遣わせる形になっちまった。心はやたら目端が利く奴だけど、それに甘えてばかりなのもなあ。
俺達の間に、束の間の沈黙が流れる。ほんの少しの隙間を挟んで隣に座る心がわざとらしい笑顔を浮かべているのを見て、俺はほんの少しだけ、気まずさを覚えてしまった。
*
「はあ……」
数日前のやり取りを思い出し、ため息を吐く。思えば、俺はいつもこうな気がする。周りが気を遣ってくれるのに甘えて、自分は不器用を言い訳にして周囲の優しさに感けてばかり。心の誘いだって、断るにしろもっと言い方とかあったはずだ。
こんな気持ちになるくらいなら、説明会くらい行けばよかったな。目を瞑れば、雨音が俺の思考を悪い方向に加速させていくようで、どうにも気分が落ち着かない。
……やめだやめだ、こんな暗い考えごと。
俺は、努めて後ろ向きな考えを思考の隅に追いやる。こんなことばっか考えてるから、きっと人付き合いが下手になっちまうんだ。元々考えごとをすれば悪い方向に行きがちなんだし、考えるだけ無駄無駄。
スマホを手に取り、適当なアプリを開く。普段は見ないようなくだらないアプリも、頭を空っぽにしてくれるならそれで良い。今はそんな気分だった。
ネットサーフィンを始めて、だいたい一時間と少し。いつの間にやら気の滅入りはある程度払拭されたものの、思っていたよりも心の帰りが遅かった。何か別の用事でも入ったのかな、あいつ。
耳を澄ましても、やはり部屋のどこからも物音はしない。その静けさが、かえってあいつの不在を際立たせているように思えた。
「……寒」
手持無沙汰になったスマホをスリープモードにして枕元に抛ると、不意に肌寒さを感じる。自分の格好を見て気づいたけど……それもそのはずだ。俺、さっき雨に濡れたし、何より……今、パンツと肌着しか身に着けてないじゃん。
心が部屋にいないからって、ちょっとリラックスし過ぎかもなあ。出会って数日の同居相手がいたら、パンツ姿で過ごすなんてさすがに抵抗あるし。まあ、心がいない今くらいは……ってことで。
薄着でいる肌寒さに辟易したから、シャワーを浴びて寝間着に着替える。さっきまでの俺は、確かにそうしようと思ってた。だけど……。
ついさっき浮かんだ「今くらいは」って言葉が、今なお俺の頭の中で渦を巻いている。その原因は……ちょっと言葉にするのは憚られるけど。同居中だとどうにも行為に及びづらい、アレ。
なんやかんやで、もう暫く事に及べていない。俺の経験則的に……あんまりこれが長続きすると、朝の生理現象で惨事を迎えてしまうのはいっそ明白だった。同居相手がいる中でそんな辱め、俺はきっと耐えられない。
どうせ今やらなくても、そのうち。これより酷い事態になる前に。あいつがいない間なら、問題なんてない。
脳内でそんな言い訳を繰り返し、俺はパンツへと手を伸ばす。恐る恐る掴んだそれを膝下までずり下ろせば、ただでさえ薄着だった俺はほとんど何も身に着けていない状態になった。
……特別、興奮が伴うわけでもない。中学の時、周りの連中がどんな女優がいいだとかなんだとか話してるのが聞こえたけど、俺にはいまいちピンと来なくて。
「ん……っ」
平時より固くなったソレを摩擦するだけの、義務的な作業。気持ちいいってのは否定しないけど……適度にしておかないと厄介なもの、みたいな。俺にとっては、その程度の認識でしかない。
最中には、特に何かを見る訳でもない。色々と見てみたことはあるけど、興奮するどころか気持ちが思い萎る始末だった。別にそんなものなくても、偶に処理する程度なら問題はないし。
「……っ!」
やがて、募りゆく快感は堪え切れないものとなり、俺は果てる。暫くぶりの行為が齎す快楽は存外強く、俺の身を震わせた。
上半身の力を抜き、ベッドに身を預ける。ふう、と息を吐いて呼吸を整えれば、上気した気分も次第に落ち着いてきて。
……やっぱり変なのかな、俺。ネットでも現実でも、皆が異性の裸に興奮を覚えるのが当然だと言う。こんな義務的に事を済ませている自分は、きっと異質な存在で。
――共用の風呂場なんだから、変なことするなよ。
――いや、してない! してないから!
この前、俺が心を揶揄うために言った冗談を思い出す。当時こそは冗談だったけど、心は実際どうしてるんだろう。俺に隠れてこっそり……とか、してたりするんだろうか。
なんて、俺が無粋極まりない邪推をしてしまっていたその時だった。扉を隔てた向こうから、がちゃりと音を立てて玄関の扉が開く音が聞こえる。
「ただいまー! 外、すごい雨だよ」
……まずい。まずいまずいまずい、まずい! 情事を終えて脱力しきっていた脳が、急激に冷静になっていくのを感じる。よりにもよって、こんなタイミングで心が帰ってくるとは……!
俺は急いでティッシュを数枚手に取り、さっき出したばかりのものを拭き取る。丁寧に拭き取らないと後で乾いて面倒だけど、今はそんなこと言ってられる状況じゃない。早く、早くしねえと。
まあでも、このまま部屋でやり過ごせばきっと何も問題なんてない。そうだ、焦る必要なんてないんだ。
しかし、俺のそんな希望的観測は、すぐに心の言葉によって打ち砕かれてしまう。
「晴ー、いるの?」
「あ、ああ。おかえり……」
依然として遠く――恐らく玄関の方から、心の声が聞こえる。それに対して、俺は勿論部屋の扉を開くことなく、大きめの声で返事をしたのだが。
「よかったらさ、タオル持ってきてくれない? 雨でびしょ濡れになっちゃってさー」
「……」
「晴ー?」
「ああ、分かった! 分かったから!」
……なんてこった。これじゃあ、俺の「部屋でやり過ごす作戦」は通用しない。なんでよりによって、こんな時に雨なんか降ってやがるんだ、この野郎。
とりあえず、頼まれた以上あいつにタオルを渡しに行くしかない。俺はさっきより気持ち丁寧に身体に付いた汚れを拭き取り、寝間着を身に着けた。
一応鏡でおかしい所はないか確認してから部屋から出れば、玄関にはずぶ濡れになった心が立っていた。いくら雨が強くなったからって、そこまで濡れることないだろ、普通は。
「……お前、傘は」
「忘れちゃった! へへ」
「『へへ』じゃねーよ! 気をつけろよ、ほら」
「ありがと、晴。……って、あれ」
脱衣所から取ってきたタオルを渡すため心に近寄ると、心がやけに神妙な面持ちでこちらを見据える。何に気づいたんだこいつ。頼むから、余計なことにだけは気づいてくれるなよ……!
「晴、もう寝間着なんだ。お風呂入ったの?」
「あ、いや……俺も濡れたから着替えただけ。後で俺も入るから、まずお前が先にシャワー浴びてこい」
「……そっか、ありがとね」
濡れた身体を粗方拭き終えた心は、そう言いながら脱衣所へと入っていく。俺……助かった、んだよな。
キッチンの水道で手を洗い、俺はほっと胸を撫で下ろす。そのままソファに腰を下ろせば、ようやく怒涛の展開が落ち着いたことに安堵し、思わず深いため息が零れる。
「はあぁ…………」
やっぱり、思い付きで軽はずみな行動するもんじゃねえなあ。幸い心にはバレずに済んだみたいだけど、己を慰めていたせいで軽くパニックになったなんて、あまりに情けなさすぎる。
いつの間にか、風呂場からシャワーを流す音が聞こえてきて。さすがに、びしょ濡れの心を差し置いて浴びるなんてことはできなかったけどさ。
……俺も、早くシャワー浴びてえなあ。腹部の被毛にゴワゴワとした不快感を覚えながら、俺はひとりそう思った。
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